「ラムザよ、神の愛を疑ったことはあるか?」
パイシーズは問うた。ラムザは答えに詰まる。
「あるだろう。賢明なものは必ず考える」
パイシーズに揶揄する様子は無い。ラムザは僅かに目を細めた。
「何が言いたいんだ?」
「神は確かに存在し、あまねく世界を照らしている。これは事実だ」
ラムザはかぶりを振った。
「信じられない。僕はたくさんの苦しむ人々を見た。今ならガフガリオンの気持ちが分か
る」
アグリアスは動揺した。この世界の彼は、苦しむ人々を知らぬはずだ。ガフガリオンを
知らぬはずだ。ラムザは自分のあげた名の意味を知っているのだろうか?
「この世に神などいない! ……悪魔はいても」
しかしパイシーズはラムザの言葉に髪一筋さえひるまない。託宣を告げる巫女のごとく、
厳かに語り続ける。
「それは人の都合、人の尺度で神を量ろうとするからだ。神は平等だ。神は選ばぬ」
「人の尺度? では神の尺度とは何だ?」
パイシーズは、唇だけで微笑んだ。
「神は世界を愛するのだ、若者よ。神の愛は選ばぬ愛だ」
「世界……?」
アグリアスは、ラムザより先に答えに至った。
神の御心とはそのようなものであったか。
思えば、答えはどこにでもあった。どの経典にも、口伝にもあった。
神は等しく世界を愛する、と。
「神は人を貧富の差で区別せぬ。幸せの量で区別せぬ。強さで、弱さで区別することをせ
ぬ」
「……!」
ラムザが目を見開いた。
「神は選ばぬ。平等とはそういうことだ。等しく世を照らすものが、ただ弱いというだけ
のものに手を差し伸べるのか? ただ悪というだけで裁くことができようか? 神は世界
を愛したもう。そして神が力を振るうのは、世界を脅かすものに対する時のみだ」
ラムザは声をわななかせた。体がぐらりと揺れた。
「それでは……それでは、イヴァリースは誰が救ってくれるんだっ!? あのたくさんの
不幸な人々を、虐げられ奪われるだけの罪無き人々を……! 何の救いも無い世界なんて、
あって良いものか!」
悲痛な叫びを聞き、アグリアスの頬を一筋の涙が流れる。
間違いない、きっと彼も思い出したのだ。
真実の自分を。かけがえのない過去を。
やはり、運命の車輪を止めることはできないのだ。
アグリアスは、後ろからそっとラムザの肩に手を伸ばした。
抱きとめるように、優しく。荒れ狂う奔馬をなだめるように、繊細に。
呆けたように、ラムザがアグリアスの目を見つめた。
「ラムザ。人の世は人が自分達で救うしか無いということよ。それを志したものだけが、
それを為すことが出来る」
「アグリアス、先生……?」
腰に帯びた剣が熱を帯びているのが分かる。
自分は確かに答えを手にし、世界の岐路に立っているのだ。
「聖石パイシーズよ、お前は神の愛は選ばぬ愛だと言った」
パイシーズを見る。女性の姿を借りたそれは、こくりと頷いた。
「だったら、人の愛とは選ぶ愛。そうだな?」
パイシーズは満足げに微笑んだ。
「聡明な娘だ」
ラムザは、体ごと振り返る。灼けた火箸のような視線をアグリアスに投げかける。
「……教えてください」
アグリアスは考えをまとめようと、小さく息を吸った。さまざまな並列する思考が彼女
の中で交錯し、出口を求めて争っている。答えを知った。だが、それを言葉に換えるのが
もどかしい。人とはかくも不便な存在か。
「選ぶことは、捨てることと一緒。何かを選ぶとき、それは同時に選ばない何かを選ぶこ
とでもある。分かる?」
ラムザは戸惑いながらも首肯した。
「誰かを愛するということは、同時にそれを傷つける何かを憎むことでもある。全てを同
時に愛することなんて、人にはできない。だってそれは、何も愛していないことと同じで
しょう? 大切なモノを得るということは、それ以外の大切ではないモノを切り捨てるこ
となのよ」
「でも……それは、だって」
アグリアスは微笑んだ。そのような認識を認めがたいとラムザが思うのは、彼の優しさ
であり、臆病さであり、甘えでもある。しかしそんな心の在りようを、彼女はこの上もな
く好ましいものに感じてしまうのだ。
「それを悲しいことだと思う必要はない。誰でも何かを選び、何かを捨てながら生きてい
