オルフェウスの窓でエロパロ 【5】

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1名無しさん@ピンキー
池田理代子著「オルフェウスの窓」のSSです。

過去スレ
オルフェウスの窓でエロパロ
http://sakura03.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1156160098/
オルフェウスの窓でエロパロ 【2】
http://sakura03.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1189763878/
オルフェウスの窓でエロパロ 【3】
http://yomi.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1198761375/
オルフェウスの窓でエロパロ 【4】
http://yomi.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1244880957/

過去スレを見たい人はこれを使ってみてね
http://www.23ch.info/
http://www.geocities.jp/mirrorhenkan/
2名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:24:44 ID:h2vNUIt3
序章

1911年初春 ペテルスブルグ

闇の中、金髪をなびかせて彼女は走っていた。真夜中もとうに過ぎた静かな街頭に、
彼女の足音だけが鳴り響いていた。女が一人で外にいるにはあまりにも危険な時間で、
少し離れたところでは一人の男がその足音に耳をすましていた。
だが彼女の念頭にそんな危惧は浮かびもしなかった。
闇の中を必死に走る姿、それはいつもの悪夢とそっくりだったが、夢とは違い彼女の心は
例えようもない晴れやかさと希望に満ちていた。
なぜなら彼女はたった今長年の桎梏から解き放たれたばかりだった。
その肺に思い切り吸い込むのはただの空気ではなく、ここ数年は思い出す事さえかなわなかった
自由そのものとさえ感じられた。初春とはいえまだ凍て付くように冷たい大気を一息吸うごとに
清新な新しい力に満たされ、彼女は息の続く限り走っていく。
その先には、ずっと見失っていた真実が自分を待っている筈だった。
駆けて駆けてようやく彼女は目的の館に達し、激しく息切れしながらその扉に倒れこむように
手をかけた。
そして重い扉を思い切って引き開けると、真夜中だというのに明るい光と人々の哄笑が
どっと街路にまで溢れ出してきた。

だが物語はその数年前、彼女が自らを虜囚であるとは知らずに過ごしていた日々から語り起こされる。


第一章
(1)

ユリウス!
ユスーポフ家の静かな邸内にリュドミールの声がこだました。
「姉様、ユリウスを知らない?」
「さあ・・・昼食の後は知らないわ。リュドミール、今日はユリウスに見てもらう日ではないでしょう?」
「だって・・・約束したんだ、レンスキー先生の課題ができたらつきあってくれるって!
厩舎の子馬を見にいくのに、ユリウスと一緒ならいいって兄上だってこないだ。」
「はいはい、リュドミールはすっかりユリウスびいきになってしまったわね。」
「だって火曜だってさ、僕が先に約束していたのに急に兄上の使いがきて連れて行ってしまったし、
昨日は姉様がコンサートのお供にしちゃって、僕は3日も放りっぱなしだ。」
「リュドミール、このユスーポフ侯爵家の男子がそんなことで駄々をこねてどうするの。」
とヴェーラも言葉だけはいかめしく咎めたが、顔は笑ってしまっていたので威厳は台無しだった。
「でも本当にどこにいるのかしらね。今、部屋と書斎の前を通ったけれど見なかったわよ。
サロンにもいなかったし、庭かしら?」

そんなところに当の本人が入ってきた。ヴェーラの言った通り庭に出ていたらしく、
秋咲きの白いサルビアを腕一杯に抱えて涼やかな様子だった。
「ヴェーラ、東の奥でもう咲いてたよ。ライサに生けてもらえるかな?」
リュドミールは「もう!ひどいじゃないか、ユリウス!」とふくれっつらをしてみせた。
「何を言ってるのリュドミール」と笑いながらその金髪の人は答えた。侍女に花の束を渡しながら、
「確かに僕は君の家庭教師の一人だけど、専属のお守りではないんだよ」
と歌うように抑揚をつけて答え、
「甘えん坊のリュドミール」とさらに今度は明らかに節をつけて歌った。
今度こそリュドミールは笑い出しながら彼女に向かって走り出し、ユリウスは少年というには
まだ幼い彼をひらりとかわすとその手をとり、くるりと体を回してやった。
そのまま二人は笑いさざめきながら庭へ出て行き、ヴェーラと召使達は微笑して彼らを見送った。
「あの子達に飲み物と帽子を持っていってやって。」
ヴェーラは言いつけると書きかけていた手紙の続きのため自分の部屋へ上がった。
だが、ペンを手にはしたものの、頭は書かねばならぬ文面よりも、弟がいまやもう一人の姉のように
慕っているユリウスについて向かっていった。
3名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:25:05 ID:h2vNUIt3
彼女がこの屋敷にかつぎこまれてから早3年半が過ぎていた。そして記憶を失ってからは3年近く・・・。
リュドミールはいざ知らず、ヴェーラとその兄は彼女を騙しているも同然だった。
(ユリウスが・・・その事を知ったらどうするだろう?)とヴェーラは彼女がこのユスーポフ家に
姿を現した当初の烈しい眼差しと身にまとっていたはりつめた空気を思い出し、ため息をついた。

兄の政敵、ラスプーチンの企みで連れ去られたユリウスが宮廷から戻る途中で行方不明になり、
次いで意識を失った姿で発見されたあの時。目覚めた彼女は何もおぼえていなかった。
ロシアに来た目的も、自らの過去も、名前すら。
全ての記憶を失った彼女は自分が誰であるかさえわからず、パニック状態に陥った。
それを知らされた兄は驚き、しばらく沈黙していたが何事か決意したらしく、
ヴェーラにユリウスには彼女自身について何も教えるなと厳命した。
もっとも教えようにもヴェーラが知っていたのはただ「ユリウス」と名乗る彼女がドイツ人であること、
反逆者アレクセイ・ミハイロフを追って一人ロシアまで来たらしいという事ぐらいだった。
おそらく亡命していた彼の恋人だったのだろうが、それも推測に過ぎなかった。
いわばアレクセイ・ミハイロフを釣上げる餌として、この屋敷に監禁されてしまったユリウスは、
以後周囲を敵と見なして貝のように口を閉ざし、それきり自分については何も明かそうとしなかったのだから。
ユリウスの精神状態と負傷した体がだいぶ落ちついた頃、レオニードはヴェーラを伴って彼女を見舞った。
そしてヴェーラが唖然とするほどあっさりとユリウスを罠に落とした。

ユリウス、それが君の名だ。だが残念ながら我々も君についてさして知っているわけではないのだ。
君はこの間の春、まだ雪も溶けないうちに偶然、我が家にかつぎこまれた。
暴動にまきこまれ被弾して倒れていたところを身なりの良さから部下が不審に思い、我が家に運びこんだのだ。
意識を取り戻した君は荷物のことを尋ねたが、ここにはあいにく身一つで運ばれてきていた。
だから君はその時全財産を失ったわけで、何も身元がわかるようなものも残っていない。
とりわけストラディヴァリの事を気にしていたな。いや、なぜそんな名器を持っていたかはわからない。
君は音楽の勉強をしていたようだが、ヴァイオリニストではないらしかった。
・・・何か思い出せたか?そうか、駄目か。

正直、我々の眼には君は少々怪しい人間だった。
男装したうら若い外国人の女性で(何せ君はロシア語を全く理解できなかったのだから)、
なぜか自分の事を語ろうとしなかったのでロシアに来た目的もはっきりしない。
おまけに言いにくいことだが、君の体には古い銃創まであった。パリやロンドンならいざ知らず、
ロシアではまっとうな女性で男装だの銃創だのは考えられないからな。
(この辺りでユリウスの過去へつながる何かを知る期待を失い、だんだん心もとげなものになっていった。)
とは言うものの、君はそう邪悪そうには見えなかったし、実際のところ、取調べの過酷さには
定評のあるロシアの警察に引き渡すほどの証拠が何かあるわけでない。
かと言って無一文になって途方にくれている女性を今のロシアの荒れた社会に放り出すわけにもいかず、
我々は何となく君をここに留めてしまった。
さして役に立つ情報が無く申し訳ないが、これが君についてわかっている全てだ。
そうだ、もう一つあった。大事な事だ。おそらく君は自分でははっきり言わなかったがドイツ人だろう。
君の話すフランス語にはかすかだがドイツなまりがあるし、何より当初身につけていた衣類はドイツ製だったから。
いや、その衣類は全て処分してしまった。何せその時の怪我で、血の汚れがひどかったからな。

兄の話は全てが嘘ではないだけに、たちが悪かった。ただ本当に重要な情報を隠しているだけだ。
ヴェーラは呆れつつ、目的はわからないが口裏を合わせるために自分が同席させられている事は
承知していたので、兄に言われた通り口を挟まなかった。そして表情を変えないよう努力しながら
ユリウスと共に話の続きを聞いた。
4名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:25:26 ID:h2vNUIt3
何か思い出せたか?そうか。残念だな。
・・・少し考えたのだが、君さえよければもう少しここにとどまっていくか?何か記憶の糸口が見つかるまで。
君も結構いいみなりをしていたので、誰か身寄りが探しにくることもあるかもしれぬ。
何もしないのが退屈なら、リュドミールの勉強を少し見てもらってもよい。
もちろん正規の家庭教師はつけているから・・・そうだな、音楽でも少し見てもらえると助かる。
なに、ユスーポフ家は軍人の家系で弟もあと数年で幼年士官学校に入る。
だから音楽教育もそう本格的なものでなくてよいのだ。気が向いた時でいい。気楽に考えてくれ。
ただし、申し訳ないが、行動は少し制限させてもらう。
記憶を失った君が知らないのは当然だが、ロシアは今、非常に治安が悪くなっている。
ことにこの家は私の妻が皇帝の姪であることも手伝って、警護を厳重にせねばならない。
あまり好き勝手に出歩いてもらうわけにはいかない事だけは、承知してくれたまえ。

もちろん記憶も金銭も他に係累もない彼女には他の選択肢などある筈もなかった。
以前とは別人のように素直になってしまったユリウスは、何も疑わずにレオニードの「提案」を受け入れた。
ヴェーラは兄のやりくちにすっかり呆れ果てた。これで兄はユリウスをしっかりと監視下に置き、
行動を制限する権利すら彼女本人に認めさせている。そのうち兄に聞かされた話の穴に気づいても、
客人と雇い人の間の中途半端な立場では兄に詰問もできないだろう。
もっとも今のところユリウスは騙されていることに全く気づかず、兄に感謝すらしている始末だ。
それもこれもアレクセイ・ミハイロフへ繋がる線を握っておくためだろうか?
だがそもそも兄は近衛隊の軍人で、革命派の捜索・逮捕は管轄外だ。何もアレクセイ・ミハイロフを兄が
自らの手で捕らえる必然性はない。国の治安のためを思うなら、捜査のためには(そうなればいいとは決して思わないが)
ユリウスを専門の者・・・治安維持をあずかる憲兵か、革命派の捜査が専門の秘密警察に渡してしまうのが一番確実なのだ。
ヴェーラは兄の目的をいぶかしんだ。
過去を知る希望を失い疲れた様子のユリウスに休むように勧めた後、別室に移りレオニードは妹に言った。
「さぞ不審に思っているだろうな。」
「ええ・・・。なぜそこまでして彼女を?」
「そうだな・・・。詳しい理由は言えぬが、政治向きのことで彼女を監視下におかねばならなくなった。
これは皇帝陛下の命と了承してくれ。だがその事は私とお前だけがわかっていればよい。
アデールはおそらくもうこの屋敷に戻るまいから。召使達にはユリウスに関することは勝手を許さず、
必ず私に許可を得るように伝えてくれ。そして今まで通り、フランス語が話せる者だけをつけるように。
ロシア語は学ばせるな。」

不審な気持ちは消えなかったが、兄の任務がらみで、しかも皇帝陛下の意思が働いているとあっては
従うしかなかった。
そしてモスクワ蜂起でアレクセイ・ミハイロフが捕らえられ終身刑に処された後も依然としてユリウスは
解放されず屋敷に留め置かれたので、「政治向きのこと」とは、ミハイロフ以外にも何かあるのだなと
初めて察しがついた。だが、皇帝陛下が関わってくる程のその事情を、兄は決して自分にも教えないだろうと
ヴェーラはわかっていた。
5名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:25:47 ID:h2vNUIt3
ユリウスとリュドミールは庭の大きなニレの木陰で横たわり、姿勢は行儀が悪いが、
感心にも他の家庭教師が出したリュドミールの課題の口答試験をしていた。
結果はまずまず合格、ユリウスを今日は独占できそうな事に満足して、
リュドミールは思い切り伸びをしながら寝返りをうった。そしてうつぶせになるとひじをつき、
傍らに仰向けで横たわるユリウスの美しい顔をじっと見おろした。
もちろんリュドミールはまだ幼なかったが、ユリウスがずばぬけて美しい人だということは
子供なりにわかっていた。
だがユリウスの美しさは義姉のアデールのように香水の香りと宝石に包まれた貴婦人の近寄りがたいそれではない。
むしろ女くささを感じさせない、清潔な・・・そう、若木のような美しさだった。
それにリュドミールが彼女を慕う理由はその美しさのためではなく、ユリウスがユスーポフ家にもちこんだ、
一種、風のような自由さだった。
年の離れた兄と姉は両親代わりでリュドミールは彼らの愛情に常に包まれていたが、
威厳を重んじるその家風はまだ幼いリュドミールには重圧を感じさせることもあった。
だがユリウスが加わって以来、その厳格さは少しやわらげられていた。ことに、兄には弟の自分ですら
時には近寄ることさえためらわせる威圧感があったが、そんな彼の心をほぐすのがユリウスはうまかった。
もっとも彼女はそれを意識してやっているのでなく(だいたい、レオニードに対して自分が影響力を
持っていることに気づいているのかどうかすら怪しいものだった。)、
ユリウスの発散する疑いを知らない純粋さが周囲の人間の構えをほぐしてしまうのだ。
幼いながら、いや幼いからこそリュドミールはその純粋さを感じ取り、慕わしかった。
ラテン語の授業でユリウスが“光り輝くもの”という意味と知った時にはなんて彼女に
ぴったりな名前なんだろうと思ったものだ。
6名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:26:35 ID:h2vNUIt3
だがリュドミールは最近少し知恵がついてきたので、ユリウスの顔を見下ろしながら、
(不思議だな。)と思った。
(ユリウスはこんなに賢くて(他の家庭教師と比べても教え方は断然上手で、彼女の頭の回転の良さは
子供の目にも明らかだった)、物知りなのに、なんで自分の事、何もおぼえていないんだろう・・・)
その話をするとユリウスが悲しい顔をすることはもう知っていたので、その事はリュドミールは言わなかった。
だがもう一つの疑問を口に出してしまった。
「・・・なの?ユリウス」
「・・・なあに、何か言った?リュドミール。」
秋の始まりで戸外は過ごしやすく、1年で一番気持ちのいい風が吹き過ぎて行く。
その感触を目をつむって楽しんでいたユリウスは、リュドミールの質問を聞き逃してしまった。
「ユリウスは、もしも誰かが探しにきたらその人と帰ってしまうの?」
これは最近のリュドミールにとっては大変重要な懸案事項だった。
一度思い切って姉に尋ねてみたのだが、ヴェーラは珍しく「そうねえ・・・。」と言葉を濁すだけで、
何もはっきりした返事をしてくれなかったのだ。
「・・・」ユリウスは瞳をひらいて、じっと空を見た。すこし緑がかった色の澄んだ瞳に青空が写っていた。
予想に反してしばらく返事をしないユリウスにリュドミールはじれた。
だがもし自分の望まない答えなら聞くのが怖くてせかす事もできず、自分から聞いておいて
宙ぶらりんな気持ちでリュドミールは待った。
(彼はもちろんユリウスが「行かないよ」と即答してくれると思っていたのだ。)

ようやくユリウスが言った。
「どうだろう・・・。もうそんな事は起こらないんじゃないかな。」
ユリウスはリュドミールのような子供が相手でも常にしごく真面目に話した。
「え・・・。」
「だって考えてもみてごらん。僕が最初に君たちの屋敷にごやっかいになってから
もう3年以上たつんだろう?結構長い年月だ。リュドミール、君だってすごく3年前とは違うだろう?」
リュドミールは確かに3年前の自分は赤ん坊ですっかり大人になった今とは全然違う、としかめつらしく考えた。
「もし僕を探してくれている人・・・家族にせよ、誰か他の人にせよ・・・がいるなら、
とうの昔に探し当ててくれてるんじゃないかな。レオニードだって警察には届けてくれてるんだし。
(もちろんこれはレオニードの真っ赤な嘘だった。)」
「でも・・・だって、兄上も誰か探しにくるかもって、そう言ったんでしょう?」
「あれは・・・多分、レオニードが僕に気をつかったんだと思う。行くところの無い僕をかわいそうに思って、
ここにいやすいようにそんな事を言ってくれたんじゃないかな。」
「・・・ユリウス・・・」
上体を起こして、にっこり笑ってユリウスは言った。
「リュドミール、君のお兄さんは優しい人だね。もちろんそんな事、君は僕よりよく知ってるだろうけど。
レオニードは強いだけでなくて優しい。そんなお兄さんがいて、君は幸せだね、リュドミール。」
家族と再会することをあきらめているユリウスに、リュドミールは子供ながら何と言っていいのか
わからなくなってしまった。
また、ユリウスが兄の気づかれにくい優しさをほめた事で、彼は改めて兄の良さを言葉に表わして認識できた。
(そうなんだ、兄上は怖そうでも、いや怖い時はとてもとても怖いけど、でも本当はとても優しい・・・。
そう言葉にして考えたことはなかったけど、ユリウスの言う通りだ・・・。)
リュドミールがユリウスを好きなのは、こんな風に自分の世界に違う光をあてて、そこに自分が持ってても
気づかなかった宝物を見つけてくれるからだ。
彼の中で様々な感情がうずまいて、そしておそらく寂しさを抑えて(それがわかるくらい、リュドミールは察しの良い
子供だった)微笑むユリウスがあんまり美しく見えて、リュドミールは何を言えばいいのか混乱してしまい、
とりあえず、一番気になっている疑問をもう一度確かめた。
「じゃあユリウスはどこにも行かないね?」
ところがユリウスはまたもやじっと考え込んでしまった。
「もう、ユリウスったら、何もいちいち考えることないじゃないか!」と今度はついにせっついてしまった
リュドミールだが、ユリウスは今度もすぐには返事ができなかった。
7名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:26:56 ID:h2vNUIt3
その事は彼女自身、さいさい考えこんでは結論の出ていない事だったからだ。
リュドミールは早ければ1年後、どんなに遅くても2年後の秋には士官幼年学校の寄宿舎に入る。
それ以後もこの由緒正しいユスーポフ家で厚意に甘えて寄宿を続けて良いものか。
頼めばレオニードかヴェーラがどこか他の家の家庭教師に推薦してくれるだろうか?
しかし身元不明で記憶喪失の外国人など、いったいどこの家が受け入れてくれるだろう?かといって、
音楽で身をたてていくことも今の腕前では難しそうだった。
おまけに、なぜかレオニードがユリウスがロシア語にふれるのを嫌がるせいで、未だに彼女のロシア語はお粗末なものだ。
いくらロシアの上流階級の会話はフランス語中心とはいえ、彼女自身はこの国の貴族でもなんでもないのだから
今後ロシアで生きていくのならこれは大問題だ。
しかしそんな事よりなんといっても、一番の問題点は、自分には冬は魔の季節であることだった。
あの恐怖!激しい吹雪とその音が自分をどんなに脅えさせ、追い詰めて取り乱させてしまう事か。
恐らくレオニードが言う通り自分の失った過去に理由があり、それは忘れていた方がいい事なのかもしれない。
しかし、あの恐怖感を克服しない限り、日常生活もおぼつかない有様で、ましてやどこかに雇われるなど無理な相談だ。
と、思考がいつものどうどうめぐりをしかけた所で、ユリウスはリュドミールを待たせすぎている事に気づき、
考えを断ち切って言った。

「リュドミール、僕は君がきちんと幼年学校に行くまではこの家にいるよ。
もちろんそれまでクビにならなければの話だけど。」
「ユリウス、クビになんかなるわけないじゃないか。でも僕が幼年学校に入るまでってどういうこと?
その後はいなくなっちゃうってこと?」
「だって、もう僕が教える人はこの家にはいなくなるわけだからねえ。
君はレオニードみたいに立派な軍人になるんだから、音楽教師には用がないだろう?」
「そんなの・・・関係ないよ!こないだ姉上と訪問したナボコフ家なんて、夫人の家庭教師をしてたっていう
90歳のおばあさんがいたよ!だからユリウスだって90歳まででもここにいればいいじゃないか!」
「9、90歳か・・・、う〜ん」とユリウスは苦笑して、だがこの素直な少年が
これだけ自分を慕ってくれる気持ちはとても嬉しく思った。
「リュドミール、僕は約束するよ。ひとつ、君が学校に入るまでは、僕にできる限りの事を君に教える。
ふたつ、もし僕がこの家を離れる事があっても、君と僕はずっと友達だ。わかるかな?」
「本当に?僕達は友達?ユリウス!」
「そうだよリュドミール。」
「じゃあ誓ってくれる?絶対に、その約束を忘れないって」
「忘れない。誓うよ、リュドミール」
それはロシアの黄金の秋の始め、とても美しい日に行われた微笑ましい友情の誓いだった。
リュドミールはユリウスがそう誓ったことで非常に満足した。
それは幼い彼にとっては彼女がずっと側にいることを約束したのも同然の言葉だった。
そしてユリウスの方も、この小さい友達を自分は終生愛しく思うだろうと感じていた。
だがこの誓いこそが、やがて彼らを奈落へと突き落とす最後のひと押しになろうとは、この時の二人には
とても予測などつく筈がなかった。
8名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:27:41 ID:h2vNUIt3
「リュドミール様、ユリウス様!」と召使が邸のほうから二人を呼びに来た。「旦那様のお帰りでございます。」
「兄上が?今日は早いんだ!」とリュドミールは跳ね起きて「ユリウス!こっちから!」と叫ぶと木々の間を縫って走り出した。
ユリウスも笑いながらリュドミールを走って追いかけたがほどなく足元を何かにとられ、
落ち葉の中に頭から見事にころんでしまった。
「・・・?」と自分を躓かせたものを見ると、夏草の残りを短く結び合わせたものだった。
「・・・!」リュドミールが立ち止まって笑ってこっちを見て言った。
「わあっ、ひっかかったねユリウス!」
「リュドミール!」笑いながらユリウスが叫ぶと
「3日も僕をほっとくからだよ!何てったって僕は「甘えん坊」なんだからね!」と
笑って言い返し、今度は一気に館に向かって走っていった。
「もう!」と言いながらユリウスはリュドミールを追った。
子供の足とはいえ結構差をつけられてしまったので、ユリウスが帰館したレオニードと
サロンで顔を合わせた時には、リュドミールはちゃっかり出迎えの挨拶を済ませて
自室に上がってしまっていた。
9名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:28:02 ID:h2vNUIt3
「どうしたんだ、その有様は。」
落葉だらけの彼女の姿にレオニードはいささか呆れた様子で尋ねた。
ユリウスは石張りのテラスで体のあちこちについてしまった落葉をはたきながら、
「今日はリュドミールにしてやられちゃった。あの子の作戦勝ちだ、士官としては将来有望だね」
と笑った。レオニードは苦笑しながら無造作にユリウスの金髪を荒く揺すり、
残った葉のかけらをふるい落としてやった。
その荒っぽさにユリウスは「わぁっ」と笑って、だが素直にされるがままになっていた。
「全く・・・僕は犬じゃないんだからね!」
「我が家の犬どもはこんな落葉まみれで屋敷の内に入ってこぬぞ。」
「あはは、確かにそうかも。ユスーポフ家では犬も僕より規律正しいよ。」
普段からまとめもせず降ろしている髪からようやく落葉を落とし終えて、
「リュドミールは部屋に上がったの?今日はあの子に一日付き合う約束だから行くね。じゃあ晩餐の時に。」
と言ってユリウスが去ろうとすると
「いや、ちょっと要するものがあって立ち寄っただけだ。今宵はもう戻らん。」とレオニードは答えた。
「ああ・・・そうなんだ。」とユリウスはあからさまに落胆した顔になった。
そんな彼女に微笑んでレオニードは「なんだ、何か私に用でもあったのか。」と言った。
「ううん、そういうわけじゃないんだけど・・・。そうだ、おとついの馬、よかったね。
あれならリュドミールは本当に喜ぶと思うよ。」
「ああ、つきあわせて済まなかったな。だが助かった。お前で御せれば、リュドミールにもちょうどいい。」
「来月のあの子の誕生日が楽しみだね。」
二人は小さな秘密を共有する者同士の気安さで目を見交わし微笑んだ。
そこへ召使が紅茶を運んできたのでユリウスもよばれることにした。
(リュドミールにはさっきのいたずらのお仕置きにもう少し待ってもらおうとユリウスは考えた。)
カップを持ったまま、二人はなんとなくサロンからユスーポフ家の庭園を眺めやった。
さっきまで微笑んでいたユリウスの表情にふと影が差したのをレオニードは見逃さず、
「どうかしたのか?」と訊ねた。
「ううん、ただ・・・。」「なんだ。」
「また冬が来るな、と思って・・・。」
ユリウスはそう言うと、再び窓の外、木々の梢が黄金に色づき始めた庭園をじっと見つめた。
レオニードはわかっていたが、「またあんな風になるかと脅えているのか?」とあえてはっきり聞いた。
「・・・うん・・・。構えすぎなのかもしれないけど・・・。冬が近づいてくると思うと・・・
ものすごく胸の奥がざわざわする気がして・・・。そしてあの時の気持ちを思い出してしまう・・・。」
「気にしすぎるな。あまり考えると、自分を暗示に掛けているのと同じだ。
戸外の吹雪がお前に一体何をする?脅え過ぎるとそれこそ前のように命取りになりかねんぞ。」
「うん・・・。」
「まあ、どうしても怖ければまた駆け込んでくれば良かろう。」とレオニードは笑い、
ユリウスは真っ赤になって「もう!レオニード!」と怒ってみせた。
記憶を失って以来(もっとも以前がどうだったのか知る術はなかったが)、吹雪に対する恐怖は
小さくなるどころか募る一方で、去年など脅えたユリウスは事もあろうに薄い寝巻き一枚の格好で
書斎のレオニードのもとに駆け込んでしまったのだ。
それを思い出すと耐えられない恥ずかしさで一杯になってしまう。
だがその時、レオニードは嗤わずにそんなユリウスを受け止めて、彼女が落ち着くまで
辛抱強くつきそってくれた。その優しさで彼女は昨冬をなんとか乗り切れたようなものだった。
だから今、からかわれて怒る一方で、大きな安堵感で彼女は暖かく満たされ、小さな声で言った。
「・・・ありがとう。」
レオニードはまるで子供を安心させるように彼女の後頭部を軽くポンポンとたたくと、
戸口に待たせていたロストフスキーとまた軍務に戻っていってしまった。
10名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:28:22 ID:h2vNUIt3
ユリウスは窓から彼らを見送りながら、もう一つ、冬が彼女に思い起こさせる事を
今回もレオニードに言えなかったな・・・と思った。それはある反逆者の面差しだった。
記憶を失って混乱していたあの冬、いや言い方を変えれば彼女にとっては記憶が始まる最初の冬、
レオニードはなぜか彼女と弟をモスクワ蜂起に失敗した反乱分子達が処罰を言い渡される広場へ伴った。
リュドミールへの教育の一環だったのかもしれないが、まだ記憶を失って日も浅く精神的に不安定な
ユリウスには正直、辛い経験だった。
次々に名を呼ばれ、処罰を言い渡される罪人達の中にその若者はいた。
彼は亜麻色の髪を寒風にさらし、罪を言い渡されているにも関わらず、まるでそこに居る事を誇るかのように
広場一杯の群集の前に傲然と胸を張って立っていた。
なぜか彼女の心は激しくゆさぶられ喉が詰まるような思いで一杯になり、彼以外の何も目に入らなくなってしまった。
名前も顔も知らない青年だというのに・・・。
偶然にも彼はリュドミールの命の恩人だったらしく、リュドミールがすっかり興奮してしまったので、
彼らは早々に広場を引き上げた。
その青年の名はアレクセイ・ミハイロフ。
ユリウスはその名前をしっかりと記憶に刻み込んだ。レオニードには正直に言ってみたのだが、
「名門貴族の家柄だったが、兄弟そろって革命派に転じて破壊活動に従事していた男だ。
そんな危険な男とお前に接点があった筈があるまい。リュドミールが騒ぎ立てていたから、
そんな気分になったのだろう。」と片付けられてしまった。

言われてしまえば確かにその通りなのかもしれない。だが心の中で彼と冬が結びついてしまったのか、
冬になると彼をひんぱんに思い出してしまうユリウスだった。
遠目に見えたに過ぎないその姿を、彼女は何度も何度も脳裏に描きなおしては飽く事がなかった。
だってささやかだが、それだけが彼女の失われた過去との糸口なのかもしれないのだ。
ただの勘違いかもしれなくても、決してその記憶の感触を手放すわけにはいかなかった。
しかしもしそれが勘違いでなければ、シベリア流刑に処せられた破壊活動家と繋がりがあったかもしれないなんて、
自分は一体何者だったのだろう。
自分自身が何者かわからないというのは実に恐ろしいものだった。
こうしてユスーポフ家で周囲の優しさに守られて暮らしていても、そこには薄氷を踏みながら歩いているような
恐怖が常につきまとっていた。そしてその薄い氷の下には一体何が隠されているかは自分にもわからないのだ。
氷が割れた時に自分を飲み込むのは何なのだろう。
そう思うと、たとえ今の安寧を失っても自分の過去は何としても探し出さねばと、時折ユリウスは
駆り立てられるように感じていた。
だが、もしもそれでユスーポフ家の人々に迷惑をかけるような事になれば、どうしたらいいのかわからない。
とにかくもう一度、あの反逆者についてレオニードに相談してみようと思ったのだが・・・。
ユリウスは小さくため息をつくと、冬はまだまだ先だと自分に言い聞かせ、
今頃しびれをきらしているだろうリュドミールの部屋へ向かっていった。
11名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:28:47 ID:h2vNUIt3
(3)

その一月後、リュドミールの誕生祝いがユスーポフ邸で名門貴族としてはずいぶんささやかに、
家族とごく親しい身内だけでとりおこなわれていた。アデールとレオニードの事実上の別居は
すでに半ば公然としたものになっており、女主人(ホステス)を失ったこの屋敷はここ数年、
公式・非公式を問わず社交的な集いから遠ざかっていた。
もともと社交の場には義務として熱意無く参加する程度のレオニードとヴェーラだったので、
女主人の不在をいいことに、二人は静かな生活を満喫していたといってもいいいかもしれない。
だがレオニードはもとより軍務に忙殺されがちな身とあって、最低限避けられない
宮廷での公式な宴などでその時ばかりはアデールと並んでいれば事は足りたが、
ヴェーラは未婚の娘としては「変わり者」のレッテルを貼られかねないほど社交の場から遠ざかっていた。
もともと華やかな場にうつつをぬかす種類の娘ではなかったが、その簡素な暮らしぶりはすでに
家を守る未亡人といった趣にまで達していた。
そんな彼女もそろそろ縁談を決めないといけないぎりぎりの年齢にさしかかっており、
レオニードは保護者として一族の者から苦言を呈されることも度々だったが、
彼は多忙を口実に言を左右にしていた。
なぜなら、どんな縁談がこようがヴェーラが行く筈は無かった。
どんなに気丈を装っていようが、無残な結果で終わった恋の痛手が彼女をいまだにしっかりと
掴んでいるのは兄の眼には明らかだった。
それに爛熟したロシア貴族社会とはいえ、ユスーポフ家ほどの名門の娘であれば処女でない身で花嫁になった場合、
万が一相手に騒ぎ立てられてはどんなスキャンダルになるか、兄妹ともによく承知していた。
彼らは過ぎた事にお互いを責めるような事は無く、むしろ相手に思いやりを持って淡々と暮らしていたが、
二人の間にはエフレムの流した血がいまだ拭い去れずこびりついていた。
そんなレオニードとヴェーラには無邪気なリュドミールとユリウスの存在は一種の緩衝材でもあったのだ。

もちろんリュドミールはそんな兄達の事情など気づく由もなく、すこぶる楽しく誕生日を過ごしていた。
昼間は一族の中でもごく近しい者達が、リュドミールに年の近いいとこ達を中心に呼ばれており、
やや年長の者の中には若く美しいユリウスに好奇の目を向ける者もいた。(といっても10代の少年だが、
早熟な者ならこの年頃のロシア貴族はなかなかこういった面には油断がならないものだった。)
そんな一人が部屋の隅で彼女をつかまえて話しかけているところに、ちょうどレオニードが帰邸した。
彼は客人たちに遅刻の無礼を詫びながらさりげなくユリウスを下がらせ、彼女はむしろほっとしてその場を退いた。
リュドミールへの祝いに用意した馬を見せに厩舎へ弟と客人達を誘導しながら、
レオニードはユリウスを人前に出したヴェーラにちらりと咎めるような視線を送ったが、
妹は素知らぬふうを装った。
12名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:29:08 ID:h2vNUIt3
客人達は夕刻には帰り、晩餐はいつもの顔ぶれだった。
リュドミールは贈られた馬に夢中でその話ばかりをして飽きず、その様子にレオニードとユリウスは苦笑まじりで目を見交わしあった。
夜も更けてようやくリュドミールもベッドに入り、ヴェーラはお休みのキスに枕元に来た。
「いい誕生日だった?」
「はい姉上。本当に・・・楽しかったな。今年は兄上も早く帰ってこられて一緒に過ごせたし・・・馬には本当に」
「リュドミール、その話はもう勘弁してちょうだい」と笑うヴェーラにさすがにリュドミールも照れ笑いをした。
だが次いでその表情からふっと笑いが消えたのでヴェーラは「どうしたの?」と優しく尋ねた。

「姉様・・・。兄上が昼間、途中でユリウスをお茶会から引っ込めてしまったよね。」
「ええ・・・。それが何か?」
「僕はユリウスにはずっと一緒に祝っててほしかったのだけど。」
「リュドミール・・・ユリウスは家族ではないのよ。とても仲良くはしているけれど・・・。
さっきも兄上に無理にお願いして一緒に写真も撮っていたけれど、その事には兄上、怒ってらっしゃるのよ。
あなたも自分の立場というものをもうそろそろわからねば。」
「うん・・・。それはわかってるけど・・・。」ヴェーラは急にしょげたリュドミールがふと不憫で言葉を足した。
「まあ・・・あの時はセルゲイがユリウスにちょっかいをかけようとしていたから、お兄様はそれがお嫌だったのでしょうね。」
「ちょっかい?」
「あなたにこんな事言うのはまだ早いけれど、ユリウスはたいそう美人ですからね。殿方が彼女に惹かれるのは仕方ない事だけど、
我が家としてはほっとくわけにはいかないわ。もしユリウスがもて遊ばれるような事があればいやでしょう?」
「遊びでなければ・・・いいの?そうか、そういう理由でユリウスがいなくなる事だってあるんだ・・・。
誰かに連れていかれちゃうのかも・・・。」
「リュドミール?」
「姉様、僕、ユリウスがここから居なくなってしまわないか心配で・・・。だから僕とユリウスはこないだ約束したんだ。
ずっと友達でいようって。でも、そんな理由でユリウスが居なくなるかもしれないなんて考えた事も無かった・・・。」
「リュドミール・・・」ヴェーラはそんなにも弟がユリウスを思っていることに胸をつかれ、彼の手を優しく握った。
「だいじょうぶよ、ユリウスはきっとずっとこの屋敷にいてくれるわ。」
「本当に?姉様。僕が寄宿舎に入っても兄上はユリウスをこの屋敷から追い出したりしないよね?」
「ええ大丈夫よ。兄上は決してそんな事はなさらないわ。だから心配せず、もうお休みなさい。
楽しい一日だったでしょう?その気持ちのままお眠りなさい。」
そっとヴェーラはリュドミールの手を冷えないように羽根布団の中に入れてやり、
リュドミールはにっこりして姉の顔を見つめると瞳を閉じた。そしてほどなくことんと音がするように眠りに落ちた。
ヴェーラはしばらくその寝顔を見つめていたが、やがて灯りを落として弟の寝室を去った。
13名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:29:32 ID:h2vNUIt3
そして廊下に出て小さくため息をついた。自分の偽善者ぶりには我ながらほとほとうんざりだった。
次いで、確かにリュドミールの家庭教師という口実が無くなりもしユリウスが出て行くことを望んだら、
兄は今度はどう彼女を言いくるめるつもりなのかと苦笑した。
兄は絶対にユリウスをこの屋敷から自由にする事はできないのだ。
さすがにユリウスも少しおかしいと感じるのでないだろうか。
何も知らないユリウスは兄を信頼しきっており、兄も彼女の記憶喪失前とはうってかわって優しく接していた。
今夜の晩餐でも二人は微笑を浮かべあい、その姿はまるで気を許しあった恋人同士のようだった。
もっとも兄は傍目からそのように見えているなど全く想像もしていないだろう。
ヴェーラの見るところ、笑止な事に兄は自分の気持ちに気づいてすらいない。

そもそもの最初から、反逆者を追ってきたユリウスに彼がロシア帝国の軍人として反発しつつも、
一方では男として関心をおさえきれないでいるのが、妹の目からは明らかだった。
そして彼女が記憶を失った後の彼は監禁者というよりは保護者といった方が正しいような立場に、
(彼は絶対に認めないだろうが)嬉々としてたっており、その関わり方はあきらかに任務の域を逸脱したものだった。
だが何と言ってもユリウスは皇帝陛下からの預かりもので、監視の対象である彼女に惹かれる事は
あの忠勤な兄にはかなりのジレンマの筈だ。おそらく兄は自分の気持ちに気づく事すら無意識のうちに己に禁じているのだろう。
それが恋なのかどうかまではわからなかったが、どのみち感情の歯車が動き出してしまえばどうしようもない事を
ヴェーラは自己の経験としてよく知っていた。
ヴェーラがともすれば兄とユリウスの関係におそらく本人達より敏感になっているきらいがあるのも無理は無かった。
彼女はやむをえなかったとはいえ彼女の恋人を射殺した兄をまだ心のどこかで許せていなかった。
あの冷徹な兄、常に情よりも皇帝陛下への忠誠や貴族としての矜持、軍人としての責務を優先してきた兄が
それと激しく矛盾する気持ちを抱いた時、自分の感情にどう落とし前をつけるのか見てみたいという意地の悪い気持ちが、
ほんの少しだけだが彼女の中にはあった。
ヴェーラの目には、レオニードが抑制を失わない限りこのまま永遠に続くのかとも思えた奇妙に無邪気な彼らの関係。
だが、それはその後意外と早く幕を下ろす事となった。
14名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:29:53 ID:h2vNUIt3
(4)

それはリュドミールの誕生日から少し日が過ぎ、秋もだいぶ深まった深夜の事だった。
レオニードは書斎で軍部から持ち帰った報告書を読んでいた。
内容に集中して時間を忘れ、気が付くと真夜中をだいぶ過ぎていた。
少し迷ったが今夜はもうここで切り上げることとして立ち上がった時、
ふと冷たい風を感じて振り返ると書斎の奥のカーテンが窓が僅かに開いていたらしく、ゆれている。
レオニードは今まで気づかなかったのを不思議に思った。だがこの夜中に下僕を呼んで閉めさせるのも面倒で、
全く警戒せずその窓に近づき、そして潜んでいた賊と顔を会わせた。

己のうかつさに思わず笑い出しそうになったが、血走った目でレオニードの胸元に銃をつきつけてきた男には
そんな余裕は無さそうだった。
彼は「声を出すな。」と言わずもがなのセリフを発しながら銃口でレオニードの胸板を押し、
書斎の中央近くまで下がらせた。レオニードよりわずかに背は低いが腕力はありそうな恰幅のいい男だった。
何も声を出さずともそこらのランプ一つでも倒せば隣室のロストフスキー達が駆けつけてくるだろう。
だが問題は男が銃口をレオニードの胸板から外さず、引き金には指をかけていることだ。
それをなんとかせねば、この緊張しきった男はわずかな刺激ですぐに引き金をひいてしまいそうだった。
一方で男は誰か入ってくるのを警戒してかひどく戸口の方を気にしており、
せっかく脅しているレオニードの顔をろくに見ようともしなかった。それはレオニードにとっては大変な幸運だった。
なぜなら彼は視界の隅に何か動くものを感じ、次いでその正体がわかった時、大層唖然とし、次に激しく動揺していたからだ。
ユリウスが奥の衝立の陰にある、もう一つのライティングデスクの向こうで呆然としていた。
(一体いつからいたんだ!)とレオニードは今夜の己の鈍さを心底から罵りつつ、必死で表情をおさえた。
賊が気づかぬうちにユリウスを一刻も早く無傷でこの部屋から出さねばならない。
だが戸口との間に自分達がいる以上、自分達の位置を変えるか、賊が彼女に気づく前にカタをつけてしまわねば。
言葉で挑発してみるか・・・?と思案したが、ユリウスがそっとペーパーナイフに手を伸ばした気配に気づき、
(ばかもの!)と心中でうめいた。あの細腕でどうなるものか。逆に最悪の事態を招きかねなかった。
レオニードは焦った。彼女が馬鹿な事をする前になんとかせねば。

