6月12日
おかあさんがしんでしまった。
おしろからおめんをしたふたりがきて、むらがもえてしまった。
くろいおめんのほうにゆうかいされたけど
あおいおめんのほうじゃないからまだましだとおもう。
あのあおいほうは、わたしをむりやりにどうのといってくろいほうにとめられていた。
きっとおかあさんからきいていた「ろりこん」といういきものだ。
タイタンをよんだらしいが、あんまりよくおぼえていない。
うつしゅんかんに、なんとなくあおいおめんのほうをねらったのはおぼえているが。
6月13日
ねっちゅうしょうになったのでいちにちねていた。
くろいおめんのおとこがわたしをまちまではこんだらしい。
おめんをはずしたらふつうのかおだったのですこしあんしんした。
こどもにいたずらしたりするようなかんじではないが
まじめなかおで「きみをまもる」とかいってたので
やどやのおっさんはごかいしたとおもう。
6月14日
いしゃのところにいったら、おめんおとこのかのじょがねこんでいた。
ひとりでいえをとびだして、じゅんびなしにさばくをあるいてぶったおれて
かれしのなまえをうなっている。
わたしはこどもだけどわかる。
このおんなはひじょうにめんどうくさいおんなだ。
できればずっとねこんだままでいてほしい。
6月15日
おめんおとこがあさからはりきっている。どこかにでかけるそうだ。
ローザをたすけなきゃとかぶつぶついっている。
あれはじごうじとくなのだが、まあくるしそうであわれではあった。
だけどおなじようにさばくにいて、わたしもぶったおれたということを
このおめんはかんぜんにわすれている。
かのじょをたすけるもーどになっているらしいのでわたしにはどうにもならない。
とりあえずわたしはここでまってるねといおうとしたら
じゃあいっしょにいこうとのおたっしである。
そういえばこのおめんはケアルができないのだった。
いやだといえばめんどうをみないといわれるかもしれないので、だまってついていく。
ケアルのできるじぶんがうらめしい。
6月16日
このおめんはセシルというなまえだそうだ。
そしてなぜかじいさんをひろって、げすいどうのなかをあるいている。
けんじゃだといっているが、わたしとおなじくらいのまほうしかつかえない。
これはおかあさんからきいた「きんちさんしゃ」というひとだなとおもう。
こういうひとにもまじめにうけこたえしているセシルはぜんにんなのだろう。
ぜんにんだからわたしやじいさんをつれて、あのめんどうなおんなのために
いかのばけものにげすいどうでひっぱたかれてるんだろう。
こういうめんどうをかってによびこんで、じぶんでしょいこんで
しなくていいくろうをわざわざするにんげんでいるのはたいへんそうだ。
じぶんではたいへんだとおもっていないならいちばんやっかいだ。
6月17日
もえてしまったとはいえ、よそのおしろのたからをばんばんあけるセシルは
なにかただものではないかんじがする。
じいさんがいなくなって、いまギルバートというおとこがいっしょにきている。
あおじろくて、がっきばかりひいているちゃらおだ。
セシルとはなしているのをきいたら、いままではたらいたことがないそうだ。
ずーっとがっきをひいてうたをうたってすごしていたらしい。
おかあさんは「がっきやうたでせいかつしていけるとおもっているようなおとこには
ぜったいにちかづいちゃだめよ」といっていたから
このおとこのそばをあるかないようにきめた。
6月18日
セシルがルビーのゆびわをくれた。とてもきれいだ。
やけたしろからとってきたものだとしっててもうれしい。
だけどてつのうでわはおかあさんがくれたものだったので
わたしのめのまえでうるのはやめてほしかった。
くれるときに「ぶたにならないよ」とかわけのわからないことをいっていたので
それならあのおんなにやればいいといいそうになったがやめた。
ひとがくれるというものをじぶんからなくすようなまねはばかばかしい。
6月19日
かんがえていたよりもずっとちゃらおはやくにたたない。
はしるとすぐいきぎれするし、うたはこうかがないし、しょっちゅうどこかにいなくなる。
むしろいなくなったほうがたたかいやすいのでいいのだが。
ながいあいだはたらかないというのは、ほんとうににんげんをだめにするようだ。
ちゃらおがいると、ちゃらおのおやののりものがつかえるということだけがとりえだ。
のりものでさばくをはしりまわっているときに、あきらかにひとをはねたのだが
ちゃらおはあれはゴブリンだとさいごまでいいはっていた。
6月20日
あんなにおおきいありじごくははじめてみた。
ちゃらおによるとおとなしいそうだが、そういいおわるまえにころされかけていた。
