夕方5時。
別荘の掃除を一通り終えたメイベルは、使用人室に戻っていた。
狭い面積に小さな机と、2段ベットが詰め込まれているだけの、まるで囚人房のような部屋。
しかし彼女は豪華な装飾のある客間よりも、この場所に落ち着きを覚えるのだった。
主人が戻ってくるまでにはまだかなり時間があったので、
彼女は、家事をするうちに乱れてしまったまとめ髪をほどいて、そこに櫛を入れる。
髪の毛を気にするということはかつての自分からはおよそ考えられないことだった。
彼女は自分の変化をまたひとつ噛みしめ、机に立てかけた小さな手鏡を覗き込む。
―美しくなるにはどうしたらいいのだろう。
並の女性よりもずっと美しい主の顔をそばで見ていると、
彼女はこうしてすぐに、自信を失ってしまうのだった。
彼女は小さくため息をつき、彼に思いを馳せる。
今頃は仕事の相手と、会食でもしているのだろうか。
別荘で過ごしたこの2週間。かけがえのない、夢のような時間。
―でも、それも、今日でおしまい。
明日になれば二人は多くの使用人が待つ、屋敷に戻らなくてはいけないのだった。
もとの生活に戻れるのだろうか、と彼女は思う。
そして、彼の愛情に浸りきるようにして過ごしたこの何日間。
しかし屋敷に戻ってからのことを不安に思っても仕方がない。
時間が過ぎるのを惜しんでいる暇は自分にはない、と彼女は思う。
これから考えなくてはいけないことは、山ほどあるのだ。
鏡に映る、飾り気のない顔が、決意を固めるように唇をかむ。
これからの主との関係のこと、自分のこと、そして―
「ただいま」
その時、耳元で突然声がした。
心臓の内側が違和感で、ぞわりと跳ねる。
「ひゃっ!」
彼女は思わず大声を上げて振り向く。
「だ…っ!旦那様!」
そこには主の姿があった。
クリフは、仕事のときいつもそうするように、上等なスーツに身を包み、
髪の毛をオールバックにしていた。いたずらっぽい笑みを浮かべている。
「びっくりした?」
びっくりしたなんていうものではない、と彼女は思い、混乱した頭で考える。
なぜ、こんなところに、こんな時間に、旦那様が?
「ど、どうして、こちらに」
「どうしてって」
可笑しそうに口元を押さえ、彼は笑う。
「ここは俺の別荘だったと思うんだけど」
「あの、お仕事は…」
「今日は早く帰ってきたんだ、君とここで過ごせる最後の日だし」
「でもあの…か、鍵がかかっていた、はずでは…」
どこの屋敷でも大抵そうであるように、この別荘の使用人室にも、一応の鍵がついていた。
申し訳程度の、かんぬきのようなごく簡単な、しかし、内側からでなければ空かない鍵。
「この手のカギはね、ちょっとしたコツがあるんだよ」
手にかんぬきを持って、彼は鈴のように振ってみせる。
メイベルは目を丸くする。
「旦那様が、お…お開けになったんですか?」
彼は笑うと、まだ動悸がまともにおさまらないメイベルをよそに、
部屋の中をきょろきょろと見回した。
クリフは2段ベットに腕をひっかけると、
長い手足を折り込むようにして器用に屈め、下のベットに腰かける。
みすぼらしい簡素なベットと古い毛布の上にあまりにそぐわない、
その洗練された姿を見ていると、彼女は不思議な気持ちになる。
彼はメイベルに向かって両手を広げる。
「ほら、おいで」
こうして見つめられ、優しく呼ばれると、彼女は逆らえなくなる。
メイベルがその腕におずおずと体を預けると、すっぽりとくるむよう抱きしめられる。
見た目よりもずっと広い肩。主の匂い。
「というわけで」
「はい」
「今日は、君も、これで仕事はおしまい」
「…と、言いますと…」
「一緒に夕食を食べようと思って」
「ゆ、夕食…ですか?」
メイベルはまるで初めて聞いた言葉のようにそれをくりかえす。
「うん。それとも、もう食べちゃったかな?」
「いえ、私は…その、夜は…食事は採りませんので…」
彼は驚いたように、目を丸くして、腕の中の彼女の顔を覗き込む。
「え?夕食を食べないの?」
「あまり食べるのは、その…得意ではないんです」
メイベルは答える。
彼女は食が細く、貧しい生まれの者にしては珍しく、食べることも好きではなかった。
「道理で痩せてると思った。良くないよ」
「使用人はみな、そのようなものだと思いますが…」
「いや、みんな、結構隠れて食べてたりするから」
「旦那様はなんでもよくご存じなんですね」
彼女が感心したように呟いた瞬間。
クリフは突然、彼女の体をベットに倒した。
「きゃっ…!」
体を滑り込ませるようにして、クリフは彼女に覆いかぶさる。
突然のことにメイベルの思考は追いつかない。
彼はいつもそうやって、彼女に考える余地を与えなかった。
突然で、唐突で、驚かせるようなことばかりする。
狭い2段ベットの下は薄暗く、彼の顔は良く見えない。
「そう、なんでも知ってるよ」
耳に彼の唇が近づき、吐息が顔にかかる。
「君の体のことも、よーく、知ってる」
その艶のある囁き声に、胸の芯が締まるような感覚を覚える。
たまらずに彼女はきゅっと目を閉じる。
「綺麗な髪」
ほどかれたままの髪の毛をゆっくりと撫でられ、彼女は梳かしておいてよかったと、心から思う。
落ち着いたはずの心臓が鼓動を速めていく。体の芯がじわりと熱を帯びる。
この2週間、余すことなく彼に愛でられてきた体が。はしたなく分別を失った体が。
細胞を震わせ、彼に触れられることを、もうすでに望んでいる。
「だ、だ…んな、さま…」
「何?」
彼の顔がゆっくりと近づいてくると、彼女は金縛りにあったように動けなくなってしまう。
キスをされる、と思った次の瞬間。
彼は、彼女の額にこつんと自分の額を当てた。
「ごはんを食べようか」
キスを待っていた彼女は予想外の言葉に我に返る。
ごはん?
