ありえないことだった。剣が語りかけてくるなど。
しかし、アグリアスはその意思を発している者が右手に握られた剣だということを、微
塵も疑うことが出来なかった。
『我が主を求めよ』
それきり、剣は沈黙した。
その言葉は、どういう意味だろう。
自分は誰を求めれば良いのだろう。
自分に何が託されたのだろう。
答えは出なかった。
たかが17歳の小娘には、あまりにも荷が重い。
そして、剣もまた重かった。
右手一本ではとても支えきれず、左手を添えてなんとか取り落とさずに耐える。
これは、はがねの重さだけではない。アグリアスは直感した。
この剣の重さは、血の重さだ。
流された数知れぬ人々の血を吸っているから、この剣はこんなに重いのだ。
きっと、呪いの剣に違いない。
災厄を呼ぶものだ。
ふと我に返れば、執事と名乗った男の姿はどこにもない。
夢であったか、幻であったのか。
確かなことは剣の重さだけ。
そしてそれは、血の重さ。
呪いの剣を手にした自分は……
やはり、呪われてしまったに違いない──。
ふらふらと、あてども無く廊下を歩く。
いつのまにか、左腰に剣を佩いていた。慣れぬ重みに、体がふらつく。
ここはどこだろう、と思った。
見慣れたはずのベオルブの屋敷が、どこか見知らぬ場所に思えた。
急に後ろから、腕を捕まれて立ち止まる。
振り返ればラムザがいた。
泣きたいほどの安堵感に包まれる。
「どうしたんですか? ホールにいないから探しましたよ」
少年がアグリアスの顔を覗き込む。心配をかけたくなくて、無理して笑った。
「あなたのこと探してたら、迷っちゃって……」
「なんか顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」
「平気、平気」
ようやく、いつもの屋敷の雰囲気に戻った。やはりラムザの近くにいないと、どこか取
り残されたように感じてしまうらしい。
そんなに依存しているのかな……年上なのに、情けない。
ため息をつくアグリアスの顔を見つめるラムザは、やはりまだ心配そうだった。
話題を変えなければ。
「馬車の用意が出来たのね?」
「あ、そうだ、忘れてました。実は、僕らが部屋にいる間にお客様がいらしたんですよ。
先生にも紹介したいと、父上が」
「分かったわ。でも、バルバネス様がそんなことおっしゃるなんて珍しいわね。どなたな
の?」
「さあ、僕も詳しくは。王都からいらっしゃったということですけど」
王都から来た者。
そう聞いて、胸がざわめいた。
不吉な予感がした。
応接間の扉の前に立つ。
さきほど、剣を手にした時と同じような不安がこみあげてきた。
そうだ、剣。
いくら賜ったばかりの品といえども、戦時でも無いのに、佩刀したまま来客に会うなど
という無礼は許されない。屋敷の主人にも恥をかかせることになってしまう。無礼と言え
ば、贈り物を貰っておきながら礼を言うことすら忘れていた。どうも混乱している。
ラムザが扉を押し開こうとしているのを見て、アグリアスは慌てて留め金を外しにかか
った。
「待って、ラムザ。これを外してから……」
扉が開いた。
とたんに、光が溢れたように感じた。
アグリアスは、ソファからゆっくりと立ち上がろうとする人物から目を離せなくなって
しまった。
ほっそりとした体。ちいさな顔。
背中に流れる、優美なプラチナブロンド。
ゆったりとしたブラウスに、足元まである長いスカート。
華美でも豪奢でも無いが、凛とした気品に満ちた姿。
そして……
圧倒的な、
絶望と、
恐怖。
窓の外、暗雲の中に稲妻が走った。
直後に響く轟音。
そして、滝のような雨。
終末を知らせる嵐がやってきたのだ。
世界が、壊れた。
「……ひ、め、さ……」
かすれた声が喉にひっかかった。
ソファの向かい側の席に座っていたバルバネスが立ち上がる。
「ラムザ、アグリアス嬢。紹介しよう、アカトーシャ家の……」
「オヴェリアです」
その声を聞くのと同時に、アグリアスの右手が跳ね上がった。
手には剣が。
世界を滅ぼす剣が握られている。
鞘に彫られたルーンが血の色に明滅し、抜き身となった刀身は濡れたように輝いていた。
手のひらに、真っ赤に溶けた鉄の塊を押し付けられたように感じる。
何者かの意思が。
私の意志が。
それを壊せと叫んでいた。
アグリアスは暖炉を見た。
暖炉を形作る煉瓦の中央の窪みに、青く輝く石がある。
まるで距離など無いかのように、石の中のサインが見える。
魔法で刻まれた、双魚宮の印が。
アグリアスは右手を振りかぶり、石に向かって渾身の力で投げつけた。
