〈第1章 出発〉
調査隊を乗せたヘリが離陸した。隊長を務めるわたしの父は、いつになく
高揚した顔つきだ。
隊長の娘であるわたし自身も調査隊の一員である。とはいえ、父が
少ない予算をやりくりして呼び集めた5人の調査隊員の内、3人は初めて
見る人物だ。他のメンバーも互いにほぼ初対面らしく、あまり広いとは
言えないヘリの中は、どこかぎこちなさが漂っている。
そんな空気を察したのだろう。全員と面識があるらしいアンナさんが、
改めて、という感じで全員の紹介を買って出る。アンナさんは父の教え子
だった昆虫学者で、20代後半のきれいな女性だ。
「ええと、まず、こちらが隊長の美府 陸先生。進化生態学の第一人者……
これは大丈夫よね?」
父がこの世界の第一人者であることは国内外のライバル学者たちですら
認めるところであるが、通常、父のその肩書きの前には「孤高の」とか
「不遇の」とか、そんな但し書きがつく。父はそういうポジションを
あえて引き受ける代償に、自由で大胆な研究をいくつも打ち出して、
生臭い学界を生き抜いてきたのだ。
アンナさんの紹介は続く。
「それから、そのお隣は美府先生の娘さんの朝花さん。わずか17歳にして
言語学博士と進化心理学修士をもつ才媛。語学の達人で、数十の言語を
自在に操る彼女は、お父上のフィールドワークにいつも同伴して、
現地ガイドとの交渉はじめ、秘書役兼通訳という大事な役目を務めているわ」
次にアンナさんは、無表情に外を眺めている30代半ばの男性を指して言う。
「そのお隣は古生物学者のディック・マレーさん。古哺乳類学が専門で、
今回遭遇する可能性のある遺存種、つまり『生きた化石』の研究を任されて
います」
アンナさんは続いて、アンナさんよりもやや若い、眼鏡をかけたおとなし
そうな女性を紹介する。
「そのお隣は、10代前半で数学博士と物理学博士を取得後、大学を去り、
その後の10年で完成させた異端の時空理論をつい最近世に問うた天才、
サトミ・イマカタ博士。今回向かう区域に生じているという奇怪な現象の
解明は、現在の物理学界の中でも彼女にしかできないという話よ」
10代のわたしが言うのもなんだが、見たところわたしと大差ないほどの
若さ……というより、未成熟さを感じさせる女性だった。
アンナさんは最後に自己紹介をする。
「そしてわたしが刀根アンナ。専門は昆虫学。例のギガンタピスの実物を
研究した数少ない研究者の1人です。残念ながら、せっかく書いた論文は
お蔵入り状態ですが、今回の調査でなんとか日の目を見させてやりたいと
思っています。以上!」
皆の紹介が終わったのを見た父は、到着までの時間で、今回の調査の概要を
改めておさらいした。
「今回の調査の発端は、現在向かっている密林の中の、神殿らしき遺跡で
発見された、体長20センチを越す巨大蜂、ギガンタピスの遺骸です。
ギガンタピスは存在自体が疑われ、また存在したとしてもはるか古代に
絶滅したはずとされていました。ところが驚くべきことに、神殿に祀られて
いたこの標本の年代は、せいぜい数百年前という大変新しいものだったのです。
神殿の中からは他にも、数十万から数千万年前に絶滅したはずの動植物の、
やはり同じくらい新しい標本が採取されました。
ギガンタピスの発見はスキャンダルと疑惑に埋もれてきました。19世紀、
樹液に封じ込められたギガンタピスの翅の化石を科学者に持ち込んだのは
稀代のペテン師でした。当然のようにその標本はまがい物扱いされ、まともな
教科書からは除外されてきたのです。そして現代、世紀の発見といっても
おかしくないあの標本を学界に持ち込んだのは、あろうことか、化石捏造疑惑で
騒がれたブローカーでした。しかもその標本は、他の絶滅種の標本と共に、
どこか疑わしい点の多い火災によってすべて灰になってしまったのです。
私やアンナ君のようにその実物を目にした少数の研究者は、それがたしかに
本物であったことを疑っていません。とはいえ、遅くとも中生代末には滅んで
いたはずの昆虫が、どうやって現代のアマゾンに遺骸を残すことができた
のか?この疑問に答えられない限り、学界の主流派に十分な反論を提供
することはしにくい。
私がイマカタ博士の研究を偶然知ったのはそんなときです。イマカタ博士は
まさに中生代後期、あの標本が見つかった近辺に大質量の隕石が落下し、
そしてその結果、その落下地点に非常に特異な物理現象が生じている、
という予測を自分のサイトに公表していました。主要な学会誌に投稿した
ものの、証拠が不十分なのと、あまりに突飛な結論であったのとで却下されて
しまったそうなのです。しかし博士の予測が正しければ、それはあの
ギガンタピスの新しい遺骸の説明を提供してくれるのです。
それゆえ今回の調査は、ギガンタピスやその他の古代生物の実在を裏付ける
ためのものであると共に、イマカタ君の説を裏付けるためのものでもある
と言えましょう」
父の話が終わる頃、ヘリが目的地に着いた。
〈第2章 楽園の門〉
わたしたちとキャンプの装備一式を降ろし、ヘリが帰っていった。とりあえず
2週間後、ここにまたわたしたちを迎えに来てくれる予定である。不慮の事態が
生じた場合には、緊急連絡によって駆けつけてくれる手はずも整っていた。
わたしたちが降り立ったのは例の神殿の近辺だった。神殿の再調査も
興味があったが、それは帰還前ということになっていた。まずは問題の
地点の調査が先決である。
問題の地点までの案内はイマカタ博士に任せるしかない。博士は
「目的地」を相当正確に予測しているようで、GPSを見ながら迷いなく歩を
進めている。密林の中の道なき道をを、一行はイマカタ博士に導かれて
のろのろと進んでいく。
やがてイマカタ博士は一本の木の前に立ち止まり、言う。
「植物に詳しい先生はいますか? この木は現存する種とはちょっと違う
可能性があるんですが」
父とマレー博士がそれを聞き、幹や葉をしばらく調べてから口々に言う。
「たしかに、新生代初期に絶滅した被子植物に似ているようだが?」
「そもそも、これは温帯地方に生える種類で、こんな赤道直下にあるのは
不自然だ……」
イマカタ博士はうなずいて言う。
「なるほど。思った通りです。では、早速この木を伐採します」
おとなしそうな博士の乱暴な言葉に皆は唖然とするが、博士は気にとめる
様子もなく電磁チェーンソウを取り出し、電源を入れた。マイクロウェーブに
よって幹を焼きながら切断する最新の伐採装置だ。小柄な女性である博士が
それを抱え、直径数10センチの大きな木の、地面から1メートル程度の幹に
それを当て、苦労して切断を進める。そして他の隊員たちを遠ざけると
切り口に爆薬を仕掛け、炸裂させた。
奇妙な現象がそれに続いた。木はゆっくりと倒れ始めたと思うと、まるで
何かに飲み込まれるように消え失せてしまったのである。幹のあった部分の
空間は、まるで壊れたテレビのように、ぼうっと白く濁った光を放っていた。
「『門』が開いたわ。多分この奥に、ギガンタピスの楽園があるはずです。
ここから先は多分蜂対策が必要でしょうね」
そう言ってイマカタ博士は、昔に比べればかなりスマートになった蜂用
防護服とマスクを取り出し、身につけ始めた。
イマカタ博士に言われるまま、同じ装備を身につけ始めたわたしたちの
前に、巨大な蜂が飛んできた。あの白い空間から飛び出してきたのだ。
一同は驚き、アンナさんなどは捕虫網を取り出しかけたが、蜂はそのまま
ものすごい勢いで遠くへ飛んでいってしまった。多分働き蜂なので、
子孫を残すこともなくどこかで朽ち果てることになるだろう。
唖然としているわたしたちに、博士は説明を続ける。
「美府先生以外の皆さんに、あまり詳しい説明をしてこなかったのはお詫び
します。実際、わたしの論文自体、直感的に何が書かれているのかわざと
分かりにくく抽象的に書いておいたのです。一知半解の好事家が勝手なことを
言い出さないための予防策でした。とはいえ百聞は一見にしかずと言います。
こうやって現物を見せれば、わたしの理論が何を意味するかははっきりする
はずです。装備ができたら、早速入っていきましょう。後についてきて下さい」
イマカタ博士は、装備を整えたわたしたちを確認すると、切り株の上に
ぽんと飛び乗った。その瞬間、イマカタ博士の姿が白い空間の中に飲み
込まれて消えた。父が躊躇なくそれに続いた。次いでアンナさんが恐る恐る
後を追った。その次はわたしだった。
切り株に飛び乗ったとたん、わたしの周りには直前までとはまったく違う
森が広がった。先ほど倒れた幹が目の前に現れ、植生は一変し、遠くに
小さな山が現れた。来た方角を見ると、遠くの光景は元のままだったが、
近くにある石ころや木の枝が異様な高倍率で拡大されて見え、わたしは
ぎょっとせざるを得なかった。わたしの後に続いたマレー博士も、
急転した光景に目をきょろきょろさせている。
イマカタ博士が説明する。
「この空間は直径10キロほどあります。中生代後期に隕石によってえぐり
取られた土地がそのまま、あの切り株と重なり合う数10センチの領域に
圧縮されているのです。つまり外から見ると直径数10センチしかないはずの
土地が、この空間の中に入れば元通り直径10キロのこんな光景として広がるのです。
このからくりの根本的な原因は、隕石の正体であったはずの極小ブラックホール
です。ブラックホール自体は蒸発してしまっていますが、変容した空間的地形は
そのまま保存され、一種の生態学的タイムカプセルとして現在に至っている
のです。少なくともわたしの理論によればそうなるし、今わたしの目の前には
理論が予測した通りの光景が広がっています。
この空間から元の空間への唯一の出入り口はわたしたちが今入ってきた
この『門』のみです。もしあの木を根こそぎ引き抜けば、空間の自己修復力に
押されて、近傍の木が根ごとずらされ、門に『フタ』をするはずです。
外から見れば、絶滅種の木が一本、忽然と現れたように見えるでしょう。
そしてもちろん、出入り口は閉ざされます。他の場所から出ようとしても
やはり空間の力によって押し戻されてしまうでしょう。しかし、そんな空間の
自己修復作用をあの切り株が妨げ、切り株の上部に、いわば門を『こじ開けた』
状態を維持してくれているのです。
中生代に空間が閉じてから、偶然『門』が開いたことは何度かあったはず
です。その際、動植物の流出入はごくわずかにあったでしょうが、恐らく
数百年前、あの神殿を築いた部族が『開門』を行うまで、大規模な開門は
なかったはずです。木を切り倒す技術がなければ、安定した開門はなされ
ないのです。あの部族が何らかの事情で姿を消して以降は、今日我々が
新たに開門を行うまで、門は閉じたままだったと思います」
イマカタ博士は次に、天を指さして言った。
「もうじき正午ですね。これからちょっとしたイベントが起きます。よく
ご覧下さい」
皆が空を見上げると、太陽が突然大きく、淡くなり、ものすごい勢いで
西へと移動を始めた。数分間の異常な移動が終わると、太陽は午後1時か
2時ほどの地点に収まり、元の大きさに戻った。時刻はまだ正午少し過ぎである。
「わたしたちのいる、直径数十センチの空間の真上を太陽が通過したのです。
この事情により、この空間は同じ地域の別の地点よりも日照時間で損を
しています。ここだけが温帯地方のような気候なのもこれが原因でしょう」
あんぐりと口を開けて空を見るわたしたちの横で、イマカタ博士は最後に
重要な事項を付け加えた。
「注意せねばならないのは、この空間内では、外部への無線連絡も、また
GPSの使用などもできなくなる、ということです。外部との連絡はこの門を
出てから行わねばなりません。これは肝に銘じておいて下さい」
〈第3章 ある論争〉
マレー博士とアンナさんが、採取された標本をはさんで言い争いをしている。
一言で言えば、ネズミのようにも巨大な蜂のようにも見える生物を、
「ネズミバチ」と呼ぶべきか、「ハチネズミ」と呼ぶべきかという論争である。
わたしたちがあの門をくぐり抜けてから2日が経過していた。わたしたちの
目的地は中心部にある山だったが、直線距離にしてたかだか5キロしかない
はずの探索行は予想以上の難路で、ようやく半分を過ぎたかどうかという
ところだ。起伏の多い土地を、歩きやすい場所を選んでくねくねと蛇行する
能率の悪い行程だった。
途中、最も多く出くわした動物は例のギガンタピスであり、次に多かったのが
この蜂のようなネズミのような生物である。それ以外にも奇怪な生物が数多く
