落ち着いてLRS小説を投下するスレ

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「キモチワルイ」
 これが少女の最後の言葉だった。僕とは正反対のようだけど、本当は同じとこ
ろもたくさんあって、もしかしたら分かり合えたかもしれないかけがえの無い戦
友。けれど彼女は生きる事を放棄してしまったから、この世界にはもういない。
どうにかして助けようとしたけど、もともとかなり衰弱してた上に、食べも飲み
もしなかったんだからどうしようもない。点滴の仕方なんて知らないし。ショッ
クは大きかったけど、ミサトさんのことがあったからかな。二日も経ったらだい
ぶ立ち直った。もしかしたら感情が麻痺してるのかもしれない。
 どうしても触る気にはなれないので、遺体はそのままにしてある。
 いまはもう一人の戦友と同じ姿のモノの言葉を信じて、別の場所の赤い海のほ
とりでひとり待つ事数日。誰も戻ってこない。「自分の形をイメージすれば元に
戻る」「全ての命には復元しようとする力がある」とか言ったのに……。あれは
嘘だったの? ねえ、綾波? 母さん? …確かに他の生き物は少しずつ戻って
きてるみたいだけど、人間は僕一人だ。
 僕がおなかがすいて、またコンビニで何か食べ物を調達しようと立ち上がった
ときだった。

ずずーん

 突然大きな音とともに、沖合いにあった巨大な綾波?の頭が崩れ落ちた。僕は
最初ぼけっとしてたけど、大きな波がこちらに向かってくるのに気付いて慌てて
陸地側へ走り出す。海は赤い液体だから、ひょっとしたらLCLで呼吸もできる
かもしれないけど、そうじゃなかったら泳げない僕は死んでしまう。なんとか少
し高くなってる丘のようなところに登ると、背中から波を被った。
「うわあっ」
 僕は情けない声を出して、前のめりに倒れた。波が僕を追い越していったので、
地面にぶつかる事は無かったけど、液体の中に頭まで潜ってしまった。液体に流
されてわけが分からなくなったのは一瞬で、すぐに波は引いて息ができるように
なった。
「ゲホ、ゲホ」
 いくらか気管に入ってしまった液体を吐き出す。出てきた液体の色は赤くて、
まるで血を吐いているようだった。
 しばらくして何とかせきも納まった僕は、立ち上がって綾波?の頭のあった方
を見る。しかし、そこには何も無かった。どうやら崩れて全て海の下に沈んだよ
うだ。かつての戦友には悪いけど別にあの気持ち悪いでかいオブジェがなくなっ
ても感傷を覚えたりはしない。あんなのを綾波と見るのは無理だし、僕の知って
る綾波は……。
「はぁ、酷い目にあったな……」
 考えを止め、ずぶ濡れになった全身を見て呟いた。Tシャツもジーパンもパン
ツもびしょ濡れだ。早く洗濯しないと染みになってしまうかもしれない。
「けど、取りに戻るの面倒だなー。どうせ誰もいないんだから勝手に服を取って
もいいかな……。食べ物はもう無断でとってるんだし」
 それに、考えてみたら別に染みになっても構わないじゃないか。いまこの星に
は僕しかいないんだから、服が汚れていて困る事なんか無いはず。……でも、さ
すがにこの格好のままだと気持ち悪いから、やっぱり着替えだけはしよう、と考
えて動き始めたとき、その音に気付いた。パシャパシャ、というその音は、海の
方から聞こえている。
「なんの音だろう?」
 魚でも戻ってきたのかな、と思った。サードインパクトが起こってから小さな
虫くらいしか動物を見てなかったから、やっぱりこのままみんな戻って来ないん
だと半ば以上諦めていた僕にとって、それは希望だった。少しずつ大きな動物も
還ってくるのかもしれない。音の方を見ると、暗くてよく分からないけど、赤い
海の中に、しぶきが立っているのとその向こうにかすかに青いものが見える気が
する。今はたぶん昼なんだけど、赤い雲のような霧のようなものが太陽の光を遮っ
ていて、辺りはかなり暗い。その暗闇の中の海を、音としぶきはこちら、僕のい
る方へと近づいてきていた。
「真っ直ぐこっちに向かって来てる?」
 ちょっとおかしいかな、と思ってよく見てみると魚じゃないのに気付いた。あ
んな大きな魚はいない……こともないかもしれないけど、こんな浜辺に近いとこ
ろには来ないだろう。とか考えてるうちにもその生き物はどんどん近づいてきて、
人間がクロールで泳いでるんだ、というのが分かる距離まで来た。
 そして見える髪の色は青色だった。青い髪の色の人間なんて僕はひとりしか知
らない。いや……。彼女は人間ではなかった。
 自分は三人目だから覚えていないと言った彼女。あの地下の水槽の中にいた、
そして形を失って崩れていった大勢の彼女たち。最後のときに現れた、巨大な、
初号機よりも遥かに大きなものも彼女の姿をしていた。何かが起こって、夢のよ
うな空間にいた僕に優しく語りかけてきた彼女。僕の知っていた彼女とはまった
く別の存在のようだった。違うかな……。僕が何も知らなかっただけで、たぶん
あれも彼女を形作っていたものなんだろう。初めて会ったときから、僕の知らな
い秘密があるような気はしていたし。

