【機械化】サイボーグ娘!十五人目【義体化】

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405【】の人
【義体整形外科医 緑川薫(まえがき)】

 約50字×30行×36レス、一気に投下します。
 義体整形外科医が主人公ですが、手術シーンは僅少で、ほぼ全編が会話劇。
 登場人物は、ほぼ「生身」です。
 唯一、まともじゃない「改造手術」を施される娘は、最初から最後まで眠らされたままです。

 《登場人物》
 ・医師免許を剥奪された義体整形外科の女医(手術する人)
 ・執事姿の謎の娘(手術する側の人らしい)
 ・海老ちゃん(手術される人)
 ・謎の男(手術をそそのかす人)
 ・元女子校生の表人格(手術されたらしい)
 ・元女子校生の裏人格(手術されたらしい)

 そんなお話で、よろしければどーぞ m(_ _)m
406【】の人:2007/06/28(木) 23:42:26 ID:K9AXw5oy0
【義体整形外科医 緑川薫(1)】

 前夜の雨でぬかるんだ道は、ジャガーを走らせるには不向きだった。
 それでなくても未舗装の林道だ。
 週に一度の「この仕事」のために四輪駆動車を買うべきか、本気で考えなければならない。
 それだけの報酬は得ているのだから……
 右の前輪が大きな水たまりを踏み、泥水がボンネットまで撥ね上がった。
 ジャガーのハンドルを握る女――緑川薫は舌打ちして、腹いせにクラクションをひっぱたいた。
 警笛が鳴り響き、鳥たちが木々から飛び立つ。
 薫はショートヘアで、スレンダーな肢体を黒いスーツに包んだ、女優かモデルばりの美女だった。
 だが、彼女の本職――「表向き」の――は、義体整形外科医だ。
 渋谷で個人医院を開業し、十代や二十代の若者相手に手指や四肢の「プチ義体整形」を手がけている。
 もっとも、そこでの彼女は「医学博士・野原裕美」を名乗っているのだが。
 薫自身の医師免許は、二年前に剥奪されていた。
 
 
 林道の先に大きな山荘があった。
 元は白塗りだったろうが、いまは煤けた灰色で、ところどころに蔦の這う廃墟のような建物だ。
 玄関前の、まばらに砂利の敷かれた半ば草むらと化している広場に、ジャガーを停める。
 薫が車を降りるのと、玄関の扉が開き、タキシード姿の――男ではなく、若い娘が姿を現すのが同時だった。
「お待ちしておりました、緑川先生」
 美也という名の――本名か偽名か、薫は知る由もないが――娘がにこやかに言って、薫に会釈する。
 二十歳そこそこだろう。栗色の長い髪をポニーテールに結んだ、表情豊かな大きな眼が印象的な娘だ。
 なぜいつもタキシード姿で「執事」を自称しているか、薫にはわからないが。
407【】の人:2007/06/28(木) 23:43:35 ID:K9AXw5oy0
【義体整形外科医 緑川薫(2)】

「相変わらず酷い道ね。どこからもクレームは来ないのかしら」
 皮肉を込めて薫が言うと、美也は悪戯っぽく眼を細めて答えた。
「ここに『お客様』が訪ねて来られることは、稀ですから」
 ――私は「お客」のうちに入らないのね。
 薫は肩をすくめ、美也に導かれて建物の中に入った。
 二階まで吹き抜けのエントランスに、明かりは灯されていない。
 だが、高窓からの日差しに照らされた床を見れば、ぴかぴかに磨き上げられているのがわかる。
 ここは外見通りの廃墟ではなく、「生きた」建物なのだった。
 帆船や風車を描いた絵画、壁際に置かれた甲冑などの調度品は、いずれも西洋的な趣味である。
 どれだけの価値があるのか、薫にはわからないけど。
 自分が訪ねる毎週水曜日以外、この山荘は何に使われているのだろう。
 何度か美也に探りを入れてみたが、彼女が口を滑らせることはなかった。
 自称「執事」のあとについて、廊下を進む。
「お送りした『レシピ』は、ご覧いただけましたか」
 半ば振り返りながら美也がたずねて、薫はうなずいた。
「ええ。今回のテーマは『エビ』ね」
「新鮮な『素材』をご用意しております」
 美也は微笑む。
 ――あるいは「犠牲者」ね、と、薫は胸の内でつぶやく。
 薫が案内されて行った先は、浴室だった。
「ごゆっくりどうぞ」と言い残し、美也は立ち去った。
 この山荘で風呂に入らされるのは、初めてではない。
408【】の人:2007/06/28(木) 23:48:18 ID:K9AXw5oy0
【義体整形外科医 緑川薫(3)】

 最初の頃は、どこかに隠しカメラでも仕掛けてあるのではないかと警戒したが、自意識過剰だと思い直した。
 三十路手前の女の――それも、ほぼ「生身」の――裸など、この山荘の関係者は興味を持たないだろう。
 この場所には自分よりも十歳前後若く、その分だけ美しい娘たちが毎週、連れて来られているのだ。
 彼女たちの肉体にメスを入れるのが、薫の「仕事」だった。
 合法的な「手術」ではないことは、医師としての資格を喪った自分が手がけていることで明らかだ。
 それに、施される手術の内容も――
 
 
 風呂で身体を洗い、それから浴室の奥に設けられた「滅菌室」で全裸のままエアシャワーを浴びた。
 薫がかつて勤務していた大学病院にも用意されていなかった、先進的な設備だ。
 何しろ全身でドライヤーを浴びるようなものだ。タオルで身体を拭く必要がない。
 それは入浴者に楽をさせるためではなく、せっかく洗った身体にタオルから雑菌がつくことを防ぐためだ。
 滅菌室のさらに奥にはクリーンルームとしての設備を備えた更衣室があり、薫は、そこで白衣を着込んだ。
 下着なしで直接、白衣を身に着けることにも慣れた。
 この山荘は徹底して合理的だ。つまり、下着を滅菌処理する手間を省いているのだ。
 そして、更衣室の奥へ進むと、そこが「手術室」だった。
 広さは大学病院のものと同等。設備の質はそれ以上で、用意された医療機器はどれも最新式である。
 これほどの環境を、全く「実用性」のない「嗜虐的」な手術のために用意できるのは何者か。
 薫は、自分の「雇い主」の正体を知らなかった。個人か、複数人のグループかもわからない。
 よほど「力」のある存在であろうことは、想像がついたけど。
 無駄な思考を頭から追い払い、薫は、これから手がける手術に意識を向けた。
 手術室の中央に、裸の娘と、彼女に与えられる義体の部品を載せたストレッチャーが一台ずつ置かれていた。
409【】の人:2007/06/28(木) 23:50:20 ID:K9AXw5oy0
【義体整形外科医 緑川薫(4)】

 薫はストレッチャーに歩み寄り、薬品で眠らされている娘を見下ろした。
 二十代前半。くっきりした顔立ちに、ゆるやかに波打つ栗色の髪がよく似合う。
 長身で均整のとれた体つき。つんと上を向いた張りのある乳房、すらりと伸びた腕と脚。
 モデルかタレントと言われて納得できそうだ――「生身」のままならば。
 目覚めたとき、自分が「どんな姿」になっているか、彼女は承知しているのだろうか。
 ――私の知ったことじゃない、か。
「正規」の義体整形外科手術ならば、術後のリハビリに執刀医が立ち会うケースが多い。
 必要に応じて義体の調整や再手術の判断を下すためだ。
 だが、この山荘では、薫は最初から最後まで眠ったままの被験者を相手にメスを振るうだけだった。
 目覚めた被験者と顔を合わせる機会はない。
 もちろん、己の技量には自信がある。義体さえ設計通りの性能を発揮すれば、手術は確実に成功だ。
 だが、その義体の性能こそが、いささか薫には不安だった。
 何しろ「特殊」すぎるオーダーメイド品なのだ。
 その点を考えると、執刀医が術後の経過観察を行なうべきだと思う。
 それとも――「リハビリ」専門の担当医が、自分とは別にいるのだろうか。
「特殊」な義体を与えられた娘に、どんなリハビリが行なわれるか、まるで想像つかないが。
 薫は、義体の部品に眼を向けた。
 全てが銀色に輝くそれは、両腕と下半身、それに若干の付属品で構成されていた。
「被験者」となる娘の上半身は、ほぼ生身のまま残される。
 それが、ここで行なわれる手術の通例だ。
 ならば――毎回、同じ趣向を求める「雇い主」は、やはり特定の個人だろうか?
 再び浮かんだ無駄な考えを追い払うように、薫は首を振った。
410名無しさん@ピンキー:2007/06/28(木) 23:51:44 ID:uMFzkOu80
>>401
情報サンクス!スカイライダーにそんな萌えなシーンんがあったのか!!やはり石ノ森章太郎はサディストだなww
漏れも奴に釣られてそういうフェチになってしまったわけだがw
ライダーの話自体には興味無いが、その話だけ見たいな。
411【】の人:2007/06/28(木) 23:52:19 ID:K9AXw5oy0
【義体整形外科医 緑川薫(5)】

