パパスは、戸口から外へと踏み出した。そしてサンチョの視界から消えた。
サンチョは、パパスの後から首を突き出して、外を見渡してみた。そして、パパスの言う通路というのが、
たしかに宙に架け渡された橋であることを、しっかりと網膜に焼き付けた。
鉛の色に輝く橋を、パパスはおもむろに踏みしめつつ、進んでいた。
行く手にあるのは、もう一棟の塔だった。この塔の上部が二つに分かれていることは、以前から見て知っていることだった。
いま、こうして塔の上で、その場に立ちつつ眺めてみると、二つの塔はかなりかけ離れて建っているかと思われた。
だが、それでも、その二棟の塔をつなぐ橋を渡らなければならないのは、サンチョも百も承知済みのことだった。
しめやかに、それでいて大胆に、サンチョは宙をかける廊下へ、靴を踏み置いた。
橋は何事もなかったように、いや、実際に何の変化もなく、ただひと筋に伸びていた。
サンチョとパパスという二人の男の体重を、抵抗なく支えることができるのだ。
それが分かってほっとしたサンチョは、パパスのそびらを追って、小走りに駆けた。
パパスは、橋を三分の二ほど渡りきった地点で、後ろを振り向いて、サンチョを待っていた。
追いついたサンチョに、パパスは小さな声で語った。
「サンチョ、あそこを見上げてごらん。ちょうど、二つの塔の頂上の、中間になる位置だ。」
パパスはそう言いつつ、空中を指差した。
サンチョは素直に従って、上を見た。板のような青空が広がっていた。
その中に、青い波紋を見た、と、サンチョは感じた。あたかも水に小石を投げ込んだときに生じる波紋のような乱れが、
青空の中に薄く、しかし視認できるほどにはくっきりと、同心円を描いて広がっていた。
「あそこには、確実に何かがあります・・・。もしかして・・・」
「うむ・・・おそらくな。到着しないと分からないことだが。」
その波紋を見て、魔界への出入り口であることを危惧することは、誰でも思いつくことであった。
むろん、サンチョも、パパスも、そこが目下捜し求めている地点であることを、疑わなかったのだ。
二人はふたたび歩き始めた。目の前には、塔とその中へ入る戸口があった。
さんさんと照る太陽の光が、妙に重たかった。
パパスは塔の中へ入った。太陽の明るさに慣れた目には、薄暗く映った。
サンチョもその後に続いて、塔の中へ入った。石の壁は、ひんやりとした冷気を、二人に与えていた。
「うむ・・・ここもとりたてて何も配備されていないようだ。上に登る階段は・・・と。」
階段は、部屋の奥に、ひっそりと立っていた。
サンチョはその階段を見て、ぞっと寒気を覚えた。どういうわけか、死んだ人間の立ち姿を連想したのだった。
おそらく、サンチョが不気味さを感じた原因は、階段への光の当たり方によるもののようだった。
この部屋には明り取りがあり、差し込む光と影が、ちょうど人の上半身に似た姿を、壁に描いていたのだった。
「よし、行くとしよう。罠には気をつけろよ。」
パパスは歩き出した。サンチョはその後をついて行った。
あと十数歩で、階段の上り口に足を掛けられるという、そのときだった。
「おや・・・?」
パパスが顔を険しくした。そして、天井をきっとなって見上げた。
サンチョにも、パパスの緊迫の理由は知れた。パパスに倣うまでもなく、サンチョも天井を見た。
低い音が聞こえていた。音程は低かったが、その音は、二人の男の全身から染みとおり、体を震えさせるようであった。
限りなく多くの、限りなく重たい牛や馬が、床を走り回っている。
サンチョの耳にはそういう音に聞こえた。
パパスには、あまたの太鼓が、はるか彼方で打ち鳴らされているのを、
耳に金属の筒を当てて聞いているような、そのような音に聞こえた。
「心してかかれ。」
パパスの唇に上ったのは、ただこの言葉だけだった。パパス自身もおびえていたのだった。
この薄気味の悪い音には、普段であれば、誰とても決して近づこうとは思いだにせず、
むしろ足の続くかぎり走って逃げ出したくなるような、そんな魔力がこもっていた。
だが、ここにいる二人にとっては、今ここにいるということは、
普段とは全く正反対の条件下に立っているということを直接示すものであった。
その条件下での答えは一つだった。音の嵐など乗り越えて、先へ進むのだ。
パパスは、そしてサンチョは、目の前の階段を登り始めた。
謎の音におびえるように、そしてまた、自分たちの心の奥にうずくまる不安に引き戻されまいとするように。
階段をなかば登ったあたりで、ふと音が消えた。
サンチョは、今まで自分の精神を、短い間とはいえ抑圧していた物から解放され、
顔をぴょこりと上げて、あたりを見回した。
目の前にはパパスの腰巻があった。黒い靴がその下に覗き、脊椎の両側に盛り上がった背筋がその上にあった。
「音が聞こえなくなりましたね、パパス様。」
「そうだな。何者だったのだろう・・・。まるで、上に邪悪なものでも待ち構えているような気がしてきたぞ。」
パパスは落ち着いた声でサンチョに応じた。サンチョは、その声色には安らぎを覚えたものの、
その発言の内容には不安を感ぜざるを得なかった。
「パ、パパス様、そんな事をおっしゃって、もし出遭ってしまったりしたらどうするんですか・・・」
「なに、そのときは、この私が、剣で一打ちにしてくれよう。」
パパスは腰の剣を叩いた。カチン、カチンと音が鳴った。さっきの不気味な音よりは、遥かに頼りがいのあるものだった。
『しかし、一昨日、パパス様も魔物に捕らわれてしまっていたでは・・・ないですか。』
サンチョは、おくびにこそ出さなかったが、頭の中にはこのような落ち着きの無さがはっきりと現れていた。
そういえば、パパス様は、ご自分がモンスターに捕まったときの様子を、まだ話してくださっていない。
あとででも伺ってみよう、サンチョはそう思った。
階段を登りつめた二人は、長い廊下を目にした。
「こんなに大きい空間が、この塔にあったのだな!なんとも意表を突くものだ。」
パパスは感嘆した。サンチョにも、パパスの気持ちはくっきりとした形を描いて伝わっていた。
たしかに長いのだ。城の回廊よりも長い。ひょっとすると、城下町の奥行きほどはあるだろう。
そして、どういう理由なのか知る由もなかったが、廊下のところどころに、岩が置かれていた。
岩はいずれも球状だった。加工された跡があった。大きさは、サンチョの背丈ほどもあるように思えた。
「巨人の九柱戯場とでも言うのかな。九柱戯といえば、オジロンが好きだったな。
あいつは、今頃、大臣とうまくやっているだろうか。またオロオロしどおしなんじゃないかな。」
パパスは冗談めかして言ったように聞こえたが、サンチョには、それが自分に向けられたものなのか、
あるいはパパス様自身に対して言われたものなのか、はっきりと決められなかった。
突然こんな所でオジロン様のことをおっしゃった。四六時中、国のことを、心に掛けていらっしゃるということだろう・・・。
「どうも焦げ臭いのだ・・・。」
「焦げ臭いというよりか、すすのたまった煙突のような匂いです。どこかにかまどでもあるのでしょうかねえ。」
二人の鼻は、物の燃えたにおいを、はっきりと嗅ぎつけた。どこかで火を焚いたらしい。
だが、回廊は森閑として、鍋釜のぶつかり鳴り響く音もしなければ、薪のはぜる音もしなかった。
「ドラゴンが炎を噴いたばかりのところに、足を踏み入れてしまったのでは・・・あわわわ。
見つかってしまったら、私たちも丸焼きですよ、パパス様・・・」
「サンチョよ、お前の言うことは、どうも荒唐無稽だな。だが、その言葉も、半分は当たっているようだ。」
パパスは、少し先の壁沿いにある、薄黒い出っ張りを指さした。
サンチョもその出っ張りには気づいていたのだが、ただのレリーフであろうと考えて、特に気に留めていなかったのだ。
ところが、パパスがそれを指し示し、その正体を暗示したことによって、
サンチョの目の前で、そのでっぱりが、意味のある形状を型作り始めた。
単に、壁から、ひずんだ円錐形に伸びているだけと思えたその出っ張りは、竜の頭をかたどったものだったのだ。
鋭く前方を見通す瞳、緩やかな曲線を描いて大きく割れた唇、竜巻のような息を捲き起こしそうな鼻。
そばに近寄ると壁から這い出してきそうで、サンチョの脚はがたがたと震えだしていた。
「い・・・行きますか、行くのですか、パパス様?」
「マーサを救うためならば、どこまでも行く。」
パパスは足を踏み出した。その歩く姿は、まるで歩幅で距離を測る測量士のように、サンチョには見えた。
が、パパスはあまりに急に止まり、踏み出しかけた足のかかとで床を蹴った。
「サンチョ!これは危険だ!」
パパスの蹴った床から、黒い粉がかすかに舞い上がっていた。
それが炭素の粉、すなわち煤であることは、サンチョには容易に知れた。
「なにかが燃えたのですね。」サンチョは、煤の散っている様子を見極めつつ言った。
この発言が、あまりにもつまらない物言いであるとは、自分でも分かっていたが、
自分自身には、これ以上、どう説明をつけてよいものなのか考えつけなかったのだ。
「それだけかね?この事実は、もっと大きな危険性をはらんでいるのだ。」
パパスは、いつになく厳格な口調で述べた。サンチョはぎくりとして退いた。
「・・・よく見てくれ、この煤は、竜の口から、帯をえがいて伸びている。
察するに、この竜の口から炎が噴き出して、何者かを燃やし尽くしたのであろう。
仕組みは分からぬが、恐るべき罠だ・・・。」
サンチョに振り向いたままのパパスの顔は、異様に赤黒く見えた。
だが、それが、いつものような小麦の色に戻るのには、たいして時を要さなかった。
「なるほど、それで岩があるのだな。
モンスターどもも、ここを通るには、岩を盾にして、炎から身を守りつつ進むのに違いない。」
パパスはポンと手を打ち鳴らし、にこにこ顔になった。サンチョの顔にも、柔和な安堵の色が広がった。
「だから、岩がボールのように丸く加工してあるのですね。転がしやすいように。」
「うむ、おそらくはな。さあ、二人で押していこう。」
パパスが煤の帯を見つけた地点のすぐ目の前には、石でできた竜が、
あたかもこちらに逃げる隙も与えぬかのように、じっと正面を見据えていた。
だが、その正面には、大きな岩があってすっかり視野を覆っており、たとえ竜が、生命の息吹のかよった竜だったとしても、
その岩の向こうに身を隠したパパスとサンチョの姿を見つけるのは、不可能であった。
「さあ、転がそう。」
パパスとサンチョは、力を合わせて岩を転がした。途端に竜が火を噴いた。
熱気は、岩を回り込み、パパスとサンチョのところまで吹き渡ってきた。
「ひゃああ〜〜・・・こりゃ、ものすごい炎です。岩越しじゃなかったら、とっくに黒焦げになってましたよ。」
「驚いたな。岩が動くだけでも、反応して炎を噴くのか。こんな罠があるのでは、モンスターもおちおち通れなかろう。」
パパスとサンチョは、岩を転がし、なんとか竜の炎の難所を乗り越えた。
「ふう、ふう・・・すっかり汗をかいちゃいましたよ。」