 近づいてくる青い髪の少女に、僕は何の反応も出来ないでいた。声をかけるこ
とも、逃げ出すこともせず、ただ立ち竦んでいた。逃げ出す……そう、僕は彼女
を怖がっている。得体の知れないものに対する恐怖。人間が持つ生来の性質。加
えて僕の性格、『彼女』との思い出。彼女と対面するのは嫌で、再会を喜ぼうと
する気持ちなんか一片も出てこない。すごく逃げたいと思ってるのに、情けない
事に足が震えて動けない。まるで金縛りにあったように目を背けることも出来な
いで、彼女が泳いで近づいてくるのをただ見ていた。
 僕が何もしないでいる間に彼女はすぐ其処まで来ていて、立てる深さになった
らしく泳ぐのを止めて立ち上がった。僕はそれでも何も出来ずに突っ立っていた。
しばし二人で見つめ合う。僕は彼女を恐怖の感情を浮かべて見つめていたけど、
彼女がどう思いながら僕を見ているのかは分からない。波と風の音だけが二人の
間を通り過ぎていく。

 しかし止まった時間も永遠には続かない。
「碇君……」
 やがてどこか躊躇うように発せられた彼女の発した声で沈黙が破れ、同時に時
間が動き出す。聞こえてきた声はあの頃と寸分の違いも無く。だからこそ僕には
耐えられない。心から湧き出る恐怖と嫌悪の感情に従い、僕は百八十度回転して
全力でその場から逃げ出した。
「あっ…」
 後ろから彼女の声が小さく聞こえた気がしたが、僕は振り向かずにそのまま走
り去った。
 とにかくその場から遠くへ離れることだけを考えて、ひたすら走り続けた。海
とは反対の、かつては街であった廃墟の方へと一心に駆けた。途中で道の上に転
がっている障害物に足を取られそうになっても何とか踏ん張り、止まらないで一
直線に走った。
 どれぐらい走っただろうか。足が疲れて動かなくなった僕は、恐る恐る足を止
め、後ろを振り返る。視界にはただ廃墟が広がるだけで、彼女はいなかった。
「はぁ…」
 それを確認すると一気に力が抜けてその場にへたり込んでしまった。地面に腰
を下ろして壁に背中を預けた。
 そのままの体勢でしばらく荒い息を整える。世界がこんな事になってしまって
からはまったく運動なんてしてなかったから、息を切らすのはずいぶん久しぶり
の事だ。
「ハァハァハァ――ふぅ。あー、疲れた。……つい逃げてきちゃったけど、これ
からどうしようか……。このまま誰も戻ってこないのか、綾波に聞くべきなのか
な」
 綾波と話すのは怖いけど、このままずっと逃げ続けてもしょうがない。僕はひ
とつになるのは違うと思ったから、もう一度もとの世界を望んだ。なのに戻って
来たら目の前に赤い海が広がっていて、僕の他にいるのはアスカだけ。そのアス
カももう死んでしまった。どうしてこうなったのか、これからどうなるのか、綾
波に聞かなければいけない。たぶん綾波は知ってると思うから。
 頭ではそう考えていても、恐怖は消えない。かなり長い間その場所でじっとし
て悶々と同じ思考を繰り返していた。