 自分の仕事は「手術」、それだけだ。
 眠り続ける娘のために用意された、およそ「非実用的」な義体――
 下半身は、全体の形状が人魚のものに似て、尾びれまで備えている。
 だが、よく見れば複数の体節に分かれ、そこに短い脚が生えた構造は、むしろ節足動物だ。
 そして、両腕は肘から先のみ義体に換装されるが、それは大きなハサミの形である。
 美しい娘は、肉体の半分を甲殻動物――「海老」を模った機械に置き換えられるのだった。
 たとえ被験者が同意の上だとしても、それが「まともな手術」であろうはずがない。
 
 
 薫がこの山荘で「手術」を手がけるようになったのは、一年半前からである。
 だが、全ての始まりは二年前、薫が医師免許を喪う原因になった、ある事件だった。
 当時、薫は京都の大学病院の勤務医だった。
 その夜の義体整形外科の当直は、薫ひとりだった。それ自体は珍しいことではない。
 義体整形外科の施術は、事故や病気で失われた身体機能を、機械装置で代替させるものである。
(近年は「プチ義体整形」と称し、ファッション目的で健康な肉体にメスを入れるケースも多いが。)
 本来、リハビリテーションの一環として行なわれるものであるから、緊急に対処が必要な事態は稀なのだ。
 その稀な事態が、起きてしまった。
 
 
 午前一時過ぎ、府の消防本部から病院に、救急患者の受け入れ要請があった。
 患者は四十代の女性で、残業帰りの夫を迎えに行くため自家用車を運転中、トラックに追突されたという。
 救急救命担当の医師は了承し、外科の当直医と、義体整形外科の当直の薫が応援に呼ばれた。
412【】の人:2007/06/28(木) 23:53:53 ID:K9AXw5oy0
【義体整形外科医 緑川薫(6)】

 搬送されて来た患者は、まだ生命があるのが不思議な状態だった。
 大破した車から救出される際に四肢を切断され、残った肉体も臓器を含めて著しい損傷を負っていた。
 緊急に義体への脳移植を行なうべきだと薫は提案し、他の二人の医師も同意した。
 四時間がかりの手術は薫が執刀した。脳移植を伴う全身義体化手術の執刀は初めてだが、不安はなかった。
 それは自信というよりも、患者の命を救うことへの使命感だった。
 手術は無事、成功した――筈だった。
 だが、直後に患者は容態を急変させて、死亡した。
 法の手続きに則って解剖が行われ、死因が明らかになった。
 細菌感染による脳細胞の壊死――
 あり得ないことだった。滅菌措置は完璧に行なったのだ。
 
 
 薫にとって不幸なことに、患者は著名な弁護士の妻だった。
 夫の専門は企業法務だが、政財界に広く顔が利いた。その圧力が働いたのかもしれない。
 薫は、業務上過失致死罪と医師法違反の容疑で逮捕された。
 過失と決めつけた容赦のない取調べで、薫の医師としてのプライドはズタズタになった。
 刑事たちは執拗に、技術も無いのに無謀な手術に踏み切ったのは名誉欲のためだろうと詰問した。
 さらに、接見に訪れた病院の顧問弁護士は、過失を認めなければ実刑は免れないだろうと薫に告げた。
 その場合、自分が弁護を引き受けることはできないとも。
 それは病院側が、全ての責任を薫に負わせる意向であることを意味していた。
 自暴自棄になった薫は容疑を認め、裁判の結果、執行猶予付きの有罪判決を受けた。
 薫は控訴せず、刑の確定とともに医師免許を喪った。
413【】の人:2007/06/28(木) 23:55:27 ID:K9AXw5oy0
【義体整形外科医 緑川薫(7)】

 追い討ちをかけるように、死亡した患者の遺族から、慰謝料を請求する民事訴訟を起こされた。
 原告は周到なことに、病院への訴訟と、薫個人への訴えは別々に提起した。
 おそらく、原告の企業法務弁護士は、最初から病院と争うつもりはなかったのだ。
 医学界の重鎮である大学の教授連中は、原告となった弁護士の顧客である企業経営者たちの親しい友人だ。
 病院は、すみやかに和解した。
 未熟な医師の暴走を許した監督不行届をお詫びしたいと、病院の幹部は記者会見で謝罪した。
 病院を解雇されていた薫は、自分の味方となる弁護士を探すところから始めなければならなかった。
 
 
 薫の父親は歯科の開業医だったが胃癌を患い、娘の医学部入学を見届けて亡くなった。
 母親はそれよりも前、薫が中学生のときに、交通事故で亡くなっていた。
 父親の死亡保険金は、薫の学費と、父親自身の借入金の返済で消えた。
 父親は癌が見つかる直前に、歯科医院の大掛かりな改装で借金を作っていたのだ。
 勤務医となって四年目の薫に、財産と呼べるものはなかった。
 所持品で換金できるものは、ほぼ全てお金に換えて、弁護士費用を工面した。
 弁護士会の法律相談を通じて、依頼を受けてくれる弁護士も見つけた。
 その弁護士からは、原告と和解できたとしても相当の和解金の支払いは覚悟しろと最初に忠告された。
 
 
 原告に薫との和解の考えはなかった。
 医療過誤訴訟で患者側を救済する先例を作るのだと、原告はマスコミ向けにコメントを発表した。
 病院とは和解していることとの矛盾を指摘する者はいなかった。
414【】の人:2007/06/28(木) 23:56:58 ID:K9AXw5oy0
【義体整形外科医 緑川薫(8)】

 原告は法曹界の親しい友人で、いずれも著名な弁護士五名からなる弁護団を仕立ててきた。
 本人は高校生の娘とともに、あくまで遺族の立場で裁判に臨むかたちだった。
 それはマスコミの同情を誘う戦術として効果的だった。
 いまや、薫は社会の敵だった。
 マスコミによれば、薫は医師としても人間としても未熟で傲慢な殺人者だった。
 人を殺して執行猶予は甘すぎる、刑事裁判をやり直せと主張する評論家さえいた。
「元恋人」は薫のサディスティックな性癖を週刊誌に暴露した――その男に薫は全く心当たりがなかったが。
 
 
 患者の死から半年後に、民事裁判は始まった。
 第一回の口頭弁論で、薫はあらためて医療技術、職業倫理、人格まで含めて徹底的に攻撃された。
 だが、そもそも被害者の車に追突したトラックは盗難車だった。
 運転していた若い男は現場から逃走し、現在まで身元不明のままだった。
 被害者の死について、第一義的な責任は逃亡した運転手にある。
 たとえ医師の過失がなくても、危篤状態で搬送された患者は助からなかったのではないか。
 薫の側の弁護士はそう指摘したが、相手方の鋭い舌鋒に比べて、効果的な反論とはいえなかった。
 
 
 薫はボロボロに傷ついて裁判所から帰宅した。
 医師時代のマンションは家賃が払えなくなり、彼女は六畳一間のアパートに引越していた。
 薫以外の住人は外国人ばかりだった。
 彼らならば、新しい隣人がマスコミを騒がせている殺人女医だと気づく心配はなかったけど。
415【】の人:2007/06/28(木) 23:58:23 ID:K9AXw5oy0
【義体整形外科医 緑川薫(9)】

 部屋の前まで来ると、ドアの下の隙間に白い封筒が差し込まれていた。
 郵送されたものではないようだ。
 嫌がらせの手紙だろうか。
 薫は新しい住所を誰にも知らせたくなかったが、執行猶予中の身でそれは叶わなかった。
 何人もの司法関係者が薫の住所を知っていた。そのうちの誰からか、住所が外部に漏れても不思議はない。
 封筒を拾って部屋に入る。
 表書きを見ると、『緑川薫先生』と、万年筆の丁寧な字で記されていた。
 嫌がらせの印象は受けなかった。薫は封筒を開けてみた。
 中に便箋が入っており、こう記されていた――

