精力絶倫の戦国武将といえば、織田信長もそうである。信長には
12男12女という子供がいたが、信長自身も24人兄弟の5番目に
生まれている。絶倫が血筋の家柄である。
その信長が安土城を完成し、正式に入城した天正7年(1579)の
ことである。その祝いの宴席が開かれたとき、信長は居並ぶ緒将の
旧功を賞し、一人ひとりに言葉をかけ、みずから引き出物を
手渡している。
前田利家も末座に連なっていたが、順が来ると信長は、利家に
こう声をかけたのである。
「そのほう、若いときは余のそばに寝かせて余が秘蔵したものであったな」
信長のこの言葉は、諸将をうらやましがらせた。「利家殿は冥加で
あることよ」と、いうのである。
武田信玄と高坂昌信のように、戦国の世での男色は、武士の間では
ごく普通の習俗であり、互いに才気、豪勇を認めあった者同士の
友情の証といった意義をもっていたからである。今は天下人たる
信長と関係があったとなれば、利家にとって名誉ある経験に
なったわけである。
現在の名古屋市中区荒子町に前田家の城跡がある。
荒子の城は、東西38間(68メートル)、南北28間(50メートル)の
堀をめぐらしてあったという。後世でいうと城という概念に入らないような、
小さな建物である。
利家は、この荒子城の四男として生まれ、幼名を犬千代といい、
のちに又左衛門と名乗った。
前田氏といえば菅原道真の後胤といわれ、菅原氏を称しているが、
『系図纂要』には利家の父・利昌(利春)までしか書かれておらず、
『寛政重修諸家譜』にしても、利昌(利春)の先代として利陸の名を
揚げているだけである。恐らく前田氏は、荒子の土豪であり記録などにも
残っていないのだろう。菅原道真後胤説は、家紋の梅鉢などからの
思いつきであろうと思われる。
そんな一所懸命(一ヶ所の領土を懸命に守る)の土豪の血を引く利家は、
14歳の時、織田信長に仕えた。
14歳の又左衛門(のちの利家)と、19歳の信長。二人共評判の
美丈夫であった。身長が6尺(1メートル80センチ)を越える利家と、
天下一美女といわれたお市の方を妹に持ち、色白で鼻の高い信長が、
二人して馬の遠乗りなどに出かけると、村々の女たちが飛び出してきて
振り返ったという。
二人は、いわゆる傾き者で、珍しい着物を着たり頭髪の結い方を
変えたりという派手な姿をしていた。また、鞘の先に車をつけて歩いたと
言われるくらい長い刀を差して闊歩するなど、意気軒昂とした暴れ者で
あった。
特に又左衛門は、”槍の又左“と言われるくらい槍の名人である。
宿老衆(代々の家臣たち)に、うつけ者と陰口をたたかれながらも
傾き続けた信長は、この又左衛門を非常にかわいがったのである。
ところが、それほどかわいがっていた前田利家が、ある時、信長の茶坊主を
一人斬ってしまう。その原因がなんであったのかは定かではないが、
お気に入りの茶坊主を殺された信長は、えらく憤慨して、利家を織田家から
追放してしまう。自分の家臣の中でも、利家にはある種気をゆるすような
部分があっただけに、信長のこの怒りは凄まじいものだった。
利家は信長に追放されて、そのまま今川義元の領地である駿河へ
行ってしまうのである。当時の今川は、信長の領地を虎視眈々と
ねらっていただけに、このときの利家の気持ちは、どんなものだったろうか…。
永禄3年(1560)5月19日。織田信長は桶狭間で今川義元を討つことに
なる。いわゆる桶狭間の戦いである。
織田家から追放されてから1年。23歳になった前田利家は、この合戦に
秘かに、信長に味方して参戦している。
槍の又左の異名を取った利家は、得意の槍をふるって戦場で暴れまわる。
だが、信長の怒りはとけない。
利家は、息を荒げて、取ってきた首を信長の前に披露する。
信長は、そんな利家に声すらもかけない。
利家は、歯を食いしばって戦場へもどり、今度は傷を負いながらも、
また首を取ってくる。
完全に無視する信長。
そうなってくると利家のほうも意地になって再び三度と、敵に向かっていく。
ボロ布のように負傷しながら、敵と戦い続ける利家を見て、とうとう信長は、
利家をとどめるよう近習の者に言ったという。
利家はこうして桶狭間で奮戦したが、まだ信長の許しは得られなかった。
利家が信長家へ帰参するのは、結局、信長が、自分の妻の実家である
美濃の斉藤家を滅ぼして岐阜の城主になった永禄4年(1561)の
ことである。
そして十六年の月日がたち、利家は信長に先に書いたような言葉を
かけられたのである。
それでなくても、あまり人を誉めるようなことをしなかった信長である。
前田利家は、きっと今までのいろいろなことを思い起こして、涙を流した
ことであろう。
現代の我々の中にも、身勝手で一人よがりの男に一方的で惚れてしまい、
散々な目にあったという人がいるんじゃないだろうか。しかし、そんなことも、
後になって思い返してみると、ほろ苦い思い出の一つになっていたり
するものである。