年下の彼-9 投稿者:S 投稿日:2019/12/08 13:25
後ろでそんな事言ったっけ?とか惚けている人は放置して続けます。
ベッド一つしか残ってない筈の僕の部屋は、いつの間にかMさんの私物で溢れかえってました。
いつも読んでいた車とファッションの雑誌、本来のMさんの部屋とは比べ物にならないくらいの服と下着…というか洗濯物、
食べたっきり放って置きっぱなしのポテチの袋と、飲んでは潰したんだろう、無数のビール缶。見慣れない難しそうな文庫本もありました。
そんなのが散らかったドーナツの真ん中で、Mさんはいつものタンクトップ姿で、だらしなくベッドに寄り掛かって煙を吐き出してました。
「良かった…無事だったんですね」
「笑いに来たんでしょ?私を」
「…Mさん?」
「偉そうな事言っていた私がダメになったのを、笑いに来たんでしょ?」
様子が変になっているのは覚悟していましたけど、こういう方向は予想外でした。
やつれていたり衰弱してはいません。風呂に入ってなくて少し匂う以外、外見は問題なさそうでした。
なのに、まるで抜け殻みたいに生気がなくて、ぞっとする程の無表情でひたすら宙を見つめているんです。
それに、煙草をくゆらせている右手の指に、僕の指輪がありませんでした。
「アンタは良いわよね、これから色んな女の子のを選り取り見取り。高校からが本当の楽園の始まり。私は良く知らないけどさぁ」
「何…言っているんですか」
「私なんか、後はもう朽ち果てるだけだもんね。一人寂しく、狭い部屋の中で…」
「酔っているんですか?」
「そーよーもうね、ずーと酔っぱらいっぱなしーいいでしょーお気楽なもんよぉあははは」
乾いた笑いが、僕には悲鳴に聞こえました。でも、どうして。何故。
「だからさぁ、アンタはもういらないの。アンタもわたしも、自分の幸せさえ追っかけてさえいれば良いの。分かった?」
「分かりましたから、とにかく、もうお酒は止めて下さい。今何か作りますから」
「…うっさいのよ」
「…Mさん?」
「一々うっさいのよ、アンタは!気安く呼んでんじゃないわよガキのくせに!」
怒鳴って僕に掴みかかろうと立ち上がり、そのままバランスを崩して転倒してしまいました。
見た目より遙かに酷く衰弱しているらしく、倒れたまま起きあがろうとしません。倒れ方も自分を守ろうとしない危険なものでした。
骨折でもしているんじゃないかと思って近づこうとすると、突然、周囲の小物をこっちに投げつけてきました。
「私みたいなオバサン放っておいてどっか行きなさいよ…どうして今更来るのよ…」
正直、この時点で凄く逃げたかったです。
実際、この街に来てMさんや皆に会う前の僕なら、迷わず逃げて他の人に頼っていたと思います。
自分の力では、どうしようもない。誰か他の「大人」の助けを呼ぼう、そう考える筈です。
でも、この頃の僕はもっと図々しくなっていました。
こんな有様のMさんを見た人なんて、恐らく僕以外誰もいない。
本当にこの人を、僕だけの物にしたいなら、ここから逃げちゃいけない。むしろ踏み込んで捕まえなきゃいけない。そう思いました。
「だって、Mさん、もう会わない方が良いって」
「そんな事言ってないじゃない!」
「確かに言ってはないけど…でも最後だからって」
「言い訳なんかどうでも良いのよっ!」
ベッドの上の枕が飛んできました。
「みんな…みんな私を置いてどっか行っちゃうんだから…だったら、もう誰だって良いのよ。アンタじゃなくても」
首の後ろが、総毛立つ感じがしました。
「どういう、意味ですか、それ」
Mさんは、さっきまでの衰弱が嘘のような速さで立ち上がると、嬉しそうに笑いながら怒鳴りました。
「決まってんじゃない、職場の男みーんな喰ってやったわ。メール出したらホイホイ来てんだから、超楽勝だったわよ?」
一瞬、胸の奥で凄まじい「何か」が鎌首をもたげましたが、すぐにMさんの話が嘘だと分かりました。
R子さんは、どんな絶望的な状況でも気休めを言わない分、発言内容には絶対の信頼性があるのです。今の状況でMさんとR子さんなら、断然R子さんの話を信じます。
しかし、だったら、何故、僕が傷つくように嘘まで加えて話すんだろう?
「どうして、そんな嘘吐くんですか」
「嘘じゃないわよ。この部屋に三人くらい呼んで…」
「R子さんから聞きました。みんな来なかったんでしょ」
Mさんは死刑宣告を受けたみたいに、一気にヘコんで跪いてしまいました。
「R子の裏切者…」
「裏切りって、僕はあの人に呼ばれたから来たんですよ」
「へーそー。やっぱり自分の意志でこんなオバサンの所に来る気は…」
「あったに決まってるじゃないですか!」
僕は、Mさんの肩を揺さぶって、正気に戻そうと必死に話しかけました。
「僕だって、僕だって辛かったんだ!会いたくて、でも会ったら怒られそうで、ずっと、Mさんの事ばかり考えて、夜寝ていると勝手に涙が出てくるんだ!