「洋服に着替えてダイニングにおいで」
戸惑いと物足りなさに支配され、彼女は困惑する。
その表情をクリフは満足そうに眺めると、思わせぶりな微笑を浮かべ再び彼女の耳元に唇を寄せた。
「続きはあとで、ゆっくりしてあげるから」
彼は音をたてて耳にキスをすると、あっという間に彼女の体から離れ、部屋を出て行った。
残された彼女は、ぼんやりと2段ベットの天井を眺める。
体にわずかに残った彼の重さ、体温、匂い。そして、耳に残る感触。
いつか彼に心臓を破裂させられてしまうのではないだろうか。彼女は真剣に、そう思う。
食卓を埋め尽くす多くの温かい皿の群。
どの皿にも、宝石のように美しく盛り付けられた食べ物が乗っている。
その食べ物が、口にしてみても、肉なのか、魚なのか、野菜なのかも彼女にはわからない。
コックが作る料理を運ぶことは数え切れないほどにあっても、実際に口にしたことは一度もなかったからだ。
ただ、ひとつわかるのは、それが恐ろしく美味だということだけ。
「大丈夫?」
彼は楽しそうに笑う。
左と右に、順序良く並ぶナイフとフォーク。彼女はそれらをうまく扱うことができず、悪戦苦闘を続けている。
「申し訳ありません、あの…見苦しい食べ方を…」
彼女はナイフやフォークは使ったことがなかった。
使用人の食事は大抵、手づかみで食べられるパンや、スプーンで救えるものばかりだ。
「料理はおいしく食べれば、それでいいんだよ」
彼は、天使のような完璧な笑顔を浮かべた。
「それ、似合ってるね」
彼女はクリフに贈られたワンピースを身にまとっていた。
花柄のいかにも女の子らしい服。
「そうしてると、全然いつもと雰囲気が違う」
「あ、ありがとう、ございます」
ただでさえうまく使えないナイフとフォークが、動揺でさらにカタカタと震えるのを、彼女は隠すことさえできなかった。
「とても可愛い」
彼は褒め言葉を、相手の瞳をまっすぐに見つめて、なんのてらいもなく口にする。
言葉を発するときも、受け取る時も、とても丁寧だ。
育ちがいいというのはこういうことをいうのか、と彼女は密かに思う。
「いつものメイド服もいいけどね」
彼が目を細めて笑う。彼女は夢ではないだろうか、と思う。
―使用人が旦那様と食卓を囲むなんて許されることではありません。
使用人室を出た後で、彼女は繰り返しそう伝えその誘いを断ろうとしたのだが、
彼は顔色一つ変えずにこう言ったのだ。
―俺には好きな女を食事に誘う権利もないのかな?
なんてずるい人なんだろう、と彼女は思う。
そんな風に言われて断われるわけがないことを知っていて、彼は言う。
一見提案の形をとっていても、彼の言葉を注意ぶかく考えると、それは多くの場合、彼女に拒否権のないものばかりだった。
しかし彼女はそれを不快に思ったことはない。
むしろ、そこにどうしようもない心地よさを感じていた。
そこには必ず彼の配慮や優しさが宿っていたし、同時に、メイベルは
彼がけして普段は人に見せないようなそのわがままさをとても愛しく感じていたからであった。
彼女は優雅にフォークを口に運ぶ、クリフの表情を盗み見る。
彼は。
やさしくて、細やかで、博識で、とても頭の回転が良くて。
その実、周到で、気分屋で、わがままで、意地悪で、朝にめっぽう弱くて。
どれも、ただ仕えていたときには知らなかった彼の顔。
しかし知れば知るほどに、もっともっと、多くのことを知りたくなった。
クリフはたくさんの話をしてくれたが、いまだに個人的なことは進んで口にはしない。
彼のことを何も知らないと思い悩んだ時もあったが
今考えると主が自分の話をしないのは自分に気を使ってのことなのかもしれない、とメイベルは思う。
資産家である彼の経歴は恵まれたものであるに違いなかった。
そんな話をすれば、貧しい自分との身分の差がより浮き彫りになるのは明らかだ。
メイベルもまた、主人に聞かれたことがなかったため、自分の経歴について詳しく主に話したことはなかった。
それでも彼女は、彼が望むのであればどんなことでも正直に話そう、と考えていた。
―主との関係からけして逃げないと決めたのだから。
明日からはこんな風に、二人で過ごす時間もとれなくなる。それならば。
ふと顔を上げると主の視線とぶつかる。
「あの…」
彼女は勇気を出して、言葉にする。
「旦那様のことを、お伺いしてもよいでしょうか?」
彼は意外そうな表情を浮かべる。
「俺のこと?」
「もしも、ご迷惑でなければ、旦那様のことを教えて頂きたいのです」
彼は目に笑みを宿したまま、聞き返す。
「どうして?」
「考えてみますと、私は旦那様について知らないことがとても多いので…」
彼が何も言わないので、彼女は慌てて言葉を継ぐ。
「で、でも、あの、ご迷惑であれば、無理にとは…」
「知らないことが多い、か」
クリフは秘密めかした様子で呟いた。
「君は誰より俺のことを知ってると思うけど?」
その意味深な言い方に、彼女は自分の顔が熱くなるのを感じる。
「あの、でも、わからないこともまだ。たとえば、お年ですとか…」
「年?」
彼は苦笑する。
「うーん…あんまり言いたくなかったんだけど」
「あ、あの、お嫌であれば…別に」
「いいよ。33歳」
33歳。彼女は不思議な驚きを覚える。
落ち着きや貫禄がありながらも、眼鏡を外すと驚くほど幼い顔をしているため、
彼の年齢については、いつも疑問に思っていたのだった。
彼は意外そうな表情を浮かべる。
「俺のこと?」
「もしも、ご迷惑でなければ、旦那様のことを教えて頂きたいのです」
彼は目に笑みを宿したまま、聞き返す。
「どうして?」
「考えてみますと、私は旦那様について知らないことがとても多いので…」
彼が何も言わないので、彼女は慌てて言葉を継ぐ。
「で、でも、あの、ご迷惑であれば、無理にとは…」
「知らないことが多い、か」
