デスピサロは同情の余地なき悪党 第三十四章

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66名前が無い@ただの名無しのようだ
彼が人間を根絶やしにしようとしたりそのために手段を選ばなかったことは確かに褒められたものではありません。
しかし、彼をそこまで駆り立てた「人間への憎悪」の根幹には「愛しい者を守りたい」という思いや、
それを傷つけ貶めようとする存在を排斥しようとする気持ちもあったろうと思います。
言ってみれば、「自分や、自分の大事なもののために敵となる存在を倒す」という行動をしていたわけで。
それは勇者や仲間達にも同じことが言えますよね。
我々は無意識のうちに「魔物=悪」という図式を成立させてかかっていますが、
その魔物、すなわち魔族にだって戦う理由があったのかも知れない。
ひょっとしたら愛する家族を人間によって殺されていたり、
一族の村を追われていたり、あるいは語れないような残虐非道の限りを受けたのかも知れない。
何かのために、それを守るために戦うという行動については、少なくとも善悪など存在しません。
主観者の正義に合致するかしないか、それだけで善と悪は大きく分かたれる。
その意味においては、勇者という存在は「人間にとって」もしくは「天空の神にとって」の勇者であり、
そのために魔族を根絶やしにしようとしている存在として考えてみると、人間達にとって地獄の帝王という存在が脅威であったように
ピサロたち魔族にとってもまた勇者という存在は同じく脅威であったことと思われます。
PS版ではそれに対し倒すべき真の敵を設けることで物語としての解決をみたわけですが、
僕個人はDQ4は第五章までがDQ4だなぁと思います。
確かにピサロとロザリーが幸せに暮らすエンディングもハッピーでいいんですが、
しかしそれでは本当にただの勧善懲悪ストーリーで終わってしまう。
DQ4の真価は「運命が運命ならば、戦う必要の無かったはずの者達」が「最後の死闘を繰り広げなければならない」ということにあるわけで、
「ピサロのことは許せないけど、でも何か憎むこともできないよなぁ」という釈然としない思いをプレイヤーの胸に刻むことこそがDQ4というゲームの役割なのではないかな、
と思ったりするのですが。
第五章のエンディングも非常に大事なんですよね。
サントハイムの人々も戻り、シンシアも生き返り、『人間の世界』は平和になった。
けれどピサロとロザリーはどうだったのだろう?
ピサロはロザリーの亡き骸をあの丘に埋めた時、すでに己の死を覚悟していた。
ピサロはあるいは、ロザリーを失った悲憤と人間への憎悪の中、人間を滅ぼそうとする思いとは裏腹に勇者達に打ち滅ぼされることを心のどこかで願っていたのかも知れません。
この世で結ばれることのない2人が、せめて来世に生まれ変わった時には、必ず――。
けれど、それは幸せと言えるのでしょうか。僕はそうは思いません。
そこには何の救いもありはしない。破滅の先に望む幸せなんて、あるはずがない。
結果としてDQ4のシナリオにおける最大の犠牲者は、ピサロとロザリーなのです。
何からも救われることもなく、何に助けられることもなく、ただ一身に苦しみと哀しみを背負って闇の中に堕ちて行く。
崩れ去ったのは野望ではなく、ただ一つの幸せを願う心。
そういう儚さを秘めた第五章のエンディングは、まさにDQ4の締めくくりとして無くてはならないものであったと僕は思うのです。
ピサロとロザリーが救われた第六章は別の可能性事象というか、
アナザーストーリーとしてこういうのもありますよっていうぐらいで丁度いいと思うわけで。