存在する、生物学者にとっては夢のような、あるいは悪夢のような空間だった。
途中、貴重な光学顕微鏡と簡易遺伝子解析キットをだめにしてしまったのが
1つの大きな痛手である。これがないため、観察はすべて肉眼に頼るしかなく
なったのだ。今現在進行中の論争も、持ち帰った標本を遺伝子解析にかければ
早々と決着がつく可能性がある。だが2人は、半分は意地で、そして半分は
気晴らしのために、肉眼解剖学の範囲内で自説を論証しようとしているのである。
マレー博士によれば、この生物はハチネズミと呼ぶのがふさわしい。
なぜなら、博士の説では、これは蜂に擬態したネズミなのだからである。
このハチネズミを始め、この空間内にいる多様な動物は、どれもこれも蜂、
さらに言えばギガンタピスを思わせる外見をしている。つまり青い腹部、
黄色と黒の縞模様、それに太い触角、といった特徴だ。ハチネズミについて
言えば、ネズミの顔に蜂の複眼、触角、大顎をつけ、腹部に青い皮膚を、
背中に黄色と黒の装甲を背負わせ、蜂の翅を生やしたような外見である。
他にも(マレー博士流の命名によれば)、ハチイタチ、ハチインコ、
ハチトカゲ、ハチヘビなどが観察または採集されている。
マレー説によればこれらの生物は「拡張されたベイツ型擬態」を行っている
とされる。20センチの巨大蜂は、生態系の多くの動物にとって重大な脅威である。
それゆえ、種のいかんを問わず、ギガンタピスに擬態する戦略は外敵の攻撃を
かわす有効な手段であるはずだという。
対するアンナさんは、これらの生物は、ギガンタピスが進化した姿であり、
昆虫類に分類されるべきだと主張している。それゆえ目の前の標本も
「ネズミバチ」と呼ばなければならないのだ。
アンナさんが強調する事実は、蜂や蟻のような社会性昆虫に見いだされる
顕著な「多型」現象である。つまり、高度に発達した社会性昆虫においては、
同じ親から似ても似つかない異なる子供たちが産み出される。そしてわたしたちの
出会ったギガンタピス風の怪生物はすべて、ネズミ、イタチ、インコ、ヘビ
などへの擬態あるいは収斂進化を行った、同一種の進化型ギガンタピスに属する
個体だというのである。
すべて昆虫だというだけではなく、すべて同一種だとまで主張する根拠は、
彼らが身にまとっている文様があまりに均質だという点にある。そしてこの
極度に多様な多型現象を裏付けるメカニズムとしてアンナさんが主張するのは、
アンナさん独自の「情報爆発」の理論である。
例えば固定した異物しか排除できない生体防御系から、ある臨界点を境に、
膨大な数の抗原を識別し記憶する免疫系が生じる。あるいは、固定した
本能モジュールの集合体だった脳が、汎用知能ツールとしての人間の脳に
移行する。これらが「情報爆発」の例だ。そしてアンナさん独自の数学的な
分析によれば、ある種の社会性昆虫の多型現象はまさにこの「情報爆発」の
臨界点間近に達しており、この生態系の中でギガンタピスがその臨界を突破し
「汎用擬態システム」を構築した可能性は十分にあるというのだ。
入り組んだ説を滔々と述べるアンナさんに対し、マレー博士がたまりかねた
ように言う。
「いいかい? 見たまえ。これは脊髄、これは頭蓋骨だ。いったい、脊髄やら
完全な内骨格を備えた昆虫なんてものが存在すると思うかね?」
アンナさんが切り返す。
「それをおっしゃるなら、ちゃんと腹神経節だって観察できますわ。それに
複眼と触角を備えた哺乳類なんていますか? さらにこれをご覧なさい。
気門ですよ気門!」
双方とも、自分の立場の不利な点を十二分に自覚し、単なる意地の張り合いに
なりかけていることに気付いている。見かねたわたしがおずおずと口をはさむ。
「結局、ありうる可能性は一つしかないのでは?これら一群の動物は、昆虫でも、
脊椎動物でもない、まったく未知の門に属する別系統の動物なのでは……」
「もちろん一つの合理的な説明だ。だが、説明放棄に等しい説明だ!!」
「そうよ。それを言ったら話はおしまいよ。だから違う可能性を
考えてるんじゃないの!!」
両博士から同時に反論されたわたしは黙り込むしかない。そしてそのまま
黙り込んでしまった二人と共に、わたしもまたパラドックスのかたまりである
標本をじっと見つめるしかなくなる。
――ダーウィン進化の大原則は「分岐進化」にある。一度枝分かれした種が
再び合流することはない。この原則があるからリンネ式分類というものが
可能になる。これは自然選択説と同じくらい重要なダーウィンの発見だ。
もちろん、擬態や収斂進化などによって、異なった枝の生物が類似することは
しばしばある。しかしそれはあくまで外見上の類似に過ぎず、解剖学的に
見れば、それが全く異なる枝に属することが判明するものなのだ。
そしてこの原則に従う限り、目の前のこの生物は、マレー博士の言う
「蜂に似たネズミ」か、アンナさんの言う「ネズミに似た蜂」か、わたしの言う
「蜂でもネズミでもない未知の類」か、そのいずれかでなければならない。
「蜂でありかつネズミである」などという解釈は、ダーウィン進化に対する
重大な違反以外の何ものでもないのだ。
停滞した会話を切り替えようとしたのだろう、マレー博士が別の話題を
振ってきた。
「朝花さんはもともと比較言語学者のはずなのに、どうして生物学者に鞍替え
したのかな? これまでのキャリアをあまり活かせない気がするし、言語学界
としても、君のような才媛を手放すのは大きな損失だったのではないかな?」
誉めるつもりだったのだろうが、わたしにとって微妙な問題に入ってしまった
ことにアンナさんは気づいたようで、はらはらした表情を浮かべている。
とはいえ、わたしにとっては何度も自問した問題で、もはや迷いも後悔もない。
わたしはにっこりと笑みを浮かべてマレー博士に答える。
「進化心理学に乗り換えたのは、言語というものをもっと根本的に、生物レベル、
動物のコミュニケーション一般のレベルで明らかにしたかったからです。
もちろんこれまでのキャリアをそのままは活かせないし、学界への貢献度も
減るでしょう。でも、わたしには時間がないんです。その限られた時間を
有効に使いたい。学問のためにわたしがいるのではなくて、わたしのために
学問を利用したいんです。
マレー先生、わたしの肺には時限爆弾が眠っているんですよ。そして20代前半の
どこかでそれが目覚める。APVウィルスをご存じでしょう? わたしはその
キャリアなんです。子供時代の不運としか言えない事故が原因です。潜伏期間が
過ぎると、劇症の肺炎を発症し、両肺がほぼ一瞬で機能を失い、死に至る。
未だ根治はおろか、症状を緩和する手段すら暗中模索という難病です」
わたしの告白に、マレー博士も、その後ろで観測データを整理していた
イマカタ博士も愕然としている。わたしは言葉を続ける。
「気にしないで下さい。もう十分向き合い、悩み、自分なりに解決できている
問題のつもりです。誰だって人生の時間は有限。それがちょっと短いという
だけのことです」
沈黙したままのマレー博士とイマカタ博士の視線は、いつしか、植物の標本を
せっせと整理しているわたしの父に注がれる。わたしは、ああ、やはり誰でもそう
思うのだな、と、自分の密かな推測が裏付けられたのを感じ、暗い気持ちになる。
父はこの異空間に入って以降、何かに取り憑かれたように植物の標本をただ
収集し整理する作業に専念していた。父の関心からすると、もっとずっと
興味深い事例がいくらでも見つかってきたにもかかわらず、そちらはなおざり
だった。マレーvsアンナ論争にも、介入するそぶりすら見せなかった。
そんな父の様子は、父の今回の計画の真意が、純粋な学問的調査というよりも、
この未知の生態系の遺伝子資源の把握にあることを示唆していた。スポンサーを
引き受けてくれた製薬会社との密約でもあったのかもしれない。だが、
だとしてもその情熱の源は恐らく、わたしの病を治す新薬となるべき物質が
見つかるのではないか、という想いにつながっているのだ。
実のところわたしは、父の才能や知性をそんなことのために費やして欲しくは
なかった。闇雲な植物採集などではなく、巨視的な視点からのこの生態系全体の
分析に、それを振り向けて欲しかったのだ。だが、それを正面から指摘する
勇気はわたしにはなかった。それに動機はどうあれ、スポンサーとの
契約不履行で父が莫大な借金を抱え込む可能性もあるのだ。
〈第4章 刀根アンナ博士の失踪〉
1週間が経過した。中央部の山を目指すという当初の予定はどうやら断念
せざるを得ない見通しだった。大きな関門は山を取り囲むように広がる
うっそうとした森、あるいは「樹海」である。幾たびかの危険な経験から、
この樹海が奥に行けばいくほど、獰猛な大型哺乳類や大型爬虫類、あるいは
それらを模した、毒針を持つ蜂類が跋扈する、飛び抜けて危険な区域らしい
ということが分かっていた。それで、探検隊の進路は山を目指すのではなく、
樹海の周囲をめぐる探索に切り替えられていた。
マレー博士とアンナさんは恒例の言い合いが誘発剤になったか、男女として
急接近したようだった。いつのまにか同じテントで寝るようになっていた2人に
文句を言う野暮な輩はいなかった。2人とも独身で、恋人もいないとのことで、
冷やかし以上の邪魔をする理由はないのだった。
ある朝、アンナさんと調査に出かけたマレー博士が血相を変えて
ベースキャンプに駆け戻ってきた。
「大変だ! アンナがハチワニに襲われた! 一応ハチワニはスタンガンで
追い払ったが、アンナは大けがをしている! 救急セットと、あとは銃を!」
慌ててテントから出てきたわたしたちを制してマレー博士は言った。
「失礼ながらお嬢さんがた2人と美府先生は僕の足には追いつけないでしょう。
後から担架をもって来て下さい。場所はC12ポイントの池のほとりです。
ハチワニの方は銃があれば大丈夫です。じゃ、急ぐんで、これで!」
それだけ言うとマレー博士は自分自身が弾丸になったような勢いで
飛び出していった。わたしと父は担架を用意し、イマカタ博士には留守番を
お願いして、後を追った。
事件の現場には、茫然と立ちすくむマレー博士がいた。アンナさんは
どこにもいなかった。ただならぬ雰囲気に、わたしたちはしばし沈黙
せざるを得なかった。それからようやく父が問いかけた。
「何があったのかね? まさか……アンナ君がハチワニに?」
マレー博士は首を振り、うなだれて言った。
「ハチワニはアンナがスタンガンで撃退できていたようです。しかし、
私が駆けつけたとき、ちょうどアンナがあいつらに連れ去られるところでした。
スタンガンは取り上げられ、手足を拘束されて、アンナは連れて行かれて
しまいました。……私の射撃の腕で、アンナに当てずにあいつらを撃つのは
無理でした。威嚇射撃は行ったものの、まるで気にとめる気配もなく、
わたしにしびれ薬のような針を発射した。しびれはすぐにとれましたが、
そのときにはもうあいつらもアンナもどこかに行ってしまっていた……」
父が尋ねる。
「『あいつら』とは?」
マレー博士は答える。
「ハチザル……いや、ハチ人間だろうか?……いやそんなはずはない。
やはりハチザルです。ハチに擬態した大型猿類か、あるいは、アンナ説に
よるなら、猿か人間に擬態した進化型ギガンタピスということになる。
青い無毛の皮膚に、蜂の胴体のような模様のついた乳房、蜂そのものの顔。
この生態系ではお馴染みのデザインの生物ですが、完全な二足歩行で、
体型も人間によく似ていた……」
マレー博士の言葉はすぐに裏付けられた。アンナさんが連れ去られたという
地点の地面はぬかるんでおり、そこにアンナさんの靴痕とは別の、大型猿類か
人間の足跡のようなものが大量についていたのだ。足跡はあの危険な樹海の
方角へまっすぐ向かっていた。わたしたちはショックで未だにがくがくと
震えているマレー博士を慰めながら、まずはキャンプに戻るしかなかった。
わたしもまた体が震え始めたのを感じた。そして、それが単にマレー博士の
恐怖が伝染したためではないことに、すぐに気付かされることになった。
〈第5章 美府陸博士の選択〉
キャンプに戻ったわたしたちは、今後の方針について相談を始めた。
選択肢はほぼ2つだった。今すぐありあわせの装備をまとめ、アンナさん
救出にあの山へ向かうか、1度キャンプを畳み、新たに十分な装備を整えた
救出団を組織した上で、アンナさん救出に向かうか、である。
実のところ、アンナさんを救出する手段としては、どちらの選択肢も決して
