「ねえ沙矢、例の『幻のウィルス』事件、ひょっとすると尻尾を
つかめるかもしれない!」
大学以来の悪友であり、現在は仕事上のパートナーでもあるレンが、
興奮気味にまくしたてる。彼女はフリーのライター、わたしは編集者で、
今日はいわばレンの営業活動をかねた昼食会ということだ。
この娘がここまで興奮するというのは滅多にあることではなく、
わたしは興味をそそられた。
「『幻のウィルス』事件は以前ちょっと話したわよね。ほとんど都市伝説
レベルの話なんだけど、ある強力かつ巧妙なウィルスにほとんど全世界の
コンピュータが感染していて、何らかのデータ改竄を受けたらしい。
といっても、一体何のデータにどんな改竄を加えられているのか誰も
知らない。そんないかにも怪しい話。
ほとんど眉唾だなと思いつつも、わたしはあちこちに、何か説明の
付かないデータ改竄の心当たりはない? と聞いて回っていた。
そしたら、一昨日なんだけど、大学時代の先輩十条さん……そうそう、
覧子先輩から、ひょっとしたら、というメールを受け取ったの。
覧子先輩は大学に残って物理学研究室で科学者をやってるんだけど、
以前手に入れてプリントアウトしていたある論文が、どうもその後
改竄されているのではないか、というの。
論文というのは、サトミ・イマカタ博士という若い学者が書いた
マイナーな物理学論文。先輩がふと、プリントアウトした論文とパソコンの
中にあるデータを付き合わせてみたら、一見ささいだけど重要な違いが
あったというの。専門的なことは分からないけど、先輩いわく、非常識だけど、
実証されたらとんでもない大発見になる数式が、多分事実だけど、
だからといってどうということのない、平凡なものに変わっているって。
それに、地理的データにも説明の付かない変更があるみたいだって。
ウェブ上に残っているキャッシュを見ると、パソコンの中身と同じに
なっている。つまり、先輩がプリントアウトした後、大規模なウィルス攻撃で
ウェブ上のデータも、パソコン内のデータも、全部改竄されてしまった、
としか考えられないって」
わたしは首を傾げた。
「……それは、もっとありきたりの説明が可能じゃない? つまり、
先輩が論文を手に入れた後、サイト主がデータを差し替えたのよ。多分、
その数式のトンデモない間違いに気が付いて。パソコン内のデータも、
気付かない内に新しい方を上書きしていたと考えられない?」
レンは興奮して首をふった。
「それがほとんどありえないのよ。だって、先輩が論文をダウンロード
したとき、その作者はもうこの世にいなかった見込みが大きいの。
正確に言うと行方不明なんだけど、生存は絶望的と言われている。
南米に向かったイマカタ博士を含む調査隊が、調査を無事終えて帰還する途中、
ヘリコプターがジャングルに墜落したの。数日後機体の残骸が見つかった
ものの、遺体は見つからず、野獣に食べ尽くされた見込みが大きいとして、
捜索は打ち切られたということよ。
結局、一番確実なのはイマカタ博士のご遺族に取材することだと思って、
わたしは昨日取材を申し込んだ。そしたら同居していたお姉様という方が
出て、博士のパソコンの中身や研究資料を含む色々な遺品を見てもいい
というの! わたしは覧子先輩がデタラメを言う人だとは思えない。
だから、取材すれば『幻のウィルス』がらみではないとしても、
何かが出てくる可能性は大きい」
憶測の多い怪しげな話だが、覧子先輩が誠実で、また軽率な思い違いを
する人物ではない、というところは認めざるを得ない。それに、レンが
見せてくれた写真を見ると、事故にあったのは、それぞれタイプの違う
3人の美人を含む華やかな探検隊だったらしい。最悪「密林に消えた
悲劇の美女たち」といったドキュメンタリー記事にはなるだろう。