クリフは秘密めかした様子で呟いた。
「君は誰より俺のことを知ってると思うけど?」
その意味深な言い方に、彼女は自分の顔が熱くなるのを感じる。
「あの、でも、わからないこともまだ。たとえば、お年ですとか…」
「年?」
彼は苦笑する。
「うーん…あんまり言いたくなかったんだけど」
「あ、あの、お嫌であれば…別に」
「いいよ。33歳」
33歳。彼女は不思議な驚きを覚える。
落ち着きや貫禄がありながらも、眼鏡を外すと驚くほど幼い顔をしているため、
彼の年齢については、いつも疑問に思っていたのだった。
「君から見たら、立派なおじさんだと思うけど」
「とんでもありません!そんなの、全然、気になりません」
彼は、大げさに眉間にしわを寄せ、わざと怒っているような表情を作ってみせる。
「ホントに気にならないなら、こんなこと聞くかな?」
「そうではなくて、あの、だ、旦那様のことなら…」
彼女はそこまで口に出してから、自分の言おうとしている言葉が
とても恥ずかしいものであることに気が付き、俯きながらそっと続けた。
「…どんなことでも、教えて頂き…たい、ですから」
彼はふっと微笑み、少し顔を傾けると、冗談ぽく言う。
「どうかな。何か聞いて、僕のことを嫌いになっちゃうかもしれないよ」
「そんなことありません…!私は…」
メイベルが思わず声を荒げると、彼は手を伸ばし、彼女の唇に立てた人差し指をそっとあてた。
「食事は静かにするものだよ」
突然唇に触れられたことに、彼の声色の艶やかさに、彼女は動揺する。
こういう一つ一つの所作が、いかに自分に効果的であるかを彼は知り尽くしている、
とメイベルは思う。
そしてその度に、彼は勝てないということを身にしみて感じるのだった。
「も、申しわけ、ありません」
小声で謝ると彼は余裕たっぷりに笑い、肯く。
彼はメイベルが満腹になったことを確認すると、皿を下げるようコックに命じた。
程なくしてデザートと紅茶が運ばれてくる。
生まれて初めて口にするケーキの美味しさにメイベルが大きな衝撃を受けていると、
クリフはもっと早くに食べさせてあげればよかったね、と笑った。
そんな風に主に言ってもらえるのなら、と彼女は思う。
もう二度とケーキが食べられなくてもいい、と。
「やっぱり君の淹れた紅茶の方が美味しいね」
彼は紅茶に口をつけ、しみじみと言った。
「とんでもありません、そんなことは…」
「だって、屋敷でも君の紅茶が一番美味しかったから、毎晩ああして頼んでるんだよ」
「あ…ありがとうござい、ます…」
彼女は何とも言えない喜びを感じ、下を向く。
「ベティの紅茶も美味しいんだけれど、彼女はちょっと口うるさいからね。
紅茶を持ってくるついでに小言をもらうことがあるから」
そこまで言うと、彼は思い当ったようにあ、と声を漏らし、付け足した。
「これはベティには秘密にしておいてね」
メイド長のベティは気が強く、主に向かっても必要と思われることは臆することなく口にした。
クリフは温和な主人であったため、ベティを特に咎めもしなかったが、
メイベルは初めて目にした時にベティの主人に対する物言いにとても驚いたものだった。
他の主人に仕えていたのであればとっくに彼女は、首を飛ばされている。
使用人にも厳しい彼女はメイドたちにも恐れられていたが、それと同時に、
あの大人数の使用人たちを、たったひとりで完璧に取り仕切ることは
彼女以外にはできないということを誰もが認めてもいた。
「お屋敷ではベティ様が、一番長いと聞いておりますが…」
「そう。仕えてもらってもう…今年で、そうだね、ちょうど16年」
「16、年…?で、ございますか?」
「そう。ベティはもう、半分母親みたいなものかもしれない」
使用人について主人がそんな風に口にすることにメイベルは驚いた。
母親みたいな、もの。それと同時に、今まで聞くことのできなかった疑問がひとつ湧く。
彼の、本当の母親は、家族はどうしているのだろう?
彼女は勇気を出して、それを口にする。
「あの、旦那様のご家族は…」
「いないよ」
彼はなんでもないことのようにけろりと言った。
「家族はいない」
しえん
ワッフルワッフル
彼女はその言葉に、大きな戸惑いを覚えた。
資産家というものは大抵、代々受け継がれた資産や屋敷を持っているものだった。
家族がいないのに、あの大きな屋敷を持っているというのは、どういうことなのだろう。
亡くなったということだろうか?それに、ベティが仕えたというのは―
彼女がそこまで考えたところで、クリフは言った。
「君がなってくれるっていうなら、別だけどね」
途端。
メイベルの頭は真っ白になった。
まるで停電を起こしたように、彼女の思考回路は急に停止する。
彼の言葉が理解できない。心臓が早鐘のように、鳴る。
いや、本当は理解していながらも、その意味がうまく、受け止められない。咀嚼できない。
それは?いまのは?聞き間違いなのだろうか。
―わたしが、かぞく、に?
クリフは何事もなかったかのように笑顔を浮かべると、言った。
「食事も済んだことだし、部屋に戻ろうか」
申し訳ありませんが番号振りとか失敗してしまいました。
>493は「7話目 前-5」でなく「7話目 前-7」
>495は「7話目 前-10」は間違って連投したものですので飛ばしてください。
いつもいつもすいません。
7話目は長くなったので前後篇になります。
稚拙な文章ですが
レス下さったみなさんありがとうございます。
とても嬉しいです。
>>501 おぉぅ、生殺しだよ…続きを全裸で待ってる
メイベル可愛いなぁ
そして旦那様も可愛く見えてきた
逃げないって決めても支配階級から抜け出すのは、世間的にも精神的にも難しいだろうね
二人で頑張って欲しいよ
ウェヒヒw
GJ!メイベル萌え!!
うーん
なんでこんなに達者なんだw
なんかドキドキするな!