『前略 緑川先生
 先生のメスは、いままで何人もの患者に希望を与えました
 医師としての誇りを取り戻したいとお考えになりませんか
   090−XXXX−XXXX  滝まで』

 差出人はマスコミ関係者だろうと、薫は思った。取材の申し込みというわけだ。
 これまで原告寄りの報道ばかりだから、そろそろ目先を変えて被告の言い分も取り上げてみよう。
 そうマスコミが考えても、おかしくはない。
 だが、いまさら泣きごとを言って、裁判の行方が変わるとは思わなかった。
 薫自身が刑事裁判で、己の罪を認めたのだ。
 あとは、どこまで慰謝料がハネ上がるかの話だ。
 それがいくらであれ、医師の職を失った薫には、一生かかっても払えない金額だろう。
416【】の人:2007/06/29(金) 00:00:11 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(10)】

 大学病院の顧問弁護士に言いくるめられて過失を認め、実刑は免れた。
 しかし、その結果がいまの生活では、刑務所に入るのと変わらなかった。
 いや。プライドを捨てずにいられた分、容疑を認めず刑務所に行ったほうがマシだったろう。
 けれども、いまさら違う道を選び直すことはできない。
 自ら命を断つのでなければ――それも考えないではなかったが――薫はこの道で、生きるしかなかった。
 そして、生きるためには現実問題、差し当たっての金銭が必要なのだ。
 薫は今夜の夕食代にも事欠いていた。朝食も昼食も抜いていた。
 社会の敵として顔を知られすぎた薫は、アルバイトさえできないのだ。
 マスコミの取材に応じれば、いくらか謝礼がもらえる筈だった。
 浅ましいとは思ったが、選り好みできる立場ではなかった。
 財布に一枚残ったテレホンカードで、薫は近所のコンビニの前の公衆電話から、滝という人物に連絡した。
 使いかけのテレカは換金できず、手元に残っていたのだ。
 
 
 滝は手紙の字から受けた印象にふさわしく、落ち着いた喋り方をする男だった。
 今夜、食事をしながらお話ししませんかと言われては、断る気になれなかった。
 医師時代には、そう言って薫を誘う男は何人もいて、断る口実を探すほうが苦労したのだが。
 薫を招待する店として、滝は、芸能人がよく訪れることで有名なダイニングバーの名を挙げた。
 客のプライバシーを何より尊重する店なので、落ち着いて話ができるのだという。
 店までの足は、ハイヤーを迎えに寄越すということだった。
 ただの取材でそこまでVIP待遇するのか、訝しくはあった。
 だが、いまの薫には電車賃の二百円さえ貴重で、ありがたく申し出を受けるほかなかった。
417【】の人:2007/06/29(金) 00:01:50 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(11)】

 店に着いた薫は、奥の個室に案内された。
 そこは座敷だったが、ガラス張りのテーブルが青を基調とした照明に映え、小洒落た印象である。
 先に席に着いていた男が立ち上がり、薫を迎えた。
「緑川先生、よくお越しくださいました」
 男は四十前後だろうか、細身で眼鏡をかけ、スーツ姿で、一見するとビジネスマン風だった。
 製薬会社か義体メーカーの営業マンと言われれば、信じてしまいそうだ。
 男は「お電話でお話しした滝」と名乗り、薫に席を勧めた。
 あらかじめ言いつけられていたのだろう、すぐに店員が酒と料理を運んで来た。
 
 
「さあ、お一つ」
 青いガラスの盃に、同じ色の徳利からよく冷えた酒を注がれ、軽く一息に干す。
 半年ぶりの酒の辛さが、眼にしみる。
 まだ、滝という男が味方と決まったわけではないのに。
「もう一つ、いかがですか」
 もう一杯、注がれた酒を今度は、ゆっくりと干した。
 滝は微笑を浮かべ、その様子を見守っている。
「……あ、すいません。私ひとりだけ」
 薫が盃を置き、徳利に手を伸ばすと、
「いえいえ、先生がお客様ですから」
 滝はそれを遮り、盃に自ら酒を注いだ。そして、茶目っ気のある笑みを見せ、
「でも、ここからは、それぞれ手酌ということでよろしいですか?」
418【】の人:2007/06/29(金) 00:05:59 ID:K9AXw5oy0
【義体整形外科医 緑川薫(12)】

「ええ」
 薫は笑って頷いた。笑うのも半年ぶりのことだった。
 それからしばらくは、当たり障りのない話をした。この店のことや、店を訪れる芸能人たちのこと。
「滝さんも、この店によく来られるんですか?」
 薫は訊いてみた。
「ええ」
 滝は頷いて、
「京都では、ここが馴染みですね」
「普段のお仕事は、東京ですか?」
「まあ……日本中を、飛び回ってます」
 滝は苦笑する。
 薫は、箸を置いた。仕事の話が出たところで、切り出すべきだと思った。
「……正直なところを、お話ししたいのですが」
「はい」
 滝も盃を置く。
 薫は姿勢を正して、
「私は、お金に困っています。でも、だからこそ、自分を安売りするつもりはありません」
「それは当然です」
「滝さんは、何か仕事の件で、私を招待してくださったのでしょう。それは、どういったお話ですか?」
「緑川先生に、ある医師の代わりを務めて頂きたいのです」
「医師の代わり……?」
「ええ。『彼女』は、我々にとって貴重な存在でしたが、事情があって仕事を続けられなくなった」
419【】の人:2007/06/29(金) 00:07:53 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(13)】

「でも……ご承知と思いますけど、私は、もう医者ではありません」
「その点も含めて、緑川先生ならばお願いできると思ったのです、『我々』としては」
「我々……?」
 薫は、滝と名乗る男の顔を、じっと見た。
 相手は微笑を浮かべ、薫を見つめ返している。
 薫は口を開いた。
「……つまり、免許を喪った医者じゃなければ引き受けないような、非合法な仕事?」
「そう言うと語弊がありますね。そもそも合法、非合法とは何ですか。何がそれを決めるのです?」
 穏やかな口調も表情もそのままで、滝は言った。
「法律それ自体ですか? 違いますね。人を裁くのは人間です。それも『力』を持った人間です」
 手酌で酒を注いで、盃に口をつけ、
「裁かれるのは、弱い者ばかりだ。今度の裁判で、先生も思い知らされたでしょう?」
 薫は黙って、滝を見つめる。
 この男は、いったい何者なのか。マスコミなどでないことは、確かだろうけど。
 滝は言葉を続けた。
「先生が巻き込まれた、あの事件ですが、そもそもの原因は被害者の車にトラックが追突したことです」
「私の弁護士も、そう主張したわ。でも、患者が助かると思ったから手術したのだろうと反論された」
 薫は自嘲の笑みを浮かべる。
「脳移植など考えないで、通常の外科的措置で終わらせておけば、私の責任にならなかったのでしょうけど」
「その話は、ひとまず置いておきましょう。トラックを運転していた若い男は、その場から逃走した」
 滝は、盃に口をつけ、
「ですが、何人かの目撃者が、男の顔を見ていた。車内には指紋も残されていた」
420【】の人:2007/06/29(金) 00:09:02 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(14)】

「でも、前科のある犯罪者と指紋は一致しなかった。その男が別の犯罪で捕まらない限り、身元は不明のまま」
 薫が言うと、滝は眼を上げて、射抜くような視線を彼女に向けた。
「身元は、ほぼわかっていました。警察がそれを発表しないだけで」
「え……?」
 薫は愕然とした。
「……どういうこと、それは?」
「被疑者は十五歳の少年でした。トラックを盗むところを、知人に目撃されていた。相手が少年ですから、
警察は当然、慎重に捜査を進めるべきでした。しかし不手際があった」
「不手際?」
「間の抜けた話で、警察は事件当夜の少年のアリバイを、彼の友人たちから訊いて回ったんです」
 薫は言葉もなかった。トラックを運転した加害者が明らかなら、なぜ自分ひとりが責められるのか?
 加害者が少年なら、その親に対して、被害者の遺族は慰謝料を請求できるのではないか?
 滝は言った。
「少年は自分が疑われていることを知った。そして、逃げきれないと思い自殺した」
「自殺したとしても、民事の責任は、その両親が……」
「無理ですね。警察は捜査を打ち切った、自分たちの不手際を隠蔽するために。加害者は永遠に不明のままだ」
「…………、そんなこと……」
「だから、裁かれるのは弱い者ばかりと言ったのです。緑川先生、あなたのことです」
 薫は言葉が見つからず、黙って首を振る。
 みじめさに泣きたくなった。自分は警察の――国家権力の生贄にされたのか。
 医師として患者を助けようとしただけの自分が、全てを喪ったのは、権力による陰謀だったのか。
 だが……待て。冷静になれ。相手の話が真実である保証はない。
421【】の人:2007/06/29(金) 00:12:51 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(15)】

