−−−あなたの隣で眠る明日へ−−−
1
空港の雑多なざわめきの中綾波レイは一人、手元の本に目を落とし人を待っていた。
「ただいま」
音を変えても聞きなれた響きを持つ男の声にレイは俯いていた顔を上げた。
ゲートをくぐった彼に手を伸ばされて、向かう足が思わず駆け足になる。
そうして駆け寄れば、慣れた仕草で引き寄せられる。
抱き込まれると腕の中にすっかり納まる体を預けて、レイは力を抜いた。
頬に触れる衣服の感触と馴染んだ香。
胸深く吸い込めば、変わらない安心と切なさがレイを満たしていく。
頬に寄せられた唇に軽く違和感を感じて視線をあげれば、男が唇の端で笑っていた。
「…髭」
「ごめん。忙しかったから」
見慣れぬそれに首を傾げてレイが尋ねれば、「痛い?」と彼は静かに笑みを重ねる。
「綾波に会うことばかりを考えてた」
早く逢いたくて…と続けながらも、彼の腕の中は凪ぎのように穏やかだった。
彼の胸に頬を当て、やさしく響く彼の声と心音を聞く。
静かに緩やかに弛まなくつむがれる旋律。
抱き合うだけでこの鼓動が早鐘を打った日々は遠い。
それでも。
このまなざしに滲む愛情が消えない限り、この場所は代わらずレイに許される。
2
疲れを滲ませる彼の目元に口付けるため、レイは少し踵を浮かせた。
爪先立てて触れるだけのキスを彼に送る。
うっすらと青く影の浮いた瞼に。
心なしかそげた頬に。
そして、微かに弧を描く唇に。
人ごみの中。
空港のロビーで。
一人の男に抱きこまれた少女の影は、他者の目にはどのように映るだろうか。
恋人同士というには歳の離れた、親子と言うにもあまりにも似つかわしくない二人。
離れがたく指をからめれば、しっかりと握り返されるそれに安堵する。
「帰ろう」と促されて、レイは男に寄り添った。
歩き出す彼の歩幅はレイに合わせて緩やかに甘い。
記憶の中の少年の、今は高い肩に少しだけ頭を凭れてレイは目を細める。
斜めに見上げる彼の面差しの中には確かに過去がある。
彼は変わらない。
どんなに形が変わってしまったとしても、これだけは変わらない。
彼は、碇シンジ。
綾波レイにとって、唯一人のヒト。
3
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ネルフが解体された日。
碇シンジは静かにその通告を聞いた。
人類補完計画の失敗と、その概要。
父の役割。
自分に課せられたかもしれない罪と、許されるはずもなかった願い。
説明を聞く少年の口からは嘆きも恨みも出なかった。
俯き、歯をくいしばって、ごっそりと抉られるような喪失感を彼は黙って耐えていた。
彼の心情を知るものは、彼の傍らに立ち痛むほどに手を握り締められながら、
それでもその手を放すことのなかった少女だけだった。
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ルームランプのオレンジがぼんやりとした灯りを生む。
ベットサイドに座ったシンジの傍にレイは寝返りを打って身を寄せ、頭を上げた。
シンジから石鹸と水の香りがする。
冷たいシーツに伸ばした足先で布をかいて漣をつくりながら、
半身を起こしたレイは、シンジの頬に手のひらを滑らせた。
4
「髭、剃ったの?」
「嫌だって言わなかった?」
「………いいえ」
その手を取られ、唇を寄せられて、レイはされるがままに穏やかな愛撫を受け入れる。
シンジを受け入れて満たされた体は、容易く火がつくが今はそれを求めない。
レイは視線を逸らさずに、彼の唇に触れた指先を揺らした。
「思い出したんじゃない?」
「誰を」
「…僕に言わせる?」
「いいえ、…そうね。少しだけ」
「違うって、言わないんだ?」
「あなたに嘘は吐かないわ。
吐く必要がないもの。
これまでも、これからも」
「うん」
シンジに引き寄せられてレイは素直に抱きしめられる。
彼の胸に額を寄せて、髪を梳いてくれる指の心地良さに静かに目を伏せた。
「碇君の中に、碇司令がいる」
「…そうだね」
「受け継がれていくものがあるの」
「…ああ」
「それが絆だから」
「………」
5
「それでも。
私が好きになったのは、あなただけ。
碇司令じゃない。
受け入れるのも、求めるのも。
碇君。
あなたが、わたしの、最初で、最後」
「知ってる」
レイの背中を囲むシンジの腕が、痛いほどに強く彼女を抱きしめる。
穏やかに返される肯定とは裏腹の、けれどもそれが、
ここまでに続く二人の想いの軌跡だった。
…二人寄り添い、支えあうようにして過ごした年月。
しかし彼らの間に流れた時間、その積み跡を体に残すのは碇シンジだけだった。
幾人かの命運と共に闇に葬られた、綾波レイの過去。
命を弄ぶに等しい行為。
その不条理な発生は、時の中で残酷な現実を彼らに突きつけた。
成長と共に、崩壊する細胞。
彼女の体はエヴァと最も親和性の高い14歳と言う年齢を境に、崩壊に向かった。
―――必要な器官外の消滅。
エヴァという悪夢が彼女を放さない。
それはまるで彼女を絡めとる運命の鎖だった。
6
だが、誰がそれを座視して受け入れられるだろう?
