「さやか、ぼく腕を切ったんだ……」
夕焼けの射し込む病室で、いつものように半身をベッドに預けた上條恭介が、口の端からこぼすような口調でつぶやいた。
その言葉に耳を傾ける者は、レースをたなびかせる穏やかな風を除いては、誰一人として存在しない。
それでも恭介は、甲斐甲斐しく世話をしてくれる心優しいあの少女へ向かって、一人つぶやくのをやめないのだった。
「さやか。さやかなら、またぼくのことを見てくれるよね? ねえさやか……」
涙の膜が恭介の瞳を覆い、やがてそれはひとしずくの液体となって、白い頬を伝い流れ落ちていった。
散々泣き明かしたのであろう、恭介の目は、生まれたてのおさな子のように赤く腫れ上がっている。
医師をして「演奏は諦めろ」と言わしめた恭介の腕は、事故の後遺症でバイオリンを弾くことなど不可能な状態だった。
にもかかわらず、どういうわけなのか、彼が夜中目をさますと、「事故など夢であったように」彼の腕は正確に動くようになっていた。
腕が意のままに動く。指が意のままに動く。
恭介の愛しい指たちが、恭介の指示を守って忠実に挙動するたびに、彼の心は、ついに捨て去る事のできたあの恐怖に再び締め付けられるのだった。
恭介は、わざと事故にあった。
彼はずっと悩んでいた。天才的なバイオリニスト。若き才能。音楽家としての華々しい将来――。
恭介を取り巻くそれらすべての羨望の眼差しが、彼自身の誇りでもあり、そして彼自身を縛り付ける重い鎖となっていた。
周囲の人間が恭介に「天才」を望む限り、天才であり続けようとする彼が休まる暇はない。
自分自身の才能に"底がある"のを感じ取った恭介は、心地よいだけだった羨望の眼差しが、いつしか刃物のように心へ突き刺さってくるのを感じた。
恭介は焦った。ぼくは天才でなくてはならない。こんなところでくすぶっていてはいけない。だってぼくは天才なんだから――。
失うのが怖かった。彼自身の誇りであるバイオリンの才能が陰り、虚栄心を満たす唯一の存在である"羨望"が失われていくのが、とてつもなく怖かった。
恭介は、ノイローゼにかかったようにバイオリンを弾き続けた。しかしバイオリンの旋律は、彼の焦りに色よい返事をすることなく、美しく拒絶の音色を突きつけるのみだった。
やがて重圧に耐えきれなくなった恭介は、ある結論にたどり着いた。「天才」の名を恣にしつつ、才能と羨望が失われていく恐怖から解放される方法。
自作自演の、事故。将来を嘱望された天才少年の、悲劇的な結末。可哀想な、天才の男の子……。
"天才"であり続けたまま周囲の関心を引き寄せつつ、才能への恐怖からも解放された恭介は、毎日のように見舞ってくる少女へ悲劇の主人公を演じるようになった。
奇跡か、あるいは魔法か。
「バイオリンを諦めろ」といわれたはずの彼の腕は、信じがたいことに、たった一晩で不可思議な完治を遂げた。
自作自演で満たされていた彼の心は、一度は去っていったはずの恐怖に、ふたたびさらされる事となった。
恐怖が、荒れ狂う津波のように押し寄せてくる。恐ろしいことに、満足に動かないはずの身体さえ、健康体の姿を取り戻していた。
いても立ってもいられなくなり、ベッドの中でひとしきり泣き叫んだ恭介は、やがて一つの決心と共にベッドから転げ落ち、脇に鎮座する棚へ救いを求めた。
棚の中には、見舞いに必要となる大小様々な道具が揃っている。その中で月明かりを反射していた果物ナイフを手に取った恭介は――。
抉るように、腕を切りつけた。
体の芯を凍らせるような恭介の絶叫が、深夜の病院内を駆け巡った。
騒ぎを聞きつけた看護師が彼の個室へ飛び込むと、そこには阿鼻叫喚の図が広がっていた。
恭介が、狂を発したように喚き叫びながら、一心不乱にナイフを腕へ突き刺していた。
赤く染まった彼の腕にぽっかりと暗い空洞が開き、そこから止めどなく血液が流れ続けている。
看護師から羽交い締めにされても、恭介は腕を切りつけるのをやめなかった。
恐怖を刺し殺すように、何度も何度も、もう二度と蘇ることなどないよう突き刺し続けた。
死の危険すらあったが、恭介はふたたび命を取り留めた。
周囲からは「動かない腕を悲観した末の自殺未遂」と噂された。意の通り、恭介はふたたび悲劇の主人公としての席に収まった。
今度からはもう恐怖が蘇ったりはしない。なぜなら、恭介は腕の腱ごと恐怖を刺し殺してしまったからだ。彼は満足していた。
医師が怒声を上げながら恭介をしかりつけた。もう二度とするな、君よりもつらい境遇の人だっているんだ。恭介は聞く振りをしながら、お前には何も分からない、と内心つぶやいた。
両親がやってきた。二人は病室の外から腫れ物を見るような目で恭介を見つめ、医師から病状の説明を受けて頭を下げると、そのままなにも言わずに去っていった。
「どうして! どうしてそんなことしたの!」
だから恭介にとっては、少女の悲痛な慟哭さえも予想しうる反応でしかなかった。
少女は恭介の肩を掴んで乱暴に揺さぶる。そうする度に、彼女の落涙が恭介の頬を叩いた。
ふてくされた調子で窓の外を眺めた恭介は、何度目になるかも忘れてしまうくらい言い慣れてしまった嘘を、得意の演技でつぶやいてみせる。
「こんな腕、必要ないんだ。バイオリンを弾くこともできない、ぽんこつの腕なんか」
「嘘だよ! 本当は治っていたくせに!」
落雷にも似た衝撃が、恭介の体を駆け巡った。どうしてさやかが、自分しか知り得ない事実を知っている?