「……あなたは、どうしてそんなことを知っているの、警察が隠蔽したのなら?」
 たずねる薫に、滝は答えて言った。
「私が、力を持つ側の――そうした『力』に奉仕する人間だからです。私個人には、何の力もありませんが」
「つまり、あなたが仕える『主人』は、法律を超越する権力を持っていると?」
「そう思って頂いて結構です」
「そんな突拍子もない話を信じろというの? 自殺した少年のことも、あなたの作り話じゃないと?」
「お疑いになるのは、もっともです。私が奉仕する『力』がどのようなものか、お確かめください」
 滝は、携帯電話を薫に差し出した。
「先生の弁護士に連絡してください。原告が訴えを取り下げたと教えてくれる筈です」
「訴えを……まさか」
「電話一本で答えが出ますよ。さあ」
 薫は携帯を受け取り、これまで何度も掛けたので暗記していた弁護士事務所の番号に電話した。
「――ああ、緑川さん! ちょうど、こちらから連絡しようと思ってたんです……!」
 弁護士の声は興奮していた。原告側の代理人から、訴えの取り下げの連絡があったという。
 近日中に裁判所から正式な書面が送達され、被告である薫が同意すれば、裁判は終わるということだった。
「こんなことは滅多にありませんよ。明らかに相手が有利な裁判で……!」
 まくしたてる弁護士の言葉を遮り、薫は明日、事務所を訪ねると伝えて電話を切った。
 そして、黙って滝に携帯を返す。
 滝は穏やかな笑みのまま、薫に言った。
「理解していただけましたか? 私たちの『主人』に、どれだけの『力』があるか」
「でも、どうやって……? 脅迫したの、原告を……?」
「彼は『大きな敵』を作りました。それは先生とは関係のないところで起きたことですが」
422【】の人:2007/06/29(金) 00:16:11 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(16)】

「政治家や財界に顔が利く有名弁護士でも、屈服させることができるの、あなたの言う『力』は?」
「それだけでは済みません。彼は、二度と立ち直れないほどの破滅を味わうことになります」
 表情も変えずに冷酷な言葉を、滝は口にした。それが、この男の本性だったのだろう。
「その話の前に、もう一つ『我々』の知る事実をお教えします。あの夜、先生が行なった手術は成功した
筈でした。それなのに、患者は容態を急変させて死亡した。警察はもちろん、病院も、それを先生のミスと
決めつけた。だが、そうではないことは、先生自身がご存知でしょう」
「いまとなっては、自信がないわ」
 薫は眼を伏せ、自嘲した。
「死因は細菌感染による脳細胞の壊死。司法解剖の結果まで警察が操作したわけじゃなければ、執刀医である
私の責任は免れない」
「いいえ、責任はありません。感染は意図的に引き起こされたからです。先生を陥れようとした者の手で」
「なっ……!?」
 薫は眼を剥いた。
「そんなこと、いったい誰が、なんでっ!?」
 滝は微笑んだ。その穏やかな笑みは、しかし――薫に事実を突きつけることを愉しんでいるかのようだ。
「先生は優秀な医師だ。それに、お美しい。一方的に思いを寄せてくる男性は、いくらでもいたでしょう。
たとえば、同僚の中にも」
「……まさか……」
 薫の表情が凍りつく。心当たりはあった。
 あの事件の夜の、当直の外科医だ。それまで何度も交際を申し込まれ、そのたびに断っていた。
 事件の数日前には、薫は上司である義体整形外科部長に、外科医の行為はハラスメントに当たると訴えた。
 問題の外科医は、所属する臨床外科の上司から叱責を受けた筈だった。それを逆恨みして……
423【】の人:2007/06/29(金) 00:19:10 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(17)】

 滝は言葉を続けた。
「先生に有罪判決が出た直後のことです。その愚かな男は、自分の行為が緑川先生を破滅させる結果になり、
なけなしの良心の呵責に耐えかねて、全てを上司に告白した。助かる筈のない患者だと思った。だが、その
生命を救ったとき、緑川先生は英雄になる。自分は同じ医師として、それに嫉妬したのだと――綺麗ごとの
動機を並べ立ててね」
「それで、その上司はどうしたの!?」
 答えは想像がつく。しかし、薫は訊かずにいられなかった。
 滝は穏やかな笑みのまま告げた。
「病院の幹部同士、協議した上で、その男を依願退職というかたちで病院から去らせました。口止め料として、
多額の退職金を支払って。結局、その男は自ら生命を絶ちましたが」
「……なんで……」
 あまりのことに、薫は言葉が出ず、口をぱくぱくさせる。
 何の罪もない自分が犠牲になり、患者を死なせた実行犯は病院から守られていたなんて。
「生贄は緑川先生ひとりで充分だからですよ。いまさら真犯人の存在が明らかになれば、病院にとって、
大きなスキャンダルだ」
 薫は、熱いものがこみ上げてきた眼を隠すように、額に手を当てる。
 ところが、実際に出て来たのは涙ではなく、笑いだった。
「……まるで、この世の中の悪意が全て、私に向けられているようだわ」
 薫は笑いながら言った。
「でも、滝さん。そんな話を、いまさら私に教えてくれて、あなたは私にどうしろというの?」
「先生が、いま置かれている『弱者』の立場を抜けて、『力』の側に立つきっかけを差し上げたいと思います。
具体的には――先ほど申し上げた通りです。緑川先生には、ある医師の代わりを務めて頂きたい」
424【】の人:2007/06/29(金) 00:21:29 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(18)】

「免許を喪った私に? それはおかしいわ」
 薫は乾いた笑いを、滝に向けた。
「あなたが言うほどの『力』を持つ――個人かグループか知らないけど、そんな存在なら、言いなりで働く
医者はいくらでもいるでしょう、私みたいに免許を喪った犯罪者を使わなくても? それとも、私が忠誠を
誓えば『御主人様』は、刑事裁判をやり直して、私に医師免許を取り戻させてくれるのかしら?」
「緑川薫として免許を取り戻すことは、簡単ではないです。一度下った有罪判決を取り消すのは」
 滝は言って、手酌で注いだ酒をあおる。視線をそらすためのような、芝居じみた仕草だ。
「不可能ではないですよ。だが、そのために再び、緑川先生が社会の注目を集めることになるのは困る。
ある『仕事』を先生にお任せしたい『我々』としては」
「なら、お話はこれで終わりね。私は、とっくに破滅した人間。喪うものは何もないわ。喪ったものは山ほど
あるけど、それを取り戻させてくれるわけではないとおっしゃるし」
「私の説明が悪かったですね。先生は、医師の仕事に戻れるのです。ただ、名前だけは変えて頂きます」
「別人に成りすませと言うの? 『ある医師の代わり』って、そういう意味?」
 薫は、あきれて笑うしかなかった。
「そんなの、無理に決まってる」
「どうしてですか?」
「私は日本中に顔を知られているわ、殺人女医として」
「そんなこと、すぐに忘れますよ、世間の人たちは。あるいは覚えていたところで、どうだと言うのです?」
 滝はもう一杯、手酌で酒を注ごうとして、徳利が空であることに気づき、肩をすくめた。
「お酒、追加を頼みますね」
 テーブルの端にセットされたチャイムを押してから、言葉を続ける。
「誰かが、先生を告発したとします。偽名を使って開業したと。しかし、そんな告発は受けつけられません」
425【】の人:2007/06/29(金) 00:28:34 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(19)】

