ベルガラックのカジノの後継ぎ騒動も無事収まり、その晩は町をあげて盛大な宴会が開かれた。
宴もたけなわになったころ、エイトは何か不吉な予感をその身に感じた。
それは徐々にあたりをつつみ、ビールの泡の一つ一つにまで闇の息吹が吹き込むようだった。
「兄貴、こんな夜中にどちらへ?一人だけずるいでがすよ」
美女をはべらせ、酒の入ったヤンガスが陽気に尋ねてきた。
醜い容姿に全く臆する事無く、顔いっぱいにたたえた笑顔から自然に発せられる彼の明るさが、
あたりに立ち込める邪悪な気配と余りにも不釣合いでエイトは少し気が軽くなった思いがした。
月が、出ていた。狂気を感じた。酒のせいか、背中に構えた剣が重く感じる。
エイトは吸い込まれるように、鈍く、重い空気の渦の中心に向かって歩き出していた。
「この時刻は、あんまり出歩かないほうがいいぜ」
さっき町を出るとき、すれ違いざまに傭兵風の男が語った言葉が頭をよぎる。
「結構前からの話なんだが、夜、それ、この町の近くに桟橋があっただろう。
あの橋のあたりを歩いてると、出るんだよ。お化けが。
何でもうら若い修道女の格好をしたお化けだそうだ。
俺もこんな商売をやっちゃあいるし、そこそこ腕も立つつもりだが、
何せ切れねぇ相手にゃ勝てねぇ。
あんたがいくら鬼をぶっ倒すくらい強いかしらねぇが、幽霊だけは相手にしねぇほうがいいぜ。」
突然、空気が重くなった。ポーチの中でトーポの体が緊張して硬くなるのを感じた。
ゆっくりと、エイトは剣を抜き放った。魔物の気配だ。しかも、かなりの強敵だ。
歴戦の兵(つわもの)にしか感じ取れない呼吸がある。噂の橋はまだ遠い。
息をひそませ、あたりの気配をうかがう。月が、雲に隠れた。
ふと、森の中から身を躍らせ、韋駄天のごとく襲い掛かってくる黒い影が現れた。
鋭い叫び声をあげるや否や、ずしりと思い一撃がとっさに構えた剣に打ち下ろされた。
エイトはその一撃で川ぶちにまでふき飛んだ。冷たい水が完全に酔いを覚まさせる。
危なかった。と思ったところへ次の一撃が加えられる。
剣と剣のこすれ合う金属の音があたりにこだまする。強い!
続く一撃をかわしたエイトは、ようよう振りかぶって右袈裟から切りつけた。
しかし敵は信じられない速さで立ち回ると、エイトの剣をするすると打ち払い
バネのかたまりのような脚力をいかして鋭い突きを繰り出した。
エイトはただ避ける事に必死であった。何しろ夜なので相手の姿がよく見えない。
必死に相手の気配をたどって攻撃を避けるが、
相手もそれ以上に巧みにこちらの気配を感じ取り、先手、先手を繰り返す。
足場を踏みしめる音。金属のぶつかり合う轟音。火薬の匂い。息づかい。
何度打ち合っただろう。疲労が徐々に体を重くする。このままでは体力が削り取れ、やられる。
そう思った瞬間エイトは、乾いた口中を必死に動かしながら電撃の呪文を詠唱していた。
とたん、月を隠していた雲間から激しい稲妻が闇を切り裂いた。相手が、ひるんだ。
それからエイトのやることは、ひどくゆっくりした世界の中を、
戦士の反射神経に従って相手の肉体を切りつけるだけであった。
相手が、倒れた。むっとする血の匂いとエイトの息遣いだけが、あたりを満たした。
雲が流れ、明るい月が闇夜を照らした。相手は、身の丈7尺はある鳥の化け物であった。
まだ意識をさまよっているのか、口を小さく動かし、目をエイトに向けた。
その訴えかけるような目に何かを感じたのか、エイトは魔物の口に耳を近づけた。
「ウ・・・コッケ・・・」
エイトはこの旅で、戦った相手とはその者達にしか感じられない絆があることを、確かに知っていた。
だからエイトは先ほど自分を襲ったこの魔物が、何を欲しているのかを自然に理解し、
肩を貸し、魔鳥を立ち上がらせ、橋まで付き添って歩いた。
血は、容赦なく流れつづけた。ぬるりと生暖かい感触が、エイトの手に伝わった。
相手の肉を斬りつける事は、時として快感と感じることがある。
エイトも長い旅の間、そうした狂気に身を委ねそうになったことがある。
しかしその度に、何か己の身の内に、超えてはならない壁があらわれ、自分を明晰に保つのだ。
そしてその瞬間、巨大な竜の幻影がエイトの脳裏に浮かび上がるのである。
その竜が何を意味しているのかはわからない。
だが、狂気に身を任せれば、その行く末は、おそらく魔物なのではないか。
おそらくは、この魔鳥も・・・
そんなことを考えながら、エイトはただひたすらこの魔鳥とぎこちなく歩きつづけた。
東の空に薄明がうっすらと浮かび上がるころ、ようやく橋のそばまでたどり着いた。
すると、その橋の上に、寂しげに誰かを待っているような痩せた影をみとめた。
よく見ると、それは美しい修道女の霊であった。
女の霊はこちらの姿を見つけると、ゆっくりと音も無く近づいて来た。
整った鼻梁と血の気の引いた唇が、恐ろしくなるくらいの美をその身にたたえている。
エイトは金縛りにあったように、その場に固まったまま立ち尽くしていた。
女の霊が触れられる距離まで来たとき、その冷たそうな細腕が、そっとエイトの傍らの魔鳥に触れた。
すると魔鳥は何か不思議な力に触れたように、すっと自分を支えていた足の力を抜き、崩れ落ちた。
その倒れ方が異常にに人間的だと感じたのを、エイトは覚えている。魔鳥は人に姿を変えていた。
女の霊は倒れた魔鳥の、いや若い剣士の上にゆっくりと身を重ね、寂しそうな笑みを口の端にたたえると、
エイトに顔を向け、何事かをつぶやいた。その口の動きは小さく、読み取ることはできなかったが、
修道女の細いからだが剣士と重なり、日の出の明かりとともに二人が次第に朝の空気の中へ消えていくとき、
はっきりとエイトはその言葉を耳に聴いた。
「ありがとう・・・・。」
それからどこをどう歩いて町に帰ったのか、エイトは覚えていない。
気が付くと、酒宴の後の散らかった部屋によだれをたらして突っ伏して寝ていた。
仲間に昨夜の不思議な出来事を話しても、夢だろうと取り扱ってくれない。
何回も否定されるうちに、エイトもだんだんそんな気がしてきた。
ただ、あのとき聞こえた修道女と剣士の声だけは、今でもはっきりと耳に残っている。
「ありがとう・・・」