ありじごくなんだから、まっていればそのうちかげろうになってすぐしぬはずなのだが
セシルがつっこんでいってしまった。りけいではなくぶんけいのにんげんなのだろう。
ずーっとやくにたたないちゃらおにいらいらしていたので
ありじごくのかおをけっとばしたら、ねらいどおりちゃらおがつのでふっとばされた。
6月21日
まちにもどったが、きくかきかないかはよくわからない。
みんかんりょうほうだし、あのおんなだからきかなくてもべつにいいのだが
そうなったらセシルがべつのものをききつけてそれをとりにいくことになるだろう。
さばくとげすいどうとどうくつをあるきまわって
かおとあしとせなかとくびがいたいからきいてくれたほうがいい。
よなかにちゃらおがそとでがっきをひいていてひじょうにうるさい。
うたっているのかとおもったらみずをばしゃばしゃさせながらなにかさけんでいた。
たぶんうるさいからみずをかけられておこられたのだろう。
6月22日
よなかにうるさかったのとつかれていたのでおきたのはおひるまえになった。
どうやらあのおんなはひとばんでなおったようだ。
それまでうんうんうなっていたのは、けびょうもはいっていたのだろう。
わたしたちがみつけてきたゆみやをもって「いっしょにいく」とかいっている。
このおんなはじぶんのせいでたにんにろうりょくをかけさせたというじかくがない。
そしてこれからろうりょくをかけるかもしれないというきづかいもない。
セシルにきたいはしていなかったが、やはりなしくずしだ。
おしがよわいおとこはだめだとおかあさんがいっていたが
たぶんセシルはおしがよわいおとこなんだとおもう。
6月23日
きょうはずっとちゃらおのいえののりものでさばくをはしった。
あのおんながのりたいとせがんだらしい。
おんながとちゅうでわたしのゆびわをみて、それはどうしたのかときくので
きれいでしょおにんぎょうをかったらついてきたのとまんめんのえみでこたえた。
すべてのにんげんがしんじつをしっているひつようはない。
6月24日
あのおんなはわたしのえりくびをつかまえてファイアをとなえろといった。
いわれたときのわたしは、タイタンをもういちどよべそうなきがした。
まっかだ。あつい。おかあさんがたおれている。あつい。あつい。あつい。
あのおんなのまえでだけはなきなくなかったけど、ないてしまった。
むらをでたのははんつきまえなのに、もうずっとまえのようなきがする。
おかあさんがいなくなったわたしはだれかおとなといないといきていけないだろう。
わたしがおとなにいっしょにいてもらうのであって
おとながわたしといっしょにいるのではないのだ。
このおんなはそのいみをしっている。
しっていてわたしにファイアをとなえろといったのだ。
そして、わたしとこのおんなでわれたらセシルがどちらをえらぶのかもしっている。
じぶんのかのじょか、よくわからないこどものどちらをえらぶとなったら
だれだってじぶんのかのじょをえらぶだろう。
まっかななかにおかあさんがいる。まっかななかでみんながさけんでいる。
にんげんはがまんをしなさいとおかあさんがよくいっていた。
そういわれたときはケガをしたときのはなしだとおもっていたが、きょうわかった。
にんげんはがまんをしなければいけない。
きょう、わたしはがまんをした。
6月25日
いやみとしてスピリットにファイアがきかないといってやったが
あのおんなはかくじつにきこえないふりをしていた。
ちょうじょうでおもしろいかみがたのおっさんをたすけた。
おっさんはうえがはだかなので、てきになぐられるとかなりきいているようだが
おっさんのケアルはあのおんなにやらせることにする。
あのおんなはケアルしかないのだ。わたしはいろいろやることがある。
ひとつしかできないにんげんは、すぐにいらなくなる。
いちどにいくつもできるようにしなさい。
うるさいなとおもってたけど、おかあさんがいつもうるさくいってくれてよかった。
6月26日
まいにちまいにちいろいろなことがおこるが、きょうはとくにいそがしかった。
たすけたおっさんはそういうしゅみでうえがはだかなのかとおもったが
きまりがあったらしい。おっさんのしろではみんなうえがはだかだった。
ちゃらおのようになよなよのからだよりも、きたえたほうがいいにきまっているが
ものにはげんどがあるなあとおもった。
あとはわたしはかくれていたのでよくわからない。
あおいほうのおめんのおとこがきたとか、あのおんながどこかにいったとか
クリスタルがどうとか。
でもケアルですぐもとにもどるようなこうげきをされて
なんでいきるかしぬかのようなたおれかたをしていたのだろう。