【WRC】マーカス・グロンホルムを語るスレ【SS5】

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142音速の名無しさん
>>119さんの訳してくれたエストニア語→英語を日本語にしてみた。
映像をみることができたので、英語の部分はヒアリングで訳してある。
英語力もヒアリング力もまったく自信がないので、正確な訳が出来る人に
直してもらえるとありがたい・・・_| ̄|○

(ナレーション)
ラリーGB最終日。3つ目のステージで悲劇が起こった。
マルコ・マルティンの運転するプジョーが、27kmのマーガム・スペシャルステージで
コースオフ。車体は立ち木に衝突、コドライバーはドア越しに深刻な衝撃を受けた。
何がどうなったのか?長い間情報が錯綜したが、プジョー・ラリーチームのボスが
その悲劇の真実を語ってくれた。

(ニコラのインタビュー)
午前の2つめのステージで、マルコ・マルティンはコースオフし、マイケルの側が
木に衝突した。マイケルは即死だった。

(ナレーション)
マルコ・マルティンは事故後も周囲を歩き回っており、深刻なケガをしてはいなかった。

(Marek Ma:garの現地レポート)
彼はヘリコプターでサービスに戻ってきたのだが、階段を何度か踏み外していた。
マルコは大きな衝撃のために、何度か座り込んでいた。
マルコは衝撃を受けており、打ち付けられていたのだ。
事故が起きたカーブの手前には200メートルのストレートがあり、スピードは
非常に高い状態になる。カーブの内側は前車がショートカットしていった深いわだちが
できていた。
おそらく、マルコ・マルティンの車は同じラインを通ってきて、カーブの外側に
ふくらんだのだろう。
道のわきには1.5mほどの草地があり、そこは完全に濡れていた。そのため、
車はドリフト状態に入ってしまったものと思われる。
143音速の名無しさん:2005/09/20(火) 01:23:43 ID:RqJp/4Qk
(ナレーション)
この悲劇的な事故を受けて、オーガナイザーとドライバーによりラリーは中断された。
プジョー・チームは彼の友人、そして仲間にこの受け入れがたい情報を伝えた。

(ニッキーのインタビュー)
まったく酷い話だ。僕たちコンペティターはみんな、競技のリスクについては
理解しているが、決して備えることなど出来ない。
長い間、トップドライバーにはこのような事故は起きていなかっただけに、
とても大きなショックを受けている。この深い悲しみを伝える言葉がない。
残念でならない。

(ナレーション)
マイケル・パークはラリーの前、リポーターに、ホーム・ラリーに戻ってくるのが
待ち遠しいと語っていた。
同じエリアが出身地のこのコドライバーは、家族がラリーを見に来てくれることも、
楽しみにしていた。

(ビーフのラリーGB前電話インタビュー)
もちろんホームラリーだし、毎年楽しみにしているよ。地元の観衆の前に戻ってくる
のはいいものだし、特に家族がラリーを見に来てくれるからね。
カーディフは僕の自宅から1時間ほどのところだし、まさにホームラリーなんだ。
まだ僕たちはここで勝ったことはないけど、今年と去年は勝てるよう頑張っている。
どれくらいの可能性があるかは判らないけど、トライしてみるよ。
144音速の名無しさん:2005/09/20(火) 01:24:27 ID:RqJp/4Qk
(ナレーション)
マルコ・マルティンとマイケル・パークは、2000年の南エストニアラリーから
コンビを組みはじめた。
マルコは英語のリスニングがあまり得意ではなかったにも関わらず、このコンビは
とても上手く行き、2月のラリー・スウェーデンでもマイケルはマルコの隣に
座ることになった。
彼らは初めての大きなラリーイベントで9位という好成績を収めた。
彼のコドライバーとしてのオペレーションは素晴らしく、3年間に世界選手権で5回の
優勝を記録している。初優勝は2003年の夏、ギリシャのアクロポリスラリー。
そして最後が2004年のスペイン、カタルーニャラリーだった。

マルティンとパークがフルシーズンのコンビを組み始めて2シーズン目、パークは
このエストニア人との共同作業について話してくれた。

(ビーフの2003年インタビュー)
僕たちはクルマを理解するために一緒に働いているけど、僕たちには両方に
まだまだ進歩の余地がある。マルコはまだ若いし、僕も勉強中だ。
僕たちがやるべき仕事はまだたくさん残されているよ。

(ナレーション)
パークは世界チャンピオンのリチャード・バーンズやコリン・マクレーと働いた
こともある、経験豊富なコドライバーだ。
今年プジョーに移籍する前は、フォードとスバルでドライブをしていた。
マルコとマイケルは過去にも深刻な事故を経験しており、昨年アルゼンチンでも
アクシデントに遭っている。
パークのコドライバーとしての能力を疑うものはいない。それはOlaf Suuderも同じだ。
彼はエストニアのコドライバーで、マイケルのコドライバー養成に参加していた。
145音速の名無しさん:2005/09/20(火) 01:25:20 ID:RqJp/4Qk
(Olaf Suuderのインタビュー)
マイケルはいつでもこう言っていたよ、僕はイギリスよりエストニアでのほうが
人気があるんだよ、って。彼はエストニアが好きだった。
でも仕事の話となると、技術的にはとても細かい部分にわたって教えられた。
優秀なラリードライバーになるには、ワイルドなリアクションも、物凄い勇気も、
お金も必要じゃない。ただ競技に尽くすことが大切なのだ、という
彼の言葉を、僕は決して忘れないだろう。

(ナレーション)
マイケルがエストニア人に対して敬意を払ってくれたのと同様に、エストニアの
現地の観客も、彼を大きく讃えていた。
きょう、Tallinnではメモリアル・ライドが行われる。

ラリーリーダーのセバスチャン・ローブは、チェックポイントに遅着のタイム
ペナルティを受け、総合3位に降格するという意志を示した。
このラリーに勝てばタイトルが決まることになっていたが、このフランス人は
このような方法でタイトルを勝ち取りたくはないと願ったのだ。
優勝はペター・ソルベルグとなった。

カーディフでは全ドライバーが集まって黙祷を捧げた。
彼らの頭にあるのはたったひとつの疑問―「何故?」
しかしこの疑問は依然として残されたままだ。マルコのラリーキャリアが今後
どうなるのかも、同様に疑問となっている。

マイケル・パーク、39歳。夫であり、ふたりの子どもの父親でもあった。