177 :
名無しが氏んでも代わりはいるもの:
「以上のように、特に問題はありませんでした」
愛人の科学者がビジネスライクに『被験体』の検査結果について結論を告げると、彼は内心の動揺を悟られないよう、いつものように一呼吸置いてから重々しく告げた。
「そうか。後は頼む」
はい、と簡潔な返事を残して愛人……赤木リツ子博士は『被験体』の少女を連れて検査室を去った。
二人の後ろ姿が扉に遮られるなり、彼の表情に激しい苦悶が浮き上がった。
この計画を始動して以来、ついぞ見せなかった人間的な表情である。彼は奥歯を食いしばり、両の拳が戦慄くほど握り締めていた。
「おおおおおッ!」腹の底から絞り出すような呻きが、男の口から漏れる。
肺腑の中の空気を全て呻きに変えて吐き出すと、一転して彼は自虐的な弱々しい薄笑みになった。
「浅ましいな、俺は」短く呟く。
彼は『被験体』の少女に欲情してしまったのだ。
実の息子と変わらぬ身体年齢、すなわち14歳の少女に。その圧力は凄まじいものだった。
LCLを充たしたシリンダーに浮ぶ少女の、一糸纏わぬ白い裸身を目にした途端、彼の股間は猛々しく屹立したのだ。それを愛人に悟られまいと、彼は必死だった。
早く検査を終え、二人が目の前を去ってくれることだけを検査の間中祈り続けていた。
どうかしている。俺は、どうかしている。どうして『写し身の人形』なんぞに、俺は……
肉欲は、充たされているはずなのだ。彼が望めば赤木リツ子はいつでも身体を開いてくれる。
現に昨夜も彼女を抱いたのだ。今日の実験の準備に忙殺される彼女を食事に誘い、そのあとつかの間の情事に浸ったのだ。それなのに……
否定するのは茶番である。『写し身の人形』であること、それがそもそもの理由なのだと、彼は始めから承知していた。つまり少女は、彼の亡き妻に似過ぎているのだ。
髪の色、瞳の色、年齢、話し方、それらは確かに妻とは違う。
しかし妻の自己イメージを基にサルベージされた被験体の少女は、その面立ちも声も、つまり目に見え耳に聞こえる姿は、妻と変わりないのだ。
依り代として使い捨てるだけの人形、そんなモノに情を移す自分を恐れたからこそ、打ち捨てられた廃屋同然のマンションに少女を住まわせ、最低限の接触以上は持たないようにしてきたのだ。
だが、彼は自分の抑制が決壊してしまったことに、きょう気づいてしまった。
「浅ましいだけでなく、醜い。そう思わないか、ユイ……」
自虐的に妻の名を口にした瞬間、彼の中で亡き妻碇ユイと被験体の少女綾波レイが完全に重なった。
もう、駄目だ。
心のうちでそう呟きながら男は壁の時計に目を走らせた。もう10分もすれば、レイは赤木博士の執務室を出る筈だ。その後の行動は判っている。更衣室で学校の制服に着替え、一人で、あの廃屋と化した団地に帰るのだ。男はもうじっとしていられなかった。
10分……ちょうどこの部屋から自分の執務室に戻るのに丁度いい。彼は急き立てられるように検査室を後にした。