「あなたの『主人』の『力』で?」
 訊き返す薫に、滝は頷くように顎を引き、
「先生には新しい名前の医師免許、戸籍、住民票、パスポート、運転免許そのほか必要なものをご用意します。
開業資金も用立てましょう」
「――失礼します」
 と、店員が来て、やはり事前に言いつけてあったのか、先ほどと同じ徳利を、薫と滝、それぞれの前に置く。
 店員が出て行くのを待ってから、滝は言葉を続けた。
「別人に成りすますという話ですが……先生には、これまで存在したことのある誰かを演じて頂くわけでは
ありません。ご用意するのは、全く架空の新しい名前です。彼女がどんな性格でどんな趣味の人間になるかは、
先生次第。緑川薫とほぼ同一人物であっても構わない。ただし、その緑川薫の名前だけは捨てて頂きますが」
「簡単に言ってくれるわね。名前を捨てろなんて」
 薫は眼を伏せ、ため息をつく。
「緑川の家は、祖父の代から医者よ。たった一人の娘であり孫娘が医者になることを、父も祖父も望んでた」
「そうして医師になった先生から、全てを奪った相手がいるのです。報復したいと思いませんか?」
「報復って……」
 薫は、あきれたように口を半開きで、滝の顔を見つめる。
 滝は相変わらずの穏やかな笑顔で、言った。
「残念ながら、警察や大学病院への報復は叶いません。彼らは組織であって、個人ではない。しかも、組織
全体としては『力』に近い側だ。まだ役に立ってもらう必要がある。とはいえ、ご希望なら、何人かの関係者を
生贄として、先生の前に引き出しても構いませんが」
「警察でも病院でもないなら、私は誰に報復できるの?」
「『我々』の共通の敵、先生を民事で訴えた、例の弁護士です」
426【】の人:2007/06/29(金) 00:32:41 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(20)】

 薫の顔つきが変わった。感情を抑え、無表情を装っているが――膝に置いて拳を握った手は、震えている。
 しかし、言葉を発しないままの薫に、滝は微笑みながら話を続けた。
「それには義体整形外科医としての、緑川先生の腕が必要なんです。いささか事情がありましてね。報復の
方法が、すでに指定されているのですよ、我々の『主人』から」
「……私に何をさせようというの?」
 再び眼を伏せ、薫は言った。
 投げやりな態度を装っているが……彼女の心の底には、滝の言う「報復」への興味が湧いていた。
 自分のプライドをズタズタにしてくれた、あの企業法務弁護士への怨みは忘れられるものではない。
 滝は傍らに置いていたアタッシュケースを開け、写真の束を取り出して、テーブルの上に一枚ずつ並べた。
「法廷でお会いになったでしょう。水城涼香――あの弁護士の娘です」
 望遠レンズで隠し撮りしたものらしい。
 長い黒髪のセーラー服姿の少女が、学校の門を出て、通学路を歩いて行く様子を追ったものだ。
「何よ、これ……写真を撮ったのはストーカー?」
「いいえ。こういった仕事専門のプロですよ。最後の一枚、いま現在の彼女の姿が、これです」
 それは明らかに、ほかの写真と違った。
 隠し撮りも犯罪を匂わせるものだが、その写真は犯罪の証拠そのものになり得た。
 涼香という少女が、全裸で眼を閉じ、手術台らしいものの上に横たわっている。
「……私に何をさせる気!?」
 薫は叫び、滝のほうへ写真を押し返した。
「これが、あなた方の言う『報復』? 父親の弁護士が何をして『御主人様』の機嫌を損ねたか知らないけど、
こんなに若い子を誘拐して、義体整形外科医を連れて来て……だから免許を喪った医者が必要なのね?
まともな医者なら、まだ喪うもののある人間なら、躊躇するようなことをさせたいんでしょう!」
427【】の人:2007/06/29(金) 00:36:49 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(21)】

「報復ですよ」
 滝は、その言葉を繰り返した。
「見せしめといってもいい。一度は『力』の側に立ちながら、『主人』に刃向かった者がどうなるか、皆に
思い知らさなければなりません」
「皆というのは誰? 世の中みんな?」
「一般大衆など眼中にありません。『力』に近い位置にいる、ほかの者たちのことです」
「わけがわからない」
 薫は笑いを引きつらせて言った。あまりに荒唐無稽で、薫が滅多に読まない漫画のような話だ。
「法律を超越するほどの権力者が、女の子を誘拐して無理やり義体化するようお命じになると? あなた方
の『御主人様』はどんな趣味? ちなみに訊くけど、どういう義体にするの?」
「鳥かごです」
「鳥……かご?」
「最低限の生命維持機能だけ備えさせて。その中に、彼女の生身の頭部を収めてやります」
「……そんなこと……」
 薫は、あきれて言葉を失う。
 生命維持のためだけの機械装置に、意図的に胴体から切断した人間の頭を繋げる。
 外国では例がないわけではない。ただし、それは重犯罪者への刑罰としての措置だ。
 十代の少女に、そのような手術を施すのでは、執刀医こそ罪に問われるだろう。
 滝の「主人」の持つ権力は法律上の立件を妨げるだろう。だが、人間としての倫理が執刀医を糾弾する筈だ。
「……どこの、どんな医者が、そんな手術を引き受けるというの? まともな神経じゃ執刀できないわよ」
「先生がお受けにならなければ、ほかを当たるだけのことです。人間は意外としぶといし、欲深いんですよ。
金銭か、権力に擦り寄ることか、目的は様々ですが、『我々』の意に沿おうとする者はいくらでもいます」
428【】の人:2007/06/29(金) 00:40:20 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(22)】

「そして……あなた方の秘密を聞かされながら、手術を拒んだ私も、無事では済まないのかしら?」
 たずねる薫に、滝は穏やかな笑みで「いいえ」と首を振る。
「失礼ながら、いまの緑川先生は、全くもって無力で無害な存在です。仮に、この写真を証拠として、
水城涼香が拉致された事実を警察に通報したとします。だが、警察は動きません。マスコミも同様です」
「あなたの『御主人様』が、それを許さないと?」
「水城弁護士も、娘の涼香という少女も、もはやこの社会からオミットされた存在です」
「弁護士の父親だけならわかるわ。でも、彼の娘まで、どうしてそんな……」
「それが水城弁護士にとって最大の痛手となるからです。彼からは、何もかも奪わなければならない。
娘の無残な姿を眼にすることで、彼は、もはや自分に何も残されていないことを思い知るでしょう」
 薫は、テーブルの上の写真にもう一度、眼をやった。
 手術台に横たわる少女。そして、下校途中の同じ少女――
「……私は、この涼香という子に悪魔と呼ばれたわ。刑事裁判の法廷で、情状証人として出廷した彼女から」
 薫は顔を上げた。まっすぐに滝を見た。
「でも、だからといって、私が本物の悪魔に成り下がっていいのかしら?」
「それは先生次第です。この『仕事』をお受けになるのも拒むのも」
「父親に思い知らせるためでしょう? なら、彼女を一生、鳥かごに閉じ込めておく必要、ないと思うの。
娘の変わり果てた姿を、父親に見せつける。その目的が済んだら、この子……水城涼香を、私に引き渡して
頂けないかしら?」
「ほう?」
 穏やかな笑みのまま、滝は片眉を上げる。成り行きを愉しんでいるようだ。薫は言葉を続けた。
「もちろん、私には何の交渉材料もない。これは私の我がままでしかない。でも、聞き入れて頂けるなら私は、
あなた方に忠誠を誓う。ええ……悪魔に魂を売り渡すわ」
429【】の人:2007/06/29(金) 00:43:50 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(23)】

「水城涼香をかばおうと、そういうことですか?」
 たずねる滝に、薫は首を振る。
「違うわ。それが私なりの復讐。あの事件の前まで、私は自分で言うのも恥ずかしいけど、使命感に燃える医者
だった。その私のプライドを、彼女は踏みにじったのよ。だからね、あんなことさえなければ、私がどれだけ
立派な人間だったかを、でも、彼女が私を本物の悪魔に変えてしまったことを、思い知らせてやりたいの」
「先生が何をなさるおつもりか、わかりませんが……実に興味深い計画ですね」
 滝は満足げに頷いて、言った。
「水城涼香の扱いについて、この場ではお返事できませんが、先生のご希望は、私の『主人』に伝えます」
「なら、私の返事も、また後日でいいかしら?」
「結構です。こちらからのお返事は、それほどお待たせしないと思います。早ければ、明日にでも……」
 そして、薫は大きな「力」に仕える者の一人として、メスを振るうことになったのだ――
 