「あまり突きつけるな。痛い。」わずかに足を進めながらレオニードは言ってみた。
男は「勝手に動くな。侯爵様よ。俺の気分次第であんたは痛いも何も言ってられなくなるんだぜ。」
と答えながら、レオニードにつられるように歩みを進めた。
賊がユリウスに背中を向ける姿勢になったところでレオニードは立ち止まった。
「ほう・・・。私が誰なのかはわかっているのだな。勇気のある事だ。」と言い、言葉を続けた。
「物取りか?欲しいものがあれば取ってさっさと出て行け。」男は少し迷うような目つきをし、
「欲しいものねえ・・・」と口元を曲げ、ピストルを握りなおそうとした。
15名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:30:14 ID:h2vNUIt3
その瞬間をレオニードは見逃さず、手刀で男の手首を思い切り叩き落とし、次いで足元を払った。
そしてその刹那、レオニードが止める暇も無くユリウスが飛び出してきて、賊の体に体当たりしてナイフを突き立てた。
だが急所ははずれ、ナイフごと振り払われた彼女は近くにあったコンソールにぶつかり倒れた。
その間にレオニードは賊の腕を逆手につかみ短銃を握る手をねじりあげた。
その痛みに相手は思わず銃の引き金をひき、銃声が響いたが、銃口は天井を向いていた。
これで隣室の部下らをはじめ、屋敷中の者が駆けつけてくるだろう。
男の目が絶望と憤怒に燃え、だが腕をねじりあげられる痛みに耐え切れずついに銃を放してしまうと、
今度は逆に死に物狂いの力でレオニードの喉首を締め上げてきた。
レオニードはその姿勢から膝で思い切り相手の足元を払い、腹を蹴り上げ、
その弾みで男の腕を振り払い体を引き離した。
そこへ他の者達が駆けつけて来て、倒れた賊が床のピストルに手を伸ばそうとしているのを見てとるや、
ロストフスキーはとっさに自らの短銃を抜き、一発で男の胸板を撃ちぬいた。

ユリウスは自失した様子で床に膝をついていた。
レオニードは「ユリウス!大丈夫か!」と急ぎ駆け寄ったが、
ユリウスはひどくのろのろと顔を揚げて彼を奇妙な目つきで見上げた。
「・・・ユスーポフ候・・・?」
その手にはいまだしっかりと血のついたペーパーナイフが握られていた。
「・・・? もうそれは用が無い。手当てをするから離しなさい。」
と言って延ばしたレオニードの手をユリウスは振り払うと、彼の目を正面から見据え、
歯から押し出すようにして「・・・僕に触れるな・・・!」と言った。
その烈しい眼差しを見た時、彼はユリウスが記憶を取り戻したことがわかった。
二人の間に緊張が走り、レオニードはユリウスに刺される事を一瞬だが覚悟した。
16名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:30:57 ID:h2vNUIt3
(5)

そこに近づいたロストフスキーは彼らの様子がおかしいとは感じたが、まさかそんな事とは思わずレオニードに声をかけた。
「候、ご無事ですか。賊は既に絶命しております。私どもが控えていながらこのような・・・!」
レオニードは立ち上がるとナイフを握ったままのユリウスにあえて背を向け、遺骸の方に向かった。
「よい、もともと私が油断していたのだ。この屋敷に賊を入り込ませるなど己の管理が行き届いていなかった証拠だ。
こいつを死なせてしまったのは残念だったがやむを得まい。手間をかけたな。」
賊の体をあらため、一方ではユリウスが自失したままなのを見ながら彼女に聞こえないように続けた。
「身元がわかるようなものはさすがに身につけていないな。革命分子かラスプーチンの手のものだろうが、どうせ何もわかるまい。
ユリウスの事もある。あまり表沙汰にするな。」
もっともレオニードはこれは革命派の仕業ではあるまいとふんでいた。爆弾での暗殺がお家芸の彼らなら、
自分は今頃とうに肉片になっていた筈だ。彼をすぐに殺さなかったところを見るとむしろこれはユリウスを狙ったものだろう。
ラスプーチンの手の者なら組織だったものではなく、また捕らえたところで大元との関係まで探れる筈は無かった。
「承知いたしました。まだ、仲間の者もそこいらに潜んでいるやもしれません。私どもで捜索してまいりますので、
どうぞ候はもうお休みください。」

ロストフスキーらに後を託し、レオニードはユリウスと共に彼の居室に移った。彼女はまだ呆然としたままで、
その手にはいまだしっかりとペーパーナイフが握り締められ、片腕から血を流しながらもユリウスはそれを離そうとしなかった。
自ら握ったナイフの切っ先がかすっただけの軽い傷だったので手当て用の医薬品を運ばせた後、レオニードは人払いをし自ら
ユリウスの傷の手当てをした。軍人らしく手馴れた、しかし意外に優しい手つきで応急処置をほどこされながら
ユリウスはいまだ自失した様子だった。

ナイフを手にした時から奇妙な感覚が這い上がってきてはいた。
だがあの状況ではその理由を探る余裕は無く、レオニードを守らねばという一心でユリウスは賊にぶつかっていったのだ。
しかし、男の背中にナイフを突き刺した刹那に奔った、ナイフが人の肉に食い込み、骨に当たるその感覚!
そんなはずはないのに、「この感覚を知っている」という認識が体を貫き、ユリウスは絶叫しそうになった。
そして賊に振り払われて倒れながら机にぶつかり、倒れ、だが、ナイフを握る手を通して身を貫く感覚はそのままで・・・
続いて失われていた記憶の奔流が起こったのだ。

(いったいなぜ・・・)忘れていることなどできたのか。
自分自身を、クラウスを。
そして彼に耐え難い形で見捨てられたことを・・・。そして自分が何から逃れてロシアにやってきたのか。
一見呆然として見えるユリウスの内面では嵐が荒れ狂い、彼女は身じろぎ一つできずにいた。
その嵐はあまりにも大きすぎ、あとわずかの刺激で口からは絶叫が飛び出し、そうすれば今度こそ自分は本当に狂ってしまうだろう
としか思えなかった。
一方のレオニードは先ほどの乱闘中にユリウスが記憶を取り戻したらしい事には気づいていたので、彼女の沈黙をそのための混乱と受け止めていた。
同時に、ユリウスがここ数年自分に寄せていた全幅の信頼も消えうせたであろうことも察し、なぜかその事にほろ苦さを感じた。
そして、以前のユリウスに対して示していた自らの暴君ぶりを思い出すと、記憶を取り戻した彼女にどのような態度をとればいいのか
正直彼自身も少し迷い、しばらく部屋には沈黙だけが降りていた。だが記憶を失っていたからこその行動で手段としては愚かだったとはいえ、
この女が自分の身の危険を顧みずに彼を救おうとしたのは確かで、さすがにその事に知らぬ振りはできなかった。
17名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:31:18 ID:h2vNUIt3
「すまぬ」「・・・え?」
レオニードの思わぬ言葉にユリウスの意識はふっと混乱する内部から浮上した。
彼はユリウスがきつく握り締め過ぎて離せなくなってしまった銀製のペーパーナイフから優しく、
しかし断固とした力で1本づつ指を外させながら言った。
「人が死ぬところなど見せてしまった。しかもこの屋敷の中で・・・。お前にまで刃を持たせるなどあってはならぬ事だった。
さぞや恐ろしかっただろう。悪かった。」
ユリウスは苦い思いで呟いた。
「・・・。初めてではない。」
「?」
最後の指が外されると同時にユリウスはついに抑制を失い、
「初めてではない・・・!僕は・・・僕は・・・人殺しだ!」と悲鳴のように言葉をしぼりだすと同時に床に崩れおちた。
がっくりと床に手をつき、
「僕は・・・僕は・・・この手は・・・!クラウスにはきっとあの時見えたんだ・・・。この手が血に染まっている事を・・・。
だから僕を置いて・・・。」
レオニードは虚をつかれてユリウスを眺め、それから傍らに膝をつき覗きこむような格好で
「ユリウス・・・?何を言っているのだ・・・?」と尋ねた。
しかしユリウスはもう言葉にもならずただ頬に滂沱と涙を伝わせるのみだった。その目には目の前のものは何も映らず、
ただ自分の内部で荒れ狂う記憶と悔悟の苦しみだけを見つめており、傍らにレオニードがいる事すら、意識していなかった。
大きな悲嘆と絶望のかたまりがのどまでこみあげ、もう自分自身をどうすることもできなかった。
額をつけるようにしてしばらくその様子を見ていたレオニードはやおらユリウスを抱き上げると近くの寝椅子まで運び、
彼女を横たえると自らも傍らに椅子をひき、腰掛けた。
そしてユリウスの濡れたほほに指でふれたが、ユリウスは無反応でただ天井を見上げて涙を流すのみだった。

一刻ほどもそのままだったろうか。
レオニードはかたわらにあった水差しにナプキンをひたし軽く絞るとそっとユリウスの瞳にそれを載せた。
「話すがよい。それで楽になるのなら」
沈黙のまま、また小半時が過ぎたがやがてユリウスはゆっくりと語り始めた。
誰にも語る筈のなかった、自らの罪を。

「これでわかっただろう・・・。僕は罪人だ。
ドイツに送還するなり、ロシアの監獄に入れるなり好きにしてくれ・・・。」
長い告白のあと、かすれた声でかすかになげやりな響きでユリウスはつぶやいた。
ああ・・・とうとう・・・何もかもを明るみに出してしまった・・・。
しかも最悪の敵に・・・。
遠くロシアまで死ぬような思いでクラウスを追ってきたが・・・めぐり合えた彼には一瞬で置き去りにされ・・・。
そうだ。この男に言われたように、革命の闘士に恋など何の意味があったろう。
僕は一体彼の何を知っていたのだ。ドイツで置き去られた事が既に彼の答えだったのに、
それでもロシアまでも来てしまったのだ・・・。
僕の独り相撲だ。いや、違う、自らの罪から逃れるためにクラウスを利用しようとしていたんだ。
だが結局逃れきることはできなかった。この男は僕を官憲に引き渡すだろう。
僕がロシアに来たのは・・・クラウスに打ち捨てられたのも・・・もしかして神に罰されるための
長い道程だったのかもしれない・・・。

長い沈黙が部屋を鎖していた。すっかり観念したユリウスはむしろ今までに無い平安を感じていた。
かつてないやすらぎの中、このまま眠りにおちてしまいそうだった。だがレオニードの答えは意外なものだった。
「お前は罰されたいのか?だがあいにくここはドイツでなくロシアだ。お前はロシアでは何の罪も犯していない。」
ふいと立ち上がるとレオニードは酒を2杯注ぎ、横たわっていたユリウスを座りなおさせ、
自らも口をつけながらもう片方の杯を渡した。
「飲め」
呆然と、言われるがままに酒を口に含むとカッと熱いものがのどを伝いおり、ユリウスの意識を先ほどの麻薬めいた平安から
現実に引き戻した。
18名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:31:40 ID:h2vNUIt3
傍らに椅子を引き、腰掛けたレオニードはユリウスと向かい合う形になった。
「それでおまえはロシアに来たのだな。そして今、罪以外の全てを失い、いっそ罰されたいと願っているのか。
だが私はお前を裁く裁判官でもお前を赦す聖職者でもない。そしてたとえお前が裁きを受けたいと望んだとしても、
官憲に引き渡すことはできぬのだ。それでもと望むなら、お前の罪はおまえ自身であがなう道を探してくれ。」
ユリウスはぼんやりとレオニードの言葉を繰り返した。
「罪を・・・あがなう・・・。」
「ユリウス。私は軍人だ。任務とはいえ多くの人の命を直接、間接に左右する。
軍人でなければ罪として裁かれるであろうことも多い。
常に最良と思われる道を選び後悔はしないが、神の目にはどうなのか、所詮わからぬ。
私にできるのは多くの命を左右した己の行為の帰結を引き受けるだけだ。」
レオニードはユリウスの目を見据えて言った。
「お前も同じだ。お前はまだ人生を始めてもいなかった子供だ。だが過ちを冒してしまったのは確かだ。
いつか、道が見つかることもあるかもしれぬな。それまではお前が忘れられないのならその罪と生きていくしかあるまい。
それがいやなら全て忘れてしまえ。」

ユリウスは呆然とレオニードを見つめた。ユリウスは自殺も同然にいま全てをなげうったのに、あれだけ彼女を苦しめてきた
罪の恐怖と重さをこの男はあっさりとかわしてしまった。まるで肩透かしをくわされたようで、そんな気楽に全てを忘れるなど
できるものかと、(もっともここ数年は確かに忘れていたのだが。)急にユリウスの胸には怒りがこみ上げてきた。
レオニードはそんなユリウスの表情を見極めて、もう一つゆさぶりをかけた。
「ドイツの刑罰の事はよく知らんが、実際、捕らえられてもたいした刑になったかどうかもわからんぞ。
最初は過剰防衛で、2つ目は毒殺犯本人が進んで飲んだも同然だし、結局彼女の死も確認していない。
どちらにせよお前は未成年だったのだろう?発端になった詐欺罪にしてもお前は主犯ではない。
そういう意味ではお前の過ちの全ての元凶はお前の母だ。」
カッとしたユリウスは杯を握り締めて思わず叫んだ。
「母さんを悪く言うな!」
「そうか?お前の話だと諸悪の根源はお前の母親だぞ。ここロシアの貧民ならばいざ知らず、何もお前の人生を捻じ曲げなくても
貧しくとも親子が生きる道はあったのではないか?本当に娘を愛すればそのような偽りの過酷な道を歩ませる事は無かった筈だ。」
「何も・・・何も知らないくせに・・・!母さんがどんなに僕を愛していたか・・・!
父さんがどんなひどいやり方で母さんを捨てたか!僕らがどんな貧窮をしのいだかを。そうだ今ならわかる、
僕を娘として育てれば早晩親子で春をひさぐしかなかったろう。私生児を生んだ母さんには他に道は無かったんだ!」
杯を暖炉に投げつけユリウスは力いっぱい叫んだ。
19名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:32:00 ID:h2vNUIt3
だが頭の片隅では不思議な明瞭さが、レオニードが言った事もまた真実の一面であるとユリウスに告げていた。
母はなぜあんな事ができたのか。十数年もかけて周囲を欺き、その間、娘には虚偽の人生を強いたのだ。
もしかしたら一生続けさせる気だったのか。
ああだけど自分はどれだけその母を愛し、必要としていたことか。
クラウスに恋をするまで、いや恋をした後も母が生きている間は母こそが彼女の全てだった。
それなのに、母は彼女を母が仕組んだ偽りの中に一人置き去りにしていったのだ。

再び混乱に突き落とされ、今度はユリウスは声をあげて子供のように泣き出してしまった。
拳で寝椅子を叩くユリウスをレオニードは引き寄せ、胸に抱いた。
彼の胸の中でユリウスはまた声をあげて泣き、しゃくりあげ、彼の胸を拳で叩いたがそれは抵抗ではなく、
ただかんしゃくを起こした子供のしぐさだった。
思えば幼い頃からユリウスは母の前でもそのように泣いたことは無かった。彼女は母のため、いつも強い
「息子」を演じてきたのだから。自分でも気づかなかった、常に胸の中にあった何か大きな堅い塊が
しゃくりあげる度に少しづつ砕け散り、小さくなっていった。
やがて段々泣き声もしぐさも小さくなり、先ほど感じたやすらかさと眠気にユリウスは少しづつ包まれていった。
レオニードは眠ってしまったユリウスをそっと抱きしめた。それは性的なものを全く含まない、
傷ついた子供を抱きしめるのと同じものだった。
確かにユリウスの告白は意外なものだったが、軍人であるレオニードは人の生死に対して一般人とは少し違う感覚を持っていた。
彼女に告げたようにユリウスの最初の殺人は母親を救おうとした過剰防衛に過ぎないし、第2の殺人も完遂したのか未確認だ。
だがこの告白で財務長官が言っていた「不可思議な不幸続きのアーレンスマイヤ家」に何が起こっていたかはおおよそ掴めた。
何より母親によって始めからゆがめられてしまったユリウスの人生に哀れみをおぼえたのだ。
だがたとえ本人が本気で罪の裁きを望んでも、ロシア皇室の隠し財産の事を知る彼女にそれを許すわけにはいかない。
もっともレオニードが見たところ彼女にはまだその覚悟ができているわけではなく、今はただ混乱しているだけだった。
姑息かもしれないが、彼としてはユリウスには自分自身の罪と折り合いをつけて生きていく方向に誘導するしかなかった。

ロストフスキーが処理がすんだことと今後の処置について報告するべくやって来たが、レオニードは黙って手振りで
(明日聞く)と伝えた。ユリウスがレオニードに抱かれて横たわっているのを見ても、さすがに付き合いの長いロストフスキーは
驚いた顔ひとつせず、下がっていった。
レオニードは今夜はユリウスを一人にするつもりは無かった。彼は混乱し絶望した彼女が自らを害する可能性を恐れた。
20名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:33:23 ID:h2vNUIt3
(6)

ユリウスが目覚めた時、部屋の窓には朝日の昇り初めの光が差し込んでいた。
濁流から打ち上げられた思いでユリウスは厚いカーテンから差し込む光の筋を眺めながら、全てを忘れて呑気に過ごしていた
昨日までの日々とは全てが変わってしまったことをしみじみと噛み締めた。
昨日までの自分は無感覚な夢の中にいたようなものだ。ある意味では、自分があんなにも望んでいた平安を得た日々
だったのかもしれない。だが、もう二度とあんな時間は自分の人生には訪れる事はないだろう。その全てはまやかしだったのだ。
朝の清らかな光にいままでの欺瞞を責められるように感じてそれ以上耐えきれなくなり、目を閉じてうつむけに
なろうとした次の瞬間、ようやく彼女は自分がレオニードの膝で寝ている事に気づき跳ね起きた。
「まさか一晩中・・・?」
呆然としてユリウスは寝椅子の背もたれに肩を預けた彼の寝顔を見つめた。記憶を失っていた間でもこんなに
間近でレオニードをしげしげと見つめたことは無かった。ユリウスは少しぼんやりと、彼の寝顔を眺めていた。
やがてレオニードがみじろぎして目をさましそのまままっすぐに黒い瞳で彼女を見た。ユリウスは今まで自分が
彼を眺めていたことに咄嗟にバツの悪さを感じる一方で、自分が全てを告白し、おそらくもっとも知られてはいけない
相手に弱みを握られてしまった事を改めて思い出し、目を閉じた。
(もう、これで全て終わりだ・・・。ゆうべは官憲には渡さないと言ったが・・・。これで文字通りこの男に
生殺与奪を握られてしまった・・・。)

「起きたのか。」
ユリウスは返事をせず、目を落とし床を見つめた。だが聞こえてきたのはレオニードが軽く吹きだす音だった。
「?」目をあげたユリウスの顔を見てレオニードはさらに笑った。
「おまえ、ひどい顔だぞ。」
「・・・!」
「まあ冷たい水で洗って少し冷やすことだな」立ち上がってひらりと上着を肩にかけると
「私は寝室で寝なおす。これで軍務では体がもたんからな」と赤い顔のユリウスを尻目に隣の寝室に向かった。
「あ・・・」とユリウスは思わず1歩踏み出した。レオニードは振り返ると
「何だ?まだ一緒に寝足り無いのか?寝室までついてくる気か?」とユリウスを思いがけずからかった。
今度こそ真っ赤になったユリウスは思わず手近なクッションをつかむとレオニードの背中に投げつけたが、
彼はかまわず笑いながらいってしまった。

空しく床に落ちたクッションを拾い上げるとユリウスもふいに脱力し、笑いの発作におそわれそうになった。
「こんな時に・・・ばかな・・・」と首を振ると、壁にかかっていた鏡に、泣きはらして、かつて見たことも
ないほど目を腫れあがらせた自分の顔が見えた。ユリウスは今度こそ狂気じみた発作に逆らえず笑い出してしまった。
涙が出てくるほど一人で寝椅子にころがって笑い、やがて笑いの発作が鎮まるとあおむけになって涙がほおをつたうに任せた。
ゆうべあんなに泣いたのに、涙はいつまでも止まる事はなかった。
21名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:33:45 ID:h2vNUIt3
レオニードが予測したように賊の身元はわからなかった。アデールが戻らなくなって数年、屋敷の警備が手薄に
なっていた事を反省しレオニードは使用人の身元の洗い直しをはじめ、商人など屋敷への人の出入りをもう一度締め直させた。
そしてユリウスに釘をさした。
今の彼女を脅かしたくはなかったが、もしラスプーチンが依然としてユリウスを狙っているのなら、
記憶を回復した彼女が脱走したところで早々に彼の魔手に飛び込む羽目になるのがおちだった。
ユリウスとてあの異様な僧にまた捕らえられるのだけはごめんこうむりたかったのでその勧告は素直に受け止めた。

どのみち、すぐに脱走を図るような力など彼女には無かった。
記憶が戻ったことでユリウスはひどい苦しみに襲われていた。故国で犯した数々の罪の記憶、たとえここに監禁されて
いなくても還るべき故郷は自ら失ってしまったこと、それだけの犠牲を払ってまで追ってきたクラウスには瞬時にして
見捨てられたこと。そしてそのクラウス、いやアレクセイは終身刑に処せられてしまい、生きて再会できる望みは今度こそ
限りなく薄くなっている。それらの全てがユリウスの心を苛んだ。
何よりもそれらのことが過ぎてもう3年とは!
絶望に錯乱して己を失おうにも、若いユリウスにとっては3年とは取り返しのつかない長い時間に思えた。
知らないうちにクラウスは刑に処され、手の届かない遠い場所へ送られてしまっていた。
しかもその間、自分はのうのうとユスーポフ家で安寧を味わっていたに等しい。おまけに自分の監禁者を恩人とすら
思い、感謝し信用しきっていたのだ。自らのおめでたさにユリウスは歯噛みし、自分を騙していたレオニードを憎み、
何より自分自身に激しい羞恥と怒りをおぼえた。
そのくせ、この数年間レオニードに頼り切っていた自分がまだどこかにいて、実のところ怒りのですら彼への信頼感を
根こそぎ無くすことがどうしてもできなかった。それにしても動揺のあまりとは言え、自ら封印してきた全てを
彼にぶちまけてしまったことは取り返しのつかない失策だった。だが不思議なことに「彼が全部知っている」という
事実はなぜか今までの人生で味わったことの無い安堵感と、一方で矛盾することに彼自身に対しては自分がひどく無防備に
なってしまったような寄る辺無さを感じさせた。これは自ら虜囚の立場に甘んじ始めているということではないのか?
ユリウスはどこか後ろめたい疑問を自分に感じた。


だがそんな事は本当に彼女を苦しめている事に比べればささいな問題だった。
何より彼女を強く苛んだのは再び肩に戻ってきた自らの罪の重さだった。
自分は殺人者なのだ。よくも今まで罪無き顔で生きてこれたものだ。ロシアに来た当初はクラウスに会えるという
期待や幻想がそれを遠くに押しやっていたが、いま取り戻した記憶は
(お前は母と共に周囲を欺き、人を殺めたのだ。おまえは未来永劫殺人者で、その罪は消えることがない。
それだけでない。いまやたった一人の肉親となったあの善良なマリア・バルバラの人生におまえが何をしたか考えてもみろ。
彼女は家族を全て失い、傾きかけた家門とスキャンダルだけを背負わされ独りで取り残されたのだ。
お前を愛し、信じた高潔な姉。その愛にも信頼にも値しなかったおまえが彼女を破滅させたも同然ではないか)とささやいた。
全てが今さらどうにもならない事だったが、腹違いの姉にだけは心からユリウスは悔恨を抱いた。
だが、ここロシアで深く悔いても、まさにそれはユリウスの心の中だけの問題であり、彼女はレオニードの言葉を思い出して
いつか自分がこの罪を贖うことがあるのだろうか、それにはどうしたらいいのかとあやぶんだ。
だが彼の言うとおり、忘れられないのなら、結局それが分かる、あるいは裁きの日を迎えるまでは重すぎる罪の記憶を
再び背負っていくしか無いのだった。
22名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:34:15 ID:h2vNUIt3
そして同じくらい彼女を苦しめたのは、クラウスがシベリア流刑、しかも終身刑に処されているという冷厳な事実だった。
シベリア流刑という事が何を意味するのか、外国人の彼女には本当に理解する事はできなかったが、革命派として終身刑に
処された彼がむごい処遇をうけているだろう事は、明らかだった。
ああ・・・!でも生きていてさえくれれば!しかし、生き抜く事、この弾圧の時期において、それがシベリアの監獄での
革命派にとっていかに過酷で難しいことか、ユリウスは知らなかった。アレクセイがどんな日々を耐えているかを知れば、
おそらく彼女はどんな手段を使ってでも出奔しただろう。しかしその頃の彼女はロシアについてあまりにも無知だった。 
おまけによみがえった記憶の辛さで彼女の意気は少し挫けてしまっていた。憲兵たちの中に慌ただしく自分を突き放して
去っていった彼の姿。ドイツで置いていかれた時とは事情が違う。追われていた彼に他の選択肢は無かったろうとはいえ、
思い出すたびに彼女の胸は鋭い痛みに貫かれた。そして、もう一つ、もしかしたら一番苦しいかもしれないのは、記憶を
回復した時の透徹した自己認識、自分はとにかく逃げ出したかったのだ・・・クラウスを逃げ場に利用しようとしたのだ
・・・というあまりにも苦い真実だった。
無理とわかっていても今すぐにでもこの屋敷を脱走してシベリアまで駆けつけたい、例え終身刑でも少しでも傍にいたいと
いう狂おしい思いと、それでも又拒まれるのではという恐れに彼女の気持ちは引き裂かれた。決してクラウスの事をあきらめた
のでは無かったが、この頃の彼女は自分自身にすら懐疑を抱き、いわばバラバラになってしまった自己のかけらを拾い集めるのに
精一杯になっていた。そしてやっとの思いで集めたそれらを繋ぎ合わせた所で、できあがる模様が以前と同じものになるのか
どうかすらわからなかった。

そのように自らを苛んでユリウスは日々を過ごしていた。悔恨と疑惑に毎夜眠れずに横たわり、天井を見つめ、いつか疲れ果てて
涙もかれていた。それでも朝は毎日訪れてくるのだった。
だがやがて彼女は少しづつ力を回復させていった。彼女の精神はもろいものだったが、肉体そのものに、自己を再生させるエネル
ギーがまだ残っていたようだった。全てを崩壊させてしまうには、まだあまりにも彼女の心も体も若かったのだ。
皮肉なことにユスーポフ家に軟禁されて外界の刺激から隔離されていることはいわば修道院の僧房に入ったように、苦しむ彼女が
傷を癒すのに必要な孤独と静寂の時間を与えていた。それに彼女自身は気づかなかったが、レオニードに全てを語ってしまった事で
肩に背負った罪の重みはかなり軽くなっていた。彼は裁きも赦しも与えはしなかったが、いわば聴聞僧の役割を果たしたのだ。
そしてあれからは一切何も言わず、ユリウスが自己と戦っているのをただ黙って見ていた。

記憶が回復したことを知らされたヴェーラは驚き、逆に気の毒にすら思った。リュドミールには、ただユリウスが病気とだけ伝えられ
見舞いも禁じられた。彼は心配でたまらなかったが命には別状のあることではないと言い含められ、彼女が冬が苦手なことは子供ながら
承知していたので回復を首を長くして待っていた。そして毎朝必ず、自分で温室の花を摘んできて、彼女の朝食の盆に添えるように
していた。最初の頃は手付かずのままの朝食と共に花も戻されてきていたが、やがてそれがリュドミールからのものだと知らされて以来、
花だけは盆に帰ってこなくなり、やがて少しづつ食事もとるようになっていった。
23名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:34:36 ID:h2vNUIt3
そうしてユリウスは、やがてゆっくりと日常生活に戻り始めた。記憶喪失以前のような攻撃的な態度はとらなかったが、
もちろん、もう子犬のようにレオニードにまとわりつく事はなくなった。一方でヴェーラとリュドミールには変わらず
友情をもって接していた。ヴェーラは黙っていたことを詫び、ユリウスは彼女を許した。(あなたが好きでそうしたん
じゃない事はわかっている。いいんだ。)
時折遠くを見つめていたが、そんな時、彼女の視線は何をとらえているでもなかった。その後、苦悶の表情を浮かべ一人
部屋にひきこもってしまう時、レオニードの視線は閉じられた扉に向けられたが、決してそこに入っていきはしなかった。

あの夜を期に二人の関係が劇的に変わったかといえば、傍目にはそうであるともそうでないとも言えた。記憶を失う以前の
敵対心に満ちて背中の毛が逆立つような関係にも、ここ数年間の子供と庇護者のような関係にも戻らず、二人の関係はいわば
新しい段階に入ったのだ。それは一見距離を置いたよそよそしいものに見えた。レオニードは相変わらず忙しく屋敷には不在がち
だったし、ユリウスも彼に会う少ない機会をむしろ避けていた。
アデール夫人が去った後、ユスーポフ家は兄弟だけの気軽な(と言っても規律には厳しかったが)家庭に逆戻りし、ユリウスは食事も
ヴェーラ、リュドミールと共に席に着くことが多かった。監禁された者でありながら友人、客、家族の間のような不思議な位置に
ユリウスはいた。ことに記憶喪失中の無邪気な時代にはほとんど家族同然だった。だからレオニードのたまの帰宅時も今までどおり
ヴェーラ達と一緒に彼を出迎えても少しもおかしくなかったのだが、ユリウスは巧みに席を外し、レオニードもユリウスのいる場所に
顔を出す事も無かった。
結局二人は急に距離が短くなったことに恐れをおぼえてお互いを避けていたのだ。あの夜、ある意味では記憶を失っていた頃よりも
さらに深い所で二人の心が隔てを失っていた事は確かだった。だが彼らのどちらにとってもそれは受け入れがたい事だった。
だから傍目には、むしろ二人の関係はユリウスが姿を現したころののよそよそしさに戻ったかのようにすら見えたかもしれない。
だが注意深く観察する人間がいれば、彼らが顔を会わせるほんのわずかな時間にレオニードが細心の注意を払ってユリウスの様子を
推し量っていることを、ユリウスが視線をレオニードに向けることを避けつつも、ふとあげる瞳がきらめき、頬がわずかに紅潮している
こと、彼らの間に新たに生まれた一種の緊張感に気づいたろう。次第にユリウスが一人で部屋にいても以前のような病んだ瞳で膝を抱えて
いることは少なくなったことにヴェーラもリュドミールも気づいていた。
「もうすぐ冬が去るからかしら・・・?」
24名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:35:36 ID:h2vNUIt3
(7)

そんなある日、レオニードが言った。ユリウスはそろそろロシア語を学ぶべきだと。これまでは脱走を警戒され、
ロシア語を学ぼうとするユリウスの試みはさりげなくも悉く絶たれてきた。身の回りの世話をする者もフランス語を
理解する者だけとし、ヴェーラ達にもユリウスにロシア語の書物やことに新聞を与えるのを禁じてきた。
(それでもユリウスは数年を過ごすうちに自然自然と片言程度ながら、ロシア語を解しつつあったのだが・・・。)
ロシア語の習得が許されたことに、ユリウスは「ドイツに帰さない」というレオニードの意思を見る気がしたが、
それが彼女にとって官憲に渡されない安寧を保障するのか、ついにロシアに終生監禁されて故郷とは永遠に断ち切られる
事を意味するのかまではわからなかった。そして記憶を取り戻した今、ロシア語をマスターすれば、ユリウスが脱走して
自由を得ようとする可能性も高まるのに、あえて学習を許すレオニードの真意をユリウスは図りかねた。
だがちょうど彼女は少しづつ気力を回復してきたところで、何か集中できる事があるのはありがたかった。ロシア語の習得に
真剣に取り組んでいれば、その間は自らをさいなむ様々なことを考えなくて済みそうだった。突然の兄の方向転換にヴェーラも
とまどいながら、ユリウスの家庭教師をかってでた。(本来ならいくらでも家庭教師など都合がつくものを、レオニードは
ユリウスが外部の人間と接触を持つことは相変わらず禁じていた。)
ヴェーラはユリウスの記憶の回復と共に兄と彼女の関係も変化せざるを得ないだろう事は察しつつも、その方向性には第三者
としては傍観を決め込むしかなかった。

やがて春も半ばを過ぎ夏も近づいた頃、珍しく軍務を午前に終えて邸に戻り、平服に着替えたレオニードが階段を上がると、
踊り場の出窓に陣取ってユリウスが本を読んでいた。
そこは庭から生い茂った木々の梢に包まれたような場所で、レオニードの少年時代のお気に入りの読書場所でもあった。
彼は懐かしい気持ちでふと足をとめ、「何を読んでいるのだ?」と久しぶりにユリウスに声をかけ、本を覗き込んだ。
レオニードの足音にも気づかず、没頭していたユリウスは驚いて顔をあげ、だが素直に表紙を見せた。
「プーシキンか・・・。革命家どものバイブルだな。だが美しいロシア語だ。学ぶにはもってこいかもな。」
ユリウスは開いたページの詩をつぶやくように読み上げた。
25名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:35:57 ID:h2vNUIt3
「日々のいのちの営みがときにあなたを欺いたとて
悲しみを またいきどおりを抱いてはいけない。
悲しい日にはこころをおだやかにたもちなさい。
きっとふたたびよろこびの日がおとずれるから。

こころはいつもゆくすえのなかに生きる。
いまあるものはすずろにさびしい思いを呼ぶ。
ひとの世のなべてのものはつかのまに流れ去る。
流れ去るものはやがてなつかしいものとなる」

(本当に・・・そうだといいのに・・・)
出窓に並んで腰掛けた二人の瞳には外の新緑が映りこみ、ユリウスの瞳はさらに若葉色に澄むようだった。レオニードは、
つと胸をつかれて、視線をユリウスからそらした。
一方のユリウスは久しぶりに彼がごく間近にいることをなぜか意識してしまい、頬に僅かに血が上るのを感じながら、
レオニードの顔は見ず傍らにある彼のシャツの肩先を見つめていた。軍服をまとっていない彼の姿はなぜかいつもユリウスを
とまどわせた。

「だがもうこれを読みこなせるとはずいぶん早い上達だな。」開かれた頁を指ではじき、ぶっきらぼうな調子でレオニードが
言葉を接いだ。
「おまえ、隠れてロシア語を学習していたのではないか?脱走に備えての独習か。ご苦労なことだったな。」
久しぶりの皮肉な物言いにユリウスは以前のような反発よりも、むしろ気持ちが傷つけられるのを感じた。
「そんな・・・。独習なんて・・・しようにもあなたは全て取り上げたじゃないか。新聞も、本も。
フランス語しか許されなくてもここはロシアだ。この館の中だけで暮らしていても自然に言葉は入ってくるよ。」
せいいっぱいの反論にもレオニードは答えず「どうだか」という顔で庭の方を眺めていた。
その冷たい横顔にユリウスは思わずつぶやいてしまった。
「記憶を失ってた頃はあんなに優しかったのに・・・。」
それが耳に届いたレオニードも窓を包む新緑をみつめながら言葉を返した。
「お前も人が違ったように素直だったな。どちらが本当のお前なのだ?」
いつもの低いがよく響く声と違う、かすれたかすかな声のつぶやきにユリウスは思わずレオニードを見あげた。
彼の顔にはユリウスが初めて見るなんとも形容しがたい表情が浮かんでいた。

 そして本当に久しぶりに二人の瞳が合い、彼らはそのまま凍りついたようにお互い視線が外せなくなってしまった。
息詰まるような数十秒、いやもしかしたらもっと長い時間が過ぎ、やがてレオニードはそっと手をあげユリウスの頬に触れた。
視線はユリウスの瞳に据えたまま、軽く曲げられた指の背だけが頬の輪郭をたどるように微かにかすっていき、その指がそのまま
ユリウスの金髪にもぐっていった刹那、ユリウスはその感触と、これ以上見つめられる事についに耐え切れなくなり、目を閉じてしまった。
その瞬間、レオニードは引き寄せられるようにくちづけしかけ・・・からくも留まった。
そしてユリウスの肩を邪険に押しやると、怒ったような顔つきと足取りでさっさと階段を降りていった。目を閉じていたユリウスには
何が起こったかわからず、いや本当はわかりたくなく、出窓に腰掛けたまま呆然と彼を見送っていた
26名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:36:18 ID:h2vNUIt3
二人にとってそれは出来事とも言えない、小さな波紋に過ぎなかった。そしてその数日後の事だった。
「ユリウス、いい知らせがあるのよ!」
「どうしたのヴェーラ、楽しそうだね」
「聞いたらあなたもきっと喜ぶわ。いいことユリウス、夏の別荘にあなたも連れて行くお許しをお兄様がくださったの。」
「夏の別荘・・・?」
「田舎の本宅とは別で、それは小さな、小屋みたいなものだけど湖のそばにあるの、静かで素敵なところよ。
私も4、5年ぶりかしら。革命騒ぎも少し落ち着いて最近は治安も良くなったし今年の夏はここも暑くなりそうだから、
ひさしぶりに田舎で楽しんでこいってお兄様が。」
「・・・僕を外に出すのを許すなんて、信じられない。」床に目を落としたユリウスの手をとってヴェーラは
「ごめんなさいね、ユリウス・・・。何年もこんな状況で私達本当にあなたにひどいことをしている・・・」
「ヴェーラのせいじゃないよ。」
「でもお兄様がなさってることなら、ユスーポフ家の者も同じ咎だわ。別荘に行くぐらいで許されるとは思わないけれど、
このままでは誰だっておかしくなってしまう。だからお兄様の気持ちが変わらないうちにさっさと準備してしまいましょう。
矛盾する事を言うようで申し訳ないけれど、もちろん警護の者もつくわ。
あなたに完全な自由が与えられるわけではないのよ・・・。」
「・・・」さらに黙り込んでしまったユリウスを眺め、ヴェーラは言葉を次いだ。
「それに・・・ね、正直に言いましょう。兄には私たち妹弟と、そしてあなたをこの屋敷から遠ざけておきたい理由があるの。
この間アデールが来たでしょう。」
アデールの帰還は本当に久しぶりのことで、ユリウスは彼女の視界に入って機嫌を損ねぬよう自ら自室にこもっていたが
(直接言葉を交わす事は無かったが、アデールの彼女への視線の冷たさにはいくらユリウスでも気づかざるを得ないものがあった)、
すぐに階下からものすごい悶着の気配が伝わってきた。傍目には冷静沈着の鑑のようなレオニードと宮廷の貴婦人の中でも
群を抜いて優雅で美しいアデールの組み合わせなのに、二人を一緒にするとなぜこのような険悪な様相をきたしてしまうのか、
これは誰もが首をひねる謎だった。結局アデールは半日ともたずにまた屋敷から出て行ってしまった。
「正式な話し合いに入りたいようだわ。アデールに言わせると本来主人夫婦だけのものである筈の屋敷に余分なコブが
ついているのが諸悪の根源らしくって、そんなものがいては話し合いも冷静にはできないのですって。」
少し笑ってヴェーラは続けた。
「コブ扱いは失礼だけど、彼女の気持ちもわからなくはないわね。
コブとしてはおあいにく様としか言いようがないのだけれど・・・」
27名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:36:39 ID:h2vNUIt3
 ユリウスは確かに、ユスーポフ家は兄弟の団結が強いと思った。3人の母はリュドミールを産んだ後ほどなく亡くなり、
父親も外交と軍務の重責を担う任務で留守勝ちだった上に妻の死後数年で暗殺される憂き目にあった。士官学校を出て間もない
レオニードが家督をつぎ、軍務に邁進しながらも妹弟の後見を果たしてきたのだ。大貴族といえど、いや大貴族だからこそ
油断していると狡い使用人や親戚に財産をかすめとられるし、当主が侮られると足元をすくわれ宮廷での地歩を失う。
稚いリュドミールを育てつつ、まだ若かった兄妹は支えあいながら名家であるユスーポフ家を守ってきたのだ。ユリウスは
ヴェーラの少し口の軽い侍女からそんな話を聞かされたことがある。(美少年めいた魅力のあるユリウスに夢中になる侍女は
常に数名発生していた。)
 苦労知らずのアデールには、そんな中に割って入るのはかなりの努力が必要だったろうが、お嬢さん育ちの彼女にはそもそも
努力が必要なことすらわからなかったのだ。
「まあそういうわけで、私達は邪魔者として、夫婦水いらずにするべく田舎へ追い払われるわけよ」と笑いながらヴェーラは言った。
「だからこれは許可というより命令ね。さあ、わかったらさっさと準備をしてしまいましょう。あまりもたもたしていると、
別荘が近いもの同士の招待合戦に巻き込まれてしまう、それはごめんこうむりたいのよ。」
もちろん、準備といってもユリウスには大層な持ち物など全く無く、せいぜい着替え少々と楽譜、それにロシア語の教本程度だった。
侍女が小さな荷物を造ってくれているのを眺めつつ、ユリウスはレオニード達の正式な話し合いとは離婚のためなのか、
復縁のためなのかふと訝しく思った。
だがすぐに、このユスーポフの宮殿を出て汽車に乗るなど本当に数年ぶりである事に思いを馳せ、自由の予感に頭がくらくらした。
(一体、レオニードは僕が脱走するという可能性は考えないのだろうか?道理がわかっていても僕がどんなに衝動的なことを
やらかす人間か知っているだろうに・・・。
ロシア語を学ばせ始めておいて、このタイミングで丸1日以上移動にかかる別荘に行かせるとは・・・。)
この処遇の意味にユリウスは頭を悩ませた。
28名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:37:18 ID:h2vNUIt3
8)

