これから投下する物語は、某スレでリクエストされたものです。
投下予定を1ヵ月ほど過ぎてしまいましたが、見てくれていますか?
投下場所はこのスレが一番適当かと思いますので、お目汚し失礼します。
この物語には「俺解釈・俺設定」が充満しております。ご注意ください。
また、あくまでも老教師が体験したことを、本人の主観で話しておりますので実際の出来
事とは若干異なる場合もございます。
ついでに言えば、自分のサイトにも収録予定です。
…能書きが多うございますな。
それでは、名物教師の数学の授業をお楽しみください。
ある老教師の話
教室の窓から見える空は、紛れもない夏の空だ。
9月になっても第3新東京市には猛暑が居座っていた。
四季の無くなったこの国ではあるが、それでもその名残は存在している。
例年通りなら、気温はもう少し下がってもよさそうな頃なのだ。
「今年はいつも以上に暑いなぁ」
そんな言葉が挨拶代わりになっている。
2000年9月13日。
この日に起こった『セカンド・インパクト』が全てを狂わせたのだ…。
『全てを狂わせた?じゃあキミはこの日常が未来永劫ずっと続くと思っていたのかい?』
始業のチャイムが鳴る。
ざわついていた教室に一瞬の静寂が訪れる。
「起立!礼!着席!」
委員長の少しかん高い声が教室に響く。
5時間目の数学、そしてこの猛暑。
ほとんどの生徒が学業にいそしむ精神状況にはない。
おまけに、昔語りで有名な初老の教師なのである。
各人静かに、黙々と内職に没頭している。
出席を取るのも曖昧だ。
皆さん、そろっていますか?とか、委員長さん、欠席はいますか?で済ませてしまう。
長話はごめんだが、ある意味「楽のできる」授業なのだ。
「それでは101頁を開いてください」
老教師が黒板に書き込みを始める。
カツカツというチョークの音が、眠気をさらに増加させる。
老教師は巨大なコンパスできれいに円を書くと、その中に三角形を書き込んだ。
「えー、このように、三角形ABCが円Oに内接し、直線TT´は点Aで円Oに接してい
る時、辺AB=辺BC、角CAT=70度である時、角度BACの大きさはいくらでしょう?」
生徒達の反応をうかがう老教師。
「解き方はですねぇ、角OAT=90°、角OAC=角OAT−角CAT=90−70=20=角OCA。
角AOC=180°−20°−20°=140°ゆえに角度ABCは140°÷2=70°となり、辺AB
=辺BCよりBA=BCとなり、角BAC=角BCAです。よって角BAC=(180°−70°)÷2
=55°となります」
(この問題は、どこかの参考書を写させていただきました。必要があれば出版社と書籍名も
記入いたします。…必要あるだろうなぁ)
問題を解き終えた老教師が黒板の円を見つめている。
「あぁ、ちょうどこの点の辺りが南極ですねぇ…」
来た!
教室中の生徒達が「いつもの気配」を察知した。
セカンド・インパクトを連想するような単語が出ると、ほぼ100%の確率で授業が潰れる。
同じ話を聞かされるのはたまらないが、内職に没頭すればまた楽しからずや。
いつもの出来事なのであった。
「そういえば今日は9月13日…もう15年も前になるんですねぇ…」
老教師が手を後ろに組んで窓際に歩み寄る。
「あの日もちょうどこんな暑い日でした…」
窓から見上げる空はどこまでも蒼く澄み切っていた。
西暦2000年9月13日。
夏の盛りを過ぎたとは言え、残暑の厳しい日でありました。
世界的な原子力発電所の安全点検だとかで、日本中の原発が緊急停止していましたから
電気不足でクーラーを止められてましてね、大変だったのを覚えていますよ。
当時、私は根府川に住んでいましてね。
駅前通りを左に進み左手に郵便局がある、その近所でした。
子供が生まれてすぐに買った、小さいながらも自慢の我が家だったんです。
今と同じで、小田原で中学の数学教師をしていたんですが、通勤には泣かされましたねぇ。
汗だくになって我が家に帰って、ホッと一息ついて、風呂上りにビールを飲みながら
ナイターを見ていたら、そんな事などすっかり忘れていましたがね。
あぁ、女房との二人暮しで気楽なのもありましたねぇ。
子供は社会人になってまして、東京で所帯を持っておりました。
おまけに前年、子供が生まれていまして。
男の子だったんですが、そりゃあもう可愛いものでした。
一週間に一回はメールで写真をよこしてくれましてね。
すくすく育つ孫の、小さな出来事ひとつが、楽しくて楽しくて。
二人っきりでも寂しくなんかはありませんでした。
愛する女房がいて、子供夫婦は元気で、孫もいて、仕事もあって…。
老いてますます人生が愉快でした。
あぁ、セカンドインパクトの時の話でしたね。
先程も申しましたとおり、節電による冷房の停止で半ば熱中症のようになって我が家に
帰りまして、すぐにお風呂に入ってそれから晩酌です。
冴え冴えとした月が出ていました。
生憎と満月は過ぎていましたが、そんなことはかまいませんでした。
鈴虫の声を聴きながら、下手な俳句なんぞを作ったりしましてね。
そうこうしているうちに9時前になりまして、疲れていたから寝る事にしました。
遠くに聞こえる潮騒と鈴虫の声。
窓からは月明かりが射して、あぁ初秋だなぁと感動しました。
ところがです。
10時を回った頃だったと思いますが、息子から電話がかかってきまして。
テレビをつけろ、ニュースを見ろ、というんです。
なんだか解らないけれど、大変なことが起こっているみたいだ、と言うんです。
急いでNHKを見ました。
画面の上にはテロップが流れ「南半球で水面上昇、津波発生か」とあり、キャスターが
同じことを繰り返し喋っていました。
私も伊豆に暮らす人間ですし、チリ沖地震による日本の津波の被害は子供心にもはっきり
覚えています。
しかし、息子が騒ぐほど大変な事だとは、正直その時は思いませんでした。
あまり取り乱したりしたら、アカネさんやヨウイチ…あぁ、これは息子の嫁と孫の名前で
