もうすぐ春が終わるという頃。ラムザはベオルブ家総出の野遊びにアグリアスを連れ出
した。日帰りの予定だが、狩りの準備もあれば、着替えや食事を持った召使い達も勢ぞろ
いし、かなりの大所帯であった。
目指した場所は、湖畔の山小屋だ。夏になれば何日も泊りがけで休暇を楽しむ場所であ
る。朝早くに集合し、ベオルブの屋敷からチョコボで駆けて2時間あまり。馬に乗った男
衆は、2〜3人ずつ組んで鹿や野兎を狩った。
アグリアスは、ラムザとペアを組んだ。地元の猟師に案内され、丸々と太った兎をなん
とか一匹仕留めた。これは後で、ベオルブの料理人が調理してくれるだろう。弓もチョコ
ボも苦手なアグリアスだったが、なんとか面目を失わずに済んだ。
不運に見舞われたのはラムザである。猟師が止めるのを聞かず闇雲に森に踏み込み、獰
猛な猪に目を付けられた。ラムザの貧弱な腕前では逃げ回るだけで精一杯である。為す術
もなく追い詰められ、やむなく弓を捨てて剣の柄に手をかけたその時。横から太い矢尻に
頭蓋を貫かれた大猪が、地響きをたてて横倒しになった。
アグリアスと猟師の男を伴って現れたのは、ベオルブ家の当主、老バルバネスである。
老いてなお頑健な躰で、強弓を軽々と使いこなしている。戦士としての腕前は、ラムザの
遠く及ぶところではない。ましてやアグリアスなど、彼の前では案山子と変わらぬだろう
と思えた。
「ふむ、末弟と言うことで甘やかしてしまったか」
バルバネスの言葉に、ラムザは身をすくめて縮み上がった。
「……申し訳ありません、父上」
「別に謝らずとも良い」
老戦士は鷹揚に笑った。
「しかし、男子たるもの、御婦人の前では格好をつけねばな」
少年は悔しさに唇を噛んだ。アグリアスがどんな目で自分を見ているのか、恐ろしくて
顔を上げることが出来ない。
「アグリアス嬢。不肖の息子ですがよろしく」
ラムザのアグリアスへの思いを知ってか知らずか、そう言い残してバルバネスは立ち去
った。抗する言葉も無く、ただただラムザは恥じ入るばかりである。
消沈した少年を見かねて、アグリアスは発破をかけた。
「ラムザ、落ち込んでる場合じゃないわよ」
「でも、先生……」
埒があかぬと、アグリアスは猟師に向き直る。
「バルバネス様の鼻をあかしてやりたいわね」
気のいい猟師はにやりと笑う。
「勿論です、お嬢さん。いくらお館様とはいえ、俺のじいいさんみてえな歳の人に見くび
られたまんま、おめおめと引き下がれねえ」
「兎狩りはお終いにしましょう。手ごろな獲物に心当たりは?」
「さっき、でけえ雌鹿が跳ねてんのを見ました」
ラムザの当惑をよそに、勝手に話が進められてゆく。
「せ、先生?」
「じゃあ決まり、目標は『でけえ雌鹿』。お昼ごはんには凱旋するわよ」
「気張って下さいよ、若旦那。あんたが止めを刺さねえと終わらねえんだ」
「急ぎましょう、時間が無いわ」
アグリアスと猟師は足早に森の奥へ踏み込んでゆく。
ラムザは慌てて弓を拾い上げると、二人の後を追いかけた。
チョコボ車に乗った女達も到着し、湖畔を望む丘の上で昼食が始まったころ。見事な雌
鹿を担いだ(引きずってしまったら、せっかくの毛皮に傷が付く)ラムザと猟師が、3人
分の弓矢を抱えたアグリアスとともに戻ってきた。バルバネスは大いに喜び、猟師に金貨
一枚を褒美として与えた。そしてアグリアスを抱き締めて窒息させると、嫌がるラムザの
髪の毛を掻き回して、くしゃくしゃにした。
昼食の後、ベオルブの兄弟たちはアルマとティータを連れて湖に船を浮かべ、釣り糸を
垂れた。ラムザは満腹すると疲れが出て、昼食の場から少し離れた木陰で横になった。涼
風が丘を渡り、満ち足りた気分でまどろむ。うとうとしながら、空気に花の香を嗅ぐ。寝
返りを打とうとして、唐突に自分の頭が高い位置にあることに気が付いた。
枕なんか無かったはずだ。
急速に覚醒する。
見上げれば、頭上では金髪が風になびいている。眼鏡の奥の青い瞳が、どこか遠くを見
つめていた。美しさに、一瞬にして心を奪われた。
身じろぎに気付いて、アグリアスがラムザに視線を下ろした。
「なんだ、起きちゃったんだ」
もっと寝てていいのよ、疲れてるんでしょ。がんばったもんね、とけぶるような微笑を
浮かべて言う。
ラムザは首だけ曲げて横を向いた。アグリアスが見ていたのと同じ方向を見渡す。二艘
の船から釣竿が伸びているのが遠くに見えた。
「疲れたせいじゃないですよ」
「……?」
僅かな逡巡の後、さきほどのアグリアスの言葉への答えなのだと気付く。
「昨日あんまり眠れなかったから。今日のこと、本当に楽しみにしてたんです」
家族と行く小旅行が楽しみだった。というわけでは無いのだろう、きっと。朴念仁のア
グリアスだが、それくらいは分かるのだ。なぜなら、
「わたしもね、今日は寝不足なんだ」
丘の上を風が吹く。アグリアスの金髪がそよいで、黄金色の光が舞う。
野の花の上で小さな蝶がひらひらと翅をはためかせ、遠くで鳥が歌うのが聞こえる。