もちろん、ユリウスは脱走などできなかった。車と汽車で移動する際も常にレオニードの配下の兵が数名まわ
りを固めていたし、だいたい金銭というものがユリウスには全く無かった。多少収まったとはいえ、いまだ混乱
が続く(らしい)ロシアに一文無しでろくに言葉もわからず飛び出したところでどうなるものでもなかった。それ
どころかレオニードに言われたようにあの不気味な僧侶の手に飛び込むのがおちかもしれない。ロシアに初めて
着いた頃のユリウスならばともかく、クラウスにあっさりと見捨てられた記憶に苦しむ今の彼女にはそんな気概
はもうなかった。それになんとか脱走したところでユリウスには行くあてがない。アレクセイ・ミハイロフがど
の監獄に収容されているかすら機密扱いで知るすべがなかったのだ。(せめてそれぐらい探っておくべきだっ
た・・・。レオニードの書斎に何か鍵になる情報があるだろうに。)だがもちろん彼女の手が届く範囲にレオニー
ドがそのようなものを放置しておく筈もない事はユリウスもじゅうじゅう承知していた。ユスーポフ家の豪奢な
生活のお相伴にはあずからせても、彼女には金銭も知識も自由もとことん与えないのがレオニードのやり口だ
という事をユリウスは実感した。
リュドミールはユリウスとの初めての遠出に興奮して傍を離れなかった。ユリウス自身、久しぶりの外界に圧
倒され、最初は過ぎゆく街角や道を行きかう人々に恐怖すら感じたほどだ。(ほんとうになまってしまっている・・・。
虜囚は牢獄を恋い慕うというが・・・)ヴェーラはそんなユリウスの様子を痛ましげに見ていたが、リュドミール
の「ユリウス、どうしたの、ねえまた気分が悪いの?僕、手を握っててあげようか?」無邪気だが真剣な声にユ
リウスも笑いを見せ、「ううん、病気じゃないよ。でもそうだね、そうしてもらえるかな?リュドミールももう幼
年士官学校の準備に入るんだもんね。騎士の仲間いりだ。この旅の間は僕の騎士になってもらおう。」
「いいよ、じゃあ約束だ。僕がユリウスをお守りする騎士でユリウスは僕の貴婦人。」早速膝まづくリュドミール
に接吻のため手を与えながら、ユリウスとヴェーラは思い切り笑った。

だが汽車に乗り込む時、あの頃と変わらぬ駅舎と雑踏にユリウスは立ち尽くした。4年と少し前の春この駅に
着いた時の、無鉄砲で根拠の無い希望に満ちていた己れを思い出し強烈に胸を締め付けられた。あの頃と今では、
何もかも状況は変わってしまった。そして自分は何て愚かだったことか。リュドミールは少年らしく汽車に気を
とられていたが、ヴェーラはユリウスの様子に気づき、声をかけようとしたがやめた。ユリウスの今の過酷な状
況は兄によるものだった。それに手を貸してるのも同然な自分が同情を示してどうなるというのだ。だが、車窓
の風景が田舎に移るにしたがって、しだいにユリウスは初めて見るロシアの美しい夏の大地に目を奪われた。や
がてその口元には小さな笑みが浮かび、ヴェーラをほっとさせた。

翌朝別荘に到着後、困った事態が判明した。ユリウスの着替えの鞄が紛失していたのだ。あまりにも荷物が少
なく、小さい鞄だったことが逆に災いしたのかもしれない。召使達はおろおろして互いに叱責しあっていたが、
ユリウスは別に数日着たきりでもかまわなかった。ヴェーラも少し困った顔をして「そうね・・・屋敷に連絡し
て持ってこさせても数日はかかるわ・・・。それまではリュドミールのでは小さいし。お兄様の幼年学校時代の
ものでも残ってたら寸法が合うかしら?」
29名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:37:39 ID:h2vNUIt3
いくらなんでもそれにはぎょっとしてユリウスはあわてて拒否した。「とんでもない!ユスーポフ候の服なんて
着られないよ!いいよ2、3日くらいこの服で」
「そんな埃をかぶった格好で何を言うの?例えあなたが構わなくても私はごめんこうむるわ。そうだわ・・・」
と彼女にしては珍しくいたずらっぽい目になって
「私が休暇用に置いていたドレスがあるわ!5、6年前のでちょっと形が古いけれど、あれなら少し直せばあな
たの体にはぴったりな筈よ」
「いやヴェーラ、ドレスなんて冗談じゃないよ、僕は本当に着替えがくるまでこれで結構」「ではお兄様の服しか
なくてよ。着たきりなんて無作法は私は許さないのだから。」
ぐ・・・とユリウスが詰まったところでリュドミールが参戦し、「騎士の意見としては、もちろん姫にはドレスを
着ててもらわねばね。」と言い放ったので、ユリウスはついに根負けしてヴェーラのドレスを借りる羽目になった。
ありがたい事にヴェーラの趣味でドレスは簡素なスタイルのものだったのでユリウスは胸をなでおろし、初めて
彼女のドレス姿を見たリュドミールは最初感嘆の声をあげて、後は何かちょっと気まずそうにしていたが、すぐ
いつものようにまとわりつき、動きにくそうにしているユリウスを笑いながら手助けしていた。そして満足顔の
ヴェーラは当然ながら、屋敷に着替えの手配などしなかった。
レオニードが予告無く別荘に着いた時、ユリウスがドレス姿でピアノに向かっていたのはそういうわけだった。
やはりというべきか、アデールとの話し合いはあっという間に決裂し、おたがいの亀裂を決定的に深くしただけ
だった。怒り狂ったアデールが去り、屋敷に一人になった時、彼は異様なほどの開放感に包まれた。彼を苛立た
せる二大要素、アデールとユリウスの二人ともが目の前にいないということがどんなに心を安らげるかそれは滑
稽なほどだった。レオニードは女ごときに振り回されている己に気づかされて、自嘲で口元をゆがめた。だがア
デールは偶に現れて騒ぎ立てて終わりだが(皇帝陛下の命令がなければお互いがどんなに望もうと正式な離婚は
不可能だった)、ユリウスはそういうわけにはいかない。ここ数ヶ月の奇妙な緊張関係は彼を決して消耗とまでは
言わないまでも、必要以上に困惑させていた。
こうして一人になって、その異常さに改めて気づかされた彼は、ユリウスとの関係は当初の虜囚と監禁者の関
係が結局一番正しかったと思い至った。自分が平静さを取り戻した今、あの冷ややかな関係に戻ることは実に容
易な事のようだった。所詮、あいつはたまたま捕らえられた反政府分子の一人に過ぎない・・・。隠し財産の事
さえなければ、とうにアカトゥイかドイツに送られていただろう存在だ。父のアルフレートは皇室の忠実な協力
者だったが娘のあいつはそうではない。アーレンスマイヤ家に託された隠し財産については至急に何か対策を考
える必要があるだろう。久しぶりに頭がすっきりした気分でレオニードは眠りについた。
もちろん別荘に足を延ばす気は無く、この機会に軍務に集中するつもりだったが、来春以降に予定されていた
西部の補給線の検討がドイツとの関係悪化を鑑みて前倒しで早まることが決まった。この調子ではリュドミール
の幼年学校の準備にあまり意識と時間が割けなくなる。準備の実務的な面は執事や秘書に手配を任せられたが、
父代わりのレオニードとしては、入学に際してまだ幼い弟にいろいろ伝えておきたい事があった。だが彼らが屋
敷に帰ってきてからでは遅すぎる。レオニードは数日を別荘で過ごすしかないと腹をくくり、急ぎ休暇に入る手
筈を調えた。途中ちらりとユリウスの白い顔が脳裏をかすめ、「まずいな」という思いが浮かんだが、自分でもそ
の意味はよくわからなかった。
30名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:38:14 ID:h2vNUIt3
(9)

 別荘につくとちょうど午睡の時間だったが、警護を言いつけた配下の兵達は感心なことに任務を怠っていなか
った。レオニードは彼らの労をねぎらい、別荘に足を踏み入れた。数年ぶりだったが別荘の変わらぬ様子に彼は
まだ父母が健在でここで夏を過ごした少年時代を懐かしく思い出し、ふと最近同じようなことがあったような気
がした。みな寝ていると思ったが、サロンのほうからピアノの音色が聞こえてきたのでそちらに足を向けた。
開いている扉で立ち止まると、ほっそりとした見慣れぬ若い女性がピアノを奏でているのが見えた。一瞬それ
が誰かわからず、ヴェーラが近くの別荘の客でも招いたか?と思ったが、その女性が弾きながら楽しげに頭を巡
らした時、ようやっとそれがユリウスだと驚きと共に了解した。一方のユリウスは半ば目をつむって弾いていた
ので戸口に立っているレオニードには気づかなかった。ヴェーラの白い簡素な夏のドレスをまとい、少し古風な
形にゆるく髪をまとめたユリウスはレオニードの知らない若い美しい女性に見えた。彼はしばらく無言でそのま
ま戸口にたたずんでいた。
長い曲を弾き終え、余韻にひたりながらユリウスが次は何を弾こうか迷う様子で首をかしげた時、警護の兵士
に知らされた召使がようやく「若様、これは気づきませぬで・・・!」と慌てて廊下を走ってきて、彼女は初め
てレオニードに気がついた。最初は軍服でないせいか誰かわからない様子できょとんとして彼を見つめ、逆にじ
っと見つめられて相手がレオニードだという事を認識した次の瞬間、自分の格好に思い至り、真っ赤になって席
を立つとあっという間に反対側の扉から走り去っていってしまった。あっけにとられたレオニードは召使のあた
ふたとした挨拶を手で制すると、急いで彼女の後を追った。
「ユリウス!」それは中庭に通じる扉だったのでレオニードはユリウスが庭の木戸にたどり着く前に容易に彼女
をつかまえることができた。
「なんなんだ、いきなり。私の顔を見るなり脱走か?」
両手首を掴んで強引に自分の方に振り向かせるとレオニードは笑いながら言った。両手の自由をそれぞれ奪われ
てユリウスは振り払うこともできず、レオニードの視線が自分を上から下まで眺めおろすのを感じて真っ赤にな
ってそっぽを向いた。
「どうしたのだ、その格好は」
「・・・仕方なかったんだ、着替えが無くなって・・・」とそっぽをむいたままユリウスが口をとがらせた。
その様子が可笑しくて、レオニードは左手は開放してやり、だが右手は掴んだままで「見せてみろ」と言って、
ダンスのように彼女を一回転させた。ひらりとドレスが翻り、ユリウスはまるで白い花のようだった。レオニー
ドが笑ってもう一度左手もつかまえようとした刹那、ユリウスは不意をついて思いもよらぬ力で彼の手を振り払
い、一気に館に向かって走った。召使から兄の到着を聞きつけてちょうど戸口まで来ていたヴェーラに勢いあま
って突き当たり、「僕の服を出して!ドレスはもう終わり!」と叫ぶと自分の部屋へ走り去っていってしまった。
「あらあら」とヴェーラは庭に出て、夏花を手折ると笑いをおさえながら兄に言った。「お兄様がからかうからよ。
かわいそうに。」
「お前の着せ替え人形か?しかしあれがおとなしくドレスを着るとは意外だな。いったいどうやったんだ?」
「彼女の鞄が紛失してしまって私のドレスか、お兄様の古着を着るしか無かったのよ。お兄様はご自分の服を着
せた方がよかった?」と言ってのけると、ヴェーラは折った花を兄に押し付けてさっさと上がっていってしまった。
31名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:38:35 ID:h2vNUIt3
当主の急な到着のため、居間には急いでお茶とさまざまな軽食が並べられた。午睡からさめたリュドミールは
兄の到着を知らされて急いで走ってきて兄と姉に叱られた。笑いさざめきながらお茶を囲み、リュドミールが別
荘への道程と、ついてからのささいな出来事を息せき切って報告し、レオニードは笑みを浮かべてそれを聞いた。
夏の別荘の明るい空気が、ユスーポフ家の団欒をいつもより解放され華やいだ気分にしていた。
「そういえばお茶の時間なのにユリウスはどうしたの?兄上も到着されたのになんで降りてこないのかな?ああ
兄上、見たらきっとびっくりするよ!ユリウス、ドレス着ててすごくきれいなんだ。あ、しまった、黙っててび
っくりさせればよかった!」
「・・・さっき着いた時に顔はあわせている。さっさと引き上げられてしまったがな。」
「え、そうなの?なんだもう会ってたんだ。ねえユリウスってああしてるとすごくきれいだよね。僕が知ってる
女の人の中では一番だよ。(あ、もちろん姉さまは別格!) ユリウスは女の人なんだし、いつもああしてればい
いのに・・・。ねえ兄上もきれいだって思ったでしょう?」
「・・・まあ・・・そうかもしれないな」
急に言葉につまってしまったレオニードをおもしろがるような目つきで見ていたヴェーラは助け舟を出すように、
「でもリュドミール、ユリウスはもうドレスは着てくれないかもしれないわ」
「ええっ何で?」残念がっていぶかしむリュドミールにおかしそうにヴェーラは「さあなんでかしらね。」とはぐ
らかし、横目で兄を軽くにらんだ。レオニードは少し憮然とした顔をしていた。
「リュドミール、ユリウスの話はもういい。それより私はお前と話がしたくてきたのだ。」
「僕のため、ここまで?本当に?兄上が?」
「ああそうだ。おまえももうこの秋には家を離れる。その前にお前と少し時間がとりたかったのだ。夕食のあと、
二人でゆっくり話そう。それまで私は少し休む。」
「わかりました、兄上!」
忙しい兄がわざわざ時間を割いて自分のために別荘まで来てくれた喜びでリュドミールは顔を紅潮させた。
レオニードは予告なしに訪れたにも関わらず、主寝室には幸い風が通してあったので夕食までそこで少し休息を
とることにした。寝室の窓から見下ろすと、いつもの格好にもどったユリウスが中庭をそぞろ歩いていた。ユリウ
スが2階を見上げる前に彼は笑って静かに窓を閉め、寝台に身を横たえ、少しだけ眠った。
32名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:38:56 ID:h2vNUIt3
 夕食の席はさすがにユリウスも逃げるわけにいかず、3人と共に卓を囲んだ。男装に戻ってしまったのでリュ
ドミールはしきりに残念がったが、ヴェーラが少しおかしげにたしなめたので(いい加減になさい、リュドミー
ル。あなたがそんな風だから、ユリウスもドレス姿ではあなたのお守りができないのよ)、ユリウスが何も言わな
いうちにその話は終わりとなった。レオニードは何事もなかったかのような知らん顔でその事にはふれず、ユリ
ウスをほっとさせた。兄弟はお茶の時間に彼らとしては珍しくよもやま話に花を咲かせていたので晩餐は静かな、
しかしリラックスしたものだった。ただユリウス一人だけが少々自意識過剰気味に居心地の悪い思いをしていた。
 レオニードが来るまでは晩餐の後はサロンでユリウスのピアノを聞いたりゲームをするのが常だったが、明日
の昼食後には発つレオニードは、さっさとリュドミールを連れて書斎に入っていった。なんとなく所在無げな気
持ちのユリウスはピアノの鍵盤に触れてみたが、弾く気にはなれなかった。そして、多忙なレオニードがとんぼ
帰りで遠く離れた別荘にくるなんて、彼は本当に弟思いなんだなと思った。まるでその気持ちを読み取ったよう
にヴェーラが「リュドミールはお兄様がここまで来てくれたことに、大感激なのよ。」と紅茶を飲みながら言った。
「リュドミールには嬉しいことだよね。・・・ユスーポフ候は・・・弟思いな人だね」(ユリウスは記憶を取り戻
して以来、どうしても彼のことをレオニードと名では呼べずにいた)
「リュドミールももうこの秋の半ばからは寄宿舎に入らねばいけないし、考えてみれば家族水入らずで過ごせる
時間もあとわずかね。兄様は軍務でまたしばらくお忙しいようだから、今のうちにいろいろ言っておきたい事が
あったようだわ。私も帰ったら準備に本腰を入れねば。リュドミールの入学には兄上の代わりにつきそわなけれ
ばいけないでしょうね。本当ならアデールの仕事なのだけど・・・。こうも早く兄上が来られたところを見ると・・・
ね。まあわかっていたことだけど。だからユリウス、私も秋からはしばらくモスクワに行ってると思うわ。」
「そうだね・・・。まだ先と思っていたけどあっという間だったね。ヴェーラも寂しくなるね。」
「そうね。でも弟の成長が嬉しいのも本当よ。あの子がいなくなれば、あなたも少しは寂しく思ってくれるかし
ら?」とヴェーラは微笑んだ。ユリウスも微笑み返しながら、このユスーポフ家の人々にとって自分は一体なん
なのだろうと思った。確かにリュドミールが寄宿舎生活に入ってしまうことは寂しかったが、自分はそもそもそ
のように感じる資格のある人間だろうか?気が付けばすっかり家族に準じる位置にいて、少なくともアデールよ
りはうぬぼれでなく彼らに近しい存在となっていた。だが、それは随分皮肉で、不自然な事ではないだろうか・・・。
ヴェーラ達と親しさが増す程、記憶を失っていた時期ならいざ知らず、今のユリウスには疑念がわきあがってく
るのだった。もちろんヴェーラは賢く一線をひいており、ユリウスとはお互いその境界線を認知していた。だが
心の距離という点でやっかいなのはレオニードとリュドミールだった。(馬鹿なことを・・・。なぜそこにユスー
ポフ候が?)とユリウスは首を振った。そこにリュドミールが入ってきた。
「リュドミール、お兄様のお話は終わったの?」「はい姉上。」と神妙に答えるリュドミールの頬はかすかに高潮
して、瞳はわずかに涙でうるんでいた。おそらく兄との対話で感動している事を見て取り、ヴェーラと二人にし
てやろうと気をきかせてユリウスは先に部屋に戻ることにした。だがそのためには書斎の前を通らねばならず、
ちょうど出てきたレオニードとあいにく鉢合わせしてしまった。
33名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 03:47:32 ID:XtISsDvI
「あ・・・」
なんとはなく気まずい気分でユリウスはレオニードを見上げた。何も言わないのも変なので、「おやすみなさい」
とだけ言って急いで通り過ぎようとした。廊下は中庭に面していて、レオニードは壁際に置かれた長椅子に腰を
おろした。その夜は月がとても明るかったので明日帰る身としては、せっかくの田舎の空気をもう少し味わいた
かったのだ。
「少しつきあえ。」自分でも思わぬ言葉が口をついてでた。
ユリウスは少しためらったが、おとなしくレオニードの隣に座った。二人はしばらく無言で中庭を眺めていた。
月の明かりが夏花が生い茂る庭を銀色に照らし、どこかで虫が鳴いていた。ペテルスブルグの屋敷もまるで都
会とは思えないほど静かだったが、ここ夏の別荘はそれとは全く違う、命に満ちた静けさと清浄さに満ちていた。
その夜の空気のせいか、二人の間にはユリウスが記憶を回復して以来、常に付きまとってきたぎこちなさが嘘の
ように消えていた。
「・・・不思議なものだな。」決して不快でなかった沈黙を破ってレオニードが言った。
「リュドミールは我々の両親とここで夏を過ごしたことは無い。あれが生まれてまもなく二人は相次いで亡くな
ったからな。父上も母上も末っ子に伝えたいことは沢山あったろうに。・・・だが、ここに来ると私は彼らの存在
をペテルスブルグの屋敷より強く感じる。書斎でリュドミールと話している時、なぜか同じ部屋に父上たちが一
緒にいるような気がした。ただの感傷だろうが、おかしな事だな。」
ユリウスには、それが彼女に言っているのではないことがわかっていた。レオニードはいわば独り言を言って
いるのだ。だから彼女もあえて返事をせず黙っていた。レオニードも答えは求めず、ただ無言で隣にいるユリウ
スの存在になんとなくくつろぎを感じていた。その後もしばらく二人は黙って座っていたが、やがて夜空を細い
光の弧が流れ、同時に「あ・・・」と声が出て、彼らは目を合わせて笑った。レオニードが「つき合わせて悪か
ったな。」と言ったので、ユリウスはそれを引き下がる機会と承知して立ち上がった。
「おやすみなさい。」レオニードも静かに「おやすみ」と言い、再び庭に視線を戻した。
34名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 06:16:13 ID:h2vNUIt3
翌朝、レオニードがいるという緊張感のせいかいつもよりずいぶん早く、夜明け前に目がさめてしまったユリウスは、
二度寝する気にもならず身支度を済ますと階下に降りていった。意外なことにレオニードとリュドミールも既に
起きていた。二人はレオニードが帰る前に、湖まで早駆けをするつもりだった。
「おはよう、ユリウスも早いね。」
「うん・・・。なんだか早くに目がさめてしまって。その格好は、馬?」
「そうだよ。兄様が帰るまえに、湖まで行くんだ。」
ユリウスも一緒に・・・と言いかけて、さすがにリュドミールもそれはレオニードは許さないだろうと気づき(彼
もこの頃には、ユリウスの行動はずいぶん制限がかけられていることはさすがにわかっていた。彼女の存在の意
味と謎に首をひねるようになるのは彼が家を離れもう少し成長した後のこととなる。)、ちらりと兄を見た。弟の
期待に気が付いたレオニードは朝から厳しい顔をつくるのも面倒になり、
「お前も行くか?」とブーツを履きながら顔も見ず無造作に彼女に聞いた。ユリウスは驚き、「え・・・」と思わ
ず問い返しそうになった。そして突然、自分も馬で駆けたい、体全体で風を感じたい、と痛切なまでの願いが
こみあげてきた。
「でも邪魔じゃないの・・・。せっかく兄弟、水いらずなのに」とリュドミールの気持ちも考えたが、当のリュ
ドミールは否である筈もなかった。冷えないように外衣をまとい、まだ薄暗い中、ユリウスは兄弟と厩舎に向か
った。もちろん自分に一頭与えられる筈はないとわかっていたが、レオニードに乗せられる気恥ずかしさよりも、
室内を出て遠出できる喜びのほうが上だった。そしてレオニードの前に乗せられ、「行くぞ!」との合図と共に、
一気に二頭の馬は早駆けをはじめた。
ユリウスにとって夜明け前のまだ冷たい大気の中、風が頬をうつ清涼さはここ数年味わったことのない素晴ら
しいもので、彼女は思わずのどをのけぞらして笑った。リュドミールがついてこれるよう速度を加減していたが、
レオニードは予想通り素晴らしい騎手で、危なげなくやすやすと馬を繰りながら、腕の中にしっかりとユリウス
をホールドしていた。いくつかの丘を駆け上がり、また駆け下る間に東の空は夏の朝の早さで白み始め、彼らが
湖についた頃太陽はちょうど湖の東岸から昇ろうとしていた。
レオニードは無言で馬を降りるとユリウスを抱き下ろした。馬を木立につなぐと、手をとるでもなく彼女を岸
辺に誘った。そして二人並んで、湖面のへりの光の筋が、やがて湖面の輝きと別れて朝日として昇っていくのを
眺めた。朝の光が徐々に周囲を鮮やかな色彩に変えていく間、二人は一言も口をきかなかった。だがこの美しい
時間は人生の中でそう度々は訪れてこないこと、彼らが今ささやかだが何かかけがえのない、純粋な瞬間を分か
ち合っていることはお互いがわかっていた。
そしてリュドミールが少し遅れて到着し、二人は同時に振り返った。輝く湖面を背景に朝日がユリウスの金髪
を逆光で透かして輝かせ、兄とユリウスの二人が微笑んで彼を迎えている。それは子供から少年へと成長しかけ
ていたリュドミールには一生残る、幸福の記憶のイコンとなった。やがて大人になり、思いもかけぬ運命の変転
を経た後もそれは時折彼のまぶたに甦り、少年時代の失われた幸福の切なさに彼の胸を締め付けさせた。だがこ
れはずっと後の話となる。
帰ってきた3人を朝の食卓とヴェーラが迎えた。丘に立ち、彼らが見えた時、兄とユリウスの騎馬の様子を見
て、ヴェーラは少しだけ胸が痛んだ。二人の間には静かな理解の空気が漂っていて、何かが始まりそうになって
いるのは傍目にも明らかだった。
35名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 06:17:33 ID:h2vNUIt3
10)
その後数週間を別荘で過ごした後、夏の終わりはまだ先だったがユリウス達はペテルスブルグへ戻った。レオ
ニードは西部地域の視察に赴いており不在だった。そしてヴェーラとリュドミールは入学準備でにわかに忙しく
なり、ユリウスは一人で過ごす時間が増えた。しばらく違う空気に触れていた事で彼女の気持ちはやや明るさと
強さを取り戻していた。一人の時間でも以前のように己の過去と罪に溺死せんばかりに浸ることはなくなってい
た。
しかし、それは一方で彼女に現状を直視するよう迫るものでもあった。このまま、ユスーポフ家で虜囚として
奇妙に気楽な日々を過ごすのか?それともここを脱走してシベリアのクラウスを追うのか?ドイツへ帰るという
選択肢に全く現実味を感じられない以上、彼女の前には結局この二つの道のどちらかしか無いのだ。そしてどち
らに自分の真実があるかは明らかだった。だが同時に、まだその時期が来ていないことも認めざるを得なかった。
今の自分にはそのための準備も情報も、いやそれ以前にまずそこに至らせる何かが足りない、もしくは何かがそ
の邪魔をしていた。決断できない自分の弱さを振り払うように、彼女はピアノに向かった。長く、激しい曲を選
び、まるで何かをそこに探しているかのように没頭する姿はそれまで彼女がここで見せた事のないものだった。

ヴェーラと帰宅したリュドミールは、自分達に気づかずピアノに向かうユリウスのそんな姿を見て、初めてこ
の大好きな友達の中には自分が撥ねかえされそうに烈しいものがある事に気づいた。彼女との間に超えられない
距離感を感じ、なぜか傷ついた思いで彼は声がかけられず鍵盤に指を走らすユリウスをしばらく眺めていた。す
ると肩に手が置かれ、振り返るとレオニードがそこにいた。
「兄上!」
「お帰り、リュドミール。」「兄上も・・・お帰りなさい。長い任務、お疲れ様でした。」
ユリウスもようやく彼らに気づき、指を止めた。そして二人の方を見たが、その視線はリュドミールを通り過ぎ、
レオニードに向かっていた。
「・・・お帰りなさい。」「・・・うむ。・・・お前もな。」彼らが会うのはあの日以来だった。二人の視線は無言
のまましばし互いに留まり、リュドミールは微妙な居心地の悪さを感じた。それを振り払うように「僕、着替え
てきます。」と断ってその場を去った。ユリウスは視線を鍵盤に落とし、「みんなが帰ってきたことに全然気づか
なかった・・・喧しくしてたなら気をつけないと。」とつぶやいた。
「構わん。それぐらい勝手にしろ。我慢できなければこちらから言うまでだ。」と言ってレオニードもサロンを去
った。言葉は相変わらずぶっきらぼうだったが底には優しさがあり、ユリウスは彼の背中に我知らず微笑んでい
た。

それから数日後、レオニードとヴェーラは彼の書斎で膝をつきあわせていた。リュドミールの入学に関する様々
なこと・・・リュドミールが学ぶ学科、優れた教師や要注意な人物、同期の子供たちの家柄や顔ぶれ、しかるべ
き姻戚関係への根回し、舎監の顔ぶれなどを一通り話し合い、互いに了解したあと、ヴェーラは思い切ってユリ
ウスもモスクワに伴いたいと兄に告げた。
レオニードは意外な提案に驚き、一瞬検討してすぐに却下した。(あれを目の届かない場所へやるわけにはいか
ない。)そんな焦燥にも近い感情がちらりと胸をよぎったが、彼はそれを突然そんな事を言い出したヴェーラへの
いらだちととった。
36名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 06:17:54 ID:h2vNUIt3
「そんな事はできない。お前もわかっているだろう。いくら親しくなろうと、あれは家族ではない。あくまでも
ここで監視下に置かねばならない人間だ。」
「でもお兄様・・・。」
「大体リュドミールは遊びに行くわけではない。大事な門出の時にあれを連れていくわけには行かぬだろう。」
「ええ・・・ええ、それはわかっていますわ。でも・・・」
「どうしたというのだ、一体。お前らしくも無い。」
はっきりと口に出すなどしたくなかったが、ヴェーラも苛立ち、もうあえて言葉にしてしまった。
「私達がいなくなれば、ここでお兄様とユリウスはしばらく二人きりになってしまうわ。」

妹がまさかそんな事を言い出すとは思いもよらなかったレオニードは、正直意味がわからなかった。
「何が言いたいのだ。」
ヴェーラも兄を見つめ返した。こうなったらもう兄を怒らすのを恐れてもしょうがない。
「私はそうすればきっとお二人に起こるだろうことが、果たして正しいのかどうかわからないのです。」レオニー
ドはヴェーラが何を言いたいのか図りかね、そしてようやくほのめかされた事に気づき、驚き、次いで激昂した。
「・・・おまえは兄をそんな目で見ていたのか?」
「気づいてないのは当人達だけですわ!二人の距離はどんどん縮まっていっているではありませんか・・・。
お兄様は一体ユリウスをどうなさるおつもりなの?このまま閉じ込めて誰にも会わさず、お兄様の愛人にでもしてしまう
おつもり?」
「ヴェーラ!」
レオニードは妹のむきだしな言い方に驚き、怒った。
「あれを外に出せないのはあくまでも政治的な事情だ。お前のかんぐるような下賎な理由ではない!」
「政治的な事情も確かにおありでしょう。それについて口を挟む気もお兄様に事情をお聞きするつもりもありま
せん。でもご自分のお気持ちに気づかぬ振りは卑怯だわ。お兄様は自分の感情にも彼女の感情にも知らぬふりで、
これではまるでユリウスは飼い殺しも同然よ!」
レオニードはカッとして机の上にあった置物を思い切り床に叩きつけ怒鳴った。
「あれはアレクセイ・ミハイロフの女だ!私にどうしろと言うのだ!」

ヴェーラは自ら招いたとはいえ、初めて男としての感情をあからさまにした兄を呆然と見つめた。それはアデ
ールの火遊びに苛つく時とは全く違っていた。嫉妬や恐れを兄の顔に見るのは初めてだった。
「それでユリウスをあんな宙ぶらりんな状況に?彼女がミハイロフを追ってきたからといって・・・。もう何年
もたつのに・・・。そんな事であきらめておしまいなの?」
「ヴェーラ、お前は何を言ってるのかわかっているのか?最初は愛人にするつもりかと責め、次は手をだせとで
もそそのかすのか?」
「私はそんな事は一言だって言ってません!手を出すかどうかはお兄様の・・・いえお二人の問題ですわ。私が
いやなのは、お兄様が彼女に選択の余地を全くお与えにならない事よ。とにかくもう二人を見てひやひやしてる
のにはうんざりなんです。でも馬鹿な事を言いました。いらぬお節介で失礼しましたわ。」
もともと望みは薄かったが、自分の無様な失敗を悟りヴェーラは退却をきめこんだ。さっさとドレスのすそを翻
し歩きかけたが戸口で振り返ると
「確かにユリウスは来た頃はアレクセイ・ミハイロフの女(意地悪くレオニードの言い方を真似た)だったかもし
れないわ。でも果たして今もそうなのかしら?そんなにも人の気持ちが変わらない忠実なものなら素敵ね。いっ
たいお兄様は彼女に今の気持ちを確かめたことがおありなの?それとも何か恐れてらっしゃるの?」
レオニードはものすごい表情で妹をにらみつけたが、返答はしなかった。
37名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 06:18:15 ID:h2vNUIt3
その頃ユリウスは居室で窓の外の闇を見つめていた。耳にはまだ、たまたま通りかかりに漏れ聞こえてしまっ
たレオニードの怒声がこだましていた。
「あれはアレクセイ・ミハイロフの女だ!」
確かにそうだった。
皇帝の隠し財産という新たな要素が入り込んだ事で彼のもとに留められる理由は強固になったものの、最初に
出会った時からレオニードにとってユリウスは「ミハイロフの女」以外の何者でもなかったろう。わからないの
はレオニードがそれを改めて口にしたことにユリウス自身がひどく苦い気持ちが抑えられないことだった。それ
以上何も聞きたくなく、ユリウスは急いで部屋に戻ったのだ。
(わからない・・・。自分の気持ちが・・・。)
あのように無残に振り捨てられた事を思い出した今でもクラウスを恋する心を失う事は無かった。危険な状況
で見捨てられたことを怒り、恨む気持ちもないではなかったが自分が罪から逃れるため彼を利用しようとしてい
た事にも気づいてしまった今、革命に生きる彼がとった道を責める気にはなれなかった。むしろ自分があの時の
彼にとってどんなに危険な存在だったかを考えるとぞっとした。
そしていま、クラウスはシベリアにいる。同じロシアとはいえ、それはユリウスが軟禁されているこの屋敷か
らはあらゆる意味で遠い場所だった。
生きて再び出会うことはあるのだろうか・・・。だがその不安はロシアに来た頃の狂おしいものとは異なり、ど
こかにあきらめを含んでいた。
そして堂々巡りをするユリウスの思考の一端にはとても自身認められることではなかったが、常にレオニード
がいた。記憶を失っていた間のレオニードの優しさと彼に頼りきっていた自分の姿を思い出すと、羞恥でいたた
まれない気持ちになり、欺いていたレオニードとおめでたかった自分の両方に怒りがわいてくる。だから極力そ
の事については考えないようにしているのに、なぜかふとしたはずみでその頃のレオニードの言葉やしぐさを思
い出してしまうのだ。呼びかけると振り向いた黒い瞳が笑みを含んでいたこと、吹雪に脅えた時差し出された大
きな手、リュドミールとふざけていると彼ともども後頭部を軽くはたかれ、子供のように髪をくしゃくしゃにさ
れた事・・・。
そんな白日夢めいた記憶を振り払うと、今度は自分が彼に全てをぶちまけてしまった事に思い至る。記憶が戻
ってからはもはや理由なく吹雪に脅えることは無くなったが、その代わり自分が殺人者であることにうちひしが
れ泣きあかす夜もあった。翌朝、腫れたまぶたを見たレオニードの瞳に無言の了解を感じ取ることが自分にとっ
て果たして良いことなのかどうかさえユリウスにはもう判断がつかなかった。だが彼に自らの生殺与奪を委ねて
しまったと思うと、なぜか今まで知らなかった安堵感に包まれる。そして彼が別荘で過ごしたわずかな時間が二
人の距離をどことなく縮めていただけに、ユリウスの胸に先ほどのレオニードの言葉は思わぬ痛みで突き刺さっ
てきたのだった。ロシアの短い夏はもう終わり、また秋が来ようとしていた。
38名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 06:18:36 ID:h2vNUIt3
そして、ヴェーラとリュドミールがモスクワへ赴く日がやってきた。ユリウスは駅までは行けず、ユスーポフ
邸で彼らを見送った。リュドミールは幼年学校の制服が良く似合っていて、急に成長して見えた。
「ユリウス・・・。」
「リュドミール、元気でね。・・・君なら、大丈夫。きっとお兄さんにも負けないよ。でも、お願いだから、体に
は気をつけてね・・・。友達や先輩につられて無茶はしないでね。」
「うん・・・。ユリウスも、元気でね。冬が苦手なんだから気をつけて。あと・・・。」
「なあに?」士官学校に入るのに、こんな事を言って軟弱に思われるのではとリュドミールは真っ赤になりながらも言わずにおれなかった。
「僕の事忘れないで。」
ユリウスは瞳を見開いて、そしてリュドミールの名を呼ぼうとしたが喉が詰まって声がうまく出ず、咳払い
と、そっと彼の頬にキスをした。そしてやっと言葉が出た。
「馬鹿だなあ、リュドミール・・・。忘れるはずないじゃないか。」
(忘れるのは、君の方だよ、リュドミール・・・。新しい学校や友達、新しい環境で新しい目標ができて、子供
時代は置き去りにされるんだ。でも、それでいいんだよ。僕の事は子供時代のおもちゃと一緒に忘れるのがいい
んだ・・・。)
そんなユリウスの胸の内は知らず、リュドミールは照れくささを振り払おうと、「そうだよね!」と笑うと「じゃ
あ!休暇にね!」と手を振り、見よう見まねの敬礼をすると姉と共に車に乗り込んだ。ヴェーラはユリウスに一
声掛けたかったが、まさか自分の兄に気をつけろとも言えず、車の窓から優雅に微笑んでみせて出発した。

(11)