す…が不安になるから、と嗜めて電話を切りました。
でも、ニュースは、ずっと見ていました。
『今までの情報をまとめてみます。日本時間で13日午後7時頃、南極にある各国の観測
基地から異常を報告する無線連絡がありました。通信の中で、爆発あるいは地震ではない
かという表現がありますが、連絡が途絶えています。これは電磁波の発生によると思われ
回復が待たれています。次いで日本時間の8時頃、南半球の南極に近い海岸で相次いで海
面の上昇が確認されました。南アメリカのホーン岬、南アフリカのアガラス岬、タスマニ
ア島、ニュージーランド、フォークランドなどの島嶼部では急激な水位の上昇が確認され
ており、高さは5mから10mという情報もあります。…たった今入ってきた情報によりま
すと、南極上空の観測衛星が制御不能になっている模様です。また、フォークランドを飛
び立ったイギリス空軍の偵察機が、ドレーク海峡上空で行方不明となっています。今夜は
特別報道番組として、南極関連のニュースをお伝えしています』
『11時になりました。引き続き南極関連のニュースです。日本時間の昨夜7時頃に南極に
おいて異常現象がみられた模様です。南半球の海面が異常な上昇を示しており、各国で被
害が出ている模様です。南極周囲では強い電磁波が発生しているとみられ、南極観測基地
との通信が途絶えているほか、上空の観測衛星も制御不能となっており、情報が入ってき
ておりません。各国の対応です。ニュージーランド、オーストラリア両国は非常事態宣言
を出して国民に規律ある避難を呼びかけました。AOSISに加盟するバヌアツ、サモアなど
の諸島国家は、国連に対して速やかな救援を要請しました。アメリカは、事態の推移
を見極めたいとしながらも、国連主導の復興支援に最大限の協力をするとの見解を示しま
した。日本政府は緊急閣僚会議を開き、総理官邸内に危機管理委員会を設置、対応を開始
しています。バングラデシュでは避難する住民と警官隊との間で衝突があり、死傷者が出
た模様です。インドとパキスタンはホットラインを使用した緊急外相会談が持たれ、災害
対策で協力することを確認しました…』
『日付が変わって14日零時のニュースです。南極での異常現象を受けて、ニューヨーク証
券取引所は売り注文が相次ぎダウが7千ドルを割り込み、なお下落する模様です。これを
受けて日本政府は明日から一定期間東京証券取引市場を閉鎖することを閣議決定しました。
また、金融機関の休業、いわゆるホリデーバンクも視野に入れているとのコメントも出し
ています』
『天体の運行に異常が見られています。これはアマチュア天文家が撮影した写真ですが、
長時間の露光により恒星の軌道を修めた写真です。通常ですと、この様に円軌道を描くの
ですが、ここで軌道が変化しています。解説委員の星野さんにお話を伺います。これは一
体どういうことなんでしょうか……』
この頃になって、やっと私にも事の重大さが実感できました。
正直どうなるのかは解りませんでしたが、とんでもない事が起こっていて、明日から今
までの生活ができなくなる事だけは解りました。
慌てて女房と一緒に非常食や非難生活用の荷造りを始めました。
テレビを付けっ放しにして、断片的な情報を集めながらでした。
ふと気付くと、ご近所が騒がしくなって来て、車が走り出しました。
私は、あっ!と叫んでしまいました。
買出しです。
我が家には、非常食などが三日分位はあったのですが、先のことを考えればもっと欲しい
と思いましたし、何より足りないものがありました。
ご近所の人達も同じことを考えていたのでしょう。
局地的な災害なら被害を免れた地域から援助を受けられますが、あの時はどうなるか解ら
なかったのですから。
私は慌てて車のキーを取り出し、女房に財布を用意させました。
一人で行くつもりだったのですが、女房は着替えまで済ませていまして、はい。
深夜に二人して買い物です。
外に出て感じたのですが、心なしか山から吹く風が強くなって、ごうごうと言う音を立て
て私の不安を煽りました。
近くのコンビ二は既に近所の人が集まっていまして、買えたのは電池とインスタントラー
メン2袋だけでした。
顔見知りばかりでしたので、手荒な事にはなりませんでしたが、殺気立っていましたねぇ。
買出しはまだ終われません。
一旦家に帰り、女房はスクーターで江之浦から真鶴辺りまで出ると言いますので、私は
小田原に行く事にしました。
30分に一度、連絡をする事を決めて分かれました。
不安はありました。
しかし、やらねばならないと思っていたのです。
カーラジオから流れるニュースでは、相変わらず断片的な情報しか入手出来ません。
国道135号線を北上しておりますと、すごいスピードで私の車を追い越して行く車が何台
もありまして、急に女房のことが心配になりました。
夜道のオートバイは怖いですからねぇ。
小田原の中町に着いたところで電話をかけてみました。
無事に真鶴に向かっているというので一安心して、私も買出しに向かいました。
小田原の街は、私と同じような人が沢山いました。
コンビニは…バーゲン会場さながらでした。
狭い店内に大勢の人が詰めかけ、押し合いへし合いしながら買い物をしていました。
弁当は既に売り切れており、保存食になる様な物は在庫を引っ張り出してダンボールごと
並べられていました。
それらを競うように買いましたねぇ。
…私達はまだ運が良かった。
ニュースを聞いていて、手元に現金が有って、買い物ができた訳ですから。
ぐっすり寝ていた人、手元に現金が少ない人は…。
女房の方は主に自分の物を買っていました。
どうせ私は気づかないだろう、頭に無いだろう、と言う理由なんですが。
確かに、生理用品やトイレットペーパーなどは忘れていましたねぇ。
セルフのガソリンスタンドで給油をして、持って来たポリタンクにガソリンを入れて