現実味のあるものではなかった。まず、現在の装備のまま、毒針を備えた
猛獣たちの巣に分け入るというのはあまりに危険すぎて実行が躊躇される
選択肢である。だがまた、ここを出て新たな救出団を組織するための予算的な
当てはなく、少なくとも短時間で可能な計画ではない。そうこうしている
うちにアンナさんの生存はほぼ絶望的なものになってしまうに違いないのだ。
意外なことに、今すぐここを脱出する、という案を強硬に主張したのは
マレー博士だった。アンナさんを見捨てるような選択をこうも強く主張するのは
どこか奇異だったが、どうもあの「ハチ人間」に対する得体の知れない恐怖心が
この学者を支配してしまったようだった。他方、即時救出を主張したのは
イマカタ博士だった。だがこの提案がいささか軽薄な動機に基づくものなのは、
イマカタ博士以外の者には明らかだった。イマカタ博士はあまりフィールドに
出ておらず、この異空間に巣くう動物たちの危険性に一番触れていない
人物であり、だからこそまた常々、あの山に赴いて重力異常を詳しく
観測したい、とだだをこねるように主張していた。それを今回も繰り返して
いるだけなのである。
議論は膠着状態になり、時刻は夕刻近くなっていた。結局、隊長である
父が決断を下すことになった。
「……あくまでアンナ君救出隊の再組織を大前提とした、一時的な撤収を
行おうことにしよう。あの山の危険性はもとより、朝花の病状を考えると
それが最善の選択肢だと思う」
実は、この会議の大部分を、わたしは寝袋の中、高熱に浮かされながら
ぼんやりと聞くしかない状態にあった。午前中に感じた悪寒はすぐに高熱へと
移行し、わたしは立っていられなくなったのだ。マラリヤに似た悪質な
感染症だと思われた。
感染症自体はこのような調査行にはよくあることで、各種ワクチンの備えも
十分だった。しかしながら、この空間は先史時代の失われた生物、独自に
進化を遂げた生物の宝庫であった。わたしの高熱は未知の病原体を原因と
しているらしく、手持ちのワクチンがまるで効かなかったのだ。
そしてわたしの場合、一般の人に比べて危険度ははるかに高いと言えた。
このまま衰弱が進むと、APVウィルスが活性化して一挙に死への坂道を
転げ落ちるしかない、という危険な状態にあったのだ。
会議が終わり、陰鬱な夕食を終えた頃には、わたしのそんな病状は
誰の目にも明らかになっていた。このままでは明日いっぱいわたしの命が
保つかどうかあやしい、というのが冷酷な現実であった。
わたしの手を握り、励ます父に笑顔を向けながら、わたしは言葉に出さずに
こんなことを考えていた。
――せめて博士論文はまとめたかったな。でもまあ、ずっと覚悟していた
ことだ。思ったより、ちょっと早く来ちゃっただけ。誰も見たことがない
こんな世界に来られたんだから、それで十分だ。あんなに張り切っていた
お父さんを悲しませるのだけが、心残りだな――
そのあたりでわたしの意識は途絶えた。
次に目を覚ましたとき、わたしは毛布にくるまれた状態で父の背中にいた。
父におぶわれるなど何年ぶりか分からなかったが、背中の感触と匂いは
紛れもなく父のものだった。
はじめは、探検隊がキャンプを撤収し、引き上げる途中なのかと思った。
だが周りを見るとまだ早朝というも早い時刻で、しかも他のメンバーの姿も
なかった。そしてこの道は出口への道ではなく、例のC12地点へ向かう道の
ようだった。
「……ここは?」
未だ熱の下がらないぼうっとした頭のまま、わたしは父に問いかける。
父は重々しい声でゆっくりと答える。
「目が覚めたのだね。聞いて欲しい。おまえの命は、今のままではあと1日
保つかどうかだ。色々考えたのだが、おまえが生きながらえる唯一の可能性は
これしかないんだ。この方法ならば、多分、かなりの確率でおまえは助かる。
ついでに言えば、アンナ君もまた、命を落としてはいないはずだ」
同じく生死不明とはいえ、まるで状況の異なるはずのアンナさんの名が
飛び出したことにわたしは戸惑う。だがそんな当惑をよそに、父はさらに
関係のなさそうな話を続ける。
「マレーvsアンナ論争、あるいはおまえの説も加えた、マレーvsアンナvs
朝花論争だがね、植物の整理が忙しくて参加できなかったものの、私には
私なりの説があるんだ。多分一番正しい説がね。思うに、ダーウィンの
分岐進化の原則はとても重大な発見だが、だからといってそれを盲目的に
信奉すべきではないんだよ。
衰弱したおまえに、今ここでこれ以上詳しい説明はできない。だから、
いくつかのヒントだけ与えておく。覚えておいて、体調が戻ったらゆっくり
考えなさい。いいかい。ヒントは4つ。おまえの元々の専攻、地衣類、
サムライアリ、寄生蜂だ。覚えたかい?」
「……比較言語学、地衣類、サムライアリ、寄生蜂……」
うわごとのように復唱したわたしに父のうなずいた気配があった。父は
言った。
「いいだろう。今は覚えるだけにして、また眠りなさい。お父さんにすべて
任せて……」
催眠術のような父の言葉に、わたしの意識は遠のきかけた。だが、薄れゆく
意識の中、池のほとりにたどり着いた父が、わたしを地面に降ろしたのを
感じたとき、わたしの心に当然の疑問が浮かんできた――そもそも父は、
何をしたくてわたしをここに連れてきたのか?
わたしは、睡魔に抵抗し、ことの成り行きに注意を払った。父は例の
ハチワニをスタンガンや威嚇射撃で追い払いながら、何かを待ちかまえている
様子だった。しばらくそうしているうち、どこからともなく10人ほどの人影が
現れ、わたしたちに近づいてきた。徐々に明るくなる朝の光に照らされた
女性らしき人影は、青い皮膚、黄色と黒の警戒色を彩った乳房、人間に
似た顔に蜂そのものの複眼と触角を付け加えた異様な姿――マレー博士の
言うところの「ハチザル」あるいは「ハチ人間」……あるいはむしろ
「蜂女」だった。
父はそれを確認すると、信じられない行動をとった。わたしの顔を複雑な
表情でじっと見つめてから、わたしを置き去りにしたまま、きびすを返し、
キャンプのある方角へと足早に戻り始めたのだ。まるでわたしを蜂女たちへの
貢ぎ物にでもするようにだ。
わたしは父の正気を疑わざるを得なかった。考えてみれば先ほどから
父の話は支離滅裂ではなかったか!?
わたしは立ち上がり、父を追おうとした。だがそのとき、わたしは自分の
両足と上腕が毛布ごと縛られているのに気付いた。
蜂女たちはやがて、身動きのとれないわたしを取り囲み、大勢でわたしを
抱え上げると、あの山の方へ歩き始めた。動揺と混乱はすぐに深い疲労に
わたしをいざない、わたしは昏睡に近い状態へと転げ落ちていった。
〈第6章 ギガンタピスの進化〉
次に目覚めたとき、わたしがいたのは段ボールのような感触の、奇妙な
床の上だった。朦朧とした意識のまま自分の体を見ると、
何一つ身につけていない全裸の状態であることがわかった。
わたしはうつぶせの状態で肩と腰を2体の蜂女に押さえられていた。ふと
正面を見るとアンナさんがやはり全裸の姿で、心配そうな表情を浮かべて
こちらを見ている。
すると下半身を押さえていた蜂女がわたしの腰を持ち上げ、両足を開かせて、
ひざを地面につけた。わたしは両肩を地面につけ、お尻を高く突き出すという
みっともない姿勢にされた。背後を見ると、蜂女が一見人間に似た口を開け、
中から何か緑色のどろどろしたものを、やはり人間そっくりの手の上に
吐き出し、それをもう一方の指先でつまんでいた。ふと見えた口の中に
歯は見あたらず、昆虫の複雑な口器のようなものが中でカチカチと鳴った。
やがて蜂女は手にした緑色のかたまりをわたしの肛門に押し当てると、
ぐいぐいと押し込み始めた。
「ひっ! や……やだ……やめて!!」
わたしは消耗しきったのどを震わせ、つぶやくように抵抗の言葉を
発したが、無論何の効果もなく、作業は続けられた。
まるで機械のような作業が終わると、2体の蜂女たちは巨大な翅を
羽ばたかせ、天井の穴から外へ出て行った。見たところ、それが唯一の
出入り口のようだった。
奇妙なことが起きたのは、そんな屈辱としか思えない行為が終わった
数分後だった。もはや限界に達しかけていた身体の衰弱が止み、熱が引いて
きたような気がしたのだ。わたしはあおむけになり、何度か深呼吸をした。
呼吸をするたびに体に活力が戻ってくる感覚があった。
朦朧としていたわたしの目に急速に生気が戻ってきたのは、はたから
見てもはっきりしていたのだろう。わたしを見ていたアンナさんの心配げな顔が、
ほっとした顔つきに変わり、近づいてわたしの額に手を当てながら言った。
「すごいわ。抗生物質と、解熱剤と、栄養剤をいっぺんに処方したような
ものかしら? でもまだ無理はよくないわ。まずはちょっと眠っておくといい。
話は起きてからにしましょう。時間はいっぱいあるみたいだし……」
アンナさんの言葉を待つまでもなく、これまでの命を削るような
意識混濁とは全く違う、健全な眠気が襲ってきて、わたしは眠りについた。
目覚めたのはアンナさんのひざの上だった。目を開けると優しい、
しかしどこか暗い陰影を含んだ表情のアンナさんがわたしを見ていた。
「目が覚めた? ほんの数時間だけど、とてもいい顔で眠っていたわ。
気分はどう?」
わたしはあのマラリヤまがいの熱病がすっかり直っているのを自覚した。
「もうすっかりよくなったみたいです。とても快調!」
そう言いながらわたしは部屋を見回す。10畳ぐらいの丸い部屋。壁も床も
パルプのような素材でできていて、床の一方の隅には直径20センチほどの
穴が空いており、反対の隅には果物と魚の干物のようなものが置かれている。
アンナさんがそれを順に指さし、解説するように言う。
「トイレと水分と食料、ということらしいわ」
アンナさんは続ける。
「わたしの説から言えば、あれはサルバチ、いえ、ヒトバチ、つまり人間に
擬態したギガンタピスということになる。この仮説で、あなたに『処方』
された『坐薬』も、わたしの足のこれも、十分に説明がつくわ」
そう言ってアンナさんは、ハチワニ、いや、アンナ説によればワニバチに
噛まれたらしい、右足の傷を指さした。傷口は痛々しかったが、しかし
きれいにふさがり、肉が盛り上がり始めていた。
「普通なら化膿や、さらには壊死や重篤な感染症を発症してもおかしくないほど
深い傷だった。だけどあの生物はみごとな外科的、内科的な処置を施して、
あっという間にここまでの状態にもっていってくれたわ。
だけどね、わたしに言わせれば、これは本当の意味での『医学』なんて
いうものではないし『文化』でもない。むしろ本能。キノコを栽培する蟻が
いるでしょ? あれと同じ。多分、わたしやあなたは、あの生物によって
仲間だと誤認されたの。そして仲間の体を修復するプログラムが働いて、
ここに運び込まれ、本能の命ずる処理が施された。そういう説明が可能だし、
わたしに言わせれば一番自然な説明だわ。
あなたも見たでしょ? あの何の感情もこもらない機械的な動作。あれは
『彼女たち』の本質が社会性昆虫に過ぎないことをはっきり示唆しているわ。
あいつらが哺乳類の仲間だなんて、低脳の頭にしか浮かばない仮説だわ!」
自説を得々と語り、対抗仮説を罵倒するアンナさんは、キャンプで
マレー博士と言い争っていたときとは様子が違っていた。余裕というものが
全く感じられず、険悪な敵意がむき出しになっていた。
わたしの怪訝そうな顔に気付いたのか、アンナさんはマレー博士の話を始めた。
「わたしはあの男に見殺しにされかけたのよ! あなた方にどう説明したのかは
知らないけど、あいつは蜂女に連れ去られるわたしを、銃を下ろして、
にやにやしたような、ほっとしたような顔で、じっと見ているだけだったの。
美府博士の教育的配慮なんでしょうけど、あいつが独身だというのは嘘よ。
ちゃんと奥さんと子供がいるわ。結局、あいつとしては遊び以上のものでは
なかったんでしょうね。そして急に後ろめたくなって、わたしを邪魔に
感じ始めたに違いないわ!!」
ヒステリックに叫び立てるアンナさんに、わたしは困惑していた。
アンナさんの言い分は正しいような気もする。特に、マレー博士が
キャンプ撤収案を強硬に主張したあたりが、その疑惑を強める。
しかしまた、アンナさんが事実誤認をしている可能性もある。マレー博士は
蜂女の毒針で痺れて動けなくなったと証言していた。その麻痺し弛緩した
表情を、アンナさんは自分をあざ笑い、見殺しにしようとする顔だと
思いこんだだけではないのか??