 しばらくは何も起こらなかった。レオニードは夏から始まった検討作業が大詰めに入り軍部に泊り込む事の方
が多い位で、たまに帰宅してもとんぼ返りで軍部に戻るか、邸には深夜に帰り、まだ夜も明けやらぬ早朝に出て
行く有様だった。そんな日々が続いた後、ようやく問題の補給体制の立て直しに目処がつき、レオニードは肩の
荷を降ろした気持ちで帰邸した。車寄せから邸に入る時、空から白いものがふわりと舞い降りてきた。(初雪
か・・・。)月日の経過の早さにレオニードは少し驚いた。ついこの間まで夏だったのに。リュドミールは寄宿舎
の生活に少しは慣れただろうか。そう言えば、自分自身、しばらく邸で食事を取ることも無かった。晩餐の席に
一人でついた時、「そういえばあれはどうしていたのだ?」と久し振りにユリウスの事を思い出し、執事に訊ねた。
「はあ・・・それがあの方は最近はすっかり食が細くなってしまわれて。お食事も部屋の方に運ばせていただい
ております。」「・・具合でも悪いのか?」「お医者様はいらぬと仰せられてしまって。確かにご病気では無いと思
われますが、ただ、ご気分は優れられぬようです。ピアノを弾かれてもすぐやめてしまわれますし。」
 レオニードはユリウスの居室の前で一瞬躊躇した。誰かに言って自分のもとまで来させても良かったのだが、
調子が悪いとわかっている女をわざわざ呼びつけるのも少々気が咎めた。そう遅い時間ではなかったが、夜に女
の部屋を訪れる気まずさを首を振ってやり過ごすと、「ユリウス、私だ。入るぞ。」と声を掛けた。だが中からは
返事が無く、レオニードは一瞬、ひやりとした。ヴェーラもリュドミールもいない今、もし彼女が脱走を試みて
いればそれはたやすい事だったかもしれない。召使達や警護の兵の目が常にあるとはいえ、しばらく目を離して
いたのはうかつだった。レオニードは今度はノックすると、返事を待たず扉を開けた。彼が思わず安堵したこと
に、ユリウスは部屋着にショールをはおった姿で部屋の奥の寝椅子に腰掛けていた。椅子を窓際に寄せて外を見
ていた様子だった。(あの格好では外には出られないな。)と一瞬らちもない考えがレオニードの頭をかすめた。
39名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 06:19:03 ID:h2vNUIt3
呼びかけに全く気づいていなかったユリウスは、驚いてレオニードを見た。彼が部屋に入ってくるなど初めて
の事だった。だがその目にはかすかだが確かに涙がにじんでいた。
「・・・どうしたのだ?」記憶を回復してからは以前のように脅えることは無かったのにと、レオニードは不審
に思った。ユリウスはショールをかき合わせながら
「ううん・・・。何でもない。そちらこそ、どうして・・・。」
「・・・いや、調子が優れぬというから様子を見にきただけだ。だが顔色は悪くないではないか。」
「え・・・、ううん、別に病気でもなんでもないよ。本当に。」
「食も進まぬそうだが。」
「そんな事ない・・・。何でもないって、本当に!」
「何でもなくて食も進まず泣いているのか?」
「・・・泣いてなんか。」「嘘をつけ。」
「・・・。」「だから何だ。」
「本当にたいした事じゃないんだ。」
「言ってみろ。」
「リュドミールが・・・。」と彼女は手にした紙に目を落とし、レオニードはうかつにも初めてその紙片に気づい
た。
「リュドミールからの手紙か?お前が泣くような事が書いてあるのか?」レオニードは少々弟が心配になって尋ねた。
「ううん・・・。とても元気にやってるみたい。がんばってる。・・・でも、人より少し遅れて入った分、取り戻
したいって。・・・それで、クリスマス休暇も、学校に残るつもりだって書いてある。」
レオニードは弟の背伸びぶりがいささか微笑ましかったが、それでユリウスが涙ぐむ気持ちがわからなかった。
「で、何でお前は泣いてるのだ。」
「・・・泣いてなんかないよ。」
「何度同じ問答をさせれば気が済むのだ?」
「・・・。ちょっとだけ、寂しくなっただけだ。・・・。あと自分が馬鹿だなと思っていやになっただけ。」
「はあ?」
ユリウスは自分が言ってる事の恥ずかしさに顔があげれず早口で言った。
「だって、クリスマス休暇には帰ってくるって言ったのに!ああいやになる、こうなる事はわかってたのに、こ
れじゃ僕の方が甘えん坊だ。当たり前なんだ、家を出て学校に行き、新しい世界に触れる。子供時代の事なんて
忘れて当然だし、忘れるべきだ。わかってるのに!」
(ああ、甘えていたのは僕の方だった・・・。あの子の存在が僕にとってこんなに大きかったなんて・・・。)ユ
リウスは恥ずかしさに身もだえする思いだった。実のところリュドミールが居なくなって以来、ユリウスは毎日をもてあましていた。自分の生活が彼無しではいかに空虚なものなのか、それは驚く程だった。自分を愛し、必
要としてくれる存在がどんなにこの数年の自分を支えてくれていたのか、彼がいなくなって初めて気づかされた
のだ。一方、レオニードは呆れ果てていた。
「そんな事でか!馬鹿馬鹿しい。」
その言葉にユリウスはさらに小さくなるようだった。レオニードはそんな彼女を見下ろして呆れついでに続けた。
「あいつ、私のところには手紙の一通もよこさぬくせに。あいつがお前を忘れるわけはあるまい。むしろお前か
らは早く卒業して欲しいくらいだ。大体、あいつは発つ前に私になんと言ったと思う。」
ユリウスはまだうつむいたまま、レオニードの言葉の続きを待った。
「兄上、絶対にユリウスを追い出さないでね、そんな事をしたら僕はこの家を出て、馬丁になってでも探しに行
くからね、なんて抜かしたんだ。私はわが弟がこのユスーポフ侯爵家を出る記念すべき日にあたって言うのがそ
れなのかと、私は一体どこであいつの教育を誤ったのかと、本当に情けなかったぞ。」
40名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 06:19:24 ID:h2vNUIt3
ユリウスは思わずふき出し、レオニードも珍しく声をたてて笑った。かつての無邪気な関係に戻ったような錯覚
に、この時二人は彼ら自身に、油断したのだ。
「そうだね。」と涙をうかべたままユリウスが微笑んでレオニードを見あげた。
その刹那、レオニードは自分でも思いもよらなかった激しい愛情と欲望に突然つきあげられた。ユリウスがふい
に表情の消えた彼をいぶかしく思っていると肩に手が置かれ、レオニードがゆっくりと身をかがめてきてそっと
くちづけした。彼の唇のためらいがちな感触にユリウスが驚いているうちに、それは次第に激しく熱を帯びたも
のになっていき、レオニードは続いて彼女の身を引き寄せ、その首元に唇を滑らせながら強く抱きしめた。彼女
のくちびるに、素肌に一度触れてしまうと、もう自分を抑えることはできなかった。
一方のユリウスは当初の驚きからさめ、逆に自分を取り戻して必死で抗ったがやすやすと押さえ込まれ、あと
はレオニードの思うがままだった。もみあっている内に部屋着はいつのまにか引き裂くように取りさらわれてし
まい、いまや残骸が足元にたぐまっているだけで、ユリウスは肌を覆うものもないまま、レオニードに組み伏せ
られてしまった。ユリウスは羞恥と屈辱で息もできなかったが、彼女の両手を床に押さえつけたレオニードは動
きをとめて、彼女の露わな姿をじっと見下ろすと、「きれいな体をしていたのだな。」とつぶやいた。それを聞い
てユリウスはぞっとした。今の今まで心のどこかで、レオニードが思いとどまってくれると、彼がそんなひどい
事をする筈がないと思っていた。だが今の言葉で彼が引き返す気などないこと、完全にただの牡になっている事
を覚り、恐慌をきたしたユリウスは悲鳴をあげ、死にもの狂いでもがき始めた。だが精一杯の抵抗も力では敵う
筈もなく、彼女は終いには誇りも何も捨てて泣きながら懇願したが空しかった。初めて男を受け入れるユリウス
にとってそれは惨いといってもいい手荒さで、彼女は自分がいかに男女の事に無知だったか、女の体を持つとい
うことがどういう意味を持つのかを、どんなに涙を流そうがただ体いっぱいで受け止めさせられたのだった。そ
して彼の肉体的な力と想像もしなかった行為に圧倒され、その最中はクラウスのことを思い出すことすらできな
かった。しかしユリウス自身は気づいてなかったが、レオニードの仕打ちと肉体に対し、混乱した恐怖や怒り、
次いで訪れた恥辱、そして絶望と悲しみはあっても、そこには嫌悪感だけは無かった。もしも相手が彼でなけれ
ば、思い込みの強いユリウスは舌を噛み切るぐらいのことはしていたかもしれない。
やがてお互いにとって夢魔のような一刻が去った。荒い息づかいもおさまらぬまま、レオニードは彼女の腕で
覆われて彼から背けられていたユリウスの顔を引き戻し、涙をたたえたその瞳を見つめた。ユリウスもまた涙越
しに彼を見上げた。
41名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 06:22:08 ID:h2vNUIt3
この時、やっと二人にはわかった。お互い自分では気づかぬふりをしていたが、いずれこうなる事は心のどこ
かで知っていたという事を。そして今、彼らは何かを始めてしまった。それはこの一回では終わらず、行き着く
所まで行かないと終わらないだろう。だが、たとえそこに真実のいくばくかが潜んでいようとも、決して彼らの
関係は実りある幸福なものにはならないという事も既に悲しいほど明らかだった。終点がどのような姿をとるの
かはわからなかったが、二人に何の未来も展望もある筈は無かった。
そんな昏い予感のもと、レオニードはユリウスをそのまま無言で引き寄せた。先ほどとは打って変わった静か
さでそっと抱きしめられ、その優しさにユリウスは自身を根こそぎ奪われ変えられてしまうかもしれない恐怖を
おぼえ、震えた。そしてようやくクラウスの事を思い出し、もう彼には会わす顔がないと気づき、愕然とした。
自分は今、全てを失ってしまったのだと経験の浅い娘らしく思いこみ、改めて絶望を噛みしめた。そして抗うこ
ともかなわず、絶望と痛みに力が抜けた体を、そのままその場で再びレオニードに組み敷かれた。二度目は最初
とは打って変わった優しさと巧みな執拗さで、レオニードはユリウスから快感のあえぎ声を引き出していった。
そして再び貫かれながらユリウスは、心はとにかくも、体は今後は自分のものであっても自らの意思では制御が
できない、レオニードの意図のままに反応してしまうものに作り変えられていく事を覚らされた。涙は自分を慰
める役にすらたたなかった。
42注) 後に加筆された部分です:2009/08/09(日) 06:30:24 ID:h2vNUIt3
もみあっている内に部屋着はいつのまにか引き裂くように取りさらわれてしまい、いまや残骸が足元にたぐま
っているだけで、ユリウスは肌を覆うものもないまま冷たく固い床に、組み伏せられてしまった。ユリウスは羞
恥と屈辱で息もできなかったが、彼女の両手を床に押さえつけたレオニードは動きをとめて、彼女の露わな姿を
じっと見下ろすと、「きれいな体をしていたのだな。」とつぶやいた。それを聞いてユリウスは背筋が冷たくなっ
た。今の今まで心のどこかで、レオニードが思いとどまってくれると、彼がそんなひどい事をする筈が無いと思
っていた。だが今の言葉で彼が引き返す気など無いこと、完全に只の牡になっている事を覚らされて恐慌をきた
したユリウスは悲鳴をあげ、死にもの狂いでもがき始めた。
だがその抵抗はレオニードの中にある何か残虐な部分に火をつけただけだった。普通の女ならもう全てあきら
めて身を委ねるような有様になってもなお、決して彼を受け入れまいとする頑ななまでの拒絶。ユリウスがまだ
男を知らないなどと思いもよらない彼にとって、それは先ほど彼女に感じた愛おしさを真っ向から否定されたの
も同然だった。そんなに奴がいいのか?いまだに?言葉に出してそうなじれないだけに、理不尽な怒りが駆り立
てられ、彼の行動は惨さを増した。感じた愛おしさの分だけ、彼女を滅茶苦茶にしてしまいたかった。

なおもあがこうとする彼女の両手を、手首に痣ができそうな位強く片手で束ねて頭上に固定してしまうと、
レオニードは彼女の両肢を割り開き何の愛撫も加えず、全く濡れていないのを承知で強引に彼女の中に何本かの
指をねじこんだ。今まで何物もそこに受け入れた事の無かった彼女はショックとありえない痛みに思わずのけぞ
り、叫んだ。そして恐怖に満ちた目でレオニードを見つめた。信じられないと言わんばかりに驚愕と怯えに固ま
ったユリウスの表情にレオニードは更にひどく残酷な気持ちをそそられ、わざと乱暴に、その狭さを楽しみなが
ら彼女の内部をかきまわし、「暴れるともっとひどい事になるぞ。それとも自分で動きたいのか?」と顔を寄せて
耳元で声の調子だけはひどく優しくささやいた。
ユリウスはがっくりと瞳を閉じ、頭を床に落とした。そんな脅しをかけられずとも、もはや彼女の体はその数
本の指でしっかりと縫いとめられ、恐怖のあまり身じろぎさえかなわなかった。やがて彼女を充たしていた指が
前後に、彼女の思いもよらない動き方を始め、十分に彼女を嬲り悲鳴を歌わせた後、やがて一本の指を中に残し
たまま、他の指はその周囲をまさぐり始めた。レオニードは彼女の表情を、反応の一つ一つを見逃すまいともう
片方の手で彼女の顔をしっかりと押さえつけた。苦しげにひそめられた眉、涙を滲ませて震えるまつげ、血が出
そうなほど噛み締められた唇から、彼の指の動きにつれて抑えきれず漏れる声。なんとか彼の手から逃れようと
あがくはかない動き。自分が彼女にひきおこす全てを味わいつくしたかった。

一方ユリウスは彼が今、抱くというよりなんとしても自分を穢そうとしている事を未体験なりに感じ取り、恐
怖と絶望に涙ぐみながらも最後の意地をふりしぼって、自分を冷たく見下ろす黒い瞳を睨み返そうとしたが、彼
の指が自分の知らなかった頂にふれた瞬間、思いもよらぬ鋭い快感に腰が跳ね、はずむような声が漏れてしまった。
そのまま鋭敏な部分をなぶるように撫で擦られてユリウスの下肢は意思とは関係なくびくびくと震え、彼女は自
分でも聞いたことの無いような声をあげ続け、自分の内部から何かがにじみ出るのを感じた
43注) 後に加筆された部分です:2009/08/09(日) 06:30:46 ID:h2vNUIt3
それを確かめたレオニードは蔑むような笑みを浮かべると、最後の指を抜き取り、さらに彼女を残酷なまでに
割り開くとゆっくりと体を重ねてきた。そして彼自身が押し当てられた時、それでもまだユリウスは最後の抵抗
を、いや懇願、哀訴を試みた。震える手で彼の腕をつかみ、必死に彼を見上げながら、きれぎれに「・・・レオ
ニ・・・・ド、やめ・・・お願い、お願いだから・・・、やめ・・・て、あなたがそんなこと、お願いだから・・・
いやだ、レオニード、レオニー・・・ド、いや・・・!レオニード・・・!」、強張りを押し当てられながらの哀
願は、最後は悲鳴に近いものになってしまった。
レオニードはそんな彼女を、涙を流し口元をわななかせて自分に哀願する彼女をじっと凝視していた。彼女の
両手は震えながらもすがりつくように必死にレオニードを掴んでいて、その爪が食い込む感触を意識した瞬間彼
の表情はひどくゆがみ、ひっつかむようにしてユリウスの上半身を持ち上げ彼女の顔を両手で掴むと、強く激し
い口づけをした。彼の舌がまるで口中も犯そうとするかのように深く差し込まれ口蓋を蹂躙し、それが彼の答え
だ、もう逃れる術は無いと悟ったユリウスは目の前がすっと暗くなり、絶望のあまり全身の力が抜けてしまった。
涙が一筋流れるのと同時にはらりとその両手が彼の腕から滑り落ちて、彼女がようやく諦めた事を察したレオニ
ードは、それでも優しく扱ってやる気になど毛頭なれず、ユリウスの上体を床に横たえると、細い足首を力任せに
握り肩に担ぎ上げ、彼女が鋭く息を吸い込むのを聞きながら、ねじりこむような強引さで一気に身を沈めた。

彼女の内部の抵抗で、彼が事実に気がついた時にはもう遅かった。ユリウスは文字通り身を引き裂かれる痛み
に四肢を硬直させて絶叫し、顔をそむけた。レオニードは急いで彼女の顔を引き戻し、かすれた声で「ユリウス?」
とささやきかけたが彼女の顔は痛みとショックで蒼白にひきつれ、まぶたは固く閉ざされ決して彼を、いや何で
あれ、見る事を拒んでいた。レオニードは激しく自分を罵りながらも体は引き返せず、そのまま彼女を陵辱した。
最初は彼自身さえ痛みを覚える交合だったがやがてなめらかに身は動き出し、それはユリウスの流した血の滑り
によるものだった。だがレオニードの意識は自らの快感よりも、こわばり、背けられた彼女の表情だけを追って
いた。彼は今、自分が何か大事なものを取り返しがつかないほど傷つけ、破壊している事を意識していた。これ
だけの快感の中、体はもうこれ以上は不可能なほど彼女と深く繋がっているのに、彼女自身は固く閉ざされて彼
の手が届かないところにいるようだった。
44注) 後に加筆された部分です:2009/08/09(日) 06:31:08 ID:h2vNUIt3
彼がやや冷静さを取り戻した分、交わりは長く続き、逆にユリウスの苦しみを引き伸ばした。固い大理石の床
の上で、ユリウスはただ翻弄されていた。実際のところ男の体と行為について確たる知識を持っていなかった彼
女には、文字通り体が割られたかと思うような最初の痛みも、信じられないような痛みにもかかわらず自分の内
部がめり込むように押し込まれた男のもので押し広げられ満たされてしまう事も、それに続く抽送も、痛みの中
に時折まじり始めた不思議な感覚も、起こっている何もかもが受け入れ難い衝撃だった。自らの全てをさらされ、
踏みにじられる屈辱と絶望に耐えかねていっそ気を失う事を望み、それが無理ならむしろこの晩秋の冷え切った
大理石の床の冷たさと、それに擦られる腰骨と背中の痛みに意識を集中させていたかった。だがいつのまにか腰
にはレオニードの腕が回されていて、ささやかなその願いさえかなわなかった。やがて訪れた最後の瞬間、レオ
ニードはユリウスの上体を抱き寄せ、強く強く抱きしめた。そしてユリウスは初めて男の体が自分の中で膨張し、
弾けて精を吐く事を知り、その未知の感覚、この最後の駄目押しに思わず彼の胸板を空しく打とうとし、哀しい
叫びをあげた。その部分は自分の意思とは関わりなく、何度も跳ねるそれを包み込み、どくどくと流れる熱いも
のを痛みと、それまで知らなかった感覚で受け入れている。これはもう致命的な段階の変化だ、取り返せない、
自分は、この体はもうあらゆる意味で、今、完全に、完膚なきまでに犯され、レオニードのものになってしまっ
たと彼女は一瞬薄れ掛けた意識の中で思い知らされていた。

涙を流しながらぐったりとなってしまったユリウスをレオニードはなかば繋がったまま静かに床の上に横たえ、
血の気の失せた彼女を見つめていた。彼女はまた面を背け、両腕で顔を固く覆ってしまった。だが誰かその時の
彼の表情を見る人がいたら、果たしてどちらが傷ついた側なのか判断に迷ったかもしれない。やがて彼は腕の間
からのぞく彼女の頬の涙を親指でぐいと拭きとると身を離し、彼自身が先ほど近くに打ち捨てたユリウスの部屋
着を手に取り優しく彼女を拭いてやった。鮮やかな血の色と彼の体液に濡れたそれを無造作にまた床に投げ、面
を覆っていたユリウスの腕を静かにどけて彼はその顔を引き戻し、じっと見つめた。お互いの瞳がユリウスの涙
越しに見交わされたがそこにあるのは一種の昏い、索漠とした了解だけで、今度はレオニードがそれに耐え切れ
なくなり、彼はそっとユリウスを抱きしめた。まるで壊れ物を抱くように。それはあまりにも遅きに失していて、
既に彼らの間では何かが、今まで培ってきた何かが、これからありえたかもしれない何かが致命的に失われてい
たが、彼はそれでも彼女に触れずにはいられなかった。最初からやり直す事など叶わないとはわかっていても、
心はもう無理でもせめて体だけでも歓ばせてやりたかった。彼女の体はまだ震えていたが、彼は唇で軽くその肩に
触れた。夜はまだ長かった。
45注) 後に加筆された部分です:2009/08/09(日) 06:31:29 ID:h2vNUIt3
もう全て終わったと思ったのにレオニードが服を脱ぐ気配に、ユリウスは慄いた。なんとか体を起こそうとした
ところをそっと抱きとめられ、気がついたら彼の胸の中にいた。初めて触れる男の素肌や筋肉質の四肢が自分の
それに絡みつく感触に、先ほどの陵辱とは違った意味で彼女の感覚は混乱し、まだ力の入らない体で、なんとか
彼を押し返そうともがいた。だが長いこと冷たい床に横たわって冷え切っていた体は無条件に人肌の温もりを喜
び、肌は彼の体から伝わる熱を歓喜して求めるようだった。
だがこれからまた同じ事を繰り返されるのかとユリウスは恐れ、逃れようとあがいたが、彼の手はそっと肩から
背中、腰を優しく撫でさすってきた。それはまるで興奮しかけた馬か犬を撫でるようなさりげなさで、ユリウス
は結局動物がなだめられるように、その手の感触に身を委ねてしまった。くまなく体を密着させられた上で時間
をかけてそうされているうちに段々強張っていた肉体に血がまた巡って来るのをおぼえ、ユリウスは小さい吐息
をもらし、一瞬体の力が抜けた。何にも隔てられずに触れ合う素肌の感触は、初めてなのになぜか故郷に帰った
ような懐かしさと心地良さで彼女を覆い始めていた。彼女の体がほぐれかけた事を知ったレオニードはさらに柔
らかい触れ方に変えた。触れるかどうかの瀬戸際で全身をくまなくまさぐられ、ユリウスは嫌悪感よりもどこか
くすぐったいような、ぞくそくする感じに体が覆われ、彼の腕の中で小さく身悶えを繰り返した。さっきまであ
んなに恐ろしかった肉体にこんなにもあっさりからめとられ、肌を合わせている自分が信じられなかった。だが
彼と自分の体がからみあって互いの体から発散される熱が一種の膜を作って彼女の体を熱くし、早くも汗ばみか
けさえしていた。

彼女の表情から硬さがとれ、その体に火が点りかけていることを充分に確かめてレオニードは次の段階に移った。
彼女の全身を知りたかった。このしなやかな体の何もかも。表面の肌や爪も、隠されているあわいから生まれる
彼女の匂い、彼女が秘密にしている部分、彼女自身がまだ知らない感覚、彼女が何を悦ぶのか、弱いのはどこな
のか、彼女の内奥部がどのように息づくのか。何もかも手に入れたかった。触れられて初めて彼女は知るだろう、
肉体がいかに独自の言葉と文法をもっているか、その前では観念も理性もあまりにも無力である事を。そう、
恐らく愛すらもその前では無力だ。
この時までレオニードは本気で女を愛した事など無かったのに、ふとそんな思いが胸をよぎった。
だが彼女の肉体の滑らかさはどうだろう。女の体など結局みな同じなのに、なぜ今夜はこんなに駆り立てられて
しまうのか、彼にはどうしてもわからなかった。そして今まで何年も共にいながらなぜ彼女に触れずにこれたの
かも今となっては不思議だった。一瞬また抑制を失いかけ、彼はユリウスの美しいがまだ固さを残した乳房を掴
んだ。ユリウスが息を吸い込む気配を感じ、レオニードは己に苦笑してそっと手を緩めると、そのまま手を彼女
の背中にまわし、首筋に唇を触れた。一瞬肩をこわばらせたユリウスをなだめるようにもう片方の手で後頭部を
支えて、その重みと金髪の感触を心地良く味わいながら頭をのけぞらせると、もう一度首筋と、そして鎖骨をレ
オニードはそっと吸った。いやいやをするようにユリウスは首を振ったが、その頬は一気に紅潮した。
レオニードの熱い吐息が耳元をくすぐり、耳たぶのうしろに唇が触れた時、ユリウスは思わずぴくりとしたが、
そのまま舌が今唇が触れた部分に当てられさらに身をすくめた。そうすると胴にレオニードの腕がからまり上体
が抱き起こされて、彼の唇が胸元をこすった。
46注) 後に加筆された部分です:2009/08/09(日) 06:31:53 ID:h2vNUIt3
「あ・・・」と思わず声が漏れた時、もう片方の手が彼女の内股をそっと撫で、さっき傷つけた部分に触れた。
ユリウスははっと身を強張らせたが、彼の手はすぐ離れて腿を軽く撫で下ろすに留まって彼女を安堵させた。
だがすぐにまた唇がのど元にあてられおとがいを吸い、彼女を呻かせると身に両腕がからみつき、唇がふさがれ
た。それはひどく優しい口付けで、だが上半身はしっかりと抱きしめられてしまっているのでユリウスは逃れる
事ができず彼の唇と舌が優しく、次第に深く自分のそれを貪るのをいつしか目を閉じて受け入れ、いや味わって
いた。そうされているうちに段々と体は一層熱く、彼の唇が離れる度に彼女から漏れる吐息も浅く、早くなって
いった。時折目を開くとレオニードの瞳が先ほどとは全く違った優しさと暖かさで注がれていて、ユリウスもご
くごく間近にあるそれしか見えなくなってしまった。
やがてレオニードは抱きしめていた両腕をゆるめ、両手で彼女の顔をはさむと、また口付けし、そっと上体を倒
していった。さっきはあんなに辛かった床の冷たさが、彼女の今の熱くなった体には無性にありがたかった。
レオニードのくちづけはどんどん深いものになっていき、横たわったまま彼らは激しくくちづけを交わしていて、
彼を押し戻そうとしていた筈の彼女の両手も気がつけばいつしか彼の肩にすがりついていた。さすがに息切れし
て一瞬唇が離れ、ユリウスが吐息を漏らすと、レオニードの舌が彼女の喉を舐め下ろし、胸元まで下がっていっ
た。そして彼女の乳首が捉えられた時、ユリウスは大きく呻いた。舌で愛撫された後、優しく吸いたてられ、よ
うやく唇が離れたら舌ではじかれてまた舌と唇でついばまれ・・・その快感にユリウスは胸元からなんとか引き
離そうとレオニードの頭をつかみ、「レオニード、やめ・・・、レ・・・」と呻いたがそれはさっきの無惨な懇願
とは違い、初めて彼女の手に触れるレオニードの髪の感触と同様、二人の距離を縮めるものでしかなかった。レ
オニードは自分に触れた彼女の指の感覚に、不覚にも一瞬信じられないような幸福感と安堵感をおぼえた。そし
て舌を離して同じ部分をそっと甘噛みしてやると彼女の手に力が入り、彼女が感じている事を伝えてきた。

ユリウスの意識はいまや激しく混乱していた。あんなにも自分を傷つけた男の肉体に自分の体はこんなにもあっ
さりと屈服しようとしている。こんなにも異質な、自分とは何もかも違う身体にどこもかもがぴったりとよりそ
ってしまう。女の体ってみんなこうなのか?こんなにも簡単に抱かれた男のものになってしまうのか?時折そん
な怒りに似た自分への問いかけが心に沸き起こるのだが、それも彼が与えてくる快感にさらわれがちだった。自
分でも彼に体を開きかけているのは明らかで、あと少しで全面的に屈服してしまう予感がした。今でさえ、彼に
しがみつきそうになるのを必死の思いでこらえている。こんな浅ましい事になる位なら、最初の時のような惨さ
の方が、自分を閉ざしていられただけむしろましだった。なぜ、こんなある意味さっきよりもむごい仕打ちを彼
は自分に加えるのか。レオニードは彼を憎む自由さえ与えてくれないつもりなのだろうか。そんな言葉が脳裏を
よぎった刹那、レオニードが彼女の脇腹を軽く噛み、彼女が思わず跳ねるように身をひねり声をもらす間に、頭
を下半身へと滑らせてきた。ユリウスは最初の時の無理やり与えられた鋭い快感と指の感触を思い出し、彼の巧
みさから逃れる事意外何も考えられなくなったが、体はまるで水ででもできているように力が入らなかった。
47注) 後に加筆された部分です:2009/08/09(日) 06:32:26 ID:h2vNUIt3
膝を軽く曲げたまま開かせられた両脚の間に彼の頭が寄せられて、彼女は羞恥で死にそうだった。彼の唇が内腿
の柔らかい部分に触れ彼女をおののかせたが、恐れとは逆に膝の内側のほうに愛撫は滑っていき、一瞬彼女を安
堵させた。が、膝頭を軽くかじられて思いがけない感覚に足が撥ね、油断した分、声を上げてしまった。もう何
をどうしても無駄だった。彼が誘導する通りに自分はきっと応えられさせてしまう。こんな快感、決して望んで
などいないのに拒むことが許されない。
ついにユリウスは泣き出してしまった。輝く髪を乱れさせたまま手で自らの顔を覆い、彼女はその夜三度目の懇
願をした。「もうやめて、レオニード、お願いだから、もう、やめて。」
レオニードは、今度のこの呻きには胸の中が彼女への愛おしさや哀れみ、欲望の入り混じったもので一杯になり、
彼女の頬の涙をそっと吸い取ると耳元でささやいた。
「駄目だ。」そして心の中で続けた。欲望がどういうものなのか、お前はまだ、何も知らないのだから・・・。
そして彼女の手を取ると、泉のようになった彼女の女の部分に触れさせた。指先に触れた己の思いもよらない有
様にユリウスは熱いものに触れたように驚きの声を挙げて手を引っ込め、恥じて身を固くした。レオニードはそ
の動揺に乗じて一気に攻めに入り、それから先はユリウスはもう、彼に溶かされていくだけだった。与えられる
快感は逆に拷問のようで、羞恥のためやめることを懇願していた筈の呻きがいつのまにか「レオニード、レオニ
ード、レオ・・・」とひたすら彼の名をうわごとのように唱える、甘くかすれた呟きに、そしてむせび泣きに変
わってしまった事にさえユリウスは気づけなかった。その連呼は明らかに無意識なだけにどこまでも甘く彼の心
に浸み込んできた。同時に今まで知らなかったその甘美さこそが、自分が今弱みを持ってしまったのだという苦
い自己認識を生み、レオニードの誇りをじわりとだが、切り裂いていった。彼もまたこの夜からは地図も無く、
方位もわからないその先の世界へ歩みだしかけていた。
48名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 06:34:50 ID:h2vNUIt3
>>41続き

(12)
こうやって彼らの関係は始まった。もうかつてのような無邪気さや、夏の別荘で共有したやすらかな時間は取
り戻すことはできなかった。レオニードは抑制を振り捨ててしまった事に自棄になったかのように、もはやため
らいなくユリウスを抱き、ユリウスも何事かあきらめたのか、まるで意思を失ったように、彼を拒もうとはしな
かった。
昨年から引き続いて起こった出来事に疲弊して、彼女にはもうレオニードを憎む気力すら無かった。責めると
すればここからさっさと逃げ出すべきだったのにそうせず、敵となれあってしまった彼女自身の甘さと油断で、
今の状況は自業自得としか言いようがなかった。リュドミールとヴェーラが屋敷にいないことはせめてもの幸い
だった。ヴェーラはこのような乱脈さに眉をひそめたろうし、いくら子供でもリュドミールも何か気づかずにお
れなかったろう。
ユリウスには思いもよらない事だったが、レオニードは軍人とはいえこの時期の爛熟した上流社会の一員でも
あったので、ご他聞にもれずごく若い時に一通り以上の経験を積んでいた。いや、積まざるを得なかった。年若
くして当主となった彼はいつまでもおぼこである事は許されず、早く世間を知る必要があったのだ。
しかし無駄な才能と言ってもいい程、肉体的に女を悦ばせ征服することはなぜか彼にはあまりにも簡単で、そ
こには心が入り込む余地がないほどだった。女が喜ぶほど、彼の心は冷たく退いていくのが常だった。つまりレ
オニードは体の愛は学んだが、心の愛し方は学び損ねていた。アデールとうまくいかなかったのも結局肉の喜び
を妻に知らしめておいた一方で、妻の軽はずみな行動の数々にあっさりと彼女への興味を失ったからだった。
アデールは夫にとっての自分の存在はごく表面的な、「妻」という「立場」に過ぎない事、彼にとってまず第一
に「皇帝陛下の姪」でしか無い事を敏感に感じ取った。彼はアデール自身を求めておらず、知ろうとも思わない
のだ。彼女には侯爵夫人として、また高位軍人の妻としてふさわしい行動だけを求めていた。別にそれは政略結
婚の常として珍しい事では無い、自分も同じように割り切れればどんなに楽だったろう。だが、アデールはどう
しても夫に無関心になれなかった。夫婦でありながら愛を、夫の心も臥所も、求めて得られないなど誇り高いア
デールには、いやきっと誰にとってもたまらない羞恥と屈辱だった。だが決して口に出せないぶんその苦汁は実
に苦く、皮肉にもその屈折がいっそう夫を遠ざける結果を生んでいた。

しかしユリウスの肉体は今までの経験と全く異なる影響をレオニードにもたらした。あまりにのめりこみそう
になる自分を恐れ、そうさせる肢体を憎むかのようにレオニードはユリウスに大胆に官能の印を刻み込んでいっ
た。だが性愛が深まれば深まるほど、口に出せない分、二人の間にはやがてアレクセイ・ミハイロフの影が大き
くのしかかってきた。
ユリウスが未通娘だったことはレオニードには大きな驚きだった。男として、手付かずのユリウスを手に入れ
た喜びはもちろんあったが、寝た事もない相手をロシアまで追ってくるとは、いくら罪からの逃避という願望も
あったとはいえ、ユリウスのミハイロフへの情熱がどんなに強いものだったか改めて思い知らされる事でもあっ
た。何といってもユリウスは当時まだ17歳の少女に過ぎなかったのだ。寝ていないからこそかえって初恋の思
い出は美化されるだろう。おまけに死んでいればいつか思い出として諦めもついたろうが、相手はシベリア流刑
で、いわば琥珀に閉じ込められた昆虫のように凍結された存在だ。そう考えると幻滅される事が決してない、そ
して生きているアレクセイはやっかいな恋敵だった。
49名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 06:35:18 ID:h2vNUIt3
何と言ってもまずい事に、レオニードはユリウスの心を得る前にその場の欲望に負けて、しかも控えめに言っ
てもかなり強引な形で先に体を手に入れてしまったのだ。心と切り離された肉体の快楽を充分知っているレオニ
ードにとっては、体を手に入れたからといって即、心がついてくるわけではないという事は自分自身の体験から
も自明の理だった。体が狎れる事と愛は似ているが、違う。だからレオニードは激しい、時には驚くほど淫猥な
行為をユリウスに加えながらもこのベッドには3人目の人物がいるのではないかと感じる事があった。忘我の瞬
間どんなに強く抱きしめていてもユリウスの全てを得た気にはなれなかった。
一方でユリウスの体はレオニードの愛撫に馴らされ、そう日もたたないうちに、わずかな刺激でやすやすと快
楽の淵に追いやられるまでになっていた。深まる一方の快感はむしろ苦痛にすら思えるほどで、ユリウスは貪欲
な官能の世界をただ手を引かれるままに進むしかなかった。しかし、彼女の心が恐れに揺れるのは体がレオニー
ドに馴らされていくことでなく、彼が無意識に示す優しさにだった。どんなに淫らな事を強いられても深い部分
の彼女自身が揺らぐことはなかったが、行為や欲望とはかかわりない部分で彼の愛情の深さが垣間見える時、ユ
リウスはそれが自分を変えてしまうのではと、本当に恐ろしく、クラウスとの思い出に必死でしがみつこうとした。
だが皮肉なことにレオニードは最後までその事に気づかなかった。そして愚かにも、この時期、彼の矜持は自
身が身を屈して彼女に愛を乞う事を決して許さなかった。従って快楽の度が増すたび、彼らの関係の危うさも平
行して一層浮かび上がってくるのだった。ユリウスは決してクラウスの名を口に出さず、レオニードも臥所で彼
女を言葉で嬲る際も決して彼の事には触れなかった。どちらかが言葉にしてしまえれば、どれほど楽だったこと
だろう。
ユリウスはいまだにアレクセイ・ミハイロフの女なのか?
まだそうであり続けているのか?
今はもう、身も心もレオニードのものになっているのではないか?
しかしそれを自らにさえ問う勇気が、この頃の二人にはなかった。最初のようにユリウスの体が痣だらけになる
ような手荒な扱いは二度としなかったが、やがてレオニードの愛撫は巧みな分、まるで彼女の心を傷つける事を
望むかのように心理的には残酷さを増していった。

 そのように彼らの日々は過ぎていった。倫理観に富んだヴェーラがいれば少しは違ったかもしれないが、
リュドミールの入学が滞りなく終わった後も、邸で起こっている事を知ってか知らずかヴェーラはモスクワから
帰ってこなかった。彼女もまたクリスマスと新年はリュドミールにつきあってモスクワの邸で過ごすことを伝えてきた。
その後もなぜか彼らを放置するかのようにヴェーラはペテルスブルグの邸には戻ってこず季節は過ぎ、
また夏がやってこようとしていた。
50名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 06:35:41 ID:h2vNUIt3
突然レオニードが部屋に入ってきてユリウスは驚いて顔を上げた。彼が昼間のこんな時間に帰ってくるのは珍
しいことだった。いぶかしみながら本を置き、立ち上がったユリウスが声を挟む間もなく、レオニードは彼女の
腕をとると「来なさい」と寝台に導こうとした。昼ひなかで召使達の気配もそこらでしているのに、カーテンも
閉めない明るい部屋での行為を強いられる事に、ユリウスはさすがにたじろぎ逆らおうとしたが、例によってあ
っさりと裸に剥かれてしまった。身を覆うものもない状態で明るいまま寝台に横たえられ、ユリウスは「いや
・・・!」と顔を背けたがレオニードはかまわず彼女を見つめた。
シーツの上の白くしなやかな肉体は、他の女達のようにコルセットで締め付けて人工的なくびれを作った豊満
なものとは異なり、柳のようにしなやかで少年の持つ清らかさと女性らしい滑らかさを併せ持っていた。視線に
耐え切れず顔を覆い、羞恥にうつぶせになってしまったユリウスのしみひとつない背中のくぼみに唇を押し当て
るとレオニードはそっと手を滑らせた。そして背後から抱きかかえユリウスの耳元でささやいた。

「そんなにいやがるな。今日からしばらくペテルスブルグを離れる。当分抱かれることはないのだから我慢しろ。」
胸元にすべってきたレオニードの手に気をとられながらユリウスは思わず「え・・・?どのくらい・・・」と聞
き返した。だが「私がいなくなるのが嬉しいか?」とはぐらかされ、「・・・そうだね。あなたにおもちゃにされ
ずに・・・あっ・・・」皮肉を返そうにもやすやすとレオニードにいつもどおり渦の中に引きずり込まれ、ユリ
ウスは後はただあえぐことしかできなかった。
夏のあまりにも明るい日中での行為の恥ずかしさは逆に彼女を昂ぶらせ、レオニードの黒い瞳がいつもより、
より冷静で突き放したような表情を浮かべている事がそれに油を注いだ。突き上げられるうちに、やがて彼女は
自分の内奥に今まで知らなかった反応が生まれてくるのを感じ、恐れをなしてその感覚からなんとか逃げ出そう
とした。だがそのあがきがかえってレオニードにそれと悟らせてより追い詰められて逃げ場を無くす事となり、
やがて彼に巧みに誘導されるまま真っ白な炎に焼き尽くされるように極みに達して、そして落ちていった。

しばしのあと、「なに・・・だったの、今のは・・・」と呟いたユリウスにレオニードは(そんな事も知らなか
ったのか・・・)とその無知がかわいくいじらしく、また初めてユリウスが達したことに男としての深い満足感
をおぼえていたので、そっとユリウスの額に手を寄せ、汗をぬぐってやりながら「おまえが本当に女になったと
いうことだ」と言って額と唇に軽くキスした。
それはこの頃の彼にしては珍しい、実に恋人らしい優しい仕草だったが、ユリウスは自分はこれでまた一つク
ラウスに裏切りを重ねたのだ、なぜ裏切りはこれでもうおしまいという事は無く、次から次へと続いていくのだ
ろうと、体は先ほどの余韻にひたっていても、心の内は暗然としていた。その昏い瞳を見てユリウスの気持ちが
体の反応には寄り添ってはきていないことに気づいたレオニードは我にもなく傷つき、身を起こすと身支度を始
めた。どのみちこれは無理な寄り道で彼には本当に時間が無かったのだ。レオニードは空しさと失望でそのまま
声もかけずに部屋をでていこうとし、ユリウスは絶望にひたりながらも、それでもなぜか彼を追わねばと思った。
だが衣服をまとう間などなく、裸体にシーツを巻きつけふらつく足でなんとか立ち上がると、「レオニード!」と
叫んだ。驚いて振り返った彼に投げつけるように聞いた。
51名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 06:36:02 ID:h2vNUIt3
「・・・まだ答えを聞いてない!どのくらい帰ってこないの?」
このように自分をぶつけてくるユリウスは本当に久しぶりでレオニードはとまどった。自分の不在を喜んで聞
いているのか、惜しんで聞いているのか見当がつかない。
「長ければ・・・5ヶ月だな。早くて3ヶ月強といったところだ。」

いくら普段から不在がちとはいえ、ユリウスにとってレオニードがそんなに長いこと屋敷を空けるのは初めて
の事だった。思わず呆然とするユリウスにレオニードは一瞬声をかけそうになったが、先ほどの失望の苦い味が
まだ残っていたので何も言葉にできず、そのまま身を翻した。ユリウスはかっとして叫んだ。
「あなたはいつもそうだ!僕の全てを奪おうとする!でもそれだけだ!僕を変えて・・・僕の体を変えてしまい
ながら、それをただ冷たく見ている!あなたは僕を奪って奪ってその先一体どうしたいの?!」
これは客観的にはかなり自分の事を棚に上げた言い草だったが、ユリウスにはそれを言う権利が確かにあった。
レオニードはすでに扉の把手を握っていたが一瞬うつむいて「くそっ」と吐き捨てると、シーツにくるまってベ
ッド近くに立っているユリウスのもとまで足早に戻り、顔を触れ合わんばかりに近づけて激しい調子でささやいた。
「そうだ。私はお前を奪っている。たとえお前が私を愛していなくてもな。奪う以外に、私に一体何ができると
言うのだ・・・?」
憤怒に似た何かに満ちた表情で一気にそう言うと彼女のあごをつかんでひどく乱暴にくちづけし、今度こそ出
て行ってしまった。ユリウスは足音が遠ざかるのを聞きながら、床にへたりこみがっくりとベッドに額をつけた。
唇には血の味がした。窓から差し込む夏の光はわずかに傾いたようだった。
52名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 06:36:45 ID:h2vNUIt3
(13)
入れ違いでヴェーラがモスクワから戻ってきた。リュドミールが幼年学校の寄宿舎に入ってからのほうがヴェ
ーラには何かと手がかかる事が増えたのだ。ようやっと様々な挨拶や折衝がひと段落つき、リュドミールが学校
になじんだのを見届け、彼女はようやくペテルスブルグの屋敷に戻ってきた。どのみち兄もしばらく任務で帰れ
ないなら、ユリウスを一人で屋敷に置いておくわけにもいかない。何より、ヴェーラにはぺテルスブルグの屋敷
が一番落ち着ける場所だった。
だが、久しぶりにユリウスを見てヴェーラはショックを受けた。屋敷の者から二人の間が男女のものに変わっ
たことはそれとなく知らされていたが、それにしても1年足らずだというのに彼女の変わりようはあまりだった。
わずかに面やつれしたユリウスは同性でもぞくりとするほどの妖艶さを漂わせていた。今までの少年と言っても
通じていた中性的な透明感に代わり、肌も髪も瞳も以前とは違う艶となまめかしさをたたえて他人と見違うほど
だった。彼女はもう決して少年にも青年にも見えず、男装は逆に彼女が新しく手に入れたなまめかしさを強調し
ているだけだった。
だが何よりも悪かったのは、美しさは増していながらもユリウスがとても不幸そうに見える事だった。(お兄
様・・・彼女に何をしたの?)とヴェーラは胸の内でつぶやき、兄をけしかけるような事を言った自分の軽はず
みを心から悔いた。自分が何も言わずとも、二人は結局関係を持ったろうが・・・何も着火点になるような事を
言う必要は無かった。監禁者の愛人となってユリウスに幸福がある筈もなかった。かつてエフレムとのひどく不
幸な形で終わった恋愛を経験し、実はいまだそこから脱しきれてないヴェーラは恋のもたらす傷には敏感だった。
今までのところ、彼女の目にはユリウスは兄を嫌っているとは思えなかった。二人の間には確かに惹かれあうも
のがあった筈だ。だが、何かがひどくゆがんでいるとしか思えないユリウスの変貌ぶりだった。
本当のところは本人達以外には決してわからない類の事とは言え、兄に腹を立てたヴェーラはユリウスをせい
ぜい外に連れ出すことにした。兄の許可は得ていなかったが、社交界のうるさ型の目につく場所でなければ、ユ
リウスの事は遠縁、あるいはヴェーラの友人として通してしまえばよい。夏はまだ盛りで気候は良かった。美し
い公園や気の張らないコンサート、ヴェーラは屋敷の外に出ればユリウスのなまめかしさが薄まると言わんばか
りに、引っ張るようにして彼女を連れ歩いた。そしてそんな外出先の一つでユリウスは彼女に、アナスタシアに
再会したのだ。運命の歯車が再び大きく回りだそうとしていた。