いる時に、休憩室から出てきた中年の男性が声をかけて来ました。
無線機を買わないか、というのです。
携帯はやがて使い物にならなくなるかも知れない、というのです。
確かに、阪神大震災直後は、携帯はおろか固定電話さえ使えなくなりました。
ですから、短波帯を使える機種を2台、買おうとしたのですが、ボってましてねぇ。
家にある中古品のことを思い出してやめました。
えー、私達の年代は、いわゆるハムと言うものの洗礼を受けている人が多いのです。
海外文通や、アマチュア無線で世界の人達と交流することが流行していたのです。
この、無線をしている人達の事をハムと言います。
当然ながら、無線を使用するには免許が必要なんですが、私も女房もちゃんと持っていま
すのでご安心を。
その女房はといえば、荷物が一杯になったので家に帰っておりまして、テレビのニュース
を逐一報告してくれていました。
午前3時のニュースでは、かなり具体的なニュースがありました。
セントジョーンズ島で津波が観測され、その高さは100m近いこと。
その津波には流氷が付随しており、流氷の限界線を越えていること。
南緯60度から50度にかけての、人の住む島で同様の報告が有ったこと。
南アメリカのホーン岬周辺の町や村が甚大な被害を受けていること。
私は恐ろしくなりました。
仮に南極での異変が、日本時間の7時頃に発生したのだとしたら、津波は時速約600kmで
北上しているのです。
日本到達まで約24時間で、これは常識はずれの現象です。
チリ沖地震の際、津波は22時間で日本に達しましたが、これでも時速300kmなのです。
単なる津波などではない、その時、私は確信いたしました。
荷物が多くなったので私は一旦家に帰り、女房と相談することにしました。
今後の対策です。
もし南半球で起こっている津波が来たなら、残念ながら我が家は水没してしまいます。
この近辺で避難所になる場所がどの程度あるかは解りませんでしたが、東京の息子夫婦の
所に、女房だけでも避難させようと思ったのです。
住んでいる場所は、立川。
武蔵野台地より高いはずだし、生活物資にも不自由はしないだろうと思ったのです。
家に帰ったのがちょうど4時頃だったでしょうか。
私は早速女房に話をしました。
小さな子供を抱えて大変だろうから、手伝いに行ってやったらどうか。
避難所暮らしよりで窮屈な思いをするよりは、畳の上で眠る方が身体にはいい。
とにかく、思いつく限りの理由を喋りました。
女房は苦笑いをしながら聞いていました。
あたしはあなたの方が心配なんですけれどね、などと言うんですよ。
それでも渋々承知してくれまして、荷造りを始めました。
テレビでは、南米の海沿いの街が津波に飲み込まれていく映像が流れ始めていました。
飛行機から撮られたのでしょうねぇ。
画面には波が一本映し出され、その波が陸地に衝突していくんです。
画面には見えませんが、その中に人が居るかも知れないと思うとぞっとしました。
飲み込まれる建物、押し流される車、えぐられる大地。
止む事無く押し寄せる波、波、波。
この時私はアマゾンの「ポロロッカ」という現象を思い出しました。
年に何回か、月との関係でしたかねぇ…とにかくアマゾン河を水が逆流していくんです。
あの映像に似ていました。
もちろん規模は全然違うんですけれど。
怖いと思う反面、すごいなぁ、という畏敬の念も感じていました。
5時になった頃、私は用事を思い出しました。
預けている荷物を思い出したのです。
近所のスキューバダイビングセンターに、自分の道具があったのです。
こう見えても私は多趣味だったんですよ。
近くの海底には名所がありましてね。
関東大震災の時に、根府川駅に入って来た列車が山崩れに巻き込まれまして、駅舎と
客車が蒸気機関車を残して海中に沈んでしまうという惨事があったのです。
死者・行方不明者は200名だったとか。
つまり、根府川駅は二度海に沈んだ、という訳です。
あぁ、荷物の話ですね。
高いお金を払って買った物ですから、みすみす海に沈めるのは勿体無いですからね。
返してもらいにいきました。
朝の5時に。
寝不足と、体験したことも無い災害で動転していたのでしょうね。
店に行っても誰も出てきません。
仕方ないので、勝手に取らせてもらう事にしまして、えぇ。
勝手知ったる馴染みの店内、鍵の場所だってお見通しです。
一通りのチェックをして、異常が無い事確認して帰りました。
今思えば、酷い事をしていますねぇ。
火事場泥棒とあまり変わりがありません。
6時前でしたかねぇ。
サイレンが鳴り響きまして、6時から重大な放送があるのでテレビかラジオで聞くように
というアナウンスがありました。
驚いたことに、どのチャンネルも同じ内容でした。
首相官邸のプレスルームが映し出されているのです。
やがて、内閣総理大臣その人が現れたのですが、徹夜開けらしくやや憔悴した顔と足取り
でして、手には分厚い原稿を持っておりまして、すぐに演説が始まりました。
『日本国民の皆さん、おはようございます。内閣総理大臣の畑中辰二郎です。皆さんご存
知の事と思いますが、日本時間の昨夜7時頃、南極におきまして異常事態が発生し、今ま
さに世界的規模で未曾有の大災害が起きつつあります。この緊急事態に際して、日本政府
から国民の皆さんに、お伝えしなければならない事とお願いがあります。まず、南極で何
が起こったか不明ですが、南極の氷がほとんど海洋に流出しているのは間違いありません。
したがって海面の上昇は一時的なものではありません。次に、津波についてはその水位の
上昇と相まって高さ100メートルを超えている可能性もあり、避難の際には可能な限り高
所へ避難してください。津波の日本到達予想時刻は本日夕方7時。海流や波動の干渉など
により、第二波、第三波の可能性もありますので、安全宣言が出るまで、決して海に近付
かないでください。また、地軸の捻れも起こっており、マントルの対流に影響が出てプレ