俗っぽい計算をめぐらせつつ、わたしはレンに確認する。
「それで、取材にはいつ行くの?」
レンは熱のこもった声で答える。
「今日、これから早速の予定! 日系の外国籍の博士なんだけど、
ここ数年はずっと日本の、しかもすぐ隣の県に住んでいたらしいのね」
レンから、不安をかき立てるようなメールが来たのは夕方近くだった。
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わたしにもしも何かがあったら、わたしの部屋の机の一番上の
引き出しの書類を見て。あなたに話さなかった部分も含めて、
調査結果とわたしなりの考察がまとめてある。引き出しの鍵はぽ
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中途送信のそんなメールの後、かなり長い時間レンとの連絡はつかなかった。
単なる電池切れかもしれないとはいえ、まさかレンの身に何か……という
懸念は残り続けた。
レンとの連絡が再開したのは深夜になってからだ。わたしの不安を
ぬぐい去ろうとするような、明るい声が受話器から響いてきた。
「変なメール送ってしまってごめんなさい。なんだか不必要に思い詰めて
しまったみたい。で、結果を言えばすごい収穫があったわ。是非とも
明日にでも会って話したいんだけど、空いてる?」
翌日の午後には重要な会議があり、予定が空いているとは言いにくかった。
しかしわたしはレンの誘いを受けた。レンの態度全体に、何か異質なものを
感じたからだ。どことなく今日の昼までの彼女とは違う。そんな違和感が
あった。どうしても一度、じかに会って無事を確かめたい。そんな思いに
駆られ、わたしは翌日の約束にOKを出した。
翌日の午前中、待ち合わせの駅前に現れたレンは、大きなトートバッグを
下げ、長袖にスカーフ、帽子、手袋、真っ白なロングブーツという、
どこかちぐはぐで、今の時期には厚着に過ぎる格好で現れた。
「沙矢、実はちょっとだけ取材に付き合って欲しいんだ。
イマカタ博士関連。沙矢にも直接立ち会って欲しいの。お願い」
レンへの違和感がなお募ってきたわたしは、かえってその誘いを
断り切れず、そのまま電車に乗り、取材先に同行することになった。
私鉄の終点手前の駅が目的地である。
1時間近い電車の中、わたしはレンの妙な部分をいくつも見つけ、
しかし何となくそれを言い出せずにいた。
まずは例の厚着。それに化粧がいつになく濃い。また車内はかなり
温度が高く、こんな格好をしていたら汗だくになってもおかしくないはず
なのに、いっこうに汗をかく様子がない。さらに、いつになく無口なレンが
時折口を開くとき、なんとなく声と口がちぐはぐなような感じがする。
気のせいに違いないのだが、口から声が出ていないような気さえするのだ!
やがて、もうじき山の中と言っていい、何もない寂しい駅に到着した。
駅前に黒塗りの高級車が停まっている。驚いたことにレンは無造作に
その後部扉を開け、わたしの手を引きながらそれに乗り込もうとした。
わたしは漠然とした不安を感じ、レンの手を拒んで、言った。
「ここまで来て何なんだけど、実は今日の午後から大事な会議があるんだ。
もしもすごく遅くなるなら、やっぱり取材に付き合うのは別の機会に……」
レンは困った顔を浮かべる。
「なんだ。先に言ってよ。何時からなの?」
「3時からなんだだけど……」
「3時か。なら大丈夫。十分間に合うよ」
レンはそう言ってまたわたしの手を引く。そう言われてしまっては断る
理由もなく、わたしは車に乗り込みつつも、首を傾げざるをえない。
3時に間に合うとなると、取材先には大した時間いられないはずだ。一体、
そんな短時間の取材にわたしを付き合わせる理由は何なのだろうか?
