ジャンプレーベルバトルロワイアルPart.4

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186参加するカモさん
今の住所へは私も多くの望みをかけて移って来た。婆(ばあ)やを一人(ひとり)雇い入れることにしたのもその時だ。
太郎はすでに中学の制服を着る年ごろであったから、すこし遠くても電車で私の母校のほうへ通わせ、次郎と末子の二人(ふたり)を愛宕下の学校まで毎日歩いて通わせた。
そのころの私は二階の部屋(へや)に陣取って、階下を子供らと婆やにあてがった。
 しばらくするうちに、私は二階の障子のそばで自分の机の前にすわりながらでも、階下に起こるいろいろな物音や、話し声や、客のおとずれや、子供らの笑う声までを手に取るように知るようになった。それもそのはずだ。
餌(えさ)を拾う雄鶏(おんどり)の役目と、羽翅(はね)をひろげて雛(ひな)を隠す母鶏(ははどり)の役目とを兼ねなければならなかったような私であったから。
 どうかすると、末子のすすり泣く声が階下から伝わって来る。それを聞きつけるたびに、私はしかけた仕事を捨てて、梯子段(はしごだん)を駆け降りるように二階から降りて行った。
 私はすぐ茶の間の光景を読んだ。いきなり箪笥(たんす)の前へ行って、次郎と末子の間にはいった。
太郎は、と見ると、そこに争っている弟や妹をなだめようでもなく、ただ途方に暮れている。婆やまでそこいらにまごまごしている。
 私は何も知らなかった。末子が何をしたのか、どうして次郎がそんなにまで平素のきげんをそこねているのか、さっぱりわからなかった。
ただただ私は、まだ兄たち二人とのなじみも薄く、こころぼそく、とかく里心(さとごころ)を起こしやすくしている新参者(しんざんもの)の末子がそこに泣いているのを見た。
 次郎は妹のほうを鋭く見た。そして言った。
「女のくせに、いばっていやがらあ。」
 この次郎の怒気を帯びた調子が、はげしく私の胸を打った。
 兄とは言っても、そのころの次郎はようやく十三歳ぐらいの子供だった。日ごろ感じやすく、涙もろく、それだけ激しやすい次郎は、私の陰に隠れて泣いている妹を見ると、さもいまいましそうに、
「とうさんが来たと思って、いい気になって泣くない。」
「けんかはよせ。末ちゃんを打つなら、さあとうさんを打て。」
 と、私は箪笥(たんす)の前に立って、ややもすれば妹をめがけて打ちかかろうとする次郎をさえぎった。私は身をもって末子をかばうようにした。
187参加するカモさん:2008/08/16(土) 18:45:34 ID:jq1VwXhf
「とうさんが見ていないとすぐこれだ。」と、また私は次郎に言った。「どうしてそうわからないんだろうなあ。末ちゃんはお前たちとは違うじゃないか。他(よそ)からとうさんの家へ帰って来た人じゃないか。」
「末ちゃんのおかげで、僕がとうさんにしかられる。」
 その時、次郎は子供らしい大声を揚げて泣き出してしまった。
 私は家の内を見回した。ちょうど町では米騒動以来の不思議な沈黙がしばらくあたりを支配したあとであった。市内電車従業員の罷業(ひぎょう)のうわさも伝わって来るころだ。
植木坂の上を通る電車もまれだった。たまに通る電車は町の空に悲壮な音を立てて、窪(くぼ)い谷の下にあるような私の家の四畳半の窓まで物すごく響けて来ていた。
「家の内も、外も、嵐(あらし)だ。」
 と、私は自分に言った。
 私が二階の部屋(へや)を太郎や次郎にあてがい、自分は階下へ降りて来て、玄関側(わき)の四畳半にすわるようになったのも、その時からであった。
そのうちに、私は三郎をも今の住居(すまい)のほうに迎えるようになった。私はひとりで手をもみながら、三郎をも迎えた。
「三人育てるも、四人育てるも、世話する身には同じことだ。」
 と、末子を迎えた時と同じようなことを言った。それからの私は、茶の間にいる末子のよく見えるようなところで、二階の梯子段(はしごだん)をのぼったり降りたりする太郎や次郎や三郎の足音もよく聞こえるようなところで、ずっとすわり続けてしまった。

