私たちの街、第三新東京市に式波がやって来てから、もうすぐ一年になる。
惣流はカレンダーをめくっていた。3月、4月、5月と手早くめくって、指折り日にちを数える。
「6月6日か。大丈夫かな」
事の起こりは夕食の後、惣流が式波を風呂に誘ったことだった。
「なんで私が惣流なんかとお風呂に入んなきゃなんないのよ、ガキっぽい。パスするわ」
「言いだしっぺはあんたの方よ。話があるけど二人っきりで、なんて言うからじゃない」
「ん…」
「ほら交換条件よ。さっさと支度して」
「もー、これだから惣流ってイヤなのよぉ!」
二人共もうとっくに日本式の風呂には慣れていた。常夏の日本ともなれば入浴の頻度もおのずと増す。
二人のアスカが同居するようになってから、葛城家の浴室にはちゃんと風呂椅子が二つある。
女子が直接風呂場の床に座るのは、腰が冷えたり雑菌が入る恐れがあり好ましくないからだ。
シャンプーとリンスは同じブランドのものをそれぞれ別に使っており、マッキーで「惣」「式」と目印が描いてあった。
(惣流も式波も、シンジには一滴たりとも自分のシャンプーその他の使用は許可していない。男の髪など石鹸で十分だと思っている)
ヘッドセットを外して髪を下ろしてしまうと、二人とも見分けがつかないほどよく似ていた。
「式波って、髪が綺麗ね。私ほどじゃないけど。ちょっと触らせて」
「イヤよ! 女の命をいじらせてたまるもんですか」
「あんた私に命預けてんのよ? 髪の毛も預けてみなさいよ、ほらぁ」
どうして惣流って、こうひどく子供っぽくなったり気まぐれになったりするのかしら?
訳が分からない性格と思いながらも、これから惣流に切り出す話を考えて、特別に洗わせるの許してやることにする。
シャンプーを泡立て、自分よりやや黄色がかった式波の金髪を洗っていると、出し抜けに式波が聞く。
「あんたはなんで髪の毛を伸ばしてんの、惣流?」
「ちっちゃいころ、ママが褒めてくれたのよ。アスカは髪がきれいね、って。…だからかな」
「ふーん。いいな、それって」
「式波はどうなのよ…って熱、あちちち!」
式波はシャワーを開くと、温度を確認する前に惣流の方へかけてむりやり洗髪を中断させた。
「この暴力女…。あんた、この私にひどいことするわね」
「ふふん、油断大敵よ」
澄まし顔でやり返す式波に、去年の来朝当時の乱暴さを思い出す惣流だった。
一度洗った髪がお湯につかるのは不快なので、髪を束ねて髪留めで留めてから式波は湯船に入った。
惣流がかわりに髪を洗っている間、式波は黙っていた。てぬぐいで空気を湯の中に運んで、繊維から漉して細かい泡をたてたり、
室内の観葉植物を眺めたりしていた。が、ついに用件を切り出す。
「話ってのはさ、あいつのことよ。…バカシンジ、背、伸びたわ。あたしたちよりも」
「はぁ?」
「今日の晩御飯だって2膳も食べてた。今日だけじゃないわ、最近はいつもよ。声も少し低くなったと思わない?」
「だから何なのよ」
「だから! 去年のあたしたちの誕生日にお祝いしてもらったでしょ!」照れと苛立ちからつい式波は声を荒げてしまった。
「惣流も手伝ってくれない? あいつへのお返し! ケーキと料理を作るの!」
本題を聞いた惣流は、表情を変えないまま立ち上がった。
「考えてやってもいいわよ。ただし」そのままドアノブに手をかけて振り返り、目を細めて式波の胸を見る。
「あんたのおっぱいが私のよりおっきくなったらだけどね」
「なっ…なんですってぇ!?」反射的に、さっと式波は胸を隠す。
「もうシャワーだけで十分。それじゃお先に」
くすくす笑いながら惣流は出て行った。
恥ずかしさを持て余してバスタブの向こうを蹴り飛ばすと、どーんと鈍い音が響く。
「何よ、自分だって寄せて上げてるくせにぃ! ほんと、気まぐれなんだから!」
同じ外国育ちで勝気な性格にも関わらず、惣流は性をネタにした品のないジョークをものす一方で
式波は妙に大和撫子めいた気質があったのだった。
「家族、か。いいなあ、キョウダイがいるって」
シンジは食器をあらいながら、あきらめと羨望の入り混じった複雑な感情を抱いた。
洗面所からはドライヤーの音がずっと響いている。
一緒に風呂に入れる家族がいるって、うらやましいな。
うらやましさと同時に、仲の良い姉妹に男兄弟が入っていけない時の疎外感、それに似た気持ちをシンジは味わった。
二倍に増えた洗い物を片付けていると、太腿も露なホットパンツとタンクトップに着替えた式波が、