続き待ち
彼女の髪から垂れ落ちた水滴が落ち、ぽちゃん、と音が響いた。
メイベルは俯いて膝を抱えたまま、その水滴が波紋となって広がるのを見ている。
「どうしたの?」
彼は、メイベルの顔を覗き込んで尋ねるが、彼女は下を向き、
目を合わせてくれようとはしない。
彼女の顔は見えないが、その耳は真っ赤。
「…やっぱり…あの…恥ずかしい、です…」
「何が?」
「な、何がって…」
彼女はそこでようやく少しだけ、目線をあげる。
「旦那様と、お風呂に、入るなんて…」
広い浴室で、二人は同じ湯舟に体を沈めていた。
人が泳げるほどの大きなバスタブ。
金持ちのための建物は、こうして不必要なところにやたらと面積を費やされるということを、彼はよく知っている。
メイベルは、大きなバスタブの隅で、膝を抱えて動かない。
髪を高くまとめ、タオルをきつく体に巻き付けている。
「風呂は嫌い?」
いつもの調子でクリフが言うと彼女は、むきになったように声を荒げる。
「そ、そういうことではなくて…!」
真っ赤な顔をあげるが、主と目があうと、
彼もまた何もまとっていないことを思い出し、慌てて視線をそらした。
「旦那様」
恨めしそうな声で、彼女は言う。
「わかってておっしゃってますね」
「うん」
クリフがにっこりと笑いながら答えると、メイベルは
どうしていいかわからないというような表情でうつむいた。
恥ずかしそうに両手で肩を抱き、湯船に顎先を沈める。
初心で真面目なメイベルは、何かあると大げさなくらいに、こうして恥ずかしがる。
クリフが一緒に風呂に入ろうかと言ったとき、
当然のように彼女は猛烈な勢いで拒否をした。
しかし彼がこんなことをできるのは今日くらいだから、というと
メイベルは時間をかけて悩んだ末、こう言った。
―眼鏡を外していてくださる、なら。
メイベルは、見られることをとことん避けた。
膝を抱えたままクリフの方を見ようとはしない。
彼女の横顔はのぼせたように紅潮し、すっと伸びたうなじや細い肩から濡れた水滴が流れている。
そして、その膚のあちこちには、毎晩のように彼が唇で刻みつけた淫らな跡。
「あまり、見ないで、ください…」
彼女は小さな声で抗議し、彼に背を向ける。
「見えていらっしゃらないとはいえ、やっぱりこちらを向かれると…なんだか」
「注文が多いなあ」
クリフは苦笑する。
「だ、だって…!」
彼は、その言葉を遮るようにして、後ろから抱きしめる。
彼女にしては珍しく丸まった背中がびくり、と大きく跳ねた。
「こうすれば、見えない」
濡れた腕で抱きしめるとぴったりと膚が密着する。思った以上に彼女の温度は高い。
「…だ、だんな、さま」
「何?」
「恥ずかしい、です」
「君はそればっかり」
彼女の顎を片手で支え、その細い首筋に垂れ落ちる水滴を舌で舐めると、彼女はくぐ
もった声をあげた。
「…んっ」
「他に感想はないの?」
クリフは低い声で聞く。
「…すき…です」
彼女は小さな声で繰り返した。
「クリフさまが、好きです…」
彼の体は気がつくと動いていた。メイベルを振り向かせ、強くキスをする。
何かを奪いとるような激しい口付けに、メイベルは一瞬体を堅くし、そしてすぐに受け入れた。
「ん…」
水音と体にまとわりつく湯気が、頭の中をぐらりと揺らす。
唾液を絡めるようにして舌を動かすと、苦しそうに彼女は呼吸を漏らす。
長いキスのあと、彼は額と額をくっつけたままメイベルを見る。
彼女の大きな目には、官能の色が、じわりと浮かんでいる。
「ねえ」
彼女の体に巻きつけられたタオルに人差し指をひっかけて引っ張ると、彼は囁く。
「これ、邪魔だと思わない?」
「だ!旦那様…だめです…っ!ここでは」
「なんで?」
「だって、もう、のぼせてしまいます」
真剣な表情で言うメイベルの顔は、確かに酔ったように赤い。
なんだか可笑しくなり彼は吹き出す。
「それもそうだけど」
「だから、もう、出ましょう?ね?」
子供をあやすようにして、メイベルは言う。
「その前に」
彼はそういうと、首から肩にかけてゆっくりと指を這わせる。
「見せて」
「い、嫌です…」
「どうして?」
「お見せできるような…ものでは…」
彼女がいつも恥ずかしがるのは、真面目であるからという理由だけではないのだろう、とクリフは思う。
彼女は自分に自信がないのだ。
仕事のためだけに生きてきて、誰かに愛されたような経験もなければ
身なりに気を配るようなこともなかった,
そんなこれまでの人生を顧みれば、それは無理のないことかもしれない。
「君はなかなか信じてくれないけど」
彼はいつものように、彼女を抱きしめて言う。
「君はとても可愛い」
彼女は腕の中でしばらく俯いていたが、やがて静かに顔を上げた。
その表情の艶めかしさに、彼はぞくりとする。
「旦那様がそう、おっしゃるなら」
いつもは恥じらいに顔を背ける彼女が、まっすぐに必死に、真っ赤な顔でこちらを見つめている。
「…信じます」
彼女はまるで、誓いの言葉のようにそれを言った。
クリフは彼女の純粋さに衝撃を覚える。
胸の奥にこみ上げる、驚きと愛しさ。
そして。
―寒気のするようなおぞましさ。
「あんまり可愛いこと言うと」
彼は薄ら寒い感覚が激しく心を掻き回してゆくのを、おくびにも出さずに言う。
いつでもメイベルはこうしてまっすぐで、つつましく、ひたむきで、素直で。
「ここから出られなくなっちゃうよ」
彼は言い、彼女の耳に唇を寄せ、焦らすように吐息を吐きかける。
傷口から吹き出した血のように止まらない不快感。
不安、困惑、焦り、そしてその奥に隠している。本当の自分のこと。
「…ん…っ」
彼女が声を漏らし、わずかに身を捩る。
メイベルは唇を噛み、物欲しそうな表情を浮かべる。
「どうしたの?」
彼は意地悪く微笑み、言ってみせる。
息を吸うように水を飲むように。
愛するメイベルにすら、たやすく彼は自分を偽る。
「旦那様は本当に、いじわる、です…」
「どうしてほしい?」
メイベルは、ぱくぱくと僅かに口を動かすが、恥じらいが邪魔をして、言葉を続けることができない。
白い膚、濡れた髪、潤んだ目、うっとりとした表情、半開きになった唇。
どうしてだろう、と彼は思う。
彼女の持つ一つ一つの物が、こんなにも自分を引きつけてやまないのは。
そして。
―自分がこんなにも醜いのは。
彼は抑えられなくなり、強引に、激しいキスをした。
タオル奪うように引きはがし、その体を求める。
「…や…っ、あ、…だ、だんな、さま……っ」
柔らかく、温かく、か弱いその肢体。
膝を割り、バスタブのヘリに彼女の体を押し付け、唐突に挿入する。
「あ、…んんっ!」
彼女は声をあげる。
「だめ、そんな…急に…」
言葉とは裏腹に、彼女の奥はとうに濡れ、彼の物を呑みこむようにするりと受け入れる。
淫らな声が浴室に響き、彼は中をかき回すように動かす。
彼女のことが好きだ。死ぬほどに。自分を保てなくなってしまうほどに。
しかしなんだろう。
覚めきった頭の芯を、この胸の奥を。
ざらざらと撫でる感覚は。この、せり上がる吐き気は。
―旦那様の、ご家族は?