 こんな世話も子供だからできた。私は足掛け五年近くも奉公していた婆やにも、それから今のお徳にも、串談(じょうだん)半分によくそう言って聞かせた。
もしこれが年寄りの世話であったら、いつまでも一つ事を気に掛けるような年老いた人たちをどうしてこんなに養えるものではないと。
 私たちがしきりにさがした借家も容易に見当たらなかった。好ましい住居(すまい)もすくないものだった。
三月の節句も近づいたころに、また私は次郎を連れて一軒別の借家を見に行って来た。そこは次郎と三郎とでくわしい見取り図まで取って来た家で、二人(ふたり)ともひどく気に入ったと言っていた。
青山(あおやま)五丁目まで電車で、それから数町ばかり歩いて行ったところを左へ折れ曲がったような位置にあった。部屋の数が九つもあって、七十五円なら貸す。
188参加するカモさん:2008/08/16(土) 18:46:55 ID:jq1VwXhf
それでも家賃が高過ぎると思うなら、今少しは引いてもいいと言われるほど長く空屋(あきや)になっていた古い家で、造作もよく、古風な中二階などことにおもしろくできていたが、部屋が多過ぎていまだに借り手がないとのこと。
よっぽど私も心が動いて帰って来たが、一晩寝て考えた上に、自分の住居(すまい)には過ぎたものとあきらめた。
 適当な借家の見当たり次第に移って行こうとしていた私の家では、障子も破れたまま、かまわずに置いてあった。それが気になるほど目について来た。
せめて私は毎日ながめ暮らす身のまわりだけでも繕いたいと思って、障子の切り張りなどをしていると、そこへ次郎が来て立った。
「とうさん、障子なんか張るのかい。」
 次郎はしばらくそこに立って、私のすることを見ていた。
「引っ越して行く家の障子なんか、どうでもいいのに。」
「だって、七年も雨露(あめつゆ)をしのいで来た屋根の下じゃないか。」
 と私は言ってみせた。
 煤(すす)けた障子の膏薬(こうやく)張りを続けながら、私はさらに言葉をつづけて、
「ホラ、この前に見て来た家サ。あそこはまるで主人公本位にできた家だね。
主人公さえよければ、ほかのものなぞはどうでもいいという家だ。ただ、主人公の部屋(へや)だけが立派だ。ああいう家を借りて住む人もあるかなあ。
そこへ行くと、二度目に見て来た借家のほうがどのくらいいいかしれないよ。いかに言っても、とうさんの家には大き過ぎるね。」
「僕も最初見つけた時に、大き過ぎるとは思ったが――」
 この次郎は私の話を聞いているのかと思ったら、何かもじもじしていたあとで、私の前に手をひろげて見せた。
「とうさん、月給は?」
 この「月給」が私を笑わせた。毎月、私は三人の子供に「月給」を払うことにしていた。
月の初めと半ばとの二度に分けて、半月に一円ずつの小遣(づかい)を渡すのを私の家ではそう呼んでいた。
「今月はまだ出さなかったかねえ。」
「とうさん、きょうは二日(ふつか)だよ。三月の二日だよ。」
 それを聞いて、私は黒いメリンスを巻きつけた兵児帯(へこおび)の間から蝦蟇口(がまぐち)を取り出した。
その中にあった金を次郎に分け、ちょうどそこへ屋外(そと)からテニスの運動具をさげて帰って来た三郎にも分けた。
「へえ、末ちゃんにも月給。」
189参加するカモさん:2008/08/16(土) 18:50:04 ID:jq1VwXhf
 と、私は言って、茶の間の廊下の外で古い風琴(オルガン)を静かに鳴らしている娘のところへも分けに行った。
その時、銀貨二つを風琴(オルガン)の上に載せた戻(もど)りがけに、私は次郎や三郎のほうを見て、半分串談(じょうだん)の調子で、
「天麩羅(てんぷら)の立食(たちぐい)なんか、ごめんだぜ。」
「とうさん、そんな立食なんかするものか。そこは心得ているから安心しておいでよ。」と次郎は言った。
 楽しい桃の節句の季節は来る、月給にはありつく、やがて新しい住居(すまい)での新しい生活も始められる、その一日は子供らの心を浮き立たせた。