だが、今のアンナさんにそれを言っても、頭から否定されて終わりだろう。
そもそも、わたしの説も、アンナ説と同じぐらい憶測的なのだ。
そうして返答に困っている内、わたしは父の謎めいた「ヒント」と
その後の不可解な行動を思い出し、話題を切り替えることにした。
「マレーさんへのお怒りは分かりました。おっしゃる通りなら、ひどい人だと
思います。でも、今度はこちらの話をしてもいいでしょうか? 父の話です。
そもそも、わたしがなんでここにこうしているかわかりますか?」
首を振りながら、アンナさんは基本的な事実を聞いていなかったことに
気付き、我に返った様子でわたしの話を聞き始めた。
「わたしをここに運んだのは父なのです。正確に言うと父は、風土病を発症し、
PAVを併発しかねない危険な状態のわたしを、例の池のほとりまで運び、
蜂女たちに委ねたのです。結果、わたしは今こうして治癒している。では、
父は、蜂女がわたしに坐薬を打ってくれることを予測してその行為を
行ったのか? どう思いますか?」
首を傾げながらアンナさんが言う。
「そうねえ。仮に美府博士がわたしと同じ仮説に立っていたとしても、
その行為は無謀すぎると言うしかないわ。不確定要素があまりに多すぎる」
「そうですよね。父が得ていた情報だけから、蜂女がわたしを仲間だと思いこみ、
治療してくれるなんて考えるのは、無謀すぎる賭です。しかも、父はアンナ説を
はっきり否定していたのです。正確に言うと、アンナ説でも、マレー説でも、
それから朝花説でもない、一番有力な説を自分はもっている、と言っていました。
分岐進化の原則に囚われすぎてはいけないとも。思うに、父の真意は、
この父の仮説から導かれるものに違いないのです……」
わたしは急速に回転を始めた頭で、父のヒントをつなぎ合わせ、喋りながら
思考を整理し始めた。
1つ目のヒントは「わたしのかつての専攻」だ。
「わたしが専攻していた比較言語学では、『分岐進化』だけではなく
『融合進化』も同じぐらい重要です。例えば現代日本語の語彙は、大和言葉、
漢語、西洋語という異なる起源の言語が混じり合うことで成立しています。
言うまでもなく、てんぷらもボーイズラブも立派な現代日本語の一部です」
アンナさんは首を傾げる。
「それは認めるけど、言語や文化の進化と生物進化は違うわ。前者には
分岐も融合もありだとしても、後者には分岐しかない。この原則は絶対よ」
わたしは父の2番目のヒントを思い浮かべて言う。
「すべての生命現象は分岐進化という枠に当てはまる、という意味では
その通りです。しかし、融合だと見る方が便利な現象は存在します。葉緑体や
ミトコンドリアの共生進化は有名な例です。他に地衣類という例もあります。
地衣類というのは藻類と菌類という異質な系統の共生体で、それぞれ別々の
分類群に分類されている。しかし現実的には、その2種類の生物が生活環の
すべてで運命を共にし、単独では生存できない、という意味では、
2つの系統がここで融合してしまった、と言ってしまった方がわかりやすい」
ここまで話したわたしは、3つ目のヒントに自然に話がつながるのに気付く。
「ひとたび地衣類を融合進化の事例だと認めてしまうと、融合進化の実例は
一挙に増える。高等な動物で探せば、サムライアリなんかどうでしょう?
サムライアリは他の種の働き蟻を誘拐し、自分たちの奴隷として使役する。
さらに言うと、奴隷に仕事をさせなければ飢え死にしてしまうほど、奴隷に
依存している。ここまでくると、サムライアリと奴隷蟻は一体となって1つの
生物体をなしていると言ってもいい。これも融合進化の一種だと言おうと
すれば言えます」
アンナさんは何かに気づきかけたような、どこか不安な顔を浮かべる。
わたしも、父の仮説が何であるのかの予感が強まるごとに、不安もまた大きく
なってくるのを感じる。それでもわたしは、4つ目のヒントに話を進めるのを
止められない。
「ここで話を、膜翅類の別の有名な進化戦略に移してみます。寄生蜂という
種類がありますね。寄生蜂への進化は膜翅類の中で何度か独立に進化した。
そして、その進化は一定の段階を踏んでいる。専門家のアンナさんには
言うまでもないことですね」
アンナさんは青ざめながら話を受ける。
「そう。進化の初期の段階では寄生相手の死体に卵を産み付け、幼虫は
腐りやすい死肉を食べて育つ。やがて進化が進むと、幼虫へのケアが手厚く
なり、親バチは寄生相手をすぐに殺さないようになる。つまり神経系や
その他生命維持にかかわる部分を破壊せず、麻痺だけさせて、生きたままの
宿主の新鮮な肉を幼虫がいつも食べられるように仕組む」
わたしは徐々にはっきりしてくる不安を見据えながら、アンナさんに質問する。
「では、この進化戦略がもっと先に進んだらどうなると思いますか?」
アンナさんはごくりと唾を飲み込んで言う。
「宿主を生かしたまま操るタイプの寄生形態に移行する可能性が大きいわ。
さらに言えば、幼虫が宿主の肉体の都合のいい器官をそのまま流用しながら
自分の肉体を成長させるような進化も……可能でしょうね」
わたしは確認する。
「それは、サムライアリが奴隷アリを操るように?」
うなずいたアンナさんが言う。
「そう。それを、もっとずっと進化させたようなものになるでしょうね」
わたしは決定的な質問をアンナさんに向ける。
「その可能性、机上の空論だと思いますか?」
アンナさんはしばしの沈黙の後、意を決したように言う。
「いいえ。少なくともわたしたちは、そんな風な進化の産物だと考えても
よさそうな実例をはっきり目にしているわ。神経系と内骨格は脊椎動物。
なのに複眼と触角と大顎、さらには気門まで備え、昆虫類としての腹神経節も
発達させているような奇妙な生物……わたしの説も真相の一端は捉えていた
けど、すべての臓器が昆虫由来のものだという点で誤っていた。
臓器の半分は、宿主からの借り物だったのね。
……多分、この異空間の中で、情報爆発の助けを借りたギガンタピスは、
膜翅類の中で何度か生じた進化傾向を行き着くところまで発展させたの。
宿主の肉体をただ食い荒らすだけではなく、主要な生命維持器官を残しつつ、
幼体自体が宿主と細胞レベルで融合しながら成長を続け、その神経系を
丸ごと女王への奉仕のために使役させる。そんな進化が生じた」
わたしは敢えて確認する。
「その生物とは、ネズミバチのことですか?」
「ネズミバチだけじゃないわ。この空間内の独特の動物はみな、ギガンタピスに
寄生され、女王蜂に奉仕すべくその肉体を改造された動物たちでしょう。
イタチバチ、ワニバチ、インコバチ……みんな、進化型ギガンタピスの
宿主となったイタチであり、ワニであり、インコなんでしょう。……そして
もちろん、わたしたちをここに連れてきた、人間バチ、つまり蜂女も!」
わたしたちは、恐怖を紛らわせるために喋り続けるしかなくなっていた。
その会話がさらなる恐怖を招くとしても、口をつぐめない状態になっていた。
「つまり、『彼女たち』の体の半分は人間だということですよね?」
「そう。多分その部分の『材料』とされたのは、あの神殿を造った部族の
女たちの子孫のもの。そして多分……」
絶句してしまったアンナさんの言葉の先をわたしが続ける。
「……もう少し後の、わたしたち自身の肉体の運命。……そうですね?」
青ざめたわたしも、もはや何も言えなくなり、アンナさんに歩み寄り、
しがみついた。恐怖で涙がぽろぽろと出てきた。アンナさんもわたしを
ぎゅっと抱きしめ、わたしの頭に涙をぽたぽたと落とした。二人とも
がたがたと震えていた。やがて、天井の穴から数匹の蜂女が降り立ち、
怯えきった二人をがっしりと抱えて宙に舞い上がった。
わたしは、わたしを抱え込むひんやりとした皮膚にこの上ない恐怖を
覚えながらも、心の別の部分では、父の真意を理解するに至っていた――仮に
肺の全切除と同時に呼吸器系の総入れ替えをする、というような手術が
可能ならば、PAVの根治は可能だろう。父は、その奇跡とも言える手術を
実現する術を、ついに発見したのだ。その結果、わたしはマラリアの治癒
どころか、一般人に近い寿命を手に入れることになるだろう。アンナさんたちの
所見ではギガンタピスの成虫は数十年という異例の寿命をもつことが
分かっている。だから多分、わたしの余命は、少なくとも今現在の
十数倍にはなるはずなのだ……
〈第7章 刀根アンナ改造〉
わたしたちは大広間のような部屋に運ばれてきた。やはり高い天井の穴
以外に出口のない空間で、仮に蜂女の拘束を振りほどいて逃げ出せたとしても、
外に出られる見込みはなかった。
声の限り泣きわめき抵抗を試みたわたしたちは、エネルギーを放出しきり、
鈍い恐怖と絶望に彩られた放心状態のまま、ぼんやりとあたりを見回した。
広間の中では、多数の蜂女やその他のハチ型生物が動き回っていた。
「彼女たち」の足下には、様々な大きさの保育器のような構造物がたくさん
並んでいた。中には、進化型ギガンタピスの宿主となるべき様々な動物種の
幼体が収められている様子だった。その内のいくつかは、たしかに幼い人間
のように見えた。
また、部屋のあちこちに、大小様々の奇怪な構造物が配置されていた。
アーチ型で、ギガンタピスと似た文様が刻まれている単純な作りの構造物だ。
何のための構造物なのか、そもそも生物の一種なのか、ギガンタピスが
作り上げた家具のようなものかすら、定かでなかった。
そして、部屋の中央に女王蜂らしき存在が鎮座していた。蜂としては
ギガンタピスよりもさらに巨大な蜂と言うしかないが、蜂女よりも一回り
大きい程度のサイズだ。原種のギガンタピスをそのまま巨大化させたような
姿で、地上から1.5メートル程度の高さに、蜂そのものの顔が位置し、
首の周囲を紫の体毛が取り巻く。その下にはギガンタピス特有の青い
きゃしゃな胴体、その胴体からは、細く繊細な前脚と、巨体を支える頑丈な
中脚、後脚が生える。その下の、黒と黄色の鮮やかな警戒色を刻んだ、
ひときわ巨大な腹部は、前方へと折り曲げられ、太い脚の間から腹部の
先端が突き出している。腹部を伸ばした全長は2.5メートル程度だろう。
体重は同じサイズの哺乳類よりも軽そうだ。
異様な空間の中、わたしたちが茫然と周囲を眺めていた時間はどれほど
だったのだろう。短かったのか、長かったのか。しかし停止していた時は
再び流れ出した。アンナさんを拘束していた蜂女たちがアンナさんを
女王の前へと連れ出したのだ。いよいよ始まってしまうのだ!
アンナさんは悲痛な声を張り上げる。
「やだ! 昆虫学者のわたしが、昆虫に支配されるなんて!!
昆虫になるなんて!!!」
日本語を解するはずもない蜂女たちは、機械のように無駄のない動作で、
アンナさんを大の字の姿勢にして女王の頭の下に横たえる。
女王はカチカチと大顎を鳴らしながら、やはり機械のような動きで、
中脚でアンナさんの両腕を、後脚の爪でアンナさんの太ももを固定する。
そしてアンナさんの首をひと噛みしてほんの少し動きを止めてから、
中脚の間に頭を潜り込ませ、細長く華奢な前脚を、まるで精密機械のような
動きでアンナさんの……女性として大事な部位のあるはずの場所に運ぶ。
ここからでは、何が起きているのかこれ以上詳しくは分からない。だが、
はじめ大声で悲鳴を上げ、全力でもがき、抵抗を試みていたアンナさんの
様子が徐々に変化し始めたのは分かった。
「ああ……やめて……やめてよ!! ああ、ああ……」
アンナさんの言葉は、蜂人間に改造されることへの抵抗とは微妙に異なる
ニュアンスを含んでいるように感じられた。悲鳴は少しずつ切ないあえぎ声に、
抵抗の動作は、ただならぬ感覚に身をよじる動作に変わっていった。
恐らく、女王蜂がアンナさんに快楽、多分性的快楽を強要しているので
あろうことが、その種の経験に乏しいわたしにも明らかになってきた。
働き蜂として使役するための妨げになるであろう人間の理性を麻痺させる
ための策略ではないか、と想像された。
「うううん……あああ、いやぁ……いやよぉぉぉ………はっ……はっ……
あっ……あっ……」
切ないあえぎはやがて嬌声に変じる。もちろん、アンナさんの心の半分は、
蜂女への改造に対する恐怖と抵抗が依然として支配しているはずだ。その
感情もまた、その声から伝わってくる。だがいつしか、異形のものに変じる
ことへの恐怖の叫びと、さらなる快楽への期待と陶酔の叫びの境界線は、
まるで複雑なフラクタル図形のように錯綜し、やがて渾然一体としたものに
変わっていく。
「あっっ!! だめ!! それはだめ!! いやだ!!!
いやだぁぁ!!!!」
不意に、アンナさんは恐怖と陶酔の入り交じった叫びをひときわ大きな、
切迫した調子で発した。それは、何か決定的なことがアンナさんの内部で
行われたことを告げていた。……恐らくは、とうとう産卵がなされたのだ!