(第一章  了)
53書斎:2009/08/09(日) 07:11:28 ID:h2vNUIt3
春なかばの明るい陽光も、もう落ちかけていた。まだあたりは春の夕方特有の柔らかい光に満ちていたが、
書斎でユリウスは本を読みかけたまま机に突っ伏していつの間にか眠ってしまっていた。髪に触れられた感触で
目を覚ますと、帰邸したレオニードが傍らに立っていた。思わずはっとして身を起こすと、彼の視線が机の上の書
物に向けられている事に気づきさらに身を固くした。それらはどれも社会主義について書かれた本だった。そもそ
もレオニードの書斎にそんなものが置いてある事自体に驚きつつも、それらを少しづつ読み進めるのが彼女の最近
の日課になっていた。

「面白かったか?」とレオニードが卓上に散らばった何冊かの本の表紙を指先でなぞって言った。ユリウスは
返事もできず黙っていた。「読みたければイスクラもあるぞ。全号とまではいかないが。どうしてもというな
らば、軍の保管庫から借りてきてやる。」ユリウスの表情はますます固くなった。
最近では、まるで抱かれる事と交換条件だったかのように、新聞や書物を自由に読むことが許されるように
なっていた。行動については相変わらず制限が厳しかったので、ヴェーラとリュドミールがいない現在、彼女
はまさにこの邸内に監禁状態となっていた。それまでの一見家族ともみまがうような扱いが結局まやかしだった。
これが本来の、このユスーポフ家における彼女の真の立場だったという事が剥き出しだった。
ヴェーラ以外にロシア語を教えてくれる人もいないので、今は辞書をひきひき自分で考えねばならなかった。
イスクラなど字面を追うのも精一杯で内容の理解などとても無理だった。使われている言葉の意味さえわから
ない。ヴェーラが帰ってくるまで家庭教師をつけてくれとはさすがに望めなかった。言えば案外叶えられた希
望かもしれないが、その代償にレオニードが何を求めてくるかが怖かった。この頃のユリウスは夜毎の褥で彼
に抱かれること。そしてその度自らの体に裏切られる事に打ちのめされ、気概や誇りというものをすっかり打
ち砕かれていた。彼に抱かれるためにのみ存在しているような毎日。今の立場では、もう誰にも、どんな人に
も会いたくなかった。

返事をしないユリウスの固さをむしろ楽しむかのようにレオニードは本を一冊手に取るとそれで彼女のあごを
くいと上げた。ユリウスは一瞬目をつぶった。まさかここで?いや、まさか。彼はここで執務を取る事も度々だ。
いくら寝室や私室でああでも、ここは彼の半ば公的な性格の空間だ。謹厳で、氷のように冷たく冷静な彼の表の顔
そのままの書斎。むしろこのあごの下に添えられた本で頬を張り飛ばされる可能性のほうが高いだろう。そう踏ん
だ矢先、ユリウスは自分の甘さをまたも思い知らされた。そのままの姿勢でレオニードは彼女の乳首をブラウスの
上からつまんでねじりあげた。
「!っつ・・・。」と思わず声を洩らし、眉を寄せてしまったユリウスの反応を楽しみながら、彼は「今日はもう
読まないなら、出した本は片付けてくれるか?」と言った。そして今ひねりあげた部分を同じその指で優しく撫で
ると、あごの下に添えていた本をユリウスに差し出すように降ろした。ユリウスは相変わらず彼の目は見ずにそれ
を受け取ると立ち上がり、机の上にあった本を集めて抱えると、書棚に行き、1冊1冊戻し始めた。しゃがんだり、
腕を伸ばす自分の姿を見つめる彼の視線を痛いほど感じた。全て戻し終え、彼のほうを振り向くと思ったとおりレ
オニードは机にもたれて足を組み、ユリウスを眺めていた。ユリウスは「戻しました。」と言ったが、不覚にも言
葉が震えてしまった。彼はそれでも黙ったまま、しばらく彼女を見つめていた。何がなし、ぞっとして何か言われ
る前にと急いでその場を去ろうとユリウスが動き出すよりも一瞬早く、レオニードが足を踏み出してきた。
あせったユリウスが逃れようとする機先を制して彼はその両手を素早く掴むと書棚に彼女の体を磔にした。
あれから彼の寝室で夜を過ごす事を命じられもう半年以上が経ち、既に数え切れないほど褥を共にしているのに、
まだ彼女の目に脅えが走った。無言でゆっくりと身が寄せられ、書棚と彼の体の間にぴったりと押さえつけられ身
動きが封じられた上で彼の唇が寄せられてきて、自分のそれがふさがれる前にユリウスは急いで顔を背けた。そし
て無駄と知りつつ呟いた。
54書斎:2009/08/09(日) 07:12:25 ID:h2vNUIt3
「こんな所で?・・・隣には誰か控えている筈では?」「そんな事が気になるのか?今更?」とレオニードは彼女
が顔を背けた分、自分の前に差し出されたも同然なその耳元に唇を寄せ、舌先で舐めた。「レオニード!」ユリウ
スは歯を食いしばってその感触に耐え、ささやいた。「からかうのはやめて。誰か来てしまう。」「私がからかって
いると思うのか?」レオニードは彼女の手を押さえ込んだまま、唇を下げるとブラウスの上から彼女の胸を吸った。
「・・・あっ・・・」その初めての、淫らがましい感触に思わず声が洩れた。そしてもう片方も同じようにされ、
ユリウスはのけぞって呻いた。唇を離したレオニードはユリウスを見つめながら言った。彼女は息をはずませ、絹
のブラウスは両胸の先端部分だけが濡れて透けていて、それはひどく扇情的な姿だった。
「からかっているのはおまえの方だろう。よくわかっているはずだ。」
ユリウスは目を見開いて聞いていた。
「私はその気になったら、お前を抱く。この邸内のどこででも、たとえそれが廊下でも階段でもな。朝、昼構わず
に、おまえを好きにする。誰が見ようが構うものか。」
もっともこれは只の脅しだった。独占欲の固まりのようなレオニードが彼女の痴態を例え召使だろうが、他の者に
さらすような事をする筈が無かった。逆にそんな事があれば彼はその誰かをどうにかしてしまったろう。昔話の暴
君のようにに目を潰してしまったかもしれない。そうとは気づけないユリウスが思わず洩らした「レオニード・・・。」
という絶望的な呟きに重ねるようにして、彼は言い足した。
「それに目下のところ、おまえの仕事はそれだけだ。そうであろう?私に抱かれる以外、おまえに他に何か出来るのか?」
「・・・!」誇りを傷つけられて瞬時に彼女の目に怒りと恥が交錯し、やがて底知れない悲しみに変わっていくの
をレオニードはじっと見ていた。この頃の彼は幻と競うことに疲れ、彼女が自分に反応を示すならそれがなんであ
ってもいいという、半ば自虐的な境地にまで達していた。

いま、幾分かの反応を引き出せた事に苦い喜びをおぼえながら彼は彼女のズボンの前立てに手を伸ばし、ボタンを
一つづつ外した。ユリウスはもう抵抗もせず、しかし彼を見ようとしないで視線をどこか遠くに向けていた。だが
前立のボタンを外し終えた彼の指が、中に潜りこんできた時には小さく息を吸い込み、身を固くして思わず足を閉
じようとした。レオニードはそれに構わず、狭い中で下着の上から彼女の亀裂を擦った。足を閉じた分、敏感な部
分への刺激も強まり、ユリウスは唇を噛み締め、眉を顰めた。その表情を見つめながら彼は下着の脇から指をこじ
入れ、その中の有様とユリウスの呻きに満足して言った。
「男の格好をしていても、おまえは骨の髄まで女だな。こんな風に、短い時間でここまでも滴っている。自分でも
わかるものか?」
「・・・。」ユリウスは歯を食いしばり、眉根を寄せて耐えていた。
「娼婦でも、なかなかいないぞ。こんなに濡れやすい女は。」
ユリウスはできる事なら耳を閉ざしたかった。そんな侮辱、それが本当の事なのかどうかなど聞ける筈は無かっ
たし、自分の体がすぐ彼に向かって開かされてしまう事は彼女の意思の及ばないところだった。だがそもそもそう
させているのはこの男でないか。急に彼女の中に怒りがこみ上げてきた。彼女はレオニードの瞳を不意に見据えた。
自分を監禁した上でいたぶり抜こうとしている下劣な男。何か侯爵だ、何がロシア帝国の軍人だ。おまえが僕を自
由に出来るのはこの体だけだ。せいぜい好きにすればいい。僕が真におまえのものになる事は無い。決して。一瞬、
彼女の瞳に火花のような反抗心が燃え上がりレオニードを瞠目させたが、すぐに消え、彼女はまた自らを遠くにお
こうとした。それを感じ取ったレオニードはそうはさせるものかと激しく彼女の乳房にむしゃぶりつき、舌で責め
ながら、彼女の秘所を指で蹂躙した。もう、どこが彼女の弱点かは知り抜いていた。無反応でいようとした彼女は
狙い通りすぐに顔をゆがめて彼を引き剥がそうとしたが、体は彼女を裏切って一度目の痙攣を示した。「・・・っ
あ・・・」と彼女が息を呑んだところで彼は指を引き抜いた。そこまで彼女に火をつけておいて、レオニードは囁いた。
「脱げ」
55書斎:2009/08/09(日) 07:13:04 ID:h2vNUIt3
ユリウスは観念して、目をつぶり、黙ってボウタイをほどいた。絹が擦れるシュッという音が妙に響いた。ボタン
は共布で包まれたクルミボタンの小さなものだったので外しにくかった。それも一列にびっしりと並んでいるから
時間がかかる。レオニードにわざと焦らしていると思われるのがいやで、手が震えた。これから彼に嬲りぬかれる
ことは明らかだった。できれば早く終わってくれ、彼女が望めるのはそれだけだった。

ブラウスのボタンをやっと全て外し終わり、胴衣の細い紐とボタンに手をかけてユリウスは一瞬ためらったが、自
棄な気持ちで事務的にさっさとそれらも外し去った。そして乱暴にブラウスを脱ぎ、床に落とすと胴衣に手をかけ
たところで、「・・・色気の無い脱ぎ方だな。」と声がかかり、レオニードが身を寄せるとユリウスを挟むようにし
て書棚に手をつき、ささやいた。彼女の手をとって自らの口に指先を入れ、少しねぶるとそれを彼女の乳房にあて
させておいて、残ったズボンのボタンを外すとそれは床に落ちた。もう彼女がまとっているのは前を開けた胴衣と
下穿きだけで、この謹厳な書斎にはひどく似つかわしくない眺めだった。そのまま激しく愛撫しながら彼は言った。

「・・・皮肉なものだな。おまえが嫌がるほど私は駆り立てられ、おまえの体も燃えてくる。わざとなのか?それ
がおまえの手口か?」
「わからない・・・。なぜ、あなたがそんなにも僕を蔑み、傷つけようとするのか・・・。娼婦みたいに扱われる
のは、僕が望んだことではないのに・・・。」
これは否応無くひきだされてしまう官能上の反応以外には、ほとんど自分というものを見せなくなってしまった彼
女の、血を吐くような呟きだった。だがレオニードはその言葉の意味をあえて胸中に浸み込ませず、彼女の髪を掴
むとぐいとひっぱって仰向かせた。そしてその瞳を覗き込みながら心の中で呟いた。娼婦?おまえは娼婦がどんな
ことをさせられるのか知っているのか?もしおまえが娼婦なら、とてもこんな事ではすまぬのだぞ。
いっそ本当に最下級の娼婦のように扱って、己に奉仕させてやろうかと怒りに駆り立てられ暗い欲望が一瞬胸をよ
ぎったが、さすがに実行はしなかった。

一時の鬱憤晴らしにはなるかもしれないが、後味の悪さで自らが苛まれ、さらに距離が広がるに過ぎないことは
既にいやというほど学習済みだった。
そんな彼の逡巡を知ってか知らずか、ユリウスは苦しい姿勢で仰向けにされたまま、どこか空ろな瞳になっていた。
ユリウス、何を見ているのだ?私でないことだけは確かだなとレオニードは胸の内で呟いた。こいつはこの私の書
斎で奴の奉じる主義思想を学ぼうとしている。彼女の中身は全然変わっていない。

「この書斎でおまえが記憶を取戻した時」
ユリウスの片足を持ち上げ、自らの腰に巻きつけるようにしてレオニードは言った。
「あの時、正直私はおまえに刺されると思った。」
彼の言葉に驚いてユリウスは声も無かった。そこへ下から押し広げられ、彼が侵入してきて彼女は顔をのけぞらし、
呻いた。「つかまれ」と言ってレオニードは彼女の腕を首にまわさせ、彼女の腰を持ち上げて、したたかに打ちつけた。
「あの時私を刺しておけば、」とレオニードは深く貫きながら言った。
「いま、こんな目には合わずに済んだであろうに。」
彼のものが奥まで当たって、ユリウスは悲鳴に似た叫びをあげた。
「いい声だ。ロストフスキーも呆れているだろうな。丸聞こえだろう。」
では今日の護衛は彼なのか。誰に聞かれても屈辱的な事に変わりは無いはずだったが、あの冷やりとした副官だと
思うと余計に辱められている気がした。レオニードに何をされても声も立てず、何の反応も示せなくなれれば!
なぜ彼がこんなに簡単に自分に火をつけてしまう事ができるのか、彼が言うように自分の体が娼婦よりも下等に
できているのか、レオニードにしがみつきながらユリウスは彼のものにえぐられ、打ち据えられながら自分の中から
液がしたたりもれ、内股を濡らすのを感じていた。どこかから聞こえてくるあられも無い声が自分のものだとは
信じられなかった。お願い早く終わって、いや終わらないで、いまこの瞬間、自分の望みもわからない彼女にできるのは
ただレオニードにしがみつく事だけだった。

その後二人は着替えて何食わぬ顔で晩餐につき、長いテーブルで一言も口をきかずに、食事をとった。贅をつくし
た料理でも、彼らの口には何の味もしなかったろう。侯爵家の料理長は腕のふるいがいが無い事だった。
56書斎:2009/08/09(日) 07:13:46 ID:h2vNUIt3
その夜、眠っているユリウスをレオニードは傍らで頬杖をついて見つめていた。行為の後、彼女はだいたい身を
少し離して、顔を背けて眠ろうとする。それを彼が無理に引き寄せて眠ってしまうことのほうが多いが、そのまま
好きにさせている時もある。だが彼女は気づいているだろうか?そんな場合でもふと目を覚ますと彼女はそっとよ
りそってきて身を添わすようにして眠っている。今も彼のほうを向いてなかば手を伸ばすような姿勢で静かな寝息
をたてている。(かわいい奴だ。)そんな素直な思いで飽かず眺めていた。そうやってやすらかな寝顔を見つめてい
ると、彼女が天使だと簡単に思い込めそうだった。彼女にとっては不運なことに、彼の手の中に落ちてきた天使。
だがもちろん彼女は只の女で、その頭も心の中も、人間ならではの愛憎や計算で充たされている。彼女が寝言を言
わないタイプだったのは助かった。もしも奴の名でも呟かれようものなら、自分は何をするかわからない。だがこ
うやって無意識にこちらを向いて眠っているのだから、少なくとも体の繋がりだけは確保できているのだろう。彼
女がどんなに自分を疎んじようとも、彼は絶対に共に眠る事を放棄するつもりは無かった。これは結婚後早々に褥
を別にされたアデールが知ればさぞ傷ついた事だろうが、彼の胸にはそんな事はちらりとも浮かばなかった。
しかし起きている間、どうしたら彼女をこちらに向かせることができるかがわからなかった。無邪気な顔で眠っ
ているこの女をどうすればいいのか。正確に言うと、自分が彼女に何を望んでいるかさえ、彼はよくわかっていな
かった。それがわかっていれば答も対処法もひどく単純なことだったのに、この時期のレオニードはそれを掴むこ
とができず、もどかしい思いで愚かな仕打ちを続けていた。だが彼女の寝息を聞き、その寝顔を眺めているとひど
くやすらかな気持ちが広がってきて、彼はそっとその腰に手をまわすと自分も眠る事にした。これ以上見つめてい
ると、身勝手な欲望でまた彼女を起こしてしまいそうだった。

そのしばらく後、ユリウスはふと目をさました。レオニードの規則正しい寝息と胸の上下で彼が本当に眠っている
事を確認して、彼女はその寝顔を見つめた。眠っているさなかでも彼の腕は彼女の腰にまわされていた。
 レオニードが眠っている時だけは、ユリウスはおそれなく彼を見つめることができる。やや日に灼けて浅黒い、
彫りの深い顔。あの炯炯とした黒い瞳は今は瞼の下だ。眠っている時の彼はとても若く、端正に見える。
思わずふっと笑みが浮かび、そして次の瞬間ひどく苦い思いがこみ上げてきた。この男を憎むことができたら。
心の底から疎んじることができたら。意識から完全に切り離すことができたら。彼に抱かれても無感覚でいること
ができたら。彼が自分の体を滅茶苦茶にしてしまう前の関係に戻る事ができたら。
・・・そうなったらどうだと言うのか?結局皇帝の命のもと監禁されている身とその監視者という立場に変わりは
無いというのに。大体元の関係になど戻れる筈も無かった。少なくとも彼が僕に飽きるまでは。彼は愛など口にし
ないで僕を抱く。人が嘘でも相手を喜ばすべく言うような誓いもない。ことに最近はまるでおまえは私の只の欲望
のはけ口だとでも念押ししたいかのように、口にするのは皮肉や僕を傷つけるためにわざわざ選んだような言葉ば
かりだ。なぜかわからないが、いつの間にか関係はすっかりこじれてしまっていた。うまくやっていきたいなどと
は思うわけではないけれど。だが彼は自分のもとになぜか帰ってくる。体に飽きるまでの事かもしれない。自邸に
女がいるのが手軽だというだけかもしれない。でも彼は僕を掴まえておこうとしている。手の内から逃さないと彼
の瞳は言っている。僕は彼の瞳を見るのがこわい。あまりにもまっすぐに僕を求めてくる。いつまでもこんな関係
が続く筈は無いとわかっていても、僕は彼が怖い。何も誓わない男にどんどん変えられていきそうで怖い。
57書斎:2009/08/09(日) 07:15:06 ID:h2vNUIt3
(クラウスは連れていくと誓い、そして僕を捨てた。それも一度ならず。)
そんな苦い思いがこみ上げてきて彼女はため息をもらすまいと唇を噛んだ。だが瞳からは涙がこぼれ落ち、彼女は
レオニードを起こさないようにそっと顔をうつぶせにして、敷布にそれが吸い込まれるのに任せた。考えるまでも
なくどちらの男もたいがいだった。自由を奪い、女を意のままにしようとする男と、愛を誓いつつ同じその手で振
り捨てていく男。そして傍らにいるのは一方だけだった。
(だがそれは愛ではない。)静かな声が自分に告げた。
(たとえ拒まれても、おまえが求めずにいられないのはどちらだ?)
その時彼の手が頭におかれてユリウスははっとした。咄嗟に寝ている振りをしようと身動きせずにいるとその手が
そっと髪を撫でてやわらかく彼女を引き寄せた。一瞬、今考えていた全てが彼に伝わっていて、その罰を受けるの
かと非現実的な恐れを感じて彼女は脅えたが、レオニードは彼女の髪に顔を埋めてそのまま又眠ってしまった。
ユリウスはその寝息に安堵し、彼の胸に頬をよせてその鼓動を聞いているうちにいつもの安心感に包まれて先ほど
の問いかけも忘れ、いつしか深い眠りに引きずり込まれていった。
眠っている時だけは、彼らは自意識から解放され幸福な恋人同士の姿をしていた。



書斎 終
581910年晩秋:2009/08/09(日) 07:26:54 ID:h2vNUIt3
雲がすごい勢いで奔っていった。もう秋も終わりだ。目の前に広がる原野はただ荒涼としていた。どこまでも見
晴らしが良すぎて、ここで野戦をすればかえって膠着状態に陥りそうだ。もっともここまで敵を迎え入れるなど
あってはならない事だが。(だが備えは必要だ。)レオニードは背後にいる技師長に振り返って「どうだ。」と問い
かけた。「3、4日はかかると思います。」
「わかった。焦る事は無い。」そう答えて後は技師達に任せ、彼はその足で廃屋に入った。かつてはこの地方の地
主の館だったものだが、数年前に頻発した暴動の一つで略奪され今は打ち捨てられていた。近くの集落にも誰も
いない。だが幸い雨風がしのげる程度の部屋は残っており、技師達の作業スペースはここで十分まかなえそうだった。

荒れた廊下を通り半ば破れた扉を開いて、元はサロンらしき部屋に入ったレオニードはある物を見て足を止めた。
窓は破られ、壁紙は垂れ下がり、残された家具は破壊されるか打ち倒されている。どの部屋も似たり寄ったりだ
ったが、彼の足を止めさせたのは、中央に残されたグランドピアノだった。破れた窓から入る黄金色の光の筋が
埃の粒子を輝かせながらピアノに射していた。近づいてみると内部は無残に壊されていた。全て破壊するには大
きすぎると思われたのかもしれない。鍵盤にそっとふれてみると意外な事に音を出した。だがそれは鈍いくせに
ひどく狂った音階だった。

レオニードは一瞬、目の前にあの金色の髪がゆらいだような気がした。今回のこの長い任務は将来のドイツとの
対戦に備えたものだ。それがいつかはわからないが。2年後、5年後、10年後。その時は必ずやってくる。彼女
は敵国の内部にいながらにして故国との戦いを見せつけられるわけだ。だが。

(それが何だ。)自分の中でそう言う声がした。その捨て鉢な響きを厭い、レオニードは手の甲で鍵盤を払った。
無様で狂った不協和音が鳴った。
こんな所に来てまで。
彼は一瞬目を閉じ、妄念を振り払った。為すべき事、検討すべき事は文字通り山のようにある。(助かることに。) 
またそんな皮肉な声を聞き、さすがに苦笑して彼は扉のほうに向き直った。その拍子に不用意に左手の先が鍵盤
にふれ、突然明瞭な音が鳴り響いた。たった一音の美しい音。それに不意打ちにされ、その残響が消えてもなお
レオニードは虚ろな部屋に立ち尽くしていた。


59名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:30:10 ID:h2vNUIt3
>>52から続く

第二章
(1)
アナスタシアはその一瞬の微妙な空気に自分が何かの核心に触れた気がしたが、
深追いせず話題をずらした。
「ユリウス、あなたはリュドミール様にピアノを教えておいでだったとか。」
「ええ・・・。そう大したことはできなかったけれど。」
「あら、そうでも無いのよ。リュドミールは私達上の兄姉と違って
なかなか才能があったらしいわ。もっとも、きっとそれは先生が良かったのね。」
「まあ・・・。私もぜひ一度あなたのピアノを聞かせていただきたいわ。」
ユリウスは複雑な気持ちでアナスタシアの言葉を社交辞令として受け流そうとしたが、
アナスタシアは早くも立ち上がってピアノの方へ歩いていった。
ユリウスは本当に固辞しようとしたが、折悪く執事が入ってくると何事か
ヴェーラにささやき、彼女は顔色を微妙に変えて
「アナスタシア、ごめんなさい、内向きの事で少しだけ外させていただくわ。
ユリウス申し訳ないけれどアナスタシアのお相手をお願いね。」
と言うと急いで執事とサロンを出て行った。
そういう展開では、ユリウスはピアノの傍らで待つアナスタシアのもとへ
行くしかなかった。

「何を弾きましょう?」
「そうね・・・。ショパンはどうかしら?」
「では     を。」
アナスタシアは流れ出したユリウスの調べに耳を傾けた。
彼女が予想したよりもユリウスは「弾き手」だった。
(これは・・・。使えるわ。)と判断し、演奏するユリウスのすぐ傍らにそっと腰を下ろした。驚いて弾くのを止めかけたユリウスの耳もとに触れんばかりに唇を寄せ、アナスタシアはささやいた。彼女のつけている百合の香りがふわりとユリウスをつつんだ。
「お願い、弾き続けて。そして弾きながら私の話を聞いて頂戴。」

以前、私達がお会いした時にお話しした事をおぼえていらっしゃるかしら?
もちろん先だってでなく、5年前の馬車の中での事よ。

ユリウスはピアノを弾く手が震えそうになるのを必死でおさえた。
アナスタシアはその顔色を見つめながら言葉を継いだ。

あの時私は言ったわ。私達はアレクセイの力になれる日を待とうって。
でもあの後続いた出来事のせいで、答えてはいただけなかった。
今、もし同じ事をお尋ねしたらあなたは何て答えてくださるかしら?
今のあなたのアレクセイへのお気持ちは?

今度こそユリウスは指を止めてしまった。
アナスタシアは再びユリウスの耳もとでささやいた。「続けて。」
「僕の・・・気持ち。」指を鍵盤に走らせながら呆然とユリウスはつぶやいた。仲間が言う通り危険な賭けだったが、アナスタシアは自分の直感を信じた。
「アレクセイ・ミハイロフを脱走させる計画があるのよ。」
その言葉は澄明な稲妻となってユリウスを貫いた。
60名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:31:09 ID:h2vNUIt3
私はアレクセイにとってはなんでもない只の幼馴染だわ。
でもあなたもご存知のように私は彼を恋い慕っていた。
だからあの後、革命派に近づいたの。少しでも彼を理解したくって・・・。
そして今はその思想そのものに心から共鳴して、この国に革命を起こすことは
アレクセイに近づくための手段ではなく、私自身の人生を投じて悔いの無い、
生きる目的となった。
だからあなたにどうしてもアレクセイを救出する手助けをしていただきたいの。
彼はこの革命に、このロシアの未来に必要な人物なのよ。
お願い、あなたは革命の事もこの国の問題点も何もおわかりでないかもしれない、
でも彼を愛してらっしゃるのでしょう?革命のためでなくていいの、
愛のために協力してちょうだい。
これはユスーポフ家にいる、あなたにしかできない事なのよ。

(僕がクラウスのためにできることがある・・・!)
ユリウスはようやく濃い霧の中から抜け出て、突然視界が開ける思いだった。
冷たく清潔な空気を吸ったように頭が冴え、周囲の何もかもが明瞭に見え始めた。
ユリウスは鍵盤に烈しく指を走らせながら傍らのアナスタシアを見つめ、言った。

「ありがとう、アナスタシア。時間は過ぎてしまったけれど、いま、
やっと5年前の質問にお答えできます。僕の答えは「ええ」です。」
アナスタシアもユリウスを見つめ返し、うなずいた。
静かだが、固い決意のもとで二人はしばらく無言になり、
ユリウスは演奏を続けた。ちょうど曲が終わる頃、ヴェーラがサロンに戻ってきた。
61名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:33:00 ID:h2vNUIt3
「ごめんなさいね、アナスタシア。
このあたりも最近物騒になったようで、憲兵に強引に面会を求められてしまっていたの。
でもたいした事もなかったわ。」
「まあ、最近の彼らの権高さは本当に失礼ね。でもこちらはお気になさらないで。
いま、ちょうどユリウスのピアノを聴かせていただいてたの。彼女の演奏は素晴らしいわ。」
「私もいつもそう思ってたのだけど、何せユスーポフ家は芸術的趣向には欠けた血筋ですからね。
あなたがそう仰るのなら、私も自分の耳に自信がもてるわ。悪いわね、ユリウス、頼りない聴衆しかここにはいなくて。」
そこでアナスタシアは他意のなさを装って言った。
「ヴェーラ、唐突なお願いで申し訳ないのだけど、ユリウスさえ良ければ少し私のお手伝いをしていただきたけないかしら。」
思いもかけない言葉にヴェーラは驚いた。ユリウスも驚いた顔でアナスタシアを見た。
「実は来年の春から初めてのヨーロッパ公演旅行が決まっているの。
最初はフランス、成功すれば、他の国へ年をあらためてでも広げる予定でいるわ。
それであちらのピアニストと競演するのだけれど、こちらでの練習相手が急に病気になってしまって・・・。
あまり時間も無いのに、感覚や技術の合う方を探すのは大変で困っていたのよ。
人は沢山いるようで、なかなか難しいものね・・・。
それで今、ユリウスの演奏を聴かせていただいて、私のヴァイオリンとぜひ合わせてみたくって。
どうかしら、ユリウス、ヴェーラ。」
ヴェーラは驚いて少し黙っていたが、ユリウスの方を振り向いて言った。
「確かに急なお話だけど・・・。ユリウス、あなたの気持ちはどうなのかしら?」
「・・・僕なんかの腕前でもし役に立つのなら・・・。」
「ごめんなさい、こんな急な申し出なんてユリウスにもユスーポフ家にも本当に失礼だと思うのだけど・・・。
とにかく時間が無くって・・・。そうしていただけると私は本当に助かるの。」
ヴェーラはしばし黙考した。レオニードがいたら決して許さない話だろう。
だが、久し振りにユリウスの表情に生気が宿っているのを見ると、ヴェーラはそれを圧殺するのは忍びなかったし、
ただでさえ兄には腹を立てていた。この事が知れたら、軽はずみな決断と兄からは叱られるだろうが、
ヴェーラはユリウスが彼女らしさが取り戻すためには、わずかでも自由と自信が必要だと思った。
「そうね・・・。あなた達本人がそう望むのなら・・・。でも申し訳無いけれどあまり長くは・・・。
リュドミールが帰ってくるクリスマス休暇までというのはいかがかしら?兄もその頃には戻ってくる筈だわ。
それまでに、アナスタシア、ユリウスと練習しながら他の方を探していただくというわけにはいかない?
ごめんなさいね、兄は家の者の行動にはなかなか厳しいのよ。」
(つまりユスーポフ候が不在の間のみという事ね・・・)とアナスタシアは察しをつけた。
ユリウスは床に目を落としていた。
(まさか・・・いえ、今、そんな事を詮索するべきではないわ。
それにユスーポフ候に何か感づかれるような事があっては全てが水の泡なのだし欲張ってはいけない。)
「それでも、助かるわ。ユリウス、それであなたは良くって・・・?」
「ええ、あなたさえよければ。それで僕がお力になれれば。」
アナスタシアは早速明日自ら迎えに来ることを告げて帰っていった。
ヴェーラは「急な話だったけど・・・大丈夫?」とユリウスを気遣った。
言外に様々な意味が含まれていることを承知でユリウスは答えた。
「うん・・・。わかってる。クリコフスカヤ嬢にもユスーポフ家にも迷惑をかけないように気をつけるよ。
でも自分でも練習しなくてはいけないから、きっとしばらくはやかましくしてしまう。ごめんなさい。」
「いいのよ。どうせ私達しかいないのだから。」
早速鍵盤に指を走らせるユリウスに微笑んでヴェーラはサロンを去っていった。
この時点ではヴェーラはユリウスとアナスタシアの思惑に全く気づいておらず、
(兄上には帰ってこられてから事後報告という形にしよう・・・)と彼女は算段していた。
62名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:33:25 ID:h2vNUIt3
約束通り、アナスタシアは翌日ユリウスを迎えに来、練習場所でもある彼女の邸へ連れて行った。
ヴェーラは遅ればせながら、芸術家が集まるというアナスタシアの社交サロンにはユリウスを引き入れないよう、
さりげなく釘を刺した。
いまだに理由はわからないとはいえ皇帝陛下からの預かり者で、今は兄の愛人でもあるユリウスを
あまり人目に曝すわけにはいかなかった。
アナスタシアもヴェーラとは違う思惑でそれを承知した。芸術家仲間のふりをしていても彼らは全員革命家だ。
万が一露見した場合、ユリウスと彼らはお互いを知らないに越した事は無かった。

ユリウスは初めて訪れたアナスタシアの邸宅の音楽室で彼女と向かい合っていた。
彼女は夫の急死の後も実家には戻らず、夫の残した邸宅に住まい、音楽活動の拠点としていた。
行きの車の中では彼女達の会話は当たり障りのないものに終始していた。
アナスタシアの邸のかいわいは、ユリウスが初めて訪れる場所だったが、
もっともそれを言えばこの街に4年以上いてもユリウスはどこも知らないも同然で、
自分がいかに無為に過ごしてきたかを、あらためて思い知らされた。
アナスタシアは時間を無駄にせず、二人きりになった所で早々に口火を切った。

「ユリウス、手短に言うわね。
私達はここ数年、アレクセイ・ミハイロフの脱獄計画を進めていて、
それはかなりいいところまで来ているの。
シベリアの監獄と言ってもその厳しさはまちまちで中には随分警備のゆるいところもあって、
幸運にもそういった監獄に収容された囚人達は結構やすやすと脱獄・亡命しているのよ。
でもアレクセイは終身刑だけあって、警備も囚人の扱いも最も厳しい監獄に収監されているの。
そこは存命率もたいへん低いところで、私達はもっと早く彼を出したかったのだけれども、
それだけ失敗は許されない場所だから準備に時間がかかってしまった。
そしてもしかしたら、まだ計画のどこかには穴があるかもしれない。
だからあなたに再会できた事は私達にとってとても幸運な事だったわ。
なぜなら、あなたがレオニード・ユスーポフ候の邸にいるという事は、軍部の機密にとても近いところにいるという事なのよ。
例えば彼ほどの高位の軍人ともなれば、軍からの報告書(もちろん暗号化されたものだわ)が
彼の不在中も自邸に届けられている筈だわ。帝国的なお役所仕事ってところね。
私達はそれをぜひとも手に入れたいの。あなた心当たりはおありでない?」
「毎日、そんな書類が来ていたなんて気が付かなかった・・・。気をつけてみる。
・・・でも、アナスタシア、これはこの期に及んで言うことではないけれど。」
ユリウスは少しためらった。
「何?気になることがあれば言ってくださらないと。」
「今回の事でユスーポフ家の人々に危害が加えられるような事はないね?」
言った途端、ユリウスは自分がひどく愚かだと思った。アナスタシアは黙って相手を見つめた。
ユリウスは革命家ではない。アナスタシア達の活動の持つ呵責無さを知らないだろう。
それはアナスタシア自身いまだにたじろぎを覚える事もある程だった。
だがあまりにも赤裸々な事実を伝えてユリウスが翻意するのは避けねばならなかったし、
その一方で甘言で欺くような事もアナスタシアにはできなかった。
アナスタシアは言った。
「あなたは私達の活動がどのようなものかまだおわかりにはなっていないでしょうね。」
63名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:33:46 ID:h2vNUIt3
ユリウスはそれが質問への答えかと思い、自らの甘さを恥じた。だがアナスタシアは言葉を続けた。
「でもその件に関しては安心なさって。私も友人を傷つけるような事はしたくないわ。
あなたにご協力いただいて私達が得ようとしている情報は、直接的に誰かを襲うためのものではない。
言わば情報を繋ぎ合わせて物事の裏やつながりを見つけ、情勢を読み取って私達の作戦の危険や失敗を避けるために必要な、
いわば大局的なものなのよ。」
万が一今回の件が発覚すれば、ユスーポフ家は面目と名誉を失い恥辱にまみれるだろうが、その事には触れなかった。
「でもユリウス、これは言っておきたいわ。私達以外にも革命派には様々な勢力があるの。
そしてユスーポフ候はその多くから憎まれているでしょうね。必ずしもリストの上位にいるとは言えないけれど、
彼はいつ暗殺の憂き目にあってもおかしくは無いし、自分でもその事は承知だと思うわ。
だから、彼の身に何も起こらないと私が保証する事は意味が無いのよ。」
ユリウスはその言葉に少なからずショックを受けたが、堪えた。どのみち自分は既にクラウスを選び、
一歩を踏み出したのだ。レオニードの身を気遣うのはいわば二重の裏切り行為だ。
「わかったよ。僕の言った事は忘れて。」
アナスタシアはユリウスの表情を慎重に見つめて、言った。
「話を戻しましょう。先ほどの報告書のことだけれど、まずはどのような形で運び込まれているか、
そして保管されているかまでをとりあえずは探ってくださる?
怪しまれないように、決して表立って何かをなさらないで。」
ユリウスは頷いた。アナスタシアは微笑むと、「では音あわせに入りましょう。」と言った。
ユリウスは「え・・・」と驚いた顔をした。アナスタシアは、
「つまらぬ事から秘密は漏れるものよ。避けれる危険なら手間は惜しんではいけないわ。
それに本当にあなたとは音を合わせてみたかったの。」と言うと、傍らのケースからストラディヴァリを取り出した。

 ユリウスは息が止まる思いで、顔色を変えた。
「アナスタシア・・・。これは・・・。」
アナスタシアもユリウスの動揺から察し、優しく言った。
「・・・おわかりになるのね、これがあの人の縁のものという事が。」
「ロシアに来て暴動に巻き込まれた時・・・このストラディヴァリとは別れ別れになってしまった・・・。
もう二度と目にする事はあきらめていたのだけれど・・・。よかった・・・。
クラウスを愛する人のところにいってたんだね・・・。」
その言葉にはアナスタシアも驚いた。
「そう・・・。これをロシアに持ち帰ってくださったのはあなただったの・・・。
なんて・・・なんて不思議なんでしょう・・・。」
(いけない・・・ここで泣いては)と思いつつ、ユリウスは涙を抑える事ができなかった。
(どこかであきらめてた・・・。奇跡なんて起こらないって。でもこうやって・・・!
あきらめちゃいけない。僕はもう、決してあきらめまい。
この先何が起ころうと、クラウスを愛し続ける事だけは僕はもう何があっても手放さない・・・!)
アナスタシアはそんなユリウスを見て、先ほどおぼえた危惧は杞憂だったと知った。
彼女は命に代えても任務を遂行するだろう。

 帰路は一人で車で送られながら、ユリウスは決意を固めていた。
彼女の中でこの数年のユスーポフ家での係累は既に無に等しくなっていた。これからは戦いが始まる。
クラウスのために僕は悪魔にでもなるだろう。思えばもともと魂など既に売り渡したも同然の自分ではなかったか。
何もためらわせる物は無い筈だった。
車が静かにユスーポフ家の門内に滑り込んだ時、ユリウスはこの豪壮な邸宅に初めて訪れるような身震いと戦慄を感じた。
64名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:35:24 ID:h2vNUIt3
(2)
一方でヴェーラにもこの頃思いがけない変化が訪れようとしていた。
彼女がその画廊に入ったのは全くの偶然だった。ユリウスはアナスタシアのもとへ行っており、ヴェーラは護
衛を伴って大叔母の誕生祝の品を注文に宝飾店街にでかけた。久しぶりに一人で少しぶらついてみたくなり静か
なそのかいわいを歩いているうちに雨が降られ、急いでたまたま開いていた画廊に駆け込んだのだ。他の画廊と
は違う、窓が大きくとられて装飾も少ない簡素な内装に一瞬とまどったが、壁にかかっている絵にはさらに驚か
された。
荒々しい原色の静物画らしきもの、古典的な遠近感や詩情が全く感じられない奇妙な(としか思えない)風景
画・・・。ひどくゆがんだ人物像。まるで幼い子供が書きなぐったといってもいいような代物の数々だった。だ
が、ヴェーラはなぜか引き寄せられるように歩み寄り、それらの一つ一つにじっと眺めいってしまった。
「美しいでしょう?」
振り返るとあまり背の高くない、人の良さそうな中年男が髭に埋もれた顔でにこにこと立っていた。
「あ・・・、ごめんなさい、予約もなしに失礼を。正直に申し上げて、わたくし雨宿りに入らせていただいたの
です。」と一緒に入ったものの所在なげにしている護衛も指し示して、ヴェーラは微笑んだ。「いえいえもちろん
結構ですとも。この雨のおかげで、美しいマドモアゼルがこの絵と出会えたのですから、私にとっては恵みの雨
です。」
「あなたがこの画廊のご主人?」
「オーナーです。販売や管理は別の者がおります。でもこの通り、入りびたり気味なので、私はむしろ商売の邪
魔ですな。どうです、あなたはこのような絵を見られたことはおありですか?」
「我が家で先祖がせっせと集めたものとはだいぶ違いますわね。」とヴェーラもこの男が(自分よりは少々年配だ
ったが、少年のような純真さを立ち上らせて憎めない感じだった。)きらきらと目を輝かせて絵を指し示すのにつ
られて、悪気無く、笑いながら正直に答えた。「なんと言ったらいいのかしら・・・、ええ、こんなものを見るの
は初めてですわ。以前見た印象派とかいう画風のものともすいぶん違いますし・・・。これも絵・・・で売り物
なのですか?」
「ええ、そうですとも!というより、私はすっかりこの画家達のとりこで、ほれこんでしまっているのです。彼
らのアトリエがあるパリに行ってはせっせと買い集めるものですから、いまや屋敷の壁もすっかり占領されて、
もう掛ける場所がなくなってしまった。だからこのように画廊を開き、入りきらないものをここで掛けているの
ですね。」
「まあ・・・」とヴェーラが少々あっけにとられているところへ構わず、その男は続けた。
「というのは半分は嘘で、私はこの絵を、この新しい芸術をロシアの人々に、沢山の人々に見て欲しいのです。
ことに芸術家をめざす若者にね。いま、どんなにものすごい変革が芸術の世界でも起ころうとしているかを、ロ
シアの心ある若者達にこの天才達の作品を見て、知って、感じて、ゆさぶられてほしいのです。私は正直、本当
は売る気などほとんど無いのですよ。ただ、屋敷に招ける人はどうしても限られてしまいますからね。美術館の
アカデミーは頭が固くて、この新しさを理解できない。だが、こうやって街中の画廊なら、誰もが気軽に見る事
ができるでしょう?そう、今日のあなたのように、雨のおかげで美しいマドモアゼルに予期せぬ出会いが起きた
ように。」
65名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:35:45 ID:h2vNUIt3
「ではあなたは、これらが本当に新しい芸術だと確信してらっしゃるのね?」ヴェーラは彼女としたことが、男
の熱情に圧倒されながらも、正直に尋ねた。
「もちろんですとも!あなたも一目見て、おわかりになったでしょう?いやいや否定されても駄目ですよ。私は、
同族をすぐかぎ当てるんです。絵をごらんになった姿を見ただけで、私にはわかるんですよ。魅入られる人と、
そうでない人が。」



