マトリエルより強い使徒はいない。

マトリエル戦後に体験した出来事です。
そのころ、ぼくの職場はトラブル続きで、大変に荒れた雰囲気でした。
普通の組織では考えられない上司の横暴やチルドレンのわがままが相次ぎ、クレーム処理に追われていました。
朝から晩まで、電話に向かって頭を下げ続ける日々です。
当然、ぼくだけでなく、他の同僚のストレスも溜まりまくっていました。

その日も、発令所の鍵を閉めて、廊下に出た時には午前三時をまわっていました。
葛城一尉と赤木博士、二人の同僚とぼくを合わせて五人です。
みな疲労で青ざめた顔をして、黙りこくっていました。
ところが、その日は、さらに気を滅入らせるような出来事が待っていました。
廊下のエレベーターのボタンをいくら押しても、エレベーターが上がってこないのです。
なんでも、戦自のカスどもの小賢しい破壊工作のためにエレベーターが止められたらしく、総務課の手違いで、その通知がうちの発令所にだけ来ていなかったのでした。
これには、ぼくも含めて、全員が切れました。
ドアを叩く、蹴る、怒鳴り声をあげる。
まったく大人らしからぬ狼藉のあとで、みんなさらに疲弊してしまい、同僚のシゲルなど、床に座りこむ始末でした。
「しょうがない、非常階段から下りましょう」
葛城一尉が、やがて意を決したように口を開きました。
うちのビルは、基本的にエレベーター以外の移動手段がありません。
防災の目的でつくられた外付けの非常階段があるにはあるのですが、スパイが侵入するのを防ぐため、内部から厳重に鍵がかけられ、滅多なことでは開けられることはありません。
ぼくもそのとき、はじめて階段につづく扉を開けることになったのです。

廊下のつきあたり、蛍光灯の明かりも届かない、薄暗さの極まったあたりに、その扉はありました。
非常口を表す緑の明かりが、ぼうっと輝いています。
ジオフロントで働いたことのある方ならおわかりだと思いますが、どんなにビルが密集して立っているような場所でも、表路地からは見えない「死角」のような空間があるものです。
ビルの壁と壁に囲まれた谷間のようなその場所は、昼間でも薄暗く、集光ビルの明かりも届かず、鳩と鴉の寝床になっていました。
中央作戦室は、ビルの７Ｆにあります。
気乗りしない気分で、ぼくがまず、扉を開きました。
重い扉が開いた途端、なんともいえない異臭が鼻をつき、ぼくは思わず咳き込みました。
階段の手すりや、スチールの踊り場が、まるで溶けた蝋のようなもので覆われていました。
そしてそこから凄まじくイヤな匂いが立ち上っているのです。
「鳩の糞です、これ･･････」
マヤちょむが泣きそうな声で言いました。
ビルの裏側は、鳩の糞で覆い尽くされていました。
まともに鼻で呼吸をしていると、肺が潰されそうです。
もはや、暗闇への恐怖も後回しで、ぼくたちはスチールの階段を降り始めました。

すぐ数メートル向こうには隣のビルの壁がある、まさに「谷間」のような場所です。
足元が暗いのももちろんですが、手すりが腰のあたりまでの高さしかなく、ものすごく危ない。
足を踏み外したら、落ちるならまだしも、壁に挟まって、宙吊りになるかもしれない･･････。
振り返って同僚たちを見ると、みんな一様に暗い顔をしていました。
こんなについていない時に、微笑んでいられるヤツなんていないでしょう。
自分も同じ顔をしているのかと思うと、悲しくなりました。
　かん、かん、かん･･････。
靴底が金属に当たる、乾いた靴音を響かせながら、ぼくたちは階段を下りていきます。