むすっとした表情でリビングに戻ってきた。まだ髪が濡れているところを見ると、
ブレーカーが落ちないようにドライヤーは順番に使うらしい。
――本当の家族って、どんな感じなんだろうな。
肉体的にも精神的にも成長しているとはいえ、一旦何かに執着し始めると
徹底的に気になるシンジの性格はそのままだった。惣流と式波とともに同居すれば
否が応でも家族のつながりというものに考えを巡らさずにはいられない。
作業しながら、ちらりと式波の方を見る。
と、そこには髪を乾かし終わった惣流がいた。
シンジの耳をぐいっと引っ張ると、息がかかるほど近くで男に囁く。
その言葉は明らかな思い違いであると同時に、幾ばくかの嫉妬も含んでいた。
「何見てんのよ、スケベシンジ」
「え!? いや別に、何も…」
ふんと鼻を鳴らすと乱暴に耳を離して行ってしまう。
「空いたわよ、式波!」
やはり、いまだ惣流は彼にとっては不可解な存在だった。
※ ※ ※ ※ ※ ※
ドライヤーを使いながら式波は考える。
どうして惣流はお風呂なんかに私を誘ったんだろう。楽しかったけど。
…そうだ、惣流と一緒にいると楽しい。今まで生きてきて、そんな風に思ったことってなかったな。
なんで誘ってきたのかしら。もしかして、惣流も私と同じで、さびしかったのかな。
惣流と式波の二人のアスカは、環境の違いによって、一見したところまるで別の人格に成長した。
――ならば、二人のアスカが共にいる世界では、そのアスカは惣流とも式波とも微妙に違いが生まれるはずである。
6月6日の朝。休日返上のミサトは当日のお祝いに参加できないのを残念がっていた。
去年の段階でお返しをすると宣言した以上、サプライズにはならないので、今日は公然と葛城家の家事の一切を
式波が取り持つこととなる。
早起きした式波が朝食の用意をしていると、惣流が起き出してきた。
「あ、おはよ、惣流」
「……」
「何よ、おはようって言ってんのよ、どうしたのよ」
「うるっさいわね。声張り上げなくったって聞こえてるわよ」
「えっ?」
あたし、そんなに大きな声で言ったかしら。面食らっていると惣流はトイレに行ってしまった。
お互い朝に強いわけではないし、今日はやるべきことが山ほどあるのでそちらに取り掛からなければならない。
シンジもいつもよりずっと遅く、伸びをしながら起きてきた。
「おはよー。あんたは今日一日くらいごろごろしてなさい。一切あんたは手を出すんじゃないわよ、全部この私がやるから」
「おはよう。いいの? じゃあご飯食べたらそうしようかな。宿題もまだ残ってるし……」
「おさんどんの次はお勉強ってわけね、オリコーさんなんだから。その勤勉さのおかげで、
あたしの弁当は時々間に合わなくなるのよねぇ」
忙しく台所を動きながら不満げにごちるも、式波の表情はまんざらでもなさそうである。
※ ※ ※ ※ ※ ※
時刻は進んで午後。
今日のランチは合成チダイの大根おろしホイル蒸し、キャベツと人造バラ肉の蒸し煮、ふろふき大根と味噌汁だった。
日ごろシンジが担当している家事炊事の大変さをかみ締めつつも、さらに手作りケーキを用意しなければならない。
惣流が手伝うのはお菓子作りから、という約束になっていた。あの後、ちゃんと手伝うと承諾してくれたのだった。
「いたっ…」盛り付けのフルーツを切っていると、惣流はナイフで指を切ってしまった。傷口からじわりと血がにじむ。
台所にまるで立たない惣流の腕前はお粗末なものだった。対して、ひそかに料理の練習を重ねた式波は、
包丁さばきもかなり達者になっていた。
「やっぱりあんた結構ぶきっちょよね。才能より慣れよ、こういうのに関しては。大丈夫?」
「……全然OK! さっさと指示しなさいよ」
「何よ、その言い方。ほんとに大丈夫なの? お昼だって折角の私の料理を残しちゃって…」
バンッ、とまな板をたたくと惣流は式波をにらみつけた。
「うるさいわね、ホームコメディやりたきゃあ一人でやんなさいよ。大体式波も式波よ、バカシンジの読んでる
『天文ガイド』なんてこっそり買ってきちゃってさ、男の顔色ちらちらうかがってんじゃないわよ、バァカ!」
口論に何事かとシンジも自室から飛び出してきたが、キッチンから逃げ出した惣流とぶつかりそうになる。
「どきなさいよ」と言うと、惣流はシンジを突き飛ばして元はシンジのものだった部屋――今は惣流と式波の部屋のふすまを
