序章
1911年初春 ペテルスブルグ
闇の中、金髪をなびかせて彼女は走っていた。真夜中もとうに過ぎた静かな街頭に、
彼女の足音だけが鳴り響いていた。女が一人で外にいるにはあまりにも危険な時間で、
少し離れたところでは一人の男がその足音に耳をすましていた。
だが彼女の念頭にそんな危惧は浮かびもしなかった。
闇の中を必死に走る姿、それはいつもの悪夢とそっくりだったが、夢とは違い彼女の心は
例えようもない晴れやかさと希望に満ちていた。
なぜなら彼女はたった今長年の桎梏から解き放たれたばかりだった。
その肺に思い切り吸い込むのはただの空気ではなく、ここ数年は思い出す事さえかなわなかった
自由そのものとさえ感じられた。初春とはいえまだ凍て付くように冷たい大気を一息吸うごとに
清新な新しい力に満たされ、彼女は息の続く限り走っていく。
その先には、ずっと見失っていた真実が自分を待っている筈だった。
駆けて駆けてようやく彼女は目的の館に達し、激しく息切れしながらその扉に倒れこむように
手をかけた。
そして重い扉を思い切って引き開けると、真夜中だというのに明るい光と人々の哄笑が
どっと街路にまで溢れ出してきた。
だが物語はその数年前、彼女が自らを虜囚であるとは知らずに過ごしていた日々から語り起こされる。
第一章
(1)
ユリウス!
ユスーポフ家の静かな邸内にリュドミールの声がこだました。
「姉様、ユリウスを知らない?」
「さあ・・・昼食の後は知らないわ。リュドミール、今日はユリウスに見てもらう日ではないでしょう?」
「だって・・・約束したんだ、レンスキー先生の課題ができたらつきあってくれるって!
厩舎の子馬を見にいくのに、ユリウスと一緒ならいいって兄上だってこないだ。」
「はいはい、リュドミールはすっかりユリウスびいきになってしまったわね。」
「だって火曜だってさ、僕が先に約束していたのに急に兄上の使いがきて連れて行ってしまったし、
昨日は姉様がコンサートのお供にしちゃって、僕は3日も放りっぱなしだ。」
「リュドミール、このユスーポフ侯爵家の男子がそんなことで駄々をこねてどうするの。」
とヴェーラも言葉だけはいかめしく咎めたが、顔は笑ってしまっていたので威厳は台無しだった。
「でも本当にどこにいるのかしらね。今、部屋と書斎の前を通ったけれど見なかったわよ。
サロンにもいなかったし、庭かしら?」
そんなところに当の本人が入ってきた。ヴェーラの言った通り庭に出ていたらしく、
秋咲きの白いサルビアを腕一杯に抱えて涼やかな様子だった。
「ヴェーラ、東の奥でもう咲いてたよ。ライサに生けてもらえるかな?」
リュドミールは「もう!ひどいじゃないか、ユリウス!」とふくれっつらをしてみせた。
「何を言ってるのリュドミール」と笑いながらその金髪の人は答えた。侍女に花の束を渡しながら、
「確かに僕は君の家庭教師の一人だけど、専属のお守りではないんだよ」
と歌うように抑揚をつけて答え、
「甘えん坊のリュドミール」とさらに今度は明らかに節をつけて歌った。
今度こそリュドミールは笑い出しながら彼女に向かって走り出し、ユリウスは少年というには
まだ幼い彼をひらりとかわすとその手をとり、くるりと体を回してやった。
そのまま二人は笑いさざめきながら庭へ出て行き、ヴェーラと召使達は微笑して彼らを見送った。
「あの子達に飲み物と帽子を持っていってやって。」
ヴェーラは言いつけると書きかけていた手紙の続きのため自分の部屋へ上がった。
だが、ペンを手にはしたものの、頭は書かねばならぬ文面よりも、弟がいまやもう一人の姉のように
慕っているユリウスについて向かっていった。
彼女がこの屋敷にかつぎこまれてから早3年半が過ぎていた。そして記憶を失ってからは3年近く・・・。
リュドミールはいざ知らず、ヴェーラとその兄は彼女を騙しているも同然だった。
(ユリウスが・・・その事を知ったらどうするだろう?)とヴェーラは彼女がこのユスーポフ家に
姿を現した当初の烈しい眼差しと身にまとっていたはりつめた空気を思い出し、ため息をついた。