自動車に乗り込んだわたしは、さらに驚くことになった。後部座席の奥に、
あの覧子先輩が座っていたからだ。どういう事情か、座席にもたれて
ぐっすりと寝入っている。
わたしが驚きながらも席に座ると、いつの間に降りていた運転席の女性が
外からドアを閉めた。メイド服に大きなサングラスという変ないでたちの女性だ。
ドアが閉まるとすぐにロックがかかり、わたしはまた不安な思いに駆られた。
走り出した車の中で覧子先輩のことを尋ねると、レンは微笑んで答える。
「例の論文の件、覧子先輩も興味があるんだって。この沿線に住んで
いるから、先に拾ってきてもらったの」
仮にこの言葉がまったくの出まかせでも、今のわたしにはどうしようも
ないのだ、という心細い思いが不意に湧き上がった。
20分ほど車に揺られ、わたしたちは人里離れたところにある大きな邸宅に
たどり着いた。車は大きなガレージに入り、入ると同時にガレージの
シャッターが閉まった。
「さあ着いたわ。降りて」
レンにそう促されてわたしは車を降り、手を引かれてガレージの奥にある
扉に向かった。
「あれ? 覧子先輩は?」
わたしが訪ねると、レンは言った。
「運転手の人が連れてきてくれるから、心配ないわ」
その答えになんだか妙なものを感じつつも、わたしはレンに導かれるまま
扉をくぐるしかなかった。
扉はそのまま邸の地下室らしい空間につながっていた。レンはまるで
自分の家のように扉をくぐり、ブーツのままずかずかと入り込んだ。
わたしもそれにならって靴のまま入り、レンに手を引かれて、廊下の奥の扉へ
向かって進む。わたしたちと入れ違いに、やはりメイド服にサングラスの
女性が、廊下からガレージへ出て行った。
手袋をはめたレンの手は奇妙にごつごつして、冷たかった。どこか空疎な
笑顔を浮かべながらも、その握る力はとても強く、簡単に振りほどくことは
できなそうだった。
そんなレンに引かれるまま、わたしたちは奥の部屋の扉をくぐった。
「きゃあああああ!」
部屋の中が目に入ったとたんわたしは絶叫した。中の光景があまりに
異様だったからだ。
部屋の中央には、巨大な青いハチが鎮座していた。その周囲に、
そのハチと同じ色で、人間の女性の形をした生き物が何体か立っていた
――頭には黄色と黒の甲殻と触角、目の部分には大きな複眼。顔の下半分は
人間と同じ形だが、その色は青と紫の混じり合った模様に覆われている。
背中からは昆虫の翅以外の何ものでもない薄い膜が伸びており、全身は
ほぼ青一色で、乳房だけには黄色と黒の同心円模様。乳房先端の真っ赤な
乳首と、毛一つない下腹部の裂け目から露わに覗く赤い肉が示すのは、
その青いなめし革のような体表が、この生物の素肌だろう、ということで
ある。着衣と呼べそうなものは白いロンググローブとロングブーツ、それに
腰に巻かれたサッシュのみだ。乳房と性器は呼吸に合わせて淫らとしか
形容しようのない蠕動運動をしており、目の前の生き物の怪物性をいや増して
いる。ハチと人間の女性の合成生物、「蜂女」と言いたくなる奇怪な生物だった。
悲鳴を上げるわたしの両腕を、前にいた2体の蜂女が拘束した。
レンはというと、そんなわたしを横目で見ながら、巨大バチの正面に立つ、
どこかで見覚えのある蜂女の前に進み、トートバッグから書類の束と
パソコンの記憶ディスクを取り出し、蜂女に渡した。蜂女はそれらを
ざっと確認すると、脇にいた別の蜂女にそれを渡した。受け取った蜂女は
奥の壁に開いた、トンネルのような空間へそれを持ち去っていった。
「用事」が済んだ様子のレンはこちらへ振り向くと、カーディガンを
脱ぎ、ブラウスのボタンを外し始める、という意味不明の行動に移った。
そのとき、背後から覧子先輩の金切り声が聞こえてきた。
「放して!! 放してよ!! この化け物!! 本物の土井さんを
返しなさい!!」
やがて扉が開き、2人のメイドに羽交い締めにされた覧子先輩が
引きずられるように部屋に入ってきた。
覧子先輩は同じく拘束されているわたしに気付くと、必死の形相で