たたきつけるように閉めた。
だが、口調の激しさと閉め方の乱暴さとは裏腹に、突き飛ばし方はまるで力が入っておらず、弱々しい。
よろよろとお腹を押さえているのを見て、式波はようやく惣流が不安定になっている理由が分かった。
「あ……。今日、惣流あの日だったんだ…」
「なんだよ、あれ……!せっかく気持ちよくお祝いしてもらえると思ったのに」
流石に憮然とするシンジを前にして、式波は歯噛みした。
好きな人に喜んでもらうことばかり考えていて、大切な惣流のことを忘れてしまっていた。私としたことが、なんて馬鹿なんだろう。
誰よりも惣流の近くにいた私が、一番惣流のことがわかっていなかった。自分は30日周期なんだし、2、3日前惣流は食が進んで
甘いものをたくさん食べたがっていた。全部、今思えば見当がつくべきだった。よりにもよって、体のつくりが同じ自分が何もわかっていなかったなんて。
「なんでわかってやんなかったのかしら、私!」そうつぶやきながら、
まったく状況が理解できないシンジを見て、式波は理不尽な怒りを覚えた。
こいつ、全然分かってない!もし今日女の子の日が来たのがエコヒイキだったなら、こいつはもっと優しくしてやるくせに。
――あんた、なんで分かってやんないのよ! 惣流だってあんたのことを考えてるのに! あいつは今、生理なのよ! だから今苦しんでるの!
少し前なら、そう怒鳴っていたかもしれない。だがここでは、今日という日を考え、怒りをぶちまける代わりにより大人びた態度に式波は出た。
「あいつはぜっっったいにあやまんないでしょうから、私が代わりに謝るわ。折角のお誕生日なのに悪かったわね、シンジ」
※ ※ ※ ※ ※ ※
「う〜。うぅ〜」
惣流は布団の中で輾転反側していた。おなかが、痛い。
ズンズンという鈍い、おなかに石が入っているような痛みがする。肩や背中が痛い。だるい。重い。
来たらイヤだな、と思っていたら、案の定大切な日に来てしまった。
周期にも普通数日の誤差はある。でもきっと、一ヶ月後の7月6日にもこんな思いをする。8月6日にも、この不愉快な苦痛を味わう。
次の月も、次の月も、次の月もだ。
そして間違いなく、この苦しみは3年後も5年後も10年後も生きている限りずっと続く。
――嫌!絶対にイヤ!耐えられない。どうして!?なんでこの私が、
女だからってこんな目に会わなければならないのよ!?
体が傷つけば心も傷つく。式波やシンジにつらく当たれば、自分に非がある分余計に気が落ち込んで
なおさら心がささくれ立つ。それは不満と苛立ちの悪循環だった。
碇シンジがこの世に生を受け、両親から祝福された6月6日に、惣流は自分が女であることを呪った。
式波はコップの水とバファリンを持ってきて、惣流の枕元に置く。
「始まっちゃったんでしょ。ほら薬。ほんとは何か食べてた方が胃にいいけど…」
つらいのはどうしようもない。目を会わせないまま、黙って飲み下すと
寝返りを打ってそっぽを向いてしまった。
しばらく式波も黙っていたものの、そのまま無言で毛布をはぐり、惣流の隣に滑り込む。
「何よ…!」
「あたしは怒ってないわ。むしろ、なんで気付いてあげられなかったのかって思ってる。ごめんね」
壁を向いたままだが、意外な言葉に惣流は驚いたようだった。
「痛む?」
「…たまんないわ。死ぬほど具合悪い」ふぅーっと大きくため息をつくと、惣流は言う。
「マッサージ、してくれない?」
惣流とは思えないほど弱りきった声だった。ずっと立ちっぱなしで式波の手伝いをしていたのが
よほど体力を消耗させてしまったらしい。何も言わずに式波は手を伸ばす。
血流のめぐりも悪いのか、体温も冷たく感じられる。
吐き気のせいであまり食べていないため、惣流のお腹は背中とくっついてしまいそうなほどぺたんこになっていた。
とてもその奥に、こんな苦痛をもたらす器官が存在しているとは思えないほどに。
寄り添ったまま、そっと式波の指先が惣流の苦しみを慰めてゆく。
「ん…。背中の方もお願い」惣流の声はかすれていたが、自分が台無しにしたお祝いの用意について問うた。
「大丈夫。心配要らないわよ」
背中の強張りをほぐしてゆく。
「なんでこんなことするのよ。私、あんた達にひどいこと言っちゃったのに」
「前に私が生理で貧血になったとき、あんた遅刻してまで面倒みてくれたことがあったわ」
「…! 日本の学校なんて、出ても出なくても同じだからよ」