全然違う女の人と話しているだけでも、Mさんの事ばかり思い出して凄く苦しかったんだ!何を食べても味がしないんだ!何をしてもつまらないんだ!」
溢れてくる涙が止まりません。今まで誰にも言えなかった想いを、その張本人にぶつけているのに、悔しくて悲しくて仕方ありませんでした。
「ずっと、ずっと会いたかったのに…」
「じゃあ、どうして来てくれなかったの」
「会ったら…もう二度と、会えなくなるって、思ったから…彼女できたら連れて行くって約束したから…」
「バカよ。あなたは。私もあなたも、大バカよ。本当に」
この人が一体何に絶望しているのか、僕には分かりませんでした。だって、自分の口であの時が最後だと言ったのに、それで会いに来なかったからと言って、
どうしてここまで荒れなきゃいけないのか。
「じゃあ僕は…どうしたら良かったんですか」
「…私なんか放っておけば良かったんじゃない」
「そんな事言うの止めてよ!」
「でももう、疲れたのよ!」
Mさんは、いつまで経っても僕と目を合わせようとしませんでした。
「どうして…そんなに会いたかったらどうして会いに来なかったのよ」
「そんな、だって、Mさんが自分で来て欲しく無いなら僕は…」
ここまで来て、僕はやっと自分が大きな間違いをしている事に気が付きました。
Mさんが、本当はずっと我慢していたとしたら。
ずっと、僕と同じように耐えていたんだとしたら。
「S君は、私が言えば、何でも言うとおりにするんだ?」
「…それは、何でもって訳じゃないですけど、でも」
「じゃあ、私を殺しなさい」
何を言っているのか理解できませんでした。
「冗談、ですよね。こんな時にやめて下さいよ」
マジだと思った?なんて言葉も無く、Mさんはよじ登るようにベッドの上に上がりました。
「だってさ、私なんてもう生きていてもしょうがないじゃない?」
そんな台詞を明るく言い放ちました。
「…Mさん、ごめんなさい」
ベッドの上で体育座りしたまま、Mさんは何も言いません。
「ごめんなさい。僕が、無理にでも、ここに来なきゃいけなかったんですね」
「何言っているの。出来る訳無いでしょ、そんなの。私だって追い払ったわよ」
「それじゃ、どうすれば良かったんですか!僕の何がいけなかったんですか!」
僕もベッドに上がって、Mさんに縋り付きました。
「ううん、全部、私が悪いの。S君は、何も間違ってないの。悪いのは、私だから」
「Mさん、話を聞いてよ!」
「…私、ずっと頑張って生きてたんだ」
「Mさん!」
「頑張って勉強すれば、頑張ってモテれば、頑張って仕事すれば、頑張って戦えば、いつか自分の人生が自分の物になるって、そう思ってたんだ」
「…」
「でもさ、その最後にさ、」
Mさんの顔は、笑ってました。
「本気で好きになったのが、アンタみたいなガキだなんて、もうどうしようもないじゃない」
「そんな…Mさん…僕のせいで…」
「ううん、私が、子供だから。アンタを好きになったのは、私の勝手だから」
そうして、Mさんはベッドの上に大の字になりました。
「私、結局大人になれなかったな…こんなに、頑張ったのに、いつでも誰かに、頼って、縋ってばっかり」
「Mさん」
「好きになる相手は、みんなそんな相手ばっか。アンタが好きになったのも、それだけだもん」
「そんな」
「だからさ、良いのよ、もう。結局今まで頑張った末に、アンタみたいな良い子に寄り掛かって、人生を台無しにする所だったもん」
「僕は、そんな事思ってませんよ!」
「それに気付いてから、大人になるのよ、ね。S君」
「知らないよそんなの…」
「さ、ほら早く。こっち来て」
初めて抱かれた時みたいに、優しい声で僕を導きます。彼女が下で、僕が上で。
「ここ、ほら、喉仏の裏側を締める感じでね。弱い力でもできるから」
挿入する手筈を教えるのと同じ声で、扼殺の段取りを語ります。
僕は、逆らう事もできず、言う通りに彼女の首に両手をかけます。
勿論、殺したくなんてありません。でも、あの時は本当に彼女が望んでいるなら、そうするしかないと思ってました。
ずっと、涙が止まりませんでした。
「ごめんね、S君」
Mさんは、今から自身を殺そうとしている僕の頬に、片手を添えました。
それを合図に、言われた通りに、ゆっくりと、指に力を加えていきます。
彼女の息が止まり、声が出なくなり、震える唇が、動きだけで最後の言葉を紡ぎました。
「ありがと だいすき」
僕は、両手を解き放って、Mさんにキスしました。
お酒と、煙草と、吐瀉物の臭いがして、まるで酔っぱらった男とキスしているみたいでした。
窒息寸前のままでキスなんかしたので、唇が離れた直後にMさんは物凄い勢いで咳き込み、息を吸いました。
さっきまで死ぬ気だった人とは思えませんでした。
咳が落ち着いてからは、もう物騒な事は言わずに、ただ僕と目を合わせるたけでした。
「僕は、そんなのイヤです。Mさんが好きだから。そんなのが大人なら、もう一生、子供で良いじゃないですか」