わたしに話しかけた。
「広笛さん!? あなたもさらわれたの? それともだまされて連れて
こられた? いい! そこにいるのは本物の土井さんじゃないわ。
土井さんに化けた蜂女よ。化け物なのよ!!」
レンを見つめながら発されたその言葉が、わたしの違和感を説明した
――レンの偽物。レンに化けた怪物。それが今朝、いや多分、昨晩以降
わたしが会話していた相手の正体だったのだ。きっと本物のレンは
蜂女たちに捕まっているか、最悪の場合、もうこの世にいないのだろう。
覧子先輩の言葉とわたしのそんな確信を、レンを名乗る女の不可解な
行動が裏付けているように思えた。
女は謎めいた笑みを浮かべてブラウスを脱ぎ捨て、長いスカートを
下ろした。その下に現れた素肌は、蜂女たちと同じ真っ青ななめし革の
ような皮膚だった。さらに女は上下の下着を脱ぎ捨てた。むき出しに
なったのは、同心円上の模様の入った乳房、それに、毛一筋なく、
ひくひくと蠢く不気味な陰部だ。続いて女は顔を覆っていたらしい薄い
樹脂のようなものを引きはがした。下から現れたのは青と紫が混じり合った、
やはりなめし革のような皮膚。さらに口から人間の歯を模したマウスピースを
吐き出すと、口の中には昆虫の複雑な口器のようなものが覗いた。
髪の毛の間からは、にょっきりと太い触角が立ち上がった。背中からは
翅がさっと伸びた。傍らの蜂女から受け取ったサッシュを巻いた姿は、
複眼と頭部の甲殻がなく、それゆえ顔だけはレンを装い続けている以外、
他の蜂女と変わらない異形の化け物だった。
レンに化けた怪人は、例の空疎な微笑みを浮かべながら、
レンそっくりの声で先輩に話しかけた。
「先輩? 何か勘違いされてるんですね? いいわ。まずは先輩に
わたしたちの真実を教えてあげます」
目の前の怪人が人間でないのはもはや明確だった。喋っている間、
口がぴくりとも動いていないのだ。
怪人は、恐らくは蜂女の仲間である2人のメイドに拘束されている
覧子先輩に歩み寄ると、3人……いや3体で協力しながら、その衣服を
脱がせ始めた。背中のチャックを下ろし、ワンピースを脱がせ、その下の
ブラジャーを外し、パンティストッキングとショーツを順に下ろす。
必死に抵抗しているはずの先輩を難なく押さえ込みながら、器用に、
そして丁寧に、衣類を破くことなく脱衣を施していく。
やがて全裸に剥かれてしまった先輩が、巨大なハチの前に連れ出される。
蜂女によって、大の字の姿勢であおむけに寝かされた先輩の両腕両足を、
巨大な青いハチが2対目と3対目の脚でがっちりと押さえつける。それから
ハチは先輩の首筋に大顎を運び、そこに噛みつく。恐怖と抵抗心に満ちて
いた先輩の顔がたちまち緩み、目を潤ませた、どこかうつろで弱々しい
表情に変化する。
巨大バチは顔を2対目の脚の間に潜り込ませ、細い精密機械のような
1対目の脚をやはり2対目の脚の後ろに運ぶ。ピンセットのような爪と、
大顎の中から出てきた舌のようなものが、先輩の両足の中央部で何かを
始める。その作業が進むにつれ、先輩が性的興奮状態に引きずり込まれて
いくのがありありと分かる。先ほどと同様、恐怖と抵抗の叫びを上げ
ながらも、今やその声には切ない快楽のニュアンスが混じり始めている。
舌によるそんな「愛撫」と呼ぶしかなさそうな操作をしばし加えた後、
巨大バチは手前に伸ばされた巨大な腹部の先端から太い突起物を伸ばす。
赤黒い突起物は先輩の両足の中央部に当てられ、そのままずぶずぶと、
先輩の女性器とおぼしき部位に挿入され始める――つまりは、先輩は
巨大バチにレイプされてしまったのだ。
「いやああああああ」
悲鳴を上げようとしているはずの先輩の声は、しかし快楽のあえぎに
近づき始めている。ハチが赤黒い突起物を、人間の男性がするように
前後させ始めるにつれ、そのトーンは明らかに後者に傾いていく。
そうして、我を忘れ、恐怖と快楽に翻弄されていた先輩の表情がふと
固まり、慄然とした表情に変わる。