ぼくが先頭になって階段を下りました。
すぐ後ろにマヤちょむ、シゲル、葛城さん、赤木博士の順番です。
足元にまったく光がないだけに、ゆっくりした足取りになります。
みんな疲れきって言葉もないまま、六階の踊り場を過ぎたあたりでした。
突然、背後からささやき声が聞こえたのです。
唸り声とか、うめき声とか、そんなものではありません。
よく、映画館なんかで隣の席の知り合いに話しかける時のような、押し殺した小声で、ぼそぼそと誰かが喋っている。
その時は、後ろの誰か――葛城さんと赤木博士あたり――が会話しているのかと思いました。
ですが、どうも様子が変なのです。
ささやき声は一方的に続き、止むことがありません。
ところが、その呟きに対して、誰も返事をかえす様子がないのです。
そして･･････その声に耳を傾けているうちに、ぼくはだんだん背筋が寒くなるような感じになりました。
この声をぼくは知っている。
確かに、よく知っている相手のような気がする。
その声の、まるで念仏を唱えているかのような一定のリズム。
ぼそぼそとした陰気な中年男の声。
シゲルの声ではない。
でも、それが誰の声か思い出せないのです。
しかし･･････それは決して、夜の三時に暗い非常階段で会って楽しい人物でないことは確かです。
ぼくの心臓の鼓動はだんだん早くなってきました。
一度だけ、足を止めて、後ろを振り返りました。
すぐ後ろにいるマヤちょむが、きょとんとした顔をしています。
そのすぐ後ろにシゲル。
葛城さんと赤木博士の姿は、暗闇にまぎれて見えません。

再び階段を下りはじめたぼくは、知らないうちに足を速めていました。
何度か、鳩の糞で足を滑らせ、慌てて手すりにしがみつくという危うい場面もありました。
ですが、とてもあの状況でのんびり落ち着いていられるものではありません･･････。
五階を過ぎ、四階を過ぎました。
そのあたりで･･････背後から、信じられない物音が聞こえてきたのです。

笑い声。

さっきの人物の声ではありません。
赤木博士の声なのです。
超常現象とか、そういったものではありません。
なのに、その笑い声を聞いた途端、まるでバケツで水をかぶったように、どっと背中に汗が吹き出るのを感じました。
赤木リツコ博士は、クールビューティーで鳴る人物です。
すごく弁がたつし、美人で万能科学者として知られ、しかも猫好きなのですが、発令所ではいつもぶすっとしていて、笑った顔なんて見たことがありません。
その赤木博士が笑っている。
それも･･････すごくニュアンスが伝えにくいのですが･･････子供が笑っているような無邪気な笑い声なのです。
その合間に、先程の中年男が、ぼそぼそと語りかける声が聞こえました。
中年男の声はほそぼそとして、陰気で、とても楽しいことを喋っている雰囲気ではありません。
なのに、それに答える赤木博士の声は、とても楽しそうなのです。
赤木博士の笑い声と、中年男の囁き声が不意に途切れ、ぼくは思わず足を止めました。
笑いを含んだ赤木博士の声が、暗闇の中で異様なほどはっきり聞こえました。
「ミサト･･････」

「何？･･････さっきから、誰と話してるワケ？」
葛城さんの声が答えます。
その呑気な声に、ぼくは歯噛みしたいほど悔しい思いをしました。
葛城さんは状況をわかっていない。
答えてはいけない。
振り返ってもいけない。
強く、そう思ったのです。
葛城さんと赤木博士は何事かぼそぼそと話し合いはじめました。
すぐ後ろで、マヤちょむが手すりをカンカンと叩くのが、やけにはっきりと聞こえました。
彼女も苛立っているのでしょう、ですが、ぼくと同じような恐怖を感じている雰囲気はありませんでした。

