気管に転落した1人と胃の底から逃げ遅れて跡形も無く溶かされてしまった3人を除く36人はどうにかして
噴門をこじ開け、自分たちを吐き出させようとめいめい固く閉じられた筋肉の扉に手を突っ込み、グイグイと
引っ張り始めた。
しかし、噴門の閉じる力は彼らの想像以上に強固で、10人がかりでこじ開けようとしてもびくともしなかった。
「きゃっ」
噴門に手を突っ込んでこじ開ける担当の生徒を後ろから引っ張っていた女生徒――西明日香が不意に
足を滑らせ、ドボーンと大きな音を立ててお茶と胃液がブレンドされた胃底湖に落下した。
「西さん!」
倫佳は咄嗟の判断で、さっきまで目前に迫った死を受け入れようとしていたのが嘘のように波音で我を
取り戻し、明日香を助けるべく胃底湖へ飛び込んだ。
その頃、1人だけ気管に落下した江狭九朗はそのまま気管支を滑り降り、左肺の中で寒さに凍えていた。
伊奈子が呼吸をするたびに向こう側が透けて見えるほど薄い肺胞の膜が収縮し、冷たい風が九朗の
全身から体温を奪って行く。肺胞の外側では胸膜が心臓の鼓動に揺られ、力強く、そして規則正しい振動が
伝わって来る。
「うぅ〜、寒い……」
九朗は肺胞から気管支末梢まで引き返そうと反転し、冷気にさらされながら恐る恐る匍匐前進で
肺胞管を遡り始めた。
肺からの脱出を試みる九朗の動作は、瞬時に伊奈子の神経を伝い異物の侵入を脳に伝達する。
伊奈子の脳は瞬時に異物を排除する為の動作を横隔膜に命令し、それは実行された。
「はっ、はッ、ハー……ハークション!!」
「!?」
九朗には何が起こったかを把握する暇はおろか、驚く暇すら与えられなかった。ほんの一瞬で九朗の
全身は突風に乗せられ、またたく間に気管を逆走し伊奈子の鼻孔から外へと排出されたのだ。
しかし、この瞬間に伊奈子の体内から排出されたのは九朗だけではなかった。
ザバァーン
突然、黄色く濁って底の見えない胃底湖が波しぶきを上げ、湖へ飛び込んだ倫佳と明日香を除く34人が
噴門へ吸い込まれた。
まるで谷底から吹き上げる突風のような勢いで食道を逆流した34人は何が起こったのかわからないまま、
ある者は伊奈子の唾液と共に口から、またある者は鼻水を被って鼻孔から鉄砲玉のような勢いで体の外へ
放出された。
「……はぁ、はぁ」
「みんな、怪我とかしてない?」
「なんとか、平気です」
どうやら自分たちが今いる場所は伊奈子の部屋の、恐らくはベッドの上だと言うことは容易に察せられた。
伊奈子がくしゃみをした方向が柔らかい布団の上に向けられていたから良かったものの、もし固い机や
フローリングの床に向けられていたら今頃は想像を絶する結果になっていただろう。
「あー、なんか冷えて来ちゃったかな。お風呂入って来よっと」
伊奈子はそう言って部屋をあとにした。それを確認した麗は点呼を取った後、この凄惨な実習を締め括る
べく挨拶を始めた。
「……そう言う訳で、今回は紫由くん始め5人が犠牲となる悲しい結果となりましたが、これからは皆さんで
彼らの分も強く生きてください。以上です」
麗はそう言ってポケットから発信器を取り出し、スイッチを押した。
「もうすぐ迎えが来ますので、元のサイズに戻ってから解散します。それから、今日のことはご家族の方々
には絶対に秘密ですからね、いいですか?」
(つづく)