空は青く、雲は白く、山には緑がいっぱいで、湖はそれら全部を映して輝いていた。
晩春の陽は穏やかで暖かい。
世界は、美しかった。
船の上の竿が揺れた。動きを見るに、どうやら岸に引き上げるらしい。
家族の前でアグリアスの膝枕を見られるのは恥ずかしい。残念ながら潮時だった。
しぶしぶ頭を上げようとすると、
「あっ」
アグリアスが小さく声を上げた。船のうちの一艘がひっくり返っている。
どうやらザルバッグとディリータが乗っていた方のようだった。遠目にも、ダイスダー
グが拳をぶんぶん振り上げて怒っているのが見える。一度はダイスダーグの船に手をかけ
体を引き上げようとした二人が、怒れる長兄の剣幕に諦めたように首を振り、転覆した船
に手をかけ岸に向かって押しはじめた。風に乗って、かすかにアルマとティータの声援が
聞こえる。
くすくす笑いながら、アグリアスがラムザの額を押して自分の膝に押し付けた。
「少し時間があるみたい。もうちょっとだけ、こうしていよう?」
ラムザは赤い顔を隠すように、アグリアスの膝の上で明後日の方角を向いた。
額に置かれた彼女の手が、永遠にそのままであれば良いのにと思いながら。
初夏。
いつものようにラムザの勉強を見ての、その帰り。
薄暗い空を真っ黒な雲が足早に流れ、いまにも夕立が来るように見えた。
空模様を確認すると、ラムザは一度アグリアスを連れて玄関の中に戻り、馬車を用意さ
せると言ってどこかに消えた。
最初は遠慮しようとしたが、素直に好意を受け取ろうと思い直した。好き好んでずぶ濡
れになることも無いだろう。
ホールでラムザを待っていると、黒のお仕着せ姿の初老の男が近寄ってきた。ラムザの
寄越した案内かもしれないと、向き直って会釈する。男は慇懃に頭を下げた。
「オークス家のアグリアス様でございますね」
「はい」
違和感を感じた。男の身のこなしは尋常ではない。
なぜか危険を感じる。
彼女の直感は、男を剣技の達人だと告げている。
「雷神シド?」
馬鹿な!
どうしてここで南天騎士団の総団長の名が出てくるのか。一度として、実物を見たこと
すらないのに!
「まさか」
男は苦笑したようだ。冗談だと思ったのだろう。
当然の反応だ。
「私は当家の執事で と申します。主人が、あなたに渡したいものがあると申してお
ります」
「バルバネス様が……ですか?」
ラムザはどこへ行ったのだろう。
アグリアスは突然不安になった。
目の前の男は、今まで一度も姿を見たことが無かった。勿論大貴族であり、広大な領地
を所有し運営するベオルブ家であってみれば、執事だって団と呼べるほどの人数がいるは
ずだ。屋敷勤めで無い者も大勢いよう。会ったことの無い家人がいても何ら不思議ではな
い。
しかし、目の前の男はただの執事にしては異様すぎた。
間違いなく戦士だ。それも百戦錬磨の。
ベオルブ家の私兵を束ねるものであろうか……いや、それなら自分が知らぬはずはない。
会ったことは無くとも名前ぐらいは……。殴られたと錯覚するような衝撃。
名前、名前、この執事は何と名乗った?
聞き取れなかったはずはない。確かに聞いた。どういうことだ。
「失礼、ちょっと驚いて、お名前を聞き損ねてしまいました。ご無礼を申し上げますが、
今一度……」
執事は薄く笑った。
「私の名は でございます」
愕然とした。
相手の口は動いている、耳には音も聞こえる、だが相手の名前を認識できない。
──何が起こっている?
──何が起こっている?
自分は狂ってしまったのだろうか。
あるいはこれは、魔法の攻撃なのか。
ありえない、今のアグリアスにとって、ベオルブの屋敷ほど安全な場所は他に無い。
ラムザ、どこへ行ったの!?
「こちらでございます」
執事の案内を受け、アグリアスは機械仕掛けの人形のように歩を進めた。
頭の中では、ずっとラムザの名を呼んでいた。
彼は戻って来なかった。
執事に通されたのは、薄暗い物置のような部屋だった。
汚くは無い。掃除は行き届いている。
しかしそこは、打ち捨てられたもののどうしようもない寂寥感が漂っていた。
心臓が早鐘を打っていた。
なぜか分からないが不安だった。
何かが起こると予感した。
それによって自分の人生がまるきり変わってしまうと恐怖した。
執事は燭台に灯を点すと、テーブルの上にそっと置いた。
そして、壁にかけられていた長い棒を取り上げた。
いや、棒ではない。
それはほとんど装飾も無い、無骨な剣だった。
ただその鞘には、短い魔法文字が刻まれている。
もちろんアグリアスに古代魔法の素養は無い。意味など分からない。
だが、それを目の当たりにしたとたん、彼女の歯がカチカチと震え出し止まらなくなっ
た。
「主人がこれを、あなた様にと」
自分が右手を伸ばすのをひと事のように見ていた。
なんであんな恐ろしいものを手に取ろうとするのか。
誰が私の右手を動かしているのか。
私ではない。私ではない。
そんなものは欲しくは無い。
指先が剣に触れた。
声が響いた。
『我が半身よ』
『クラブのジャック』の章 END