エピソード1 「皐月」
「それで……祐美の様子はどうなの……?」
貴裕……いや貴裕を支配している魔物が消え去ったあと、有子は気を失っている祐美を抱
きかかえ、彼女のマンションへと連れ帰った。そして、百合恵を呼びだし診察をしてもら
ったところなのだ。
「身体の方は問題ないけど……それより、精神面が問題ね……」
百合恵はそう答える。
一条百合恵……彼女は有子の学生時代からの友人で、現在、外科医をしている。
「そうでしょうね……貴裕のあんな姿を見ちゃあ……」
まさしく化け物と化した我が息子……しかも、祐美は貴裕に女唇を犯されたのである。
「貴裕くんを支配している、魔物の正体はわかったの?」
百合恵の問いに首を横に振りながら答える有子。
「わからない……ただ、かなりレベルの高いやつなのは確かだけど……」
「そう……じゃあ、祐美ちゃんはしばらくわたしの家の方で預かるとして……応援が必要
ね……」
「ごめんなさいね、百合恵。迷惑かけるわね……」
「なに言ってるのよ。退魔戦士のフォローは、我が一条家の仕事なんだから。とにかく、
手すきの子がいないか訊いてみるわ」
一条家は古来より退魔戦士を束ねる一族である。金銭的な援助はもちろん数々の武具など
も開発し供給している。
過去、一条家の者たちに退魔戦士としての力を持つ者はいなかった。しかしこの百合恵だ
けは例外的に僅かながらその能力を有している。
むろん、有子たちとは比べ物にならない僅かな能力ではあるが、自分の身を守ることくら
いはなんとかできる能力であった。
「ありがとう。私の方も一度あの人に連絡取って見るわ」
「あの人って……おばさまに?」
「そう、現役は退いちゃってるけど、まだ退魔戦士としての力はすごいもの。それに貴裕
が一条家を襲ったら、普通の人間じゃあ対抗できないだろうし」
百合恵は少し考えてこう言った。
「そうね。確かにその方がいいかも。でもおばさま出てきてくれるかしら」
百合恵の言葉にふふっと笑いながら有子は言った。
「大丈夫よ。孫の子守りもできるわけだし、涼の顔だって最近見てないから祐美に、帰っ
て来い帰って来いってうるさかったのよ」
「そう、ならいいわ。おばさま……皐月さんのことはまかせたわよ。とにかく今夜はこの
ままうちの方に祐美さんと涼くんを連れて帰るわね」
「お願いするわ……」
百合恵は祐美と涼をリムジンに乗せ(もちろん、おかかえの運転手が運んだのだが)一条
家へと帰っていった。
ひとり残った有子は時計を見ながら、まだ起きているかしらと言って皐月に電話を掛けた。
三島皐月は有子と祐美の母親である。年齢はなんと49歳、つまり有子を産んだのは16歳
の時ということだ。
5年前に現役は引退したが退魔戦士としての力はかなり高く、今でも自分以上に戦えるので
はないかと有子は思っていた。
皐月はすぐに電話に出た。有子が今回の件を話すと、明日の朝一番で向かうとのことで駅
まで迎えに来るようにと言う。
幸い明日は日曜日だったので、有子は落ち合う時間を決め電話を切った。
(とりあえず、お母さんが来てくれたら百人力ね。貴裕…必ず助けるわ……)
翌朝、有子は深紅のBMWを駆り待ち合わせの駅へと向かった。
早めに着いた有子は、車を道の脇に停め今回のことについて少し考えてみた。
貴裕の様子が目に見えておかしくなったのは、七月の終わりから八月にかけてくらいだっ
たろうか?夏休みに入ってから自分といっしょにお風呂に入りたがったり、おっぱいを吸
わせてくれと言ってきたりしたが、単に甘えたがっているのかと思っていた。
「この夏休みの間になにかあったことは間違いないわ」
有子は一度手がかりになるものがないか、貴裕の部屋を探してみようと思った。
しばらくすると“コンコン”と助手席側のドアがノックされる。有子が顔を向けるとそこ
には皐月が立っていた。
九月ということもあり、皐月の出で立ちは淡いグレーの塩沢絣を着ていた。彼女はよほどのことがない限りいつも和服を身にまとっている。日本女性なんだから当然よ。と有子や
祐美にもできるだけ着物を着るようにいつも言っていた。
皐月は本当に和服の似合う楚々とした純日本美人である。もちろん髪はアップにして上で
束ねているため、首筋からうなじにかけてがよく見える。ひとつひとつのしぐさから発す
る色気は、若い娘たちでは出すことの出来ないものだ。
さすがに30代前半とはいかないが、30代後半から40代前半くらいには充分見えた。
知らない者が見ればどこかの旅館か料亭の若女将といった風情である。
有子はドアのロックをはずし皐月を車の中へと招き入れる。
「お母さん。ご無沙汰で〜す」
皐月に心配をかけないように努めて明るくふるまう有子。そんな娘の態度に優しく微笑み
ながら皐月は言う。
「有子、無理しなくていいのよ。お母さんといるときくらい少しは甘えなさい」
有子はそんな母の言葉に、張り詰めていた糸が切れ思わず目頭を熱くする。
「お母さん……」
話したいことはたくさんあったのだが、その言葉しか出てはこなかった。
「とにかく、一条家に向かうわ。詳しい話はそこで」
有子は涙を拭くと車を一条家に向け走らせていくのだった。
都心を離れなおも進むと見事なまでの屋敷が見えてくる。一条家のお屋敷だ。
建坪だけで1000坪はあるだろうか。総敷地面積だと想像もつかないくらいである。
車が表門まで来るとその巨大な門が開いていく。有子はそのまま車を走らせていった。
正面玄関に到着すると百合恵が出迎えてくれる。
「いらっしゃい、有子。あっ、おばさまご無沙汰してます」
とりあえず中へと言われ、ふたりは屋敷の中へと入っていった。
リビングで紅茶を飲んだあと三人は祐美と涼がいる部屋へと向かった。
「祐美ちゃんもうだいぶ落ち着いてきたわ。まだ、無理はできないでしょうけど、しばら
くゆっくりすれば元どおり元気になると思うわよ」
百合恵の言葉に胸を撫で下ろす有子と皐月。
「あぁ、有子。例の応援の子だけど、明日の朝一番にこっちに到着するから」
「誰が来るの?」
「真理ちゃんよ」
「小泉真理ちゃん?」
小泉真理。若干16歳で退魔戦士としての実力を認められ、現在も活躍している女子高生
である。
力は確かにすばらしいものがあった。有子や祐美と比べてもヒケをとらない実力だ。あと
は経験を積むことと自分の力を過信しないこと。これさえ守れば、いずれ退魔戦士ナンバ
ーワンとなれるだろう。
「明日、有子の高校に転入する手続きもしておいたから」
どうやら生徒としてやってくるようだ。確かに貴裕が有子の勤める学校を、襲わないとも
かぎらない。もしそんなことになった場合、彼女ひとりでは対処できるかどうか。
とにかくひとりでも戦力の欲しいところだった。そういう意味では真理の存在はかなり力
強い味方といえる。
祐美たちのいる部屋の前に着いた。ドアを開け三人は中へ入っていく。
祐美は突然の母親の訪問に思わず泣き出してしまう。
皐月の顔を見て安心したのだろう。いくつになっても娘と母の関係は変わらないというこ
とである。
「ねぇ、有子。今夜は泊まっていきなさいよ。せっかく母娘三人そろったんだし」
百合恵の言葉にそうねと頷く有子。
だが、このとき誰が想像しただろうか、明日からはじまる、あの地獄のような戦いの日々
を……