「だが、どうやら、竜の口は、まだ幾つかあるようだぞ。」
パパスの指し示す方向を眺めたサンチョは、汗も吹き飛ぶくらいに驚いた。そしてがっくりと膝をついた。
これから進みたいと思っている、その先には、回廊の右に、また左に、
まだ三つか四つばかりの竜の口が突き出しているのであった。
「ど、どういたしましょう・・・」
嘆くよりも大切なことがあることに気付くべきなのに、サンチョは、半ば涙声になって、パパスにすがりついた。
「こら、こら、サンチョ。岩を転がすのが嫌なのかね。」
決してそんな事はありません・・・と、サンチョは言いたかったが、中座した。
サンチョがすがりついたパパスのあらわな肩は、筋張っていた、たくましかった。
この肩の持ち主なら、自分をいつまでも守りきってくれそうだった。離れたくはなかった。
「さあ、先へ進むぞ。岩を転がせば良いのだしな。
それに、サンチョ、お前は、力仕事はやりつけていて、お手の物だろう?」
頼れる人にかく言われることは、サンチョにとっても嬉しいことであった。
パパスの体から身を離すと、サンチョは、ふたたび岩に取り付いた。
「では、行きましょう。せーの!」
岩は、大きさのわりには案外軽かった。軽石か、それとも何か特殊な材質でできているのかもしれなかった。
しばらく転がしたのち、パパスが木のように乾ききった声で言った。
「止まれ。」
「へ?」
サンチョは、命じられたからというより、パパスの声色に驚いて、足を止めた。
同時に、後頭部に、オーブンの中から吹いてくるような風を感じた。
自分の後ろに、竜の口があり、そこから炎が噴出してくるのだ、と気付いたとき、
もう万事休すだ、と、サンチョは思い、呆然と突っ立っていた。
だが、何事も起きなかった。
目の前には、相変わらず岩とパパス様の威容が立っている。
自分の額には、汗のしずくが流れているし、丸く突き出た腹はぴくぴくと痙攣している。
「・・・。届いてないぞ。」
パパスのせりふの意味が、サンチョには一瞬判じかねた。
だが、パパスの視線を追ってみて、その意味をようやく理解した。
たしかに、炎は竜の口からほとばしり、サンチョをめがけて逆巻いていた。だが、届いていなかったのだ。
炎が到達できる距離は、回廊の幅の半分ほどでしかなかったのだ。
「ふむ、ということは、竜から大きく身をよけてさえいれば・・・」
「わざわざ岩で身を隠さなくとも、竜の口と反対側の壁を伝っていけば、無事に向こうにたどり着けますね。」
パパスとサンチョは、肺臓深くからの息を噴き出した。なんという安寧を感じたことだろう。
相手のパターンを見破ってしまえば、そこから先は、パパスとサンチョの二人連れのこと、なんという障害もなかった。
回廊をジグザグに駆け破り、二人を焼き焦がすこともできないまま無駄に炎を吐き散らす竜たちを尻目に、
一気に向こう端までたどり着いてしまったのだった。
「なんだ、なんだ、あっけないな。これではモンスターも楽に通れてしまうではないか。」
パパスが肩を揺すりつつ、笑って言った。
「そうですね。これでは、罠としても、障壁としても、無意味ですよ。」
サンチョも賛同した。炎の噴き出す中を、怪我ひとつ、火傷ひと筋負わずに抜けられたのが嬉しかった。
「さあ、先へ進もう。もしかすると、先には、ここよりももっと手の施しようのない罠が待ち構えているかもしれないがな。」
二人は歩き出した。明かり取りから明るく日が差して、回廊の中は涼しく、さわやかだった。
すすけた匂いとモンスターがなかったら、もっと気持ちがよかったのにな・・・と、サンチョは空想してみた。
やがて二人は、回廊が直角に曲がるところへとやってきた。
「ちょっと待て。いきなりモンスターがいたりしても困るからな。」
パパスは、曲がり角の外縁部へと移動すると、角の向こうを覗き込んだ。そしてため息をついた。
「モンスターは、いない。だが、竜の頭が、たくさん並んでいるぞ。」
サンチョもパパスに促されるように、覗いてみた。
回廊の両側の壁に、ずらりと竜の頭が並んでいるのであった。はるか突き当たりまで続いているようであった。
「ふう・・・」
サンチョもため息をついた。
ここで自分たちの旅路が絶たれたかと思うと、やるせなかった。
竜の頭のうちには、ひょっとするとダミーに過ぎないものもあるのかもしれない。サンチョはそれを望んでみた。
もしかすると、ここから見えないだけで、あちこちで列が途切れているのかもしれない。
サンチョはそれをも夢想してみた。
しかし、いずれもから頼みに果てそうなことくらいは、サンチョとて認めていないわけではなかった。
「・・・ここまで来て、戻るわけには・・・」
パパスがつぶやいた。そして、素早くきびすを返すと、大股で急くように歩き始めた。
先ほどの岩のところまで戻って、ここまで転がしてくるつもりだったのだ。
だが、そのとき、思いもよらぬ声を、二人は聞いた。
「おお〜い、パパス殿!サンチョ殿!」
勇ましい足並みで駆けて来る男がいた。ディエゴだった。
「ふう、やっとのことで追いついたぞ。まずは大事なことを伝えておこう。
下には地下室はあったものの、魔界への戸口などは見つからなかった。
それで、まっすぐ戻って、おぬしたちを追ってきたのだ。」
ディエゴは軽く息を弾ませながら、報告を述べた。
「それにしても、ディエゴ殿。ここの手前には、炎を吐く竜の石像が並んでいたが、それに焼かれずに、どうやって・・・」
ディエゴはパパスを遮った。
「ああ、ちょうど階段を登りきってこの階に出たとき、おぬしたちが稲妻のようにぎざぎざに走っていくのを見かけたものでな。
奇妙な動きをするものだな、と思ったが、お二人のことだ、訳があるに違いない、と思って、
おぬしたちの真似をして走ってきたのだ。
そうだったのか。火を噴く竜の頭か。あれがそんなに危険なものだとはゆめ考えなかったぞ。」
「それで、おぬしたちは、ここで逡巡して、何を待たれているのか?」
パパスはディエゴに、問題の根幹である竜の頭部のことを語った。
「なるほど、確かにいうとおり、右からも左からも火責めにされては、向こうに行き着くすべはないな。
ともかく、私も見ておかないと。三人で案を練れば、思わぬところから突破口が開かれるかも知れぬ。」
ディエゴは曲がり角から先へ進み、左右をじっくりと案じつつも、とりたてて躊躇することもなく、
ずっと先へ進んでいった。そして、最寄の竜の石像のそばへ着くと、そこで立ち止まり、後を振り返った。
「うん、大きいな。だが、・・・」
パパスはディエゴの後を追って、ほとんど従うようについて来ていた。
サンチョは、二人から身を離すように、ゆったりとした足取りで、二人を追っていた。
背中の背嚢が重たいな、と、サンチョは突然気になりだした。
背嚢の裏側は、自分の背中からにじみ出た汗で、じっとりと湿っているに違いなかった。
「突破口があったぞ。」
しばらくたってから追いついたサンチョに、パパスは嫣然と微笑んで、こう言った。
「ど、どこに・・・」
「見たまえ、この鼻面を。上を伝っていけばいいのだよ!」
ディエゴが笑い声交じりで述べたてた。
竜の頭は、回廊の壁から、通路の中央を向いて突き出すように出ている。
頭の高さは、サンチョの背丈ほどもあったが、鼻先は低くなっていて、サンチョのみぞおちほどの高さしかなかった。
回廊の天井は、意外にも高い。男が二人肩車をしても、届きそうにないほどの高さに見てとれた。
「そうか・・・」
サンチョも納得した。いささか足場が不安定であることは無論否めないが、
鼻面の上を伝って移動できるだけの空間の余地は、じゅうぶんに空いているのだ。
「子供の頃に、よく石跳びや杭跳びをやって遊んだものだ。こんなところでその時の経験が生きるとはな。
サンチョ殿も、そうやって遊んだ覚えはあるだろう?」
うん、うん、とサンチョはうなずいて見せた。自分が重たい背嚢を背負っていることも思い出してほしかった。
「では、まず私が先に立とう。」
パパスは竜の鼻面に手を掛け、口元に爪先をかけた。
竜がかすかに身じろぎをしたように、サンチョには思えた。
次の瞬間、ただパパスが体重をかけたから揺れたに過ぎないということに思い至り、
サンチョはほっと肩の力を抜いた。どうやら鼻面を渡っていくのは、安全な策であるようだった。
「よーし、よし。頭上にもこんなに余裕があるし、困る事などどこにも無いではないかね。」
竜の鼻面に立ったまま、サンチョは後ろの二人を見やって言った。そして、反対側にすとんと飛び降りた。
『この竜は、火を噴き出すといっても、その到達距離はたかだかこの通路の半分に過ぎない。
だから、通路の中央を突っ切って駆け抜けていくという手段もあるが、さすがにそいつは危険だろうな。
一度に両側から焙られかねない。』
サンチョはそう考えてもみた。そして、自分で納得していた。
「では、次は私が参ります。ディエゴさん、しんがりをよろしく頼みます。」
サンチョはディエゴに声を掛けた。ディエゴはOKサインを作り、進むようにと手で促した。
サンチョは竜の鼻面に手を掛け、顎に爪先をかけ、やがて上に這い登った。
ディエゴが後ろから尻と太腿を押してくれた。サンチョはそれをありがたいと思った。
支えてくれなければ、自分の丸いお腹では、この竜を這い登れずにずり落ちてしまう。
サンチョは、竜の鼻面の上で四つんばいになった。
滑らないよう細心の注意を払い、竜の眉間に手を掛けて体のつりあいを取りつつ、サンチョは水草のようによろめいて立った。
いやいや、立つ必要はなかったのだ。サンチョは、立ち上がってから、その点に気がついた。
そこで、竜の鼻面に尻を落として座ると、そのままパパスのいる側へ、尻滑りをして降りた。
これがいちばん労力を要せず、いちばん素早く移動できる方法だった。
「この道なら安全に進めるな。」
床に足裏を突いてかがんだサンチョを、パパスの優しく逞しい腕がそっと支えて立てた。
後ろでは、ディエゴが竜の鼻面に駆けるようにして登っていた。
「降りるぞ。場所を譲ってくれい。」
ディエゴは竜の鼻面から飛び降り、パパスとサンチョの脇に立った。
「この先も、同じようにして進んでいけば、おそらく問題はなかろう。」
こう言うと、、パパスは次の竜によじ登り、サンチョを招いた。
サンチョはその招きに従い、パパスのそばへ寄った。
「それでは、お前を引き上げるぞ。なにしろ、サンチョは、我々のうちでいちばんの荷物持ちだからな。」
サンチョはパパスの差し伸べた手に掴まった。パパスはサンチョの体と背嚢を竜の上に引き上げると、
自分は向こう側へ飛び降り、サンチョを受け止めようと胸を開いて待ち構えていた。
「さあ、サンチョ殿。進むのだ。」
後ろからディエゴが肩を押す。サンチョの膝はよろめいたが、次の瞬間には、パパスの腕に抱き取られていた。
「サンチョ、大丈夫かね?」
パパスはサンチョを深々と抱擁した。
このときのパパスの脳裏には、リュカ王子の姿が、幻灯の絵のように浮き出していたに違いなかった。
二人の後ろに、ディエゴが飛び降りて、三人は再びひとつの班を形成した。
同じ事を、パパス、サンチョ、ディエゴの三人は、さらに四度繰り返した。