ぐ〜

 何回目かのループに入ろうとしたとき、不意に辺りにくぐもった音が響いた。
……僕のお腹が鳴る音だった。
「そういえば、お腹が空いてたんだっけ。とりあえず、コンビにでも行って何か
食べ物取ってくるか」
 誰かに言い訳をするように独り言を言って、場所を移動するために立ち上がっ
て歩き出す。もう疲れもだいぶ癒えていたので、しっかりとした足取りでコンビ
ニを探す。考えるのはご飯を食べた後にすることに決めた。
 廃墟の中からそれらしい建物を見つけたので、中に入る。爆風か何かでガラス
は割れているので、電気が来ていなくても入るのに支障は無い。
 お店の中はガラスや商品が床に散らばっていて、足を取られないように慎重に
歩を進めていく。一通り回って、パンと飲み物をいくつかビニールに入れて建物
から外へ出た。
 適当な場所に座ってパンの袋を破り、ジュースのキャップを開けて食事を開始
する。メロンパンをゆっくりと食べながら綾波に会う覚悟を決めていく。
「やっぱり、このまま逃げてもどうにもならないよね…。綾波と話して、いろい
ろ聞いて、それからどうするか考えよう。綾波が何なのかは分からないけど、僕
に何かするっていうわけでもないんだろうし、たぶん。別人だと割り切る事はで
きないし、そもそも本当にあの綾波と全然違う人なのかも不明だけど。そんな人
と話すのは怖いけど、それでもそうしないと先に進めないんだ」
 よし、と気合を入れて立ち上がりさっきの場所へ向かって道を戻る。散々悩ん
でからの行動なのに、僕の中には綾波に会うことにまだ躊躇いがあった。来るま
での何倍もの時間をかけて、ゆっくりと歩いて彼女のいるはずの海辺へと戻った。

 近くまで来てもまだ躊躇が残っていて、僕は何かの残骸の陰に隠れて海の方を
窺った。綾波はまだそこにいた。海の方を向いて何をするでもなく座っていた。
――裸のままで。
 さっきは突然の事で気が動転してたから何とも思わなかったけど、冷静になっ
てみるとまずいんじゃないかって思った。服を取って来よう、と考えて綾波に見
つからないように移動しかけて、足をどこかに引っ掛けて盛大に転んだ。

ガシャーン

 しかも何かが倒れて大きな音を立ててしまった。
「何? ――碇君……」
 当然綾波にも気付かれてしまう。僕が痛みに顔を顰めながら上を向くと、綾波
がゆっくりとこちらに来るのが見えた。また裸の彼女を見てしまったので慌てて
下を向く。その視界にぎりぎり足が入る辺りまで近づいたところで綾波は足を止
めた。話し合うには遠く、声が届かないほどには遠くない微妙な距離。
「何か用?」
 僕にかけられた綾波の声は、ずいぶん冷たい響きを持っていた。まるで初めて
僕と会った頃の彼女のようだった。僕との思い出のある彼女じゃないんだな、と
考えかけて、ふと思う。――あの頃の綾波は用事も無いのにわざわざ向こうから
声をかけてくることなんか無かったっけ。
「う、うん。ねぇ、綾波はどうしてこんな世界になっちゃったのか分かる? 僕
が望んだのはもっと違う世界だったのに」
 少し冷たい雰囲気の綾波に気圧されて、多少つかえながらも気になっていた事
を尋ねる。
「碇君は自分の望みが全て叶うとでも思ってるの?」
「え?」
 綾波の言葉は僕に対する問いかけだったけど、違う響きを伴っていたように思
えて、聞き返してしまった。『私の望みは叶えられたことが無いのに』と言われ
たような気がした。綾波は二度とは言わず、最初の僕の問いに答え始めた。
「今の私にはリリスと一体化していたときの記憶もあるから、それで分かる範囲
で教えるわ。私はアダムを取り込んだ後リリスとひとつになり、碇君と初号機を
依り代としてサードインパクトを起こした」
「何でそんなことしたの?」
「そうしなければエヴァシリーズが起こしたわ。それに、もともとリリスの因子
を持っていた私は、間近にあるアダムとリリスの気配に惹かれて、ひとつになろ
うとする自分の内側から沸き起こるどうしようもない欲求に抗う事は出来なかっ
た。碇君と初号機を依り代として起こされたサードインパクトは、そのときの碇
君の精神状態でどんなことが起こるのかが決定された。それまでの戦いで心に傷
を負い、何もかもが嫌になっていた碇君の心は何も無かった。欠けた心が求めた
ものは、心の補完。それによって起こされたインパクトも、みんなの心を補完し
ていったわ。みんなの魂を補完した結果、全てがひとつになった。それがこの赤
い海」
 綾波の話は僕にはよく理解できない事もあったけど、それは後で考えてから聞
くことにした。今聞きたいのは別の事だ。
「でも、僕はその後でこれは違うと思ったはずだよ。それなのにどうしてみんな
は戻ってこないの?」
「あのときの私は私であって私ではないわ。碇君の望みを映す鏡だったのよ。だ
からあのとき私が言ったことは、碇君の願望、希望。けれど、実際にはたぶん普
通の人は自分をイメージしてATフィールドを作り、現実の体を作るなんてこと
をできないわ」
 その言葉は衝撃だった。もうこれからも人が還ってくる事はないなんて……。
「で、でも、それじゃあどうして僕たちだけが戻ってきてるの? 小さな虫とか
も戻ってきてるし、他の人もそのうち還ってくるんじゃないの? 母さんが全て
の命には元に戻ろうとする力があるって言ってたよ」
 僕がそう言うと、綾波はちょっと顔を顰めて答えを返した。
「私はリリスの力があったし、碇君たちはエヴァに乗ってたから、その中の魂に
協力してもらって再び自分を形作る事ができたわ。どうして他の生き物は戻って
きてるのに人間は戻らないと言えるのかというと、心の複雑さに応じて必要なA
Tフィールドの強さが違うからよ。ヒトを形作るATフィールドは地球上の生物
の中で一番強固で、それ故に一度壊れたものを作り直すのは難しいの。いえ、む
しろ不可能なのよ。元に戻ろうとする力にも限界はあるの。……あなたのお母さ
んの言うことは楽観的すぎるわ」
「そんな……!」
 綾波の言葉に、最後の希望を粉みじんに打ち砕かれて僕は絶句してしまった。
これから僕はどうすればいいんだろう……。何も思いつかない。

