314 :
番外編・萩原先生:
時は経ち、大学入試を1週間後に控えた、冬の日のことだった。
家を出て、口から深呼吸をした、そのとき。
「前歯が、しみ・・る・・?」
気になって、何度も歯につめたい風を当ててみる。
最初、少し痛いような気がしたが、そのうち、気のせいか、と思えてきた。
夏休みに、白濁を見つけたことなど、忘れていた。
入試が近づいて、ナーバスになっているのだろう。なにより、歯医者に行くような暇はないのだ。
そうしてまた、前歯の虫歯は、ひっそりと佳奈子の意識下に潜ったのだった。
315 :
番外編・萩原先生:04/09/06 19:19 ID:7moe7J+I
佳奈子は大学生になった。医学部は落ちてしまったが、歯学部には見事合格し、
歯医者を目指して勉強することになった。
念願の一人暮らしも始め、昼間は授業、バイト、夜は飲み会、と、充実した日々を送っていた。
しかし、歯にとっては過酷な日々だった。
栄養はどうしても偏りがちになるし、お昼をお菓子で済ませることもあった。
昔からは考えられないことだったが、夜、飲み会で酔ってしまい、家に帰って歯も磨かずに
寝てしまうこともあった。
そんな初夏のある日。いつものように、友人たちと飲みに出かけ、
「暑いときはこれに限る」とばかりに、冷たいビールに口をつけた瞬間だった。
316 :
番外編・萩原先生:04/09/06 19:25 ID:7moe7J+I
「っ!!」
佳奈子の前歯に激痛が走った。思わずグラスを取り落とす。
「どうしたの?」
心配して見つめる友人たちに、
「あはは、手がすべっちゃった」
と笑ってごまかしてみせた。歯学部の友人に、歯が痛いとは、言えなかった。
その夜、早めに帰宅した佳奈子は、鏡の前で、おそるおそる口を開いた。
いーっ、とやってみる。
左上前歯、1番と2番の間に、かすかに茶色い点が見えた。
歯がぴっちりと綺麗に並んで生えている佳奈子の歯では、間の様子はそれ以上見えない。
そこから周囲に向かって、ややうっすら黒い?ような気がしたが、
洗面所のやや薄暗い光の下では、鏡から遠ざかってみると、きれいな歯に見えた。
317 :
番外編・萩原先生:04/09/06 19:27 ID:7moe7J+I
少しホッとしながら、裏側もチェックしてみることにする。
予防歯科でもらったミラーは、実家に置いて来てしまった。
仕方なく、ポーチから手鏡を持ってきて、歯の裏に当ててみた。
歯の裏側を、鏡にうつしてみると・・・
歯の間が、真っ黒になっていた。黒ずみは、両方の歯の中心近くまで広がっている。
動悸が激しくなるのを感じた。
「そんな・・・」
前から見ると、ほとんどなんともないのだ。
もう一度、鏡にうつす。間違いであってほしいと願ったが、やはり、黒かった。
爪でこすってみても、取れない。そのうえ、爪に少し、ひっかかりを感じた。
顔を近づけ、目をこらすと、1番の方には、小さな穴も開いている。
間違いなく、虫歯だった。
318 :
番外編・萩原先生:04/09/06 19:33 ID:7moe7J+I
「どうしよう・・」
母親の、差し歯が目に浮かぶ。歯はやけに白いが、歯ぐきがやや黒ずんでいて、
佳奈子はそれを見るたびに、「差し歯にだけはなりたくない」と思っていたのだった。
それなのに・・・
佳奈子の目から、涙がこぼれた。
前から見たら、なんともないのだから、案外大したことはないのかもしれない。
早く歯医者に行って、治してもらおう。
そう思うものの、もし、差し歯になってしまったら、と思うと、怖くて決心がつかなかった。
その夜、歯医者に行く夢を見た。
「差し歯にするしかないですね。」と言われたうえ、気が付くと、乳歯の頃のような、
虫歯だらけの口に戻っていた。予防歯科の歯医者が、悲しそうな顔で見ている。
目が覚めて、佳奈子は、泣いていた。
319 :
番外編・萩原先生:04/09/06 19:37 ID:7moe7J+I
結局、歯医者には、行かなかった。怖かったのだ。
バイトや授業で忙しい、と言い訳をしながら。
飲み会は少し減らし、 今さら遅いとわかっていながら、歯磨きも念入りにやった。
相変わらず、冷たいものがあたると激痛が走ったが、
うまく、右側を通して流し込む術もおぼえ、夏が過ぎていった。
