ひそやかに立つ。
立つというより、樹皮だけになった空木(うつおぎ)が幾重にも老体をねじり、かろうじて地からはい上がっているのだ。
触れば崩れそうだ。
それも二本。
そっくりの姿で並んでいる。
ここまでして、なお生きるのは何なのか。
もう百年を優に超えて耐えてきたのに。
明治天皇のご休憩所になった所として知られる鐵竹堂(てっちくどう)。
その客殿北側に広がる日本庭園の片隅に二本のザクロがある。
コウヤマキ、アスナロなどの巨木が周囲を覆い、見事なマツ、灯籠(とうろう)、石仏が並ぶ四千平方メートルもの庭園で、
二本のザクロはほとんど目立たない。
庭園を眺めるのに格好な十八畳の渡り廊下、その外周の広縁から最も近い位置にありながら、桜や梅のように華やぐ時もなかった。
一八九二(明治二十五)年十月二十三日、明治天皇は栃木県中北部を舞台にした陸軍大演習を視察する。
「氏家町史」には《陛下は乗馬にて蒲須坂、さらに上野原、東原に駐蹕(ちゅうひつ)、大演習を統裁される。
随官二百五十人とともに午餐(ごさん)を瀧澤喜平治宅でとられてご休息。午後五時十分還御の途につく》とある。
この《瀧澤喜平治宅》が現在の鐵竹堂を含む瀧澤雅夫さん(74)宅。
雅夫さんの四代前の喜平治氏(一八四六−一九一六年)は、瀧澤家の土台を築き、明治、大正時代の地元経済、
産業界に多大な貢献をし、貴族院議員にもなった人である。
滞在わずか六時間。
だが、陛下のご休憩所に選ばれたことは何にも勝る栄誉だったのだろう。
喜平治氏はこの栄誉を後世に残そうと、数年後、巨費を投じ三年かけて客殿などの工事を行い、今の姿になった。
格式ある書院造り。
入り母屋造りの平屋建てで八畳間の御座間など四室を配し、東側に車寄せがある。四寸角の柱、張り付け壁、
金地の障壁画の襖(ふすま)など、明治を代表する和風建築として評価は高い。
渡辺崋山などの作品や供出を免れた青銅器も多数あり、望楼(ぼうろう)のある蔵座敷、長屋門と合わせて明治の博物館だ。
喜平治氏の思い入れが伝わってくる。
だが、この「宝」をどう維持し後世に手渡していけるか。
子孫たちは重い課題を背負うことになる。
雅夫さんは「あまり余計なことは考えないようにしています。
生まれた時から受け継いでいくことが決められているのですから」とさらりと話す。
鐵竹堂は長い間、閉め切ったまま家族も立ち入らなかった。
「怖かったですよ。住んでいた東京から帰った時も近寄らなかった。知らぬ間に二回も泥棒にやられてね」と雅夫さん。
風を通さない建物の傷みは速い。
雅夫さん一家は東京から実家に戻ることを決断する。四十年余り前だ。
「何か考えがあったわけではないが、このままでは朽ちてしまうので…」。
十数年前から鐵竹堂の公開に踏み切った。
いま、演奏会、朗読会、展覧会などを定期的に開く。
「建設当時のままの畳や建具は傷むが、皆さんに喜んでもらい、公開してよかった」と言った後、
雅夫さんは「こんな時代だから維持するのは大変です。でも、宿命というか、鐵竹堂がある限りやらなくてはならないですからね」
と遠くに目をやった。
雅夫さんの妻、邦子さんはつぶやいた。
「あの老いたザクロが毎年、一つだけ実をつけるのです。いつも同じ枝にとても大きな…。
この実にすべてを注ぎ込んでいるのですね、きっと」
対の老樹はここにきて、傾いて朽ちかけた主幹に代わって皮一枚の樹皮から新たな枝を真っすぐ空に向け始めた。
鐵竹堂とは百年以上誰よりも一番近くにいてともに歩んだ仲だ。まだまだ元気な老友より先に朽ちるわけにいかない。
老友だって同じ気持ちだ。老樹からの秋風が鐵竹堂をさりげなく包んだ。
ただに黙(もだ)しつゆにし濡(ぬれ)て
ある石にしろきはなさけ
りひそかなれども
鶉居洞人(じゅんきょどうじん)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20080913/CK2008091302000140.html 2本のザクロは皮一枚の幹から新しい若枝を伸ばす。背後は鐵竹堂
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20080913/images/PK2008091302100035_size0.jpg ※二軍ニュースの依頼スレより。