心臓の奥に凍えた針が突き刺さるような感覚。
耳鳴りのような、金属的な不快感。
避けて通ることはできないと頭ではわかっていたはずの、自分の過去。
しかし。
「あ、ああ…いや、駄目です!クリフ、さま…」
切なげな表情を浮かべ、彼女はクリフにしがみつく。
快感と恐怖。そして愛しさ。腰を激しく動かしながら、頭の中は目まぐるしく回転する。
―知られる訳にはいかない。
自分がどういう人間なのか。何をして生きてきたか。それは、彼女には、絶対に。
「ねえ、メイベル」
目を閉じて、雑音を排除し、クリフは彼女の膚に溺れようとする。
「恥ずかしい?」
声はいつもと変わりないように、慎重にさりげなく。
「…あ、ああっ…」
メイベルは答えることもできず、力なくがくがくと首を振る。
胸に顔を埋め、優しく舐めながら、もっともっと、彼女の思考能力を奪う必要がある、と思った。
彼女が異変に気がつかないように。
自分しか見えなくなるように。
自分から離れられなくなるように。
「しょうがないね、君は」
口はどこまでも滑らかに、不誠実に動く。
「今日はたくさんしてあげる」
彼女の注意を上手に逸らすような、挑発的な言葉。
「この程度で恥ずかしいなんて言えなくなるくらい恥ずかしいことを、たくさん」
彼女の表情が、弾かれたように変わった瞬間に、キスをする。
可愛いメイベル。彼女が好きだ。今までにないくらい。経験したことがないくらい。
しかし、彼の頭の中心はどこまでも冷たく痺れ、彼女に浸りきることを許さない。
浴場で交わり激しく果てた後も、彼はメイベルを休ませることはしなかった。
彼女の体を抱きあげてベッドに運び、ろくに体をふくこともしないまま、激しく求め続ける。
「あ…いやっ…」
彼女の濡れた体と髪の毛が、彼の皮膚に縋るように張り付く。
まるで人魚だ、と彼は思う。
乱れたシーツの波に、打ち上げられた体。でも王子様は迎えにはこない。
―君は俺に捕まってしまったから。
「あ、クリフ、さ、ま…っ…わたし…」
クリフは彼女の言葉が終わるのを待たずに、指を差し入れる。
「んああっ…!!」
「ねえ、わかる?」
わざと音を立てて動かす。
「こんなにとろとろになってる」
「いっ…言わな、いで…ください…」
「言われるのが好きな癖に」
彼がぐっと指を奥まで差し込むと彼女はひときわ大きな声を上げる。
「う…あっ…」
彼女の両手を押さえつけ、逃げられないようにして、中をかき回す。
「…ん…ん、んんんんっ!!」
「君の好きなようにしてあげる」
反対の手で乳首を指でつまみ、すり潰すように刺激する。
その赤くなった耳を舌で舐める。
「どうしてほしい?」
感じるところを同時に責められて、彼女は我を忘れて声を上げる。
「ひ、あ…ああ、いやあ、いやっ…!」
メイベルは無意識に彼の背中に爪を立てる。ぐ、と食い込む鋭い爪の感覚。
しかしクリフはその痛みさえ愛しく感じる。
「君の願いはなんでも聞いてあげる」
「あ、あ…クリフ、さま…!」
彼は、メイベルの口から垂れる涎を舐めとる。
「だから俺に、君をちょうだい」
彼女の腰を引き寄せると、怒張したもので突きあげる。
「あ、あああああ…っ!!」
悲鳴に近い喘ぎが漏れる。
可哀想な、メイベル。彼は思う。
少し触れられるだけですぐに溢れるような。
いくら抑えても声が上がってしまうような。
乱暴に突かれるほど濡れてしまうような。
恥じらいさえ感じる余裕がなくなるほど、よがってしまうような。
こんな体に作りかえられて。
「…さしあげ、ます…クリフ様に、みんな…」
メイベルは絞り出すように、言葉を紡ぐ。
「ぜんぶ…あげ、ます…わたしを…」
そして彼女は囁くように言った。
「…愛してます」
彼は焼けつくような感情に振り回される。
―俺も、愛してるよ。
そう思った。
しかしなぜか、それは言葉にはならなかった。
また、番号振るの間違ってしまいました。
お恥ずかしい限りです。
>>512 は「7話目・前-1 」でなく、「7話目・後-7」 です。
もうちょっと続きます。
たぶん10話くらいでおわれると思います。
いつもすいません。
ありがとうございます。
>>515 これすら間違ってタイトル振っちゃいました・・・。
何をやっているんでしょうか本当に。
返って見にくくなってしまってごめんなさい。
GJ!
クリフの過去か……
そこになにがあったのでしょうね
文章の順番はあってたからいいじゃん別にww
クリフが黒くなり始めたから、これ続きあるなって分かって嬉しかったw
bbb
あああ楽しみすぎる!