彼女はエヴァの部品ではなく、心あり容(かたち)持つ一人の人間だ。
シンジとの交流が、彼への想いが、彼女を変えた。
そして、シンジもまた…。
否応なく奪われ膝を付き屈しても、譲れないものがあることを彼は知った。
自分一人だけのことではないからこそ、諦めずにいられた。
その強い願いが、関わりのあった人々を突き動かす。
これ以上喪わせてくれるなと訴えられて、その声に耳を塞げるほど彼らは非情ではなかった。
そして行なわれたいくつかの取引。
自らの未来をも質に入れることすら厭わなかった少年によって、定めは歪む。
綾波レイを繋ぎとめる。
それが、それだけがシンジの願い。
その結果、『時を止めて』彼女は今もここにいる。
失われず、永久に、14歳の少女のままで。
7
シンジの腕の中で、レイはまどろみながら回想を抱く。
………周囲の全てが、彼女を置いて時を重ねていく。
一人とて例外なく命の行く末を目指す。
この先も、経て来た歳月の分だけ少年は大人になり、二人の間は離れていくだろう。
彼が幼さに、自らの力のなさに歯噛みしたあの日々は遠い。
失われたものの大きさを埋めるように、ただがむしゃらに、後も見ず、
大人への階段を駆け上がるしかなかった時代。
何も見せてくれなかった、隠し事ばかりだった大人たちの背中を、その過ちを、
睨みつけるよう強い眼差しで見据えながら、彼は少年であった自身と決別した。
そんなシンジの手をレイは必死に握り続けることしかできなかった。
それでもお互いの存在だけが、
敵ばかりに見えたあの世界の中で安心できる唯一の場所だった。
けれど。
どうしていつまでもこの身を厭わずにいられる?
シンジの痛みを知り、その傍で支え、時に彼の涙をこの胸で拭って来た年月。
いつかこの華奢な体ではシンジの全てを包むことはできなくなり、
己の小さな手では疲れた彼の重みさえ支えきれなくなった時、レイは確かに絶望した。
自分の辿らない未来を、時間を、シンジだけが受け入れ変わってゆく。
変わらない心、変われない身体の自分。
レイの何もかもを置いて、いつかシンジはいってしまう。
―――最後においていかれるということは、捨てられるのと同じ。
8
自己の考えに沈んでいたレイは、
シンジが起きてじっと彼女を見つめていることに気付かなかった。
思いつめたレイの硬く強張る頬を宥めるようにシンジの指がなぞる。
硬い指の平と広い掌の厚みは大人の男のもの。
昔の少年の頃の手とは違ってもそのぬくもりは変わらない。
目を閉じてその感触に甘やかされることを享受して、
レイは少し解けた心でわだかまる想いを口にした。
「碇君、………まだ。
まだ、こんな私を相手にするの?」
「こんな、って?」
「あなたは、大人になったわ。
外の世界にでて、ここでだけじゃない、
…もっと違う場所でも、
誰かを…、あなたにふさわしい人を、選べるのに」
「ふさわしい?」
「あなたは大人だわ。
…………私は、変われないもの」
「僕は変わった?」
「…わからない」
9
大人になったことを変わったというなら、確かに変わってしまったと思う。
けれども、どこかは…変わらないようにも思う。
シンジがレイを受け入れる時、レイはシンジの腕の中こそが自分の居場所だと感じる。
しかし同時に腕の中で、自分だけが彼を独占することへの罪の意識がある。
今は傍にはいない、あの赤い少女もまた彼を思っていたことを、レイは知っていた。
けれどあの運命の日にシンジはレイを選び、レイもシンジを選んだ。
そのただ一度の選択を信じて、それだけに溺れていられたらどんなにいいだろう。
しかし年月を重ねてもレイのシンジへの思いの本質は変わらない。
「彼を守りたい」それだけがずっと、レイの愛情の芯となって彼女を支えている。