ヴェーラは降参して、笑った。
「・・・そう・・・なのかしら?魅入られたのかしら?確かに目を離せませんでした。でも今は絵よりもあなた
の演説に圧倒されてますわ。」
「おお、これは失礼しました。ついつい、このフォービズムの作家達の事となると私は」
「フォービズム?」
「最初からご説明しますよ。どうぞおかけになってください。ああ、私としたことが、いまお茶をご用意します
から。」

急に降り出したにも関わらず雨はなかなか上がらず、ヴェーラはそれを自分への言い訳に、男の講義と解説を
しごく楽しく聞いていた。護衛は退屈な画廊で長滞在と諦め、画廊のオーナーも危険性は無さそうだったので急
いで車を停めた宝飾店まで戻り画廊まで車を動かさせた。話しているうちに、お互いの身元も教えあった。ヴェ
ーラは簡素にしていても見るからに上流階級の令嬢だったので男もある程度の予想はしていたが、ユスーポフ家
と聞いて、さすがに少し驚きの顔を見せた。男の名はシチューキン、繊維業で財をなした一家でヴェーラもその
名は知っているほどロシア有数の金持ちだったが、階級が違うので二人の世界はいままで全く交わっていなかっ
た。
「おお・・・。ユスーポフ家のご令嬢をこんなにおひきとめしてしまったとは。」と、シチューキンは恐縮してみ
せたが、彼にとってはヴェーラが先ほどからマティスの小さな静物画のほうをちらちら気にしているほうが問題
事だった。

人がある芸術に惹かれる時、その人の人生の問題事を関連して考えて良いものだろうか?だがヴェーラが家族
の解決のつきそうにない問題に頭を悩ませていたのは確かで、そんな中、シチューキンがさんざん迷った挙句「貸
して」くれたマティスの一見単純な形と色の小さな静物画は、ヴェーラの心をひどく慰めてくれたのだった。彼
はその代わり、ぜひ今度は屋敷のほうに来て欲しいと誘った、いや懇願した。こことは比べ物にならないコレク
ションが置いてある。ここにはゴーギャンもピカソも置いてない。セザンヌも大きすぎて持ってこれなかった。
そうだ、ここには大きすぎたといえば、なんといってもマティスの最高傑作(にきっとなるだろう)をあなたにお
見せしないわけにはいかない・・・!
この熱心な誘いは性的にも、社会的にも、あらゆる意味で全く下心が無かった。あえて言えば宗教的な熱情に近
く、一種の布教活動の趣さえあった。ヴェーラは思い出しくすりと笑った。モスクワから帰って以来、初めての
純粋に楽しい時間をあの男と「フォーヴィズム」の画家達は与えてくれた。感謝しなくてはと、ヴェーラは思い、
もう一度机上に飾ったマティスを見つめた。これを返さないで、正式に自分のものにするいい方法が何か無いか
しら?そのためにもとりあえずシチューキンの招待に応じてみようとヴェーラは決意した。
66名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:36:05 ID:h2vNUIt3
そして、ヴェーラとシチューキンの親交はすぐに深まった。シチューキンもヴェーラを最初は同好の士として、
次には女性としてひどく気に入り、彼の屋敷を訪れた際は次の訪問を定めないとヴェーラを帰そうとしなかった。
シチューキンは今までヴェーラが知っているどんな男とも違っていた。厳粛な厳しさを持った兄や父、宮廷の
軽佻な伊達男達、あんなにも自分を惹きつけたエフレムの思いつめたような情熱(彼の事を思いだすのはヴェーラ
には本当に辛い事だった。)が彼女の知っている男達だった。シチューキンの体面や打算に左右されない好意の純
粋さや、絵画に向ける情熱はヴェーラには新鮮な驚きだった。ことに自宅をついに美術館として開放した事には
驚かされた。彼は自分が集めた美を独占する事を望まず、それらがロシアの若い芸術家達の目を開かせ、さらに
新しい創造につながる事を望んだ。それも決して自分の功名のためではなく、彼はただ自分の持っている素晴ら
しいものをそれを必要とする人間と分かち合う事を望んでいただけだった。そんな男は今まで彼女の周囲にはい
なかった。
そして、何よりも彼は彼女を笑わせてくれた。彼と居ると彼女は自分の中に今まである事すら知らなかった自由
さを感じた。警戒心の強いヴェーラとしては大変珍しい事だったが、まず最初の短い間に、彼らは心を許した親
しい友人となった。シチューキンは絵画だけでなく社会の様々なことに興味が深く、二人には議論は楽しいコミ
ュニケーションだった。しかしある日の会話はいつもと異なる感興をヴェーラにもたらした。もう秋だったがそ
の日は珍しく暑く、今年最後の水遊びとヴェーラはシチューキンの屋敷の池で、彼が漕ぐボートに乗っていた。


「ではあなたは共産主義に賛成なのね?」
「うん、彼らは過激なようだけど言ってることにはもっともな事が多いよ。僕も繊維業を営んでる家の者として
は学ばされることが多くて耳が痛い。労働者の権利はもっと保障されてしかるべきだ。君はロシアの多くの工場
や炭鉱で、10歳にも満たない子供が毎日14時間以上も働かされて、しかも給料のほとんどをピンハネされてる
事実を知ってるかい?彼らの多くは体を壊して職を失い、若いうちに死んでいってしまうんだ。どの階級に生ま
れたかというだけで一部の者が富と栄誉を独占するなんておかしいよ。どこの国だって問題はあるけれど、ロシ
ア特有の旧弊な制度の数々がどんなに他のヨーロッパから遅れをとらせているか。ロシア正教なんて迷信的とい
っていいくらいだ。いい例があのラスプーチンじゃないか。本当は彼に治癒力があるかどうかなんてどうでもい
い事なんだ。問題は我々ロシア人が彼の力を過大評価して、宮廷で彼が振るっているとされる力を神秘の尾ひれ
をつけて、実態より大きくしてしまう事なんだよ。それに比べれば僕は共産主義者、ことにボリシェビキの主張
には数学的な明快ささえ覚えてしまうね。」

ヴェーラはシチューキンの言いたい事もわかったが、一方で彼は共産主義者の主張の単純さが持つ呵責の無さ
を知らないのだと思った。だいたい彼らは私有財産を否定している。彼らの革命が成功すれば、抹殺されるの
はヴェーラたち貴族だけでなく、大ブルジョアも同じ筈だが、シチューキンは人が良すぎてそんな事もわから
ないのだろうか。
「そうね・・・。共産主義者が宗教を迷信というのは彼らの勝手かもしれないわ。人は無神論者になる自由は確
かにあるかもしれない。でも他の者にも神を信じるなというのは、結局人に神を信じる自由の選択を許さないと
いう意味で、彼らが忌み嫌う旧弊な教会や制度と全く同じこと、あるいはより悪辣なのではないの?」と反論し
ながら、ヴェーラは初めてこの年上の男を、シチューキンを守ってやりたいと思った。きっと、革命が起ころう
と起こるまいと、何もかもが行き詰ったロシアには間もなく大変革の時代が訪れるだろう。その時、この純粋で
優しい人には、私がついていてあげなくては。
その気持ちはかつてエフレムに感じた若い、激しいときめきとは違ったが、ヴェーラの中に根をおろした確か
な愛情だった。ヴェーラは自分の人生がようやく次の章へ移ろうとしている事を知った。シチューキンも彼女の
目に表れた愛情に気づき、オールを漕ぐ手を止めると彼女に幸福そうに微笑みかけた。ボリシェビキも無神論も
彼らにはもうどうでもよくなった。
67名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:36:30 ID:h2vNUIt3
3)
 ヴェーラは露知らぬ事だったが、そうやって彼女も外出勝ちになることはユリウス達にとって実に好都合だっ
た。最初の会合の後、ヴェーラの不在時を狙って書斎でユリウスは手がかりを探そうとしたが、レオニードがそ
うそう情報を放置している筈もなかった。とりあえず彼が使っている大きな机に向かい、落胆のため息をついた。
いつもの事だが見事に整頓された書斎、彼が普段使っているマホガニーの豪奢な机でも置かれているのは文鎮ぐ
らいで、予想はしていたが引き出しには全て鍵がかかっていた。長い不在とわかっているのだから当然の事だっ
た。ユリウスは背後の本棚に目をやり、銀製の写真立てが並んでいる中、数枚が伏せられているのをふと不審に
思い、手に取った。
それらはレオニードとアデールの婚礼の際のものだった。長く裾をひく豪奢で美しい花嫁衣装をまとったアデ
ールと礼装の軍服のレオニード。彼らは気品に満ちて若く美しく、似合いの一対だった。この屋敷の庭で撮った
1枚には盛装した祝賀の客の中央にニコライ2世の姿もある。姪の披露宴のため皇帝まで来賓し、その日この屋
敷ではさぞ華やかな宴が催された事だったろう。
 アデールが姿を現さなくなってから既に久しい。ユリウスは知らない事だったがそもそも彼女が記憶を失う発
端になったのが、アデールがラスプーチンの手に彼女を引き渡した事だった。彼女なりに夫を案じての行動だっ
たが、皮肉な事にこれが結局夫婦の亀裂を決定的なものにした。その独断でレオニードから見限られ、引導を渡
された形で、アデールは不本意にも別居に踏み切らざるを得なくなった。
ユリウスはそんな経緯は知らなかったが、結婚が将来破綻する事をまだ知らない2人の写真は彼女に複雑な思
いを抱かせた。本来ならこの屋敷は自分が初めて来た頃のように、様々な貴族達が訪れる華やかなサロンにアデ
ールは女主人として君臨し、社交面で夫の足りない面を助けていた筈なのだ。ユリウスはまさか自分が夫婦の障
害になっているとは思った事もなかった。しかし、これらの華やかな写真はレオニードには正式な夫人がいる事
を久しぶりに思い出させ、そして、今の自分の立場も彼女につきつけた。(母さんはどういう気持ちだったんだろ
う…)と、長居して怪しまれないよう早々に居室に帰ったユリウスは久しぶりに母のことを思い出していた。だが
今の自分の状況を鑑みて母の気持ちを推し量るのも辛く、ユリウスはサロンのピアノに向かった。アナスタシア
は律儀にレッスンも続けたがり、その面の準備もしておかねばならなかった。

 だが程なく、ユリウスはレオニードあてに送られてくる書類にやっと気づく事ができた。意識するとは不思議
なもので、ここ数年見ていた筈なのに、今までは全くその存在に気づいていなかった。それは早朝に、軍部から
の使いの手で屋敷に届けられるのだった。受け取るのはまだ邸に入って間もない年若い従僕だった。以前の係の
ものは、レオニードの視察に伴われていた。それを聞いたアナスタシアは声を躍らせた。
「それは幸運なことね。古参の者ではあなたが近づくと警戒されてしまうでしょうから・・・。それで保管場所
はわかったの?」
「それが少し不思議なんだ。彼は確かに書斎に入って行くんだけど、その後の書斎には全く変わった様子がない。
机もキャビネットも引き出しはたいした容量は無い筈なんだ。あれだけの頻度でくる書類なら結構な嵩になる筈
なのに、あの整理された書斎のどこにそれがあるのかがわからない。だから思ったのが、笑わないで聞いてほし
いんだけど、もしかしたらあの書斎には隠し扉か隠し棚があるのかもしれない。」
68名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:36:51 ID:h2vNUIt3
「ユリウス、それは笑い話にはならないわ。私達ロシア人は秘密が大好きなの。あなたもユスーポフ家でファベ
ルジュの一つくらい贈られたのでなくって?様々な細工ものの精緻さはそんな秘密好きからも来ているのよ。あ
なたの言うように十中八九、ユスーポフ家の書斎には隠し扉か、隠し棚がある筈だわ。だって我が家にもあるく
らいですもの。」
ユリウスはぽかんとしてアナスタシアを見た。(ロシア人って・・・。)
「よかったらご覧になる?参考になるかもしれないわ。」アナスタシアはにっこり微笑んで立ち上がった。

従僕は誰もいないと思った書斎に彼女の姿を見て驚いた。この早朝の、まだ暖房も入らない寒い書斎にはいつも
彼が最初に入るのが決まりだった。棚から1冊本を取り出しながらその美しい女性も少し驚いた様子で彼を見た。
年若い従僕はすっかりどぎまぎしてしまった。新入りの彼にとっては侯はいわば雲の上の存在であり、その愛人
となるとさらに(興味はあっても)、接し方の難しい相手だった。彼女はなぜか男装していたがその若さと美しさ
で、邸の使用人達の間では何かと噂の種だった。何やら複雑な事情でここ数年この邸にいるらしい。彼女が候の
ものになるかどうかは、気の毒な事に密かに賭けの対象にすらなっていた。ある朝、動かぬ証拠品として血と精
液にまみれた彼女の寝巻きが喚声の中、召使部屋に掲げられて、大穴狙いをした少数の人間は大負けをしたのだ
った。そして彼女に向けられる視線は[堕落した女]への、より好奇心といささかの軽蔑を増したものになっていた。
彼はそんな事を思い出しながらとりあえず、教えられた作法通り、彼女の爪先あたりを見て「おはようござい
ます。」と挨拶した。相手は「おはよう。早いね。」と返事をし、彼はその気さくに驚いた。そういえば侍女達
も辛口ではあったが、なぜかこの女性には点が甘かった。
彼女は彼が抱えた書類に目をやると、「それはレオニードの仕事のもの?僕にも手伝わせてくれる?」と笑顔で尋
ねてきた。
従僕は返事をためらった。彼はこの書類の中身については全く知らされていなかった。ただ重要なものだから
教えられた手順を絶対に守るようにと厳命されていただけだった。決まりきった退屈な作業に年若い彼は少々飽
きていた。本来それは彼の叔父である古参の従僕の仕事で、彼が候の視察にともなわれていなければ、新入りな
どが手を触れられることなど許されない筈だった。叔父がなんとか、甥を職場のいい位置に押し込もうとして、執事に頼み込んだのだ。

だが候の命令は絶対だと聞かされていた分、その愛人の願いとなると無下に断るのもどうかと思われた。自分
に縁などないと思っていた存在に間近に話しかけられて、彼はどぎまぎするのを抑えられなかった。そして彼女
はにっこりと微笑むとさらに一歩近づき、軽く彼の手首に触れた。「僕・・・あなたを困らせているのかな・・・。
ええと、あなたのお名前は・・・。」
「ヨ・・・ヨシフです。」「ヨシフ・・・。まだ入って間もない人だよね?僕の名前はユリウス。」「存じ上げてお
ります。」「そう。ありがとう。」そして再びにっこりしたかと思うとまぶたを臥せて言った。
「じゃあ知ってるよね・・・。僕は・・・とても寂しいんだ、ユスーポフ候がいなくって・・・。」従僕の胸の高
まりは最高潮に達した。
「せめて、何か彼に関わることで手伝えれば・・・少しは気がまぎれるかも・・・。」と言い、彼女は奇妙に熱い
まなざしで彼が持っている書類をじっと見つめた。
69名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:37:21 ID:h2vNUIt3
「とんでもありません・・・!あなたにお手伝いなどさせたら、私が執事殿に怒られます。どうぞご勘弁くださ
い。」ヨシフは慌てて言った。彼女はがっかりした様子で
「そうか・・・。そうだよね、済まなかったね、無理を言って・・・。」とうつむいた。ヨシフは何だか自分が悪
い事をしているような気になり、「お手伝いしていただくわけにはいきませんが、良かったらご覧になりますか?」
彼女は顔を上げると不思議そうに、「見る・・・って?」と言った。ヨシフは「こちらにどうぞ」と言ってユリウ
スを書斎の奥に導くと、古い書籍の詰まった本棚から厚い辞書を2冊抜き、壁の羽目板をそっとずらした。そし
て現れた鉄製の取っ手を引くと、右手奥の角側、本棚と本棚が人ひとり通れるほどあいていた壁面が動き、その
奥に小部屋が現れた。
隙間を隠すかのようにそこに置かれていた、花瓶で飾られた小テーブルをどけると「どうぞ」とユリウスを案内
した。そこは天井まで棚が作られた小さな部屋で、人が3〜4人も入れば一杯になってしまいそうだった。棚は
全て書類で整然と埋め尽くされ、空いた壁面には地図が貼ってあった。「こんな仕組みがこの書斎にあったなん
て・・・。これは開けるのに鍵とか番号とかは無いのかい?」とユリウスはつぶやいた。「金庫ではございません
からね。」ヨシフは定められた作業をしながら答えた。
彼女の目は異様なまでの真剣さででヨシフを見つめていた。「すごいね・・・。これを全部君が?」「私は指示通
りに並べるだけでございます。」ヨシフは彼女の目の輝きにむしろ居心地の悪さを感じ始め、急いで今日の分の作
業を終えると「さ、もうよろしいですか。」とユリウスを促して室外へ出ると、先ほどの手順を逆に繰り返した。
暗かった隠し部屋から書斎に戻るとヨシフは急に不安になり、急ぎ「ユリウス様、ここをお見せしたことは、ど
うぞ誰にも・・・。」とささやいた。何かに気をとられていた様子のユリウスは、振り向くと、「ああ・・・もち
ろんだよ、ヨシフ。ありがとう。君を困らせるような事はしないよ。」と微笑んだ。「本当にありがとう。」
 アナスタシアに指示された誘導方法で若い従僕は驚くほどあっさりと隠し部屋を開けてしまい、(女の武器なん
て、僕にもあったのか。)とユリウスは呆れていた。

ユリウスからの情報をアナスタシアはミハイルに伝えた。「報告書のありかはわかったわ。でも全て、一通づつ封
印されているらしいの。開封されたものはとにかく、新しいものはやっかいね。それこそ私達が見たいものなの
だけど。」「そうだな・・・。暗号の解読もあるからな・・・。封蝋なら、偽造という手もある。まずはやはり、
少し持ち出してもらわねば仕方ないな。それはできそうなのか?」「大丈夫だと思うわ。ユスーポフ候も不在だし、
ユリウスが書斎に出入りするのは普段の事らしいから。」
実はこの頃はまだ、ミハイルとアナスタシアの間ではユリウスの処遇についての意見は割れていた。ミハイルは、
いっそユリウスはスパイとしてユスーポフ家に残してはどうかと提案していた。だがアナスタシアはユリウスを
今の状況に残す気は全く無く、ユリウスの情報とアレクセイに会わせる事は引き換えであることを、脱獄させた
アレクセイを迎えに行くのに女連れでは足手まといになりかねないと渋っていたミハイルに受け入れさせた。そ
して、党には今回のユスーポフ家の情報提供者とアレクセイを救出に向かうメンバーに含まれる女性が同一人物
である事は絶対に報告させなかった。彼女がユスーポフ家にいたなど知れればボリシェビキの中では将来、逆に
やっかいな事になりかねない事をユリウスとレオニードの関係に察しをつけたアナスタシアは危惧していた。
70名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:37:55 ID:h2vNUIt3
 ユリウスがアナスタシアに求められた任務を淡々と勤め上げるうちに、秋は深まっていった。書類はそう嵩が
あるものではなかったが、一度にそう多くは持ち出せる筈もなく、またあまり近々のものを動かすとヨシフに気
づかれる可能性があったので、どのぐらい抜くかというのはかなり神経を使う作業だった。写しをとられた報告
書はミハイル達が偽造させた封蝋でまた封印され、ユリウスは細心の注意を払ってそれを元の位置に戻した。
単純ではあっても、決して間違えてはならない、緊張が強いられる作業だった。だがその間は彼女は何も考えず
に済んでおり、クラウスの役に立っているという無邪気な満足感に浸っていられた。
そして気が付くと、もう初雪の舞う季節が訪れてきていた。
その朝、ユリウスは朝食の席で、ヴェーラに告げられた。12月中旬にはリュドミールが、その二週後、ちょうど
聖夜にレオニードが戻ってくると。
「翌日は宮廷の参賀に揃って出席せねばならぬのに、お兄様も慌ただしい事だわ。」
とっさにどう答えてよいかわからず、「そう・・・。」とユリウスは無表情に言った。ヴェーラは深追いせず、「き
っとリュドミールを見たら驚くわよ。私がモスクワを発つ時でも、もう随分変わってたわ。不思議なくらい背も
伸びてしまって。夜中寝てると、骨が伸びるのが痛くってわかるんですって。本当かしらね?」と淡々としゃべ
った。ユリウスは微笑んで聞いたが、リュドミールに会うのも懐かしさと裏切りの痛みが交じり合うのだろうか
と感じた。

アナスタシアからの迎えを私室で待ちながら、レオニードの帰還の日がわかった以上、ユリウスは久し振りに
彼の事を考えざるを得なかった。クリスマスイブに帰還なら、あの時彼が言った通りあれからちょうど5ヶ月だ。
気まずい別れ方だった。誇り高い彼の事、いっそあれきり自分の事を疎んじて遠ざけてはくれないだろうか。そ
れこそ、父が母に飽きて捨てたように。だがそれはまだありえない事は、自分の体がよく知っていた。この1年、
あれだけ臥所を共にしていても、彼らの体はまだ新たな発見を重ねていた。その生々しい記憶に絶望してユリウ
スは思わず手で顔を覆った。うぬぼれでは無く、帰って来れば彼は必ず自分を抱くだろう。たとえすぐにではな
くとも。
では、抱かれながら彼を欺き通すなど、本当に自分にできるのだろうか?それではまるで娼婦でないか。いや、
クラウスのためなら、再び悪魔になってでもと自分は誓ったのだ。これは戦いだ。それを思えばどんな事でも耐
えられる筈だ。こちらの弱さを逆手にとってあの傲慢な男を騙してやれ。それは存外簡単な事なのではないか?
ユリウスはそう自らをけしかけようとしたが、自分がそんなに強くてしたたかな人間でない事はよくわかっていた。
そして彼が求めているのは体だけではないという事も本当はよく知っていた。だがそれはもう、ユリウスからは
決して与えられないものだった。
そして思った。この事を知れば、レオニードは自分を殺すかもしれない。シベリア流刑の囚人の脱走をもくろ
み、軍の情報を横流ししていたなど、銃殺に処されるに充分だろう。自分達の関係の如何を問わず、彼が自分の
処置をためらうとはとても思えなかった。しかし、それはいっそ光明のような気すらした。
(それならそれでいい・・・。レオニードからは裏切り行為と言われてもしかたない。それに僕自身、もうクラ
ウスに会える体ではなくなっているのだ。最後にクラウスの役に立つことができるなら、今までの日々が続くよ
りも、殺されるか、官憲に引き渡されてしまえばむしろいっそ楽になるというものだ。ああ、でもその前にせめ
てもう一度だけ、言葉を交わせなくてもいい、たとえ遠くからでもいい、クラウスの姿だけでも、一目でも見る
ことができたら・・・!)
彼女の物思いを破るように、侍女がアナスタシアからの迎えが着いた事を知らせにきた。ふりむいて「ありが
とう。」と言ったユリウスの凄絶な美しさに侍女は一瞬息を呑んだ。
71名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:38:32 ID:h2vNUIt3
「ではユスーポフ候の帰還までとヴェーラに約束させられてしまった以上、あともう少ししかないのね・・・。
もう少し時間があればいいのだけれど、欲張っては危険かもしれない・・・。」「・・・。」ユリウスは黙って窓の
外を見た。空は冬の濃い雪雲に覆われていた。次に何を聞かれるか、ユリウスはわかるような気がした。
「ユリウス・・・。こんな事、聞きたくは無いのだけれど・・・。ユスーポフ候とあなたは・・・。」
「ごめんなさい、アナスタシア。答えられない。その事は聞かないで。」ユリウスは外を見たまま硬い表情で答えた。
「・・・そう。・・・ごめんなさい。・・・いずれにせよ、ユスーポフ候に気づかれないうちに、できるだけ早く
あなたをあそこから出さないと。アレクセイが脱獄した後では、あなたは必ず公的にも監視対象になるでしょう。
それから脱走を図るのでは全てが露呈する危険を冒すことになるわ。その前にあなたにはズボフスキー達と共に
シベリアに行ってもらわねばいけないけれど、タイミングが難しいわね。あまり早すぎてもユスーポフ候が気づ
けば、監獄の方に手が回ってしまうかもしれない・・・。」

ユリウスは振り向き、首を振った。
「アナスタシア・・・。僕はもう彼には会えない。・・・わかるでしょう?」
二人は女が知る悲しみの内に静かに見つめあった。アナスタシアは言った。
「ユリウス・・・あともう一つ確かめたい事があったの。あなたユスーポフ候がアレクセイの助命嘆願をした事
はご存知だった?アレクセイには本来死刑判決が下されていたのよ。」
「え・・・」ユリウスは驚愕した。
「やっぱりご存じなかったのね・・・。」「レオニードが、なぜ・・・。」
アナスタシアはそれには答えず、ユリウスをその黒目がちな瞳で見つめた。
「人間って不思議ね・・・。私、夫を愛してはいなかったの。そしてあの告白で、人としての尊敬と信頼も無く
してしまった。私達の結婚生活は欺瞞でしかないと思っていたわ。でも、彼が死んだ時には自分の一部も一緒に
失われたような気がしたの。彼は、彼との結婚は確かに私の人生のある部分を形作っていたのだわ。」

「アナスタシア・・・。」
「でも、私が常に最も大事にしてきたもの、私の真実はそれとはまるで異なるもので、何があっても変わらない
し失われない。それはあなたも同じ筈よ。ダイアモンドはインクに漬けても染まるものではないでしょう?」
「・・・。」
「だからユリウス、つまらない事は言わないで。あなたの真実は全く変わってなどいないのだから。あなたを受け
入れるかどうかはあなたでなくアレクセイが決めること、そしてその後の事は二人の問題になるでしょう。ユリウス、
あなたは生きる事を恐れているだけだわ。

それにこれが成功したら、アレクセイには伴侶が必要だわ。おそらく心身ともに疲弊しきっている筈だから、誰か
傍にいて支える人、彼が心から信用できる人間が必要なのよ。それができるのは、あなた以外に一体誰がいるの?」

「・・・アナスタシア・・・。」
ユリウスは確かめずにいられなかった。
「でも・・・あなたは・・・それでいいの?今回のことはあなたが事を進めているようなものなのでは?」
「いいのよ、ユリウス。あれは幼い初恋だったわ。革命を目指す者として、私は彼を自由にすることができたら
それで満足なの。それに革命家同志の夫婦なんてぞっとしないわ。」とアナスタシアは微笑んだ。
「どうも革命家といえど、革命家の多くは妻の理解は欲しそうだけど、対等な戦士は家にいらなさそうなのよ。
そこだけはブルジョア的価値観を否定しないようよ。女権論者のヴェーラが聞いたらきっとがっかりするわね。
72名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:38:57 ID:h2vNUIt3
その年は雪が多かった。アレクセイ達の渡る危ない橋にとってそれは吉なのか凶なのか、アナスタシアにはわ
からなかった。彼女はアレクセイの脱獄が決行される時期にはフランスに渡っている筈だった。遠く離れた地で
同志の報告を待つしかない。もしもこの計画が成功しなかったら、自分はどんなにショックを受けるだろう。
一体その時は演奏家としての務めを恙が無く終えられるだろうか?いや、聴衆への責任は果たさねば、それが革
命家としての責務にもつながるのだと、アナスタシアが自らへはっぱをかけなおしていると、ミハイルが興奮し
た様子で入ってきた。
「アナスタシア、危ないところだった!俺はユリウスって娘のことを何と言ったっけ?ユスーポフ家に残せ?、
いや、悪かった、彼女は100万回解放される価値があるぜ!」「ミハイル?」「俺達が利用しようとしていたルー
トに大掛かりな手入れが入る計画があることが、例の報告書の解読でわかったんだ!本当に危ないところだった。
あれを知らなきゃ俺とズボフスキーはアレクセイを脱獄させるどころか、その遥か手前で網にかかるところだっ
た。命拾いとはこの事だな。アナスタシア、あんな事を言って悪かった、俺は命に代えても彼女をアレクセイに
会わせるぞ。」ミハイルはアナスタシアの白い手を力をこめて握っり誓った。

(4)
まず、予定通りリュドミールが帰還してきた。ユリウスと彼が会うのはまさに1年ぶり以上だった。昨年のク
リスマス休暇は寄宿舎に留まり、イースター休暇は級友のクリミアの家に招待され、夏の休暇は優秀な成績の副
賞としてフランスの陸軍学校へ派遣され・・・と彼はまるまる1年以上、ペテルスブルグから遠ざかっていた。
リュドミールの方からは忙しいだろうにひんぱんに手紙が届いていたが、ユリウスは本当のことが書けない辛さ
で、次第に返事は途絶えがちになっていた。そして今、彼らは久し振りに向かい合っていた。リュドミールは照
れくささから、ユリウスは何とも言えない後ろめたさから、その再会は予想されたよりもぎごちないものになっ
ていた。
何より、ユリウスはリュドミールの成長振りに驚かされた。単に背が伸びただけではなく、彼はもう彼女の知
っていた甘えん坊の子供ではなく、少年期から青年期にかけての年齢独特の輝きをまとい始めていた。リュドミ
ールもユリウスが記憶よりも陰影にとんだ美しさの女性だった事に驚き、(僕が子供だったからわからなかったの
かな?)と内心思った。
「やあ。」と制帽をとり、リュドミールは微笑んだ。そしてユリウスを軽く抱擁した。ユリウスは彼がもう自分
とさほど変わらないほど背が伸びていることに驚きながら、抱擁を返した。だが身を放した後、リュドミールは
腕を一杯に伸ばして彼女の両肩をつかんでにっこりし、その笑顔は「甘えん坊」のままだった。しばらく会えな
いでいたが、ユリウスはやはり彼にとって大事な友達、いや、家族の一人だった。彼女の待ってないペテルスブ
ルグの我が家など、彼には想像がつかなかった。変わらない笑顔につられるように、ユリウスもふと気がゆるんだ。
「リュドミール・・・すっかり見違えちゃった。でも笑うと変わらないね。」
「びっくりした?今じゃ僕は同期生の中ではけっこう背が高いほうなんだ。入学した時は逆だったのにね。ユリ
ウスは少し痩せた?」「う・・・ん、どうかな?それより本当に元気だった?演習の時の怪我って本当に良くなっ
たの?」「ああ、あんなの、すっかり忘れてたよ。それより、二人におみやげがあるんだ。」ユリウスとヴェーラ
の手を引いて、荷物を置かせた間に行くとリュドミールは鞄から何やら突拍子も無いものを次々取り出して、二
人を散々笑わせた。
73名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:39:18 ID:h2vNUIt3
晩餐の席で「それでユリウスは僕のいない間、何をしてたの?」とまっすぐな瞳で聞かれ、ユリウスは言葉に詰
まった。ヴェーラがちらりとユリウスの表情を伺うのがわかった。同性のヴェーラに気遣われるのは辛く、屈辱
的なものがあったが、リュドミールにだけはレオニードとの関係を知られたくなかった。
「リュドミール、あなたアナスタシア・クリコフスカヤ嬢を知ってるでしょう?昔はよくこの邸にも来て頂いた
わ。あなたにヴァイオリンを弾いてくださったことは憶えている?」
「ああ、姉様の友達の。確か早くにご夫君が亡くなったんだよね。あの人は今、ヴァイオリニストとして世間に
出てるんじゃなかったっけ?」
「この秋は、ユリウスは彼女にぜひにと請われて練習相手をしていたのよ。」
「ええっ。それはすごい事じゃないか。それにユリウスなら、練習相手じゃなくて公演でも大丈夫なんじゃない?」
「ヴェーラ・・・。」とユリウスは少し眉をひそめてしまった。ヴェーラは素知らぬ顔で、「でもリュドミール。
この事はお兄様にはまだ内緒ですからね。」と弟に告げた。
「兄上はそういうの嫌がるかもね。」あっさりとリュドミールは笑って答えた。「でもどうするの?兄上も来週には
帰ってこられるのでしょう?お願いして続けさせてもらうの?」と聞かれ、ユリウスは
「もともと僕は繋ぎだから。最初からクリスマスまでという約束だったし、いい人も見つかりそうだって言って
たから、とりあえずこの間で終了という事にしたんだ。」
リュドミールは(では少なくともこの休暇中は大丈夫なんだな。)とユリウスを連れ出す算段を頭の中で始めた。
「でも何かあったらまた呼ばれることもあるかもしれない。だからユスーポフ候には僕から言おうと思ってる。」
ユリウスはこの二人をも欺いていることに苦痛を感じながらそう言って、ヴェーラ達は何も疑わずにうなずいた。
計画では、最終的にはユリウスはアナスタシアとの練習を装い、昼間に堂々とユスーポフ家を出て行く筈だっ
た。帰ってこないユリウスにユスーポフ家から使いが来ても、アナスタシアの方で今日はそんな予定は無かった
といえば、アナスタシアに嫌疑をかけずユリウスが姿を消す時間が充分稼げるだろう。その時だけ迎えには別の
人間と車を行かせ、そんな男はアナスタシアの方では知らない、行かせていないと言えば、賊に侵入された以前
の事もあり、ユリウスが誰かの企みに落ちたという事で通る筈だ。問題は時期だった。シベリアの長い冬が終わ
る頃、脱獄計画は決行される予定で、ユリウスはそれに間に合うぎりぎりのタイミングでユスーポフ家を脱出せ
ねばならなかった。それまでの数ヶ月を彼女はここで周囲の人間を欺いて過ごすのだ。ユリウスは3日前、これ
が最後だろうと訪れた時の会話を思い出した。
74名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:39:39 ID:h2vNUIt3
「ではユリウス・・・。これでしばらくお別れね。私は明日からヨーロッパ行きの準備に入るわ。発つのは春だ
けど、たぶんもう・・・なかなかお会いできないでしょうね。ユリウス、くれぐれも気をつけて。いいこと、マ
ダム・コルフの店のワシーリィが連絡係よ。あなたとアレクセイが必ず会えるように祈っているわ。そしてもう
決して彼と離れては駄目よ。」
「アナスタシア・・・。」
「帰国してもすぐにはお会いできないでしょうね。同志を通じてお互いの安否ぐらい確かめられるといいのだけ
ど・・・現状ではそれも危険だわ。知らない事が少ないほど、秘密が露見する可能性も減るものですからね。
でも、私達の行動が実を結んで革命を成し遂げられれば、こそこそする事も無くなる。それまでは私とアレクセ
イは革命家という絆で結ばれた同志というだけで充分だわ。もちろん、あなたともね、ユリウス。官憲に脅える
事無く、堂々とあなた達にお会いできる日が楽しみだわ。」
彼女はユリウスをそっと抱きしめ、頬に別れのキスをした。ユリウスもアナスタシアの白い頬にキスを返し、
抱擁した。
「ありがとう・・・。アナスタシア。あなたもどうぞ無事で。あなたとも、あなたの音楽とも又きっと会えます
ように。」
「そうだわ、忘れるところだったわ。あなたの言う通りだわ・・・。もう一つ、音楽も私達三人をつないでいる
わね。」
ついにこらえきれず浮かべた涙で瞳をうるわせ、アナスタシアが言った。
「どうぞ、幸福の調べがいつまでもあなたとアレクセイと共にありますように。また会えるその時まで、
さようならユリウス。」
「・・・さようなら、アナスタシア・・・。また会える日まで・・・。」
そうしてユリウスはアナスタシアの邸を去った。だが彼女達が会うのは本当にこれが最後となった。
結局アナスタシア生来の高潔さが彼女を滅ぼした。彼女は目的のために他の犠牲を惜しまない非情さを持ちえず、
最終的には革命家としてより、一人の人間としての良心に従う道を選んだのだった。
75名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:40:00 ID:h2vNUIt3
(5)
それはロシアのクリスマス、1月7日の前日だった。ユスーポフ家はクリスマスと新年の準備に皆余念が無かった。
明日の宮廷での参賀の準備もせねばならない。それになんといっても今日は5ヶ月ぶりに主が帰ってくるとあって、
邸内には手落ちがあってはならない、緊張と興奮がみなぎっていた。ユリウスはそんな中、ピアノを弾くのも
憚られ、手持ち無沙汰な気持ちで楽譜を持ってふらふらと広間にさしかかった。するとふいに玄関の方が騒がし
くなり、皆が集まってきた。レオニードが帰還したのだ。ロストフスキーとその他数名の部下を伴い邸内に入っ
てきた彼を、100人近い召使達が整然と並んで迎え、その中をヴェーラとリュドミールが微笑みながら長兄のも
とへ進んでいった。
一人離れてユリウスは、その光景を広間を挟んで半ば絶望的な気持ちで見つめていた。レオニードが人々の波
にさっと目をやった時、自分を探しているのがわかった。そして彼の視線が周囲の人々の輪を超えてユリウスの
立っている階段のたもとに向けられた時、意外な事に彼の表情に一瞬さざ波のように、揺れが生じた。だが彼は
何事も無かったように傍らのリュドミールの肩を抱き、妹の頬にキスをした。そして召使達をねぎらって、それ
ぞれ持ち場に戻らせると、ユリウスの方へ向かって歩いてきた。ユリウスは楽譜を持つ手に汗がにじむのを感じ
た。(いけない・・・怪しまれるような顔をしては)
彼が自分の前で立ち止まった時、「お帰りなさい。」と自分の口から滑らかに挨拶がでた事にユリウスは驚いた。
レオニードは最初、無表情にユリウスを見下ろした。だがふっと微笑むと「ただいま。」と言ってユリウスの頬
にキスをした。それは軽い、本当に挨拶のキスだったが、身をかがめた時にいつもの彼の匂い、葉巻と皮の香り
がして、ユリウスの体じゅうの血はどっと沸きかえった。(僕は・・・!)とユリウスは自分の体の勝手な反応を
愧じて罵ったが、今きっと自分は濡れた瞳で彼を見上げているのだろうという事はわかった。ホールに残ってそ
んな二人の様子を離れて見守っていたリュドミールはふと不審をおぼえた。まるでだまし絵のように、記憶とは
何かが違っていた。所詮まだ14歳にもならない彼にはまだその違和感の正体を言い当てる事はできなかった。
だが、何かがしこりとなって心の底に沈殿し、ざらつきを残した。

ユスーポフ家の人々は翌日は早朝から宮廷での新年の参賀に参加せねばならないので聖夜とはいえ、晩餐は早
めで軽いものだった。だが久し振りに兄弟が3人とも顔を合わせ、主にリュドミールのこの1年を話題の中心に、
賑やかに会話が弾んでいた。ユリウスにとっては拷問に近い時間だったがなんとか笑顔を作っていた。多少そこ
にぎこちなさがあっても、他の者はそれぞれその理由をとり違えて解釈する理由があったので、誰もあえてそれ
を指摘はしなかった。そして偽りの入りこんだこの団欒が、結果的には彼らユスーポフ家の3人が共に過ごした
最後の聖夜だった。彼らが集ってクリスマスを祝う事はこの後二度と無かった。
76名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:40:22 ID:h2vNUIt3
やがてそれぞれが明日の準備のため部屋に引き上げ、ユリウスも私室に戻った。関係を持って以来ユリウスは
レオニードの寝室で夜を過ごすことを命じられていたが、彼がいない間は元の部屋に戻っていた。そして今夜、
晩餐の後で私室に戻ろうとする彼女にレオニードは何も言わなかった。ユリウスは扉を閉めてそのまま背をもた
れかけさせ、うなだれてため息をついた。そして自分に与えられている部屋を見た。豪奢な部屋も今は牢獄にし
か見えなかった。本当にこの邸から脱出できるなら、たった今、逃げ出してしまいたい。レオニードが今夜来な
くても、明日は?その次は?またあの寝室に戻る事を命じられるのか?彼に抱かれる事を考えただけで今は身が
すくんだ。せめてリュドミールがいる間だけでも。初めてユリウスは心の中でクラウスに救いを求めた。
(クラウス・・・。助けて!もうこんなのはいやだ、君を思ってるのに、レオニードに抱かれるなんてもう出来ない。
君に会うために乗り越えねばいけない試練だなんて思えない、そんなのは間違ってるんだ!誰にとっても公平じない、
ひどい過ちなんだ!)と心の中で叫んだ。そしてレオニードが来る可能性を恐れて部屋で過ごす緊張に耐えられず、
一人階下へ降りていった。ふと、もう誰もいないだろう広間で、クリスマスツリーを見たくなったのだ。