GJGJGJ
午後11時。
彼は書斎にこもり自らの思考に沈む。
2週間前と何も変わらないこの場所で、彼はいつも、こうして物を考えてきた。
まるで現実感が湧かない、と彼は思う。
何もかもが他人事のように遠い出来事だ。
屋敷に戻ってきたことにも、
自分が情緒のコントロールを失っていることも、
そしてこれから―
自分が多くのものを失うであろうことも。
しかし冷え切った頭は不気味なくらいに回転する。
どこで道を間違えたのだろう?
彼は考える。
感情を押し殺し、彼はいつも色々なものを操作してきた。
最後には必ず自分にとって最良の結果が得られるように。
しかし今や自分は、子供の我が儘のような、この感情に抗うことがどうしてもできない。
道など間違えた訳ではない。彼は思う。
わかっていて、自分の意志で選んできたのだ。
時計を見る。
そろそろ紅茶の時間だった。
紅茶を運んでくるはずの、小さな愛しい影。
―嫌いになんて、なれるわけ、ありません。
彼はひどく醒めた目で、その記憶を眺めて、じっと待つ。
扉を叩くその音が聞こえるその時を。
数分後に聞こえてきたノックの音が
いつもと違う響きを帯びていたことに彼はすぐに気がついた。
クリフが状況を理解すると同時に、その扉が開いた。
「ちょうど良かったよ、ベティ」」
彼は笑いかける。
視線の先にあるのは、想像通り、メイベルではなく。
老いたメイド長の姿だった。
クリフはいつもと変わらない微笑を浮かべ、彼女を迎え入れる。
しかし彼女の目つきは明らかにいつもと違っていた。
「そろそろ君の紅茶も飲みたいと思っていたところだよ」
クリフの言葉にも彼女はにこりともせず、黙ってワゴンを室内に押しいれる。
―ずいぶん早かったな。
彼は思う。ベティに何か言われるであろうことは、想像がついていた。
しかし、こんなに早く、こんなにも怒っているとは、思わなかった。
「あの娘は来ませんよ」
ベティはつっけんどんに言った。
「あの娘?」
クリフは彼女の言わんとすることをわかっていて、わざと聞き返す。
「紅茶出しの娘」
ベティは、自分の下の使用人の名前などは呼ばない。
こうして揶揄した呼び名を与える、それは彼女のみに許された絶対的な権利であった。
出会った時と比べてずいぶん年をとった、彼女の顔。
猟犬を彷彿とさせる、厳しい口調。
眼の下の皮膚は長い年月を経て弛み、顔には深い皺とともに、
自分だけを頼りにのし上がってきた者だけが持つ、誇りのようなものが刻まれている。
ベティはカップに紅茶を注ぐと、彼の手元にそっと置く。
「どうして?」
クリフが笑うと、彼女は下から覗き込むような鋭い視線をただ向けた。
その静かな彼女の怒りに、彼は驚きを覚える。
短気で偏屈で、日頃から何かと言うとすぐに怒鳴りつける彼女が。
今、沈黙している。
「あの娘に、何をなさいました」
質問には答えず、ベティは静かに、言う。
クリフは眉ひとつ動かさず、答える。
「彼女が何か言ってたの?」
「あの娘のことなんて」
いかにもくだらない質問だ、と言わんばかりに、彼女は笑う。
「見ればわかります」
それは大したものだ、と彼は感心する。
―もう、ご出発なさいますか?
今朝のメイベルの澄みきった声を思い出す。
関係を持つ前となんら変わらない、その無表情。
彼女は、主とどんなに近しくなろうとも、仕事の時間は徹底して仕えた。
主との時間を持つのは、仕事の終わりを告げられた後、夜の時間だけ。
不器用で真面目な彼女は、自分との関係に甘んじ仕事の質を下げることをよしとせず、
彼が何と言おうと、その態度を改めることはついになかった。
―私は、旦那様にお仕えしている身ですから。
彼が嫉妬を覚えるほどのその変わらぬ顔。
その奥の彼女の変化を、ベティは、すぐに見抜いてみせたのだ。
「さすがだね」
彼の言葉を無視し、叩きつけるようにベティが続ける。
「まさか、貴方様がこんな真似をするなんて」
クリフは抑えきれず、クスクスと笑いを漏らす。
それは彼の悪い癖だった。
追い込まれるほどに、恐怖を感じるほどに。
彼は真剣味を失い、こうして笑う。
「あの娘を、囲うおつもりですか?」
囲う。
それはすなわち、彼女を妾にするのか、という質問であった。
「囲うだなんて、ずいぶん古い言葉を使うね、君は」
とぼけ続けるクリフにベティはさらに冷ややかな目を向ける。
「これでは、まるで」
ベティは裁くような声で言った。
「…あの方と同じではありませんか」
その瞬間。
クリフは、自分の表情から、張り付いた笑いがはがれたのを感じた。
ひきつるように、痙攣のように、跳ねる鼓動。
喉がからからに乾き、冷たい汗が噴き出る。
ぬるぬるとした生温かい不潔な手が、自分の心臓を握っているような、不快感。
「ねえ、ベティ」
それは、我ながらぞっとするような無感情な声だった。
「言葉には気をつけた方がいいよ」
彼女がクリフに仕えて16年。
絶対に口にすることのなかったその話題。
彼は、失いかけた理性の隅で、ベティが心の底から怒っていることを理解する。
「思ったことを言ったまでです」
ベティはひるむ様子もない。
「本気だと言ったら?」
「本気?」
彼がきくと、しわがれた声で、ベティは不愉快そうに吐き捨てた。
「こんなに目立つ真似をしておいて?」
今や彼女は不快感を隠そうともしない。
「主人に特別扱いされた者が、他の使用人たちからどんな目で見られ、どんな目に遭わされるか。
旦那様ならばようく、お分かりでしょう」
確かにそんなことはわかっていた、と彼は思う。
二人で屋敷を空ければ、嫌が応にも他の使用人たちの眼につくこと。
噂は瞬く間に広まり、そして多くの使用人の中で彼女は孤立すること。
ここに仕え続ける限り、その生活を彼女はずっと強いられること。
だから、彼は、その意味でも、彼女に考える時間をあえて与えたのだ。
―どういう意味か、よく考えておいてね。
賢い彼女が、そのことに思い至らないわけがない。
自分の立場がそのあとでどうなるかを、よく理解した上で。
自分の意志で、選ばせるために。
彼女に覚悟をさせた上で、自分以外の全てを、奪うために。
「見損ないました」
ベティは、臆することなく言う。
「ずいぶんあの子の肩を持つね」
彼が平静を装い続けるほど、ベティの怒りは増していく。
敵意に満ちた声が張りを増す。
「あの子は、多少は使える娘だった」
彼女は続けた。
「少なくとも―お前よりはずっとね」
かあ、と頭に血が登り、彼は我を忘れる。
心臓の、音。
雑音。奇妙な静けさ。
―ガシャン。
少しの空白の後、何かが割れる音がして、
彼は自分がカップを床に叩きつけたということに気がついた。
「聞こえなかったのか?」
声が喉から勝手に漏れる。
「口のきき方に気をつけろ」
視界が歪むような恐怖。
我を忘れるような激情。
制御できない程の、醜い怒り。
悪い夢を見ているような、感覚。
その一方で、奇妙に冷え冷えとしている頭。
「本性が出たね」
彼女はひるまずに、鼻で笑う。
厳しく、言葉が悪いその裏に、いつも愛情のあったはずの、視線。
いかなることがあっても、彼から離れることをしなかった、唯一の存在。
そのベティの視線は、今やどす黒い侮蔑に塗りつぶされている。
「誰もかれもが見せかけに騙されると思ったら大間違いだよ!」
彼女の鋭い怒鳴り声が、頭に反響する。
口が悪く偏屈で、どこまでも厳しくて、限りなく優しいはずの、彼女。
背中の丸まった、小さな、年老いたメイド。
彼女が。
―どうして、こんな眼で俺を見る?
