歌手の夢を追って、19歳で上京。23歳で初ステージに立つ。歌う場はクラブや
ディスコだった。バンドを結成し、レコードデビューも果たすが、2年で解散する。
「毎晩、酒場で歌わされるラブソングにうんざりしていた。俺(おれ)の歌いたい歌は
違う。何のために歌手になったんだろうと悩んでいた」
ところが、デビュー曲を偶然聴いたディレクターに、「超電子バイオマン」の主題歌歌手で
抜てきされ、流れが変わった。「救われました。恐れるな、自分に負けるなという歌詞に、
何のために歌うのか、道が見えた気がした」
楽曲はヒットし、「仮面ライダーBLACK RX」など、多くのアニメ、特撮ソングを
歌う売れっ子となる。
ある日、下積み時代に世話になった歌謡グループへの加入を呼びかけられる。恩返しの
気持ちで参加したが、予想と違った。ギャラは低く、優先という約束だったヒーローソングの
仕事は知らぬ間に断られた。収入は途絶え、ヒーローソング界では「不義理だ」という悪評が
立つ。
裏切られたような思いで、2年後グループを抜けソロに戻る。仕事は激減しており、
心身共に疲れ果てていた。
■3日間意識不明に
2000年夏。仙台のステージで歌っている最中、突然歌詞が「消え」、歌えなくなった。
後に「パニック症候群」と診断されるが、当時は「もうダメだ、歌えない」と絶望するばかり。
不調は体にも及んだ。2004年夏、激しい腹痛に見舞われ、救急車で搬送される。
診断は、急性重症すい炎。命にかかわる重病で、3日間意識不明で生死の境をさまよう。
1か月以上の入院を経て、10月に退院。体力が戻らない中、11月のヒーローソングの
ライブへの出演依頼が舞い込んだ。医者はもちろん反対した。「でもね、試したかったんです
よ。自分が本当に命燃やして歌っていく覚悟があるのかを」
苦しく、つらい復帰のステージだったと振り返る。だが、それを、乗り切ったことが自信に
つながった。
■自分の役割に喜び
「宮内さんの歌に励まされて試験に合格した」「歌を聴いて病気を乗り越えた」。
ヒーローソングで育った世代のそんな言葉に、自分の歌が人の役に立っていることを実感でき、
うれしかったという。
「一人でも俺の歌を聴きたい人がいるなら」という気持ちは高まり、翌年のブラジルでの
ライブにつながる。異国の若者たちの熱狂的な歓迎に、胸が熱くなるのと同時に、国境も
言葉も乗り越える「歌の力」を改めて感じた。
「人は皆、悩みや苦しみを抱えて生きている。でも、頑張れば必ず乗り越えられるという
メッセージを、病を乗り越えた自分だからこそ、伝えていきたい」
デビュー30周年を迎え、「歌うことは自分の使命」と思っている。
ソースは
http://job.yomiuri.co.jp/interview/jo_in_08031001.cfm 依頼を受けてたてました。