 僕がうなだれて動かないでいると、綾波が歩く砂の音が聞こえた。
「ま、待ってよ! どこ行くの!?」
 一人にされたくない一心で、急いで起き上がり綾波の手首を掴んで問い詰める。
「あなたには関係ないわ」
 僕を拒絶する言葉。だけど、違うと感じた。綾波の瞳をは、僕と同じくらいの
寂しさを湛えているように見えたから。それじゃあ、どうして離れようとするん
だろう。
 理由を知りたくて綾波の顔をじっと見る。このときの僕は、綾波への恐怖なん
てどこにも無くて、一人になる事への恐怖だけがあった。どうすれば綾波が一緒
にいてくれるのか、それを知るために彼女の考えを読み取ろうとする。
 そして気付いた。
 綾波の目がまるで泣き腫らしたように赤くなっていることに。いまの綾波の目
は瞳だけでなく、白目のところも赤くなっていた。よく見ると頬に涙の後も見え
る気もする。
 でも、どうして綾波が泣いていたのかなんて僕には分からない。
「放して」
 僕から距離をとろうとする綾波。その様子は僕に怯えているようだった。
 僕に怯える? 僕は綾波が怖いけど、どうして綾波がただの人間の僕に怯える
んだろう。僕は綾波を傷つけるような事なんてしてない……。
 そこまで考えて分かった。自分の馬鹿さ加減には呆れてしまう。自分のことを
殺してやりたいくらいだ。
 話もせずに彼女の前から逃げ出したのは誰だ? 僕のために命を尽くしてくれ
た彼女に対して、ヒトではないという理由だけで拒絶したのは誰? それで傷つ
かないとでも思ってたのか、僕は。いつも自分の事ばかり考えて。だからこうし
て彼女も離れていこうとしてしまってる。
 けれど、まだ彼女は目の前にいる。まだやり直せると信じたいから。
「ゴメン! 綾波から逃げたりして。綾波は何も悪い事してないのに……本当に
ゴメン!」
 綾波の手首を放して頭を下げ、今までの人生の中で一番真剣に謝った。本当に
綾波に悪いことしたと思ったから。自分のためじゃなく、綾波を思って謝罪の言
葉を言った。
 僕が自分のことを責め続けながら何度もゴメンを言っている間、綾波は立ち去
らなかった。
「もういいわ」
 そう言われてもまだ頭を上げられなかった。どうしても自分を許せなかったか
ら。
「もういいの、頭を上げて。碇君が後悔してるのは良く分かったから」
 それでようやく頭を上げた僕の目に映ったのは、涙を流して顔をクチャクチャ
にしながら浮かべられた、眩しいほどの笑顔だった。