ートの移動が起これば地震・火山活動が活発となるかも知れません。地震大国・火山大国
の日本はその危険が特に強く、一層の注意が必要です。次は国民の皆さんへのお願いです。
この世界的規模の大災害に対して、被害を最小限に抑えるために日本政府はいくつかの対
策を立てました。それを効率よく実行するためには、皆さん一人一人の協力が不可欠です。
その中には、一時的とは言え、皆さんの自由や権利を抑制するものがあります。しかし、
それをしなければ日本は、無秩序の、混沌社会になりかねない危険があるのです。戒厳令
と呼ぶ人もいるかも知れません。なんと呼ばれても結構です。一定期間、この秩序を維持
してもらえるならば、私、畑中辰二郎、喜んで国会議員を辞職致します。…具体的には、
地方自治体を通じて新聞、テレビやラジオ放送でご確認ください。繰り返しますが、一人
でも多くの人命を救うために、身勝手な行動は控えてください…』
いや驚きましたねぇ。
それまでは、地味な印象しか無かった政治家だったんですが。
そういえば新聞が届いていませんでしたが、そういう訳だったんですねぇ。
しかし困った事になりました。
女房をどうやって東京に行かせるか、です。
高速道路や幹線道路は、自衛隊が道路封鎖をして重要物資や病人等の移送を行うと言うし、
列車では手荷物を少なくしなければならない。
第一、無事に立川に行けるのかどうか…。
子供じゃああるまいし大丈夫ですよ、と女房は言いましたが、どうにもねぇ。
とりあえず小田原駅に問い合わせて、発車時刻や空席情報を問い合わせてみました。
なんとか切符を予約すると女房は朝食の準備を始めていました。
お米を洗う音。
トントンという包丁の音。
鍋や炊飯ジャーの煮こぼれる音。
女房の鼻歌。
聞きなれた朝の音楽会が、キッチンからしています。
その音を聞きながら、私は27年間の結婚生活を振り返っていました。
自分の人生の半分以上を、私は女房と生きてきているのです。
その時間の中で、女房と離れて暮らすのは数える程しかありませんでした。
出産で入院した時と、両親が鬼籍に入った時、くらいでしょうか?
長いような短いような、時間とは不思議ですねぇ。
ご飯ですよ、と言う女房の声に我に返るとテーブルの上に朝食が並んでいました。
豆腐のお味噌汁に炊きたてご飯、納豆と塩昆布、それからタクアン。
テレビから流れる南極関連のニュースを尻目に、私達は平和な朝のひと時を過ごしました。
朝食を終えると、女房は身支度を始めました。
私は荷物の準備です。
それから、息子の家に連絡をして見ましたが、電話がつながりにくくなっていましてね。
外に出て、公衆電話から何とか連絡ができました。
午前9時、出発の時間になりました。
根府川駅に着くと、駅舎には20人程が居ました。
私達は、駅前にある桜の樹をしばらく眺めてからホームに出て、今度は海を眺めました。
根府川駅も思い出の詰った場所です。
初日の出を眺めに来たこともありますし、新婚旅行に行く時、派手に見送られたのもここです。
女房がのんびりとした声で、キレイな海ねぇ、なんて言いながら海を見ていました。
私が、それも見納めだ、と言いますと女房がこう言うのです。
少しくらい眺めが違っても、海の大きさに変わりはありませんよ。
理由は解りませんが、その時私は猛烈に感動しました。
電車は満員でした。
熱海や伊東などの観光地から、急遽引き返す人達であふれていました。
皆、自宅や家族、職場の心配をしていました。
こうして大勢の人の中にいると、集団心理のせいか急に不安になってきました。
ふと女房の方を見ると、車窓から海を見て、ここの海もきれいねぇ、などと言っています。
私は呆れつつも感心しまして、こういう女房だから幸せだったんだなと再確認できました。
小田原駅はさらに混雑していました。
箱根の観光客が一斉に引き上げている様子でした。
なんとか「快速アクティー」に乗り込み発車を待ちます。
東京まで、約1時間。
周りの喧騒に惑わされる事無く、女房と思い出話をしながら東京を目指しました。
東京は、混乱していました。
交通規制のため、市民の足は電車・地下鉄に集中しており、各地からの帰省客も加わって
大混雑しておりました。
さらに東京湾周辺や荒川・隅田川の海抜0メーター地域、山の手台地など確実に津波の
被害に遭う地区の人々が避難を始めていまして、辺りは荷物を抱えた人で一杯でした。
行列とおしくらまんじゅうの末、私達はやっとの思いで中央線の電車に乗り込みました。
東京駅から立川まで、約40分。
殺伐とした雰囲気と推測の域を出ない噂話と人いきれの中、私達は手を握り合い黙ってい
ました。
根府川ではあんなに穏やかだった空気が、東京では感じられませんでした。
それは刻々と迫る『その時』のプレッシャーなのか、はたまた避難民の切迫した雰囲気が
生み出した緊張感なのか…私には未だに解りません。
ひとつだけ解っていた事は、間違いなく『その時』が訪れるという事。
女房と根府川に居たならば、あるいは直前までのんびりと茶などをすすっていたでしょう。
それはそれで苦しみの無い、幸せな一生だとも思いますが、それでは皆さんとこうして逢
う事も無かったのですから、やはり生き延びた事に感謝しなければなりませんねぇ。
そうこうしているうちに電車は立川に着きまして、私達は徒歩で息子の家に向かいました。
この辺りでは避難する人はやや少なめでした。
海抜100mを超える地域が多いし、少し移動すれば多摩丘陵や武蔵野台地があります。
私はほんの少しだけ、気持ちに余裕が出たような気がしました。
人間、穏やかにゆったりとしていたいですねぇ。
さて、無事に息子宅に着いたらヨウイチが出迎えてくれました。
伝い歩きならできますが、まだまだ独り歩きはできないと聞かされていたのですが。
そのヨウイチが、じぃじ、ばぁば、と言いながら玄関まで歩いてくるではありませんか!
