劇場版の最後のシーンについて

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52名無しが氏んでも代わりはいるもの
オリジナルが消えてしまったので、もう一度

最後の首締めは僕の見解ではこうです。

 まあ、シンジがなぜ首締めをしたかは僕的にはどうでもいいのです。拒絶した・されたアスカに対する恐れ等でしょう。発動した補完計画をおじゃんにした癖に「でもいつかは裏切られるんだ」とかうじうじ言ってるくらいですから。

 そこで、なぜアスカが「優しく頬を撫でたか」。アスカは気がついたとき隣にシンジが居たときに既に絶望をしていたと思うんです。

 才色兼備で、優秀な自分が、うっとうしくて、うじうじして、見てていらついてる冴えない奴に何故か負けつづけて、プライドをずたずたにされているのに、鈍感だから気づかないどころか自分に逃げ込んでくるのだけで既に嫌。
 そいつが自分をオカズにする(真っ正面から自分を見ない)だけで、助けに来てもくれないから、最後の力を振り絞って「アンタとだけは絶対に嫌」と言ったのに、土壇場で人間に復活させた挙げ句、こともあろうに自分をその欲望の対象に指名しやがったというところでしょうか。

 全てにおいて勝っていたはずの自分が現実世界で負けた上に「シンジの世界」に引きずり出されたら、後は陵辱の時間があるだけだと。しかも病室の振る舞いからして紳士的なことは期待できないぞと。

 そうしたら、首を絞めてきたので、「ああ、結局優秀だと己惚れていたアタシもこーんな冴えない奴に殺されて終わるのね」という諦念と自嘲感。そして「これから飽きるまで慰み者にされると思ってたのにあっさり解放してくれるのね」とか、「本当は5歳のとき、ママにこうして殺されるはずが昔は少し好きだったこともあった、こんな奴にやっぱり殺されるのか。結局こうされるために生きてきたのかな」みたいな感情が渦巻いて、せめて殺す相手の感触だけでも感じようと思って撫でたのではないか。

 もしくはうざったいシンジのことだから「首締めプレイ」で、自分を抵抗できないように弱らせて後でたっぷり楽しむと思ったので、そんなうざいことせずしっかり殺せよと激励の気持ちで撫でたとか。

 実際、勝ち気で優秀な美少女を肉体的・精神的に痛めつけた挙げ句、抵抗を無力化してじっくり嬲るというのは、そういう小説・漫画の「お約束」ですからね。

 まあ、そういう「優しさ・愛情」とは無縁の感情で行った行為なのに、バカシンジは、絞める手を緩めた挙げ句自分の上で泣き出されては、今までの仕打ちは何だったんだとアスカならずとも思うでしょう。
 泣きたいのはこっちのほうだと。そういう感情から、人の首絞めた挙げ句泣き出したシンジを「気持ち悪い」と表現するのは至極当然。

 で生き残っても、シンジが変わらない限りアスカにとっては地獄の時間が待っているだけでしょうね。
 「シンジの世界」である以上、シンジに依存しなくては生きていけないでしょうし、シンジに依存するためにアスカが払える代償は自分の体しかないわけですから。でも映画版を見る限りアスカに自殺は出来ないと見た。だから地獄なんです。

 そう考えると映画後、興隆しているHPがLAS(love asuka sinji)なのも分かる話だと思っています。
 いかなる見かけの世界であれアスカが生きられるのは、シンジが望む「シンジの世界」だけなので、そこでアスカが幸せになるにはシンジと相思相愛になるしかないからです。(より正確に言えば、シンジに愛されること)
 この映画で綾波がシンジに保証したのはシンジが望む世界なので、結果どのような世界もシンジが望んだ世界となるわけです。映画の中もシンジの内的世界だとしても、やはり今後どういう世界になるかはシンジ次第なので、等価値です。
 そういった閉塞(と思われる)した世界でシンジに魅入られたアスカは悲惨の一語ですが、シンジを愛してしまえば結果オーライでしょう。まさに「どこでだって天国になるわ。だって生きてるんですもの」です。

 後はシンジが真に自分を見詰めてアスカに依存せず、アスカがたとえ自分から離れても許せるような男になればアスカも真のハッピーエンドを迎えられるのですが、これは非常に難しそうです。

 こう考えると、いまだある「ファンフィクション」としての学園エヴァや逆行物、倒錯物等のエヴァの物語は全て「シンジが望んだかもしれない世界」として等価値で現実の世界であるという構図が面白いですね。

 以上アスカ至上主義の男の妄想でした。