末子も大きくなって、もう雛(ひな)いじりでもあるまいというところから、茶の間の床には古い小さな雛と五人囃子(ばやし)なぞをしるしばかりに飾ってあった。
それも子供らの母親がまだ達者(たっしゃ)な時代からの形見(かたみ)として残ったものばかりだった。
私が自分の部屋に戻(もど)って障子の切り張りを済ますころには、茶の間のほうで子供らのさかんな笑い声が起こった。お徳のにぎやかな笑い声もその中にまじって聞こえた。
 見ると、次郎は雛壇(ひなだん)の前あたりで、大騒ぎを始めた。暮れの築地(つきじ)小劇場で「子供の日」のあったおりに、たしか「そら豆の煮えるまで」に出て来る役者から見て来たらしい身ぶり、手まねが始まった。
次郎はしきりに調子に乗って、手を左右に振りながら茶の間を踊って歩いた。
「オイ、とうさんが見てるよ。」
 と言って、三郎はそこへ笑いころげた。

 私たちの心はすでに半分今の住居(すまい)を去っていた。
 私は茶の間に集まる子供らから離れて、ひとりで自分の部屋(へや)を歩いてみた。
わずかばかりの庭を前にした南向きの障子からは、家じゅうでいちばん静かな光線がさして来ている。東は窓だ。
二枚のガラス戸越しに、隣の大屋(おおや)さんの高い塀(へい)と樫(かし)の樹(き)とがこちらを見おろすように立っている。
その窓の下には、地下室にでもいるような静かさがある。
 ちょうど三年ばかり前に、五十日あまりも私の寝床が敷きづめに敷いてあったのも、この四畳半の窓の下だ。
思いがけない病が五十の坂を越したころの身に起こって来た。
190参加するカモさん:2008/08/16(土) 18:51:45 ID:jq1VwXhf
私はどっと床についた。その時の私は再び起(た)つこともできまいかと人に心配されたほどで、茶の間に集まる子供らまで一時沈まり返ってしまった。
 どうかすると、子供らのすることは、病んでいる私をいらいらさせた。
「とうさんをおこらせることが、とうさんのからだにはいちばん悪いんだぜ。それくらいのことがお前たちにわからないのか。」
 それを私が寝ながら言ってみせると、次郎や三郎は頭をかいて、すごすごと障子のかげのほうへ隠れて行ったこともある。
 それからの私はこの部屋に臥(ね)たり起きたりして暮らした。めずらしく気分のよい日が来たあとには、また疲れやすく、眩暈心地(めまいごこち)のするような日が続いた。
毎朝の気分がその日その日の健康を予報する晴雨計だった。私の健康も確実に回復するほうに向かって行ったが、いかに言ってもそれが遅緩で、もどかしい思いをさせた。
どれほどの用心深さで私はおりおりの暗礁(あんしょう)を乗り越えようと努めて来たかしれない。
この病弱な私が、ともかくも住居(すまい)を移そうと思い立つまでにこぎつけた。
私は何かこう目に見えないものが群がり起こって来るような心持ちで、本棚(ほんだな)がわりに自分の蔵書のしまってある四畳半の押入れをもあけて見た。
いよいよこの家を去ろうと心をきめてからは、押入れの中なぞも、まるで物置きのようになっていた。
世界を家とする巡礼者のような心であちこちと提(さ)げ回った古い鞄(かばん)――その外国の旅の形見が、まだそこに残っていた。
「子供でも大きくなったら。」
 私はそればかりを願って来たようなものだ。あの愛宕下(あたごした)の宿屋のほうで、太郎と次郎の二人(ふたり)だけをそばに置いたころは、まだそれでも自由がきいた。
腰巾着(こしぎんちゃく)づきでもなんでも自分の行きたいところへ出かけられた。
末子を引き取り、三郎を引き取りするうちに、目には見えなくても降り積もる雪のような重いものが、次第に深くこの私を埋(うず)めた。

 しかし私はひとりで子供を養ってみているうちに、だんだん小さなものの方へ心をひかれるようになって行った。年若い時分には私も子供なぞはどうでもいいと考えた。
かえって手足まといだぐらいに考えたこともあった。
191参加するカモさん:2008/08/16(土) 18:53:12 ID:jq1VwXhf