驚きましたねぇ、うれしかったですねぇ。
なんでもその前の晩、テレビを見ていたら急に立ち上がって歩いたとか。
女房も私も、津波の事など忘れそうになりましてね。
慌てて荷物…非常食や女房の着替えとヨウイチのための布オムツや洋服など…を渡して
私は根府川に戻る事にしました。
ヨウイチの声に後ろ髪を引かれはしましたが、まだ根府川でやらねばならない事があった
のです。
すると女房が追いかけてきて、指輪を差し出してこう言いました。
あなたは淋しがり屋だから、これを私だと思って持っていてください。
その代わり、あなたの指輪を預からせてちょうだい。
…私も、淋しがり屋ですからね。
すっかり落ち着いたら、また相手の指に戻してあげましょうね。
私は、年甲斐もなく女房を抱きしめ…そのですね、往来で、せせ接吻をしてしまいました。
いやこりゃ恥ずかしい話をしてしまいました。
そんな風にドラマの一場面の様な別れを済ませて、私は独り、根府川へと戻りました。
帰りの電車内も人ごみは相変わらずでした。
郷里があり、津波の心配が無いならばそこに還ればいいのですが、海沿いだったり、その
郷里が無い人達は、ただ漠然と高い場所へ向かっていたのでした。
これから向かう場所がはっきりとせず、しかも希望が見つからない場合、ヒトはどんな
気持ちになるんでしょうねぇ。
泣き続ける子供。
あやしつける母親。
あからさまに迷惑そうな顔をしている周囲の人。
怒鳴り出す父親らしき人。
つられて泣き出す周囲の子供達。
誰にとも無く怒鳴り出す男性と、かん高い叫び声でやり返す若い女性。
こんな出来事さえなければ、それなりに良い人間として暮らしていたであろう人達。
何かが少しずつ崩壊していく予感がしました。
東京駅に着いて、時間粒はのために待合室でテレビを見ました。
緊急事態に備えて、何台か乃テレビがあちこちに取り付けられていました。
そのテレビで、とんでもない光景を見たのです。
『こちらは首都高速都心環状線・芝公園ランプです。車を使って東京を脱出しようという
人達と道路封鎖をしている自衛隊との間で緊張が高まっています』
先頭で怒鳴っている、いかにも『その筋の人』とわかる男性にカメラが寄る。
『お前らの給料は誰が払っていると思ってんだ。国民様だわな。その国民様の役にも立た
んとは、公僕失格だ!』
歓声が上がる。
『重病人なんぞ、どうせ助からん奴らより、元気なワシ等こそ避難させんといかんのと違
うか。なんとか言うてみぃ』
『何度も申しますとおり、災害後の復旧に向けての資材や、原発燃料を含む危険物の移送
に高速道路や幹線道路が使用されています。そこで渋滞や事故などが発生いたしましたら
取り返しのつかない事態になります。国民の皆様には大変不自由ではありますが、なにと
ぞ緊急時である事をご理解のうえ、一般道、鉄道などをご利用いただきます』
『ラチがアカンな…強行手段に訴えたる。おい!このままバリケードを乗り越えるかぁ!』
男性が後続の集団に声をかける。
歓声が大きくなっていく。
『田中一等陸士!拳銃の使用を許可する。構え!他の者は小銃の安全装置解除』
装甲車の近くに居た兵士が、腰のホルスターから拳銃を抜いて構える。
『最後の説得を行う。命令があるまでそのまま待機。…今は世界的規模での災害時であり
一個人の無責任なわがままを聞いて、他の人命・財産を危機にさらして良い場合ではあり
ません。どうか規律ある行動を…』
『そんなモン知った事か!ワシはやりたい様にやるんじゃ』
『発砲を許可する。足を狙え』
ぱァん!