「いや! だめ!! それはだめ!!! だめええええっっっ!!!!」
ただならぬことが先輩の胎内で生じたらしい、と察せられた。ハチの
腹部の前後運動は急激に激しさを増し、先輩の顔は、恐怖か、注ぎ込まれた
快楽か、あるいは多分その両方が限界を踏み越えたのだろう、目を見開き
口をぱくぱくと動かすだけで、何の感情も読み取れない顔つきに変わって
いる。あえて言えばそれは、狂人の目つきだ。
そして、恐ろしいことが生じ始めた。
先輩の腹部のあたりが急激に青みを帯び始めたのだ。まるで絵の具を
塗りつけたような鮮やかな青。つまりは蜂女の皮膚の色だ。その青みが
見る見る先輩の皮膚全体に広がり始め、乳房には例の同心円模様がぼんやりと
浮かび、見る間にその輪郭が明瞭になっていく。そうして、あっという間に、
先輩の肉体はレンと同じような蜂女に変わってしまった。
急速に進む肉体の変化に先輩は気付いたらしい。何かがはじけ飛んだ
うつろな視線がその肉体を捉えたとき、先輩の口から狂おしい笑いが
発せられた。
「あは、あは、あはははははははははは……」
笑い声は途中からぜえぜえというかすれた息に変わり、ついには先輩の
口からは何の音声も漏れなくなった。ところが、まるで無声映画のように、
先輩の顔は、ますます狂おしい哄笑の動作を続けていた。自分の肉体の
変化を見ながら、声なき笑いを発し続ける先輩が、恐怖のあまり狂って
しまったのか、心まで蜂女に変わってしまったのか、わたしにはわからない。
多分、その両方なのだろう――いずれにしても、人間としての先輩の心は
どこかへ消し飛んでしまったに違いない。
レンと同じ姿に変化し終えた先輩はゆっくりと立ち上がり、まわりの
蜂女たちに向かってうなずいて見せた。何か言葉以外の手段で互いに
意思の疎通を行っているようだった。それからわたしの方に向き直ると、
レンと同じ、あの空疎な笑み浮かべた。
すでに、昨日レンに何が起きたのかの真相は明らかだった。わたしと
一緒に電車に乗っていたレンは決して偽物ではなかった。それは本物の
レンが、しかし以前のレンとは違う生き物に、いわば「改造」されて
しまった姿だったのだ。今目の前で先輩がそうされたように。
そして次は……
「さあ、あなたの番よ」
普段とまるで変わらない声と口調で、その言葉を発した先輩の口は、
固く結ばれたままだ。そんな異形の怪物になってしまった先輩が、
ゆっくりと近づいてくる。気が付くとレンがわたしの背後に立っている。
やがて人間の面を貼り付けた2体の蜂女がわたしの服を脱がせ始める。
わたしを蜂女の仲間に改造するために。
「やめて先輩! やめてレン! 蜂女なんていや! 蜂女なんていや!!」
全裸のまま床に寝かされたわたしの首筋を、巨大なハチが柔らかく噛む。
瞬間、全身に電撃が走り、わたしの脳には薄桃色のもやがかかる。秘部からは
愛液がとろりとこぼれ落ちるのを感じる。ピンセットのような前脚がわたしの
陰唇を押し開き、内部で巨大バチの舌による緩やかな刺激が開始される。
「だめ! いやだ! いやだああ」
自分のあげる恐怖の悲鳴が、まるで愛しい男性へ向けられた恥じらいの
言葉のように錯覚される。わたしの心はすでにおかしくなり始めているの
だろう。これから施されるはずの「改造」への恐怖が、
この上ない快楽への期待と区別が付かなくなりかけているのだ。
「はうっ」
「挿入」がなされ、男性がするような前後運動が始められる。性行為
そのものの快楽が、わたしの抵抗心をじわじわと浸食する。これから
自分の身に起こる恐ろしい出来事が頭をよぎり、わたしはこの上ない恐怖
にうち震えかける。だが次の瞬間、暴力的に注入される快楽がその恐怖に
混入し、これから起こる出来事を妖しい魅力の色彩で染め上げる。そんな
恐怖と快楽の振幅が何度か続く内、わたしは自分が何を望み、
何を恐れているのか、わけがわからなくなっていく。
「……やだあ、入らないで……入らないでええ……」
巨大バチが、挿入された突起の中に何か丸い異物を送り出し、子宮の