続く光景は我が目を疑うものだった。コマ落としの映像を見るかの如くに、
急激にアンナさんの肉体の変貌が進み始めた、つまりは産卵された卵が孵化し、
生物学的な常識を越えた速さで成長を始めたのだ。
下腹部を中心に、幼虫の皮膚を思わせる青い皮膚が広がり、全身を覆って
いく。乳房にぼんやりと黄色と黒の警戒色の同心円が浮かび、それが見る間に
鮮やかに濃くなっていく。先端の乳首だけは鮮やかで毒々しい赤になる。
頭髪が瞬時に抜け落ち、頭部にあの警戒色の装甲が形成され、紫の剛毛と
触角が伸びる。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああ」
もはや恐怖とも快楽ともつかない叫びは頂点に達し、アンナさんだったはずの
生き物は体を硬直させ、痙攣したようにびくんびくんと震える。その顔からは
急速に読み取りうる感情が消え失せていく。下顎の骨が溶けて吸収された
らしく、一瞬だらんと垂れ下がる。だがすぐに、あの異様な口器が内部で
形成されたのだろう、顎の形は元に戻る。ほぼ同時にアンナさんはまだ
かすかに発していたか細い声を発しなくなり、代わりに蜂女固有のカチカチ
というクリック音を発し始める。その後しばし続いたひゅーひゅーという
のどの音がかすれていったかと思うと、腹部の気門がシューッと開き、
動作を開始する。呼吸器系の急激な置換。恐らく、この想像を絶する
「改造」の速さつまり幼体の成長速度は、宿主の命を保持しながら複雑な
体制の改変を行うための適応なのだろう。そんな、理解したからといって
どうなるものでもない思考がわたしの頭にふと浮かんだ。
最後に目の周囲の組織が吸収され、複眼が形成されてしまうと、そこに
いるのはもはや一体の蜂女だった。
しばらく無表情な顔で上を見つめていたアンナさんはやがてむくりと
起きあがり、わたしの方に体を向けた。立ち上がったアンナさんの皮膚からは、
他の蜂女同様、頭部の紫の剛毛以外のすべての体毛が抜け落ちていた。
気門からガス交換が行われるたびに乳房はかすかに膨張し、女性器の部分が
ひくひくと蠕動していた。背中からは巨大な翅が伸び、一度完全に展開して
から、他の蜂女のようにきれいに畳まれた。
そうして完全な蜂女の姿に変貌してしまったアンナさんは、ゆっくりと
わたしの方に近づき始めた。次はわたしの番だ、ということをいやでも
思い出さざるを得なくなったわたしの心を、再び強い恐怖がわし掴みにした。
湧き上がる恐ろしさにせき立てられながら、わたしは今できることは何か
ないかと自分の記憶を猛烈な勢いで検索した。やがて、解剖されたネズミバチの
神経系の映像がふと浮かんだ。それを啓示としてわたしは声を限りに叫んだ。
「アンナさん! わたしよ! 朝花よ! 思い出して! 自分が何者かを!
あなたは人間よ! 優秀な昆虫学者よ! 蜂女なんかじゃないわ!!」
記憶の中のネズミバチの脳には、昆虫そのものの脳神経節からの何本もの
神経が食い込んでいたが、それでもきちんと哺乳類の脳が温存されていた。
アンナさんの人間として記憶も、もしかすると自己意識も、未だ残されて
いる可能性がある。それに呼びかければ、あるいは……
「思い出して!! あなたは蜂女じゃない!! 人間なのよ!!!」
だが、わたしの心に突きつけられたのは絶望だった。アンナさんは歩みを
止める様子もないまま、明らかにわたしの言葉に反応し、にっこりと機械的な
笑みを浮かべながら、カチカチというクリック音と共に、首を横に振った。
つまりは、わたしの言葉をはっきり理解した上で、自分が人間であることを
否定したのだった。それはまた、もうじきわたし自身の心もそんな風に
変えられてしまうだろう、という暗示でもあった。
「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!」
様々な思いが一挙にこみ上げ、わたしは絶叫した。
やがて人形のような笑みを浮かべたまま、アンナさんはわたしのすぐ横に
迫り、ひんやりとした手でわたしの腕をつかんだ。そしてわたしを拘束している
他の蜂女たちと共に、絶叫し必死に拘束を振りほどこうともがくわたしを、
容赦なく女王の前へ運んでいった。
〈第8章 美府朝花改造〉
床に寝かされたわたしの、真横に伸ばされた両腕を女王の中脚が固定し、
大きく開かれた大腿を女王の後脚の爪ががっちりと押さえ込んだ。次に
女王が始めたのは、その大顎でわたしの体のあちこちを噛むことだった。
鋭い大顎が、甘噛みというにも弱すぎるほどの力で首筋、脇腹、唇、
乳首、それに太ももの内側などに、ランダムとしか思えない順序で当てられた。
大顎の内側からは粘液をまとった細くて固い舌のようなものが伸び、
噛まれた部分に押しつけられた。
大顎と舌が、いわゆる性感帯と呼ばれる部位を狙っていること、そして
大顎から微量の催淫剤が注入されているらしいことに、わたしは気づき始めた。
しかも、当初まったくランダムとしか思えなかった刺激は、明らかにわたしの
反応を学びながら、より巧妙さを増してきていた。わたしの脳裏に、あの
恐怖と陶酔の入り混じったアンナさんの叫びが蘇り、わたしはわななきを
覚えた。このままわたしもあんな風になってしまったら、わたしもまた
心まで蜂女にされてしまうに違いないのだ。
だが、わたしはこの種の経験に乏しすぎ、それゆえ、何をどうすれば
快楽の波に抗することができるのか、見当もつかなかった。実のところ
わたしは、自分を襲っているこの刺激の行き着く先がどのような感覚なのか
すら、未だはっきり知ってはいないのだ。わたしはただ体を固くし、時折
不意に訪れる、感じたこともなかった独特の感覚に身構えようとすること
しかできなかった。そして、わたしのそんな心構えはあまりにも容易に
打ち砕かれ、わたしは未知の快楽に襲われ、一瞬心を置き去りにしかけて
はあわてて我に返る、という敗北を繰り返すしかなかった。要するに、
わたしは完全に女王のなすがままの状態だった。
ふと見ると女王は前脚も動かし始めていた。一方の前脚が脇腹に、
もう一方が乳首に、それぞれ独特の刺激を加え、そのかたわら、大顎が
乳房をつかみ、その先端を棒状の舌がはい回った。わたしはいつの間にか、
全身の性感帯らしき部位がまるでネットワークでつながれたように反応
し合っていることに気付いた。そしてそれらのネットワークはハイウェイとなり
下腹部の一点に集中し始めていた。やがてわたしはお尻の下側の
ひんやりとした感触を覚え始めた。まったく自覚しないうちに、大量の
バルトリン氏腺液を大量に分泌していたらしかった。
女王がわたしの肉体のそんな反応に気付き、次の動作に移行したらしい
ことをわたしは感じた。顔を中脚の間に潜り込ませ、前脚をわたしの局部に
移動させたのだ。わたしは、アンナさんが女王の生け贄に供されてすぐに
達した状態に、自分が今ようやく置かれたということに気付いた。恐らく、
経験を積み、性反応への回路が、どう表現すればいいか分からないが、
いわば「開発」されていたアンナさんは、催淫剤の注入のみで容易に
この段階にまで運ばれたのだろうと思えた。同時にわたしは、この段階から
アンナさんがいかに速やかに自分を失っていったかを想起し、戦慄を覚えた。
そしてあってはならないことだが、その戦慄の中に、これから自分に施される
はずの処理への渇望、憧憬のような感情が混じる込むことを、わたしは
拒みきれなかった。
女王は棒状の舌を、わたしの秘部の割れ目の部分をなぞるように上から下に
滑らせた。粘液が大量に染み出てきたのが分かった。それから女王は精密
マニュピレータのような前脚でわたしの外陰部を押し広げた。そうして
女性器を露わにすると、大陰唇に例の大顎のひと噛みを加えてから、粘つく舌で
小陰唇の粘膜をなぞるように刺激し始めた。これまでにない強い性的
刺激に全身の性感帯が同時に反応し、わたしは気を失いかけた。そして
女王の舌がぬめぬめと動くたび、性器の奥から波状的に粘液が染み出て
くるのを自覚した。
このままではいけない! このまま快楽の波に飲みこまれてしまえば、
わたしはこの無機質な女王の奴隷にされてしまう!! わたしの理性は
そんな思いに発する焦燥感を体に言い聞かせようと苦闘した。だが、
わたしの肉体はそうやって掻き立てられた焦燥感をも快楽の火種に変え、
オルガスムスの山を登り続ける燃料にしていった。
唐突に、棒状の舌が、性感の中枢部である小さな突起にぐいと押し当て
られた。全身に電撃が走り、一瞬頭が空白になった。
「はうっ!!」
わたしは堪えきれずに、とうとう大きなあえぎ声をあげてしまった。
自分の姿があのときのアンナさんと重なり合うのがわかった。
棒状の舌の先端はそのままわたしの膣口に滑り込むように入っていった。
舌の側面が引き続き、ぬるぬるとクリトリスを刺激し続けた。
「あああああああああああああああ」
女王は膣内を舌でかきまわし、さらには前後運動による摩擦を始めた。
わたしはもう何が何だか分からなくなり、全身をでたらめにくねらせながら
快楽の嵐に翻弄された。それがしばらく続いたあと、まるで凪が訪れたように
刺激が止まった。
ほんの一瞬、「物足りなさ」を感じかけたわたしはすぐ、この次に何が
待ちかまえているのかを思い出し、恐怖の悲鳴をあげながら、女王の腹部に
目をやった。腹部の先端からは、いつの間にか、先ほどの舌の3倍ほどの
直径の、赤黒いぬらぬらした肉質の突起物が長く伸びていた。
産卵管であった。
女王はその先端をわたしの膣口に押し当て、一気に挿入した。正気を
取り戻すきっかけになるのではないか、とどこかで期待していた破瓜の痛みは
生じなかった。あの舌によって麻酔薬のようなものを注射されていたらしく、
歯医者の麻酔治療の後のような鈍い痛がゆさしか生じなかったのだ。
そしてそれは、襲い来る快楽をさらに掻き立てる薬味の働きしかしなかった。
深く挿入された産卵管は、まるでピストンのようにわたしの膣の中で猛烈な
前後運動を始めていた。桃色の電流が脳内を駆けめぐり、わたしはあのとき
アンナさんがあげていたのと寸分違わぬ声を張り上げている自分に気がついた。
そしてもう、すぐそこまで来ているはずの「そのとき」を待望しかけている
自分自身に恐れを抱いた。
そしてまもなく、「そのとき」が訪れた。
産卵管がひときわ長く伸び、子宮口の内側に入り込むのをわたしは感じた。
同時に、産卵管の根もとから丸いかたまりが押し出され、膣口から入って
膣内を進み、子宮口へとゆっくりと向かっていく生々しい異物感がわたしを
襲った。
「いやああああああ! やめて!! やめてよ!! いやだ!!
蜂女に!! 蜂女になっちゃう!!! 蜂女になっちゃうう!!!!」
わたしの絶叫と同時に、産卵管の先端から子宮の中に、ぽこん何がが
産み落とされた。そしてその何かがわたしの胎内で、わたしの肉体を糧に
成長を始めたのがはっきりと分かった。
再び開始された、壊れたジェットコースターのような際限のないピストン運動に
さらされながら、わたしはアンナさんに起きていた肉体の変化を目の前で
目撃させられた。腹部を中心に青い皮膚が広がり、陰毛が抜け落ち、乳房に
警戒色が刻まれた。皮膚の青化が首の上にまで達すると頭髪が抜け落ち、
紫の剛毛と、警戒色に彩られているはずの頭部の装甲板が形成されたのが
わかった。そして顎の骨が溶け落ちたのと同時に、わたしの心に見知らぬ
何かが入り込み始めたのを感じた。
――頭部神経節の接続が始まったんだ!
わたしの恐怖は絶頂に達した。もう、まもなく、次の瞬間にも、わたしの
神経系は昆虫の脳に支配され、わたしはあの女王の生存を維持するためだけ
の外部器官に変えられてしまうのだ。
わたしは何度目かの絶望の叫びを上げようとした。だが、舌も声帯も
溶けて吸収されてしまったわたしののどからは、しゅうしゅうという
頼りない息しか漏れ出てこなかった。
やがて一瞬、わたしは息が詰まり、まるで陸地で溺れてしまったように口を
ぱくぱくさせた。だがそれはまた、わたしの呪われた肺がウィルスごと
低分子に分解され、幼虫に吸収されていった証でもあった。そしてその後、
今まで感じたこともない爽快な風が自分の体内を吹き抜けた。気門が一斉に
開き、新しく構築された呼吸器系に新鮮な酸素を供給し始めたのだ。
そして、その新しい風と共に、わたしの心に、やはりこれまで感じたことの
なかった、温かく、心地よい何かが流れ込んできた。
膣内で勢いをさらに増した産卵管の運動は、今や乱暴な陵辱ではなく、
わたしの中に新しい何かを迎え入れる清めのリズムを刻んでいると分かった。
淫靡で後ろ暗い快楽に溺れかけている古い自分を、下らない理性ごと
吹き飛ばしてしまえばどんなにか爽快だろう! そんな新鮮な気持ちが
湧き上がり、わたしは変質した顎から、最後の快楽のあえぎ声をカチカチと
クリックさせた。
眼球の組織が新しいわたし自身に吸収され、直後に形成された複眼による、
これまでと全く違った光景が広がった瞬間、わたしは、わたしの上で、
わたしに新しい命を吹き込んでくれたのが誰なのか、ようやく気付いた。
それは子供の頃から欲しくて欲しくてたまらなかった存在。一度でいいから
呼びかけてみたかった名前。それをわたしは手に入れたのだ。
――おかあさん!!!!