知る人もすくない遠い異郷の旅なぞをしてみ、帰国後は子供のそばに暮らしてみ、次第に子供の世界に親しむようになってみると、以前に足手まといのように思ったその自分の考え方を改めるようになった。
世はさびしく、時は難い。明日(あす)は、明日はと待ち暮らしてみても、いつまで待ってもそんな明日がやって来そうもない、眼前に見る事柄から起こって来る多くの失望と幻滅の感じとは、いつでも私の心を子供に向けさせた。
 そうは言っても、私が自分のすぐそばにいるものの友だちになれたわけではない。私は今の住居(すまい)に移ってから、三年も子供の大きくなるのを待った。
そのころは太郎もまだ中学へ通い、婆やも家に奉公していた。釣(つ)りだ遠足だと言って日曜ごとに次郎もじっとしていなかった時代だ。
いったい、次郎はおもしろい子供で、一人(ひとり)で家の内をにぎやかしていた。
夕飯後の茶の間に家のものが集まって、電燈の下で話し込む時が来ると、弟や妹の聞きたがる怪談なぞを始めて、夜のふけるのも知らずに、皆をこわがらせたり楽しませたりするのも次郎だ。
そのかわり、いたずらもはげしい。私がよく次郎をしかったのは、この子をたしなめようと思ったばかりでなく、一つには婆やと子供らの間を調節したいと思ったからで。
太郎びいきの婆やは、何かにつけて「太郎さん、太郎さん」で、それが次郎をいらいらさせた。
 この次郎がいつになく顔色を変えて、私のところへやって来たことがある。
「わがままだ、わがままだって、どこが、わがままだ。」
 見ると次郎は顔色も青ざめ、少年らしい怒りに震えている。何がそんなにこの子を憤らせたのか、よく思い出せない。しかし、私も黙ってはいられなかったから、
「お前のあばれ者は研究所でも評判だというじゃないか。」
「だれが言った――」
「弥生町(やよいちょう)の奥さんがいらしった時に、なんでもそんな話だったぜ。」
「知りもしないくせに――」
 次郎が私に向かって、こんなふうに強く出たことは、あとにも先にもない。急に私は自分を反省する気にもなったし、言葉の上の争いになってもつまらないと思って、それぎり口をつぐんでしまった。
 次郎がぷいと表へ出て行ったあとで、太郎は二階の梯子段(はしごだん)を降りて来た。その時、私は太郎をつかまえて、
192参加するカモさん:2008/08/16(土) 18:54:39 ID:jq1VwXhf
「お前はあんまりおとなし過ぎるんだ。お前が一番のにいさんじゃないか。次郎ちゃんに言って聞かせるのも、お前の役じゃないか。」
 太郎はこの側杖(そばづえ)をくうと、持ち前のように口をとがらしたぎり、物も言わないで引き下がってしまった。そういう場合に、私のところへ来て太郎を弁護するのは、いつでも婆やだった。
 しかし、私は子供をしかって置いては、いつでもあとで悔いた。自分ながら、自分の声とも思えないような声の出るにあきれた。
私はひとりでくちびるをかんで、仕事もろくろく手につかない。片親の悲しさには、私は子供をしかる父であるばかりでなく、そこへ提(さ)げに出る母をも兼ねなければならなかった。
ちょうど三時の菓子でも出す時が来ると、一人(ひとり)で二役を兼ねる俳優のように、私は母のほうに早がわりして、茶の間の火鉢(ひばち)のそばへ盆を並べた。次郎の好きな水菓子なぞを載せて出した。
「さあ、次郎ちゃんもおあがり。」
 すると、次郎はしぶしぶそれを食って、やがてきげんを直すのであった。
 私の四人の子供の中で、三郎は太郎と三つちがい、次郎とは一つちがいの兄弟(きょうだい)にあたる。
三郎は次郎のあばれ屋ともちがい、また別の意味で、よく私のほうへ突きかかって来た。
何をこしらえて食わせ、何を買って来てあてがっても、この子はまだ物足りないような顔ばかりを見せた。
私の姉の家のほうから帰って来たこの子は、容易に胸を開こうとしなかったのである。上に二人(ふたり)も兄があって絶えず頭を押えられることも、三郎を不平にしたらしい。
それに、次郎びいきのお徳が婆やにかわって私の家へ奉公に来るようになってからは、今度は三郎が納まらない。ちょうど婆やの太郎びいきで、とかく次郎が納まらなかったように。