「大学なら私だって出てるわよ。あんたのつらいのを、私にも背負わせて。私だってすごく重いから、わかるわ…」式波は続ける。
「あんたは優しいのよ。惣流は優しいの。だって、ちゃんと手伝ってくれたんだから。だからあいつにも優しくしてあげて。今日だけは」
「……式波。なんで私たち、女なんかに生まれてきたのかな。男の子に生まれてきたやつは、こんな苦労なんて
背負いこまなくてすむのに」
「女の子だから、あんたはあんたのママから褒めてもらえたんじゃない?」
ハッと惣流は息を呑んだ。
「あたしも女だから、あんたのつらいのがわかるのよ。……ほんと、つらいわよね」
そっと、だが力をこめて式波は惣流の肩を抱いた。
「だけど、あたしは…あたしはあんたの代わりにはなれない。体は代わってあげられない」
大切な人がつらいとき、式波には何も出来なかった。ただ、そばに居てあげることしか。
「わかったわよ。少し、寝るわ。薬が効いてきたみたい」眠りに落ちる前に、惣流は言った。
「あとで、謝る……」
今度は式波が驚く番だった。
「もう少し、あたしはここにいるわ」嬉しそうに言うと、式波は寝返りを打って
見慣れた天井を見た。もともと一人が好きだったのに、今では惣流といるのが当たり前になってる。
こんなに体は近いのに、心は離れ離れになったり、近づいたり。でも今は確かにこいつと心が通じた。
あの惣流がこんなことを約束するなんて…!
しばらく嬉しさをかみ締めていると、惣流の吐息が安らかになってきた。
「もう寝た?」もう一度聞く。「寝たわね?」
さみしいと思った時、式波は迷わなかった。愛しいと思ったときも、式波は迷わない。体を起こすと、
優しく惣流の髪をかき上げ、眉の上に軽く口付けた。
「これは罰よ。あんたの罪への。でも許すの。これで許すわ」
部屋からそっと式波が抜け出した後、惣流はゆっくりとそちらに目を向けた。
「ばか、起きてるわよ」
浅く短い眠りだった分、意識は冴えていた。
式波の「許す」という行為を、惣流は決して忘れないだろう。
部屋から出た式波の顔を、リビングのシンジは心配そうに覗き込んだ。
「待っててくれたの!?」
「うん。様子、どう?」
「だいぶ落ち着いたわ。薬がだいぶ効いたみたい。まったく、惣流はガキだから世話が焼けるわね」
惣流のプライドを考えて、体調不良で気が立ってしまったというだけに説明は留めていた。
自分には立ち入れない、女同士の世界から出てきた式波を見て、すこしシンジは寂しそうな顔をした。
「うらやましいな・・・。式波には、普通に家族がいて」
「ちっとも普通の家族じゃないわよ」式波は普段の威圧的で態度に戻ると、シンジの顔を真っ向から指差す。
「あんたもよ? で、ランチの感想はどう?」
「あ、おいしかったよ、すごく」
「ふ〜ん、凡庸な返答。まあ見てなさい。細工は流々ってやつよ」
式波の言葉にきょとんとしたシンジを残したまま、式波は颯爽と料理の仕上げに取り掛かる。
おいしかったよ、すごく、か! この分なら、あんたのよりおいしい料理を作るって去年の約束、どうやら果たせそうね。
※ ※ ※ ※ ※ ※
「あっ、惣流……」
料理が完成した頃、惣流も仮眠から目覚めてダイニングキッチンに来た。
薬と睡眠のおかげか、顔色も先ほどよりずっといい。だがまだプライドが邪魔するのか、
シンジの前では表情が硬いままだ。
式波はワンダースワンで暇を潰すふりをしていた。
目を上げてゲーム機越しに視線を送る。
ほら惣流、もう一言。あんたからよ。
「…さっきは悪かったわね。…私が悪かったわ。……ごめんなさい、シンジ」
「別に、僕は気にしてないよ。それより皆で一緒に食べよう。式波の料理をずっと手伝ってくれたんでしょ?」
シンジは惣流に微笑みかけた。「うれしいよ、ありがとう」
それは、惣流だけに送られた笑顔だった。
式波はゲームの電源を切る。
「これでよし、と。なんだか馬鹿みたい。ま、でも、」
「結構気持ちいい馬鹿かもしれない」
なんでわたし、気分がいいんだろ? こんな空回りして、苦労ばっかりしたのに、
気分がすっきりしている。みんなで食事なんてもともとは苦手だったのに。
・・・あ、そっか。こいつらがいるから、わたしって笑えるようになったんだ。こんなことも、
私ってできるようになったんだ。
そこのところは感謝してやるわ。
お誕生日おめでとう、バカシンジ
<おしまい>