右の太桃を押さえてうずくまる男性と、一瞬、静まり返る周囲の人達。
『良かったですね。これであなたも重傷者です。救急車に乗って避難ができますよ。
ただし、この渋滞を乗り越えてここまで来られるか解りませんが』
指揮官の声に、苦痛に顔をゆがめ後ろに向かって叫ぶ男性。
『お前ら、邪魔だ!早く車をどけろ!』
だが誰も車を動かさないし、動かせない。
男は泣きそうな顔をして、足を引きずりながら坂道を降りていく。
理由はともあれ、自衛隊が市民に向かって発砲した。
しかもマスコミの前で。
これは驚くべき事でした。
当時の自衛隊の行動には、かなりの権限が与えられている模様で、この一件があってから
自衛隊に対する見方を変えた人は多かったですね。
ともあれ起立を守っている限りはトラブルは無かったようで、それは安心できました。
なにしろ、無秩序が一番恐ろしいものだと、私は考えていましたから。
無秩序は、人格の後ろにある『もう一人の自分』を垣間見せてしまいますから。
周りの人達の反応はさまざまでした。
起こる人、毅然とした行動をほめる人、自衛隊の行動には制約を設けるべきだという人。
しかしその場に居た人達がじんわりと、朝の総理の言葉をかみ締めていたと思います。
『…一時的とは言え、皆さんの自由や権利を抑制するものがあります…』
発車時間が来たので、駅の売店で新聞を買い電車の中で読みました。
朝の総理の緊急会見の全文と、私達が災害に備えて行うべきこと、災害後に行うことが
書かれていました。
身分証明書(運転免許証・保険証・パスポート・年金手帳など)の確認と所持。
家族・親類縁者の安否や行方についての問い合わせ方法について。
通帳への残高記帳。
一定期間の預貯金の引き出し凍結について。
地域による避難場所の確認。
災害発生からの一定期間に行われる、生活物資の配給制度について。
災害による離職者の再就職について。
災害の予想範囲と復興作業の予定について。
…その他さまざまな項目がありました。
根府川に戻った私は早速指示された通りの事をしました。
そして自宅に帰って荷造りです。
独りになった我が家は、広くて、寂しいものでした。
私は女房から預かった指輪をお守り袋に入れ首にかけると、のろのろと作業を始めました。
古い日記や手紙などが出てくると、つい読んでしまって時間ばかりが過ぎて行きます。
そういったものは一まとめにしてゴミ袋に詰め、スコップで庭に穴を掘って埋めました。
いつか、きっといつか取りに戻る日を信じて。
持ち出したのは無線機一式と非常食、アクアラングに着替えを一週間分、懐中電灯に電池
ラジオにナイフ、キャンプ用具一式、そして古いアルバムが一冊でした。
女房の若い時の写真がありましてね、大切なものですから…。
朝食の残りのお味噌汁を温め直して遅めの昼食を取り、もう一仕事です。
山の中腹にあるお墓の掃除に行き、ご先祖様に報告しなくちゃなりません。
お線香とお水、そして果物をお供えしてお経を唱え、お詫びをひとつしておきました。
しばらくお参りにこられないかも知れません、とね。
そしてお位牌を墓の中に預かってもらいました。
だから私の家には仏壇もありません。
…ああ、辛気臭い話になりましたねぇ。
そんな雑事をしてから、いよいよ避難です。
始めは江之浦にでも非難するつもりだったのですが、陸の孤島になりかねない、という理
由で、小田原城ゴルフ場を指定されました。
テントやプレハブ住宅が用意されていて、まぁ、雨露の心配はなかったですね。
もちろん、クラブハウス内も利用可能でしたが、ご婦人や子供、お年寄り優先です。
やがて西の山に陽が沈み、夕闇が箱根の山を覆いつくしていきました。
周りが暗くなるに従い、みんな不安になったのでしょう。
誰とは無しに集まり、そして他愛の無い話を続けていました。
ラジオからは宮古・八重山諸島や硫黄島で80mの津波が到達し、沖縄にも津波が押し寄せ
始めた事を伝えていました。
マスコミ各社は東京を放棄し、被害の少ない内陸部にキー局を移転させている様子でした。
世界のニュースは断片的になり、通信網の混乱が噂されていました。
やがて日本も、世界から孤立してしまうのでは、という不安は誰もが持っていたようです。
海鳴りがし始めました。
どどどど…と言う、地響きの様な、雷の様な、とにかく大きな、地面さえ揺すられる様な
音でした。
誰かが、来た!と叫びました。
薄暗くなった海を、何かが進んで来ていました。
海岸線に残った街灯や建物の明かりが次々に消えて生きました。
波に、飲み込まれて行ったんですねぇ。
後で伝え聞いた話では、逃げ送れた人や有害物質の点検のために、ぎりぎりまで街に残り
職務を果たしていた人達が大勢いたんだそうです。
警察・消防・自衛隊・警備会社・工場責任者…多くの人がその職務を果たすために、正に
命がけで働いていたんですねぇ…。
そんな話が、日本中あちこちで聞かれたそうです。
根府川も、予想通りほぼ水没してしまいました。
あろう事か、地盤の脆弱だった場所は津波によって土砂が押し流され、引きずられ、海中
に消えてしまいました。
私は、いえ、私達は長年住み慣れた故郷を失ったのでした。
ラジオからは、感情を押し殺した声が、淡々と被害を告げていました。
時間が経つ毎に被害が大きく広範囲になって行きます。
海岸沿いの都市は甚大な被害を受け、それに伴い行政・製造業・金融業・商業・流通業
など多くの分野で予想以上の被害になっていました。
核燃料の抜き取られた原発の被害は少なかったのですが、火力発電所はほぼ全滅ですし、
燃料が海洋汚染を起こしました。
四方を生みで囲まれた日本にとって、海洋汚染は大変な被害です。
近海での漁業ができなくなりますからね。
輸入しようにも、他の国も被害を受けていますし、何より港が水没しているのです。
工場が無くなり、輸出入が行えず、燃料も残り少なく、食料の自給率が低い…。