しばらく、ぼくらは階段の真ん中で、立ち止まっていました。
そして、震えながら僅かな時間を過ごしたあと、ぼくはいちばん聞きたくない物音を耳にすることになったのです。
葛城さんの笑い声。
なにか、楽しくて楽しくて仕方のないものを必死でこらえている、子供のような華やいだ笑い声。
「ねぇえ、青葉くん･･････」
葛城さんの明るい声が響きます。
「マヤちゃんも、日向くんも、ちょっと･･････」
日向くんというのはぼくのことです。
背後で、マヤちょむが躊躇する気配がしました。
振り返ってはダメだ。
しかし、警告の言葉は、乾いた喉の奥からどうしても出てきません。
（振り返っちゃダメだ、振り返っちゃダメだ･･････）
心の中で繰り返しながら、ぼくはゆっくりと足を踏み出しました。
甲高く響く靴音を、これほど恨めしく思ったことはありません。
背後で、マヤちょむとシゲルが何か相談しあっている気配があります。
もはやそちらに耳を傾ける余裕もなく、ぼくは階段を下りることに意識を集中しました。

ぼくの身体は隠しようがないほど震えていました。
同僚たちの･･････そして得体の知れない中年男のささやく声は背後に遠ざかっていきます。
四階を通り過ぎました･･････三階へ･･････足が重い。
もはや、笑う膝をごまかしながら前へ進むことすら、やっとです。

三階を通り過ぎ、眼下に、真っ暗な闇の底･･････地面の気配がありました。
ほっとしたぼくは、さらに足を速めました。
同僚たちを気遣う気持ちよりも、恐怖の方が先でした。
背後から近づいてくる気配に気づいたのはその時でした。
複数の足音が･･････四人、･･･五人？足早に階段を降りてくる。
彼らは無口でした。
何も言わず、ぼくの背中めがけて、一直線に階段を下りてくる。
ぼくは、悲鳴をあげるのをこらえながら、慌てて階段を下りました。
階段のつきあたりには、鉄柵で囲われたゴミの持ち出し口があり、そこには簡単なナンバー鍵がかかっています。
気配は、すぐ真後ろにありました。
背中に迫り来る気配を感じながら、ぼくは暗闇の中、わずかな指先の手触りを頼りに鍵を開けようとしました。

その時です。
背後で、かすかな空気を流れを感じました。
　すぅぅ･･････。
（何の音だろう？）
必死に、指先だけで鍵を開けようとしながら、ぼくは音の正体を頭の中で探りました。
（とても背後を振り返る度胸はありませんでした）。
空気が、かすかに流れる音。
呼吸。
背後で、何人かの人間が、一斉に、息を吸い込んだ。
そして･･････。
次の瞬間、ぼくの耳のすぐうしろで、同僚たちが一斉に息を吐き出しました･･････思いっきり明るい声とともに！

「なぁ、マコト、こっち向けよ！　いいもんあるから」
「楽しいですよ、ね、ね、日向さん、これがね･･････」
「日向くん、日向くん、日向くん、日向くん･･････」
「ねぇ、悪いこと言わないから、こっち向いてみて。楽しい」
「ふふふ･･････ねぇ、これ、これ、ほら」

声は、どれもこれも、耳たぶのうしろ数センチのところから聞こえてきます。
なのに、誰もぼくの身体には触ろうとしないのです！
ただ言葉だけで･･････圧倒的に明るい、楽しそうな声だけで、必死でぼくを振り向かせようとするのです。

悲鳴が聞こえました。
一体誰が叫んでいるのかと思えば、ぼくが叫んでいるのです。
背後の声は、だんだんと狂躁的になってきて、ほとんど意味のない、笑い声だけです。

そのとき手のひらに、がちゃんと何かが落ちてきました。
重くて、冷たいものでした。
鍵です。
ぼくは、知らないうちに鍵を開けていたのでした。
うれしいよりも先に、鳥肌のたつような気分でした。
やっと出られる。
闇の中に手を伸ばし、鉄格子を押します。
ここをくぐれば、ほんの数メートル歩くだけで、表の道に出られる･･････。

一歩、足を踏み出した、その時。
背後の笑い声がぴたりと止まりました。
そして･･････最初に聞こえた中年男の声が、低い、はっきり通る声で、ただ一声。


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