【私とハルマゲ】竹熊健太郎とその思想【顕教】

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1名無しが氏んでも代わりはいるもの
エヴァに身も心も捧げた編集者として名高い竹熊博士とその深遠な思考について
かつてのブームも遠い日のモノとなり色褪せてしまった21世紀の現在。
今あえて、いや、だからこそ博士が当時エヴァに見ていたモノは何だったのか、
当時の言説や時代状況などを紐解きながら、考察、振り返っていきましょう。

関連>>2以降
2名無しが氏んでも代わりはいるもの:03/12/05 17:23 ID:tWanQnVE
3名無しが氏んでも代わりはいるもの:03/12/05 17:31 ID:TMoqmdYC
>>1
4名無しが氏んでも代わりはいるもの:03/12/05 18:58 ID:8Qzjfz9X
まあ細かい考察は落ち着いてからやるとして、
現在このひとがどうしてるか御存知の人いませんか〜
某雑誌に警備員のバイトしながら生計立ててるとかあったのは知ってますが。

あと、唐沢日記にて、

……あまりに素直(バカ)というかなんというか。
当然のことながらエヴァにも庵野氏にも何の責任もないが、
しかしあのブーム当時、私がエヴァマニアの熱狂と視野狭窄を
オウム信者に例えたとき、竹熊健太郎氏が“オウムは人を殺したが、
エヴァは一人も傷つけていない”と反論してきたのを思い出した。
傷つけてしまったなあ。

との記述アリ。
5名無しが氏んでも代わりはいるもの:03/12/05 19:43 ID:wPdGx//S
しかしそれなら
バット殺人犯=オウム
にこそなれど、
それ以外のエヴァヲタ=オウム
ではない罠
6名無しが氏んでも代わりはいるもの:03/12/06 17:25 ID:XilfoD5w
結局、竹熊さんがエヴァ等を通して言いたかったことって
共同体に対する接し方だったんだろうね。

いわゆる「旅人の論理」ってのが
宮台氏のサイファにおける「多元的所属」理論、浅田の逃走論における「スキゾ・キッズ」。

何らかのコミュニティにおける価値観の不一致による軋轢、しがらみ等々の問題を
竹熊さんは「こっちの世界に帰る必要なんてない。ただこちらに旅してくればいい」と説き、
宮台氏は空洞化した地域社会にありがちな同調圧力の問題を、「多元的所属をすれば、
比喩的に“タコ足化”すれば、もし不快な同調圧力がやってきても、タコ足を一本切り落とせば
いいだけ、すなわち多元的な所属先のうちの一つを失うだけだから、負担が軽くて済む」と諭し、
浅田は、「行き先なんて知ったことか。とにかく、逃げろや逃げろ、どこまでも〜」と嘯いた。

もっとも、浅田の煽りを額面通りに受け取ってエライ目にあった人たちも過去にいたみたいだけどw
7名無しが氏んでも代わりはいるもの:03/12/06 19:16 ID:5+tF/S1Z
>>5
視野狭窄って意味では全てイコールで括れるよ。

>>6
ATフィールドは養老孟司の「バカの壁」?
8あぼーん:あぼーん
あぼーん
9名無しが氏んでも代わりはいるもの:03/12/07 19:17 ID:X4Cwkx24
共同体云々についてだが、例えばネットなどの匿名メディアのおかげで、
僕らは日常生活の中で、共同体的な顔と、共同体に属さない顔っていう具合に
二重性を生きられるようになった。それは、ついこの間までは有り得なかった事で、
同調圧力に対抗するために大いに利用可能だと思う。

匿名であるという事は、つまり何ものでもないって事。
つまりプロファイリングも出来ないという、否定的な言い方になってしまう。
でも逆に言うと、誰でもありうるという可能性もある。
nobody(無名性)よりanyone(匿名性)。
フィルタリングが怖いのは、偶有性が奪われちゃうから。
おまえは「ソレ」だって言われたら、現に「ソレ」を受け入れてしまい、
偶有性が消去しちゃうわけです。ほんとは、人間は、そのたびに何かであると同時に、
ソレ以外の何かでもありうるのに。その「ソレ以外の何か」という過剰への感覚、
偶有性を抱えた生きかたを、どうやって客観的に保証しうる社会システムを構成するのかって
ことでしょ? 庵野も竹熊も宮台も浅田も目指してたモノは。ぶっちゃけた話。