「三ちゃん、人をつねっちゃいやですよ。ひどいことをするのねえ、この人は。」
「なんだ。なんにもしやしないじゃないか。ちょっとさわったばかりじゃないか――」
 お徳と三郎の間には、こんな小ぜり合いが絶えなかった。
「とうさんはお前たちを悪くするつもりでいるんじゃないよ。お前たちをよくするつもりで育てているんだよ。
かあさんでも生きててごらん、どうして言うことをきかないような子供は、よっぽどひどい目にあうんだぜ――あのかあさんは気が短かかったからね。」
193参加するカモさん:2008/08/16(土) 18:56:12 ID:jq1VwXhf
 それを私は子供らに言い聞かせた。あまり三郎が他人行儀なのを見ると、時には私は思い切り打ち懲らそうと考えたこともあった。
ところが、ちいさな時分から自分のそばに置いた太郎や次郎を打ち懲らすことはできても、十年他(よそ)に預けて置いた三郎に手を下すことは、どうしてもできなかった。
ある日、私は自分の忿(いか)りを制(おさ)えきれないことがあって、今の住居(すまい)の玄関のところで、思わずそこへやって来た三郎を打った。
不思議にも、その日からの三郎はかえって私になじむようになって来た。その時も私は自分の手荒な仕打ちをあとで侮いはしたが。
「十年他(よそ)へ行っていたものは、とうさんの家へ帰って来るまでに、どうしたってまた十年はかかる。」
 私はそれを家のものに言ってみせて、よく嘆息した。
 私たちが住み慣れた家の二階は東北が廊下になっている。窓が二つある。その一つからは、小高い石垣(いしがき)と板塀(いたべい)とを境に、北隣の家の茶の間の白い小障子まで見える。
三郎はよくその窓へ行った。遠い郷里のほうの木曽川(きそがわ)の音や少年時代の友だちのことなぞを思い出し顔に、その窓のところでしきりに鶯(うぐいす)のなき声のまねを試みた。
「うまいもんだなあ。とても鶯(うぐいす)の名人だ。」
 三郎は階下の台所に来て、そこに働いているお徳にまで自慢して聞かせた。
 ある日、この三郎が私のところへ来て言った。
「とうさん、僕の鶯(うぐいす)をきいた? 僕がホウヽホケキョとやると、隣の家のほうでもホウヽホケキョとやる。僕は隣の家に鶯が飼ってあるのかと思った。それほど僕もうまくなったかなあと思った。
ところがねえ、本物の鶯が僕に調子を合わせていると思ったのは、大間違いサ。それが隣の家に泊まっている大学生サ。」
 何かしら常に不満で、常にひとりぼっちで、自分のことしか考えないような顔つきをしている三郎が、そんな鶯(うぐいす)のまねなぞを思いついて、寂しい少年の日をわずかに慰めているのか。
そう思うと、私はこの子供を笑えなかった。
「かあさんさえ達者(たっしゃ)でいたら、こんな思いを子供にさせなくとも済んだのだ。もっと子供も自然に育つのだ。」
 と、私も考えずにはいられなかった。
 私が地下室にたとえてみた自分の部屋(へや)の障子へは、町の響きが遠く伝わって来た。
194参加するカモさん:2008/08/16(土) 18:58:24 ID:jq1VwXhf
私はそれを植木坂の上のほうにも、浅い谷一つ隔てた狸穴(まみあな)の坂のほうにも聞きつけた。
私たちの住む家は西側の塀(へい)を境に、ある邸(やしき)つづきの抜け道に接していて、小高い石垣(いしがき)の上を通る人の足音や、いろいろな物売りの声がそこにも起こった。
どこの石垣のすみで鳴くとも知れないような、ほそぼそとした地虫(じむし)の声も耳にはいる。私は庭に向いた四畳半の縁先へ鋏(はさみ)を持ち出して、よく延びやすい自分の爪(つめ)を切った。
 どうかすると、私は子供と一緒になって遊ぶような心も失ってしまい、自分の狭い四畳半に隠れ、庭の草木を友として、わずかにひとりを慰めようとした。
子供は到底母親だけのものか、父としての自分は偶然に子供の内を通り過ぎる旅人に過ぎないのか――そんな嘆息が、時には自分を憂鬱(ゆううつ)にした。
そのたびに気を取り直して、また私は子供を護(まも)ろうとする心に帰って行った。

