劇場版の最後のシーンについて

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対して、アスカというのはシンジにとっても視聴者にとっても訳の分からない存在でした。

補完の計画の役に立つわけでない弐号機の設計者の娘であり、パイロットであるという
だけで、エヴァのストーリーの核心からはメインキャラ中一番遠い位置にいます。
弐拾弐話での敗北もシンジを守ったというレイと違って、単に独走した結果の無意味な
負けです。
量産機との闘いも、倒した量産機は復活してしまい、全くの無駄死にです。

シンジとの関係も、好意を持っているような描写と、苛立っているような描写があり、
シンジを好きなのか嫌いなのかが解りません。

庵野氏は現実に帰れといいましたが、我々が生きる現実とは言うまでもなく成長物語の
世界と違って、私たちが成長するために存在しているわけではありません。
世界は意味も目的もなく存在しているのです。
そしてその世界に住む他人も、私達を成長させるために存在しているわけではないし、
他人の考えも想像するしかない以上、友人がトウジのような存在であるのかケンスケの
ような存在であるのかも解らないように、他人というのは本来訳の分からない存在なの
です。

シンジが「夢でない現実に帰る」事を選んだ以上、シンジにとっての現実もそういう世
界でなければならないし、シンジにとっての他人も好いてくれるのか嫌われるのか解ら
ない存在でなければならないし、シンジのことを成長させてくれるのかくれないのかも
解らない存在でなければならないのです。

だからアスカが側にいたと考えられますが、シンジが首を絞めたのは監督のメッセ
ージを伝える意味以外はないと思います。

首を絞めるという行動は相手を拒絶する行動で、それに対するアスカの行動は頬を撫で
るということであり、これは相手を受容したということだと思います。
そのアスカの行動に対して、シンジは涙を流し首締めをやめますが、これは相手を受容
したということです。その後はアスカの「気持ち悪い」(拒絶)です。

アスカはシンジの拒絶の行動に対して受容の行動で答え、シンジの受容の行動に対して
拒絶で答えました。
これは他人同士というのは、永遠にかみ合わないまま拒絶と受容を繰り返しながら生き
ていくということだと思います。

絶対的な相互理解には達し得ない他人同士と共に生きていくということですから、シン
ジとアスカは物語上では恋人には成り得ないし、憎み合って完全に分かれるということ
もない。それでは成長物語に都合の良い他人ということですから。

EOEのラストが唐突に終わったのは、二人の関係をどっちつかずで終わらすためだと思
います。そこからは彼ら自身の現実を生きるということで。