―――かつ、 かつ、 かつ。
冷たい音が近付いてくる。
固いモノを固いモノで叩くような、規則正しい音。
―――かつ、 かつ、 かつ。
やがて、気がつく。
これは靴の音だ。
固い靴底が、固い床を叩く音だ。
―――かつ、 かつ、 かつ。
けれど何も見えなかった。
周囲は新月の夜よりなお暗く、近付いてくる者の姿も分からない。
首を上げて視線を巡らす……そんな簡単なことが、何故かできなかった。
両腕が重い。
両脚が重い。
身体全体が沈むように重い。
まるで、夢に落ちる直前のまどろみの中にいるようだ。
―――かつん。
足音が止まった。
数分、数秒、あるいは数瞬。
久遠とも刹那とも思える沈黙が過ぎる。
そして、唐突にそれは現れた。
「ごきげんよう、諸君。よく眠れたかい?」
それは一人の男だった。
まっすぐに切り揃えられた、背中を覆い隠すほどの暗めの金髪。
若々しくも彫りの深い顔立ち。
爽やかな笑みを湛える碧の両眼。
品のある赤色のコートとシルクハット。
一切の光源のない暗闇の中、赤で身を固めた男の姿だけが不自然なまでに際立っている。
……不自然なのはそこだけではない。
感覚の上では、自分の身体は仰向けに倒れているはずなのだ。
それなのに、男は目の前で直立している。
底のない暗闇は三半規管まで狂わせてしまうのか。
「ああ、そこのキミ。無理に動こうとしても意味はない。
起こしたのは意識だけで、身体はまだ覚醒させていないんだ。
そこのキミも。心穏やかではないだろうけど、まずは話を聞いてくれたまえ」
日本人離れした容貌のその男は、舞台俳優のように手振りを交えて語りだした。
この場には自分と男の二人しかいないというのに、複数の聴衆を相手取っているかのように。
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「まずは自己紹介をしておくのが礼儀かな。
私はコルネリウス・アルバ―――魔術師だ。
ああ、魔術師というのは単語のイメージ通りで構わない。
魔術理論を講釈するためにキミ達を集めたわけではないからね」
アルバと名乗る男は、慇懃に、しかし饒舌に言葉を紡いでいく。
「キミ達六十名に集まって貰ったのは、私達の実験に協力して頂くためだ。
今は私しか見えないだろうが、この地には確かに六十名揃っているよ。
とはいえ、その全員と出会うことはないだろうけどね」
そこで言葉を切り、コルネリウス・アルバは笑ってみせた。
悪意らしきものを感じない善良な笑みだった。
「実験といっても、そんなに複雑なことを頼むわけじゃない。
キミ達にはこの地で殺し合ってもらうだけだ」
しかし表情とは相反し、語る言葉は異常そのものであった。
殺し合え。
そんな異常極まりない要求を、この男はあっさりと口にしたのだ。
アルバは皮手袋を付けた手を側頭部に当てて、聞き耳を立てるジェスチャーを始めた。
あんなことを口にした今となっては、あまりにも演技臭く、あまりにも白々しい。
「……その通り。キミ達の主張は尤もだ。我々に強制する権利などない。
だから少々仕掛けをさせて貰っているよ。キミ達が自主的に殺し合ってくれるようにね」
ぱちん、と。
アルバが指を鳴らす。
すると彼の隣にまた別の人間が唐突に現れた。
派手ながらも整った服装のアルバとは正反対に、どこにでもいるような目立たない風貌の男だ。
表情は虚ろで、力なく項垂れているように見える。
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ついいつもの感じで支援
「口で説明するよりも、実際に見せたほうが理解が早いだろう」
アルバが男の髪を乱暴に掴み上げる。
露わになった男の首には、奇妙な物体が嵌められていた。
黒い首輪―――或いは肉体に密着したチョーカーとでも呼ぶべきか。
如何なる物質で製造されているのか、頭を乱暴に引っ張ってもずれる様子もない。
「3、2、1」
アルバは男の頭を掴んだ腕を突き出した。
端正な口元が、ゼロ、と囁く。
響き渡る炸裂音。