 安い思いもなしに、移り行く世相をながめながら、ひとりでじっと子供を養って来た心地(ここち)はなかった。
しかし子供はそんな私に頓着(とんじゃく)していなかったように見える。
 七年も見ているうちには、みんなの変わって行くにも驚く。震災の来る前の年あたりには太郎はすでに私のそばにいなかった。
この子は十八の歳(とし)に中学を辞して、私の郷里の山地のほうで農業の見習いを始めていた。
これは私の勧めによることだが、太郎もすっかりその気になって、長いしたくに取りかかった。
ラケットを鍬(くわ)に代えてからの太郎は、学校時代よりもずっと元気づいて来て、翌年あたりにはもう七貫目ほどの桑を背負いうるような若者であった。
 次郎と三郎も変わって来た。私が五十日あまりの病床から身を起こして、発病以来初めての風呂(ふろ)を浴びに、
鼠坂(ねずみざか)から森元町(もりもとちょう)の湯屋まで静かに歩いた時、兄弟(きょうだい)二人(ふたり)とも心配して私のからだを洗いについて来たくらいだ。
私の顔色はまだ悪かった。私は小田原(おだわら)の海岸まで保養を思い立ったこともある。その時も次郎は先に立って、弟と一緒に、小田原の停車場まで私を送りに来た。
 やがて大地震だ。私たちは引き続く大きな異変の渦(うず)の中にいた。
195参加するカモさん:2008/08/16(土) 19:00:05 ID:jq1VwXhf
私が自分のそばにいる兄妹(きょうだい)三人の子供の性質をしみじみ考えるようになったのも、
早川(はやかわ)賢(けん)というような思いがけない人の名を三郎の口から聞きつけるようになったのも、そのころからだ。
 毎日のような三郎の「早川賢、早川賢」は家のものを悩ました。きのうは何十人の負傷者がこの坂の上をかつがれて通ったとか、
きょうは焼け跡へ焼け跡へと歩いて行く人たちが舞い上がる土ぼこりの中に続いたとか、そういう混雑がやや沈まって行ったころに、
幾万もの男や女の墓地のような焼け跡から、三つの疑問の死骸(しがい)が暗い井戸の中に見いだされたという驚くべきうわさが伝わった。
「あゝ――早川賢もついに死んでしまったか。」
 この三郎の感傷的な調子には受け売りらしいところもないではなかったが、まだ子供だ子供だとばかり思っていたものがもはやこんなことを言うようになったかと考えて、
むしろ私にはこの子の早熟が気にかかった。
 震災以来、しばらく休みの姿であった洋画の研究所へも、またポツポツ研究生の集まって行くころであった。そこから三郎が目を光らせて帰って来るたびにいつでも同じ人のうわさをした。
「僕らの研究所にはおもしろい人がいるよ。『早川賢だけは、生かして置きたかったねえ』――だとサ。」
 無邪気な三郎の顔をながめていると、私はそう思った。どれほどの冷たい風が毎日この子の通う研究所あたりまでも吹き回している事かと。
私はまた、そう思った。あの米騒動以来、だれしもの心を揺り動かさずには置かないような時代の焦躁(しょうそう)が、右も左もまだほんとうにはよくわからない三郎のような少年のところまでもやって来たかと。
私は屋外(そと)からいろいろなことを聞いて来る三郎を見るたびに、ちょうど強い雨にでもぬれながら帰って来る自分の子供を見る気がした。
 私たちの家では、坂の下の往来への登り口にあたる石段のそばの塀(へい)のところに、大きな郵便箱を出してある。毎朝の新聞はそれで配達を受けることにしてある。
取り出して来て見ると、一日として何か起こっていない日はなかった。あの早川賢が横死(おうし)を遂げた際に、同じ運命を共にさせられたという不幸な少年一太のことなぞも、さかんに書き立ててあった。
196参加するカモさん:2008/08/16(土) 19:01:29 ID:jq1VwXhf
またかと思うような号外売りがこの町の界隈(かいわい)へも鈴を振り立てながら走ってやって来て、大げさな声で、そこいらに不安をまきちらして行くだけでも、私たちの神経がとがらずにはいられなかった。
