徘徊防止に脚埋める!?
お化け灯ろう
「夜な夜な徘徊した」といわれる脚の部分がない石灯ろう
川崎市宮前区宮崎の「市青少年の家」裏の小山に、大きな石灯ろうがある。
頭でっかちでキノコのような形だが、笠(かさ)と火袋だけで脚の部分がない。
上部だけで背丈ほどある巨大な石灯ろうで「お化け灯ろう」とも呼ばれる。
なぜこんな場所に据えられたのか。話は旧陸軍東部六二部隊の
川崎移設時にさかのぼる。
もともとこの灯ろうは東京・赤坂の一ツ木町の同部隊兵舎の庭先にあった。
この部隊は一九三六(昭和十一)年の二・二六事件を起こした陸軍青年将校が
処断された後、一部残った将校たちが加わって編成された部隊といわれる。
市教委発行の「川崎市社会教育50年史」のトピックに、こんな記述がある。
「いわく因縁の部隊兵舎にあった石灯ろうは将校たちが処断された後、夜な夜な
六本木の街を徘徊(はいかい)するといううわさが出た」。
怪談めいた話はそこから広まり「お化け灯ろう」と呼ばれるようになったらしい。
その後、四〇(昭和十五)年に、旧陸軍は宮前区の宮崎一帯を軍用地として接収し、
翌年、広大な演習地(通称・溝口演習所)を設けた。翌年、連隊本部を
現宮崎中学校の敷地内に移設し、同時に将校集会所も、市青少年の家の敷地に
移設した。この時、灯ろうも一緒に運び込まれ、集会所から少し離れた今の場所に据えたという。
脚の部分がない理由には
「六本木の街を徘徊しないように切った」
「川崎の街で二度と徘徊しないように“脚”だけを埋めた」
という二つの説があるが、真相は定かではない。
青少年の家の前所長、大塚さんはこう話す。
「軍が移転する際に『気持ちが悪いから一緒に持っていってほしい』
と、町の要望があったらしい。川崎に持ち込まれた時は既に脚が
なかったのか、川崎でまた徘徊されては困るから埋めたのか、
掘り返したことがないので分からない」
灯ろうは石を積み上げたような形で、豊臣秀吉が朝鮮侵略時に
持ち帰った戦利品という言い伝えもある。戦時の最中に数トンあるという
巨大な灯ろうを、わざわざ川崎まで運んだ理由は、戦利品として
軍の縁起担ぎだったのか、資料もなく真相はナゾだ。
トピックに紹介された石灯ろうは今も青少年の家の裏山に、当時のまま鎮座し、
その近くに日章旗などを掲げた旗立て台の跡だけが残っている。
ソース:
http://www.chunichi.co.jp/00/kgw/20060423/lcl_____kgw_____003.shtml