秋になるころ、佳奈子の2番目の前歯は、光の当たり方によっては、黒ずみが表からも見えるようになっていた。
鏡を見ては、ため息をつく日々だった。疲れてくると、たまに痛むような気もした。
320 :
番外編・萩原先生:04/09/06 19:45 ID:7moe7J+I
ある日、前期の試験の打ち上げがあった。
クラスの面々だけでなく、授業で教授のアシスタントをしていた、紺野という若い歯科医も参加していた。
紺野は、しゃべり方も穏やかで、小児歯科を目指している、と言っていた。
クラスメイトの間では、やや物足りない、少し年上すぎる、という意見が多かったが、
佳奈子は、少し紺野を意識して、女のクラスメイトたちと、彼の近くに座った。
実際に飲み会で話してみると、紺野は意外とおもしろく、佳奈子はますます彼が気になっていた。
そのとき。向かいに座っていた由美子が、突然、
「佳奈子。いーってしてみて?」
と言い出した。
「前歯、黒くなってる気がして。虫歯じゃないの?前歯は早く治したほうがいいよ。」
佳奈子は思わずびくっとして、
「何よ。変なこと言わないでよ」
と言ってしまった。紺野の前でそんなことを言われたのが、たまらなかった。
「別に、そんなつもりじゃなかったんだけど。ごめんごめん」
由美子は屈託なく笑い、別の話題にさっさと移っていった。
動悸が激しくなっていた。
321 :
番外編・萩原先生:04/09/06 19:53 ID:7moe7J+I
飲み会の帰り、気を利かせたクラスメイトたちは、佳奈子と紺野を残し、カラオケに行ってしまった。
「一緒に行きましょうか?暗いし。」
紺野は、佳奈子と一緒に歩き出した。
教授のうわさや、高校のことなど、当たり障りのない話をして、歩いていった。
「ところで。」
大学の門のそばの街灯の下で、紺野は立ち止まった。
「さっきのことだけど。」
佳奈子は、なに?という顔をしてみせた。
「前歯、早く治したほうがいいよ。けっこう進んでると思う。」
すうっと血の気が引いた。気付かれていた。よく考えると、紺野は歯科医だ。気付かないわけはなかった。
「見せてごらん」
逃げそうになる佳奈子の手首をつかむ。
「放っておくほど、虫歯は悪くなるんだから。」
諭されるように言われ、佳奈子は体の力を抜いた。おとなしく、少し上を向く。
322 :
番外編・萩原先生:04/09/06 19:57 ID:7moe7J+I
紺野の指が、佳奈子の唇をめくった。
「あぁ。痛むんじゃない?これは。」
佳奈子が首を振る。「しみる、くらいです」
「・・・そう。もうちょっとちゃんと診たいんだけど、今、いいかな?
研究室のところに、ちゃんとユニットもある。僕はほとんど飲んでないし、診るだけだから大丈夫だよ」
予想外の展開に、佳奈子は体を固くした。
「歯医者が怖いかもしれないけど、僕も怖いかな。平気でしょ?」
紺野は優しく言って、微笑みかける。
さすが小児歯科を目指すだけあって、話の持って行き方がうまかった。これでは、頷かざるを得ない。
「じゃ、行こうか」
こんなふうに、二人きりになろうとは。
建物をカードキーで開けて入っていく紺野に着いて行きながら、紺野に歯を見られて恥かしい気持ちと、
ようやく治療ができるという安心感と、差し歯への恐怖感に、少し混乱していた。
323 :
番外編・萩原先生:04/09/06 20:01 ID:7moe7J+I
「ここだよ。どうぞ。」
紺野に招き入れられた部屋の真ん中には、歯科医の椅子が置かれていた。
「口、ゆすいでいいですか」
さすがに、飲み会の後の口の中をそのまま見せるのはイヤだった。
「あぁ、そこに座って、ユニットのを使って。コップは・・はい、これ。」
使い捨てのコップを渡された。
佳奈子は靴を脱いで、ユニットに上がり、口を丁寧にゆすいだ。
「じゃ、いいかな?」
滅菌器から器具を取り出した紺野が、横に座る。
「はい。お願いします。」
佳奈子が答えると、紺野はちょっと微笑んで、椅子のスイッチを押した。
うぃーーーん。
椅子が倒されていく。
「じゃ、ちょっと見せてね。とりあえず、あーん」
ミラーを手にした紺野に促され、佳奈子は口を開く。
「うん、だいたい綺麗だね。小さい虫歯が1,2本あるけど、大丈夫。綺麗な歯だよ。」
ほめられて、佳奈子は少し力を抜いた。