私は、年もまだ若く心も柔らかい子供らの目から、殺人、強盗、放火、男女の情死、官公吏の腐敗、その他胸もふさがるような記事で満たされた毎日の新聞を隠したかった。
あいにくと、世にもまれに見る可憐(かれん)な少年の写真が、ある日の紙面の一隅(いちぐう)に大きく掲げてあった。評判の一太だ。
美しい少年の生前の面影(おもかげ)はまた、いっそうその死をあわれに見せていた。
 末子やお徳は茶の間に集まって、その日の新聞をひろげていた。そこへ三郎が研究所から帰って来た。
「あ――一太。」
 三郎はすぐにそれへ目をつけた。読みさしの新聞を妹やお徳の前に投げ出すようにして言った。
「こんな、罪もない子供までも殺す必要がどこにあるだろう――」
 その時の三郎の調子には、子供とも思えないような力があった。
 しかし、これほどの熱狂もいつのまにか三郎の内を通り過ぎて行った。伸び行くさかりの子供は、一つところにとどまろうとしていなかった。どんどんきのうのことを捨てて行った。
「オヤ――三ちゃんの『早川賢』もどうしたろう。」
 と、ふと私が気づいたころは、あれほど一時大騒ぎした人の名も忘れられて、それが「木下(きのした)繁(しげる)、木下繁」に変わっていた。
木下繁ももはや故人だが、一時は研究所あたりに集まる青年美術家の憧憬(どうけい)の的(まと)となった画家で、みんなから早い病死を惜しまれた人だ。
 その時になって見ると、新しいものを求めて熱狂するような三郎の気質が、なんとなく私の胸にまとまって浮かんで来た。
どうしてこの子がこんなに大騒ぎをやるかというに――早川賢にしても、木下繁にしても――彼らがみんな新しい人であるからであった。
「とうさんは知らないんだ――僕らの時代のことはとうさんにはわからないんだ。」
 訴えるようなこの子の目は、何よりも雄弁にそれを語った。私もまんざら、こうした子供の気持ちがわからないでもない。
よりすぐれたものとなるためには、自分らから子供を叛(そむ)かせたい――それくらいのことは考えない私でもない。
197参加するカモさん:2008/08/16(土) 19:03:16 ID:jq1VwXhf
それにしても、少年らしい不満でさんざん子供から苦しめられた私は、今度はまた新しいもので責められるようになるのかと思った。
 末子も目に見えてちがって来た、堅肥(かたぶと)りのした体格から顔つきまで、この娘はだんだんみんなの母親に似て来た。
上(うえ)は男の子供ばかりの殺風景な私の家にあっては、この娘が茶の間の壁のところに小乾(さぼ)す着物の類も目につくようになった。それほど私の家には女らしいものも少なかった。
 今の住居(すまい)の庭は狭くて、私が猫(ねこ)の額(ひたい)にたとえるほどしかないが、それでも薔薇(ばら)や山茶花(さざんか)は毎年のように花が絶えない。
花の好きな末子は茶の間から庭へ降りて、わずかばかりの植木を見に行くことにも学校通いの余暇を慰めた。今の住居(すまい)の裏側にあたる二階の窓のところへは、巣をかけに来る蜂(はち)があって、
それが一昨年(おととし)も来、去年も来、何か私の家にはよい事でもある前兆のように隣近所の人たちから騒がれたこともある。末子はその窓の見える抜け道を通っては毎日学校のほうから帰って来た。
そして、好きな裁縫や編み物のような、静かな手芸に飽きることを知らないような娘であった。そろそろ女の洋服がはやって来て、
女学校通いの娘たちが靴(くつ)だ帽子だと新規な風俗をめずらしがるころには、末子も紺地の上着(うわぎ)に襟(えり)のところだけ紫の刺繍(ぬい)のしてある質素な服をつくった。
その短い上着のまま、早い桃の実の色した素足(すあし)を脛(すね)のあたりまであらわしながら、茶の間を歩き回るなぞも、今までの私の家には見られなかった図だ。
 この娘がぱったり洋服を着なくなった。私も多少本場を見て来たその自分の経験から、「洋服のことならとうさんに相談するがいいぜ」なぞと末子に話したり、帯で形をつけることは東西の風俗ともに変わりがないと言い聞かせたりして、