中へ産み落とそうとし始めたのをわたしは感じる。……そうだ。この管は
産卵管なのだろう。わたしの胎内にはハチの卵が産み落とされ、そのハチが
わたしの体を取り込みながら成長するのだ――半ば本能的にそんな真相を
わたしは直観する。
卵が産み落とされたとき、ハチはこれまでにない激しい前後運動を
始めた。快楽でばらばらにちぎれたわたしの意識が、それでもくっきりと
自分の肉体の変化を捉えた。
「……あああ、蜂女になっちゃう! 蜂女になっちゃうううう!!」
おぞましく忌まわしい瞬間が遂に訪れたのを知ったわたしの声は、
それにもかかわらず喜びと期待に満ちていた。今のわたしにとって、
その瞬間は戦慄と嫌悪が増せば増すほど恍惚と陶酔の度を深める、
そんな甘美な予感に満たされた何かに変わってしまっていたのだ。
青い皮膚が広がり、乳房に黄色と黒の同心円が刻まれ、顎が一瞬融解し
再形成され、呼吸器系が肺から気管系に切り替わる。背中の翅と額の触角が
伸びていく。そんな取り返しのつかない変化を自覚するたび、そこに
生まれる恐怖と嫌悪と喪失感のすべてが、快楽を高揚させる燃料となって
消費されていく。
やがて巨大バチの前後運動は最大の激しさに達し、わたしの意識は、
その激しい運動が作り出す快楽をすべて受けとめ、あり得ないほどの高みと、
感じたことのない至福に包まれながら、真っ白に溶解していく。
…わたしの人間部分の記憶はそこで終わっている。わたしはそんな、
愚かで、滑稽でさえある顛末が記されたデータベース受け継いでこの世に
生まれてきた。
ついさっきまでのわたしは、宿主が「異物」として認識していた原形質の
固まりだった。その姿から急激に成長を遂げたわたしは、初めて自分の目で
知覚する世界を、本能の記憶と、「姉たち」が構築した共有情報と、
宿主が残した記憶に照らし合わせて解釈する、という作業を早くも始めた。
目の前にはかつて土井レンと呼ばれた姉がいる。尻を地面に着け、両足を
開き、かつて刀根アンナと呼ばれた伯母の手で、局部にノズルのような
ものを挿入されている。
その横にはかつて十条覧子と呼ばれた姉が立っている。姉の横には
伯母の1人が立ち、姉の体にスプレーのようなものを噴き付けている。
レン姉様は歓喜の声で局部のノズルを受け入れている。その目は急激に
伯母たちと同じ複眼に置換され、頭部には警戒色の甲殻が形成されつつ
ある。アンナ伯母様の薬品で停止させられた発生の最終段階を、
別の薬品によって再開させているのである。
他方の覧子姉様の表情は、決して明るいものではない。その肉体の外見は、
たった今覧子姉様が成熟するために消費され尽くしたはずの肉体に刻一刻と
似たものになっていく。吹き付けられたスプレーは、スペクトル分析で
得られたデータをもとに調整された、人間十条覧子の皮膚を再現する
人工皮膚となってその体表を覆う。全身がみすぼらしい肌色に覆われると、
付け爪やマウスピースのような、他の擬態様小道具が装着される。
レン姉様の宿主は天涯孤独の自由人だった。人間部分の両親はすでに
この世になく、人間社会でのしがらみは皆無に等しかった。そんな
レン姉様だからこそ、今日のこの「勤め」を最後に人間社会から永久に
姿を消し、地下の巣での活動に参入することは容易なのだ。まめな性格の
レン姉様はそれでも下宿に、残り日数分の家賃と家財道具を処分するための
手間賃、大家宛の書き置きを残していくのを忘れなかった。言うまでもなく
それは、人間たちに不審の念を抱かせないようにという、姉妹たちへの
配慮であった。
他方の覧子姉様の宿主は、簡単には人間社会から姿を消せないような
地位を得ている個体だった。それゆえ覧子姉様は当面、こうして人間に
擬態し、宿主の生活圏に入り込み、そこで宿主の活動自体を擬態せねば
ならない。そして同時に、人間社会の中で、「エデンの門番」としての
任務を果たし続けることになるのだ――すなわち、あのサトミ伯母様の
論文やその他の、エデンの存在やその所在につながるすべてのデータを