 
 最新鋭の外科手術装置は、大きなアームチェアのかたちをしていた。
 そこに腰掛けた薫は、首の後ろ――盆の窪に埋め込んだ電極を介して、装置と自分の脳を直結している。
 いまの時代、外科医の大半は、自分の肉体に電極を埋め込む最低限の義体化手術を受けていた。
 それによって装置を自らの腕として操り、複雑高度な手術を成功させることができるのだ。
 だから、外科医がメスを手にするとか、メスを振るうというのは、今日では比喩的な表現に過ぎない。
 薫自身の両手は肘掛けに置かれたまま、装置のマニピュレーター群が、被験者の肉体を切り裂く。
 そして、剥き出した神経組織や筋肉繊維を一本一本、義体に繋げる。
 モデルかタレント並みの美形であった娘の肉体は、いまや半分が銀色の金属部品に置き換わっていた。
 それも、実用性はカケラもないような――「海老」を模った義体に。
430【】の人:2007/06/29(金) 00:48:26 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(24)】

 短く不恰好な節足では、彼女は床の上をのろのろと這い回ることしかできないだろう。
 水中では、義体は巧妙にくねる仕掛けで、それなりの速度で泳げる仕様だが、慰めになるとは思えない。
 髪の間からは、銀色の触覚が突き出している。
 それは脳幹に埋め込んだ補助電脳に直結して、水中や暗闇でも立体的な空間認識力を与える仕掛けだ。
 不器用にしか活動できない「非実用的」な義体の彼女にとって、意味のあることかは不明だが。
 美しかった両脚と、両腕の肘から先は、身体から切り離されて医療廃棄物扱いだった。
(最終的に、どのように処分されるか、薫は知らされていないが。)
 ただし生殖器だけは廃棄物扱いを免れて、海老型義体の腰に「移植」されている。
 それは彼女にとって救いかもしれない。
 再度の手術で「まともな」人間型の義体を与えられる機会があれば、生身で残った生殖器は役に立つだろう。
 もっとも――彼女を、いまのような姿に変えた側の意図は、単に「凌辱」のためかもわからない。
 ――莫迦ね。これが何人目の「犠牲者」と思ってるの。私の手は、もう汚れきってるのだから。
 考えることは自分の仕事ではない、と、薫は自らに言い聞かせた。
 見ず知らずの娘たちの肉体を、指示された通りの義体に造り変える。
 それが、悪魔に魂を売り渡した薫の仕事なのだ。
 
 
 執刀を終え、薫は手術室に入ったときのルートを逆戻りして、最後はシャワーを浴びて、浴室を出た。
 美也が、にこやかな笑顔で待っていた。
「お疲れ様でした、緑川先生。お茶をご用意しています」
 美也のあとについて、薫は広い応接室に入った。
 窓辺のソファに案内される。窓の外は、いささか物寂しい山林が拡がるばかりだが。
431【】の人:2007/06/29(金) 00:52:41 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(25)】

 席に着いて、すぐに美也が紅茶とクッキーを運んで来た。
 薫は男装の娘の顔を見上げて、言った。
「たまには、あなたもご一緒にいかが、自称『執事』さん?」
「わたしは先生をお迎えしたホストではなく、あくまで執事ですから」
 笑顔を崩さず答える美也に、薫は眉をしかめてみせ、
「一人でお茶を飲んでると、落ち着かないのよ。本音はさっさと帰りたいけど、手術のあとの高ぶった神経で
車を運転したら、事故のもとだもの」
「わかりました。では、おしゃべりだけ、おつき合いさせて頂きます」
 美也は薫の向かいのソファに腰を下ろし、抱えていたお盆を脇に置いた。
 薫は言った。
「あなたはメイド姿のほうが似合いそうだけど。執事として男装の麗人を演じるなら、ポニーテールは変だし」
「パンツルックが好きなんです。なんだか、きりっとした印象じゃないですか。ボトムがパンツのメイド服が
あれば、着てみてもいいですけど」
「自分のファッションを選べるくらいには、あなたは自由な立場ということ?」
「ええ、まあ……」
 美也は苦笑して、
「私は、ただの『執事』ですよ。隠している正体なんてありません。先生はお疑いのようですけど」
 薫は紅茶に口をつけて、カップを置き、上目遣いで相手の顔を見る。
「あなたほど若くて可愛らしければ、ここで『手術』される側にいても、おかしくないと思ったの」
「それはどうでしょう? お声がかかったことはないですけど。きっと、ご趣味に合わないんだと思います」
「どなたのご趣味に?」
 たずねた薫に、美也は、にこにこと微笑むばかりで答えない。
432【】の人:2007/06/29(金) 00:55:56 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(26)】

 薫は、大きく息を吐いた。
「もしかして……もしかしてよ。長いものに巻かれろというのが、いまの私の座右の銘。私は『大きな敵』など
作りたくない。でもね、一つとても気になることがあって、その答えがどうであれ、私は立場を変えるつもり、
ないのだけど……」
「何のお話ですか?」
「私が仕えている『主人』って、もしかして、あなた?」
「……え?」
 美也は、眼をぱちくりさせて、それからくすくす笑い出した。
「どうして、そんな風に思うんですか、緑川先生?」
「あなたが、ただの執事である筈ないから。毎週、この山荘で自分と同じ年頃の女の子たちが、生まれも
つかない姿の義体に変えられていくのに、自分が同じ目に遭わされることはないと確信しているようだから」
「確信なんてないですよ。それに、この執事の服の下は、とっくに義体かも知れないでしょう?」
「それはないわね」
「どうしてですか?」
「人間型の義体が『御主人様』の趣味に合うとは思えない」
「そんな」
 美也は、くすくす笑って、
「でも、わたしが先生の『雇い主』だとして、架空の名前で医師免許を用意したり、毎週、この山荘に
女の子を一人ずつ、誰にも疑われることなく連れて来させたり……そんな『力』があるとお思いですか?
お金の力だとしたら、それは無理です。わたしが世界一の大金持ちの跡取り娘だったとしても、それだけで
権力は手に入りません。親から受け継いだ財産イコール権力だとしたら、横取りするのは簡単だもの。
周囲の人間が示し合わせれば、小娘ひとり、どうにでも始末できるでしょう?」
433【】の人:2007/06/29(金) 00:58:26 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(27)】

「あなた自身が財産を生み出せる、それだけの才能があるとしたら?」
 薫は、美也の顔を、じっと見つめた。
「例えば、あなたは天才科学者で、一日一件ずつ有用な発明を生み出せるとか」
「それはかなりの才能ですけど、権力に結びつくほど有用な発明って、どんなのです?」
「半導体とか、ソフトウェアとか、現代の産業の根幹分野。あるいは、一番可能性あるのは軍事目的」
「すごい人間ですね。もし、そうだとしたら、わたしって」
 美也は軽く肩をすくめてみせた。
「きっと『手術』に使う義体も、わたし自身の設計で、それは単に趣味だけど、普段は軍事用サイボーグの
研究なんかしちゃってるんだわ。この山荘の近所には専用の『動物園』があって、そこには先生に『手術』
させた動物型の義体の女の子たちが飼われているのね」
「女の子――メスだけ? 動物園ならオスも、つがいで飼えばいいのに」
 薫は何げなく言って――そんな自分自身に驚いた。
 冗談のつもりでも、冗談にならないだろう。自分が手がけてきた「手術」を考えれば。
 だが、いまさら罪悪感などなかった。むしろ滑らかに次の言葉が出て来た。
「男の子を『手術』する『仕事』があるなら、それもぜひ私に任せてほしいわね」
「残念ですけど先生、男の子は、わたしが自分で『手術』してあげるんです」
 美也の言葉に、薫は笑って、
「そちらこそ残念だけど、その話には無理があるわ。ポニーテールのおかげでわかるけど、あなたの首には
『電極』がないじゃない?」
「首の後ろでは目立ちますから、手術装置とのコネクタは腰椎に作ってあります、わたしの場合」
 にこにこしながら、美也は言う。
「でも……驚きました。先生、よくそこまで推理なさいましたね。ほとんど正解ですよ」
434【】の人:2007/06/29(金) 01:01:17 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(28)】

