325 :
番外編・萩原先生:
「じゃ、前歯見るよ。」
ミラーが前歯の内側に当てられた瞬間、紺野の顔が少し険しくなった。
「うーん。これは思ったより進んでるね。前から見るよりも、裏はかなりひどいよ。」
佳奈子の顔が歪む。
台の上の探針に手を伸ばしかけた紺野が、佳奈子の表情に気付いた。
「まだ、怖いのかな?」
佳奈子は、思い切って言ってみた。
「歯医者が怖いんじゃないんです。予防歯科に通ってて、慣れてるから。ただ・・」
「ああ、歯は綺麗だったものね。ただ、どうしたの?」
「差し歯・・差し歯になるのが怖くて」
佳奈子はすがるような目で、紺野を見た。
ふう、ため息をつき、紺野はミラーを置いた。
椅子も起こされ、佳奈子は紺野と向かい合う形になった。
326 :
番外編・萩原先生:04/09/06 20:18 ID:7moe7J+I
「えっと・・萩原・・・佳奈子ちゃん、だっけ。」
「はい。」
「はっきり言うね。」
「ハイ。」
緊張した雰囲気に、佳奈子の声が震える。
「残念だけど、この前歯は、差し歯になるのは避けられないと思う。」
佳奈子は、頭を殴られたような気がした。
心のどこかで覚悟はしていたが、現実を突きつけられると、やはり、辛かった。
「あと2ヶ月早ければ、差し歯にせずに治せたかもしれないけど」
2ヶ月。やっぱり、あの、激痛が走ったときに歯医者に行っていればよかったのだ。
後悔で、涙がじわっとあふれてきた。
327 :
番外編・萩原先生:04/09/06 20:22 ID:7moe7J+I
「ただね。差し歯って、たぶん、お母さんか何かのを想像してると思うんだけど、
あの、ふちが黒くなってて、変に白い、あれ。」
こくり、と佳奈子が頷く。
「最近のは、もっと見た目も自然なのがちゃんと作れるんだよ。
だから、そんなに怖がらなくてもいい。」
心をほぐすように、紺野が続ける。
「ほら、僕もここ、差し歯なんだけど」
右上1番を指差し、にっ、と笑う。
それは、周りの歯と見分けがつかなかった。
「えっ・・わからなかった・・虫歯ですか?」
「僕は、スキーでぶつかって折れちゃったんだけどね。かっこ悪いだろ?」
微笑む紺野に、佳奈子もつられて笑った。
「でも、虫歯も、根っこさえちゃんと残ってれば、
差し歯はかっこ悪くないのができるから。大丈夫。ね?」
佳奈子は頷いた。
差し歯になるのは、まだやっぱりショックだったが、あの差し歯にはならないのだ、
と思うと、少し気が楽になった。
328 :
番外編・萩原先生:04/09/06 20:27 ID:7moe7J+I
「じゃあ、ちゃんと治療できるね?」
はい、と答えたものの、こちらでは、いい歯医者がどこかわからない。
「あの・・大学病院でも診てもらえるんですか?」
と聞いた。
「ああ、もちろん。学生はほとんど無料で治療できるよ。
教授には紹介が必要だけど、僕でかまわなければ、僕が診るよ。」
好意とは別に、さっきからの様子に、紺野に診てもらえれば、安心できる気がした。
「お願いします。」
佳奈子がそう言うと、
「じゃあ、さっそく、明日の朝、病院の方に来て。」
と、紺野が指示する。
しかし、明日は友達と遊びに行く約束だった。
「大学は休みでしょ?それに、1番の歯、そろそろ痛み出すと思うから、早いほうがいいよ。
前歯の痛みは辛いらしいし、痛みが出たら、根の状態も急に悪くなるしね。」
329 :
番外編・萩原先生:04/09/06 20:31 ID:7moe7J+I
痛いくらいなら、ま、我慢すればいいわ。
差し歯への恐怖が薄れた佳奈子は、根の話は耳に入らなかった。
結局、地元から友達が出てくる、と言って、治療はその次の日に延ばしてもらった。
紺野は、心配だったのか、
「痛くなったら連絡して。」
と、携帯と、構内の内線電話の番号をくれた。
次の日。このところ、気にかかっていた前歯のこともやや進展し、試験も終わって、
佳奈子は、ひさしぶりに、晴れ晴れとした気分で遊んでいた。
夜、シャワーを浴びていると、トクン、トクン、と、脈にあわせて、
1番の前歯に、少し不快感が出てきた。
「ん・・・まあ、痛いわけじゃないし。」
と、そのまま眠りについた。
330 :
番外編・萩原先生:04/09/06 20:38 ID:7moe7J+I
・・・ドクン、ドクン、ドクン、ズキン!ズキン!