初めて着せて見る娘の洋服には母親のような注意を払った。十番で用の足りないものは、銀座(ぎんざ)まで買いにお徳を娘につけてやった。
それほどにして造りあげた帽子も、服も、付属品いっさいも、わずか二月(ふたつき)ほどの役にしか立たないとを知った時に私も驚いた。
「串談(じょうだん)じゃないぜ。あの上着は十八円もかかってるよ。そんなら初めから洋服なぞを造らなければいいんだ。」
198参加するカモさん:2008/08/16(土) 19:04:08 ID:jq1VwXhf
 日ごろ父一人(ひとり)をたよりにしている娘も、その時ばかりは私の言うことを聞き入れようとしなかった。お徳がそこへ来て、
「どうしても末子さんは着たくないんだそうですよ。洋服はもういらないから、ほしい人があったらだれかにあげてくだすってもいいなんて……」
 こういう場合に、末子の代弁をつとめるのは、いつでもこの下女だった。それにしても、どうかして私はせっかく新調したものを役に立てさせたいと思って、
「洋服を着るんなら、とうさんがまた築地(つきじ)小劇場をおごる。」
 と言ってみせた。すると、お徳がまた娘の代わりに立って来て、
「築地へは行きたいし、どうしても洋服は着たくないし……」
 それが娘の心持ちだった。その時、お徳はこんなこともつけたして言った。
「よくよく末子さんも、あの洋服がいやになったと見えますよ。もしかしたら、屑屋(くずや)に売ってくれてもいいなんて……」これほどの移りやすさが年若(としわか)な娘の内に潜んでいようとは、私も思いがけなかった。
でも、私も子に甘い証拠には、何かの理由さえあれば、それで娘のわがままを許したいと思ったのである。お徳に言わせると、末子の同級生で新調の校服を着て学校通いをするような娘は今は一人もないとのことだった。
「そんなに、みんな迷っているのかなあ。」
「なんでも『赤襟(あかえり)のねえさん』なんて、次郎ちゃんたちがからかったものですから、あれから末子さんも着なくなったようですよ。」
「まあ、あの洋服はしまって置くサ。また役に立つ日も来るだろう。」
 とうとう私には娘のわがままを許せるほどのはっきりした理由も見当たらずじまいであった。
私は末子の「洋服」を三郎の「早川賢」や「木下繁」にまで持って行って、娘は娘なりの新しいものに迷い苦しんでいるのかと想(おも)ってみた。
時には私は用達(ようたし)のついでに、坂の上の電車路(みち)を六本木(ろっぽんぎ)まで歩いてみた。婦人の断髪はやや下火でも、洋装はまだこれからというころで、
思い思いに流行の風俗を競おうとするような女学校通いの娘たちが右からも左からもあの電車の交差点(こうさてん)に群がり集まっていた。
 私たち親子のものが今の住居(すまい)を見捨てようとしたころには、こんな新しいものも遠い「きのう」のことのようになっていた。
199参加するカモさん:2008/08/16(土) 19:05:05 ID:jq1VwXhf
三郎なぞは、「木下繁」ですらもはや問題でないという顔つきで、フランス最近の画界を代表する人たち――ことに、ピカソオなぞを口にするような若者になっていた。
「とうさん、今度来たビッシェールの画(え)はずいぶん変わっているよ。あの人は、どんどん変わって行く――確かに、頭がいいんだろうね。」
 この子の「頭がいいんだろうね」には私も吹き出してしまった。
 私の話相手――三人の子供はそれぞれに動き変わりつつあった。三人の中でも兄(にい)さん顔の次郎なぞは、五分刈(ごぶが)りであった髪を長めに延ばして、
紺飛白(こんがすり)の筒袖(つつそで)を袂(たもと)に改めた――それもすこしきまりの悪そうに。
顔だけはまだ子供のようなあの末子までが、いつのまにか本裁(ほんだち)の着物を着て、女らしい長い裾(すそ)をはしょりながら、茶の間を歩き回るほどに成人した。


島崎藤村
200参加するカモさん:2008/08/16(土) 19:12:25 ID:jq1VwXhf
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