「え……ちょっと待って」
 薫は苦笑いした。当てずっぽうで言ったことなのに、それが事実だと認めようというのか。
 美也は立ち上がり、薫に向かって深々と会釈した。
「先生も、とうとう『こちら側』の人間になってしまったみたい。近いうちに招待状を送らせて頂きますね。
今度は、きちんと『お客様』として」
「招待状?」
 訊き返す薫に、顔を上げた美也は頷いて、
「『動物園』へのです。そちらの道は、この山荘の周りと違って綺麗に整備してますから安心してください。
それと、母にもお引き合わせできると思います」
「お母さん……あなたの?」
「先生の推理で違っていたのは、天才なのは、わたしではなく、わたしの母だということ。わたしも母に教育
されて、趣味の域での義体の設計は手がけてますけど、実戦投入レベルの軍事用の義体を開発するには、
もう少し勉強しないとなりません。幸い、才能は認められていて、母の財産を横取りされる心配はないですが」
 薫は、ぽかんと口を開けて、美也の笑顔を見つめる。
「……きょうの『海老』は……いえ、その前の動物型の義体もみんな、あなたの設計?」
「わたしの趣味で、わたしの設計です」
「驚いたわね……」
 薫は、大きく息を吐いた。あまりの成り行きに、どきどき心臓が高鳴っている。
「つまり、あなたと、あなたのお母様が、この世の中を支配する『力』の中枢にいると」
「この世から戦争がなくなることはありませんし、それであれば軍事技術は国家の最大の関心事でしょう?
ちなみに、わたしたちのクライアントは、この国の政府じゃありません。それでいて、この国に影響を及ぼせる
と言えば、どこの国かはお分かりと思いますけど。そもそも、この国で戦争はビジネスにならないんです」
435【】の人:2007/06/29(金) 01:10:27 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(29)】

「それは、きっと幸せなことなのだと、平和ボケした私は思ってしまうわ」
 もう一度、ため息をついた薫に、
「ええ……わたしだって、身勝手な言い分でしょうが、自分が暮らす国が戦争に巻き込まれるのはごめんです。
だって、そうなったら『動物園』も続けられないでしょう?」
 美也は言って、にっこりとした。
 薫自身、見ず知らずの娘たちへの嗜虐的な義体化手術を繰り返すことで、罪悪感など麻痺していたが……
 美也は母親の「英才教育」のおかげで、そもそも罪悪という観念を持たないのだろうと、薫は思った。
 
 
 薫が「野原裕美」の名前で開業している義体整形外科医院は、東京の渋谷にあった。
 三階建てのビル一棟が丸ごと彼女の持ち物で、一階は医院の診察室、二階は手術室で、三階は自宅だ。
 隣近所にも同業の医院のほか、ピアス屋やタトゥー職人の店が軒を連ねている。
 通りを行く若者の大半は、BM――ボディ・モディファイング(肉体加工)の愛好者だった。
 ピアス、タトゥー、肌をオレンジや紫に染める《スキン・ダイ》、指や腕や脚を機械化した《メタラー》。
 ゴーグル型の装置を眼窩に埋め込んでいるのは《ダイバー》だ。
 彼らは補助電脳を脳髄に組み込み、日常生活との並列処理で、常時ネット接続を愉しんでいる。
 夕刻――薫は近所に借りている駐車場にジャガーを停めて、医院を兼ねた自宅に歩いて戻った。
 山荘での「仕事」に出かける毎週水曜は医院の休診日である。
 それを承知しているシルバーアクセサリーの出店が、やはり毎週水曜に必ず、医院の玄関前に出ている。
 店主の娘はゴシックロリータと《メタラー》が結びついた、いわゆる《メタロリ》だ。
 両耳と左腕を黒い金属部品に換装した彼女は、悪びれた様子もなく笑って「御機嫌よう」と挨拶してきた。
 薫は苦笑するしかなかった。相手は向かいにある別の義体整形外科医院の常連なのだが。
436【】の人:2007/06/29(金) 01:12:07 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(30)】

 薫はビルの脇に設けてある、直接自宅の三階へ行ける階段を上っていった。
 玄関のドアをノックして、薫は「ただいま」と声をかける。
「――はーい」
 中から、明るい少女の声で返事があり、しばらくしてドアが開いた。
 水城涼香だった――いまは野原霧香と名乗らせているが。
 涼香は、親しい友人や家族に向ける笑顔で、薫を迎えた。
「お帰りなさい、先生。ちょうどカレーができたとこ」
「カレー? いいわね」
 薫も、にっこりとする。
 涼香は若草色のカーディガンと白いシャツにジーンズという普段着の上に、ピンクのエプロンを着けていた。
 長い黒髪は、頭の後ろで髪留めでまとめている。
 大人びて見えるが、まだ十八歳だ。しかし高校には通わず、薫の家で家政婦代わりをしている。
 ダイニングのテーブルには二人分の席が用意してあった。スプーンとフォークと生野菜サラダ。
 薫が席に着くと、涼香はすぐに盛りつけたカレーライスを運んで来た。
「可愛いエプロンね」
「あっ……これ? きょう買って来たんです」
 涼香はエプロンを両手で広げてみせた。左右のポケットにトマトのアップリケが縫いつけてある。
「お揃いで先生のも買ってありますよ。紫でアップリケが茄子なの」
「私が料理しないの知ってるくせに」
 苦笑いする薫に、涼香は「えーっ」と不満げな顔で、
「先生、お料理上手じゃないですか。あたしが初めてここに来た日に作ってくれたリゾット、すごい美味しかった」
「料理が苦手なわけじゃないの。ただ忙しくて作る暇がないってこと」
437【】の人:2007/06/29(金) 01:14:25 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(30)】

「あたし……先生と一緒にお料理したいのになあ」
 そう言って涼香は、上目遣いに薫を睨む。
「わかったわかった」
 薫は笑って、
「とりあえず、美味しいカレーを頂きましょう」
「一緒にお料理するって、約束してくれないんですかあ?」
 口をとがらせる涼香に、薫は素知らぬふりでスプーンを手にとり、
「さあって、きょうのカレーは、ポークとチキン両方入ってるのね。私、これ好きなんだ」
「ずるいですよう、先生ってば」
「霧香ちゃんも冷めないうちにどうぞ。いただきまあっす」
 薫はスプーンを持ったまま両手を合わせ、食べ始める。
「……もうっ!」
 涼香はふくれ面をしてみせたが、すぐに笑ってしまい、「いただきます」と手を合わせて食べ始めた。
 
 
 食後は、涼香が皿洗いをしている間、薫はリビングのカウチに寝そべり、テレビのニュースを観た。
 遠い国の戦争の話題だ。この国とは関わりがない。
 美也と、その母親にとってはビジネスの対象であるらしいが。
 皿洗いを終えた涼香が、薫のそばに来た。食事中とは違った、暗い表情でうつむきながら、
「……先生、あの……きょうも検査、なさるんですか……?」
「そうよ。霧香ちゃんのために、必要なことだもの」
「せめて一日おきとかに、できないんですか? あたし……」
438【】の人:2007/06/29(金) 01:22:12 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(31)】

「……霧香ちゃん」
 薫は立ち上がり、涼香の両手をとった。
「いまは健康な人と変わらない生活を送っているけど、あなたの肉体は一年半前、大きな損傷を負ったの。
それこそ……頭と身体の神経が切り離されるような損傷よ。自由に手足を動かせるようになったのは、脳幹に
埋め込んだ補助電脳のおかげ。その調整は可能ならば毎日、続けなくちゃならないの。私は、あなたの主治医
として……それ以上に保護者として、責任があるのよ」
「でも……」
 涼香はうつむいたままで、
「検査が終わったあと、あたし……いつも酷い気持ちで眼が覚めるんです。検査の間のことなんか、何も
覚えてないのに。覚えていたとしても、先生が、あたしに酷いことをする筈ないのに。それなのに、あたし
……先生を自分の敵みたいに思ってしまってるんです。一年半より前の記憶のない、どこかに家族がいるのか
いないのかもわからない、あたしを引き取って、実の家族みたいに良くしてくれている先生を……」
「霧香ちゃん」
 薫は微笑み、少女の頭を撫でた。
「それは、あなたのつらい経験が見せる悪夢。記憶を失くしても、肉体に損傷を負った経験が、どこかに
染みついているのね。でも、霧香ちゃん自身には責任のないことよ。検査のあとの霧香ちゃんが、私を
怨んだり憎んだりしても、それは悪夢のせいとわかってるから、私は怒ったり傷つかない。だから……ね?」
「……はい」
 涼香は、こくりと頷いた。
 
 
 医院の手術台に、薫は涼香を寝かせた。
439【】の人:2007/06/29(金) 01:24:18 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(32)】