抹殺し、あるいは偽情報の中に埋め込んで攪乱し、あるいはそのデータを
知った人間に対し、しかるべき対応を行う――例えば、ついさっき、
レン姉様が十条覧子や広笛沙矢に行ったように。
……では、わたしはどちら側か? 伯母様、姉様たちの結論は出ていた。
わたしは人間部分の上司だった、人間部分の口癖によれば「セクハラ俗物
独裁者」の編集長の下に戻り、そこで情報の収集と攪乱の任務を果たす
のである。ここに着いてまだ1時間も経っていないから、3時からの会議にも
十分に間に合うだろう。
巣のため、姉たちのためと思えば死すら厭わない、というのが
わたしたち蜂女の本性である。だが、食い散らかした養分に過ぎない
人間部分の原型を擬似的に再現して、人間社会に潜入する、というこの
任務は、蜂女のあらゆる本能に反する不快で不自然な活動ではある。
処理が終わり、みすぼらしい人間そっくりの姿に変えられてしまった
覧子姉様の手に、わたしの人間部分の体色に調整されたスプレーが手渡される。
スプレーを手にした覧子姉様は、まるで怪物にされてしまった人間が同類を
増やすときに浮かべるような残忍な笑顔をシミュレートしながら、あえて
テレパシーを使わず、わざわざ気門からの声でメッセージを伝える。
「さあ、あなたの番よ」
* * * *
――数ヶ月後。
南米のとある密林地帯をヘリコプターが飛んでいる。搭乗しているのは
自称「在野の天才」堂間福夫が私財をなげうって結成した5人の探検隊だ。
福夫は隊員の1人でもある天才少女・登希代が、そのハッキング能力と
自力での理論構築によって復元したイマカタ論文に導かれ、一攫千金を
夢見てこの地へやってきたのだ。
世間的に天才を名乗っている福夫の発明や発見のすべては、実は登希代の
手になるものだ。福夫の才はむしろいくばくかの経営能力と大胆な計画を
実行に移す胆力にあった。そんな福夫が、乱れ飛ぶ怪情報の中から登希代が
すくい上げた怪生物・ネズミバチのデータに目をつけた。そして、
ネズミバチが暮らす楽園であろうと登希代が断言する異空間に赴き、
この幻の動物を捕獲しよう、という計画を立てたのであった。
探検隊がヘリコプターを見送った直後、彼らの目の前に早速生きた
ネズミバチが飛来した。追いつけそうで追いつけない、微妙な速度で
飛翔する怪生物を夢中で追いかけた探検隊一行は、自分たちがごく薄い
ベール状の空間を一瞬くぐり抜けたことに気付かなかった。
ネズミバチを結局取り逃がしてようやく、彼らは周囲の様子が一変して
いることに気が付いた。植生が変化し、遠くには小山ほどの巨大な城、
あるいは要塞と呼べそうな近代的建築物がそびえ立っている。
「あ! あれは何だ!?」
一変した光景を十分観察する間もなく、隊員の1人がそう叫ぶ。「城」の
方角から、先ほどのネズミバチよりずっと大きな生物の群れが飛来したのだ。
すぐに、接近する飛来物の輪郭が見え始めた。ネズミバチ同様、
青い肉体の一部に黒と黄色の警戒色を刻んだ、人間の形をした怪生物だ。
「きゃあ!」
異形の群れがあっという間に探検隊を取り囲み、その中の数体が、
「紅一点」である登希代の手足を掴み、空へ引き上げた。他の怪物たちは
空から他の隊員たちを地面へ押し倒し、そのズボンを下ろし始めた。
「登希代! ときよーーーーーっ!!!」
下半身を丸裸にされた福夫が、連れ去られる愛娘を見て悲痛な叫びを上げる。
あの「城」、つまり朝花たちが異空間中心部の山を改造して築き上げた
要塞の中。登希代は全裸に剥かれ、円形の台の上に大の字の姿勢で拘束
されていた。
連れ去られている間中、死にものぐるいで恐怖の叫びをあげ続けたせい
なのだろう、登希代は軽い虚脱状態に陥っており、それがかえってこの
異常な状況の中、奇妙に冷静な思考を可能にしていた。
登希代は、怪生物たちの正体も、そして自分のこれからの運命についても、
ほぼ正確な理解に達していた。不必要なまでに錯綜した怪情報――つまりは