心臓が、胸郭を破りそうなくらい激しく鼓動していた。視界の端が黒く沈んでいく。窓の外の景色が、急激に色あせていった。
そっぽを向いていてよかった、と恭介は思った。きっといまの自分は、とても酷い顔をしていただろう。
「奇跡も、魔法も、必要……なかったの? 私、おせっかいだったの? ねえ恭介、答えてよ、恭介……」
やがて少女は恭介の胸に突っ伏して、激しく嗚咽した。際限なく流れ続ける少女の涙が、恭介の患者衣をぐっしょりと濡らす。
「さやか、ぼくにはなにをいっているのか」
ようやく紡ぎ出した恭介の言葉は、動揺にかすれて裏返っていた。
恭介の精神は、動転に動転を重ねて混乱の極みに陥りつつあった。
それは、自分しか知り得ない事実をさやかが知っていたということよりも、奇跡も魔法も、彼女自身が引き起こしたような物言いによるものだった。
まるで、さやかが超常的な現象を起こして、ぼくの腕を治したみたいじゃないか――。
恭介が少女に真意を尋ねようとしても、彼女は首を激しく横に振って泣きじゃくるだけで、恭介の問いかけに答えようとはしなかった。
それでもしばらく経つと、泣き疲れたのかゆっくりと顔を上げて、恭介の顔をじっと見つめ、困ったような微笑みを浮かべる。
「ごめんね。やっぱりわたし、いやな子だったんだ。恭介のことなんかなにも考えないで、おせっかいだけで突っ走っちゃったんだ」
涙の跡を拭おうとすらせず、少女は頭を垂れてうつむいた。
恭介は思わず、動かす事のできる右手を彼女の頬へ添えようとしたが、その腕は跳ねるように動いた少女の手によってはじかれた。
「ごめんね、恭介。わたし、バカだから。恭介の気持ちなんてなにも知らないで、自分勝手な奇跡を望んで……」
赤く腫らした目でそれだけ言い放つが最後、ふたたび彼女は声を詰まらせ、逃げるように病室を去っていく。
恭介は少女の名を叫んだが、廊下を駆けていく足音はどんどん遠ざかり、やがては消え失せてしまう。
そこに少女がいた証拠は、丸椅子に残ったぬくもりと、恭介の体にしみこんだ涙の跡しかなかった。
それから何日も経った。その間、誰も見舞いに来なかった。
悲劇の主人公に戻れたというのに、誰も恭介のことを構ってくれなくなった。
ほぼ毎日病室へ来てくれていたさやかさえ、あれ以来恭介の見舞いに現れなくなった。
喧嘩別れしてしまったことを、いまさらになって後悔する。
「さやか、今日もきてくれないのかな。いつもなら、このくらいには来てくれるのに」
ひとりぼっちで時間を過ごす間に、彼は自分のしでかしたことの重大性を身に沁みるほど感じていた。
いまにして思えば、たった一度だけある復活の機会を、恐怖ごと殺してしまったのかもしれない。
一度音楽家として死んだ自分なら、今一度のチャンスで"本当の天才"として復活できたかもしれない。
そんなことを考えるたびに心が締め付けられて、揺れる思考の中にあの少女の笑顔が浮かんでくるのだ。
さやか。ぼくに甲斐甲斐しく構ってくれる、心優しい少女。ぼくが傷つけてしまった、いいにおいのする優しい少女。
なにも考えていなかったのは、ぼくの方だ。誰よりもぼくの復活を望んでくれていた、かわいい女の子……。
彼女が奇跡を引き起こしただとか、そんなことはどうでもいい。
ただ一つ分かっているのは、ぼくが彼女の気持ちを裏切ってしまったことだ。
バカなのは、ぼくの方だ。さやかはなにも悪くない。彼女の気持ちを理解して、いま一度蘇るべきだったのだ。たとえ"天才"でなくとも……。
さやか、ごめんよ。ぼくは、君の優しさに甘えてばかりで――。
ふたたび、彼の双眸から涙がこぼれた。夕焼けがやがて建物の影に隠れ、恭介の姿は薄暗闇の病室に埋没していく。
「さやか、寂しいよ。ここは、とっても居心地が悪いんだ。ぼくに構ってくれよ、ねえ、さやか……」
しわがれた声で、彼女の定位置である丸椅子に囁いた恭介は、やがて落ちてくる瞼に逆らえず、そのまま夢の世界へと誘われていく。
――今度、さやかが来てくれたらきっと謝ろう。
そう心の中でつぶやいた彼はその日、天才でも何でもないひとりの男として幸せに暮らしている夢を見た。その隣には、少女の姿がある。
心優しい少女がむごたらしく命を散らしたことを、恭介はまだ知らないでいる。