その瞬間、古いわたしは最上の幸福感に包まれ、この世から姿を消した。
〈第9章 泡の中〉
わたしはこの巣の中で姉さんたちと同じように生まれ落ち、姉さんたちと
同じように、あっという間に成長を遂げた。そして、姉さんたちと同じように、
自分が何者で、何をするためにここにいるのか、誰からも教わらずに知っている。
ただ、わたしとすぐ上の姉は、他の姉にはないものをいくつか備えている。
いずれも、わたしとその姉の宿主が、外の世界で生まれ、かなり長い期間
自由生活を行ってきたことに由来している。
わたしたちの特別な点は、第一に高度な専門知識だ。他の姉さんたちが
本能としてしか身につけていない情報を、わたしたちは論理と科学の言葉で
表現することができる。
そして第二に、そもそも、こんな風に分節言語を駆使して自分の思考を
まとめられること自体、お母さんにも、他の姉さんたちにもない能力だ。
物言わぬ獣類や爬虫類を宿主とする姉たちはもちろんだが、ヒトを宿主と
する姉たちもまた、数百年の地理的隔離と特異な生活環の中で、分節言語の
能力を失っているらしい。それは多分、不要となり退化したということなのだ。
わたしたちにはテレパシーのような能力があり、技能や地理的情報などを
共有できるのだから。
共有情報の中には、姉たちの祖先である、あの神殿を築いた部族から
受け継がれた記憶も含まれている。この世界へ人身御供として放逐された
少女たちと、その後戦士として成長した少女たちによる集落の襲撃という、
悲しく、美しく、また勇ましい記憶だ。だがその記憶はもはや物語としての
分節構造を保持しておらず、漠然とした気分と断片的な映像的記憶から
構成されている。
特別な能力があるとしても、わたしがお母さんの娘であるという事実は
変わりようがない。多分わたしは、お母さんのため、種族のために、
この特別な能力を役立てるべきなのだ。
今のわたしたちの種族はとても脆弱だ。外の世界からの侵入者、とりわけ
高度の技術文明を発達させ、外の世界をめちゃくちゃに荒らし回ったホモ・
サピエンス原種の侵入は、今のわたしたちにとっては存亡の危機をもたらす
脅威となりうる。すぐ上の姉を除けば、姉たちの誰も、そこまでの脅威が
迫っていることに気付いていない。わたしと、かつてアンナと呼ばれた姉とで
何とかしなければならないのだ。わたしの使命は……そう、「門番」だ。
危険な外敵を監視し、この世界、ギガンタピスのエデンを守護する門番。
わたしの知識と能力を、その使命のために役立てねば……。
誕生の心地よいまどろみの、さして長くもない時間。こんな思考を
めぐらせていたわたしは、「外敵」という概念を思い浮かべた瞬間、
重要な事実を想起した。大変だ! 外敵ならば今現在侵入中ではないか!
そして早くしなけば外の世界に引き上げてしまう!!
わたしは姉たちに緊急警報を発すると、生えたての翅を広げ、宙に舞い
上がった。そして天井の出入り口から巣の外へと飛び出した。わたしの後を
追い、他の蜂女たちも一斉に飛び発った。
足下の森を見下ろしながら、わたしは間に合うかどうか計算してみた。
共有情報によれば、わたしの人間部分が巣に運ばれてから現在8時間程度
経過している。とっくにキャンプは撤収され、調査隊は帰路についている
はずだ。
調査隊は樹海をほぼ1周し、2日目にたどり着いた地点のすぐそばに戻っている。
では、その地点から門までの帰路にも、2日を要すると見てもいいだろうか?
……いや、それは甘すぎる見積もりだ。調査隊は探索の中で移動の容易な
ルートを見つけ出している。それに、2日という日数の中には調査や観測の
時間が含まれている。つまり最短ルートで脇目もふらずに「門」を目指して
いるであろう調査隊は、もっとずっと早く移動できているのに違いないのだ。
8時間というのは、ぎりぎり間に合うか手遅れかの、瀬戸際の時間だ。
激しい不安に駆られながらわたしは地上に注意をこらしつつ「門」を
目指して飛んだ。結局彼らは「門」を通って外に出るしかない。先回りし、
待ち伏せすればいいのだ。もちろんそれは、イマカタ博士が門を再び
塞ぐ前にであるが……
姉妹たちとわたしは異空間の縁に到着した。「門」はまだ開いていた。
そして、調査隊の3人もその前に立っていた。とはいえどこか妙な様子だった。
門のある切り株を守るように美府博士とマレー博士が立っている。
マレー博士は銃を構え、美府博士スタンガンを腰に差し、長いコードの
ついた火薬の発火スイッチを片手に持っている。火薬は何本かの木に取り付け
られているようだ。その横では、イマカタ博士が座り、モバイルコンピュータを
覗き込んでいる。傍らには非常用燃料電池を2個も接続した、空間の
歪曲率を検知するという博士自作の測定装置に、見慣れないアンテナの
ようなものが取り付けられていた。
わたしは一緒に来た大勢の姉妹たちに、銃とスタンガンへの警戒を強く
発信してから、広く展開し、3人の人間を取り囲むのが最善だという情報を
共有した。警戒を怠らなければ、これだけの数で一気に襲いかかって、
取り逃がすはずはないと思われた。
それからわたしは、群れから一歩前に出て「門」の前にいる2人の方へ
近づいた。わたしに銃を発射することを美府博士は許さないであろう、
という見込みの上で、姉妹たちへの盾の役割を買って出たということだ。
アンナと呼ばれていた姉が当初この役を果たそうとしたのだが、マレー博士が
不倫相手を始末するために発砲する危険があったので、わたしが引き受けたのだ。
マレー博士は銃身を降ろしている。わたしはその動きに注意しながら、
姉妹たちに合図を出すタイミングを見計らい、少しずつ近づく。そのとき、
不意に美府博士がイマカタ博士に声をかけた。
「今だ! やってくれ」
イマカタ博士が端末を操作したとたん、一瞬ぐらりと平衡感覚が狂った。
次の瞬間、わたしは3人の人間と共に、丸い奇妙な空間に囲い込まれたことに
気付いた。目の前には3人の人間と何本かの木があり、切り株の上の「門」も
依然としてある。木の間からは、レンズ効果で歪んだ外の世界も見えている。
だが、幅10メートルほどの楕円形の領域の外はすべて、横も、後ろも、
奥行きも定かでない、白くぼうっとした空間に変わってしまっている。
共有情報の接続は切れておらず、姉妹たちの驚きの感情にはアクセス
できたが、しかしこの空間に入り込むことはできずにいるようだった。
イマカタ博士が得意げに説明を始めた。
「すごいでしょ? 辺縁部は空間が不安定だから、ちょっとした操作で
こういう『泡』のスペースをつくることができるの。それとね……」
「後にしなさい!」
美府博士が場違いなおしゃべりを制した。ふと見ると横にいるマレー博士は
わたしに銃口を向けている。美府博士はそれをちらと見たものの、
構わずにわたしに向き直り、声をかけた。
「まずは聞きたい。朝花、わたしの言葉が分かるか? それから、わたしが
誰だか分かるか? 両方イエスなら2回首を縦にふりなさい」
わたしは言われたとおり首を縦に2度振った。博士はほんの少し
ほっとした顔を浮かべ、それから話し始めた。
「手荒な真似をせずに済むのが一番だから、単刀直入に聞く。今から、
私と一緒に帰る気はあるか?」
わたしはゆっくりと、首を横に振った。美府博士は幾分うなだれたが、
気を取り直したように話を続けた。
「おまえがそういう態度をとるだろうことは半ば予想していたよ。強引に
連れて行くしかないのかもしれないが、その前にもう少しおまえに話を
したい。つまりは説得だが、聞いてくれるつもりはあるかね?」
わたしは首を縦に振った。この空間を出て、懐かしいお母さんと姉さん
たちの元に帰るためには、何か情報を得る必要があった。それを引き出せる
かもしれない。
「まずは詫びなければならない。とっくに察しているだろうが、私は、
おまえがその姿になることをはっきり予想していた。いや、おまえを
その体にするためにこそ、蜂女たちに委ねたんだ。おまえの命を救うための
最も可能性の高い手段だと思ったからだ。それを許して欲しい」
わたしはうなずく。正直なところ、この人間のその選択に関しては、
感謝の念しか浮かばない。
美府博士の話は続く。
「おまえが精神的にも巨大蜂に操られてしまうかもしれない、という可能性も
承知していた。その危惧は的中したようだ。今現在のおまえに何を言っても
届かないかもしれない。だが人間としての常識的な判断をあえて伝えて
おこう。おまえは今、三流カルトに洗脳された信者みたいな状態にいるだけ
なんだ。知性のない蜂に操られているとなれば、それ以下かもしれない。
強引にでも連れ帰って、人間らしい環境で適切なケアを施せば、すぐに
目が覚めるはずだ。
おまえだけじゃない。もちろんアンナ君も、それから、多分あの神殿の
部族の末裔である蜂女たちも、準備ができ次第、即刻ここから連れ出し、
社会復帰させてあげなければならない。心のケアを行い、最新の人工皮膚や
整形の技術で、ある程度までにしても、もとの姿に近づける努力を行おう。
少なくともPAVの治療ほど困難ではなかろう。
おまえも、他の犠牲者たちも、多少姿は変わっていても、ホモ・サピエンス
として生まれ、ホモ・サピエンスの本質である脳を温存したれっきとした
人間だ。人間には人権というものがある。人間として生きる権利がある。
人間が、こんなところで、昆虫の奴隷となって生きるなんてことは
あってはならないんだ」
わたしは苛立ちを強めていた。必要な情報が一向に得られないせいも
あったが、それ以上に、この優秀であるはずの科学者の、あまりに硬直した、
下らない偏見に凝り固まった物言いに、どうにも我慢がならなくなって
きたのだ。
ボディランゲージ以外に意志を伝える手段はあるだろうか? 声帯は
とっくに吸収されている。使うとしたら気門だが、そんな風に使えるもの
だろうか? わたしは早速気門周囲の筋肉に注意を集中させ、音が出せるか、
どのように調整できるかを試し始めた。
気門から様々な音を出し始めたわたしが、どうやら何かを「言おう」と
しているのを察したらしく、3人の博士は黙ってこちらを見守っている。
少なくともこれまで、気門をこんな用途に使った姉はいない。わたしは
自分の手でその使用法を見つけ出さねばならない。だが幸い、わたしの
受けた言語学者の訓練は、日本語の音素を音波のパターンとして理解する
ことを可能にしていた。そしてどうやら気門は、うまく使えば声帯以上に
多様な音を合成できる音響機械であることが分かってきた。わたしは日本語の
音韻を構成する音声の様々なパラメータを頭の中でグラフ化し、それを
音声化しようと試みた。
「ホ…………ン、ジ、ツ……ハ……晴天……ナリ!」
たどたどしく気門から日本語を発したわたしに3人は目を丸くした。姉たちも
驚いたようだった。そしてわたし自身も予想以上にうまい発話に驚いて
いた。それから早速、わたしの、人間部分の父親にあたる人間への反論を
始めた。
「下ラナイ! 人権? 人間トシテノ幸福? ワタシたチヲ見テ、チょット
外見が変わッタほも・さぴエんすダトシカ思わなイなんテ! ソれこそ、
分岐進化説にどっぷり浸かっタ偏見じゃナいの!! これが、この生態系
でのギガンタぴスの進化の秘密ヲ見抜いた、あの科学者のせリふなのかしラ!!」
話す内、わたしの「発話」は急速に滑らかになってきた。どうやら
姉たちが、言葉の意味は分からないながら、新しい技能に興味をもち、
同時多発的に練習を行ってはその情報を共有し合った結果らしい。
「それにオ父さんは、自分が、わたしニ素敵な贈り物をくれたんダという
自覚がないワ。自覚がないまま、それヲわたしから取り上げようトしている。
なかったものをわざわざ与えておいテ、それをすぐに奪い取る。これが
どんなに残酷なことかわかる??」
美府博士は怪訝な顔をする。
「私が、何を与えたと?」
あきれきってわたしは答える。
「お母さんよ! それも血を分けた本物のオ母さん! 分岐進化の観点
かラはともかく、融合進化の観点から言エば、正真正銘そういわざるを
得ない存在よ!」