まずパパスが竜の鼻面に登り、サンチョを引き上げる。
続いて、パパスは飛び降り、後から続いて落ちてくるサンチョを受け止める。
そしてその後から、ディエゴが独力で登り、独力で降りてくる。
そうして、三人は、炎に当てられることも無しに、竜の並み居る通路を乗り切ったのだった。
「もうこの先には、竜の頭はないようですね。」
先を恐る恐るうち眺めながら、サンチョが気弱な声でパパスとディエゴに言った。
「そのようだな。だが、いきなりどこかから、何かが現れるかもしれない。罠とは、そのように仕掛けるものだからな。」
ディエゴが深くうなずいて言った。パパスも軽くうなずき、同意であることを示した。
ふと、サンチョは、この間の教会の宿で出会った狩人のことを思い出した。あの青年も、罠づかいの巧みな人物だった。
あの青年がいたら、どんな罠の仕掛けであろうと、たやすく見破れるかもしれないのに。
だが、その青年は、歩いて一日一晩かかる遠くに住んでいるのだ。思い出すだけ詮無いことだった。
サンチョの心は不安でみなぎっていた。ここから石を投げれば届きそうな距離のところに、階段があるのだが、
いま立っている場所から階段へと達するまでのあいだに、限りなく多くの罠が埋め込まれているような気がするのだった。
おそらく、炎を吐く竜という恐るべき罠を、安易に乗り切ってしまったことに対する不安から出たものであろうと
サンチョは自己診断を下した。下したところで、不安が立ち消えるわけでもなかった。
そんなサンチョを尻目に、パパスとディエゴはすたすたと階段へ向かって歩き出していた。
サンチョは思わず引きとめようと手を伸べたが、二人ともサンチョには背を向けていたので、気付くはずがなかった。
とどまるように声を掛けようとして、その言葉がのどで詰まったまま、口を半ば開け放して
サンチョは固まったまま立っていた。国王と戦士の背を見送りかけていた。
「こらこら、サンチョ、どうしたのだ。こちらに来ないと、またモンスターに捕らわれてしまうではないか。」
階段のたもとに着いたパパスが、サンチョを振り向いて、発破を掛けた。
「は・・・はいはい、今参ります。」
今までの不安は馬鹿馬鹿しいだけだった。サンチョは二人が待つほうへと、小走りに駆けた。
階段にたどり着くまでに、何事も起きなかった。パパスとディエゴがこちらを見ていただけだった。
要らぬおびえは自分のためにもならない。この塔を訪れてから、サンチョが何度も学んだはずの事だった。
三人は階段を登った。
登った先は、小部屋だった。外に出るための出口があり、日がさんさんと差していた。
「ここから外に出ようか。」
ディエゴが提案したが、パパスの目は、変わったものを見つけていた。
「なに・・・『渡り廊下のスイッチ』とな?操作してみるべきだろうか。」
そう口では言いつつも、パパスの手は、すでにスイッチに触れようとしていた。
「パパス様、正体の分からないものを触るとは、危険です!」
サンチョはパパスの腕に飛びかかり、あやうくスイッチを押しそうになっていたところをとどめた。
「お前の言うことももっともだな。それに、肝心の渡り廊下がどこにあるのか分からない限り、
このスイッチを操作しても無意味だろうし。」
パパスの視線は、自分の腕を押さえているサンチョの手のほうに向いていた。
サンチョは、それに気づくと、そっと手を離して、自分の体の脇へ下ろした。
「この先は、通路が途切れていて進めないぞ。」
ディエゴの声がした。戸口から日の降る表に出て、先の道筋を調べていたのだった。
「ディエゴ殿、それについてだが、これを見てはもらえぬだろうか。」
パパスはディエゴを呼び寄せた。そして、くだんの「渡り廊下のスイッチ」を示してみせた。
「これが、どうかしたのかね?これをいじると、どこかで渡り廊下が架かるということか。」
「おそらくはな。サンチョは私をとどめたがるのだが、私は、これを引くことで、
なにか先へ進むに必要な条件が満たされるのではないかと思うのだ。」
「いきなり壁が倒れて、廊下になるとかな・・・。この塔のことだ、何があっても不思議じゃあない。」
サンチョは、二人の会話を聞いているうちに、ますます尻が炙られるような思いをしてきた。
このスイッチをいじったところで、どうなるのか、もちろん自分にだって分かってはいない。
何が起こるのか分からないからというだけで、行動を思いとどまることが、どれほど自称の進捗を妨げることであるか、
サンチョにだって分かっていないはずはなかった。
それにしても、ますます不安が募ってくる。
サンチョは、この不安を、恐怖を、パパスやディエゴにどうにか処理してもらいたいだけなのかもしれなかった。
こうしてサンチョは、自分の恐怖感の原因らしいものを見いだした。
すると、不安感は、いっぺんに薄れてしまった。
もう、スイッチを押すことで、何が起きても、動じないだけの心構えができていた。
そして、サンチョは、パパスとディエゴに言った。
「ここでこうしていても始まりませんから、そのスイッチとやらを操作してみましょう。案外、道が開けるかもしれません。」
「先ほどとは打って変わって積極的ではないか。どういう風の吹き回しかね。」
からかうように話しつつも、パパスの手は、既にスイッチの握りに伸びていた。
ガシャリと音がして、異様な音が響き渡った。
「う・・・この音は・・・」
「なんて嫌な音だ・・・」
「また、さっきの・・・」
スイッチを入れた瞬間に鳴り始めた音は、少し前、下のフロアで階段を登ろうとしていたときに耳にした、
牛馬の駆けずり回るような薄気味の悪い音と同じものであった。
さらに、すぐそばで耳にすると、大理石の表面をたがねで引っ掻くような、鋭く不快な音色が混じっていた。
三人は、動くこともできず、ただ鳴り止むのを耐えて待つしかなかった。
「ふう・・・ようやっと止まったか。」
ディエゴが青ざめた顔で言った。
「地獄のメロディとでも名づけたい気分です。」
サンチョが、今にも黄色い水を上げそうな顔つきで、誰へともなくつぶやいた。視線は虚空をさまよっていた。
「あの・・・なんだ、その、鋼の剣が、砥石に混じった金屑で擦られたときの音を思い出したぞ。」
パパスが、さも胸が悪くなると言わんばかりの目つきをして言った。
ディエゴはパパスのほうを、ひとこと忠告したげに見やった。ディエゴの武器は、鋼の剣だった。
「これで・・・渡り廊下とやらは、通じたのかな?」
ディエゴは視線をパパスからそらし、部屋のあちこちを眺め回した。
「何も起きてはいないようだが・・・」
「さっきの音は、表のほうから響いてきたような気がします。」サンチョが言葉少なに言った。
「そうか、出たところに、埠頭のように突き出していた部分があった。一応確かめたほうがよいかもな・・・」
ディエゴは出口へと歩いていった。
パパスは、どこか物足りなげに、小部屋の壁や天井を見渡していた。
サンチョは、所在無げにたたずんでいるだけだった。
ディエゴが小走りで、しかも大股走りで戻ってきた。
なにか良い知らせを持ってきたのだな、と、サンチョは、ディエゴの目を見て推定した。
「渡り廊下が通じているぞ!」
やはり、よい知らせであった。パパスも幸せそうに目を細めた。
『これで、またマーサのもとへと、一歩近づくことができたのだ・・・』
パパスの脳裏には、抱き合う自分と妻の姿が描かれていた。
三人は、すぐに渡り廊下を歩き始めた。風が吹かないから通路が揺れることはないとはいえ、
はるか下にコケの野原を望みながら進むというのは、高いところが苦手ではなくとも、あまり気持ちのいいものではなかった。
「そういえば、この高さなら、魔物に吊り上げられたことがある。」
ディエゴがぽつりと言い放った。パパスはびくりとしたようであった。
サンチョも、聞かされた話であったとはいえ、既に記憶の片隅に埋もれていたことだったので、
いま新たにその話を耳にして、パパスと同様ぎくりとした。そして同情した。
「塔のてっぺんの高さまで、吊り上げられたのだったな。」
「そのとき、塔のてっぺんには、何かがあるのが見えたのかね?」
パパスが突然問いかけた。なんと場違いな質問をなさるのか、とサンチョには思えたが、
パパスの声は深刻で、緊急性すら感じさせるものであった。
ディエゴは、パパスの質問の真意を汲み取ったようだった。
「いいや、私も恐怖でいっぱいだったので、とても塔の上に何があるとまでは、目は行かなかった。
だが、思い返してみれば、なにか赤いものがあったような気もするな。
見ていないものを思い出すわけには参らぬ。パパス殿、不確かな情報であるが、これで勘弁してくれ。」
パパスはのどの奥で声を立てて、了解の意を示した。
そういう状況下では、自分の命に関わること以外に目を向けられないというのは、至極当然であった。
そして、再び話しかけたが、今度はディエゴとサンチョの二人に対してであった。
「上を見たまえ。」
三人は揃って上空を見上げた。よく晴れ上がった青い空だった。
その中に、浅い水の中に揺らめく波紋を思わせる、不思議な文様がうごめいていた。
ところにより群青、ところにより水色と、その波紋は色合いを変えつつ、決して止まることはなかった。
美しかった。だが、これほど不気味なものも、あるいは滅多に見つからなかっただろう。
サンチョは、下の渡り廊下を歩いていたときに、これと同じようなものを見たのを思い出した。
あのときは同心円状の波紋だったが、ここに着いてみると、少し形が変わっている。
三人は無言のまま先へ進んだ。
「で、あれはなんだと思うかね?」
渡り廊下を進みきった途端、ディエゴが急くように尋ねかけた。
「あれこそが、我々の捜し求めているものではないかと思うのだ。つまり、魔界への入り口だ。」
パパスが答えた。ふだん城で話しているような口調だった。
「あんな足懸かりもないところに浮いているのでは、入りようはないな。」
「そう決め付けるのは早計ではなかろうか。今渡ってきた渡り廊下のようなからくりも、この塔には存在している。
何らかの手段で、あの波紋へ踏み込むことができるのだと、私は思っている。」
「前向きな考え方だな。パパス殿、そなたのそういうところが、私は好きだ。」
三人は、話しながら、再び塔の中へ入った。
中は、この塔であれば幾らでもありふれているような、石造りの壁に、石の天井と床の小部屋であった。
「そろそろ魔物が現れてきてくれてもいいはずだが・・・。」
ディエゴがどことなく不満げに言った。捕らわれておきながら、まだ魔物と戦い足りないのか、とサンチョは思った。
もっとも、こういう性格だからこそ、ディエゴが冒険者であり続けている理由も明らかなのだ。
闘うのが好きだから。つねに進取の気勢を持っているから。
部屋のやや奥手には、階段があった。険しいきざはしが、天井へとしめやかに延びていた。
「あとどれほどの部屋を通過すれば、魔界のとば口に立てるのか・・・だが、もう近いということだけは確実だ。」
パパスは、そう言って、階段に足をかけて登り始めた。
毎日楽しみにしてます
お疲れです!