何年か先の日本を予想して悪寒を覚えたのは、私だけではないはずでした。
そしてそれこそが、災害後の混沌を生む原因になったのです。
将来に対する不安が、じわりと皆の心に生まれていったのです。
大きな津波は、三度観測されたそうです。
夜の闇が薄れ大災害の惨状を目の当りにした私達は、絶望感に打ちのめされました。
形を変えた海岸線、どす黒い油が広がる海、遠くに見える黒煙…。
海洋汚染を防ぐ為の薬品を投下するのでしょう、爆音を轟かせてヘリコプターが海に向か
って飛んで行きました。
小田原でさえこうでしたから、工業地帯の海は、さぞや大変だったと思います。
さまざまな薬品や化学物質が日本の海・川に散乱したのですから。
しばらくは魚を好んで食べる人ははありませんでしたねぇ。
水死者も出ましたし、あの、言い難い話ですが、魚が突っつくらしいんです。
話を変えましょうかねぇ。
海といえば、日本中の海岸線で異様な光景が見られたそうです。
遠浅の海で、しかも平野部の海岸線に、船が並んで座礁していた、と言うのです。
なんでも転覆して沈むより、座礁した方が修理や再利用に都合が良かろうとの理由だった
らしいのですが、打ち上げられた鯨みたいだったそうです。
造船所だって被害に遭っていますから、簡単ではなかったと思いますがね。
海岸に急造の工場を作って、連日連夜の突貫作業だったそうです。
海洋国家・日本にとって、船は欠かせないものですからねぇ。
もちろん、飛行機は残っていましたし、速度では圧倒的な違いがあります。
しかし物資の輸送という事を考えるならば、まだまだ船は主役なのです。
そういえば、造船工場が無傷で残った地域もありましたねぇ。
いえ、日本ではありません、ソ連の黒海です。
あそこには黒海艦隊の母港があるのですが、造船工場もありましてね。
海と呼ばれていても、内陸部の大きな湖みたいなものですから、津波の影響も少なかったのでしょう。
アメリカの海軍欧州軍・第6艦隊が緊急避難として逃げ込んだくらいですからねぇ。
おりしも中東情勢が緊迫し、空母2、イージス巡洋艦4、イージス駆逐艦3、フリゲート艦
3を含む空母戦闘群がソ連の一大拠点に肉迫したのです。
あ、いえ、緊迫はしましたが、武力衝突などはありませんでしたよ。
まぁこの様な地理的条件がソ連の造船業に幸いしまして、各国からの軍用・民間用船舶の
建造を引き受け、傾いていたソ連経済を立て直す牽引力となったのです。
この様な例は各国にもありました。
特に大陸国・内陸国は津波の影響はありませんでしたから、セカンド・インパクトからし
ばらくの間、世界の製造業の大部分を占めたのです。
無論、それは周辺の国々にとって良い事ではありましたが、人間の欲望を刺激するには
十分だったのです。
様々な理由を挙げて人々が争いを始めるのに、あまり時間は必要ではありませんでした。
日本も例外ではありませんでした。
先程も話しました通り、私は小田原城カントリークラブの避難所にいましたが、そこに避
難していた人達が日が経つに連れ、減って行ったのです。
これは内陸部の箱根を筆頭に、御殿場、甲府、諏訪などに移動した訳ですが、地元の住民
との軋轢があったらしいですね。
善良な人達もいましたが、そうでない人達もいたのです。
日本はムラ社会ですから、非常時の、他所者に対する風当たりは強かったのです。
そんな場所で犯罪が発生したら、弱い立場の他所者が一番に疑われます。
実際にセカンド・インパクト直後から、全国を泥棒行脚する集団が居たのは事実です。
警察も自衛隊も、治安維持に粉骨最新努力しておりましたが、やはり人手が足りません。
徐々に、人心麻の如く乱れていったのです。
配給がある内はまだマシだったのですが、一ヶ月も過ぎた頃から、次第に足らないモノが
出て来ました。
いつの時代も地価経済と言うのは有るもので、不思議な事に世間では無いモノも、ちゃん
と売られていたりするのです。
ただし、高価です。
昔、父親が話していた『ヤミ市』ですねぇ。
需要と供給の原理から言えば、人気のある物は高値になって然るべきです。
が、生活必需品となると話は別なのです。
そのために国が、それらの値段をコントロールしているのです。
無論、弊害もあるのですが、それはまた別の機会に…。
着の身着のままで避難した人達が、簡単に買えるものではなくなりつつありました。
物資の保管倉庫に忍び込んで撃たれた者も居たそうです。
持つ者と持たざる者の格差が生まれて行きました。
私もこんな体験をしました。
その頃の私は、職場である学校が水没し、生徒達もばらばらになっていて授業などありま
せんでしたから、配給や避難所作りの手伝いや、無線を使った安否確認のボランティアな
どをしておりました。
女房も立川で同じ様な事をしていまして、仲間内で『立川ローズ』などと呼ばれていまし
てねぇ、ふふふ。
そんなある日、でかい四駆を連ねた一団がやって来ました。
男女とり混ぜて六人。
家族ではないようですし、こんなご時世に何をするのだろうと訝しんだものでした。
車の後ろにはモーターボートまで牽引していました。。
何でも、こんなご時世なので道楽を極めて死にたいと思い、新旧取り混ぜたダイビングス
ポットを回っているのだとか。
水没した都市などは格好の場所なのだそうです。
非日常的な風景と、未知の世界にある危険というスパイスを味わいたいと言いました。
そういえば、廃墟巡りなども流行った事がありましたねぇ。
どうやらかなりのお金持ちらしい様子でした。
何より燃料を潤沢に使えるのですから。
日本は石油をほとんど輸入に頼っています。
原油の輸入がストップしてからおよそ二週間、そろそろ備蓄分が心許なくなる頃でした。
ヤミ市のガソリンと言うことも考えられますが、それだってお金がかかります。
退廃的な楽しみだと、その時はそう思いました。