兄の政敵、ラスプーチンの企みで連れ去られたユリウスが宮廷から戻る途中で行方不明になり、
次いで意識を失った姿で発見されたあの時。目覚めた彼女は何もおぼえていなかった。
ロシアに来た目的も、自らの過去も、名前すら。
全ての記憶を失った彼女は自分が誰であるかさえわからず、パニック状態に陥った。
それを知らされた兄は驚き、しばらく沈黙していたが何事か決意したらしく、
ヴェーラにユリウスには彼女自身について何も教えるなと厳命した。
もっとも教えようにもヴェーラが知っていたのはただ「ユリウス」と名乗る彼女がドイツ人であること、
反逆者アレクセイ・ミハイロフを追って一人ロシアまで来たらしいという事ぐらいだった。
おそらく亡命していた彼の恋人だったのだろうが、それも推測に過ぎなかった。
いわばアレクセイ・ミハイロフを釣上げる餌として、この屋敷に監禁されてしまったユリウスは、
以後周囲を敵と見なして貝のように口を閉ざし、それきり自分については何も明かそうとしなかったのだから。
ユリウスの精神状態と負傷した体がだいぶ落ちついた頃、レオニードはヴェーラを伴って彼女を見舞った。
そしてヴェーラが唖然とするほどあっさりとユリウスを罠に落とした。
ユリウス、それが君の名だ。だが残念ながら我々も君についてさして知っているわけではないのだ。
君はこの間の春、まだ雪も溶けないうちに偶然、我が家にかつぎこまれた。
暴動にまきこまれ被弾して倒れていたところを身なりの良さから部下が不審に思い、我が家に運びこんだのだ。
意識を取り戻した君は荷物のことを尋ねたが、ここにはあいにく身一つで運ばれてきていた。
だから君はその時全財産を失ったわけで、何も身元がわかるようなものも残っていない。
とりわけストラディヴァリの事を気にしていたな。いや、なぜそんな名器を持っていたかはわからない。
君は音楽の勉強をしていたようだが、ヴァイオリニストではないらしかった。
・・・何か思い出せたか?そうか、駄目か。
正直、我々の眼には君は少々怪しい人間だった。
男装したうら若い外国人の女性で(何せ君はロシア語を全く理解できなかったのだから)、
なぜか自分の事を語ろうとしなかったのでロシアに来た目的もはっきりしない。
おまけに言いにくいことだが、君の体には古い銃創まであった。パリやロンドンならいざ知らず、
ロシアではまっとうな女性で男装だの銃創だのは考えられないからな。
(この辺りでユリウスの過去へつながる何かを知る期待を失い、だんだん心もとげなものになっていった。)
とは言うものの、君はそう邪悪そうには見えなかったし、実際のところ、取調べの過酷さには
定評のあるロシアの警察に引き渡すほどの証拠が何かあるわけでない。
かと言って無一文になって途方にくれている女性を今のロシアの荒れた社会に放り出すわけにもいかず、
我々は何となく君をここに留めてしまった。
さして役に立つ情報が無く申し訳ないが、これが君についてわかっている全てだ。
そうだ、もう一つあった。大事な事だ。おそらく君は自分でははっきり言わなかったがドイツ人だろう。
君の話すフランス語にはかすかだがドイツなまりがあるし、何より当初身につけていた衣類はドイツ製だったから。
いや、その衣類は全て処分してしまった。何せその時の怪我で、血の汚れがひどかったからな。
兄の話は全てが嘘ではないだけに、たちが悪かった。ただ本当に重要な情報を隠しているだけだ。
ヴェーラは呆れつつ、目的はわからないが口裏を合わせるために自分が同席させられている事は
承知していたので、兄に言われた通り口を挟まなかった。そして表情を変えないよう努力しながら
ユリウスと共に話の続きを聞いた。
何か思い出せたか?そうか。残念だな。
・・・少し考えたのだが、君さえよければもう少しここにとどまっていくか?何か記憶の糸口が見つかるまで。
君も結構いいみなりをしていたので、誰か身寄りが探しにくることもあるかもしれぬ。
何もしないのが退屈なら、リュドミールの勉強を少し見てもらってもよい。