パパスの後ろにサンチョが続いた。サンチョの後ろから登ってくるのは、もちろんディエゴだった。
ディエゴの目は、ちょうどサンチョの尻のあたりに来ていた。ディエゴはそのまま見ていたが、
やがてサンチョに声を掛けた。
「サンチョ殿、随分とズボンの尻が擦り切れているなあ?」
「へ?いや、はっ、あの、それは・・・それは・・・」
まったく予想外のことを唐突に指摘されて、赤くなりうろたえるサンチョ。
ズボンの尻が擦れているのは、竜の頭を昇り降りしていたとき、尻滑りを多用していたためだった。
まあ、いいや。ディエゴさんに見られているのなら、まだ我慢もできる。
「や、や!?」
階段を登りきって、床から顔を突き出したパパスが、頓狂な声で叫んだ。
パパスが見ているものがどのようにパパスを驚かせたのか・・・サンチョは漠然と恐れた。
パパス様が、突然叫びだすことは、これまでの経験からしても、そうそうないことである。
叫ぶだけでは物事は何も進捗しない、ということを理解しているパパスは、床の穴を出て、
上の部屋をこまかく見て回り始めた。
すぐ後ろに続いて上ってきたサンチョも、パパスが見て驚いたものがどのような代物であるか、
瞬時に理解した。そして納得し、同時に唖然とした。
そこは、部屋というべきものかどうか、いささか判断に迷う場所であった。
上にはさわやかに青い空が広がっている。周りは八角形の石造りの壁が取り囲んでいる。
足元には床があった。だが、床が床として存在しているのは、部屋の中央部だけだった。
壁際は、床ではなく、ぐるりと貯水池がめぐらされていた。
いわば、三人は、井戸の底に立っているようなものであった。
そして、周りの壁は、はるか上空までそびえていて、空でも飛ばないかぎりはここから出られそうにはなかった。
「まいったな、こいつは。」
パパスが歌を口ずさむように言った。その言葉の意味深長さを、サンチョは汲み取った。
今の「まいったな」は、ここから出られないことに対する文句ではないのだ。
「パパス様、困りごとがあるのなら、いつでもこのサンチョにご相談を。」
こんな状況下でパパス様が自分に協力を求めてくることなどないことくらい
百も承知の上で、サンチョはパパスにこう告げた。
「ん?そうか。だが、それには及ばんよ。」
やっぱり予想通りか、と、サンチョは、知らず知らずのうちに肩に入っていた気合を抜いた。
「向こうの壁を見たまえ。サンチョ、それにディエゴ殿もだ。」
二人はパパスの言葉に従い、パパスの指さすほうを眺めた。
パパスの人差し指は、自分たちの正面からいくらか左に曲がったところを指し示している。
当然そこには、この井戸のような部屋の壁があった。
だが、パパス様がそんな分かりきった事を知らせるために、わざわざ人を呼び付けたりしないことは、
永年のあいだ寝食や苦楽をともにしてきたサンチョには、考えるまでもなく理解済みのことだった。
サンチョは、パパスの指の先方にある壁をじっくりと見つめた。
壁の石が、浮いているようにも、ずれているようにも、ぶれているようにも見えた。
「なるほど・・・」サンチョは、パパスが示したほうへと歩いていった。
進むにつれ、壁の石が、壁から浮き彫り状になっているさまが、ますますくっきりと目立ってきた。
そして、水べりに立ったとき、サンチョにははっきりと見て取れた。
階段だ。八角形の筒型の壁の内側にへばりつくように、螺旋階段が上へ上へと伸びている。
空まで届くかのように思えるほど長い階段は、緩やかな渦を描いて、動かぬ旋風のようであった。
「出られないはずはないと思ったのだよ。やはり観察がものを言うのだな。」
いつの間にかサンチョの後ろに来ていたパパスが、落ち着いた口調で言った。
「そして、問題は、ここの水をどう渡るかだ。浅くはなさそうだが・・・。」
パパスは、サンチョの背嚢の脇に束ねられていたロープを外し、ほどくと、端に剣の鞘を結わえ付けて、
それをおもむろに水の中へと沈めはじめた。
鞘は、気泡を七つ八つと発しながら、静かに水の中へと潜っていった。
やがて、深いところで鞘が底にぶつかる手ごたえを感じたパパスは、ロープをそろそろと引き上げた。
ロープがすっかり手元へ手繰り寄せられると、パパスは、前腕を物差しにして、
どれほどの長さのロープが水に浸かって濡れたのかを測り始めた。
「どうやら、七尺はありそうだ。この深さで足が付く者などいないだろう。」
続いて、パパスは、向こうの壁際、階段の登り口が刻まれているところを目掛け、
ロープに結わえられたままの剣の鞘を投げた。鞘は階段の一番下の段に、斜めに引っかかるようにして落ちた。
パパスはロープをゆっくりと引き、弛みが生じないようにすると、ロープのもっとも水際寄りのところを足で踏み、
いま向こう側へ投げ飛ばした鞘のついたロープを手繰り寄せ始めた。
鞘は水にちゃぽんと落ち、そのまま揺らめくように沈んだが、
しばらくすると、パパスの手繰るロープに引かれ、無事に持ち主の手元へ帰ってきた。
「ちょっと待ってくれ、この長さは・・・いや、これだけの幅を飛び越せというのは、とてもじゃないが無理だ。」
半分破れかぶれのような声で叫んだのは、ディエゴだった。
剣の鞘から、パパスが踏んだ箇所までの長さは、どう短く見積もっても三尋はあった。
これでは、サンチョは無論のこと、パパスやディエゴにも飛び越せる距離ではなかった。
「歩いて渡るも駄目、跳んで渡るも無理、となると、残りは泳いで渡ることしかないな。」
パパスは忌々しそうに言った。水は、泳ぎたくなるような色と透明度からは、程遠い姿を呈していた。
暗く青緑色がかった水底は、普段は光など届かないのであろう、先ほどパパスが投げ入れた鞘とロープでかき回されて、
鉛色の滓がゆらゆらと盛り上がるように浮き上がっていた。
魔物の住む塔とはいえ、こんな水では魔物も足を踏み入れようとは思わないはずだった。
「・・・なにか、いるぞ。目には見えないが。」
にわかにディエゴが声を発した。その声色は警告じみていた。
「ゆうべのあの者か?」パパスはすばやく、口早に聞き返した。
「おそらく。いるだろう、そこに!」
パパスはその姿を感じたと思った。サンチョもその存在だけは認識した。
その者の姿は、肉眼では捉えることができなかったのだ。
はるか上、この井戸側のような姿をした部屋の縁あたりに、その存在が感じられた。
それは白くもなく、黒くもなかった。色などとは無縁の存在だった。
目を向けると、明るい日の光の中においてさえ、眼球が押しひしがれて盲目になったような圧迫を感じるのであった。
「あの者は・・・あそこにたたずんで、俺たちを眺めているのか?」
ディエゴが冷ややかに口走った。パパスは、その言葉に、計りしれない恐れが含有されているのを感じた。
ゆうべ、星星しか輝かぬあの闇の空の下で、三人に襲い掛かってきたのと同じ雰囲気を放つものが、
確かに上空に浮いていた。いや、腰掛けていたのかもしれない。どちらでもよいことであった。
パパスには、あの謎の存在が、もしかするとマーサの行方を知る鍵を握っているのではないかと思えていた。
あの不気味な存在のそばへ行かなければならない。
そのためには、この水を渡らなければならない。
だが、ここを渡る手段は、すべて否定されたも同様なのであった。
不意にディエゴが言った。
「ちょっと下へ降りるぞ。」
そう言った時には、すでに、ディエゴの頭は、階段の穴へと消えうせていた。
「う〜ん・・・ディエゴさんも、どうしたんでしょうか。」
サンチョは全く取り乱していた。上空の存在はひたすら恐ろしかった。マーサの運命は不安であった。
目の前の水が渡れないということは、ただひたすら嫌悪感を催すのみだった。
サンチョは、自分が取り乱していることをはっきりと認知していたので、
自分がいま立っているその場から動かないよう、足を踏ん張っていた。
不意に、何かがさっきまでとは違っていることに、パパスもサンチョも気が付いた。
「水面を・・・壁際の水面を、見たまえ。」
パパスは、か細くはあるが、妙にうわずった声で、サンチョに注意を促した。
水面に沿った壁の表面に、濡れたように黒光りする筋が生まれていた。
見ていると、その筋は、次第に幅を広げていくのであった。
理由を察することができず、ただ顔を見合わせているパパスとサンチョの耳に、
ディエゴの声が飛び込んできた。
「ふう・・・これで、たぶん、渡れるようになるはずだ。」
パパスは黒々とした眉を跳ね上げて、ディエゴのほうを向くと言った。
「それでは、ディエゴ殿が、この水のからくりに何か手を加えて、池を干上がらせているという次第かね?」
「その通りだ。」
パパスの問いは単刀直入であり、ディエゴの回答もさらりとしたものだった。
「下の部屋の、階段の陰に、梃子のようなものがあったのだ。
おそらくこの水溜りと関係しているのではないかと思って、動かしてきてみたのだが、予想通りだったな。」
水が引いていくのを見ていた三人の耳に、びちゃびちゃ、ばちゃばちゃという音が入ってきた。
雨樋から水がぶちまけられるような音だ。それも、すぐ下の階から聞こえてくる。
音につられて、下の階を覗いてみたサンチョは、びっくりしてそのままじっと眺めてしまった。
下のフロアの床一面に、水がたまっている。出入り口があるから、そこから流れ出てもいいはずなのに、
水はよどんだまま、一向に流れ出る気配はない。上から落ちてくる水のせいで白く泡立っているだけだ。
「うん、こいつは・・・」
ディエゴがサンチョの隣から覗き込んだ。パパスがその間に割り込むようにかがみ込んだ。
「出入り口が閉じてしまったというわけか。ここからは出ることができないのか・・・?」
パパスはつぶやいた。その声は、サンチョには寂しげに聞こえた。
いまや、三人のすることは、水が引けていくのをただじっと黙って見ていることだけだった。
上の不気味な存在は、わずかに空間をゆらめかしながら、いまだその場に佇んでいるようだった。
その存在から漂ってくる魔物の気配が、サンチョをぞっと震わせた。
サンチョは、上を見ようなどという気は、爪の垢ほども起こらなかった。
だが、パパスはちらりと上を見上げた。その存在を認識したようであった。
素早く顔を下げ、何も見なかったような振りをしたのを、サンチョは見逃さなかった。
『あの存在を見ると、目が失われたような感覚に陥る、とか、ディエゴさんが話していた・・・。』
それをわざわざ見るとは。パパス様は焦りか不安を感じているに違いない。
あの存在が、マーサ様がさらわれたことと何か関連性があるのではないか、とお考えなのだろうか。
「パパス様、あれをご覧になったようですが・・・」ついにサンチョは尋ねてしまった。
「ああ。あれはマーサのことを知っているはずだ、と、わたしは睨んでいる。」
サンチョが予想していたよりも、パパスはすんなりと答えてくれた。
気が付くと、池の水はだいたい引けて、あとには泥のような残渣がてらてらと光ってこびり付いているだけとなっていた。
「まずは、この堀の中に降りるんだな・・・いや、もしかして、そこにあるのは、階段ではないか?」
いきなりディエゴが叫んだ。三人が立っている台座から池の中へと下りるための階段があったのだ。
今まで水の中に潜っていたが、その水を抜いてしまったので、階段が現れたのだ。
「それならここを降りていくべきだ。」
パパスは駆け出した。ディエゴを追い越し、二十段近い階段を、飛ばすように駆け降りた。
まだ濡れている踏み面で、足を滑らせて転ばなかったのが不思議なくらいの素早さだった。
あっという間に、パパスは池の反対側にある登り階段の上がり口に足を掛けていた。
サンチョとディエゴが、まだ台座から降り始めてもいないときだった。
「パパス様、パパス様!お気がせくのもわかりますが、そんなに急いでは、階段から落ちてお怪我をなさいますよ!」
サンチョは慌てて叫んだ。
「いや、心配することはない。それとも、ここでお前たちを待っていようか。」
パパスはサンチョに叫び返した。片足を一段上の段に乗せたまま、その場に立ち止まった。
サンチョとディエゴは、階段を足早に降り、堀の中へと入った。蒸発する水分のために蒸し暑かった。
匂いは無かった。このような干上がった池や掘割では、たいてい不快な泥臭いにおいがするものだが。
音も無く、風も吹かない、この魔物の塔では、匂いすら存在を許されなかったのだ。
自分たちの体臭だけが唯一の匂いであった。
サンチョとディエゴは、パパスの背後に着いた。
「ついたか。では、登ろう。」
パパスは足早に登り始めた。その後にサンチョ、後ろにディエゴが続いた。
下から見上げるに、階段は果てしなくぐるぐると渦巻いているように思えた。無論その頂上はあるはずなのだが。
『パパス様、あまり焦って登りますと、滑って落ちるとまではいかなくとも、疲れて上まで行けなくなりますよ。』
サンチョは忠告しようとしたが、パパスが既に十段ほど先へ進んでしまっていることと、
たとえ言っても従ってはくださらないだろう、という認識があったのとで、伝えるのはやめにした。