「少しは立場を考えて、物を言ったらどうだ?」
自分の声をまるで他人のそれのように聞く。
どこまでも無感情な、死人のような、声。
そして、こんなときにすら、
自分の口元にはおぞましい笑みがこびりついたように残っている。
「その歳で路頭に迷いたくはないだろう?」
ベティの剥き出しの敵意が引き裂くように彼を蝕む。
さも気持ちの悪い物を見るような。
不気味なものを見るような彼女の眼を見て、彼は理解した。
彼女の心が、完全に自分から離れたことを。
「お前はそうやって脅してばかりだね」
最大限の侮蔑をこめて、彼女は言う。
「殴って黙らすような度胸もない。卑屈で、臆病で、そのくせ傲慢で」
割れたカップからは血のような色をした紅茶が、床に流れる。
石畳の眼に沿って、模様を描くようにして広がるその色。
「いつまでたってもお前は変わらない」
彼女は迷いなく、言った。
「…尻尾振りのままだ」
刹那。
―ねえ、クリフ。
闇のように冷たい感覚が心を貫き、
その言葉を合図にするように、
聞こえるはずのない、声が。
確かに聞こえた。
―どうしたの、クリフ?
「黙れ…」
容赦なく、抉るように揺さぶるその声に、彼は思わず叫ぶ。
「お前に何がわかる!」
ベティは眼を見開き、そして眉をひそめた。
「じゃあ、俺はどうすればよかったんだ…?!」
なんだ、この、痛みは。焼けつくような、感覚は。
どこに逃げても追ってくるこの声は。
―あなたは、何にも心配しなくて、いいのよ。
ベティの眼は、彼を捕えて離さない。
その眼にあるのは、侮蔑と失望と、そして。
深い哀れみ。
その眼に射抜かれ、彼は立ちつくし、叫ぶ。
「俺は…!」
呟くように彼は言った。
「あの時に死んでいれば、よかったのか!?」
「わざわざ死ぬことはない」
ベティは容赦なく言った。
「お前はとうに、死人も同然だ」
乙乙。
急展開ですな。
急展開だー
そして容量警告
えっ、何何、どうなんのこれ
びっくりした
おもしろ過ぎる
次スレ立てます
スレ立て乙
533 :
耐える愛U:2011/07/31(日) 12:51:06.40 ID:rm46lzoW
埋めついでに投下させていただきます。3レス頂きます。
妊娠発覚後のアーネ視点。今回はとりあえず書けた所まで投下しておきます。
注意:基本話はメイドと旦那様の不倫。恋人の身分を脅かされ軟禁状態で身籠ったメイド視点。
苦手な人は回避お願いします。
534 :
耐える愛U-1:2011/07/31(日) 12:52:01.32 ID:rm46lzoW
(どんなに酷いことをされても旦那様を嫌いになれなかった。幼い頃どれだけ優しかったかと胸に刻みこまれている。
長年失った父親の影を重ねていた旦那様。だからこそ、皮肉な事にも嫌いにもなれないが――女性として愛することは出来ない。)
そして、ロルフさまの事で、旦那様に献身的に仕えようと思った。使用人のように。
それがアーネにとってできる、旦那様への精一杯の恩返しだった。
そんな日々を送るうちにアーネは気が付かなかった。
目をそらしていても、精神的にこの状況は彼女には辛すぎて。
気づけば、心はあの方に飛んでしまう。
その原因である旦那様に頼れるわけはなく、一人ぼっちで耐えて、耐えて。
吐いては、食欲がなくなっていく……貧血を起こすのは食欲がないから、そう思って自分を誤魔化した。
倒れて目を覚ませば、このお腹の中に旦那様と自分の子供が宿っているという。
自分が妊娠しているという驚きの事実に、浮かぶのはリスティンさまと奥様に顔向けできず、産めるはずのない罪の子だということだった。
辛い時に励まして支えてくれたリスティンさま。
おこがましくも弟だと思っていた彼の……皮肉にも弟を身籠っている。
その事実が、さらにアーネを打ちのめした。
この子を、産んでは……いけない。
他のお屋敷ではよく囁かれていた噂話を思い出す。
旦那様や上級使用人、お客様から手を付けられ、孕んだメイドはどんな理由があろうとも解雇される事が多い。
なので仲間内でそのことを庇い合い、その間にひっそりと産むか――堕ろすのだと。
アーネにとってはショックなことで、方法はあまり覚えていない。
あのころのお屋敷はとても秩序ある場所で、その時はこんな事になるとは思ってもみなかったから。
アーネは日々悩んでいた。
産んではいけない、でも今お腹の中にいる子供を殺すという事は、一つの命が消える事で。
そんな大罪を……望まれぬ子だとしても犯していいのかと。
その苦悩の表情とは反対に、旦那様はアーネが身籠ったことをことのほか喜び、気遣ってくれる。
アーネが子供を産むべきだと、信じて疑わない。
あれほど拒否しても無理矢理抱かれていた夜の務めも、腹の子の為と言ったら、ただ抱きしめるだけの添い寝になり。
その抱きしめる手つきは柔らかくて優しくて……腕の中で泣きそうになる。
――本当に、旦那様は私と、お腹の子を愛している。
罪悪感に悩まされる。こんなに愛されているのに、のに。それでもアーネの望むのはたった一人だ。
そしてこの愛は本来向けられるべき人が居て、受け取るべきものでもない。