もちろん正規の家庭教師はつけているから・・・そうだな、音楽でも少し見てもらえると助かる。
なに、ユスーポフ家は軍人の家系で弟もあと数年で幼年士官学校に入る。
だから音楽教育もそう本格的なものでなくてよいのだ。気が向いた時でいい。気楽に考えてくれ。
ただし、申し訳ないが、行動は少し制限させてもらう。
記憶を失った君が知らないのは当然だが、ロシアは今、非常に治安が悪くなっている。
ことにこの家は私の妻が皇帝の姪であることも手伝って、警護を厳重にせねばならない。
あまり好き勝手に出歩いてもらうわけにはいかない事だけは、承知してくれたまえ。
もちろん記憶も金銭も他に係累もない彼女には他の選択肢などある筈もなかった。
以前とは別人のように素直になってしまったユリウスは、何も疑わずにレオニードの「提案」を受け入れた。
ヴェーラは兄のやりくちにすっかり呆れ果てた。これで兄はユリウスをしっかりと監視下に置き、
行動を制限する権利すら彼女本人に認めさせている。そのうち兄に聞かされた話の穴に気づいても、
客人と雇い人の間の中途半端な立場では兄に詰問もできないだろう。
もっとも今のところユリウスは騙されていることに全く気づかず、兄に感謝すらしている始末だ。
それもこれもアレクセイ・ミハイロフへ繋がる線を握っておくためだろうか?
だがそもそも兄は近衛隊の軍人で、革命派の捜索・逮捕は管轄外だ。何もアレクセイ・ミハイロフを兄が
自らの手で捕らえる必然性はない。国の治安のためを思うなら、捜査のためには(そうなればいいとは決して思わないが)
ユリウスを専門の者・・・治安維持をあずかる憲兵か、革命派の捜査が専門の秘密警察に渡してしまうのが一番確実なのだ。
ヴェーラは兄の目的をいぶかしんだ。
過去を知る希望を失い疲れた様子のユリウスに休むように勧めた後、別室に移りレオニードは妹に言った。
「さぞ不審に思っているだろうな。」
「ええ・・・。なぜそこまでして彼女を?」
「そうだな・・・。詳しい理由は言えぬが、政治向きのことで彼女を監視下におかねばならなくなった。
これは皇帝陛下の命と了承してくれ。だがその事は私とお前だけがわかっていればよい。
アデールはおそらくもうこの屋敷に戻るまいから。召使達にはユリウスに関することは勝手を許さず、
必ず私に許可を得るように伝えてくれ。そして今まで通り、フランス語が話せる者だけをつけるように。
ロシア語は学ばせるな。」
不審な気持ちは消えなかったが、兄の任務がらみで、しかも皇帝陛下の意思が働いているとあっては
従うしかなかった。
そしてモスクワ蜂起でアレクセイ・ミハイロフが捕らえられ終身刑に処された後も依然としてユリウスは
解放されず屋敷に留め置かれたので、「政治向きのこと」とは、ミハイロフ以外にも何かあるのだなと
初めて察しがついた。だが、皇帝陛下が関わってくる程のその事情を、兄は決して自分にも教えないだろうと
ヴェーラはわかっていた。
ユリウスとリュドミールは庭の大きなニレの木陰で横たわり、姿勢は行儀が悪いが、
感心にも他の家庭教師が出したリュドミールの課題の口答試験をしていた。
結果はまずまず合格、ユリウスを今日は独占できそうな事に満足して、
リュドミールは思い切り伸びをしながら寝返りをうった。そしてうつぶせになるとひじをつき、
傍らに仰向けで横たわるユリウスの美しい顔をじっと見おろした。
もちろんリュドミールはまだ幼なかったが、ユリウスがずばぬけて美しい人だということは
子供なりにわかっていた。
だがユリウスの美しさは義姉のアデールのように香水の香りと宝石に包まれた貴婦人の近寄りがたいそれではない。
むしろ女くささを感じさせない、清潔な・・・そう、若木のような美しさだった。
それにリュドミールが彼女を慕う理由はその美しさのためではなく、ユリウスがユスーポフ家にもちこんだ、
一種、風のような自由さだった。
年の離れた兄と姉は両親代わりでリュドミールは彼らの愛情に常に包まれていたが、
威厳を重んじるその家風はまだ幼いリュドミールには重圧を感じさせることもあった。