大人になったシンジの腕が、レイを容易く包むようになっても。
だからこそよけいに、隣に立つ自分の幼い姿が、歪んだ形が厭わしい。
シンジが慈しんで触れてくれるから、こんな自分ですら捨てられず、
彼の愛情に縋りついて、彼の未来を狭めている。
「守りたい」のに、今のレイにはその自信がない。
誰か別の人なら、彼が選ばなかったもう一人の相手なら、
もっと彼にふさわしく、彼の隣に立てるのではないだろうか?
この地に囚われ、飛び立てるはずの彼の足枷となるだけの自分。
今回の出張が初めてではない。
自分さえいなければ、あるいは隠すことなく彼の隣で歩ける者だったら…。
そうしたら、彼はもっと自由に思うままに生きる道を選べたのではないだろうか?
シンジが大切だからこそ手放すべきだと告げる理性と、
けれど自分からはその手を離すこともできない情の狭間で、レイは揺れていた。
10
「綾波。
ねぇ。
もしかして、…拗ねてるの?」
「………」
「かわいい」
「………。
…………どうして、そんなこというの?」
真摯に彼を想い、躊躇いながらも口にした言葉を茶化されたようで、
レイはシンジの胸元に額を擦り付けるようにしてくぐもった声で訴える。
「逢えなかったから。
久しぶりに出張で、しばらく逢えなかったから。
だから…、不安になったんじゃない?」
「………ちがう、わ」
「そう?」
「…前から、思ってたことだもの」
「………。
どうしたの?駄々こねてるみたい。
子供みたいだよ」
「子供じゃないわ」
「…そうだね」
11
レイの背中を包むシンジの手が、鎮めるように優しく上下する。
宥められて悲しくなるのは何故だろう。
「子供じゃない」と自分で口に出しながら、
彼の肯定を探るように待ってしまう自分がレイは嫌だった。
けれど、シンジは言う。
「子供とか大人とか、そんなの関係ないんだよ。
綾波は、綾波だ。
僕が、僕であるように。
変わっても、変わらないものがあるんだ。
僕は自分の選んだことを後悔してない。
後悔はね、あの日、擦り切れるほどして、
それから、もうやめたんだ。
誰かに人生を委ねて、後で泣いたって誰も、何もしてくれない。
そう、わかったから。
だから、僕は僕が選んだ道を歩いて、
綾波は綾波が選んだ道を歩いてる。
僕は綾波が選ぶことの邪魔はしない。
でもね、僕が綾波の傍にいるってことだけは、決めてるから」
だから離さない、とレイの髪に小さくキスを落としてシンジは笑った。
何を責めることも、些細な言い訳すら、捨ててしまったその手で、
シンジが唯一掴んでいるのがレイの手だと潔く告げる声。
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―――もっと我儘でいてくれてもかまわないのに。
レイの運命を握って、その命を買い取ったのだから、
一つ残らず全てを奪ってくれてもかまわなかったのに。
レイがレイの意思で生きることを許し、そしてその傍を離れないと誓ってくれる。
疑い、不安を抱くことさえも、レイの心を縛らないと。
それが一人の人間としてレイを認めようとする彼の配慮なのだとしたら、
レイはその自由な心でシンジを想う以外何ができるだろう。
レイだとてシンジから拒絶されない限り、
彼の傍にあり続けると、ずっと前に決めてしまっている。
生きることも滅びることも、何もかも、
彼の心一つにゆだねてしまってかまわないとさえ思っている。
シンジに手放された未来に、自分が一人いても何にもならない。
怖いのは失われること。
おいていかれること。
シンジの居ない明日。
ほんとうに…、子供のように駄々をこねていただけだった。
こんなにも深く思う相手を失えるはずがないとレイは思い知る。