 涼香の枕の下に手を入れ、首の後ろのコネクタに、薫は検査装置のケーブルを繋ぐ。
「先生……」
 不安げな顔の涼香に、薫は微笑んで、
「大丈夫」
 と、少女の手を握ってやった。
「霧香ちゃんが眠るまで、この手を繋いでいてあげる。眼が覚めたときも、手はそのままよ」
「本当にずっと繋いでいてくれるわけじゃ、ないんでしょう?」
 微笑む涼香に、薫は笑って、
「それは仕方ないわ。でも、あなたが眼を覚ますときには、必ずそばにいる。だから安心して。悪い夢を見た
なら泣いてもいいし、どんな我がままを言っても許してあげる。私は、霧香ちゃんの味方だもの」
「ありがとう、先生」
「じゃあ、おやすみなさい、霧香ちゃん」
 薫は空いている手を伸ばし、検査装置の動作ボタンを押す。
「おやすみなさい、先生……」
 涼香は微笑みながら眼を閉じ、すぐに眠りに落ちた――
 
 
 そして、薫が繋いでいた手を離すと、本来の「水城涼香」が眼を覚ました。
 薫に向けた眼は、敵意、怒り、憎悪――あらゆるマイナスの感情に満ちていた。
「……悪魔……悪魔! 何が、あたしの味方よ……!」
 薫は鷹揚な微笑みで応えた。
「私は間違いなく『野原霧香』の味方よ。あなたから敵と見られていることは残念だわ、『水城涼香』さん」
440【】の人:2007/06/29(金) 01:27:40 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(33)】

「あなたは、あたしの、あたしのパパの、あたしのママの敵よ!」
 涼香は叫んだ。薫は微笑みのまま首を振り、
「あなたのママに関しては違うと、何度説明してあげたら理解するの? それに……あなただって、本当は
いまごろ、鳥かごの中。この首を……」
 と、人差し指で、怯えて表情を歪めた涼香の首を、横一線に切り落とすようになぞり、
「胴体から切り離されてね。ちゃんと元の身体に繋いであげたのは、私よ。あそこまでの措置を受けて、
ほぼ生身の肉体に戻れたなんて幸運だわ。手も足も自由に動かせて、日常生活に支障はないでしょう、
『野原霧香』でいる間は?」
「悪魔……悪魔よ、あなたは!」
 涼香は眼に涙を浮かべて叫んだ。
「それもこれも、あたしを嬲り者にするためでしょう!」
「それは違うわ」
 薫は答えて言った。
「私は、あなたに知ってほしいだけよ。私が、本当はどんな人間か……どんな人間だったか。私が悪魔だと
すれば、そうなるように仕向けたのは、あなたとあなたのパパ。『野原霧香』の前にいるのが、本当の私」
「あなたの言う『霧香』に、教えてやりたい!」
 涼香は泣きながら言う。
「『野原裕美』が、本当は人殺しのニセ医者の『緑川薫』だってこと!」
「教えたところで、霧香ちゃんは信じないと思うけど」
「だったら試させて! あたしに『野原霧香』に宛てた手紙を書かせてよ!」
「そんなこと、よく思いつくわね」
 薫は、あきれて苦笑いする。
441【】の人:2007/06/29(金) 01:30:36 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(34)】

「補助電脳にインストールされた、ただの『コピー人格』のくせに」
 薫の言葉に、涼香は表情をこわばらせた。
「あたしは、本物の『水城涼香』よ!」
「この肉体に宿る本物の人格と呼べるのは、すでに『野原霧香』ひとりよ。まあ、彼女は一年半より以前の
記憶を持たないだけで、本来は『水城涼香』と同一の人格なのだけど」
「あたしが……あたしが、本物の『水城涼香』よっ!」
「その点に関する司法の判断は、分かれているわ。脳に重大な損傷を負った患者が、補助電脳の埋め込み
手術によって一命をとりとめた。ところが、意識が戻った彼は、以前とは全く違う人格に豹変していた。
それが補助電脳にインストールされた《思考補助プログラム》のせいだとしたら、彼を元と同一人物として
扱っていいのか……日本での判例はないけど、アメリカでは一部の州で、元とは別人として新しく市民権を
与えるべきだとした判例がある」
「あたしは最初から『水城涼香』じゃないのっ!」
「でも、その人格は、いまは補助電脳にインストールされているだけなのよ。仮に補助電脳を交換したら、
残るのは『野原霧香』だけ」
 薫は涼香の髪に、そっと触れた。涼香は表情を歪め、
「さ……触らないでっ!」
「あなたが『水城涼香』として私を憎む感情が、『野原霧香』を苦しめているの。『霧香』でいる間のことは、
あなたもちゃんと記憶しているから、わかるでしょう?」
「ええ、おぞましいことに『霧香』が『野原裕美』を信頼してるのは知ってる、彼女の正体を知らないから!」
「信頼というより、恋愛感情じゃないかしら? 中学、高校と『水城涼香』には同性の恋人がいたそうだし、
彼女と本来的には同じ人格である『野原霧香』が、同居人の女性医師に恋をしても不思議じゃないわ」
「へ……変なこと言わないで!」
442【】の人:2007/06/29(金) 01:34:22 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(35)】

「べつに変じゃないでしょう。あなたの嗜好じゃないの」
 薫は、涼香に笑いかけた。「野原霧香」の前では見せることのない、嗜虐的な笑み。
「私自身は恋愛に関してノーマルだけど、ゲイのカップルを否定する気はないし。それに……もしもだけど、
霧香ちゃんが自分から気持ちを打ち明けてくれたら、私は応えてあげてもいいと思ってるの」
「ふざけないで……」
 涼香は、ぼろぼろと涙をこぼした。
「そんな、おぞましいこと、絶対に……」
「それは、だから霧香ちゃん次第よ。彼女に、その勇気があるかどうか。ちなみに、中学高校時代の恋人とは、
どちらから先に告白したの、『水城涼香』さん?」
「ああああああっ!」
 涼香は号泣した。身体を動かせたら、両手で顔を覆っていただろう。
「悪魔っ! この……悪魔っ! あたしを、あたしのママとパパを、どこまでも苦しめて!」
「莫迦な子。どこまでも意地を張って」
 薫は手を伸ばし、涼香の頬の涙を指で拭う。
「さ……触るなっ! 悪魔っ!」
「霧香ちゃんの前にいるのが本当の私だと、何度も教えてあげてるのに。私だって、あなたみたいな小娘を、
いつまでも苛めて面白がるほど幼稚じゃないわ。だから、ひとことでいいのよ。いまさら謝罪なんて求めない。
ただ、あなたが私に屈服したという、ひとことが欲しいだけ。簡単な言葉よ――『もう赦して』、それだけ」
「悪魔! サディスト! 変質者! あなたの言いなりになるものですか!」
「残念だわ。霧香ちゃんは、また悪夢の余韻を抱えて目覚めることになるのね」
 薫は機械装置のボタンに手を伸ばす。
「おやすみなさい、涼香さん。また明日の検査の時間にね」
443【】の人:2007/06/29(金) 01:38:12 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(36・完)】

 薫は装置のスイッチを入れ、「水城涼香」は強制的な眠りに落ちた――
 
 
 そして「野原霧香」が目覚める前に、薫は彼女の手を握ってやった。
「……っ」
 しゃくり上げるような声を漏らし、涼香は眼を開けた。頬が涙に濡れたままだった。
「先生、あたし……」
「大丈夫。私は、ちゃんとそばにいて、手も繋いでたでしょう?」
「ええ……」
 涼香は微笑んだ。
「でも、あたし、また酷い夢。内容は覚えてないのに、嫌な気持ちでいっぱいで……」
「霧香ちゃん」
 薫は腰をかがめて、涼香の泣き濡れた頬に、そっとキスをした。
 唇を離した薫に、涼香は困惑気味に、
「え……、先生……?」
「なあに、そんなびっくりした顔で。泣いてる子には、一番のクスリだと思ったんだけどな。子供の頃、
よく近所の仲良しのお姉さんがしてくれたの」
 屈託なく笑ってみせる薫に、涼香は恥ずかしそうに赤くなりながら、微笑み、
「クスリ……効きました。もう泣きません。だって、一番のお医者様の先生がくれたおクスリだもん」
「霧香ちゃん……」
 薫は空いている手で、涼香の髪を優しく撫でた。今度は涼香は拒まなかった――
【完】
444【】の人:2007/06/29(金) 01:40:36 ID:DMNsiHPO0
【義体整形外科医 緑川薫(あとがき)】

 終わりです。
 さあ、これから寝て、五時半に起きて出勤だ……