嬉野温泉街に「ジロー」と呼ばれる流しがいる、と聞いた。夜空の群青が深みを増した午後9時過ぎ、温泉街の
とあるスナックに、田上二郎(64)はいた。ギター一本と自らの声で人生を紡ぎ、今夜も存在感を醸し出すテンガ
ロンハット姿で歌っていた。(長沢豊)
祖父は浪曲師だった。旧浜玉町で生まれ、浪曲師か歌手になるのがあこがれだった。高校を中退。地元で鉄工
職に就いたが、暮らしの拠点を関東に移した。仕事は同じ鉄工関係だった。合間にバンドで活動し、道を求めた。
25歳で女性と出会い、結婚した。子が2人出来たが、仕事で家を顧みなかったのが原因で28歳のとき、離婚した。
子は女性が連れていった。「人生に暗澹(あん・たん)たる気持ち」になり、街をさまよう日が続いた。ある日、新聞
求人欄に「流し募集」の広告が掲載されていた。
試験で歌った。「逃げた女房にゃ未練はないが お乳ほしがるこの子がかわい」。一節太郎の浪曲子守唄(うた)
だった。歌い終わったら涙を流していた。自身の気持ちなのか、歌詞のせいなのか。無言でうなずき、採用を決め
た雇い主は演歌歌手、渥美二郎の父親だった。半年間、先輩について修業をした後、独立した。
酒の香り。氷がぶつかる音。マドラーを回す音。酒場に欠かせない小道具に囲まれて歌うのは嫌ではなかった。
嫣然(えん・ぜん)とするホステス。店の外では花を売り歩く少女。つまみを売るばあさん。客引きの兄さん。
当時、東京の盛り場では多くの流しが暮らせた。
東京都足立区を中心に14年近く流しをした。だが、街は徐々に義理人情が薄れ、流しの姿も少なくなっていった。
「郷里の佐賀に戻るか」。武雄や鹿島で歌った。嬉野でも歌った。なかでも嬉野は、よそ者に優しかった。芸者や
ホステス、懸命に生きる人たちの愚痴や嘆き、喜びも聞いてきた。なにより嬉野の人情の厚さにほれた。「いろいろ
なところで流してきた。でも、また戻って来たい街、それがいい街だよね」
店に流れる有線の音楽が切られ、曲は田上と客の「夢舞台」に変わった。じっと聴きほれ、満足げな客の余韻は
尾を引いている。流しは客をいい気分にさせ、その人生に寄り添う。思いを代わりに歌っていると田上は心底感じる。
千円で2曲。持ち歌は3千曲。曲の数だけ、客との思い出が浮かぶ。日付が変わるころ、田上はギターをつかみ、
家路をたどる。心に染み入る田上の歌は明日の夜もどこかで響く。(敬称略)
◎画像
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