美府博士は衝撃をあらわにし、やがて苦悩に満ちた顔で頭を抱え、
しばらくの間無言でうつむいていた。それから首を振り、顔を上げて言った。
「……もういい。やっぱり力ずくでもおまえを連れていく。アンナ君には
申し訳ないが、おまえを連れてここを出たら、門はいったん閉鎖しよう。
おまえという実例と、採取した大量の標本があれば、世論の注目と資金を
集めるのは簡単だ。すぐに出直して、残りの犠牲者を連れ戻す。
……マレー君、頼む」
指示を受けたマレー博士が銃を構えて言う。
「さあ、抵抗はあきらめてこっちに来なさい」
状況はかあなり不利と言えた。しかも結局大した情報は聞き出せなかった。
わたしは考えをめぐらせながら、とりあえず時間稼ぎを兼ねた探りを
入れることにした。
「言っておくけど、門を閉鎖したっテ無駄よ。アンナさんはちゃんと門の
開け方を知っている。木を一本切り倒すくらイ、姉たちで力を合わせれば
簡単。知ってル? 宿主がビーバーの姉だっているのよ! ヘリを呼び寄せて
いる間ニ姉たちが飛び出して、わたしを取り返しニ来てくれるわ!」
美府博士は黙っていたが、先ほどから話したくてうずうずしていたらしい
イマカタ博士が誘いに乗ってくれた。
「おあいにくだけど、そのくらいは予想済み。だからわたしは門に『鍵』を
かけることにしたの。さっき、空間歪曲率をもとにはじき出した位置に
ある4本の木を切って火薬を仕込んだわ。これを破裂させれば、不安定な
空間の隙間と隙間がうまくかみ合って、木を1本切り倒したくらいでは
びくともしない頑丈な『鍵』がかかるわ。相当量の爆薬でもないと突破
できない、頑丈な鍵よ。だけどね、木を切った位置と火薬の量を再現
できればまた簡単に門は開く。つまりは、パスワードつきの鍵ということね」
天才らしいとんでもない仕掛けを、やはり天才らしい無邪気さで自慢げに
話すイマカタ博士を、もういいだろという顔でにらみつけ、マレー博士が言う。
「そういうことだから、君は安心してこっちに来ればいいんだ。言って
おくが、抵抗したら僕は本当に撃つよ。僕は今の君が人間だとは思って
いないし、君の死体でも証拠には十分過ぎると思っている。もちろん、
抵抗さえしなければ撃ったりしない。さあ、手を上げてこちらへ」
なるほど。発砲の可能性のない銃に脅しの効果はない。美府博士が銃を
構えていたらこのセリフは言えなかっただろう。多分美府博士の計画なのだ。
わたしは老獪な科学者の知恵に素直に敬服しながら、両手を上げ、
マレー博士に近寄った。それを見た美府博士が慌てたような顔で言った。
「マレー君! 毒針を撃ってくるかもしれん! 注意したまえ!!」
それを聞いたマレー博士が、幾分気まずそうな顔を浮かべて言う。
「いえ、その心配はないでしょう。……ここだけの話、毒針で麻痺した
という話、あれは僕の作り話で……ぐっ……」
人間の心は、嘘から出たまことを信じられるようにはできていないの
だろう。わたしの乳房から発射された毒針を受け、麻痺に陥ったマレー博士
が崩れ落ちた。すかさずわたしは美府博士にも毒針を打ち込む。これで
2人とも15分は起きあがれないはずである。それからわたしは、マレー博士が
落とした銃を拾ってイマカタ博士に突きつけ、言った。
「さて、あとはあなた1人なんダけど、実は一番厄介なのよね。こうやって
脅して、この泡を消しなさいと命令シても、もっと面倒な何かをして
こないとも限らない。だから、一方的な脅しではナく、取引をしたいの。
ねえ、もしもこの泡を消してくれたら、あなただけは無事に外の世界に
帰ってイいわ。但し、ここでの調査結果と標本はすべて置いていくコと、
例のサイトは抹消し、ここでのことを誰にも口外しないコと。そういう
約束をわたしと交わしてちょうだい。わたしたちはひっそりと生きタい
だけなの。分かって。
ひとつ大事なことを教えておクわ。蜂女は『嘘』というものが言えなイの。
『約束を破る』こともできない。そういう生き物なノよ。だからあなたが
約束にうんと言ってしまエば、わたしはもうあなたを逃がすしかなくなるし、
あなたを信じる以外になくなルの。……言っておくけど、うんと言わなければ、
悪いけどあなたを撃ち殺してそのパソコンを自分で調べる。とはイえ、
物理学者でもないわたシがこの泡をうまく消せるのかどうか自信がないし、
それに蜂女だって、無駄な殺生はいやナものよ。だから、どうしても
あなたにはうんと言って欲しい」
イマカタ博士は怯えながらも、わたしの言葉をもとにあれこれと計算を
めぐらし始めたようだった。それからしばらくして口を開いた。
「……約束してもいいんだけど、約束の中身を、もっとはっきりさせて
もらえるかしら? 知り合いの知り合いに、わざと曖昧な約束をしては
女の子を泣かせているスケベな教授がいるの。特に『無事に外の世界に
帰る』ってどういうこと? 例えば五体満足の蜂女になって外に帰る
なんて、わたしはいやよ!」
わたしは苦々しい顔で言う。
「……さすがに天才博士ね。いいわ。もっとちゃんと言いましょう。
無改造の人間のままのあナたを、今すぐに外の世界に帰してあげる。
出るときに『鍵』をかけていってクれてもいいわ」
用心深くイマカタ博士が問いただす。
「『今すぐ』ってどのくらい?」
わたしは観念したように言う。
「5分以内よ。十分でしょ?」
しばらく黙り込んでからイマカタ博士が答える。
「いいわ。この泡を解除すれば、わたしを今すぐ逃がしてくれるのね。
約束よ!」
「約束する。泡を解除してくれたら、あなたを今すぐ逃がしてあげる」
イマカタ博士は端末を操作した。さっと白い霧が晴れ、元の光景が戻って
きた。わたしは、一か八かの賭けにどうやら勝てたらしいことにひそかに
安堵した。
〈第10章 蜂女たちの饗宴と美府陸博士の決断〉
霧が晴れるとただちに姉たちが殺到し、3人の人間を取り囲み、拘束した。
中でも、マレー博士の周りには大勢の蜂女が群がり、しかも殺気立った
不穏な空気を漂わせている。イマカタ博士も、美府博士も、その異様さに
目を奪われている。
やがて、蜂女たちの先頭に立った、かつてアンナと呼ばれた蜂女が、
ぞっとする笑みを浮かべて足下に横たわるマレー博士に話しかけた。
「聞いていタわ。麻痺の話、やっぱり嘘だっタのね。おかげでこうして
蜂女ニなれたけど、感謝なんてしなイわよ。あなた、わたしを見殺しニ
しようとしたわよね? 邪魔な不倫相手ヲ始末しようとしたのよね??」
情報共有のおかげだろう。アンナ姉さんの気門発話はすでにかなり
流暢だった。
「外部からのヒトY染色体は貴重な資源ではあルんだけど、だとしても
あなたをこのまマ生かしておくことはできナい。仮にわたしが許しテも、
姉さんたちが許さないわ。姉さんたちの中には、その昔、部族の男たチの
欲望と私利のためだケの儀式で生け贄にされ、放逐された、悲しい祖先たちの
記憶が受け継がれているの。集落を全滅させても収まらなかった強い
怒りガね」
「ひゃめろ……ひゃめてくれ……」
ろれつの回らない舌で命乞いをする男に、アンナ姉さんはほんの少し
同情のこもった目を向け、言った。
「わたしの人間部分はあナたを心から愛していた。だから、せめてもの
たむケに、最初はわたしがしてあゲるわ」
そう言うとアンナ姉さんはマレーの衣類をすべて引きちぎり、その首筋に
噛みついた。そして催淫剤の効果で固くそそり立った陰茎を自分の膣に
挿入させた。びくん、と震え射精したのを確認したアンナ姉さんは陰茎を
引き抜き、別の姉と交代した。そうして10数人の蜂女による貯蔵精液の
採取が終わり、これ以上の採取が困難そうだということが確認されると、
姉たちはアンナ姉さんを筆頭に、今度はその口器を人間の肉に当て、
引きちぎり、貪りい尽くし、骨だけにしてしまった。全部で10分もかからない、
あっという間の饗宴だった。
饗宴に加わりそびれたのを残念に思いつつ、わたしは吐き気をこらえて
いるらしい様子のイマカタ博士に話しかける。
「今の話でも分かっタと思うけど、わたしたちのテレパシー、あの空間の
壁を超えられるみたいなの。どウいう仕組みなのかしらね?」
イマカタ博士は吐き気を噛み殺しながら、投げやりな声で答える。
「さあ。考えられるのは重力波通信かしら。この空間で進化した生物ならば、
ありうるわ。……でも、そんなことより朝花さん! どうなってるの?
5分なんてとっくに過ぎてるわ。約束したわよね。わたしは外に戻れるんだよね?
その便利なテレパシーでこちらの『お姉さん』たちに説明してくれない?」
イマカタ博士はそう言って自分を拘束し続けている蜂女たちをあごで
指した。そんな博士に、わたしは人間ならそうするであろう微笑みを
つくりながら、答えた。
「イマカタ博士。言っておクと、さっきのは嘘です。あなたを外に帰す
ツもりなんて、はじめからありまセんでした」
真っ青になったイマカタ博士が言う。
「なんで!? あなた、蜂女は嘘がつけないって…………あ!!」
わたしは、笑いながら言う。
「わかりました? それが嘘ナんです。イマカタ博士、SFか論理パズルの
読み過ギです。だけど、その優秀な頭脳は、やっぱり貴重。活用して
もらわないトもったいないわ。
聞いて、イマカタ博士。わたしにはこの楽園を、お母様のエデンを、
外敵から守る大事な使命があルの。でも今のわたしたちはあまりにも無防備。
イマカタ博士の論文がウェブ上に出回ってしまった以上、それをこの世から
抹消するのはほとんど不可能。サイトを消しても、個人のコンピュータに
分散したデータを消し去るのはできないニ等しい。第2第3の物好きが
ここを暴きにくるのは多分避けらレない。『鍵』をどんなに厳重にしても、
防ぎキれない。
だから、そのときに備えて、わたしたちは力をつけなければイけない。
すべき課題は山積みだわ。まずはこの空間を堅固な要塞に作りカえる。
それに兵力と労働力の充実も必要。他の哺乳類も様々な用途に使えるけど、
やはりヒト、それも文明世界の知識を身につケた外部のヒトだわ。
迷い込んできたヒトは逃がさずに着実に改造していカないといけない。
ゆくゆくは外の世界に積極的に乗り出して、宿主になる女性を捕獲して
改造すル供給体制も構築するわ」
イマカタ博士は青ざめた。
「そ、それじゃ、ほとんど、蜂女による人類の侵略……」
わたしは天啓を得た思いでイマカタ博士の手を握る。
「そうね! 攻撃は最大の防御ともいウわね。さすが天才! 是非とも
その能力をお母様のために役立てて欲しい。防御にも、攻撃にも。さあ、
早く行きましょ! あんなにあの山に行きたがっていタじゃないですか?
きっと、中心部まで行けば、すゴい発見がありますよ!」
震え始めたイマカタ博士は、やがて何か意を決した表情になり、いきなり
自分のあごを端末の一部にぐいと押し当てた。同時に背後でぼん、という
鈍い音がした。
あわてて振り向いたわたしたちが見たのは、美府博士の周囲で倒れて
いる蜂女たちだった。美府博士の手には変わらず起爆装置が握られており、
共有情報によれば、どうもそれが周囲の空間を一瞬歪ませ、拘束していた
蜂女たちを吹き飛ばしたようだった。
イマカタ博士が美府博士に向かって声を張り上げる。
「美府博士! 試作段階だった『切り札』を発動させました。どうやら
うまくいったようです。数分程度、博士の周りには誰も近づけないはずです。
麻痺が戻っていたら、いますぐ外に出て、装置を起爆させて下さい。そして
すぐにヘリを呼んで帰還して下さい! パスワードは起爆装置の中にあります。
娘さんのことはあきらめて下さい! わたしもどうなってもいい! 一人で
逃げようとした自分が恥ずかしい。人類の危機なんです! 今すぐこれを
世間に知らせないと、やがて人類全体が大変なことになる!!」
美府博士の麻痺はとっくに抜けているはずだったが、「人類の使命」
とやらに目覚めたらしき必死の叫びを聞きながらも、歩き出す様子は
なかった。それから、確認するようにイマカタ博士に言った。
「この起爆装置を君に手渡すことはできないんだね?」
イマカタ博士は必死の形相で答える。
「できません! わたしも跳ね飛ばされるだけです。でも、言ったでしょう?