すぐ上のスレはスレタイトルを間違えてしまったようだ。もちろん、No.233チョです。
じゃあ続き。
八角形のがらんどうの塔の内壁を飾るように、時計回りの螺旋状に登っていく階段。
三人の男は、巨大な筒の内側を、ゆっくりと回っていた。
回りながら、しだいしだいに空へと近づいていく自分たちを意識せざるを得なかった。
この階段は果てしなく続いている。だが、必ず終わりの段をいつか踏むことになるのだ。
そのとき、自分たちの前に、どのような事件が繰り広げられるのか、誰にも分からない。
階段の幅は、上へ行くにしたがって、わずかずつ広がっていくようだった。
サンチョは、自分の腕を伸ばし、階段の踏み面の両端までの幅を測ることで、それが正しい認識であることを確信した。
パパスは階段から右を覗いてみた。はるか下の床が見えた。水の干上がった池が、ケーキのように見えた。
パパスはびくりと身を震わせて、再び正面へと視線を移した。
ディエゴは、次第に近づいてくる青空に目をやった。一ヶ月ぶりで望む、真昼の空だった。
青空の中には、奇妙な波紋に似た揺らぎが浮いていた。魔界への出入り口だろう、と、パパスは考えていた。
あの向こうへ・・・あの向こうへ行けば、碧玉の髪の妻を、この手に抱くことができるのだ。
この苦労も、あとほんのしばらくの辛抱で報われよう。
期待を胸にしまい、パパスは、階段を慎重に踏みしめつつ登っていった。
自分たちは、天国へ向かっているのか・・・あるいは奈落へ向かっているのか。
奈落は空のかなたにあるものなのか。サンチョは、へんてこりんな想像をめぐらせた。
不気味な不可視の存在は、まだ上にいるようだった。そこに腰掛けて、三人を待っているようでもあった。
サンチョは、突然、不思議な音を聞いた。聞いたことのある音であった。
どこで耳にしたものか、サンチョには、たちどころに思い出せた。
ゆうべ、怪しい存在が三人に襲いかかった直後に聞いたものと、同じ音なのだ。
『まるで石でできた縦笛を吹いているような音だ』・・・サンチョは思った。それは決して不愉快なものではなかった。
むしろ、自分の緊張しきって疲れかけた魂に、一片の潤いをもたらしてくれるような、そんな気さえした。
やがてサンチョは気が付いた。自分たち三人は、ほとんど塔のてっぺんまで登りきってしまっているのだ。
あとは、パパス様に従って、あの魔界への戸口とおぼしき空中の波紋へと飛び込むだけだ。
いや、実際にそれだけで済むのだろうか・・・いいや、それだけで済むものか。
波紋の手前には、あの薄気味の悪い、視力を奪う謎の存在が立ちはだかっている。
それと、どんな形になるかは予想も付かないが、決着を着けなければならないのだ。
サンチョの頭では、パパス様も、ディエゴさんも、自分と同じ案を懸念しているだろうという考えだった。
そして実際、パパスも、ディエゴも、その脳のうちでは、あの謎めいた存在と、戦うなり論議するなりして、
自分たちを通してもらう必要があることは、十分すぎるほど考えていたのだった。
足下の階段が無くなった。替わりに現れたのは、階段と同じ幅の廊下だった。
それは、その左側に、サンチョの胸くらいまでの高さの壁を伴って、塔の内壁にくっついて伸びていた。
目で先を追ってみると、途中でぷつりと切れていた。廊下が切れたところで、塔の壁も切れていた。
「どうやら、あそこの壁の切れ目から、この塔の外側に出られるようですが・・・」
サンチョはつぶやいた。階段を登り始めてから初めて口にした言葉だった。
「あの先に、マーサへの道があるのだろうか。そう望むばかりだが。」
パパスは言った。低くこもった声だったが、それでもサンチョには聞き取れた。
「私は、なにはともあれ、魔物どもをびしびしと叩きのめして、この剣の錆にしてやりたいものだ。」
ディエゴは落ち着き払った声で言った。それが、心を落ち着けるための演技に過ぎないのか、
それとも本心から出た、明鏡止水の志を映し出したものなのか、サンチョには判然としなかった。
廊下の脇を走る壁は、胸ほどの高さしかなかったので、三人には、遠くの景色をよく眺めることができた。
空は相変わらず一片の雲も無いまま青く晴れ渡り、かなたには漆のように黒い森が地平線を飾っていた。
初めてこの塔を訪れたときと同じだな、とサンチョは思った。
俺が最初にこの塔に来たときと何も変わっていないな、と、ディエゴも思っていた。
およそ、魔物たちよりも、なんらの変遷をも見せないこの塔とその周りの景色こそが異常な物であり、
恐れ憚られるべき代物であるはずなのだが、サンチョも、ディエゴも、逆にこの景色を見て、
心の安堵を深く感じているのであった。
パパスは、そんな二人に対し、どういうわけか良心のやましさを感じていた。
自分には全く責任など無いのに、サンチョとディエゴが塔からの風景に心癒されるのを見て、
この風景で安堵するのは間違いだ、この景色は現実味のない狂った景色なのだ、と
諭してやるべきか否か悩んでいたのだ。
そして諭そうとしたのだが、二人の和んだ表情を見ると、とても切り出せるような雰囲気ではないことを悟り、
結局言い出せずにしまっていたのだ。
だが、もう風景に見とれるのも、悩み事を抱えておくのも終わりだ。
三人は、あと二歩も歩けば、塔の壁の切れ目に出るところまで来ていた。
パパスは壁の上から、廊下の先がどうなっているのかを見た。
自分たちが立っている廊下は、塔の外へ出ると、そのまま空中を渡る橋となって、もう一方の塔へと延びていた。
そして、くだんの波紋は、ちょうどその橋梁の中央の上空、人の背よりもいくぶん高いところにうごめいていた。
「この橋を、半分だけ渡って、あとは跳び上がれば・・・それでもう、簡単に魔界へ入れるのか。」
パパスはしばらく佇んで、宙に架けられた橋と、その上の揺らめく空間とを眺めていた。
パパスの額は磨いた銅のように輝いていた。サンチョの背中は汗でぐっしょりと濡れていた。
ディエゴは黙って髭を整えていた。
「では、進もう。」
パパスは身を翻すと、橋の上に一歩大きく足を出し、そのまま大股で歩き始めた。
サンチョはやじろべえが揺れるように、よたよたとその後を駆けた。落ちるかもしれない、ということは気にならなかった。
ディエゴがサンチョに続いて足を橋に乗せた。とたんに大音響が響いた。
橋が落ちたのか、と、ディエゴは反射的に足を引き、そしてパパスとサンチョの身を案じて青ざめた。
だが、その音は、橋が崩れた音などではなかった。それは大きな銅鑼声だった。
「おまえたち、ようやくここまで辿りついたのだな!!!」
新スレ立ったら落ちそうなので回避
>>510さん、回避ありがとうございます。
ところでこのスレ、もうじき容量がいっぱいになりそうな気がするんですが・・・大丈夫かな。
辺りの空気が揺れるほどの大声だった。やっと生きている物に出会えた、と、サンチョは胸を撫で下ろした。
しかし、そう感じたのもつかの間、たちまち安堵はおののきへと豹変した。
声の持ち主は、恐るべきモンスターであることを、やっと理解したからであった。
そのモンスターは、向こう側の塔から、橋を踏み破らんばかりの凄まじい足並みでこちらへと向かってきた。
薄紫がかった顔色、太い首、とがった大きな牙。まなざしは、見るものを射破るように鋭い。
背丈はサンチョほどだが、肩幅は逞しく広く、ディエゴよりも力強く思えた。
身にまとった鎧が、ゴツゴツと低い音を立ててぶつかり合い、鳴っていた。
モンスターは三人の並ぶ真ん前までやって来た。息を深深と吸い込むと、荒々しくしゃべりだした。
「お前たちがこの塔を登っている様子は、逐一見ていたぞ。なんて遅い奴らだ。
まあ、お前たちをここまで来させる気はなかったのだが、来てしまったものは仕方がない。
下働きのモンスターのやつばらにお前たちを阻むだけの力がないのなら、
俺達の腕でじきじきにとどめてやるしかないからな。
というわけで、俺たちは、ここでいっちょう、お前たちと遊んでやろうかと思って待っていたのだ。」
『俺達・・・?』サンチョはその意味するところを素直にとった。
つまり、この猛々しいモンスターのほかにも、まだモンスターが、それもおそらくは、このモンスターのように
粗暴なモンスターがいる、ということだ。
パパスも、ディエゴも、その意をはっきりと汲み取っていた。
パパスは、モンスターが言葉を途切らせたわずかな隙にねじ入った。
「そうか、ずっと見ていたとは、さすがなものだな。
ところで、そなた・・・いや、名はなんと言うのか知らぬが、ここでどんな遊びをしようというのか、我々と?」
猛々しいモンスターとはいえ、多少のおだてはやはり嬉しいものだったようだ。
「俺の名はゴンズという。覚えておけ。もっとも、どのくらい覚えていられるか、俺は知らないがな。」
自分達の命を奪うことも辞さないのだということを見てとり、サンチョは全身の血が失せる思いだった。
毎回毎回グッジョブです
>容量一杯
そうしたら次スレ立てて地下スレでマターリ逝けばいいんじゃないかな
別に板違いってことは無いだろうし
>>512さん、それもそうですね。
ちなみに今スレの重さを測ってみたところ、458KBありました。
さらにゴンズは続けた。今度は三人ではなく、別の誰かに向かって。
「出でよ、ジャミ!幾年かぶりに人間の血が味わえるぞ!」
突如ディエゴは、自分の後ろに何かまがまがしい魔の気を持つものが姿を現したのを感じ取った。
躊躇することなく身を翻した戦士の目には、自分の背丈をも上回らんかというほどの大柄な魔物が立ちはだかっていた。
見たところ、馬の姿に酷似している。だが、二本足で立っている以上、馬ではないということは、
誰の目にも明らかなことであり、無論ディエゴにも、そんな事はじゅうぶん分かりきっていた。
「お前は、ケンタウロスか。」
ディエゴは鼻で笑いとばすように言った。実のところ、からかっているつもりだったのだ。
「フン!」
ジャミと呼ばれたモンスターは、荒々しい鼻息を噴き出した。なまぐさい臭いに、三人の男たちは顔を覆った。
「オレをあのような下っ端どもと十把一絡げにしてもらっては迷惑千万。
それを知らないのなら、いますぐこの場で分かってもらおうではないか!」
ジャミの腕は、風のように素早かった。いや、そのような比喩が陳腐に響くほどに迅速に動いた。
何がなんだか誰も分かっていないうちに、ディエゴの体は二つ折りになり、
後ろに立っていたサンチョの腹へと吹き飛ばされた。二人はドミノの牌のように重なって倒れた。
「あっっ・・・」
ディエゴは、余りに激しく腹を殴られたために、声すら出なくなっていた。
その下敷きになったサンチョは、慌てて起き上がろうともがいたが、上のディエゴの体重と、背中の背嚢がかさばるのとで、
まるで亀を裏返したようにじたばたするのが関の山だった。
「サンチョ!ディエゴ殿!手を貸そう。」
パパスはディエゴの肩をつかみ、サンチョの体から引き下ろした。
うずくまったままのディエゴはそのまま安静にしておいて、パパスはサンチョの手をとると、
ちょうど妻のマーサに常々していたのと同じように、たおやかに引いて立ち上がらせた。
はたでじっと眺めていたゴンズが、面白そうに怒鳴った。
「ふうむ、まだ俺たちと、ひと遊び続けるつもりだな?
いいだろう。俺たちも、ちょうど人間の血が入り用だったんだ。わけを知りたいか?」
まだまだ行ける
お疲れ様です
>>513はNo.238になるはずだから・・・このストーリー番号は239でいいはず。
サンチョは橋の幅の中央あたりに立って、周囲を見渡した。
橋の幅は、人間三人が肩を寄せ合って、やっと並んでいられるくらいの幅だ。手すりや柵は施されていない。
足を踏み外したら一巻の終わりだな──そう思った途端、全身に震えが走り、脚が萎えるように感じられた。
遠くに森の陰があったが、そんなものを眺める余裕はなかった。サンチョは足元の石を見ていた。
自分の怯えは、高みに立っていることから来る不安と、前後をモンスターに挟まれた恐怖との両方によるものだった。
パパスはゴンズと差し向かいに立っていた。塔のようにすっくと背を伸ばし、相手のぎらつく瞳を見つめていた。
「血が欲しいだと?人間のむくろを弄ぼうとは、なんと不届きな!
やはりモンスターとは、人間を粗雑に扱うことにかけては、いかなる人間をも上回るものとみえるな。」
ゴンズはうそぶくように口を半ばすぼめた。牙が荒々しくむき出して、銀色に輝いた。
「誰が、お前らを殺すなどといったか?人間とは、早合点をすることにかけては、
どんなモンスターもついて行けないほどの実力を発揮できるものなのだな。
俺は、『血が欲しい』と言ったまでだ。人間は、意外としぶとい生き物だから、
血がどくどくと流れ出していても、簡単には死なないだろう?」
自分の後ろでディエゴが振り返った気配を、サンチョは耳に感じ取った。
どうやディエゴさんは、わなないているようだ。このゴンズとかいうモンスターが話しているせいだろうか?