そうすると、社会の秩序を支えてきた共感のネットワークを今後どう維持するか、っていう
問題が出てくる。偶有性の縮減は他人どうしの共感を断ち切ってしまうからね。
フィルタリングがそれを強化する。島宇宙化が進むと、僕は彼/彼女であったかもしれない、
という交換可能性の想像力が及ぶ範囲が極端に狭くなってしまう。
たとえば今でも、若いオタクたちは、自分たちのサブカルは日本国内に出来たもうひとつの
独立国だ、ぐらいの気分でいる。マスコミにも注目されない、社会的価値にも全くつながらないけど、
自分たちのコミュニティでは自己完結しているサブカル集団は今、どんどん増えてるからね。
そういうたくさんのミニマル集団から社会という全体性をどう編み上げていくかっていうのは、
エヴァが提示した人類補完計画以後ってことで、重要な課題になっていくと思う。
ナショナリズムの暴政に対して、人は皆個人なんだ、バラバラでいいんだって言って通用してた
時代はせいぜいエヴァくらいまでだと思うしね。その辺の問題で暗中模索して苦闘してるのが
庵野とか竹熊とかのオタク第一世代なんじゃないかな。
竹熊健太郎……???
「ファミ通のアレ」の人か?
>>1にバカルン超特急サボタージュスペシャル!!!!
お前らの話しは全く役に立たん
糞だなwwww
>>11
そりゃ労働集約型産業で働くキミには一生縁のない単語が並んでるもんねw
自分のレベルに合ったスレを効率良く探して書き込む習慣つけた方が
人生有意義に過ごせるよ。

>>6
うーん……
多元的所属ってのをもうちょっと掘り下げてみない?
例えば僕とみなさんは、趣味も価値観もまったく異なっていて、共通だと言えるモノは
何もないとします。そんな相手に共感できるだろうか。もちろん出来る、わけです。
僕とみなさんとは、共通の積極的な性質は何もないけれど、ただひとつ、偶有的だってこと、
それぞれ他でありうるってことにおいて繋がり得るんですね。
まあ実際は、エヴァっていう概念に惹かれて今こうして同じスレッドを共有してるわけだけど、
それを抜きにしても、普遍的と見なされるような価値観がもはやなくなってしまった新世紀において、
偶有性ってモノは、普遍的な連帯や共感を生み出すデバイスに成り得ると思う。
>>12 確か、

第一の帰属は、誕生してから子供時代にかけて周りにいる近しい人たち、所属するかどうか
自分では選べない集団、家族とか親族との関わり。
生活時間や生活空間を全面的に共有する共同体。

第二の帰属は、成長して家族離れを遂げたあと、所属するかどうかを選べる集団、
会社や政治党派や宗教団体とか。つまり、社会との関わり。
会社みたいに自分の生活の一部を差し出す場合もあれば、某宗教団体みたいに
自分の生活の全体を差し出す共同体になる場合もある。

第三の所属は、アイデンティティ。つまり自分との関わり。
日本だと「君のアイデンティティは?」と聞かれたら、家族だ、会社だとか答える人が多いけど、
家族や会社を失っても「自分は自分だ」と言えるような、所属と無関係な核(コア)の部分。
この板の人たちならさしずめ、「オレはエヴァオタだ」って感じかな。
所属を選べる二次集団がほとんどなかった伝統社会と違って、近代社会になると
所属を集団だらけになるから、じゃあナニモノが所属を選んでいるのかということから、
役割と分離した主体性、「アイデンティティ」の概念が出てくるって言われてる。

第四の所属は、アイデンティティ。つまり社会の中での自己定義ではない、
「社会」を超えた「世界」があると考える、「世界」との関わり。

第一の次元(家族など)や第二の次元(会社など)から独立した、
第三の自己定義(アイデンティティ)があったとしても、むしろそれゆえに、第四の世界の中の
ポジショニング(位置づけ)が分からなくなる。だからこそ、そこの部分で、いわゆるエセカルチャー、
何がエセカルチャーかというのは各自違うと思うけど、そういうモノに引っかからないで、
「世界」の中に「自分」をうまく位置づけなおすことが出来るような、そういう知恵を身につけた方が
これからの世の中生きやすいんじゃないか。そういう深遠な提案として、竹熊の「私とハルマゲドン」を
読んだけどね。