る。それが人間の本質なんだから、それでいいのよ」
道が見えた。つまりはそういうからくりだったのだ。
パイシーズが示した可能性。自分がここにいる理由。
全ては、選択させるためにある。
それは世界の選択であり、
荒野へ踏み出す最初の一歩となるはずだ。
ラムザもまた、彼女が言わんとする選択の意味を悟ったようだ。
心の底から望んだもの。
後に残してきてしまったもの。
二つの世界に、心を引き裂かれる。
アグリアスと同じ痛みを経験し、そして彼も選ばねばならないのだ。
両方を同時に手にいれることはできない。
二人はそれぞれに、不器用にしか生きれない。
ラムザは考え、しわがれた声を絞り出した。
「僕は、僕はここであなたさえいれば……」
アグリアスはかぶりを振って否定した。彼の言葉は、彼女を思うがゆえの優しい嘘だっ
た。もしも気付かないふりをして騙されてしまえれば、きっと自分は幸せになれるだろう。
しかし、彼は永遠に満たされない。
それでは、今自分が彼の隣に在る意味が無いではないか。
彼は言った。『誰がイヴァリースを救うのか』と。
だから、彼女もまた嘘をつく。哀しい嘘を、優しい嘘を。
「あなたの一番はわたしじゃないし、わたしの一番もあなたではない」
彼の心が分かるからアグリアスは騙されないし、彼女の心が分かるからラムザは彼女の
嘘に騙されるしかない。それ以外の道は無いのだ。
心が通じ合うというのは、なんと甘美な体験だろう。
そして、なんと残酷な体験なのだろう。
彼らは一時、触れ合い、交じり合い。
しかし、その暖かな場所にとどまり続けることはできないのだ。
「何が一番大切だと感じるか考えて。ううん、違うわね。それは考えるのではなく、感じ
ること。思い出すことよ」
「思い出す……」
火花が散った。
ラムザの脳裏を、さまざまな人の面影が駆け抜けた。
死んでしまった者。生きている者。
敵対する者。手を結んだ者。
好きな人、嫌いだった人。
富める者、貧しき者。
正しき者、邪な者。
大きな者、小さな者。
奪う者、奪われる者。
笑っていた人、泣いていた人……。
たくさんの人々の顔、顔、顔。
自分はこんなにも多くの人々と出会い、別れてきたのだ。
ラムザはそんなあたりまえのことに驚きを感じた。
いつの間にか、パイシーズの姿は消え……、
暖炉には、聖石が収まっていた痕跡すら残されていなかった。
『別れを告げるがよい』
幽かに、そんな声が聞こえたように二人は感じた。
ベオルブ家の暖炉で、珍しく家族一同が揃い、食後のお茶を楽しんだ。
末席には、ちゃんとアグリアスも控えている。
暖炉の火は暖かく、誰もがみな穏やかに笑っていた。
ラムザは、ようやく悟った。
自分は、お別れを言うためにここへ来たのだと。ちゃんと看取ってやれなかったものに、
最後の言葉を伝えるためにこの世界は在ったのだということを。
ラムザの父、バルバネスはやや顔を曇らせながら言った。
「最近、不穏な噂を耳にすることが多くなった。ひょっとすると、いくさになるのかもし
れん」
ダイスダーグが父の肩に手を置く。
「杞憂ですよ、父上。わが国の為政者はそれほど愚かではありますまい」
しかし、ラムザの隣のティータは不安を隠せない。
「そうだといいんですけど……」
幼い顔が曇る。
ラムザはティータの頭に優しく手を置いた。
「え? な、なんですか?」
はにかみ、頬を染める。アルマがぷうとむくれ、それを見たディリータがザルバックの
わき腹をひじで突付きながら笑いを堪えている。
「大丈夫だよ、ティータ。その時は僕がみんなを守るから」
驚き、目を見開いたティータは……すぐに顔をほころばせた。
「……はい、よろしくお願いします」
我慢できず、ザルバックがげらげら笑い始めた。
「ラムザ、勇ましいことだがな。そういう台詞は、もうちょっと上手くチョコボに乗れる
ようになってから言うのだな!」
バルバネスがにやりと笑う。
「図体だけは一人前だが、まだまだ見る目が無いようだな。ラムザの素質はお前より上だ、
すぐに剣の腕も追い越されよう。大樹の苗を見て小さいと笑っているようなものだぞ」