パパスは剣を水平に持ち上げると、ゴンズの平べったい鼻面に突きつけた。
「人間は、血が多少流れ出したくらいで死ぬことは、滅多にない。それは貴様の言うとおりだ。
だが、むやみに血を奪いたがるモンスターなど、生かしておくわけにはいかないぞ。
いつ全身の血を抜き取られて、命までも奪われる羽目にならないとも限らないからな。」
ゴンズはのどの奥で低くうなるような声を上げた。サンチョはおびえて身を引いた。背嚢が後ろのディエゴにぶつかった。
だが、ゴンズは身じろぎもしなかった。どうやら、今のうなり声は、人間で言うところの笑い声だったらしい。
ゴンズには、今のところ、三人に危害を加える意図はなさそうだった。
『私たちが袋のネズミになっていて、逃げ出すことが不可能ということが分かっているから、
たっぷり弄んで、その後で襲いかかるつもりだろうか。』
サンチョには、モンスターたちの考え方はいっこうに読み取れなかった。
剣を突きつけても平然と笑っているゴンズを、パパスも驚いたふうに見つめていた。
ディエゴもゴンズを見つめていた。その後ろでは、ジャミが生臭い鼻息を荒々しく吐きながら、
三人を通さじと橋の幅いっぱいに立ちふさがっていた。
誰もディエゴの顔を見ていなかった。それを知ってか知らずか、ディエゴは口髭を噛んでいた。
口の中に入るほどに伸びた髭は、ディエゴの血迷った独り言を口の中に隠匿しておくのにも好都合だった。
ディエゴは何か言っていた。だが、サンチョの耳にも、ジャミの耳にも、その言葉は入らなかった。
「いやあ、俺たちは血など必要としていないさ。・・・なあ、ジャミ?」
ゴンズが、ジャミに呼びかけた。その声は割れ鐘のようにとよみわたった。
「そうだ、確かに、オレたちにとってはべつだん必要なものじゃあない。
だがな・・・魔界にとっては、重要なんだな、これが。」
「ま、魔界にとって・・・それは、マーサを連れ去ったのも、血を奪うためなのか・・・?!」
パパスは息を呑んだ。顔は突然ライラック色を帯び、憮然とした口元がそこに浮かんでいた。
「マーサ?・・・マーサ・・・誰だそいつは?」
ゴンズはせせら笑うように言った。
・・・『モンスターの世界には、嘘や裏切りは存在しない』・・・
サンチョの脳裏に、ゆうべパパスが言った言葉が、ふっと花開いた。
「マーサ、か。知らないな。それはオレたちのあずかり知るところじゃあない。」
ジャミがけたたましく喚いた。ジャミとしてはごく普段どおりに話しているつもりだったらしいが、
サンチョには、馬のいななきに似た喚き声としか受け取れなかった。
「そのマーサとか言う人間は、おおかた魔王様がじきじきにさらって行ったのかもな。
それなら、オレたちが、その人間について何も聞いていないことも説明がつくさ。」
五人の頭上では、相変わらず青い波紋が揺らめいていた。
「どこか人間どもが集まって暮らしているところに出かけて、何人か引っさらってくるのもいいが、
なんたって町や村には戦士というやつがいるから、危ないんだな。」
ゴンズは言うと、瞼をちらりと上げて、パパスのはるか後ろを見やった。
パパスがつられて見たその視線の先には、ディエゴの角ばった土気色の顔があった。
「そうこうしているうちに、お前たち三人が舞い込んで来てくれたというわけだ。ありがたい話だよなあ、え、ジャミよ?」
ジャミは受けて答えた。
「おうともよ。だが、こんなところに来てくれる人間などは、そんなにゃあいやしない。
だから、次の人間が来るまで、お前らの体の血を、ちまちま使わせてもらうよりほかないのよ。
・・・おかしらを人間界に君臨させてやるためにはな!!」
「おい、ジャミ、そいつを言っちまうのは、すこし時期尚早に過ぎないか?」
「いいんだよ、ゴンズ。そのうち教えてやるんだから。」
言葉が物理的な大きさと重量を持っていたなら、パパスもサンチョもディエゴも、
この二頭のモンスターの会話によって十回くらいは突き倒されていたことであろう。
「そのおかしらとは、何者なのだ?」パパスがゴンズに詰め寄るように言った。
どうにもパパス様らしくない言葉振りだ、とサンチョは思った。単刀直入に過ぎる。
「・・・ふん、お前たちに知らせるだけ無駄なことだろうさ。」
ゴンズは鼻息も荒々しく響かせつつ、にやりと笑って答えた。
「だがな、お前たちが、元通りにおとなしく血を出して、俺たちに分けてくれるというのなら、教えてやっても構わん。
どうせ、おかしらが姿を現すようになれば、お前たちの命など要りようじゃあなくなるんだし。」
サンチョは立っているのがやっとだった。そのことに自分自身が気付いていることが、不思議に思えていた。
あたりの景色はサンチョの角膜の上で揺れていた。この魔物の塔そのものが独楽のように自転しているようだった。
よろけたサンチョは、後ろのディエゴに背中の背嚢をぶつけた。
「す、すみません・・・」反射的にサンチョの口から言葉が飛び出した。
「いいや・・・」ディエゴの答えが返ってきた。まるで日差しの中の薄氷のように、か細く消えていくような声だった。
その声に不穏なものを感じ取り、サンチョはわずかに残っていた威勢をふるって振り向いた。
ディエゴの顔は青ざめていた。剣を握った右手が白茶けていて、ぶるぶると震えていた。
目線は、誰のほうも向いていなかった。
ゴンズも、ジャミも、パパスも、そしてサンチョも、ディエゴの視野には入っていないようだった。
かなたに広がる青い空を見ているようだ、とサンチョは思った。そしてディエゴの異様な振る舞いに懸念を抱いた。
「俺は・・・血を採られたくなかったんだ・・・」
突然ディエゴが言い出した。それは、この状況では、拍子抜けするような内容であった。
「そうだとも。この男が、人間についての細かな話を、いろいろと語ってくれたものだよ。」
ジャミがけたたましく話し出した。息をふいごのように吸い込んだジャミの胸は、
ディエゴを押し潰そうとするかのように大きく膨れて見えた。
「人間はモンスターではない。現実とはあべこべのことを話すことができるのだ。
ディエゴ殿がお前たちに語ったことが、どれだけ事実と合致しているのか、知れたものではなかろう?」
パパスは、ジャミのほうを振り向きざまに、大音声で述べたてた。
だが、ジャミやゴンズには、パパスの言葉など、虫けらの悲鳴にも値しなかったようだ。
パパスの視線が自分から逸れたのを見たゴンズは、手にした剣を両手で握りなおすと、
それでパパスの背中をしたたかに殴りつけた。
「ごぶっ・・・!」
パパスはつんのめって膝をついた。口からは泡が吹き飛んだ。
「パ、パパス様!」
サンチョは慌てて屈みこみ、パパスの肩をさすった。
パパスの素肌もあらわな背中には、早くも黒々とした幅広の打ち身が、ひと筋浮き上がり始めていた。
ゴンズは剣を収めると、先ほどと比べればかなり鎮まった声音で語りだした。
「そうだ、俺たち魔物にしたところで、血を採られるのは嬉しかろうはずがない。痛いし、すぐ死んじまうものな。
だから、俺たちは、お前たちにお情けをかけてやって、体を傷つけないようにお手柔らかに扱ってやったものさ。
お前たちの皮膚を破って、真っ赤な血をこぼしてもらうのはよして、その代わりと言っちゃなんだが、
血と同じように人間の精髄を集めたものを貰い受けてやることにしたものだ。
しかも、それを採られるということは、この男の言うことによれば、なんだか至極嬉しいことだそうじゃあないか。
それとも、こいつの語ったことは、みな実際とはうらはらだと言うのかね。」
パパスはディエゴの顔を深刻に見つめた。二人のあいだで交わされる視線が、サンチョに重く突き刺さっていた。
「ディエゴ殿、何をこのモンスターどもに話したというのかね?
我々には話せないことなのか?モンスターに話せた事が、同じ人間に話せぬはずはなかろう。」
サンチョは自分の丸々としたお腹を重く感じた。
こんなときに、どうして自分の腹などが気になりだすものなのか、自分のことながらまるで理解しがたかった。
ディエゴは、口を開こうか、開くまいかと、瀬戸際で煮詰まっているようであった。
口髭の裏側の唇が、わなわなと震えているのが、そこにいたほかの二人と二頭にも明らかに読めた。
わずかに続いた寡黙を破るように、ディエゴは叫んだ。サンチョのまなこを見据えて口走った。
「サンチョ殿!私を・・・
私の顔を、殴ってくれ!すぐに!」
サンチョは腰を抜かした。腰を抜かしたと自分では感じた。
だがサンチョは、自分の二本の足をしっかりと橋に踏ん張って立っていた。
まるで背骨が崩れていくかのような驚きをなめたサンチョの後ろでは、パパスが金切り声まがいに喚いていた。
「ばかな!人の顔を殴るだなど、そんなことが安易にできるものかね?
ことにサンチョには不可能なことだ!人に手など振りかざしたことは無いのだからな。」
パパスは思わぬところから助け舟を漕いで来てくれたものだ。
サンチョは半ば気が緩んで、意識が遠のいていくようであったが、無理やり気を奮い立てて背を起こした。
「ふふん、できないというのであれば、それでもよかろう。」
ジャミが横槍を入れた。
「なんなら、かわりに、このオレさまが殴ってやってもよいのだがな。
目玉の一つくらい潰れてしまうぞ?それでもいいのなら、殴らせてもらう。」
そこへゴンズが笑いのめすようにまくし立てた。
「ぐあっはっはっは!人間と魔物とが、こんなに親しく付き合っているとはな。
人間の言うことを聞いてやって、容赦なくぶちのめしてもよいとは。こいつは前代未聞だ。
そうか、俺が殴ってやってもよいのだぞ、この俺の鉄の拳で。
歯の十本や二十本、折れて使い物にならなくなってもよいというのならな。」
ディエゴはただ立っていた。脚は、しっかりと踏ん張っているために力んで太くなっていたが、
目はパパスを見、ゴンズを見、サンチョを見、ジャミを見して、定まることがなかった。
「よし、お前に選択権を授けよう。」ジャミが告げた。
「オレが殴るか、ゴンズ様に殴ってもらうか、どちらかだ。」
「いいや、自分で殴ろう。他人に頼るのがいかに当てにならないことか・・・。」
ディエゴは凄みのある声で即答した。ほとんど怒鳴りつけるような声であった。
この迫力にはジャミも驚いたらしく、鼻の穴をいららがせて、半歩ほど後ずさりした。
ゴンズも真ん丸く目を見開いていた。パパスには、その顔つきが滑稽なものに映った。
サンチョはいずれのモンスターの顔も見ていなかった。ディエゴの髭面に深いしわが寄るのを見ていた。
ディエゴは素早く右手を上げ、平手で自分の顔の中心をしたかに打ってのけた。
痛さをこらえるのに、顔が瞬間的にもみくちゃになり、閉じた瞼は二本の線になって顔に埋もれた。
ディエゴはそのまま手を離した。ひと呼吸置いて、ディエゴの鼻の穴からは、粘性を帯びた緋色のものが流れ出した。
「さあ、これを持っていけ・・・!」
ディエゴは、鼻血の流れるままの顔で、ジャミとゴンズのそれぞれと目を交わしつつ、ひそめるような声で叫んだ。
「な、なんと、きさま・・・。こんな単純な手段を、なぜ、今の今まで隠していたんだ!」
ゴンズは息巻いた。サンチョとパパスは、状況の背景にあるものがよく飲み込めず、呆けたように立ち尽くしていた。
「これで・・・これだけあれば、あのお方に姿を与えることができるぞ!」
ジャミが甲高く叫んだ。
「そうとも!よし、この人間を連れて行こう。いや、この場で集めてしまうか。血さえいただけれは、用済みだものな。
ここから突き落とそうが、里に帰っていこうが、俺たちには関係のないことだし。」
ゴンズも賛同するように、口を合わせた。
ディエゴは、鉄仮面を脱いで、腕に抱えていた。ジャミは、後ろから手を伸ばし、ディエゴの腕をねじると、
ディエゴがその痛みに耐えかねて喚き出したすきに、鉄仮面を奪い取った。
「あつつつつ・・・」顔の下半分と髭と鎧とを赤く染めつつ、ディエゴは呻いた。
「ほら、よ。貴様の兜だ。ここにその血を集めてくれるな?