だがユリウスが加わって以来、その厳格さは少しやわらげられていた。ことに、兄には弟の自分ですら
時には近寄ることさえためらわせる威圧感があったが、そんな彼の心をほぐすのがユリウスはうまかった。
もっとも彼女はそれを意識してやっているのでなく(だいたい、レオニードに対して自分が影響力を
持っていることに気づいているのかどうかすら怪しいものだった。)、
ユリウスの発散する疑いを知らない純粋さが周囲の人間の構えをほぐしてしまうのだ。
幼いながら、いや幼いからこそリュドミールはその純粋さを感じ取り、慕わしかった。
ラテン語の授業でユリウスが“光り輝くもの”という意味と知った時にはなんて彼女に
ぴったりな名前なんだろうと思ったものだ。
だがリュドミールは最近少し知恵がついてきたので、ユリウスの顔を見下ろしながら、
(不思議だな。)と思った。
(ユリウスはこんなに賢くて(他の家庭教師と比べても教え方は断然上手で、彼女の頭の回転の良さは
子供の目にも明らかだった)、物知りなのに、なんで自分の事、何もおぼえていないんだろう・・・)
その話をするとユリウスが悲しい顔をすることはもう知っていたので、その事はリュドミールは言わなかった。
だがもう一つの疑問を口に出してしまった。
「・・・なの?ユリウス」
「・・・なあに、何か言った?リュドミール。」
秋の始まりで戸外は過ごしやすく、1年で一番気持ちのいい風が吹き過ぎて行く。
その感触を目をつむって楽しんでいたユリウスは、リュドミールの質問を聞き逃してしまった。
「ユリウスは、もしも誰かが探しにきたらその人と帰ってしまうの?」
これは最近のリュドミールにとっては大変重要な懸案事項だった。
一度思い切って姉に尋ねてみたのだが、ヴェーラは珍しく「そうねえ・・・。」と言葉を濁すだけで、
何もはっきりした返事をしてくれなかったのだ。
「・・・」ユリウスは瞳をひらいて、じっと空を見た。すこし緑がかった色の澄んだ瞳に青空が写っていた。
予想に反してしばらく返事をしないユリウスにリュドミールはじれた。
だがもし自分の望まない答えなら聞くのが怖くてせかす事もできず、自分から聞いておいて
宙ぶらりんな気持ちでリュドミールは待った。
(彼はもちろんユリウスが「行かないよ」と即答してくれると思っていたのだ。)
ようやくユリウスが言った。
「どうだろう・・・。もうそんな事は起こらないんじゃないかな。」
ユリウスはリュドミールのような子供が相手でも常にしごく真面目に話した。
「え・・・。」
「だって考えてもみてごらん。僕が最初に君たちの屋敷にごやっかいになってから
もう3年以上たつんだろう?結構長い年月だ。リュドミール、君だってすごく3年前とは違うだろう?」
リュドミールは確かに3年前の自分は赤ん坊ですっかり大人になった今とは全然違う、としかめつらしく考えた。
「もし僕を探してくれている人・・・家族にせよ、誰か他の人にせよ・・・がいるなら、
とうの昔に探し当ててくれてるんじゃないかな。レオニードだって警察には届けてくれてるんだし。
(もちろんこれはレオニードの真っ赤な嘘だった。)」
「でも・・・だって、兄上も誰か探しにくるかもって、そう言ったんでしょう?」
「あれは・・・多分、レオニードが僕に気をつかったんだと思う。行くところの無い僕をかわいそうに思って、
ここにいやすいようにそんな事を言ってくれたんじゃないかな。」
「・・・ユリウス・・・」
上体を起こして、にっこり笑ってユリウスは言った。
「リュドミール、君のお兄さんは優しい人だね。もちろんそんな事、君は僕よりよく知ってるだろうけど。
レオニードは強いだけでなくて優しい。そんなお兄さんがいて、君は幸せだね、リュドミール。」
家族と再会することをあきらめているユリウスに、リュドミールは子供ながら何と言っていいのか
わからなくなってしまった。
また、ユリウスが兄の気づかれにくい優しさをほめた事で、彼は改めて兄の良さを言葉に表わして認識できた。
