362 :
つづくない:
Black Long Hair-side
最初からすんなりとはいかなかった。
安穏な方法は採れなかった。
初めての告白。穂乃香さんは笑ってくれた。
皆は穂乃香さんのためと言った。
皆は誰の演奏で歌うかわかっていなかった。
私は皆の身勝手さに、何も期待しなくなった。
私は間違えて、恩人を追い出そうとした。
それでも、私はこの椅子に座る。
ちゃんと、フミたちへ後を任せるために。
フミ、さようなら。私はこの時をもって、音楽部を後にします。
穂乃香さん、ありがとう。私を許してくれたことを、忘れません。
私はちぎれた音楽部で、たった1人の大事な人を見つけました。
たとえ貴女との繋がりが、ちぎれたとしても。
私は忘れません。
さようなら、穂乃香さん。ありがとう。
私は、もう大丈夫。
だから次も、一緒に歌ってください。
Doe-side
真紀先輩が席を離れ、合唱団へ。
ソプラノと、アルトの、境目。
隣り合う、真紀先輩、穂乃香さん。
一瞬2人は、笑いあっていた。
椅子を直し、座る。
80と幾つかの、鍵盤。
譜めくり要らずの、楽譜シート。
あの時、1年前と同じ。
ああ、私はやっと、この椅子に座れた。
穂乃香さんはこの曲を選んだ。
真紀先輩から聞いた、その理由。
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363 :
つづくない:2013/10/15(火) 00:19:48.09 ID:5eiux62n
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この曲はね、独りなんだ。
美しいものとか、メロディとか、まぶしさとか。
兵士とか、産声とか、地球とか。
鳥とか、海とか、かたつむりとか。
いろんなものに触れはしても、いろんなものを感じはしても、
何かをしようとしたり、何かを付け加えたりはしないんだ。
私はね、ぼくたちわたしたち、なんて整列したように美化したり、
わざわざ考えなしの大自然にペコペコ頭を下げたり、
そういう仰々しくて、わざと取り付けたような歌詞は、
好きじゃないんだよ。
どれだけ考えても、どうやっても、
私だけじゃ、そんな尊大な心持ちになんて、絶対ならないから。
どんなものに触れて、どんなものを感じても。
それは私の中でだけ渦巻いていて、
それに私ごと呑み込まれる事はできないから。
私は兵士になれないし、かたつむりや海にもなれない。
誰かの気持ちや考え方に、私の全てが呑み込まれることはできない。
それは私以外にとってどうでもよくて、
それに私が誰かを従わせるようなことはできないから。
私には泣くなとも笑うなとも、怒るなとも愛するなとも言えない。
誰かの気持ちや考え方を、私が全て塗り直して従わせることはできない。
悪いことも、美しいことも、私の感じた通りにしか、ならないから。
ただ独り、自分の感じたことを、淡々と、整理するだけなんだ。
たった独りの弾き語りで、ただ感じたことを口にするように。
その中でね、たった2回だけ、この曲は歌うんだ。
手をつないで、ぬくもりを感じるって。
この曲をね、私は真紀と歌いたくて仕方がないんだ。
できれば、手をつないで、ね。
合唱団の、女声の境目。
前段のフミに隠れて。いつものように。
真紀先輩と穂乃香さんは、手をつないでいた。
私は2人と、合唱団と、弾く。
1年前から、ずっと考えてきた。
その仰々しい心持ちを、投げ捨てる。
私のピアノは、私にしか弾けないから。
観客席を見る。
2階席。スーツ姿の、トモキ。
ありがとう。
構える。
指揮が、振られた。
364 :
つづくない:2013/10/15(火) 00:22:59.40 ID:5eiux62n
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Suit-side
ナナオさんが目を見張る。
そう、これなんだ。ユカリのピアノ。
あの子犬のワルツ。
そう、これなんだ。ユカリの本気。
私があの時聴いた、子犬のワルツ。
私があの時一緒に聴いた、森の情景。
入部初日、真紀先輩とフミが歌った、この曲。
顧問から初めて合格が出た、この曲。
私がおととい聴いた、最後の練習。
これなんだ。ユカリの跳躍は。
この曲は、穂乃香さんが選んだ。
穂乃香さんが、自分の音楽部、その集大成として、選んだ。
その曲を、ユカリが弾く。
ユカリが、自分のピアノ、その集大成として、弾いている。
この曲は、ピアノのためと銘打たれた。
穂乃香さんが、真紀先輩と一緒に歌うために、選んだ曲。
この曲は、ピアノと合唱が、一緒に歌うためにある。
よせてはかえす、リズムに沿って。
ゆるやかに、たった2度、手をつなぐために。
それは、ソプラノとアルト。
それは、テノールとバス。
それぞれが、歌うということ。
いま、みんなが歌っていること。
ユカリの手は、温かくて。
うん。ユカリを、感じるよ。
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