それに伸ばしたては片側からだけではない。
お互いにお互いを選んだ結果がここにある。
潔くレイの心の揺れを許しながらも、
離れる気はないと言い切る男の眼の中にある狂気がそれを語る。
13
レイは細い腕を相手の首に絡めて、縋りつくように力を込めた。
立てたひざを彼の腰に引き寄せて挟み込む。
これ以上語るべき言葉を持たないから、彼に触れ、触れられて、
貫かれ溶け合うことで、…伝えたかった。
…自分の気持ちも何もかも、もうすでにすべてがシンジのものなのだと。
口付けと指先が降る度に、肌の温度が上がっていく。
しっとりと白い陶器が熱を湛え、内側からばら色に染まる。
彼に触れられる悦びに堪らず吐息は零れ、
シーツを剥がれ遮るもののない心もとなさにレイは震える。
その震えさえシンジに晒して、レイはいたたまれなさに顔を覆った。
「見ないで」
隠そうとするレイの手をとって、シンジは彼女をひらく。
「隠さないで、全部見せて。」
「だめ…。
……見ないで……、…だめ」
「どうして?
こんなに綺麗なのに」
踵を捉えたシンジの手が脹脛をなぞり膝裏へと滑る。
彼とつながることよりも、見つめられることのほうが恥ずかしい。
稚ないままの体、未成熟なそれを見つめられることのほうが。
14
「卑下しないで。
誰よりも好きだよ。
綾波が、綾波だけが…、好きだ。
他の誰のことも信じなくていいから、
僕がそう思っていることだけ疑わないで。
綾波。
いつか、
僕が死ぬ時が来たら、その時は、
綾波も連れて行くよ。
一緒に、連れて行く、必ず。
だからそれまでは一緒にいよう。
一緒に、いたいんだ…」
執着を示すように、赤く印がつけられていく。
囁かれる言葉の一つ一つに、
電流に似た痺れとじりじりとした焦燥が湧き上がり肌を焼く。
呼吸がやけに響き、細い腕の繋がれた肩が震えて、淡い胸が揺れる。
シンジの体に沿う自分の凹凸も、迎え入れるために潤む場所も、
全てが彼のためにあるのだとレイは感じた。
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「連れて、いって…。
いっ、しょ、に。
いきたい。
やくそく…、碇、君」
「約束する。
最後まで、ずっとそばに」
ふかい、ふかいところで、彼を受け止める。
解け合って一つになりたいのは、ただ一人だけだとレイは知っている。
補完されることを許しあえるのは、想う心があるからなのだと。
「碇君、………碇君」
呼ぶ名前の掠れた甘さ。
響く音が何よりも大切だと涙をたたえ瞳で訴える。
絡む腕が汗ですべり、挟みこんだ足が微かに戦慄く。
「そばにいて」
拙い願いはそれがすべてだからだ。
それ以上も以下もなく、純粋に限りある命の全てを掛けてこの思いに殉じていく。
そんな自分の姿が可笑しくて愛しくて、そしてたまらなく誇らしい。
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何のために生まれてきたのか。
造られた時から、戻れない道を歩いているようだった。
誰かの望みのために使い捨てられる定めだった。
けれどそれを覆し、自らが選んだ相手と共に歩ける悦びを知り、
そしていつか、彼が眠るその時は共に逝くことを約された。
その瞬間を思いレイは微笑む。
きっと、誰よりも幸せに私は眠れる。
彼と共に追った幾つもの傷も痛みも、この悦びも皆等しく大切に抱いて逝ける。
何のために生まれてきたのか。
このひとのため。
かれただひとりのため。
彼の辿る道の隣を、レイは選んで歩いてけるようにと祈る。
これまでもこれからも。
どれだけ世界が揺らいでも。
何が喪われても。
生まれてくる新しい日が あなたと私のためになくても。 fin