予想通り、広間はもう召使の姿も見えず灯りは減らされて、暖炉の火だけがまだ赤々と燃えていた。だがツリ
ーを見ても全く心は慰められず、さらに静寂を求めてユリウスは真っ暗な、冷え切ったサロンに入っていった。
だがそこには先客がいた。彼女が今一番会いたくない相手、レオニードだった。

彼は明日の参賀で久し振りに拝謁する皇帝の事を考えている所だった。最後に拝謁してから半年以上がたっていた。
彼がラスプーチンとの対立でアレキサンドラ皇后の不興をかい、ニコライ大公の引きで陸軍親衛隊から参謀本部に
移った後は自然と皇帝に拝謁できる機会は減っていた。明日は貴重な機会だが、とても二人きりで謁見していただ
ける余裕は無いだろう。レオニードは一軍人に過ぎず国政に口を挟む事は慎むべきだったが、首相が進め
る農制の改革を皇帝が妨害して進まない事は軍の劣化・弱体化にもつながっていた。皇帝を心から敬愛するレオ
ニードだったが、彼の嫉妬深さは他の閣僚たち同様悩みの種だった。レオニードが大公に拾われるようにして参
謀本部に異動した事も内心快くは思っておられないだろう。アデールとの離婚が命じられるのももはや時間の問
題だった。やはり御前会議の席で意見を聞いていただく正攻法しかないのか。

誰か入ってきた気配に振り返ったレオニードもそこにユリウスを認めて驚いた。ユリウスは立ちすくんだまま、
無言でいた。
「寝てなかったのか。」レオニードは窓の外に視線を戻して言った。
「・・・あなたこそ。明日は早いのでは?」(今日、長い任務から戻って疲れているだろうに・・・)とユリウス
は思ったが、気遣うような言葉は言えなかった。「休養は充分とってある。考え事がしたかっただけだ。」と
レオニードは答えた。ユリウスはほっとしたと言うより、あんなに悶々としていた自分が馬鹿のように思え、
「そう・・・。邪魔をしてごめんなさい。」と言って去ろうとした。
「待ちなさい。」
77名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:40:42 ID:h2vNUIt3
ユリウスがびくりとした様子で立ち止まるのを見てレオニードはいつもの痛みを感じた。彼女はのろのろと振り返り、
ゆっくりと窓際に立つ彼のもとに歩いてきた。明かりの灯らない入り口では暗くて見えなかった顔が窓際に近づ
いてくるにつれ雪明かりの反射でほのかに白く浮かび上がってきた。ユリウスはやはり希望を失ったかのような
表情を浮かべていた。思えば関係を持ってからのこの1年、彼女は笑顔も涙も見せなくなっていた。
かつて彼女をあんなにも際立たせていた、あの生気を失なってしまった顔。彼は決してそんな彼女を見たいわけ
では無かった。彼らはほの青い雪明りの中、凍えそうに冷たい部屋でしばらく無言で見つめ合っていた。

やがてレオニードがそっと手を伸ばし、ユリウスの頬に触れて言った。
「この間は・・・悪かった。」
ユリウスは驚いて目を見張った。(この人が僕に謝るなんて・・・)
「聖夜だからな。仲直りしよう」とレオニードは照れくさそうに言うと、背をかがめてユリウスの額に口付けした。
間をおかず、見開いたままのユリウスの瞳からはらはらと涙がこぼれ落ちた。レオニードは涙のしずくを頬から
指でそっとすくいとると、それは優しくユリウスに口付けした。そして彼女の体に静かに腕をまわすと、ユリウスの
髪に顔を半ば埋めて言った。
「私は愚か者だ・・・。馬鹿な事ばかりしている。だが・・・。会いたかった・・・。」
二人の着衣も肌の表面もすっかり冷え切っていたが、こうして体が触れ合うと、そこだけが暖かかった。

(レオニード、そんな事、言わないで・・・。僕はあなたを裏切っているのだから・・・。それもあなたが思いも
よらぬやり方で・・・。)
さらにレオニードがしっかりと彼女を抱きしめて顔をさらに深く彼女の髪に埋め、耳元に唇が寄せられた時、彼女は
次の言葉を予感し、心の中で絶叫した。
(言っちゃいけない、今、その言葉を言わないで・・・!僕なんかに、お願いだから、どうか言わないで・・・!)
レオニードがそっと呟いた。
「愛している。」
そして顔を離すと、涙を流すユリウスの顔を両手ではさみじっと見つめて、長い優しいくちづけをした。
レオニードはユリウスが自分を愛してはいない事はよくわかっていた。だが彼は待つ気になっていた。ユリウス
にはああ言われたが、実のところ変えられているのはレオニードの方だった。離れて過ごしたこの数ヶ月で彼は
その事を思い知らされ、もはや自分の心を受け入れざるを得なかった。ユリウスに出会いさえしなければ、そん
なものが自分にあるとは知らぬまま一生を終えられたのかもしれなかったが、もう元の自分に戻る事はできなかった。
一方のユリウスはくちづけされながら、どうしても涙を止める事ができなかった。しかしその涙が何故、何の
ために流されているのか自分でもわからなかった。それはもしかしたら生まれていたかもしれない愛のための涙
だったかもしれないし、あるいはここ数年の自分との訣別の涙だったのかもしれない。ともあれ、結果としてユ
リウスは意識しては望めないほど、レオニードを深く欺く事に成功していた。
78名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:41:03 ID:h2vNUIt3
久し振りに私室の寝台に横たえられ、ユリウスはせめてもの抵抗で精一杯冷たい声を出した。
「いいの・・・?明日は早いのでしょう?」
「私は皇帝陛下の前で居眠りした初めてのユスーポフ侯爵になるかもしれぬな。」
レオニードはにっと笑うと彼女の上にのしかかってきた。だがその夜の臥所は今までとは違っていた。どこかで
彼女を傷つけようとでもするような夏ごろのそれとは異なり、彼の愛撫からはひどく優しい、暖かいものが流れ
込んできて、彼女の体の輪郭を浮かび上がらせるようだった。ユリウスは自分の体と意思がどろどろに溶かされ
そうな恐れを感じ、レオニードを押しとどめて切れ切れに言った。
お願い、優しくなんてしないで・・・。僕は優しさなんか求めていない・・・。彼女が自分から要求めいた事を
口にするのは初めてで、レオニードは「知らぬぞ。そんな事を言って。」と笑った。そんな彼がひどく若く見えて、
ユリウスはその辛さに目をつぶった。

一夜明けて朝の光の中、ユリウスは生まれたままの姿で一人乱れた寝床で目覚めた。(ユスーポフ家の人々はとう
に家を出ていた。)昨夜はおそろしい位乱れてしまっていた。レオニードの体に包み込まれ皮膚ごとその中に溶け
てしまったようで、最後はひたすら彼にしがみつき、今感じているのは自分の感覚なのか、彼の感覚なのかわか
らなくなる程だった。体に残った余韻で起き上がることも出来ず、朝食を運んできた侍女は給仕をあきらめて呆
れ顔で去って行ってしまった。ユリウスは(本当に、まるで娼婦だ・・・。)と自嘲した。クラウスのためとはい
えこんなにも深く人を欺いて、必ず自分には罰が下るだろう。考えてみれば彼女は生まれてきてからずっと周囲
を欺いていた。ありのままの自分として生きられたのは、ロシアに来てから、このユスーポフ家でが初めてだっ
た。だが、今こうして自分はまた周囲を欺く道に自ら歩みだしている。偽りは自分の本質だとでもいうのだろう
か。今の自分ほどレオニードの愛に値しない女はいなかった。ユリウスは目を固くつぶり、まだ彼の感触が残る
自分の体を抱いて胎児のように体を丸めた。

(6)
新年の参賀の時はいつもそうだが、宮廷中がごったがえしていた。ユスーポフ家に割り当てられた控えの間で、
アデールとユスーポフ家の兄弟たちは久し振りに顔を合わせていた。アデールは侍女を従え、にこりともせず入
ってくると(だがそれだけで控えの間はそれまでとは異質な華やかさで満たさた。)、まずレオニードに「お久し
振りですこと。」と言った。レオニードも大儀そうに「ああ」とだけ答えた。これだけで漂う棘とげとした空気に
リュドミールは(ああ、またこれか・・・。)と内心げんなりしていた。決してアデールの事が好きなわけではな
かったが、彼の目からはどちらもどちらだった。兄が自分達姉弟やユリウスにかける優しさの半分でも示してい
れば、義姉の態度もずいぶん違うだろうに。アデールはリュドミールを見て、さすがに成長振りに驚いたようだ
ったが、彼女からは声をかけようとはしなかった。
79名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:41:25 ID:h2vNUIt3
気まずさをおしやるように、ヴェーラが「お久し振りです、お義姉様。新年おめでとうございます。お変わり
ないようで何よりですわ。」と声をかけると、待っていたかのようにアデールは微笑んで言った。
「あなたは随分お変わりになったのではなくって?革命家の下男から、今度は大ブルジョアの変わり者ですもの
ね。賢くなられたのか、逆なのか。」
ヴェーラは兄の前であてこすりを言われたことには少し動揺したが、(相変わらずね、この人は・・・。)とむ
しろ哀れみすら感じた。シチューキンとの事は、兄にはもっとうまい方法で知らせたかったが、兄がどう出よう
とヴェーラの心にも行動にも迷いは無かった。これで話の糸口ができたとも言えるくらいだ。しかしアデールの
方は兄にまだ執着があるのは明らかなのに、彼女は夫の心も体も失ってしまっていた。彼女の夫は他の女を愛し、
今日は妻に会う年に数度も無い機会だというのに、つい数時間前までその女を抱いていたのだ。(めざといヴェー
ラの侍女が未明に部屋に戻るレオニードを見かけ、早速言いつけてきていた。)それを思うとヴェーラの心はむし
ろ同情を感じざるを得なかった。
 レオニードはアデールのあてこすりの内容には触れず、「よしなさい。」と不機嫌そうに言うと葉巻をもみ消し
た。「もう時間だ。行くぞ。」

冬宮の謁見の広間は新年の飾りつけが美々しく施され、花の香りが満ちた中に高位の貴族達が全て居並んでい
た。レースや絹の衣擦れの音、宝石や勲章に時折光が反射する中、そこここで囁きや目配せが交わされて何代も
前から旧知の者達のいつものゲームが駆け引きされている。やがて彼らの番が来て、レオニードとアデールは夫
婦らしく手をとりあい皇帝の前にすべりでて、優雅に挨拶した。ある意味、彼らはいまだに話題のカップルで、
人々の目は自然とこの侯爵夫妻に向けられた。二人の別居はいまや知らない人は居ないほどだった。レオニード
は決して普通の意味で人気があるというわけでは無かったが、人がその存在を無視できない種類の男だった。ア
デールは彼と婚約した時、夫となる男が人よりも際立った人物である事に内心はちきれそうな誇りと喜びを感じ
たものだ。だが、今はその誇りも虚しかった。人々はラスプーチンと折り合いの悪いレオニードの失墜を今か今
かと見守っているのだ。陸軍親衛隊から参謀本部への異動は表向きには左遷というには微妙だったが、皇帝との
距離が開くという事は確かで、終わりの始まりととらえられるのは仕方の無い事だった。同情や怒り、意地の悪
い喜びや興味本位の冷やかしなどそれぞれ関心のあり方は違っても、彼の失墜はこの不確定な昨今において、確
実に予想する事が出来る数少ない未来の一つだった。ただ、妻の血筋とユスーポフ家という名家としての地位、
そして彼自身の群を抜いた有能さへの評価だけが今までそれを食い止めていた。だが最初の条件を失えば後の二
つでは足りないことは明らかで、そして夫婦の不仲はあまりにも有名だった。
アデールはそんな好奇心交じりの視線の集中を撥ね返すかのように胸を張り、しかし優雅に立っていた。彼女は
意識の中では依然として皇族の一員で、誰からも下位に見られる覚えは無かった。だが宮廷中の注目を集めざる
を得ないこの瞬間に、ラスプーチンが急に体調を崩した皇太子のため奥に下がっている事はそんな彼女にとって
も素晴らしい幸運だった。皇帝はお気に入りの姪とその夫に型どおりに、しかし嬉しそうに祝福を与えたが、ア
レクサンドラ皇后は違った。
80名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:42:44 ID:h2vNUIt3
「ユスーポフ候はずいぶんと長い視察だったそうね。親衛隊の任務が解かれたそうそう、そんなに長く首都と陛
下のお傍を離れるとはよほどペテルスブルグがおいやなのかしら?それとも噂どおり実は宮廷がお嫌いだった
?アデール、あなたも長年よく辛抱していることね?」と露骨にあてこすった。新年の参賀にはふさわしくない、
そしてアレクサンドラらしくもない皮肉に広間中がユスーポフ夫妻の次の言葉を聞き漏らすまいと静まり返った。
(世間で流布しているほどアレクサンドラは強権をふるうような皇后では無かったが、この時の彼女は果てる事の
無い儀礼に疲れ、奥で休んでいる皇太子の身を案じて気がたっていた。)
(やれやれ、この参賀の場で引導を渡されるとはな。)とレオニードは衆人環視の場での屈辱を甘受する覚悟を固
めたが、意外な事にそこにアデールの甘やかな笑い声がこぼれおちた。

「皇后陛下、お気遣い、ありがとうございます。本当に夫は私をいつも放りっぱなしですわ。この人の頭はいつも
皇帝陛下と軍務のことばかり。でもそんな忠勤な夫こそが私の誇りですの。皇帝陛下は私に本当に素晴らしい伴侶を
与えてくださいましたわ。」と言ってそれは優雅に一礼した。
アレクサンドラは憮然とし、ニコライはほっとした表情でレオニードに長い任務の労をねぎらうと、次の者の拝謁を
合図した。彼らの離婚はすでに秒読みというのが公然たる認識だったので、アデールの答えには宮廷中が唖然とし、
鼻白んでいた。

「アデール!」ごったがえす宮中で真空のようにぽっかりと人の姿が一瞬消えた回廊でレオニードはアデールを
やっと捉えた。「さっきのは何のつもりだ。」
振り返るとアデールはあたりを見回して周囲に人影が無いのを確認すると、やはり激しい調子でささやいた。
「あなたこそどういうおつもり?私が何も知らないとお思いなの?邸の者から聞いてますわ。あなたのような立
場の方が、無用心なことをなさっておいでね。他所にお囲いになるならとにかく。その内噂にでもなったらどう
なさるおつもりなの?あまり私に恥をかかせないでちょうだい。お忘れかも知れないけれど、あなたの妻はこの
私なのよ。」
「我々がいつまで名のみの夫婦でいられると思ってるのだ?もう時間の問題だ。さっきの皇帝陛下のご様子を見
てもわかるだろう。」
「それでもまだ私はあなたの妻ですわ。そしておかしなものね、結婚して以来、今ほど離婚したくない気持ちに
なった事はありませんでしたわ。」
暗い回廊でアデールの頬にきらりと光るものが流れるのが見えた。
「アデール・・・。」
「でもあなたは違う。むしろ皇帝陛下が離婚を命ぜられるのを待ち望んでおいでね。わかりますわ。ご心配なさ
らないで、陛下の命がくれば、受けますわ。でもそれは陛下のご命令を拒めないからではない。あなたが喜んで
受け取ってくださるのはそれだけだからよ。私からの自由、私からあなたに差し上げられるのはただそれだけな
のね。」
アデールはそう言うと、これ以上涙を見られることを恐れるように顔を背け、レオニードの返事を待たずに歩み
去った。その後姿は内面の動揺を写すことなく、あくまでも典雅だった。レオニードは初めて妻の心を見た驚きで
その場に立ち尽くしていた。だが、妻の後を追うことはしなかった。
81名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:43:05 ID:h2vNUIt3
(7)
「兄上、お願いがあるのですが。」数日後の晩餐の席でリュドミールが切り出した。
「改まって、何だ?」
「ユリウスを連れて射撃場に行ってもいいですか?」
「射撃場?フォンタンカのか?」「ええ。」
レオニードはぴんときた。リュドミールは幼年学校でたいそう優秀な成績をおさめていた。ことに実技の中で射
撃にずばぬけた才能がある事を学校側も興奮した筆致で成績書にわざわざ書き添えていた。将官となる身分では
実技に卓抜している事は特に重要では無かったが、リュドミールは少年らしくユリウスに自分のいい所を見せた
いのだろう。(まだまだ本当に子供だな。)とレオニードは思った。
「そんな危ないところに女を?駄目だ。」一言で切って捨てられ、リュドミールはふくれ面をしかけたが危うく抑
えて、「危ない所なんかでは無いですよ。兄上だってまだ僕が幼い時分、何度も連れて行って下さったじゃないで
すか。」ともう一押しした。「駄目だ。」とレオニードは繰り返した。「兄上が最初に僕を連れて行って下さったの
は確か8つの時でした。ユリウスはそれに比べれば随分大人だと思いますが。」
「リュドミール、お前は学校で指揮命令系統の基本を最初に教えられなかったのか?いい加減にしなさい。射撃
場は子供が女性を連れて行くような場所ではない。」

変にこじれてきた会話に残りの二人はやや呆気にとられていた。ヴェーラは仲介に入るつもりは全く無く傍観を
決め込み、それを察したユリウスは所在なくグラスをとるとワインを少しだけ口に含んだ。その動きでレオニー
ドがちらりと彼女を見た。
(お前は?行きたいのか?)レオニードの目は問いかけていた。ユリウスは射撃場自体には全く行きたいと思わ
なかったが、リュドミールの希望ならなんでもかなえてやりたかった。彼のわがままを聞く機会がこの先二度と
あるかわからなかった。
「リュドミールの休暇もあと少しだし・・・。」ユリウスは自分の言葉にわずかに哀願じみた調子がにじみでるこ
とに、自分もずるいなと思った。僕は女の武器という奴を会得してしまったのか?レオニードは一瞬の気の迷い
から「ではロストフスキーを連れて行け。それでないと駄目だ。」と言ってしまった。言った端から彼は後悔した
が、一度許したことを取り下げる事は無様過ぎてできなかった。それに彼はふと、ユリウスが過去の痛手をどの
程度乗り越えているのか知りたくなったのだ。彼女の美しい体に残された二つの銃創、それは現在と過去が繋が
っている事を声高に主張するものだった。もし射撃場に行って彼女が平気でいれるなら、それはレオニードにと
って良い兆候だった。

一方、ロストフスキーが大の苦手のリュドミールは(よりによって・・・)と思ったが、それだけ兄は用心し
たいのだなと感じた。ヴェーラは事の成り行きを見守りつつ、(リュドミールは反抗期に入ったのかしら?それに
してもユリウスはリュドミールに弱く、お兄様はユリウスに弱い・・・。そしてリュドミールはお兄様と私に弱
いわ。どちらかというと私により弱い。さて、私とお兄様は?)と作戦を練っていた。参賀の際のアデールのあ
てこすり、兄は何か言ってくるかと思っていたのに、まだ全く触れてきていなかったがそのままで済む筈が無かった。
82名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:43:26 ID:h2vNUIt3
あまり深く考えずに同意した事に、射撃場に着いたそうそうユリウスは後悔していた。射撃の音が想像もしなか
った程、過去の苦い記憶を甦らせる。おまけに当たり前だがそこにいるのは男性ばかりで、男装していても一目
で女性とわかるユリウスには一斉に好奇の目が注がれた。貴族や上級軍人しか利用できない射撃場とはいえ男は
男で、以前なら気づかなかったかもしれないが、今のユリウスにはそれらの視線に含まれる性的な興味、次第に
それらが粘つくようなものに変わっていくことが肌身で感じられた。これはレオニードが渋る筈だ。しかも同行
者はまだ少年のリュドミールと明らかに随行者の立場に過ぎないロストフスキーでは、周囲の目が無遠慮になる
のを止めるものは無かった。尤も気味悪いほどの静けさをまとったロストフスキーのおかげで、さすがにユリウ
スに直接声をかける者はいなかった。だが人々の好奇の目は、リュドミールが銃を撃ちはじめた途端、驚きと賛
嘆に変わった。

最初に彼が拳銃を選んだ際、「おやおや、坊やにはまだ水鉄砲を用意した方がいいんじゃないか?」と無作法な声
が聞こえたが、リュドミールは落ち着き払って流れるように美しく構え、一発目で過たず的の中心を撃ち抜いた。
射撃場全体が静まりかえった。それはこの年端もいかぬ少年が見事に命中させたからではなく、その銃と一体に
なったかのような美しい姿勢とまれに見る集中力、少しでも射撃をかじった人間なら、恐らく一生のうちに一人
見れるかどうかの天才をいま目の前にしているという事に気づかざるをえなかったからだ。皆、射撃場にまぎれ
こんだ男装だが妙にそそられる女の事は忘れ、かたずを飲んで、リュドミールが次々と銃を替え、何発撃とうが、
どの種類の銃だろうがすべて外さずに的のど真ん中を、あるいはきれいな円形を描かせて打ち抜いていくのを魅
せられたかのように見守っていた。

 ユリウスに自慢したくて射撃場まで連れ出したリュドミールだったが、銃を構えるといつものように、世界か
ら他の全てのものが消えた。あるのはただ、銃となった自分と標的だけだ。そして自分と標的の間には1本の輝
く細い糸があり、自分は正しく構えるだけで弾は勝手に標的に引っ張られていくのだ。自分が当てるのではなく、
標的が弾を吸い寄せる。そうとしか思えなかった。賞賛される度、なぜ皆はあの糸に気づかないのだろう?と
リュドミールは不思議にすら感じるのだった。

 ロストフスキーすら幼い頃からよく知っているリュドミールの思いがけない一面に驚かされ、見入ってしまっ
ていた。だから彼は傍らに立つユリウスの顔色がどんどん蒼白になっていくのに気が付くのが遅れた。彼女の体
がゆらりと揺れてからあわてて抱きかかえる始末で、そうでなければ、すんでのところでユリウスを泥だらけの
地面に崩おれさせるところだった。さすがに人々も魔法が解けたように、リュドミールから、謎のその連れに視
線を戻してどよめいた。ちょうど銃を替えようとしていたリュドミールも異変に気づき、明らかに意識を失って
いるユリウスを抱きかかえたロストフスキーのもとへあわてて向かった。観衆達はこの少年に拍手を送ったが、
リュドミールはそれに応える余裕はとても無かった。
83名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:43:47 ID:h2vNUIt3
 間もなくユリウスは射撃場の控え室の寝椅子で意識を取り戻した。
「ユリウス!だいじょうぶ?」と目を開けたユリウスにすぐさまリュドミールが覗き込んで声をかけた。そのあ
まりにも心配そうな様子に、「あ・・・、ごめん、せっかくリュドミールが集中してたところだったのに・・・。」
というユリウスに「そんな事・・・、それより気分は?ああ、起きないで、まだじっとしてて。今お医者さんも
来るから。」「お医者さん?おおげさな・・・。ただの貧血だよ。必要ない、今からでも断って。」
まさか過去、二度撃たれた記憶が甦って失神してしまったなどと言えたものでは無かった。

ユリウスはリュドミール達が意外に思うほど頑強に言い張って、ついに医者には会おうとしなかった。それでも
少し横になって、だいぶ楽になったユリウスはもう大丈夫だからと帰り支度を始めた。そしてこの事がレオニー
ドに知れたら、ますます自分の行動は制限される事に気づき、ロストフスキーに「ロストフスキー大尉、この事
はユスーポフ候には言わないで。」と言った。リュドミールは少し驚いてユリウスを見た。もちろん彼は兄にこっ
ぴどく叱られる事は覚悟していた。
案の定ロストフスキーは「あなたの護衛が今日の私の任務でした。それに失敗した以上、候にご報告しないわけには
参りません。」としかめつらしく答えた。
「失敗なんて・・・。貧血を起こしただけで何ともなかったのだし、言っても彼を不快にさせるだけだ。」
ロストフスキーは露骨に無関心そうに答えた。
「私は候に嘘はつけません。」

なんとなくきまずい空気で3人は車寄せに向かった。そこでリュドミールは手袋を忘れてきた事に気づき、ユリ
ウスをロストフスキーに託し急いで取りに戻った。二人きりになって、ユリウスはさっき意識を失う前の最後の
瞬間に彼に抱きとめられたことを思い出し、ふと考えた。「ロストフスキー大尉、もしかしたらあの時も・・・。」
言いかけた言葉を途中で飲み込んだ彼女をロストフスキーはいぶかしげに見下ろしたが「ごめん、なんでもない。」
と言われ、また前方に視線を戻した。戻ってきたリュドミールとちょうどやってきたユスーポフ家の車に乗り込
みながらユリウスは思った。(今さら、わかったとて仕方が無い。あの時、僕をそもそもユスーポフ邸に運び込ん
だのが誰だったかなど。)

車中で、リュドミールはユリウスの顔色がやっと戻ってきた事に安堵し、多弁になった。以前から兄には筋がい
いと褒められていたが、多忙な兄にはそうそう射撃に連れていってもらえなかった事、昨年、実技演習で初めて
本格的に取り組み、自分にとってはごく自然な動作だがひどく皆に驚かれ、おかげで難しい先輩達にも一目おか
れて学校生活が随分楽に過ごせている事などを早口でしゃべった。だがユリウスはなぜか聞いている内に古い銃
創が熱をもってきたように感じてひどく疲れがでてしまい、リュドミールに悪いと思う間もなく言葉がするりと
零れ落ちてしまった。
84名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:44:11 ID:h2vNUIt3
「でもリュドミール、君は撃たれた事は無いだろう?最初に体にはすごい衝撃が走るんだ。全身の骨の分子がば
らばらになるような。そして少し遅れて焼けつく様な痛みがやってくる。それは切ったり刺されたりする痛みと
は全然違うんだ。」
リュドミールは思わぬ言葉に驚いてユリウスを見た。運転手の隣に座っているロストフスキーもバックミラー越
しに彼らを見た。ユリウスははっとして「ごめん、リュドミール・・・変な事言ったね。どうか気にしないで。
忘れて。」
リュドミールはユリウスはもしかして過去の何かを思い出したのかと不思議に思った。だがそれよりも自分の話
の何かがユリウスの心を傷つけたらしいのが気になり、「ごめん、気分が悪かったのにぺらぺらしゃべって。」
「・・・ううん、気にしないで。あんな才能に恵まれてるなんて素晴らしい事なんだ。素人の僕がつまらない事
を言ってごめん。」
「・・・ユリウス・・・、僕はむやみに、命あるものを意味無く撃つようなことはしないよ、約束する。だから
安心して。」
「リュドミール・・・。」
ユリウスは彼の若い、まだ稚なさを残した顔を見つめた。この子は軍人になる。いつまでも動かない標的だけを
撃っているわけにはいかないだろう。彼のためにもそんな約束をさせてはいけなかった。
「リュドミール、そんな約束はしないで。」いつに無い強い口調にリュドミールは少し驚いた。「ユリウス?」
「約束してくれるなら・・・、必ず生き延びると言って欲しい。何があっても。君を愛する者のところへ生きて
帰ってくると。」
「ユリウス様」珍しくロストフスキーが言葉をはさんだ。「お言葉ですが。」ユリウスははっとした。
「何だ、ロストフスキー、黙ってろ。」リュドミールが背伸びした口調で乱暴につっぱねた。
「ああ・・・、僕、また変な事を言ってるね。ごめん。多分今日は僕は何をやっても駄目な日なのかも。少し眠
るから、リュドミール、手を握っててくれる?」「・・・うん。こう?」
「うん。ありがとう。」そう言ってユリウスは目をつぶった。
ミラー越しに注がれるロストフスキーの軽蔑しきった視線を感じながら。


実りの無い会議に倦んでレオニードは一人長い廊下に立ち、葉巻を吸いながら窓の外を眺めていた。誰かの足
音が近づいてきて、彼の傍らで止まった。異例の若さで秘密警察の副総監の座が近いとささやかれているグルシ
ェンコフだった。
「これはユスーポフ候。お久し振りにお目にかかります。私のことは憶えていただけてますでしょうか?」
「今やあなたの事を知らぬものは、少なくともここにはおりますまい。」と答えてレオニードは微笑んだ。
一見目立たない小男だったが、グルシェンコフは恐ろしいほど有能な男だった。そして係累も資産も持たぬ彼が
このように早く、それも秘密警察という特殊な部署でのし上がってくるには相当な暗躍もあった筈だが、確たる
噂をのぼらせない事がかえって彼の底知れなさを示していた。「いつもの副官どのは今日はご一緒でないので?
あのような人材は貴重ですな。できれば私の部署に欲しいほどです。」
レオニードは口元だけ微笑んで聞いていた。この男がただの雑談で声をかけてくる筈はなかった。果たしてグル
シェンコフは無駄話はせず、すぐに本題に入った。
85名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:44:34 ID:h2vNUIt3
「ところで候はアナスタシア・クリコフスカヤ嬢をご存知ですな?」
「妹の友人で幼馴染ですな。私は数年お会いしていないが。」
「ところが妹君は交際を再開されたようです。あなたの視察中に、かなり頻繁に車が往来している。好ましくな
いですな。アナスタシア・クリコフスカヤは革命分子です。」レオニードはさすがに驚き、グルシェンコフの次の
言葉を待った。
「驚かれたようですな。」
「・・・。確かに。思いもかけない事だ。しかしそれではなぜ放置を?」
「我々は言わば彼女を泳がせているのです。彼女の資金と社会的地位を利用すべく様々な連中が寄ってくるので、
彼女を張っていれば自然に情報が集まってくる。※※通りのマダム・コルフの店が連絡場所として使用されてい
ることなど、我々には実に有難い情報でした。ああ、娼館です。いや、尾籠な話で失礼した。なかでも我々が特
に興味があるのは海外の資金提供者達の情報です。どのようなルートで、誰が資金や武器を提供しているのかを
ね。彼女を張っていれば必ず浮かんでくる筈だ。その為なら、いま大した動きはできない国内の革命派の動きな
どしばらくは放置しておけます。今彼女を捕縛してしまうより、そのほうが我々にはよほど得る物が大きいのです。」
レオニードは黙って聞いていた。

「彼女が加わっているのはボリシェビキの一派で名門貴族の令嬢が加わるのはいささか不向きな集団だ。育ちの
良い彼女は甘い。女だてらにルジェノフスキー将軍を暗殺した奴を覚えておいでかな?彼女は下級貴族出身だっ
たが、顔面が一生元に戻らぬほど殴打され乳房を焼かれた上、お聞き苦しい話ですが、取調べの口実で繰り返し
陵辱されても転向せず、口を割らなかった。逮捕から5年以上、いまだに監獄で頑張っておりますよ。だがクリ
コフスカヤ嬢にその根性があるとは思えませんな。そのうち必ずぼろを出すでしょう。まあ、遅かれ、早かれ時
間の問題ですが。」黙って聞いていたレオニードに向かい「なんとも長話で失礼した。そういうわけで、アナスタ
シア嬢は妹君にはふさわしくない交際相手と存知上げるが。」とグルシェンコフは話を結んだ。
「ご親切、いたみいる。」とレオニードはグルシェンコフの方を向き、にっこりと笑った。グルシェンコフはそれ
を受けて、軽く礼をすると、再び歩きだそうとした。そこへレオニードは声をかけた。「しかし、なぜわざわざ?」

グルシェンコフは振り向いた。お互い、微笑みは目には及んでいなかった。彼は言った。
「私は常に保険をかける男です。異常値を見つければそれを排除し、均衡を保つ。そしてまた次の異常値を潰す。
異常値同士はたいがい関連しております。そして世界は異常値の上位にいくつかの極点があって均衡を保ってい
る。失礼ながらあなたは宮廷内のもう一方の隠れた極点で、私の世界の均衡を保つには大事な存在なのです。」

(食えない男だ。)レオニードは思った。彼はラスプーチンの引きも強い男で、異例の速さの出世にはその影響も
ささやかれていた。ロシアの早い夕日にグルシェンコフが長い影を落としながら廊下の角を曲がって姿を消すと、
まるで入れ替わるかのようにロストフスキーがこちらに歩いてきた。


 帰宅した二人はヴェーラと食堂で午後のお茶を飲んでいた。そこへレオニードの足音が聞こえてきて三人は顔
を見合わせてため息をついた。ユリウス達を邸に送り届けた足でロストフスキーは軍部に戻ったので今夜はレオ
ニードにこってり絞られることは覚悟していたが、まさかこんなに早く戻ってこようとは。案の定、勢いよく食
堂の扉が開いたかと思うとつかつかとレオニードが入ってきた。リュドミールは慌てて立ち上がり、ユリウスは
レオニードから視線をそらした。
86名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:44:55 ID:h2vNUIt3
レオニードはまずユリウスを見て「何で起きてるのだ。休んでなさい。」と言った。
「ただの貧血だったのだし・・・」とユリウスは言いながら、レオニードがリュドミールに向き直るのを見て
「レオニード、リュドミールには何の責任も」とさらに言葉を継ごうとしたが、「おまえには関係が無い。これは
私と弟の問題だ。行きなさい。」と言われ、引き下がらざるを得なかった。リュドミールはレオニードと書斎に向
かいながら(だいじょうぶだから)と目顔でユリウスに伝えた。ヴェーラはやれやれと二人についていった。

リュドミールは兄の前にうなだれて立っていた。ユリウスにはああ目顔で合図したものの、静かな分、兄の怒り
は本当に久しぶりの大きさで彼を威圧していた。そんな弟を机に腰をかけた格好で腕組みし、しばらく黙って見
つめていたレオニードはようやく口火を切り、
「私の言いたい事はわかっているな?」と言った。「はい兄上。」うなだれたままリュドミールは答えた。
「・・・今日の事は私が許可した。だから私の過ちだ。お前達を行かせるべきではないとわかっていたのだから。」
「・・・。」
「だが。」と言うとふいに身を起こしてレオニードはうつむいていた弟のあごを開いた手で力任せに掴み、驚いた
顔を仰向かせると、
「リュドミール、これに懲りて二度と己が護るべきものを自らの手で危険にさらすような事だけはするな。取り
返しのつかない事になって後悔するのはお前自身だ。わかったな。」と言い渡した。リュドミールはしばらく硬直
していたが、やがて「わかりました。」と慄える声で言った。「よし。」と言うとようやく弟から手を離し、「もう
良い、下れ。」とレオニードは命じた。それまで黙って見ていたヴェーラもリュドミールについて書斎を出ようと
した時、「ついでだ。ヴェーラ、お前は残りなさい。」と声がかかり、ヴェーラは(ついにきたか)と思い、しょげた
弟の後ろで扉を閉めるとレオニードの前に進んだ。


ヴェーラはまず自分から口火を切ろうとしたが、兄に先手を取られた。だがそれは彼女には意外な言葉だった。
「ヴェーラ、おまえは最近アナスタシア・クリコフスカヤ嬢と近しいのか?近頃ひんぱんに外出しているという
が行き先は彼女のところか?」「・・・え・・・?」「どうなのだ?」これはユリウスの事を聞かれるのだろうか?
ユリウスがアナスタシアとのレッスンの事を兄に話した気配はまだ無かった。ヴェーラは一瞬頭の中で思いを巡
らせた。射撃場で倒れてしまったすぐ後でこの話となると、ユリウスはますます外へ出されなくなり、アナスタ
シアの求めに応じられなくなるかもしれない。「ええ・・・。夏、久し振りに偶然会いましたの。しばらく彼女と
は会っていなかったのですが、それ以来、またお付き合いさせていただいてますわ。」
「彼女にはもう会うな。」ヴェーラは思いがけない物言いに少し驚いた。

「・・・理由はお聞きできますの?」「聞くな。ただ、交際を控えればそれでよい。」いつものヴェーラなら、
さすがに自分の旧友との交際に関してとあってはもう少し食い下がっただろう。だがユリウス、さらに何と言っても
シチューキンとの交際を兄に認めさせたい彼女としては、ここは1歩譲る事にした。ユリウスにもこの事は伝えて
話がこじれないようにせねば。
「・・・理由を教えていただけないのは残念ですわ。でもご命令ですのね。お話はそれだけ?」
「私からはな。お前の方が何か私に言うべき事があるのではないか?」
兄がこう出るとは思わなかったが、アナスタシアの件でこちらが譲った今はいい機会だ。ヴェーラは淡々と答え
た。「折を見てお兄様にはご報告しようと思っておりました。新しい友人が出来て、近い内にお兄様にもお引き合わ
せしたいのです。」
87名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:45:16 ID:h2vNUIt3
「あれのあれこすりは本当だったわけか。お前も一応未婚の娘だ。立場はわかっているであろう。婚約もしてい
ない男としょっちゅう会っているという事か?」
「お義姉様が存外我が家の事をご存知なのには驚きましたわ。無関心ではおられないのですね。」
「アデールの事はいい。お前の話だ。」ヴェーラは軽くため息をつくと兄を見つめなおして言った。
「ええ、貴族の娘としてははしたない行動かもしれませんわね。でも私はあの方と出会えて幸運だと思っており
ます。相手の方の名前はセルゲイ・シチューキン。貴族ではありませんが、私には何の問題もありませんわ。」
「シチューキン・・・。あの布屋のか?」
ヴェーラは軽く肩をすくめた。シチューキン家はいまやロシア有数の財閥だったが元々は繊維業で頭角をあらわ
した一族だ。だが兄はじめ、頑迷な因襲制階級主義の貴族の眼には「布屋」に過ぎないのだろうと、まるであんな
に嫌っていた共産主義者のような感想を抱いた。

「身分など関係無いと言いたげだが、我々侯爵家の人間の結婚には皇帝陛下の許可が必要な事を忘れたわけでは
あるまいな?それとも純粋に『友人』として火遊びで留められるのか?」
「あの人に会っていただければお兄様もおわかりになりますわ。」
今度はレオニードが肩をすくめた。ブルジョアになど会う気は無かった。ヴェーラもまさか一度で兄を説得でき
るとは思っていなかったので、今日のところは最小限の話だけでも出来た事に満足し、アナスタシアの件につい
て掘り下げるところまで頭がまわらなかった。

弟、妹と説教を続けてうんざりしたレオニードは、着替えようと従僕を呼んで居室に入るとそこにユリウスが
いて、少し驚いた。
「・・・寝ていろと言ったろう。」と大きな椅子にすっぽり包まれるように座っているユリウスの髪に思わず触れ
ながら、レオニードは口調だけは咎めるように言った。「病気でも無いのに寝れないから。」とユリウスは答え、
レオニードが着替え始めると立ち上がって窓際に行った。軍服を脱ぎながら彼は声をかけた。

「そう楽しい所では無かっただろう。」
「・・・うん。銃声を聞いているうちになんだか気が遠くなってしまって・・・。」とユリウスは外を眺めながら
正直に報告した。(やはり駄目だったか。)とレオニードは思った。
「でもリュドミールは本当に凄かった・・・。何を、何発撃っても決して外さなかった。みんな集まってきて、
びっくりしてたよ。あんなに美しい構えを初めて見るって誰かが言ってた。」
「・・・そうか。」
「僕が自分で判断して行ったんだし、リュドミールは実に見事だったんだ。それだけはあなたに言っておかないと
と思って。」「わかった。」
話しながら、二人ともこんな風に普通に会話するのは実に久し振りだと気づいていた。着替えを終えたレオニー
ドは従僕を下がらせ、窓の方を向いたままのユリウスに近づくと射撃場でさぞ他の男の視線にさらされていただ
ろう彼女の体に後ろから腕をまわし、自分の中に包み込むようにした。
ユリウスはその抱擁にかかとから力が抜けるような安堵感を感じた。あの射撃場で男達に浴びせかけられた全身
を撫でまわすような視線を思い出し、自分が今日は本当に異質な緊張感の中に居た事を実感し、それが彼の腕の
中でゆっくりとほぐれていくのに任せた。レオニードは無事彼女を取り戻せたとでも言わんばかりの自分の態度
の情けなさに腹を立てつつも、しばらく身を離す事ができなかった。先ほど弟に言ったことは、まさに自分に向
けての言葉だった。弟にではなく、自分自身に怒っていたのだ。この女を護りぬけなかったら、傷つくのは彼自
身だった。
88名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:46:21 ID:h2vNUIt3
(8)
リュドミールが短い休暇を終えて学校に戻る日が来た。「今度はユリウスがモスクワに遊びに来てよ。絶対だよ。」
彼はそう言って、敬礼をしてみせた。入学前、ここを発つ時の見よう見まねのそれとは違って見事に決まって
いて、逆にユリウスは噴き出してしまった。「何だよ、ひどいなあ。」と言いながらリュドミールは笑って「じゃあ。」
と大きく手を振ると、車に乗り込んだ。ユリウスは車がユスーポフ家の門を出て見えなくなっても、いつまでもその方向
を見送っていた。