もちろん、オレたちに、その鼻から出る真っ赤な血を、余さずよこしてくれるだろうな?」
ジャミは、ただでさえ横に広がった口を、さらに横に引いてにたにたと笑いながら、
ディエゴから巻き取った兜を逆さまにして、ディエゴの顎先に突きつけた。
『これに、鼻血を集めようというのか・・・。』
パパスには、この二頭のモンスターたちが血を集めたがっているわけが、わずかながら見えてきたような気がした。
どうやら、この二頭には、頭領のようなものがいるらしい。
そして、その頭領が人間世界に現れるために、なんらかの形で血を用いるものとみえる。
そうすると、ディエゴが抵抗もせずに血をだらだらと流しているのは、
人間界にその魔物の出現を許してしまう気でいる、ということになる。
モンスターに魂を売ったか・・・あるいは、自分らの力では彼らが人間界に進出することを阻めないと諦めて、
捨て鉢になってしまっているのか、そのいずれかであろう、とパパスは踏んだ。
「おいおい、もう血をよこしてくれないつもりなのか?」ゴンズが喚いた。
ディエゴの鼻血は、片手で掬えるくらいの量が流れ出した時点で、早くも止まってしまったようだ。
「しっかたないなあ・・・」
「やっぱり、人間から十分なだけの血を採るには、殺して全身から搾り取るほうが効率よさそうだな。」
ジャミとゴンズは、物騒な話し合いを始めたようだ。
「だが・・・三人ぶんの血では、足りまい。」
パパスが口走った。そのおぞましい内容に、サンチョは驚きのあまり、足を滑らせて橋から落ちそうになった。
「大丈夫かね、サンチョ?」
パパスが伸べてくれた手に掴まって立ったはよいが、サンチョの膝はまだがたがたと震えて定まらなかった。
「パパス様・・・どういうことをおっしゃったのか、お分かりで?」
「勿論だとも。だが、これは恐ろしいことではない。あわよくば助かるかもしれないのだ・・・。」
サンチョには、パパスの意図が図りかねた。
自分たち三人を殺して足りなければ、人間の多く住むところ──すなわち町や村里にモンスターたちは出かけていくだろう。
ここで食い止めなければ。
サンチョは、パパスに自分の思いを伝えんとして、目配せをした。
パパスはそれを読み取ったようだ。やはり二十年間、寝食を共にしているだけのことはある。
パパスは唇を開いて、サンチョに答えた。
「ここのモンスターたちは、人の住むところには近づけないだろう。
だからこそ、グランバニアの城も、北の教会の村も、これまで安全であり続けたのだから。」
それは確かにそうだ。だが、これからも変わらず安全という論拠にはつながりそうにもないと、サンチョには思えた。
「しかし、それは今までのことで、これからは・・・」
パパスは遮った。
「この二頭のモンスターを見るのだ、サンチョよ。どうかね、魔の気はどれほどあるかね?」
「魔の気ですか?それは、もう、ここに立っていても、冒されそうになるほど強く感じております。」
「さよう、魔の気の強いモンスターというものは、人がよってたかって醸し出すオーラには弱いものなのだ。
我々とこのモンスターがこうして差し向かいでいられるのは、我々がわずかに三人しかいないためだ。」
サンチョには、分かったような、分からないような話だ。
「おい、そこの丸い人間、それに腰巻の男!何をたばかっているんだ!?」
二人の話を叩き切ったのはゴンズだった。いつの間にか、剣を抜いて、二人に突きつけていた。
そして、そのとき、どこからともなく鼻歌のような音色が聞こえてきた。
それは、ゆうべも聞いた音色だった。そして、つい先ほど、長い螺旋階段を登りかけていたときにも耳にした音であった。
石笛を吹くような、口の欠けたふいごで風を起こしているような、そんな音だった。
ただ、今までと異なるのは、それが、耳元でじかに鳴っていると思えるほど間近で鳴っていたことだった。
どこで鳴っているのかは特定できなかった。まるで自分たちが笛の中に入って、そこで聞いてでもいるようだった。
謎めいた音にすっぽり包まれた三人と二頭。
人間たちは、顔を曇らせ、うろうろとあたりを見回すだけだった。
いっぽう、モンスターたちは、喜悦に似た表情すら浮かべ、すっかりくつろいだような様子になった。
「あのお方が・・・」
「早くこの血をくれと待っていらっしゃる・・・」
ジャミは血の入った兜を抱え、ゴンズは剣の切っ先をパパスとサンチョに向けたまま、
今までとはまったく雰囲気の異なる口調で話しだした。
「どうおっしゃっている?」
「いや、この量ではやはり足りないか・・・。」
「やはり殺すか。」
「替えが無いのにか?ここに人間はまず来ない。人間の住む領域へ行くことは、俺たちでは無理だし・・・」
「結局は、今までどおり、あの汁を搾るか・・・」
「そういや、こいつらの見張りにつけていた、オークキングどもはどうしたんだ?」
ジャミとゴンズは、唖然とした表情を浮かべ、顔を見合わせた。
今さらになってそんなことに気がついたのか・・・と、サンチョも、パパスも、ディエゴすら呆れて腰が砕けそうになった。
そして、不思議な笛の音と、二頭の会話に気を取られていたために、うっかり見落としそうになっていたのだが、
ジャミの手にしているディエゴの鉄仮面の中では、血が固まらないままに渦を巻いていた。
三人と二頭が、やっと気がついたとき、ディエゴの鉄仮面からは、赤い霞がもうもうと立ちのぼっていた。
そして笛のような音色がふたたび鳴り響きだした。徐々に大きく、深く、厚みのある音へと変わっていった。
やがて、それは人の歌う声に似たものへと変わっていった。
城のお抱えの歌手が歌う声に似ているな・・・と、パパスとサンチョは、あるセレナーデを連想した。
二人が思い出したのは、グランバニア地方に古くから伝わるバラードだった。
魔物を狩る恋人へ思いをささげる女性と、その恋人である戦士、そしてその恋路に割り込もうとする男と、
その男がひそかに飼う魔獣との物語だった。
歌手は、この四役を、声色を見事に使い分けながらひとりで歌いこなす。むろんそれだけ高い技量が要求される歌だ。
この場にあいにく女性はいないが、戦士ディエゴは、この歌に登場する戦士の役にふさわしかろう。
ならば、その恋を妬む男は、ここにいるジャミやゴンズといったところか。そして・・・
「恋の道を踏み破る魔獣か!?」
そのバラードでは、戦士と女性との恋を妬む男が、謀略を用いて戦士を殺そうとする。
戦士はからくも助かり、女性の手当てによって生きながらえるのだ。すなわちとりあえずはハッピーエンドである。
そして、魔獣は、戦士を傷つけ、女性の心を惑わす役柄。誰もが恐れる姿、どんな人間よりも素早い脚。
人心を惑わす妖しい息吹と歌声。そして主人である男を裏切ってはばからぬ忘恩の徒である。
だが・・・それは物語のなかのことに過ぎない。
ここは現実だ。いまそこで歌っているのが、ジャミやゴンズを裏切ると決まったわけではない。
いいや・・・どうやら、立場は逆のようだ。
ジャミやゴンズが部下。彼らは、自分たちの首領に命を与えようとしているのだ。
存在したことのない首領に忠誠を誓うモンスターたちの振る舞いは、サンチョには奇怪なものとしか映らなかった。
だが・・・パパスは考えていた。
いるのかいないのか分からない神に忠誠を誓ったり、当てにできない人の心を頼んだりしているわれわれ人間も、
モンスターたちから見れば、至極非論理的で、嘲笑にしか値しないものではなかろうか。
音は、まだ続いていた。サンチョとパパスは、恐れていたものが近づいてきたような面持ちで、
ディエゴは、この声の主は武器でダメージを与えられないということをなまじ知っているがために
闘うことができず悔しくてどうしようもないといったような目つきで、
そしてジャミとゴンズは、自分たちの苦労が報われてこの上なく嬉しがっているような表情で、その音を聞いていた。
ついに、音は形を取りはじめた。それは単なる音から、声へと様相を変じつつあった。
「ふふふふ・・・ほほほほ・・・」
上品な笑い声にも聞こえた。モンスターにそのような声音があるとすればだが。
サンチョは意味も無くおびえ始めた。いつしか、パパスにしがみ付けるほどにそばまでにじり寄っていた。
パパスはサンチョのそんな行動を、ただ黙って許しているのみであった。
パパスもまた、この不可思議な声に心を奪われかけていたのだ。
ディエゴはただ空間を睨んでいた。もっとも、そこには、新たに見つめるようなものも、
また長い時間をかけて観察すべきものも、何一つとして存在していなかった。
ディエゴがいかに目を凝らしても、見えるものといえば、遠くの森とコケの野原、二本の塔とそれらを結ぶ橋、
そしてパパスとサンチョに、ジャミとゴンズ、それからいまだうごめき続けている蒼穹の波紋だけだった。
いらだたしげにディエゴは腰の剣をガチャガチャと鳴らしてみせた。
鉄仮面を脱いだ頭には日が当たって、ぬくもっていた。
ジャミは、まだ鉄仮面を抱えていた。そこから立ちのぼっていた赤い霧の渦は、既に消え去っていた。
中には血の筋も、油の染みも残っていなかった。謎の存在がすべて吸い尽くしたのだろう。
ジャミにとっては、今までの苦労が報われつつある瞬間でもあった。
それはゴンズにとっても同様であった。鋼色の目に、恍惚とした眼差しを浮かべて、虚空に何かを求めていた。
「さあ、我らが道を示す方よ、姿を現してくれ!」
二頭のモンスターは叫んだ。意外な言葉に、パパスはびくりと身を震わせた。その震えはサンチョにも伝わった。
「うふふふふふ・・・」
これは、二頭に対する答えだったのだろうか?サンチョには、ただの笑い声としか聞こえなかった。
だが、ジャミとゴンズは、その笑い声に、感じ取るものがあったらしい。
互いに酷似した表情を、同時に浮かべた。おそらく安堵の表情であったのだろう。
ところが、この二頭の期待とはうらはらな言葉を、その謎の存在は述べたのだった。
「ふふふふ・・・まだ・・・足りません・・・もっと・・・私が現れるためには・・・」
はっきりと言葉として聞き取れるものであったことが、人間たちを愕然とさせた。
「よし・・・現れてみせるのだな、そこな魔物!わが剣の錆にしてくれるわ!」
ディエゴは剣を振りかざした。パパスも腰の剣に手を当て、次の行動への準備をした。
二人のあいだでサンチョはおたおたと左右を見回すのみだった。足元もどうにも定まらなかった。
「ちっ、このお方が生まれた途端に殺されてしまっては、俺たちも努力が報われないぞ。」
ゴンズが舌打ちをして、忌々しさを包み隠さず声に出した。
「お前たち、このお方、このお方と、さっきから呼んでいるが、名前くらいあるだろうが。
なぜ名前で呼ばないのかね。」
パパスは突然、ゴンズに向かうと、奇妙なことを質問した。サンチョは、パパス様の思いがけない行動を見て、
きょとんとして立ち止まった。そのまま足元もふらつかなくなるほどに。
「このお方には、名前はないのだ。」ゴンズが威々しく胸を張って答えた。
「なぜ名前など要るものかね。このお方はただ一人!至高の存在となるべき方なのだ。
魔の気と人間の肉を融和させ、魔界も人間界も行き来できる存在になるのだ。
しかも、ただ行き来できるだけではない。そんなのはどんな奴ばらでもできる。
魔界から人間界を眺めわたすには、人間の祈りによって濁らせられない思念が求められるものだ。
人間の祈りに耐えるには、人間の肉を与えて育てるのがもっとも手っ取り早いというものさ。」
ゴンズはいちど言葉を切ると、息を深く吸い込み、鼻から激しく噴き出した。息は熱く、生臭かった。
「唯一無二の存在に名前など必要ない。名前を名乗れる俺たちは、ただの下っ端だということだな。
だが、その下っ端に弄ばれるお前らは、さらにその下の存在かな?」
ゴンズは瞳をきらりと輝かせた。その白さは、磨いた錫のボタンのようだった。
「なんと・・・私たちを侮辱していますよ、このモンスターは!」
「騒ぐものではない、サンチョ。彼らにとっては、ただのからかいにしか過ぎないのだ。」
パパスはサンチョを宥めた。ゴンズはその二人を、相変わらずの錫色の目で面白そうに見ていた。
527 :
名前が無い@ただの名無しのようだ:04/09/03 00:22 ID:xa9ZCmpj
お前らアフォか
だが、サンチョもこのときばかりは口を閉ざさなかった。
長い道のりを歩いてきて疲れていたために気が立っていたのかもしれないし、
あるいは高い塔の上に立っているという意識が、潜在的にサンチョを発奮させていたのかもしれない。
ともかく、滅多にないことではあるが、サンチョはまくし立てた。
「からかうだなんて・・・。私たちの命を掌に載せて、つっついて遊んでいる連中に、よく優しくできますよ、パパス様も!