(そうなんだ、兄上は怖そうでも、いや怖い時はとてもとても怖いけど、でも本当はとても優しい・・・。
そう言葉にして考えたことはなかったけど、ユリウスの言う通りだ・・・。)
リュドミールがユリウスを好きなのは、こんな風に自分の世界に違う光をあてて、そこに自分が持ってても
気づかなかった宝物を見つけてくれるからだ。
彼の中で様々な感情がうずまいて、そしておそらく寂しさを抑えて(それがわかるくらい、リュドミールは察しの良い
子供だった)微笑むユリウスがあんまり美しく見えて、リュドミールは何を言えばいいのか混乱してしまい、
とりあえず、一番気になっている疑問をもう一度確かめた。
「じゃあユリウスはどこにも行かないね?」
ところがユリウスはまたもやじっと考え込んでしまった。
「もう、ユリウスったら、何もいちいち考えることないじゃないか!」と今度はついにせっついてしまった
リュドミールだが、ユリウスは今度もすぐには返事ができなかった。
その事は彼女自身、さいさい考えこんでは結論の出ていない事だったからだ。
リュドミールは早ければ1年後、どんなに遅くても2年後の秋には士官幼年学校の寄宿舎に入る。
それ以後もこの由緒正しいユスーポフ家で厚意に甘えて寄宿を続けて良いものか。
頼めばレオニードかヴェーラがどこか他の家の家庭教師に推薦してくれるだろうか?
しかし身元不明で記憶喪失の外国人など、いったいどこの家が受け入れてくれるだろう?かといって、
音楽で身をたてていくことも今の腕前では難しそうだった。
おまけに、なぜかレオニードがユリウスがロシア語にふれるのを嫌がるせいで、未だに彼女のロシア語はお粗末なものだ。
いくらロシアの上流階級の会話はフランス語中心とはいえ、彼女自身はこの国の貴族でもなんでもないのだから
今後ロシアで生きていくのならこれは大問題だ。
しかしそんな事よりなんといっても、一番の問題点は、自分には冬は魔の季節であることだった。
あの恐怖!激しい吹雪とその音が自分をどんなに脅えさせ、追い詰めて取り乱させてしまう事か。
恐らくレオニードが言う通り自分の失った過去に理由があり、それは忘れていた方がいい事なのかもしれない。
しかし、あの恐怖感を克服しない限り、日常生活もおぼつかない有様で、ましてやどこかに雇われるなど無理な相談だ。
と、思考がいつものどうどうめぐりをしかけた所で、ユリウスはリュドミールを待たせすぎている事に気づき、
考えを断ち切って言った。
「リュドミール、僕は君がきちんと幼年学校に行くまではこの家にいるよ。
もちろんそれまでクビにならなければの話だけど。」
「ユリウス、クビになんかなるわけないじゃないか。でも僕が幼年学校に入るまでってどういうこと?
その後はいなくなっちゃうってこと?」
「だって、もう僕が教える人はこの家にはいなくなるわけだからねえ。
君はレオニードみたいに立派な軍人になるんだから、音楽教師には用がないだろう?」
「そんなの・・・関係ないよ!こないだ姉上と訪問したナボコフ家なんて、夫人の家庭教師をしてたっていう
90歳のおばあさんがいたよ!だからユリウスだって90歳まででもここにいればいいじゃないか!」
「9、90歳か・・・、う〜ん」とユリウスは苦笑して、だがこの素直な少年が
これだけ自分を慕ってくれる気持ちはとても嬉しく思った。
「リュドミール、僕は約束するよ。ひとつ、君が学校に入るまでは、僕にできる限りの事を君に教える。
ふたつ、もし僕がこの家を離れる事があっても、君と僕はずっと友達だ。わかるかな?」
「本当に?僕達は友達?ユリウス!」
「そうだよリュドミール。」
「じゃあ誓ってくれる?絶対に、その約束を忘れないって」
「忘れない。誓うよ、リュドミール」
それはロシアの黄金の秋の始め、とても美しい日に行われた微笑ましい友情の誓いだった。
リュドミールはユリウスがそう誓ったことで非常に満足した。
それは幼い彼にとっては彼女がずっと側にいることを約束したのも同然の言葉だった。
そしてユリウスの方も、この小さい友達を自分は終生愛しく思うだろうと感じていた。