このあたりの「名所」を聞かれたので、二度海底に沈んだ根府川駅舎や、海岸線のトンネ
ルなどを教えておきました。
彼らは陽気に山を下り、そしてダイビングを楽しんだ様子でした。
夕方になって彼らが戻って来ました。
良い場所を教えてもらったお礼に、夕食をご馳走すると言うのです。
そこで食べた新米は美味しかったですねぇ。
彼らは今度は小田原に行くそうで、地図を丹念に調べていました。
その時簡単な街の案内をした事が、あんな事になろうとは考えてもみませんでした。
次の日の夜、男がまた訪ねて来ました。
何でも些細な事から県下が起こり人手が足りなくなったらしいのです。
ダイビング中、ボートを操縦する人間がいないのだとか。
食料と交換条件に引き受けました。
私が無線機とアンテナを用意すると、車で石垣山の神社まで連れて行かれました。
そこで女房に定時連絡をして明日の打ち合わせです。
明日は小田原城の探検の予定でした。
翌日、私は信じられない光景を見てしまいました。
彼らのダイビングの目的は探検などではなく、泥棒だったのです。
水没した街の銀行や貴金属店などを探し、現金はもとよりお金になるモノを引き上げてい
たのです。
無論、いつも必ずお宝にめぐり合えると言うものでもなかったようですが、それでも生活
必需品は山ほどあったのです。
服は水で洗えば問題ありませんし、缶詰・瓶詰めなどはまだ十分賞味期限があります。
シャンプーだって洗剤だって、海底には山のようにあったのです。
ただ、危険もありましたがねぇ。
彼らは喧嘩ではなく、この危険によって人数が減ったのです。
そして人手が足りなくなれば、私のように「スカウト」してくる訳です。
視界の悪い濁った海中で、時間に追われながらひたすら宝探しをする。
一日中、何度でも何度でも…。
潮流の変化で流されたり、ビルが崩落したりするかも知れない恐怖と戦いながら。
驚いた事に彼らは爆薬まで用意していました。
銀行の金庫からは紙幣が持ち出されている事が多かったのですが、貸し金庫は借主がその
ままにしておかねばならなかったので手付かずでした。
現金、株券、有価証券、貴金属、拳銃、麻薬…実に様々なものがありました。
何日もかけて、小田原の街を荒らしまっていました。
その事実を知った日から私は、身分証明書を奪われ、彼らに軟禁されたのでした。
あの頃、身分証明書の再交付は難しく、配給を受けるためには不可欠でした。
たった一つの自由は、女房への定時連絡のみで、余計な事を喋れば殺されていたでしょう。
時には、交代要員として私も潜らされました。
ヘドロと土砂と工場の排水とゴミで視界がきかない中、水中ライトを頼りに宝石店のショ
ーウィンドーから宝石をかき集めたりしました。
何度も何度も、繰り返し繰り返し、酸素ボンベが空になれば新しい物を背負わされて。
一日が終わり、寝ようとしても吐き気と頭痛が治まらずうなされ続ける日々が続きました。
あの頃から、私の脳細胞は破壊され始めていたのかも知れませんねぇ…。
小田原の後は平塚、茅ヶ崎、藤沢と移動しました。
女房には、秘密の暗号で緊急事態だが心配するな、と伝えていました。
学生時代、無線で呼び出す時にパターンを決めていたのです。
女房も、よくあんな遊びを覚えていたもんですねぇ、感心しましたよ。
…そんな生活をしながら私は10月13日を迎えたのです。
10月13日、夜9時。
定時連絡をしている時に、女房の声が消え、いきなり雑音が入りました。
女房のリグの電源が落ちたのかと思い、しばらく待ちましたが反応がありません。
突然、御岳山固定の人から連絡がありました。
東京が、立川辺りが燃えている!
スピーカーから、そういう声が聞こえました。
その後しばらく、私の記憶はありません。
あの集団からどのようにして逃れ、どこをどうやって行ったのかは解りませんが、私は
立川の廃墟で彷徨っている所を保護されました。
その日、未だに詳細が判明していない「東京消滅」が起こったのです。
ある国のミサイル攻撃だとか、新型爆弾が投下されただとか言われていますが、未だに何
ひとつ判明していないのです。
少なくとも、私達には知らされていません。
あの日から私は、ただその一点を解き明かすために生きて参りました。
それが解った所で、女房が生き返る訳ではありませんが、私にはそれを解明する義務が
あると思います。
セカンド・インパクトを生き延び、東京消滅を目の当たりにし、それでも生き永らえた
人達が居ます。
あの激動の時代を生き抜き、皆さんを育て上げた人達がいます。
たった15年で日本を、世界を復興させた人達がいます。
その人達の行った事に比べれば、取るに足らない、個人的な理由ですが、あの出来事の真
実を見つける事、それが私の生きる目的なのです。
…おや、時間が来てしまいましたか。
では今日の授業はこれまで。
騒がしくなった教室を後にする老教師の胸ポケットが小刻みに震える。
たどたどしい手つきで携帯を取り出すと、番号を確認して電話に出る。
『もしもし、赤木です。授業は終わりましたか?』
聞き慣れた女の声。
『これはどうも博士。今、終わりました。今日はどんなご用件でしょう?』
普段から昼行灯として振舞っているせいか、誰もこの老教師を意識しない
『先日提出して頂いた月例報告について、いくつか質問があるのですが、お時間は?』
『6時にはそちらに出頭できます』
『ではそのように』
電話が切れ、老教師は携帯を胸ポケットにしまう。
「根府川先生」と呼ばれている男の職業は、中学の数学教師である。
だが彼の「任務」は、ネルフ諜報課の一員として、コード707においてエヴァンゲリオン
パイロット及びパイロット候補者の観察と分析を行い、赤木リツコ博士に協力してE計画
の遂行を補佐する事である。
続く…か?
「根府川先生物語」面白かったです。サンクス。