ディリータが批判的な視線をラムザに向ける。
「これが大樹ねえ……まあ、もちっと食ってでっかくならないと、ティータはまかせられ
ないな」
不機嫌そうなアルマがディリータに噛み付く。
「ラムザ兄さんより2センチも小さいくせに良くいうわね!」
ダイスダーグがため息をついた。
「やめんかお前ら、お客様もいるのだぞ。まあ確かに、ラムザには早く一人前になって家
督を継いでもらいたいものだが……。でないといつまで経っても、歴史家になるという俺
の夢を叶えられん」
笑いの華が咲いた。ラムザは、家族の顔を順に見回す。
父バルバネスは、ダイスダーグに暗殺されて死んだという。ひょっとすると、病床の父
はそのことを知っていたかもしれないと思い至った。
ディリータは存命だが、既に袂を分かった。今は敵か味方かも判然としない。しかし、
二度と自分たちの道が交わることは無いだろうとラムザは思っていた。
ザルバックは、ルカヴィの魔法の技によって異界へ飲み込まれ消えた。もはや生きては
いまい。最後に心を通じ合えたのが、僅かな行幸だった。
ダイスダーグは聖石の力に屈しルカヴィへと変貌を遂げ、ラムザが己が手にかけた。二
度と許せぬと思っていたが、今では少しだけ彼のことが理解できると思う。おそらくダイ
スダーグも、何かを失い、無力を嘆き、そして力を求めたのだと。
アルマは『星座の騎士』達に攫われ、居所は杳として知れない。最後に残った唯一の肉
親を、何としても助けなければと心に誓う。
そして……ティータの顔を見つめる。全てはあの時始まったのだと思う。この小さな、
幸薄い少女が踏みにじられるのを、黙って見ていることしかできなかった。自分の無知を
恥じ、無力を責めた。こんな不幸が罷り通る時代が許せなかった。
そして、ラムザは力を求めたのだ。
血塗られた手で。
それでも、何かを守れるかも知れないと信じて。
戦士は剣を取り、胸に一つの石を抱く。
何者にも砕かれる事の無い、小さな小さな宝石を。
少年が求めたのは、自分自身の幸福では無かった。
彼が欲するものは、もっと、ずっと遠くにあるものだった……。
アグリアスの視界が歪んだ。
慌てて眼鏡を外す。視力が戻っていた。
見れば、ラムザがゆっくりとこちらに近づいてくるところだ。
少年は一歩踏みしめるごとに身長を伸ばし、アグリアスの目の前に立った時にはもう
彼女と変わらぬ背丈に戻っていた。そして自分も、少女時代の平服ではなく、聖騎士の鎧
とマントを纏っていることに気付く。夢の時間は終わったのだ。
アグリアスはお茶のカップを皿に戻して立ち上がった。
ベオルブの家族は、今も暖炉の前で談笑を続けている。
「もう、いいの?」
「はい。戻りましょう、みんなのところに」
しげしげとラムザの姿を眺める。
「背、いつのまにか追いつかれてしまったのね」
ラムザはくすりと笑った。
「すぐに追い越します」
女性騎士は手をのばし、少年の顔を包み込む。
「結構、精悍な顔つきになってきたんだ」
ラムザは、彼女の手を包み込むように握る。彼の顔は悲哀に歪んでいた。
「ごめん」
アグリアスは小さくかぶりを振った。声が震えないように、懸命に堪える。
「いいのよ。謝る必要なんてない。あなたが何を選ぶのかなんて、ずっと前から知ってた
もの」
とびきりの笑顔を作る。たぶん、……笑えたと思う。
笑いは強さだ。
傷ついても、失っても、まだ希望はあるんだと笑うことが強さだと思う。
たとえ涙が出てたって、気にしないで笑うのだ。
彼の前では、いつでもつよい女でいたかった。
「ここに連れてきてくれてありがとう。とても楽しかった。……幸せだったわ、私」
ラムザの両腕が、彼女を抱きしめる。
息が詰まるほどの、力の加減を知らない不器用な抱擁だったが、何も言わない。
この苦しみと喜びこそが、自分にとっての現実なのだ。
ベオルブ家の暖かな光景が遠ざかる。
幸せだった家族の記憶が、泡となってはじけて消えた。
選択されなかった可能性は、世界の混沌へ溶けてゆくのだ。
「アグリアスさん、僕はあなたを」
その先は聞くことはできなかった。
真っ白な光に包まれ、二人は意識を失った。
『ダイヤのキング』の章 END