あの日、リュドミールがレオニードに酷く叱られた事をユリウスはヴェーラからそれとなく聞かされていた。
リュドミールは気にしないように振舞っていたが、兄弟間に何かしこりが残されたような気がしてユリウスは少
し心配だった。だがそれより衝撃だったのは、ヴェーラがアナスタシアとの交際を禁じられたという一件だった。
ヴェーラもいつもの彼女ならもう少し食い下がってもよさそうなものなのに、理由は良くわからないが、彼女な
りの判断で少し様子を見るつもりらしかった。
ユリウスは激しい不安を感じた。レオニードがヴェーラに理由を告げずに交際を禁ずるというのは、もしかして
アナスタシアの活動が漏れているのではないだろうか。何か他の事に気をとられているようなヴェーラにそれ以上
聞けず、ユリウスは不安で煩悶した。
そして彼女をさらに陰鬱な気分にさせるのは、そんな会話があったとは知らず、あの日晩餐前の短い時間だという
のに、あのままレオニードに抱かれていた自分の救いがたさだった。それはむしろ自分から求めたといってもいい
程で、それ位彼女は射撃場での経験に脅えていて彼にそれを鎮めて欲しかったのだ。レオニードは求めるでなく静
かに抱いていただけだったのに、ユリウスはそっと体の重みを彼に預け、それは抱いてくれと合図したのも同然
だった。結局立ったまま求め合い、身を壁に押し当てられ両足を抱え込まれ、彼の首に腕をからめてしがみつき、
レオニードを受け入れながら、ようやくユリウスは人心地がついた思いだった。
どれだけ自分がこの男に依存してしまっているのか、ユリウスは最悪の形で思い知った。そしてアナスタシアの
件が彼女の心に不安の楔を打ち込んでいた。

下町を、ヨシフは心配事で頭を一杯にしながら歩いていた。今日の午後は休みをもらって、洗濯女のジーナと
落ち合う約束をしていた。なけなしの金を奮発し映画を見て、何か食べさせて・・・。だが彼の頭を一杯に
している心配事とは付き合っている彼女の事ではなく、とある疑問と不安だった。
(おかしい、報告書の並びが違う・・・。候のご帰還前に直しておいたけれど一体、なぜ・・・。叔父にも言えな
い、こんな事は・・・。動かすとしたら彼女しかいないのだけど、そんな筈もない。僕も中身は知らないけれど
女性が見たがるようなものではないのだし・・・。)
誰にも言えないだけに日に日にその心配は膨れ上がり、いまや彼の頭はその事で占領されていた。だから彼は突
然ものすごい勢いで荷馬車が飛び出してくることに、最後の瞬間まで気づかなかった。気づいた時には信じられ
ない程の激痛と共に道路に転がり、上に荷馬車の残骸がのしかかっていた。誰かが「御者が逃げたぞ!」と叫ぶ
のを聞きながらヨシフの意識は薄れていった。

それは吹雪とまではいかないものの、雪が絶え間なく降り続ける日の事だった。ユリウスは朝食の後も軍部に
向かう様子もなく、新聞に手を伸ばすレオニードを不思議に思い、訊ねた。
「こんな時間なのにまだいても良いの?」
「もう少ししたら礼拝所で葬式だからな。」
89名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:46:42 ID:h2vNUIt3
「・・・お葬式?」意外な答えにユリウスは目を見張った。ユリウスはロシア正教であるユスーポフ家の礼拝所
に足を踏み入れた事は無かった。使用人の葬式も邸内で行うとは知らなかった。
「従僕が一人死んだ。まだ若い男だったが、かわいそうにな。」
「・・・全然知らなかった。気の毒に。僕の知ってる人だろうか。」
「お前は知らぬのでないか?ヨシフは入って日が浅かったからな。」
瞬間、ユリウスの体は硬直した。(いけない)、と思う間も無く彼女は「ヨシフ?」と問い直した。
レオニードは怪訝そうに彼女を見た。ユリウスは(中途半端な嘘が一番危険なのよ。一部省略された事実という
のが人を欺くには最も効果的ね。)というアナスタシアの言葉を思い出して言った。
「朝、書斎にいる人でしょう?一度鉢合わせした事がある。」
「ああ。」とレオニードは納得した様子で新聞に目を戻した。
(葬式に僕も出たいなどと言うと疑われるだろうか・・・。疑われるだけだ・・・。それに女主人のアデールや
ヴェーラならとにかく、僕はそんな立場の人間では無い。僕はたまたま存在を許されている愛人にしか過ぎない
のだ。使用人たちの僕を見る目には「堕落した女」と書いてある。僕が葬式に出るのはむしろ死者への冒涜とと
られるだろう・・・。)ユリウスは汗ばんだ手を握り締めた。
不安という楔が打ち込まれて出来た心の亀裂が、疑惑という介添えでまた一層深く、大きくなるのを彼女は感じ
ていた。


「侯爵様、これは何て書いてあるんですか?私は学が無くて字が読めないのです。」葬儀が終わった後、目を真っ
赤に泣き腫らした若い女がレオニードに尋ねた。ヨシフの恋人ででもあったのだろうか。周囲の使用人たちが非
礼を咎めて彼女の袖を引いたが、レオニードは構わず答えた。
「これはラテン語という昔の言葉だ。読めずとも困らん。ここには『神は与え、また奪い給う』と書いてある。
お前も知っている言葉だろう。」
「・・・ええ、聞いた事あります。大事な人を無くしたら、みんな同じような事を考えるんですね・・・。
ありがとうございます、侯爵様。」
切れ切れにそういうと女は使用人仲間に囲まれて礼拝堂を去っていった。埋葬までは付き合わないレオニードは
その姿を見送った後、再びその墓碑銘に目をやった。それは何代か前の侯爵夫人が幼い長男に与えた墓碑銘だった。

ユリウスはその夜まんじりともできず横たわっていた。ヨシフの死は恐ろしい衝撃だった。レオニードは幸い葬
儀の後は軍部に行ってしまい、そのまま泊り込みだったので、硬直した体で抱かれて不審を抱かれる危険は少な
くとも昨夜は免れることができた。

事故だとレオニードは言っていた。ユリウスは後で執事を呼び止めて詳しい事を聞いた。外出先での事故。
突然突っ込んできた荷馬車。だが御者は姿をくらましてしまい、ヨシフは死に損だ・・・。かわいそうに、
敗血症さえ起こさなかったら2〜3ヶ月寝込んだだけで回復したろうに・・・。あんなに長い事苦しんで・・・。

事故・・・。本当に・・・?いや、ヨシフを狙って、何の得があるだろう。報告書はアナスタシアからそっくり
の封蝋で閉じられて返され、ユリウスが元の場所に戻しておいた。今更ヨシフを手に掛ける必要は無い筈だ。
ユリウスは夜通し寝返りをうち、寒気がするのに何度も額の汗をふいた。違う、絶対に違う。だが確かめように
も、
脱出の合図がくるまで彼女からアナスタシアに連絡をとることは不可能だった。ユリウスは闇の中で顔を覆い、
うめいた。「絶対に違う。」だが、闇は何も答えず、いっそう暗さと密度を増してユリウスを押し潰すようだった。
彼女は結局一睡もできず朝を迎えた。あの、昔なじみの罪の感覚がまた彼女をがっちりと掴み、あまり強いとは
いえないその精神を握り潰そうとしていた。
90名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:47:04 ID:h2vNUIt3
(9)
翌朝、ユリウスは自分の目が信じられなかった。ロシアの冬としては奇跡的な事に空は一片の雲も無く晴れ渡り、
真っ白な外界は一面にきらきらと、いや目がくらむように輝いていた。ユリウスは朝食も取らず、サロンから
呆然とそれを眺めていた。そしてまるでその輝きに吸い込まれるように扉を開け、外に、白色と光の世界に踏み
出していった。誰かが止めようとしていたが、その声は全く彼女の耳に届かなかった。

「あれは?」朝になってようやく帰邸できたレオニードは軍帽をとり、外套を脱ぎかけながら聞いた。
「は・・・。それが晴れてるからと言って庭の方にお出になってしまいました。随分お止めしたのですが・・・。」
雪かきした石張りのテラスから足跡が点々とすっかり白一色となった庭園についていた。レオニードは外套を
まとい直し、急いで足跡を辿った。

何度もその下でリュドミールと共に寝転んだニレの大木の近くでユリウスは一人、ずいぶん長い時間立ちつくしていた。
青い空は自分を吸い込んでいくようだった。庭も木立も邸も雪に包まれて白く、昨夜の煩悶の闇が嘘のように、
どこまでも白と青の清浄な世界にユリウスは立っていた。
全ての罪も過ちもまるで存在しないようだった。そんな事は錯覚だとわかっていても、今、ユリウスは世界の
全てが自分を包み込み、昼間なのに突然空が透明になり、星までが見え、天空が自分を吸い込んでいくような
感覚に襲われた。なぜこの罪深い自分がそんな風に思えるのかわからなかった。だが、罪も過ちもそのままに、
自分は今大地に立ち、世界と向かい合っている。何もかもが一瞬で永遠だ、罪も穢れも慟哭も。ただ自分は生ま
れてきてここに在る。
ユリウスはいま全てを了解し、許し、許されたと感じた。自分が負う負債は人の世の時間と矩の中で返すべき時
が必ず来るだろう。だが今、自分はこの一瞬、それを離れた時間にいる事を何者かが許したのだ。この奇跡の感
覚を失うまいとユリウスは空を見上げた姿勢のまま目を閉じて立ち尽くしていた。

みじろぎもしない彼女の様子に声をかけそびれて少し離れた所からユリウスを見ていたレオニードは、ふと彼
女が実際よりひどく遠い所にいるような気がし、その名を呼んだ。

「ユリウス!」
91名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:47:24 ID:h2vNUIt3
ユリウスはその声でふっと遠い所に行っていた何かがまた体内に戻ってくるのを感じた。そして振り向いて、
今しがたの不思議な感覚で洗われた目でレオニードを見た。
背の高い、強い、自分を愛している男。

レオニードは大股で近づいて来て言った。
「何をしているのだ。少し晴れてるからといって不慣れなお前が一人で出るな。ロシアの冬を舐めてはいけない。
庭で凍死などいい笑いものだ。」
ユリウスはどこか不思議な表情でレオニードを見つめていたが、ふと頭をめぐらせ、木々の梢を見て言った。
「ああ・・・ヤドリギが見たくなって。ほら、あそこにある。」
「下まで行ってキスでもするか?」「大晦日はとうに過ぎたよ。」
だがレオニードは笑ってユリウスを捉えてくちづけした。そしてそのまま彼女を抱くとしばらくじっとしていた。
「レオニード・・・?」ユリウスのいぶかしげなな問いかけに、「いや、何でもない。晴れている内に戻らねばな。」
と言ってレオニードは外套を片袖脱ぐとユリウスを引き寄せてその中に包み込み、彼女の肩を抱いて邸の方へ歩
き始めた。
「ほら見ろ、雪雲が出て来た。あっというまに吹雪になるぞ。」

ユリウスはそっと彼の肩に頭をもたれかけさせた。さっきの不思議な感覚がまだ残っていて、それが彼女にもう
突き詰めて考える事をやめろと告げた。高まる緊張を勘づかれ、怪しまれれば全ては水泡に帰してしまう。自分
の命は惜しくはないが、クラウスの計画だけは頓挫させてはいけない。
ユリウスはクラウスの脱獄は魂の全てをかけて念じていたが、自分が脱走しおおせるとは何故かどうしても信じ
られなかった。しかし警察に引き渡されて口を割るくらいなら、殺された方がましだった。
だがレオニードは自分を他人の手に引渡しはしないだろう。必ず自分の手で始末をつけようとする筈だ。彼女は
半ば死を覚悟していた。それに一方ではレオニードに応えずにおれない自分がいる事もまた真実だった。それが
たとえ愛ではないにせよ。
真実の中の偽り、偽りの中の真実。どちらかだけを抽出する事など出来るだろうか?いずれにせよ残されている
時間はもう少ない。もうすぐロシアの長い冬も終わる。そしてシベリアにも春が来る。本当にあと僅かな時間、
自分の生に残されたのはこの僅かな時間だけなのだ。ではその間だけでも自分はレオニードのものでいよう、
例えそれがどんなに欺瞞に満ちた残酷な仕打ちでも、誠実さのかけらもない事でも。自分は必ずその負債を払うだろう。
ユリウスは善悪の彼岸に立ち、ただ自分の生を燃焼させろと何者かが言う声を聞いていた。この時ユリウスは気
づかなかったが、出会って以来初めて彼女はレオニードよりも高い地平に立っていた。
92名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 07:47:46 ID:h2vNUIt3
次の朝がきた。レオニードの腕の中で目覚めたユリウスはカーテンから差し込むまだ弱弱しい冬の朝の光を見つ
めていた。いつかの朝もこうだった。レオニードに全てを明かしてしまったあの夜が明けた時、濁流から打ち上
げられたような思いで朝の光を見ていた。あれからどれだけの時が過ぎたのだろう。あの時、多分自分は生まれ
変わったのだろう。今の自分は記憶を失う前とも、記憶を失っていた時とも違う人間だった。おそらくこの傍ら
で眠っている男が、真実を恐れない男が僕を作り変えてしまったのだ。かつて罪から逃れてきた孤独な、17歳の
自分、決してあれから自分の力で強くなったわけでも賢くなったわけでもなく、ただこの男の強い腕に護られて
力を与えられ、正気を失わずに生きてこれただけだ。でも今、僕はその中からすり抜けようとしている。生きた
ままでなのか、死体となってかはわからないが、もはやこの腕の中に留まることは叶わなかった。
(時が近づいている。)そう思い、自分でも気づかなかったがユリウスは微かなため息をついた。

すると眠っているとばかり思っていたレオニードが彼女を引き寄せた。そして横たわったまま長い指でユリウス
の髪を直してやりながら、寂しいか?と聞いた。ユリウスはすぐに彼が聞いているのがリュドミールの事とわか
り、小さく微笑んだ。レオニードには寂しさを見抜かれていたが、その本当の理由まではわかっていないだろう。
あなたは?弟が手元にいなくて本当は寂しいのでないの?一笑にふされると思っていたのにレオニードは返事を
せず黙ったままユリウスを見つめて微笑んでいた。ユリウスはふとその微笑みに触れたくなり、手をあげると彼
の頬にさわった。レオニードは一瞬驚いた顔をしたが目を閉じ、やがてユリウスの指先が離れると優しくその手
を握り、そっと手のひらにくちづけした。

「あいつがもう少し長く家にいたらきっとお前に惚れていただろう。そうなると面倒な事だ。」レオニードはユリ
ウスを自分の上に抱き上げながら感傷を断ち切るように言った。
「まさか。」レオニードは笑った。「お前は本当に男を知らぬな。」ユリウスも笑って首を振った。わかっていない
のはレオニードの方だった。リュドミールは決してそんな目でユリウスを見る事は無いだろう。彼らはいわば何
かの間違いで別の親から生まれた兄弟のような存在だった。だがもう自分は彼には会えない。あらゆる裏切りの
中で一番辛いのはもしかするとこの事かもしれなかった。だがレオニードはいつまでもユリウスを物思いにはふ
けらせなかった。たとえ弟であろうとこれ以上この二人の時間に誰かを割り込ませるつもりは無かった。彼はさ
っさと仕事にかかった。
93名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 09:58:39 ID:XtISsDvI
それからしばらくたったある日の夕方、レオニードは執事と女中頭が廊下でひどく深刻な表情で顔を付き合わせ
ているところに通りがかった。珍しい事に二人は何やら意見が割れているようだった。
「どうしたのだ?」 「は・・・。いや、こんな事をお耳に入れるのもどうかと思っておりましたが、洗濯女が
一人、最近おかしくなってしまって段々手に負えなくなってきたので、その処遇をいかがしたものかと・・・。
先日のヨシフの葬儀の時、身分もわきまえず、旦那様に話しかけたあの娘でございます。」
「どうかしたのか?」
「はあ・・・。実はどうもヨシフと言い交わしておったようで、看病も彼女があたう限りついてやっておりまし
た。ヨシフは敗血症だったので随分うなされていたようで、繰り返し同じうわごとを言っていたとかの事で。」

女中頭が言葉を添えた。「あの娘も・・・まあ前から少し変わった娘ではありましたが・・・葬儀の後、明らか
におかしくなって、憑かれたようにその事ばかり言っているのでございます。仕事の最中にいきなり叫びだしたり
・・・かと思うとじっと石のように固まっていたりで。昨日はついに3階の窓から飛び出そうとする始末で。この
ままでは、とてもお邸には置いておくわけには。かと言って帰せる里もあの娘にはもうありませんし・・・。」

レオニードは少し興味を引かれて聞いた。「ヨシフは何と言っていたのだ?」
「はい・・・しきりに、順番が違う。彼女が。と繰り返していたそうで。娘の方は言い交わしていたのに、他に
女がいたのかと大層裏切られた気持ちでおるようで。でも何もそのような事ぐらいであんなに。やはりもともと
あの娘は少しおかしかったのでございます。」
だがその瞬間レオニードは立ち尽くし、足元に亀裂が走るのを感じた。グルシェンコフの声が聞こえた。「異常値。」


執事達はヨシフの作業の具体的な事は知らないだろう。彼らにとっては毎朝届けられる機密文書もただの「書類」
だ。
もちろん余分な好奇心など抱かれては論外だ。ヨシフとてその内容については全く知らず、興味も持たず、ただ
定められた手順通りに勤めていたろう。だがその厳密に定められた書類の並べ方、「順番」はあの若い従僕には大
きな意味を持っていた筈だ。それともあの哀れな娘が思い込んだようにヨシフの「女」の順番か?前者の場合で
は「彼女が」とは何だ。どちらにせよ確かめる方法は一つだった。黙ってしまった主人を訝しげに見つめる執事
達に「金はかかってもよい。その娘の事は、悪くないようにしてやれ。」とだけ言うとレオニードは足早に書斎に
向かった。

廊下を歩みながら、彼は最近この邸内に起こっているいくつかの出来事を思い浮かべていた。異常値はどれだ。
たわいも無いものもあれば、単独のものもあるだろう。だが、関連しているものが確かにある筈だ。ヨシフの唐
突な事故と死、おかしくなった洗濯女、アナスタシアとヴェーラ、妙にまだ邸内の事にくわしいアデール、ヴェ
ーラとシヴェンスキー、子供から男になりかけているリュドミール、リュドミールとユリウス。
94名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 09:59:08 ID:XtISsDvI
ユリウス。そこまで考えたところで彼はちょうど隠し部屋の前に立っていた。明らかにヨシフの死に驚いていた
ユリウス。彼女は気の優しいところがあり、それがいいか悪いかは別として使用人の自尊心を認める類いの人間
だった。だからヨシフの存在に気づいていても不思議ではない。だが。
レオニードは退屈さえ感じさせる一連の作業を経て隠し部屋に入った。暗号化された報告書。同じものは視察先
にも数日遅れで届けられており、帰還後は朝届けられたものに目を通すと彼はすぐ暖炉で燃やして処分していた。
だから彼はうかつにもしばらくこの隠し部屋に保管してあるものの処分を怠っていた。(処分は必ず彼自身が行っていた。)
一番下段がそれだ。彼は膝をつき、封筒の並びを確かめた。一見同じに見えても微妙に異なる紙質の封筒。
決して時系列順に並ばないように順番は厳密に定められている。見たところそれは破られていない。ではこの事
ではないのか?どちらにせよこれらはもう焼却せねばならない頃合だ。レオニードはいくつかの封筒をまとめて
引き出し、そして気づいた。封蝋は偽造だった。
ヨシフは封蝋の偽造には気づけなかったろう。かなりよい出来だったからだ。だが、今までの人生で何百、いや
何千何万という封蝋をペーパーナイフで切ってきたレオニードは違う。彼はありとあらゆる封蝋を見ている。爵
位、皇室、軍隊、年齢、様々な階位による差意がそこにはあった。そしてこれは偽者だった。彼は丹念に見てい
った。ある一定期間のものだけが偽の封蝋だ。彼はその一つ一つを開けていった。中身は本物だったが、いつも
開封する時の、あの手が切れるような感触は無く、明らかに既に人手が触れていた。
もう認めざるを得なかった。この邸にはスパイがいる。またしても。

晩餐の席でヴェーラは執事に訊ねた。
「お兄様は?今日は早く帰っておみえでなかったの?」
「何か調べ物があるとかの事で、今日は書斎の方に軽食をお持ちするようにと。」
「あら、最近の兄上にしては珍しいわね。」
ユリウスも少し怪訝そうな表情を浮かべていた。ヴェーラの見るところ最近の二人の関係は随分安定してきてい
た。ユリウスは幸福そうとまではいかなかったが何か以前とは違う落ち着きをまとっていたし、兄は明らかに態
度を改めていた。今はシチューキンという存在が心のあらかたを占めていたので、ヴェーラは兄とユリウスを割
と気楽な気持で見ることができるようになっていた。一瞬、ヴェーラは兄も居ないこの席でシチューキンとの事
をユリウスに話しておこうかと思ったが、何かに気をとられているユリウスの様子を見て、やめにした。

レオニードは書斎で一人、灯火もつけさせず、闇を見つめていた。幾つかの可能性があっても最も疑わしいもの
がどれかは考慮の余地も無い程だった。後はそれを自分が受け入れられるかどうかだけの問題だった。何かを振
り切るように立ち上がると、彼は夜半だというのにロストフスキーに車を出させ、邸を出て行った。市中を走ら
せてくれというあいまいな命令で、途中下町の火事にぶつかり、車は止まらざるを得なかった。ロストフスキー
は恐縮したが、レオニードは黙って少し先に見える炎と煙の方を見ていた。ようやく車が動き出し、冬宮前の広
場に停めさせると、一人車外に出てじっと冬宮を眺めていた。結局その晩は彼は軍部に戻り、その日は邸には帰
らなかった。
95名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 09:59:30 ID:XtISsDvI
ユリウスは一人、レオニードの寝室で暖炉の火を見ていた。期日は定められていなかったが、アナスタシアから
の使いがくるまで、もうそんなに日数は残されていない筈だった。もし来なければ?このまま何らかの理由で放
置されたら?そんな疑いがふと胸をよぎったが、その問いは意外な程重みを持たなかった。その時は自分は死を
選ぶだろう。ひどくあっさりと何の気負いも無く、ユリウスには自分の選択が見えた。アナスタシアの(あなた
は生きる事を恐れているだけだわ。)という言葉が脳裏をかすめたがユリウスは首を振った。彼女と自分の生き方
は違う。
こうやって一人で夜半、暖炉の火を見ていると、あの夜をどうしても思い出す。母はひどくやつれた顔で聖書を
燃やしていた。ふとユリウスは母を哀れに思った。だがそれはもう遠い遠い過去の事だった。今夜のユリウスは
レオニードを待っているだけの、ありふれたただの愛人だった。やがて廊下を歩む足音が聞こえてきて、ユリウ
スは微笑んで立ち上がった。

だがその晩ユリウスは彼の激しさに驚いた。レオニードは寝室に入ってくるなり無造作に灯りを全て消してし
まい、無言でユリウスを突き倒すように横たえた。こんな抱き方をされるのは久し振りだった。だが短い時間で
絶頂近くまで追いやられた後は、あと少しというところで何度もそらされ、ユリウスは不満に泣き叫びそうにさ
せられた。長い時間繰り返し焦らされ、おかしくなりそうになったところでレオニードは一転して滅茶苦茶に突
いてきた。まるで彼女を壊そうとでもするかのように。
ユリウスはもう何が何だかわからなくなり、自分が泣いているのか獣のように叫んでいるのかも把握できず、こ
のまま気が狂っていくのでないかと快感の中で自らをあやぶんだ。お互いの表情も見えない闇の中、小さくなっ
た暖炉の火だけが彼らの体の輪郭をなんとか浮かび上がらせていた。まるで闇そのものに抱かれているようで、
幾度目かの絶頂に追いやられた後、ユリウスは失神同然に泥のような眠りに落ちていった。

 だがレオニードは違った。彼女が規則正しい寝息になると、そっと身を起こして小さな灯りを手に、眠る彼女
を見つめた。そして彼女の喉に触れた。細い、白い喉。シャツの襟元から見えるこのたおやかな線に、彼は今ま
で幾度熱い思いに駆り立られてきた事だろう。だがそう望めば同じ部分を締め上げて、片手でその命を奪う事も
また容易だった。
偽りでもいいではないかと、彼は一瞬思った。彼女をこうやって手の中に収めておけるのであれば。かつてそう
していたように。しかるべき手をうった後、このまま気づかぬふりをしていればこの嘘吐きの小さな生き物を失
う事はないのだ。

だが、自分がそんな事は出来ないのはよくわかっていた。目の前の事実を直視しなければ、いつか致命的な失敗
に繋がるという事は骨身に叩き込まれている。見たいものだけを見ていては、最終的には勝利どころか全面的な
敗北を喫すだろう。その誘惑は優れた軍人なら最も犯してはならない禁忌だった。そして彼の本性は軍人で、
その本性を偽る事だけは彼にはできない相談だった。
96名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 09:59:57 ID:XtISsDvI
ユリウスが目覚めた時、レオニードはもう着替えを済ませてベッドの足元の方に腰掛けて彼女を見つめていた。
一部の隙もない軍装の彼とあられもない姿勢で目覚めた自分の有様はあまりにも対照的で思わずユリウスは上掛
けに手を伸ばし、身を覆った。「・・・起こしてくれたら良かったのに。」恥ずかしさのあまり思わず恨みがまし
い文句が口をついてでた。レオニードは無言でかすかに微笑んでいたが腕をのばして彼女の頬に触れるとしばら
くそのままでいた。あまりに長く彼が黙っているので「レオニード?」とユリウスが問いかけると、ふっと微笑
んで手を下ろし、「もう起きなさい。朝食はたまには食堂でとろう。」と言って立ち上がった。
 いつも早起きなヴェーラは朝食をとっくに済ませてしまっており、レオニードとユリウスだけが席についた。
ユリウスは身支度はしたものの、まだどこかぼんやりした体と頭で給仕を受けながら、こうして二人きりで夫婦
然として朝食をとる事に何とも居心地の悪いものを感じていた。だから途中でロストフスキーが戸口に現れ、目
顔で合図されたレオニードがユリウスの肩に軽く手を触れて席を外した時はむしろほっとした。そして耳は自然
と二人の会話に吸い寄せられ、そしてユリウスは凍りついた。
きれぎれに耳に入ってきた言葉。「・・・書斎・・・報告書の・・・順番・・・並びが違う」「・・・本当に
・・・?」「・・・いや、今日はもう出ねばならない。明日、確認・・・」
自分の血がすっと足元まで下がっていくのが分かった。レオニードはユリウスの元まで戻り、「途中だがもう行く。
今夜は向こうに泊まりだ。」と声を掛けるとロストフスキーを従えて出て行った。

ユリウスは夜半まで待った。こんなに時間が過ぎるのが遅い一日はいまだかつて無かった。幸いヴェーラは出か
けていたので落ち着き無く室内を歩き回る彼女の姿をいぶかしまれる事は無かった。食事も喉を通りそうに無く、
誰とも顔を合わす自信の無かった彼女は結局運んでもらった夕食も手付かずで下げてもらわざるを得なかった。
そして皆が寝静まったと確信できる時刻になってから灯火を手に部屋を滑り出て書斎に向かった。そして隠し部
屋の前でしばし躊躇した。自分は今、何か愚かな事をしているのかもしれない。だが、(クラウス・・・。)
ユリウスは隠し部屋を開けると、中に入り、順番通りに戻した筈の封筒に手を伸ばした。

「・・・こんなに簡単にひっかかるとはな。」
ユリウスは驚愕して振り向いた。レオニードは戸口にもたれて彼女を見つめていた。ユリウスの表情が真相の全
てを語っていて、怒りと悲しみが酸のように彼の心を灼いた。そして驚愕と共に彼女の眼に微かにうかぶ哀れみ
の表情、それはレオニードにとっては最も耐え難いものだった。
97名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 10:00:24 ID:XtISsDvI
彼が一歩室内に踏み込むと、ユリウスは封筒からそっと手を離し、床に膝をついたままの姿勢で一瞬目を閉じた。
そして聞いた。
「なぜわかったの?いつから?」それは修辞的なものでなく、純粋な疑問からだった。
「説明してやる義理が私にあるのか?」レオニードは静かに答えた。
「反対に教えてくれ。一体どうするつもりだったのだ?何もばれずに逃げおおせられると思っていたのか?それ
とも」
と言うとピストルの台座をユリウスに向けて言った。
「私を撃って逃げるか?」
「やめて。」震える声でユリウスは言った。
「僕はもう誰も殺したくない。」
「だがヨシフは死んだな。違うか?」「あれは・・・事故では」
「相変わらず甘いな。本気でそう思っているなら、おまえは革命家になどなれぬぞ。それともそう信じたいだけか?」
ではやはりそうなのかとユリウスは目を閉じた。また新たな血を僕はこの手に塗っていた。

うなだれて床に膝と手をついたユリウスを見下ろしながら、昔、同じような事があったとレオニードはこんな時
なのに、出会った年の事を思い出していた。あれだけ日々を経ながらも、結局彼らの関係は振り出しに戻ったか
のようだった。あの時はアレクセイ・ミハイロフの逮捕予定を知らされた彼女が駆け出したところを自分が転ば
せて、その手を軍靴で踏みにじったのだ。自分は今でも同じ事ができるだろうか?その少し前、秘密警察の手に
引き渡すと脅した事もあった。あそこの拷問にかけられれば、この女はひとたまりも無く吐くだろう。この女は
弱い。だが、自分にそれができるのか?あの時ですら、なぜか残虐な気持ちにかられるまま口先でいたぶっただ
けで決して本気では無かった。
そしてグルシェンコフ。レオニードは知っていた。あの立ち話で触れられた取調べの指揮をとっていたのは実は
他ならないグルシェンコフで、彼は筋金入りのサディストだった。どこか嗜虐心を誘うユリウスは格好の獲物だ
ろう。
そもそもあの時、グルシェンコフはクリコフスカヤのもとに出入りしていたのは本当はユリウスの方だという事
は掴んでいた筈だ。奴はヴェーラとこいつを取り違えるような中途半端な事はしない。あの時はあえてそれを伏
せ、まだ何も気づいていないレオニードを嬲り、恫喝していたのだ。お前の愛人も道を違えていれば同じ目にあ
わせるぞ、と。

追憶を振り払い、もう一度レオニードはユリウスを見つめた。彼女はもう彼を見ようとしなかった。抗弁もせず、
ただ頭を垂れてまるで彼の裁きを待っているかのようだった。
おまえの人生は偽りばかりだな 。 そうでない物はあったのか?レオニードはよほどそう言ってやりたかったが、
それは逆を返せばユリウスの真実はただ一つで、結局変わらなかった事を認める言葉でもあった。やつへの忠誠
心。いま彼女はそれだけを守り抜こうとしているのだ。文字通り身を捨て、命を捨てて。
そしてレオニードがそう考えたまさしくその瞬間、ユリウスは顔を上げ静かな眼差しで、彼が最も聞くのを恐れ
ていた言葉を言った。
「お願い。僕を撃って。あなたの手で。」
彼の愛を見透かした上でそれを逆手にとる懇願に、レオニードは目の前が真っ白になる程の怒りを彼女に感じた。
98名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 10:02:02 ID:XtISsDvI
夜半、ヴェーラはロストフスキーに起こされ驚いた。信じられない無礼に怒り、
「な・・・これはどういう事ですか?」と咎めようとしたが、彼に冷たく「候がお呼びです。」
と言われ何事か起こった事を察し、急いで夜着をはおるとロストフスキーについて兄の書
斎に向かった。そこで彼女が見たのは書斎の隠し部屋の扉が開き、床に座りこんでうなだ
れているユリウスに兄が短銃を向けている姿だった。彼女は自分の目が信じられなかった。
兄がユリウスに視線をそそいだまま聞いた。
「ヴェーラ、お前も知っていたのか?こいつは誰に情報を流していたのだ?」
「お兄様・・・。何のこと・・・?何をなさっているの?」とヴェーラは事態を半ば察し
つつも、認めたくなくて兄に問い返した。、
「時間稼ぎをするな。ヴェーラ、私の不在時に起こっていた事だ。こいつが外部と接点を
持てたどうかはお前が一番良く知っている。それとも答えられないのか?お前もぐるか?」

(ああ、アナスタシア、あなたがまさか・・・。言えない、もう私にも兄上にもこれ以上
血を流させないで・・・。)
ユリウスが突然顔を振り上げて叫んだ。
「彼女を巻き込まないで、彼女は関係ない!」我知らず目をつぶっていたヴェーラは「彼
女」とはアナスタシアの事を言っているのかと思ったが、目を開けるとユリウスは自分で
はなく、レオニードを必死なまなざしで見上げていた。ユリウスが庇っているのはヴェー
ラだった。
レオニードは黙ってユリウスを見下ろした。その黒い瞳は妹が初めて見る非情さをたたえ
ており、ヴェーラは背筋が冷たくなった。
「お兄様・・・お願い、ユリウスの話を聞いて。何かの行き違いではないの?ユリウス!
そうでしょう?」
ヴェーラは必死だった。ユリウスが何か申し開きをしてくれれば・・・!それがどんなに
怪しいものでも自分はそれを頼りにきっとなんとか兄を説得してみせる。兄だって本当は
ユリウスを撃つ気などない筈だ。兄の手は愛する者の血で汚れるためになど出来ていない。
本当は人一倍愛情の強い彼がそんな事をすれば、きっと内面の何かが崩壊し、二度と取り
返せない傷を負うことになるだろう。そんな事を兄にさせてはいけなかった。
「ユリウス。お願い、何か言って。」ヴェーラはできるだけ落ち着いた声を出し、何とかユ
リウスの視線を捉えようとした。だがユリウスは再び目をつむり、かたくなに口を閉ざし
てしまった。「ユリウス!」ヴェーラはついに悲鳴じみた声をあげてしまった。ユリウスは
自分だけでなく兄をも破滅させてしまう事がわからないのだろうか。(ユリウス、あなたは
それでもいいかもしれない、でもそれはあまりにも身勝手だわ、あなたはお兄様の心まで
殺そうとしているのよ、なぜそれがわからないの!?それともそんな事はどうでもいいと
思っているの・・・?)

「もう良い。お前にはもう聞かぬ。」レオニードはヴェーラに言った。
「この女は認めているのだ。だがこのユスーポフ家から裏切り者を出すわけにはいかぬ。」

そして「立て。」とユリウスに言った。ユリウスはのろのろと立ち上がり、レオニードをま
っすぐに見た。レオニードも彼女を見返した。そして銃を持つ腕をのばし、冷たい銃口が
ユリウスのこめかみにあてられた。次いで安全装置を外す音が室内に響いた。
99名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 10:02:23 ID:XtISsDvI
ヴェーラは悲鳴をあげそうになり両手で自分の口を押さえて、次いで兄を止めようとした
がエフレムとユリウスが重なり、涙で喉が詰まり声が出なかった。ふだん不気味なほど無
表情なロストフスキーでさえ、主が女を撃つ惨さに耐えられず目をそらしていた。
だが当のユリウスは静かに目を閉じた。
(これでいい・・・。これでいいんだ、きっと。できる事ならクラウスにもう一目会いた
かったけれど・・・これでいいんだ。)
口元にはわずかに微笑みさえ浮かんでいたかもしれない。
レオニードは恐ろしいほど落ち着き払っていたが、ユリウスのやすらかな表情を見て冷た
く「気が変わった」と言い、ロストフスキーに裏手に車をまわすよう命じた。
ロストフスキーが部屋から出て行くと、ヴェーラはようやく出た声をふりしぼって恐る恐
る尋ねた。
「お兄様・・・。どこへ・・・どこへ連れていくおつもりなの?」
(まさかどこか別のところで射殺なさるのか、憲兵に引き渡しておしまいになるのか・・・)
だが兄の返事は予想外のものだった。
「ヴェーラ、こんな事をしでかす女が正気だと思うか。しかるべき病院で監視下に置くし
か仕方あるまい。狂人は狂人として遇するのが一番だ。」と冷然と言い放った。
「お兄様、まさか精神病院へ・・・?お願いお兄様、そんなむごい事は、ユリウスをそん
な所へだなんて」懇願するヴェーラをさえぎり、無言のままのユリウスを見て
「狂ったものは仕方がない。他に方法があるか?こいつは自分で選んだのだ。」と冷たく言
い捨てるとレオニードはユリウスを引き立て、連れ去った。
ユリウスは無抵抗に車に乗せられ、レオニードの隣で運ばれていった。無言の内に彼の白
熱した憤怒が伝わってくるようだった。先ほどからレオニードはユリウスに直接には一言
も言葉をかけていなかった。ユリウスはその沈黙に、どんなひどい言葉でもいい、何か言
ってほしい、それでないならいっそ先程のように銃口をあてひと思いに殺して欲しいと心
中で願ったが、一方でレオニードの選んだ処罰はなんであれ自分は受け止めねばならないと
わかっていた。彼の心を贖うために、自分ができるのはそれだけだった。そして彼が選んだ
処置がこれだった。異国の精神病院で一生幽閉され朽ちていくこと。長い緩慢な死、多分
この世で最も彼女を知っているレオニードがそう決めたのなら、それはもしかしたら今まで
自分の犯してきた罪に最も効果的な罰なのかもしれなかった。

ロストフスキーが運転する車は、真夜中の屋敷街を離れ暗い街頭を長いこと走ったのち止まった。
窓は目隠しされていたのでユリウスはどんな所に止まったのかわからなかったが、観念して
レオニードに従って車を降りた。だが彼女の目の前に広がっていたのは、まだくすぶっている
れんがづくりの建物の焼け跡だった。
100名無しさん@ピンキー:2009/08/09(日) 10:02:51 ID:XtISsDvI
ユリウスはわけがわからず呆然と廃墟を見つめた。隣に立ったレオニードが外套のポケ
ットに手を入れたまま、無表情に言った。

「よいか。よく聞け。お前は3月の7日、このストルスキ病院に入院したのだ。そして、
翌8日にこの病院は出火し、患者は全員焼死した。医者や看護で生き残った者達も口も
きけぬ重態でもう長くあるまい。当然記録などもみな焼けている。つまり、ユリウスと名
乗っていた女は一昨日ここで死んだのだ。」
今度はレオニードの顔をユリウスは呆然と見つめた。レオニードはまっすぐに廃墟に瞳を
すえていた。
「おまえはもう誰でもない。わかるか?私の言っていることが。」ユリウスに向き直ると
レオニードは言った。
「お前は自由だ。何処になと望むところへ行け。この混乱したロシアで辛酸をなめつくし
て生き抜くか、それとも故郷へ帰って身を隠すか、何を選ぶもお前の勝手だ。」
愛する男のところへ行けとだけは、レオニードはさすがにどうしても言葉にできなかった。
だが自由になった瞬間、ユリウスがアレクセイ・ミハイロフのもとへ、たとえそれがシベ
リアの監獄だろうと瞬時に走っていくだろうことは以前から、そう、初めての出会いの時
から、ずっとわかっていた事だった。

「レオニード・・・!」
見る見るうちにユリウスの瞳に涙が珠のようにたまってきて、レオニードの胸には鋭い痛
みが走った。だがこの苦しみももうこれで終わると、その時の彼は思った。

「だが一つだけ条件がある。」しっかりとユリウスの瞳を見つめてレオニードは言った。

「スイス銀行の隠し口座のこと、あれだけは決して誰にも漏らすな。よいな。革命派の奴
らには扱いきれない代物だ。彼らが飛びついても災いが災いを呼ぶだけだろう。そして、
もし洩れたときには、私は今度こそお前を地の果てまででも追って殺さねばならない。言
っていることがわかるな?」
ユリウスは涙をたたえたまま、黙ってうなずいた。アレクセイ・ミハイロフにも決して言
うなとレオニードは言っているのだ。そしてユリウスもあのアーレンスマイヤ家にまつわ
る全ての悲劇と惨劇を生んだ隠し口座にこれ以上人生を狂わされる気は全く無かった。
レオニードが望む通り、この秘密は死ぬまで守り通す覚悟ができた。彼を最悪な形で裏切
った自分だが、この誓いだけは決して破るまい。レオニードもその決意を見てとり、「よし」
と言った。そしてユリウスに手もふれぬまま、
「話はそれだけだ。もう行け。この通りをしばらく行けば※※通りにでる。マダムコルフ
の店がお前の仲間達のたまり場だ。娼館だから気をつけろ。」と告げてあごで方向を示した。


「レオニード・・・ありがとう・・・。」とユリウスに言われた時、彼は思わず顔をゆがめ、
早口で「早く行け、私の気の変わらぬうちに。」と言うのが精一杯だった。
ユリウスはなおも涙をたたえて彼を見つめていたが、やがて一瞬固く目をつぶり拳を握ると
「・・・さようなら・・・!」と言い、差し示された方向へ、足を踏み出し、早足で歩き
かけた。だが突然振り返ると、レオニードのもとに駆け戻り激しく口づけした。それはユ
リウスから与える初めての、そして最後のキスだった。強く強くレオニードをかき抱き、
次の瞬間はじかれるように身を翻すと、ユリウスは今度こそ振り返らず闇の中へ走り去っ
ていった。
残されたレオニードは身じろぎもせず、彼女が消えた闇の先を見つめていた。そのまま長
い時間が過ぎ、やがて彼がついに振り返りロストフスキーの待つ車へ歩き出した時、その
表情は氷の刃と呼ばれたレオニード・ユスーポフ候へと完全に戻っていた。