なんなら、私だって言い返してやります。おい、ゴンズとやら、よく聴け!
人間は、モンスターに、上、中、下という階級をつけている。
お前たちは、魔界ではどうだか知らないけれど、ここ人間の世界では、最低の連中だ。最悪のモンスターだ。
上魔、中魔、下魔と分割するなら、お前たちは下魔だ。体のない、お前たちの崇めるそこのモンスターも、下魔だ。
下魔だ、下魔だ、下魔だ!お前たちは人間をないがしろにして憚らない、最低の下魔だ。
人間の愛と勇気を軽んじるものじゃないぞ!」
聴いていた二人と二頭のうちで、いちばん反応を示したのは、パパスだったかもしれない。
たしかにパパスの額には、あまり見ることのない色が浮かんだ。前髪が、風のない空気にたなびいたように見えた。
背筋は鉛直に伸びて、やや後ろへ傾いたように見えた。右の手が左の腰へと回った。
剣の柄を握り締めたまま、パパスはサンチョが言葉を放ちきったと同時に、茫然自失の相を呈するのを見た。
サンチョの顔は、ほんのり葡萄の色に染まっていた。息をひとつ吐くと、まるで夢から覚めたかのように
周りをきろきろとうち眺め、ちらりと足元に目をやって、はるか下の緑を認めると、はっと正気に返って
顔を立て、そのまま立ち尽くしていた。
「ふん、面白い話だった。だがたいした内容じゃあない。」
ジャミが鼻息も高らかに述べた。ディエゴは目を細め、髭を撫でながらサンチョのしぐさを見ていた。
「・・・下魔とは。ふふふふ・・・面白い響きですね。わたしがその名を承ってもよいでしょうね?」
突然降ってきたような声は、三人の男たちには、凡味甚だしいものであった。
パパスがちらりと眉を動かしてやったくらいで、三人の視線は、依然としてジャミとゴンズに向けられていた。
サンチョは、今しがた自分の取った行為の意味すべき内容を、はたと感づいた。
いかに奇々怪々なふるまいに及んだかを知るやいなや、サンチョの太腿は、またもぷるぷると震え始めた。
ゴンズがにやりと笑ったように思えた。もっとも、このモンスターは、常に笑ったような顔をしているから、
表情を変えてもその変わりようは定かではない。今の笑みも、サンチョの気のせいでそう思えただけかもしれなかった。
しかし、続けてゴンズが口を開いてこう言葉を発したのは、気のせいではなかった。
「このお方の名前など、どうでもよろしい。大切なのは、このお方に、
人間の世界で自在に使い物になる肉体を与えることができるかどうか、ということだ。
そこな丸い人間、騒いだ代償というわけじゃないが、血を貰い受けるぞ。」
言うが早いかゴンズの剣の切っ先はサンチョの首筋へ飛びつこうとした。
しかし、それを途中で受け止めて許さないものがあった。
パパスがゴンズの剣を見事に捌いて、サンチョを守ったのだった。
「私の部下に手を掛ける心積もりならば・・・ならば、そなたを切り捨てる!」
パパスとゴンズの一騎討ちが始まった。明るい灰色に伸びる橋の上で、パパスとゴンズは、
刀身をはねのけ合い、しのぎを削りあい、四合五合と闘いあった。
剣の打ち合う音が丁丁と響くさまを、サンチョ、ディエゴ、ジャミと、今しがたサンチョがゲマと呼び付けた存在とは、
ただじっと眺め入っているのみだった。
もっとも、ジャミはいくらなんでも心を奪われたままになどなってはいなかった。
モンスター界に君臨する存在に肉体を与えるという名誉ある仕事についている自負があった。
足音を潜めたままディエゴに身を寄せると、その頭に素早く腕を回して締め付けた。
「あ・・・お、お、ん・・・うぐぐ。」
ジャミの腕で鼻と口を塞がれたディエゴは、その腕を振りほどこうと闇雲にあがき、かかとでジャミの脛を蹴り飛ばした。
「ひゃあっ!」
喚声を上げたのはジャミのほうだった。どうやら魔物にも、弁慶の泣き所というものがあるらしいな、と
ディエゴは妙なところに関心を寄せた。だが、すぐさま自分の目の前で行われている合戦へと気を奪われていった。
パパスは剣を華やかにふるって、ゴンズを劣勢に追い込んでいた。
ゴンズの顔には、誰から見ても、明確な焦りの表情が濃く浮かび上がっていた。
『ここで・・・倒されるわけにはいかん。あのお方に肉体を授けるという誉れある役割を、
こんな人間のためにみすみす捨て去ることができようはずがない!』
しかし、ゴンズは、いかに名誉ある地位を得たからとはいえ、所詮は魔物に過ぎなかった。
モンスターであるかぎり、小細工を弄してパパスを窮地に追い込むといった発想はできないのだ。
他者を欺くという行為は、人間にして初めて行いうることであり、それを知らないぶん、
モンスターたちの戦いは不利になるばかりであった。
直線的に突いてきたゴンズのやいばを華麗な脚捌きでかわすと、パパスは、ひらり、と身をスピンさせ、
手を裏に返して、勢いよく振りかぶった剣を、ゴンズの脳天に振り下ろした。
ゴンズの頭が平らになったように、サンチョには思えた。
パパスは振り下ろした剣を返す手で、ゴンズの手首を叩きのめした。その痛さに耐え切れず、
ゴンズは剣を握っていられなくなり、両手の指をすべて開いた。鈍い音を響かせながら、剣が石の橋桁に落下した。
ゴンズが手を伸ばして掴もうとした瞬間に、その手の先から剣は消えて去った。
日の光に燦然ときらめきながら、宙を落下していく剣が、パパスの目に映った。
「サ、サンチョ・・・」
いつの間にか、サンチョがパパスと肩を並べて、ゴンズの前に立ちはだかっていたのだ。
剣を蹴落としたのもサンチョであった。ゴンズの剣を叩き落すという、パパスの行動を具体的に予測していたのだ。
「き・・・きさまら・・・」
ゴンズのこめかみに青筋が立っている。
その両足は、おもむろに床を踏みしめながら、じりじりと後じさりしているように見受けられた。
「サンチョ・・・下がっていろ。やつは突っかかってくるつもりだ。」
パパスに皆まで言わせぬうちに、サンチョはパパスの後ろへと下がっていた。
更に、突進してくる者からできるだけ身を引いていようという本能的な危険回避を行い、
サンチョはゴンズに目を当てたままじわじわと後ずさりをしていた。
乙です
そうして下がっていたサンチョは、硬いものに尻をぶつけた。それはサンチョがぶつかると、僅かだがはっきりと揺れた。
なんと言うことはない。後ろに立っていたディエゴにぶつかっただけのことであった。
「あ、すみません・・・」
「サンチョ殿。危ないぞ、あの魔物は・・・」
ディエゴもパパスと同様のことを言うな、とサンチョは思った。
そして、背中の背嚢が、誰かに掴まれているのに気が付いた。
ディエゴが、サンチョの背嚢を掴んでいた。両腕でしっかりと抱え込んでいたのだ。
その行動が、サンチョを盾にしてディエゴ自身の身を守ろうという半ば無意識の防御姿勢によるものなのか、
はたまたいざというときにサンチョを守り切ることができるように自分の身のそばに引き止めて置くためなのか、
サンチョにはいまいち判然としなかった。また、いつゴンズが襲い掛かってくるものやら知れぬこの状況下で、
こんなことをのんべんだらりと質問するわけにも行かないことくらい、瞬時に判断が付いていた。
パパスはゴンズが突きかかって来ないであろうという見通しを立てていた。
なぜなら、パパスは、自らの臍のあたりの高さに剣を水平に構えていたからだ。
その切っ先はまっすぐゴンズの眉間を狙っていた。
もしゴンズが本気で駆けてこようものなら、その剣でわが身を串刺しに貫こうとするも同然であることは、
パパスにはわかっていた。無論、そのことを意識して、剣を構えてもいたわけである。
そして、ゴンズとて、パパスの意志が具象的に見て取れている以上、わざわざわが身を傷め苦しめるつもりはなかった。
だが、いつでもパパスが気を緩めた瞬間を狙って襲えるようにと、駆け出す準備は怠りなかった。
パパスは鋭くゴンズを睨んだ。ゴンズも睨み返した。
この両者が見合っている以上、サンチョにも、ディエゴにも、そして二人の後ろに控えているジャミにも
なんらの危険性が及ぶ可能性はなかった。
五者が五者ともに、まるで何者かに見すくめられたがごとく、凝固した視点で正面を眺めていた。
そして、空中の波紋だけが、その凍りついたような空気の中で、不埒なまでにはらはらとたゆたっていた。
あの美しい声は、もう誰の耳にも届かなかった。先ほどから歌いやむことなくその場に響いていたにもかかわらず。
突然、歌声が止まった。あたりを静寂が満たした。
まるで音に支えられて立っていたかのように、サンチョはよろめいた。
パパスとディエゴは、血相を変えて宙を見回した。ゴンズとジャミは、まるで魔術から醒めたかのように
目をきょときょととしばたたきつつ、誰かを探し回っているかのように首を振った。
いや、まさしく、ジャミとゴンズはある人物を探していたのだ。
それは、この世界に体を具有させしめんと二人が努力を注いできた人物、
先ほどサンチョに「下魔」とののしられた人物、その本人だった。
しかし、いまだその姿は現れてはいなかった。おそらく、ディエゴの鼻血くらいでは不足だったのだろう。
「…あのお方は、どこにおわすのか?」ジャミがつぶやいた。
しかし誰も答える者はなかった。
静まり返った虚空からひと筋漏れ出てくるように、細い声が聞こえてきた。
パパスはその声の正体をすぐに掴んだ。あの美しい声の、見ることのできない魔物の頭領の声であろうと。
「ふふふふ・・・」
声は語り始めた。
「ゴンズよ、それにジャミよ。お前たちは、そのようなひ弱な人間ですら倒すことができないのですか。
私のしもべと思っておりましたが、これほどまでに不甲斐ない者たちだとは思ってもいませんでしたよ。」
「も・・・申し訳ございません!」ジャミがいなないた。
「なにしろ、相手は三人、われわれは二人。向こうは剣を携えているのに、こちらは空手でございます。
いかんとも闘いがたく・・・」
「言い訳を聞く耳はありません。」
声の主はジャミの言葉をやんわりと、しかし冷たく跳ね返した。
「だが、その言葉を今一度だけ信じてみましょう。」
「はっ・・・!かたじけのうございます!」
声は、ジャミには答えなかった。かわりに、パパスとサンチョに向けて、言葉が放たれ始めた。
「いいですか、人間たちよ。私が、体などなくとも、どれほどの力を持っているのか、
とくとその濁ったまなこに焼き付けておくのですよ。
もっとも、それを覚えていられるのも、ほんの短い間に過ぎませんけれどね。」