首輪が閃光と共に爆発し、男の首を細切れの肉塊へと変えていた。
頭部との繋がりを失った胴体が、重力に引かれて倒れ伏す。
アルバの手に残る頭もまた、原型の殆どを喪失している。
下顎はどこかへと吹き飛んでいて、想像以上に長い舌がだらしなく垂れている。
力任せに破壊された頸部からは壊れた蛇口のように血液が溢れていく。
頚骨の残骸と脊椎の切れ端が、いくらかの肉片を引き連れて、足元に広がる血の海に落下した。
「六時間毎に立ち入り禁止区域、いわゆる禁止エリアというものを設定する。
ここに入ると、さっきのように、ボン、だ。
それと首輪を破壊もしくは解除しようとしても爆発する。
危険を承知で解除を試みるのは自由だが、お勧めはできないね。
後の細かい取り決めは、荷物の中に入れてある手引きでも読んで把握してくれたまえ」
男の頭だったモノを両手で挟みながら、アルバは『実験』の説明を続けていく。
支援
しえん
支援
「最後に残った一人だけ、この首輪を安全に解除し解放してあげるというのが基本だ。
しかし、もし大勢殺して実験に貢献してくれたならボーナスも贈ろう。
『もっと強い武器が欲しい』
『傷を癒して欲しい』
『今すぐ解放してほしい』
『自分以外にもう一人助けて欲しい』
……とまぁ、成果に見合うならば可能な限り応じるつもりだ」
みしみしと奇怪な音がする。
いつの間にか、アルバの手に挟まれた物体は、醜くいびつに歪んでいた。
「最後になったが、ここは我々の領域だ。
十全の力など発揮できないと思ってくれたまえ。
途中経過は禁止エリアの発表のときにでもお知らせしよう。
では―――幸運を祈る」
男の頭だったモノは、まるで玩具のように押し潰された。
真っ赤な鮮血と赤黒い肉片、そして淡い色の脳細胞が、飛沫になって飛び散っていく。
その光景を最後に、視界は真の闇へと落ちていった―――
…
支援
「これでいいかね、アラヤ」
コルネリウス・アルバは肩を竦めて振り返った。
暗く、広く、天井の高い大広間。
しかし先ほどまで彼が語りかけていた六十名の姿はどこにもない。
それもそのはず。
彼は『実験場』の各地で昏睡する被験者達に、夢という形で語りかけていたのだから。
人の記憶や意識に多少手を加えることなど、魔術師にとっては造作もない。
六十名は流石に大人数ではあるが、規模に応じた備えさえあれば充分対応できる。
わずか数分の幻想を見せる程度ならば尚のことだ。
彼らはやがて目を覚まし、それぞれ行動を起こすことだろう。
生き残ればよいとして逃げ惑うのか。
自身の生存のみを優先して立ち回るのか。
他の誰かを救うために多くを手にかけるのか。
彼らが何を考え、何を行うのかは、もはやアルバの関知するところではない。
「他でもないキミの頼みだから請け負ったが、まさか司会者の真似事をさせられるとはね。
これでは私が首謀者のようではないか」
アルバはコツコツと足音を響かせながら広間を歩いていく。
両方の手袋は血と脂に汚れ、白い頬にまで返り血が散っている。
一歩踏み出すたびに手袋から血液が滴り、単色の床材に赤い点を描く。
それは、見せしめとなった犠牲者の―――
支援
―――否。
見せしめとなった『人形』の血液であった。
とはいえ、その構造は精緻。
肉があり、骨があり、血液がある。
人体にはない人形特有の部品さえ目に入らなければ、普通の人間と見分けなどつくまい。
そもそも首を飛ばしても気取られないように造った人形なのだから、気付かれるほうがおかしいのだ。
アルバの確信は微塵も揺らいでいない。
「ともあれ私の役割は一段落したのだから、後はお手並み拝見だ。
―――服が汚れたな。着替えてくるとしよう」
そう嘯いて、赤い魔術師は暗がりの向こうを一瞥した。
広間の暗闇よりもなお暗い人影。
黒い外套を着込んだ男は、一切の気配もなく、硬質の椅子に座していた。
立ち上がらずとも、その背丈と体躯の大仰さが見て取れる。
その貌は苦悶を刻んだ彫像のよう。
地獄という概念が形を成したならば、或いはこのようになるだろうか。
それが、魔術師、荒耶宗蓮の姿であった。