剣は吸い込まれるように青石に向かって飛び、接触した瞬間に爆発的な魔力が開放され
た。
時が止まり、音は消え、世界は色を失い無彩色に塗りこめられた。
そして、全てを思い出した。
もう彼女は、士官候補生・見習い剣士アグリアスではない。
聖騎士アグリアス・オークスだった。
薄明の中、オヴェリアはゆっくりと暖炉に近づき、床に転がった青石を取り上げた。
「乱暴なことをする」
続けて、片手一本でアグリアスの投げた剣を取り上げ、アグリアスに柄を向けて差し出
した。アグリアスは震える両手で剣を取り上げ、オヴェリアに向かって構えた。
「お前は、オヴェリア様では無い」
ラムザが緊張の表情でちらりとアグリアスを見た。バルバネスの姿は消えていた。
「何者だ。もののけか……ルカヴィか」
オヴェリアは嘆息し、首を振った。
「驚いたよ。なんとまあ、おせっかいなことだ」
アグリアスは、一歩踏み出し、オヴェリアの首筋に刀身を当てた。
「答えよ!」
「娘よ。汝も見たであろう。この体は幻、我が本体はこちらの石の中にある」
オヴェリアの姿をした者は、その右手に青石を掲げて見せた。
「ラムザ、あの石はいつからあったの?」
「先生……。昨日まで、いえ、ついさっきまで、あのようなものは暖炉にはありませんで
した」
「そうか……」
「そう怯えずとも良い。我は汝らに敵するものではない」
少女は微笑んだ。
「我は聖石と呼ばるるもの。名をパイシーズという」
「……聖石……だって……!?」
ラムザの声を背後に聞きながら、アグリアスは油断無く剣を引き、絨毯に突き刺した。
「いかにも。我は知恵と神秘を司る者。我は汝が内なる声に召還され、力を使った」
「僕が召還した?」
混乱し、救いを求めるように少年はアグリアスを見つめた。
彼女は迷った。残酷な真実を告げるべきか。
パイシーズは、興味深げにアグリアスの表情を窺っている。
もう世界は壊れてしまった。
いや、そうではない。自分がこの世界を壊すために剣を振るったのだ。
己が勤めを果たさねばならなかった。
「ここは、おそらく……」
唇が震えた。残酷な言葉を吐かなければならないことに、心が怖じける。
だがそれをラムザに伝えるのは、自分しかいないのだ。
覚悟を決めた。
「あなたが望んだ、夢のような世界だと思う」
「……夢……?」
ラムザは呆然と呟いた。パイシーズは、奇妙な優しみをのせた眼差しをアグリアスに向
けた後、静かに首を振った。
「少し違うな。これは夢ではない、もう一つの現実だ」
オヴェリアの姿を映した少女は、右手の青石をもて遊びながら続けた。
「少年の力は我の想像を遥かに超えたものだった。我ら聖石の力が全て開放された時、あ
らたな世界の創造も可能となる」
「世界の……創造!?」
「そうだ。これも一つの世界。宇宙に穿たれた小さな楔だ」
「僕が、望んだ……世界」
「ここは汝の理想とする国。我は汝らと同じく、この小さき世界を旅して歩いた」
パイシーズは目を細めた。慈愛に満ちた声で、言葉を紡ぐ。
「汝の世界は美しいな。とても優しく、暖かい」
アグリアスは天を仰いだ。涙がこぼれそうだった。
戦場を渡り歩いた聖騎士としての記憶とともに、ラムザの家庭教師として過ごした数か
月分の記憶も等分にあった。いや、やろうと思えば多分、何年も前の記憶であっても掘り
起こせるだろう。こちらは聖石パイシーズの言った通り、完全なる一つの世界なのだ。
ラムザの望んだ世界。そこに私がいる。
確かにここは居心地のいい世界だった。この世界にいる間、アグリアスは満ち足りてい
た。ラムザが許してくれるならば、ずっとこの世界で暮らしていたい。
「今は我が力無くば泡と消えるであろう。だが、人々が住まい、多くの命がここで生まれ
ることにより、世界は広がり安定する。箱庭はやがて本当の世界になる。お前たちはここ
で生き、死ぬ事ができる。多くの世界は、そのようにして生まれた」
それは、誘惑であった。
美しい世界、幸せが約束された人生。
甘い果実が今、目の前にある。手を伸ばせば届くのだ。
だが。
「我の希望を述べよう。我は汝の望んだこの世界の行く末を見てみたい。汝が望めば、汝
の夢は叶う。優しき世界で、伴侶とともに生きよ。汝は死した後、創造主としてこの世界
の王と、神となろう」
その時、ラムザの表情が凍りついた。
「馬鹿な」
苦痛をこらえるかのように、口が歪む。
「神? 神だと? この世に神が実在するというのか?」
パイシーズは重々しく頷いた。
「勿論だ」
少年の体が強張った。
拳を固く握り締める。
アグリアスには分かる。あれは、怒りだ。