【オープニング】OPナレーションスレ【言葉の芸術】
358 :
年:
古舘伊知郎
レース前の大変慌ただしい、マクラーレンのテントの中です。
さっき僕は、ここを通りかかって、ぽつんと佇んでいる、白い紙コップを見ました。
それが目に飛び込んできた瞬間に、強烈にセナの事を思い出しました。
マクラーレンのチームの中でかつてセナ、このモナコにやって来ると、
暑いんで、レーシングスーツの半身脱いで、ベルトのように袖縛って、
上半身Tシャツ姿で、二重にした紙コップを手に持って、
特製のスポーツドリンクを時折飲んで、口の中を浸していたセナ。
もうモナコにセナは居ない、喪失感が、ググッと、心の中で、強く出てきました。
しかし、今日レースは、行われます。
ご存知のように、カール・ヴェンドリンガー選手、
一命はとりとめましたけれども、まだ病院の中です。
そして、大慌てのようにして、レギュレーションの変更が、
慌ただしく発表されました。
当然、安全対策は、大前提ではあると思います。
しかし、じゃあレースって何だろう?その後考えました。
ふと、中嶋悟さんの、言葉の内容が思い出されました。
ドライバーというのは、何も特攻隊員じゃあるまいし、
死を覚悟して出て行ってるんじゃない。時折よぎる、死の恐怖、
見てみないふりをして出て行くんだ。そして魔界、スピードの世界と、
取り引きをして走ってるんだ。
その言葉が甦ってきました。
確かに、そうだと思います。自分の心にドライバーは、
死の恐怖に関して蓋をして走ってるんだと思います。
でも見ている我々というのは、安全対策をした上で、
レースに危険は付き物だという、その裏側は自覚した上で、
レースを見る構えが必要じゃないかな、と思います。
時速60キロで、レースの面白みはありません。
かと言って、戦争じゃあるまいし、人が死んで言いと言う訳はありません。
我々が、心してレースを見る、それは中嶋さんの言葉が、
全て物語ってるような気がしました。
セナが亡くなって、豊穣なメッセージを様々セナは残してくれたと思いますが、
その中の一つとして、僕はそんな事を考えました。
ドライバー達は、悲しみや、死の恐怖に蓋をして、
今日もレースに出て行きます。
まもなく、伝統の第五十二回、モナコグランプリが、幕を開けようとしています