アンナや沙矢の手でばらまかれた偽情報――の中から、ネズミバチに
関する正しい解剖学的、生化学的データを抽出し、その生態や進化史に
関して、おおむね妥当な推測を行っていた登希代は、この怪生物たちが、
ネズミバチが巨大バチとネズミの共生体であるのと同様、巨大バチと人間の
共生体なのだろう、と察しており、そこからまた、その目的の推測も
ある程度可能だったのである。
登希代の脳裏にはまた、ネズミバチの脳神経の構造が浮かんでいた。
登希代はそこから、蜂女がいかなる生物であるかを推理していた。
――整然と統率され、一糸乱れぬ振る舞いを見せる一方で、人類の
テクノロジーの産物としか思えない機器を扱う「蜂女」たちは、ハチの
本能に支配され、人間の知性を使用する存在に違いない。
ネズミバチの大脳は宿主であるネズミに由来する。他方、ネズミバチは
腹部にハチ由来のはしご状神経につながった脳も有している。そしてその
脳は、気管系を初めとする重要な生命維持機能を担うだけでなく、ネズミの
脳に深い部分で融合し、その行動に絶対的な決定力をもつ「命令」を
送り込む機能ももっているに違いない。融合の部位からしても、
進化戦略の観点からも、それはほぼ間違いない。
哺乳類の柔軟な学習能力をもつ脳とは異なり、昆虫の脳は「固定配線」の
命令しか送り出すことがない。哺乳類の脳が産み出す感情や獲得された
経験などが、フィードバックして昆虫の脳に組み込まれた指令を
書き換えることは神経学的にあり得ない。だから一度蜂女にされてしまった
人間は、どんな感情に動かされようと、どんな教えを受けようと、昆虫の
脳が送り出す絶対命令から自由になることだけはできなくなるだろう。
脳の昆虫部分は栄養的には宿主の脳に依存している。だから昆虫部分は
人間部分から外科的に切り離されると直ちに死んでしまうだろう。そして
脳の昆虫部分が死ねば、気管系その他の生命維持活動が停止し、人間部分も
直ちに死を迎える。哺乳類独自の生命維持器官の多くは昆虫部分に
「食べ」尽くされ、失われてしまっているのである。
それゆえ、蜂女にされてしまった人間は、死によってしか解放されない
隷従のくびきに囚われ続けるしかなくなる。人間がつくる、どんな軍隊にも、
どんなカルト集団にもまねのできない、絶対服従の集団がつくり出される。
……そして多分、もうすぐ自分も、その一員にされてしまう……――
登希代が虚脱状態のまま、そんな恐ろしい推理を進めている内、小柄で、
複眼の表面に眼鏡のようなレンズを装着した蜂女が近づいてきて、
登希代に話しかけた。どこかで見覚えのある顔だ、と登希代は思った。
「あなたには新しいタイプの蜂女第1号になってもらうわ。人工卵嚢を
母とし、ナノマシンによる細胞強化によって戦闘能力を高めた改造型蜂女。
催淫剤も産卵管から注入するオールインワン・タイプで、開発者の名を
とって『エイミー1号』と呼ばれているわ」
饒舌な蜂女が気門から発したその言葉により、登希代は予測していた
運命を改めて確認する。今まさに登希代の肉体は、青いなめし革のような
皮膚と警戒色模様の乳房を備えた、異形のものに変わろうとしている。
そしてその脳には、死ぬまで決して解除されない本能の絶対命令が
植え付けられようとしている。
そんなおぞましい運命を自覚しながらも、登希代の心は妙に冷静なまま
だった。それは依然癒えない虚脱状態のせいばかりではなく、登希代の中に
生じた深い諦念がもたらしたものだった。
――山1つ人工物に作りかえるほどの大規模なテクノロジーは、その資材
ひとつとっても、この異空間内だけから調達したわけではなかろう。多分、
蜂女たちは外の世界に密かに進出し、人力や財力、そして軍事力を蓄積
しつつある。その規模はすでにはかり知れないほど大きなものになっている。
何のための力か? 繁殖のための力だ。つまり、本能に衝き動かされ、
地球上に住まう莫大な数の人類を――正確に言えば、何らかの理由により、
その中の女性のみを――自分たちの同類に変えていくための力だ――