わたしはどうだっていいんです! 早く門に! 効果が切れてしまう!」
美府博士は低い声でイマカタ博士に言う。
「……ならば、私だけ逃げ出してもあまり意味はない。君はどうせ
パスワードを変えてしまうだろうし、多分もっと堅牢な防御を構築して
しまうだろう。トップクラスの物理学者が束になってかかっても太刀打ち
できない代物をね」
イマカタ博士は驚いたように言う。
「何を!? わたし、そんなことしません! したくありません!!」
美府博士が諭すような声で答える。
「今はそうだろうね。でもすぐにそうじゃなくなる。君はもうじき蜂女に
なる。そしてそうなれば君の心も、女王への奉仕に最上の喜びを感じる
ように変えられてしまうだろう」
冷厳な運命を突きつけられたイマカタ博士は、恐怖で張り裂けそうな
声を上げる。
「いや! 蜂女なんかになりたくありません!! あんな風に人間を
食べたり、あんないやらしい体を得意げにさらす生き物になんて!!」
美府博士は、どこかすまなそう顔でそれを見ながら、話を続ける。
「朝花やアンナ君を見て思ったが、そういう心の変化は多分防ぎようが
ないし、決して元には戻せないようだよ。あきらめるしかない。それに、
蜂女になった彼女たちは以前よりもずっと理知的で生き生きしているように
見える。……ひょっとすると我々は、この惑星の優占種が交代する瞬間を
目にしているのかもしれない。そんな気がする。そして、もしそうなら
私は、科学者として、たとえ使い捨ての生殖機械にされてしまうとしても、
こちら側にとどまり、できる限りその姿を見届けたいと思う。
それに、何より私は、朝花のいない外の世界に帰るつもりはまったく
ないんだ。あやうく朝花に残酷な仕打ちをしかけたことを、今は後悔して
いる。わたしも親だ。娘と引き離されるのはいやだ。
……だから私は、『こちら側』を選ぶことにするよ」
そう言って美府博士は起爆装置のボタンを押した。轟音と共に「門」が
閉ざされた。
〈第11章 美府陸およびサトミ・イマカタ改造〉
巣に到着したわたしたちは、錯乱し泣きわめいているイマカタ博士が
落ち着く……というより消耗しておとなしくなるのを待ち、とりあえず
従順な美府博士への産卵を先にすることにした。
アンナ姉さんが世紀の頭脳に敬意を表したい、というので、わたしは
改造前の美府博士へのひと通りの解説を引き受けた。すっかり使い慣れた
気門を駆使して、わたしは解説を始めた。
「お父さん。承知の上みたいだけど、わたしたちの種族にとってオスは
エサか生殖機械かの価値しかないわ。寄主である蜂のオスはもちろん、
宿主のオスもそうなの。
おさらいしておけば、進化型ギガンタピスの女王以外の個体には、父親と
母親が2体ずついる。蜂部分の母様つまり女王と、蜂部分の父親である、
女王に精子を提供するためだけに存在するオス蜂。それとは別に、
働き蜂として活動している宿主部分、わたしたちで言えばヒト部分も
両親をもつわけだけど、わたしたちのような外来者を除けば、その親は
働き蜂のメスの宿主部分、蜂女で言えば、蜂女の子宮なの。そしてその父親は
というと、女王蜂に精子を提供するオス蜂部分が寄生したオス宿主、という
仕組みになっている。
お父さんにもこれからオス蜂を寄生させて、オス蜂として女王蜂に
蜂の精子を提供するかたわら、働き蜂である蜂女たちの人間部分の子宮に、
ヒト精子を提供する、という勤めを果たしてもらう。ややこしいけど、
お父さんはわたしの人間部分の父親であると共に、女王であるお母さんの夫、
つまりわたしの蜂部分の義父でもあることになる。
生物学的な可能性として、オス蜂の卵をメス個体に、メス蜂の卵をオス蜂に
産み付ける、という選択もありえたのでしょう。でも、ギガンタピスの
寄生様式はオス個体にはオスの卵、メス個体にはメスの卵しか根付かない
ように進化しちゃっていて、逆ではうまくいかないの。ひとつには、
特に哺乳類のメスの子宮が、複雑な構造をもつ働き蜂の発達を保護する
最適の器官だということがある。それから、精子の数と卵子の数の不均衡も
ある。宿主のオスが一匹いれば精子はほぼ無尽蔵に得られるけど、卵子と
子宮はそれに比べると絶対数が少ない。つまり、宿主のオスもたくさんは
要らないのよ。事実、産み落とされた大抵のオスはエサに回されるわ。
最後に、姉さんたちの忌まわしい記憶がある。男性一般への強い憎悪と
軽蔑はヒト寄生型ギガンタピスの第二の本能みたいなもので、これを
簡単に消すことはできないの。
オス蜂にはテレパシーによる情報共有もないし、寄主の神経系の保護も
十分ではない。お父さんがこれから改造されるのは、自分では動くことも
できず、意思の疎通もできない、精子の供給のみを目的とする生き物。
……ただ、言っておくと、オス蜂の宿主がどういう精神生活を送っているかは、
今のところ誰も知らないの。お父さんが自力でこの気門発話を身につけ
られたら、ひょっとするとそれが明らかになるかもしれない。言語学の
訓練を受けていないお父さんにはかなり大変だろうけど、生物学者として
興味はあるわ。
……アンナ姉さん、解説、こんなところでいい?」
テレパシーでOKのサインを受け取ったわたしは、全裸で神妙な顔をしている
美府博士をお母さんのところへ連れて行った。
お母さんは宿主のへそのあたりを前脚で切開し、開口部に産卵管を
差し込んだ。メス個体に比べると無造作きわまりない改造手術と言えた。
生み付けられた卵は直ちに成長を始め、切開部の傷口を塞ぎ、それから
青い皮膚を全身に広げていった。あおむけにされた宿主の肉体はいわゆる
ブリッジの姿勢を強要され、やがて胴体部分が完全に弓なりとなり、手足は
その胴体を支えるただの支柱に変わった。さらに首の下から蜂用のペニスが
伸び、美府博士と呼ばれていた個体は最終的に、かまぼこ型のアーチから
2本のペニスが伸び、一方のペニスの下に蜂人間の顔がついているオブジェ
のようなものに変わった。
わたしとアンナ姉さんで、成熟したオス蜂の精液を早速お母さんに
吸い取ってもらおうということになり、お母さんにテレパシーで合図を
送った。お母さんはゆっくりと動きだし、新しいオス蜂のペニスを
受け入れ、貯精嚢にため込み始めた。
そのときわたしたちは、オス蜂の人間部分のペニスが激しく怒張し、
今にも射精しそうになっているのに気付いた。少なくともこの巣で生まれた
オス宿主にこんなことが起きたことはなかったので、わたしたちは慌て、
テレパシーで共有情報を参照し合った。
――ねえどうしよう! 貴重な外来Y染色体が!!
――誰か、貯精嚢が空いている個体はいないの?
だが、あいにく、わたしを含め、都合のいい個体はいなかった。
困り果てたアンナさんとわたしの目は、ついさっき捕獲した未改造の
ヒト宿主に注がれた。
――この個体でもいいんじゃない? すぐに改造するんだし。
――ヒトの子宮でも、精子は数日は生きるんだよね。なら十分過ぎる
くらいよ。
「ひいいいっ!!」
一向に狂乱が収まらない全裸の天才物理学者を、わたしたちはオス蜂の
人間部分に運び、膣を舌から出る粘液でひととおり湿潤させてから、両足を
広げて今にも射精しそうなペニスを挿入した。間一髪だったらしく、直後に
オス蜂の全身に痙攣が走り、どくんどくんというリズムと共に、挿入部分
から余剰の精液と、処女膜損傷による血液が流れ出した。
イマカタ・サトミと呼ばれていた個体の改造はそのすぐ後になされた。
ショックでぐったりとしていた博士の脳は思ったよりも簡単にお母さんの
愛撫を受け入れ、改造は短時間で終了した。
だが、いわば「とっさの機転」だったとはいえ、ヒトの通常の性行動
からすれば異常すぎる経験は、イマカタ博士の人間部分の脳に、いわゆる
トラウマを残してしまったらしい。その高度の知性は衰えず、むしろ
以前にも増して活発に、お母さんのための発明やら発見やらを生み出して
くれるのだが、しかし、この新しい妹は、進化型ギガンタピスの働き蜂
としては異例なほどの過剰性欲をもてあます個体に成熟してしまったので
ある――たしかに、お母様が進化の果てに身につけたあの繊細で巧妙な
愛撫の技に比べると、でたらめな処女喪失だったというしかない。これが
自然進化といわゆる「人間の知恵」の超えることのできないギャップ
なのかもしれない。
この少し困った妹の性欲のはけ口は、結局わたしの人間部分の父だった
個体が主に引き受けることになった。わたしは冗談半分にイマカタ博士
だった妹を「人間部分のお義母さん」と呼んでからかうようになった。
美府博士を宿主とするオス蜂がその役割を担うようになったのは、
その個体もまた、蜂部分、ヒト部分共に、性行為のみを存在意義とする
オス蜂の中ですら、過剰性欲気味の個体に成熟したからである。わたしたちが
半ばあきれ、半ば驚嘆したのは、この個体がとうとう気門話法を習得したとき、
発する語彙がすべて猥語で占められていたことだった。
「おま、おまんこー、ちんこまんこちんこまんこ。どびゅどびゅ出したい
よう。れろれろなめなめ……」
さらに、ある時期、言語学者としてのわたしが発見したのは、同じ
「おまんこ」やら「本気汁」やらの単語の発音のバリエーションに、
単なるランダムなばらつき以上の規則性があるらしい、という事実であった。
美府博士はどうも、性的欲求にどっぷりと浸されているのは間違いない
その脳内で、それでも何か複雑な理論的思考を働かせているのではないか、
というのが現在わたしが検討中の仮説である。もしも有意味な成果が
得られれば、これはオス蜂の精神生活に関して重要な光を投げかける
ことになるだろう。
〈第12章 分封、そして未来へ〉
それから1ヶ月。わたしたちの作業は着々と進み、一つの転機となる
イベントを向かえることになった。
「分封」である。
サトミお義母さんの調査研究とその成果の実用化は驚異的に進み、今では
「門」の自由な出入りが可能になっている。外部に対する隠蔽は幾分
不十分さが残るが、侵入者の監視・捕獲の体制がほぼ完璧になったので
大した問題はなくなっている。
だが、例えば軍隊の大規模な攻撃といった事態に十分対応できるほどの
整備は整っていない。その段階にまで進むには、どうしても人員の拡充が
必要となるし、いざというときの女王の代替要員の確保も必要である。
そのためには早い段階での「分封」が必要だろう、と、言語能力をもつ
3体からなる「幹部会」は決断を下し、社会経験が一番豊富なアンナ姉さんが
引き受けることになった。ローヤルゼリーを与えて育てられた新しい女王を
外の世界に運び、そこで新たな巣を作る。分封が首尾よく成功すれば、
女王から別の女王を産み出し、新しい巣を作ることもできる。人口密度の
少ない地域に一定数の巣を作ってしまえば、種族が根絶されてしまうリスクは
相当程度分散するだろう。
言うまでもないが、女王の娘たちの宿主は現地調達である。すぐれた
人材を選び、巣で改造する。しかも、新しい女王には、アンナ姉さんに
よる、初歩的な「遺伝子操作」が施されている。回収された光学顕微鏡を
頼りにした染色体の研究、蜂女としての生得的な情報、および新しい
妹たちに対する様々な実験の成果である。生理学的にはごく簡単な処理で
済むものだったのであるが、新しい女王が産み出す幼体は、複眼と
頭部装甲の発達が抑制された上、触角をうまく隠蔽できるような構造を
備えているのである。この新しい「姪」たちは、簡単なメーキャップ
だけで容易に人間社会に潜入することができるようになるだろう。
さなぎの入った繭を抱え、アンナ姉さんが数人の姉と共に飛び発っていく。
アンナ姉さんのおしゃれ心で、全員が木から採取したゴムでできた白い
手袋とブーツをはめ、腰にはサッシュを巻く、という衣装で統一しており、
颯爽とした頼もしい印象を与えてくれる。
重力波のテレパシーが空間の壁を越えて有効なのは実証済みである。
別の姉に委ねた機械を設置すれば、無線通信を重力波通信に変換して
「エデン」に送信することができるようになる。サトミ義母さんは
重力波通信による異星人との交流だとか、エデン全体の重力推進による
飛行要塞化だとか、夢のようなプランを持ちかけてくるが、それは
検討するとしても次の次の段階だ。
巣に戻れば、近隣の村落から捕獲してきた少女の改造が始まるところ
だった。
「いやだ! おうちに帰して! 蜂女なんていや!」
泣き叫ぶ少女にわたしは現地語で励ましの言葉をかけてあげる。
「少しの辛抱よ。いえ、辛抱だってしなくていい。これから始まる、
とても気持ちのいい儀式が済めば、ここがあなたのおうちになるわ。
そして蜂女に、お母様の娘になれたことに、心から感謝するようになる」
ここまで言い聞かせているのに、なおも抵抗を続ける少女の気持ちは、
わたしもたしかそうだったものだとはいえ、今ではもう、どんなもの
だったか思い出せなくなっている。この少女だってすぐにそれを忘れて
しまうだろう。分封が成功すれば捕獲対象の範囲は格段に広がる。
いずれ、この惑星上のすべての女性がそういう風に変わっていく。
――多分、それが進化ということなのだろう。
<了>