佳奈子は、歯の痛みで目が覚めた。時計を見ると、5時だった。
叫び出したくなるような痛みではなかったが、頭が痛くなってくる。
「はあ。紺野先生、怒るかなあ」
早いほうがいい、と言っていた、紺野の顔を思い浮かべた。
「あ、そうだ、電話!」
さすがに早すぎると思い、6時まで待ってから、紺野に電話をかける。
「はい。」
「あの・・萩原ですけど。起こしちゃいましたか?」
「ああ、佳奈子ちゃんね。もう起きてるよ。どうしたの?痛み出した?」
「・・・はい。」ほらみろ、と言われるかと思ったが、
「大丈夫?我慢できる?治療は8時からだけど、7時半から開いているから、早めにおいで。」
優しく言われただけだった。
331 :
番外編・萩原先生:04/09/06 20:48 ID:7moe7J+I
7時半に行ってみると、紺野はすでに待っていた。
マスク姿を見るのは初めてだ。少し怖い感じに思える。
言われるままに、レントゲンを撮りに行き、戻って、ユニットに座る。椅子が倒された。
「はい、見せてごらん」
おとなしく口を開ける。
「あー、これは痛いね。でも、ちょっと我慢してくれる。」
と言うと、指で、1番をとんとん、と叩いた。
「っうぅぅ」
歯だけでなく、目の奥まで痛みが走り抜けた。
「もっかい」
次に、2番を叩いた。
今度は、歯の中がぼわん、と痛んだだけだった。
「どうかな。」
佳奈子が痛みかたを伝えると、今野は、難しい顔になった。
「うーん。とりあえず、こっちの1番からやろう。削って、ちょっと根の状態を確認するね。」
目で頷く。
332 :
番外編・萩原先生:04/09/06 21:14 ID:7moe7J+I
根の状態?佳奈子は、なにか大事なことだったような気がして、
一生懸命考えていた。
先日の夜とは違って、今日は、衛生士や助手もたくさんいる。
助手が、麻酔のシリンジを、紺野に手渡した。
「はい。ちくっとするけど、我慢して。」
しばらくして、麻酔が効くのを待って、治療が始まった。
「見にくいから、視野確保して。リトラクター。」
「はい。」
佳奈子の唇に、プラスチックの器具がはめられた。口が大きく開けられ、歯茎がむき出しになる。
「!」
恥かしい、と思って、紺野の顔をとっさに見たが、
紺野は、真剣な顔で、タービンにチップを装着し、佳奈子の目を見て、大丈夫だよ、というふうに微笑むと、
チュイーン
と音をさせて、佳奈子の歯を削りにかかった。
333 :
番外編・萩原先生:04/09/06 21:22 ID:7moe7J+I
キュイーン、キュィーン。
まずは、1番と2番の間から。次に、裏側へ。進むにつれ、紺野の顔が険しくなる。
「んー、思ったよりも中に進んじゃってるなあ。痛いけど、我慢してね・・」
佳奈子の脚がもぞもぞしているのに気付いてか、紺野は釘をさすように言った。
「ああぁぁぁん、あああぁ、あぁぁ!」
佳奈子が泣き出した。
「ん、もうやめるから」
すぐに、タービンの音が消えた。
「よく頑張ったね。」
紺野はなぐさめながら、泣きじゃくっている佳奈子の口から、リトラクターをはずした。
透明な唾液が、つーっ、と糸を引く。
「とりあえず、口ゆすいで。」
椅子を起こす。
334 :
番外編・萩原先生:04/09/06 21:29 ID:7moe7J+I
思ったよりも、削る時間は短かったな・・・<BR>
舌で確かめてみると、意外と穴も小さいようだ。佳奈子はホッとした。<BR>
口をゆすいで、姿勢を戻すと、紺野が、マスクを顎にはずし、佳奈子の方を見ていた。<BR>
「1番の、治療なんだけどね。」<BR>
少し、厳しい顔で話し始める。<BR>
「思っていたより、深くまで進んでるんだよ。2番の方が、前も黒くなっていて気になっただろうけど、<BR>
1番は、虫歯が中に向かって進んでいたんだね。こっちの方が、ひどい虫歯だよ。」<BR>
どうやら、深刻な話だ。佳奈子は体を固くして、頷く。<BR>
「で、今、ちょっと削ってみたんだけれど、中が大きくやられてる。おそらく、根っこまで。」<BR>
根っこ。佳奈子は突然思い出した。<BR>
“根っこさえちゃんと残ってれば、差し歯にできる。”と、紺野が言っていたのだった。<BR>
じゃあ、根っこがない場合は・・?
335 :
番外編・萩原先生:04/09/06 21:31 ID:7moe7J+I
ん?昨日のにもこんなのあったけど、何だコリャ
思ったよりも、削る時間は短かったな・・・
舌で確かめてみると、意外と穴も小さいようだ。佳奈子はホッとした。
口をゆすいで、姿勢を戻すと、紺野が、マスクを顎にはずし、佳奈子の方を見ていた。
「1番の、治療なんだけどね。」
少し、厳しい顔で話し始める。
「思っていたより、深くまで進んでるんだよ。2番の方が、前も黒くなっていて気になっただろうけど、
1番は、虫歯が中に向かって進んでいたんだね。こっちの方が、ひどい虫歯だよ。」
どうやら、深刻な話だ。佳奈子は体を固くして、頷く。
「で、今、ちょっと削ってみたんだけれど、中が大きくやられてる。おそらく、根っこまで。」
根っこ。佳奈子は突然思い出した。
“根っこさえちゃんと残ってれば、差し歯にできる。”と、紺野が言っていたのだった。
じゃあ、根っこがない場合は・・?
336 :
番外編・萩原先生:04/09/06 21:36 ID:7moe7J+I
お、大丈夫だ
ワードから貼り付けてんだけど・・ま、いいや、続き
「だから、1番は抜かなきゃならないよ。」
歯を抜かないといけない。しかも、前歯を。自分が虫歯にしてしまったせいで。
歯医者に行かずに、放っておいたせいで。
頭がくらくらした。
「あの・・じゃあ、差し歯は・・」
「そう。差し歯にはできないんだ。」
「入れ歯・・・?」佳奈子は、涙声になっていた。
「大丈夫。入れ歯にはならないよ。ブリッジって言って、両端の歯にかぶせ物をして、
その歯で支えるように、つないで歯を入れる。」
父親の奥歯にあった、3連の銀歯を思い出した。
「見た目は・・?」
「それは、普通の差し歯とおんなじだよ。心配いらない。」
佳奈子は、黙ってしまった。