自然とお腹に手を置くことが増え始め、アーネは気が付いた。
私はこの子を産みたいと……思ってる。
許されない背徳の行為の為に出来て、産んではいけない初めての私の赤ちゃん。
心の痛手の為に狼狽して、そう思っていた――いや、思い込んでいた子供は。
「産みたくない」ではなく「産んではいけない」のだと。
子供の父親の事は愛していず、愛する人は――愛してると言う資格がアーネにはない人。
一人ぼっちで家族もいない、アーネにとって本当の意味でのたった一人の家族で……愛してもいい子供。
「私の、赤ちゃん」
そう囁き、お腹に手を当てるたびに、愛しさが募る。
いけないことだとは分っていても。
535 :
耐える愛U-2:
どうしていいかわからなかったアーネは、神様に救いを求めた。
愛人という立場上、日曜の礼拝に行くわけにはいかず……そして旦那様もアーネの外出を許さなかったので、遠ざかっていた場所。
外出を許されるはずがないとわかっていたアーネは、旦那様の留守時にこっそりと出かけることにした。
この屋敷に連れられてきたときに、両親の形見だから捨てないでくださいと、懇願した古ぼけたトランク。
そこの中に、昔母が着ていたドレスを仕立て直した服を入れていたので、それに着替えるとただの一介のメイドにしか見えない。
旦那様から与えられた豪華なドレスに身を包み、村の道を徒歩で通る勇気なんてアーネにはなかった。
その様子をこっそり見ていたメイドに、屋敷の裏門で追いつかれる。
使用人達は私語を厳禁されており、会話をしたことはなく、男性の使用人に至っては、近づくことも許されていなかった。
アーネより年下のメイドの少女は、出ていくのかと思ったのかアーネを止めたけれど。
しかし必死でアーネが教会に行きたいと懇願すると、明らかにほっとしたような顔を浮かべる。
顔に思ったことが出やすい、少女は普段からアーネに同情的だった。旦那様の帰宅予定は明後日だったが、予定を繰り上げる事は少なくない。
帰ってこないうちに、何事もなく帰ってこなければと、もしアーネが外出したと知ったら、教会であろうとも旦那様はお許しにならないだろう。
この少女に迷惑を掛けてはいけないとアーネは二人教会への道を急いだ。
やはり来てはいけなかったのかもしれない。
彼女には教会の入り口で待ってもらい、中に入る。厳かな雰囲気を醸し出している教会の中は、清らかで静謐で。
汚れているアーネにはここには居てはいけない、不似合いな場所に見えた。清らかなマリア像に、まるで責められているような気がして身が竦む。
そんな雰囲気の中人が入ってくる気配がして、アーネは不安から反射的に懺悔室に逃げ込んでしまった。
許しの為のストラが一瞬見えたような気がして、隠れてしまったことを恥じたが、しばらくすると、反対側の入り口から人の気配がする。
低く、硬く、どこか懐かしい響きを帯びる厳かな……声が、優しく訳を尋ねる。
聞いてくれる、私の話を。
その声にほっとして今まで誰にも言えなかった罪のすべてを、アーネは全て胸に残る毒を出すように話してしまった。
本当は愛している人がいるのに、愛しているからこそ、その方の心を踏みにじり別れた。
旦那様に、無理矢理強要された関係、そして授かった子供。
その子を産んでしまってもいいのか。
妻子もいる方、そして愛してもいない方の子を。
でも、子供は自分の子。今のアーネの支えで全てだと。
本当に愛してる人にはもう愛しているとは言えないから、愛を願ってはいけないから――だから愛する存在が欲しいと。
何と身勝手で、自分勝手で……生まれてはいけない、生まれたら旦那様の家庭に災いをもたらすとわかっているのに。でも心の底から誕生を祈ってる。
「貴女の事を神はお赦しになるでしょう」
あまりのふしだらな内容に、流石の司祭様も感情をあらわにするまいとしてか、声が震えていた。
しかし、本当に私は産んでいいのでしょうかと、不安と迷いの為、更に念を押して欲しくて尋ねる。
「貴方の子です……貴方だけの愛すべき存在です……生まれてくる子供に罪はない」
その返答に、涙がこぼれる。でもそれを拭うよりもお腹に手をあてた。
そう、この子は私の子。私だけの子――そう、子供には罪はない。
「たとえ、どんな困難が待ち受けても……生きていれば生きてさえくれていれば、変われる」
司祭様の声に失った思い出が鮮明によみがえる。ロルフ様もゆっくりアーネの言葉を聞いてくれて穏やかに言葉にした。
これは、天啓なのか。まるでロルフ様に励まされているように感じて、アーネは更に泣いてしまう。
泣き止んで懺悔室の戸を開けると、ステンドグラスの光を浴びたマリア様の像が、はじめと違って微笑んでいるように見える。
強くなろう、この子を……産むために。
そうマリア様に跪いて、祈る。それだけで、勇気づけられているように感じる。
心地よい静寂がアーネを包んで、暫く。
「こんな所で、君は何をしているのかな?」
アーネはそう声を掛けられて、怯えながら顔を上げた。
そこには笑顔だが、目が笑っていない、旦那様が立っていた。