だがこの誓いこそが、やがて彼らを奈落へと突き落とす最後のひと押しになろうとは、この時の二人には
とても予測などつく筈がなかった。
「リュドミール様、ユリウス様!」と召使が邸のほうから二人を呼びに来た。「旦那様のお帰りでございます。」
「兄上が?今日は早いんだ!」とリュドミールは跳ね起きて「ユリウス!こっちから!」と叫ぶと木々の間を縫って走り出した。
ユリウスも笑いながらリュドミールを走って追いかけたがほどなく足元を何かにとられ、
落ち葉の中に頭から見事にころんでしまった。
「・・・?」と自分を躓かせたものを見ると、夏草の残りを短く結び合わせたものだった。
「・・・!」リュドミールが立ち止まって笑ってこっちを見て言った。
「わあっ、ひっかかったねユリウス!」
「リュドミール!」笑いながらユリウスが叫ぶと
「3日も僕をほっとくからだよ!何てったって僕は「甘えん坊」なんだからね!」と
笑って言い返し、今度は一気に館に向かって走っていった。
「もう!」と言いながらユリウスはリュドミールを追った。
子供の足とはいえ結構差をつけられてしまったので、ユリウスが帰館したレオニードと
サロンで顔を合わせた時には、リュドミールはちゃっかり出迎えの挨拶を済ませて
自室に上がってしまっていた。
「どうしたんだ、その有様は。」
落葉だらけの彼女の姿にレオニードはいささか呆れた様子で尋ねた。
ユリウスは石張りのテラスで体のあちこちについてしまった落葉をはたきながら、
「今日はリュドミールにしてやられちゃった。あの子の作戦勝ちだ、士官としては将来有望だね」
と笑った。レオニードは苦笑しながら無造作にユリウスの金髪を荒く揺すり、
残った葉のかけらをふるい落としてやった。
その荒っぽさにユリウスは「わぁっ」と笑って、だが素直にされるがままになっていた。
「全く・・・僕は犬じゃないんだからね!」
「我が家の犬どもはこんな落葉まみれで屋敷の内に入ってこぬぞ。」
「あはは、確かにそうかも。ユスーポフ家では犬も僕より規律正しいよ。」
普段からまとめもせず降ろしている髪からようやく落葉を落とし終えて、
「リュドミールは部屋に上がったの?今日はあの子に一日付き合う約束だから行くね。じゃあ晩餐の時に。」
と言ってユリウスが去ろうとすると
「いや、ちょっと要するものがあって立ち寄っただけだ。今宵はもう戻らん。」とレオニードは答えた。
「ああ・・・そうなんだ。」とユリウスはあからさまに落胆した顔になった。
そんな彼女に微笑んでレオニードは「なんだ、何か私に用でもあったのか。」と言った。
「ううん、そういうわけじゃないんだけど・・・。そうだ、おとついの馬、よかったね。
あれならリュドミールは本当に喜ぶと思うよ。」
「ああ、つきあわせて済まなかったな。だが助かった。お前で御せれば、リュドミールにもちょうどいい。」
「来月のあの子の誕生日が楽しみだね。」
二人は小さな秘密を共有する者同士の気安さで目を見交わし微笑んだ。
そこへ召使が紅茶を運んできたのでユリウスもよばれることにした。
(リュドミールにはさっきのいたずらのお仕置きにもう少し待ってもらおうとユリウスは考えた。)
カップを持ったまま、二人はなんとなくサロンからユスーポフ家の庭園を眺めやった。
さっきまで微笑んでいたユリウスの表情にふと影が差したのをレオニードは見逃さず、
「どうかしたのか?」と訊ねた。
「ううん、ただ・・・。」「なんだ。」
「また冬が来るな、と思って・・・。」
ユリウスはそう言うと、再び窓の外、木々の梢が黄金に色づき始めた庭園をじっと見つめた。
レオニードはわかっていたが、「またあんな風になるかと脅えているのか?」とあえてはっきり聞いた。
「・・・うん・・・。構えすぎなのかもしれないけど・・・。冬が近づいてくると思うと・・・
ものすごく胸の奥がざわざわする気がして・・・。そしてあの時の気持ちを思い出してしまう・・・。」
「気にしすぎるな。あまり考えると、自分を暗示に掛けているのと同じだ。
戸外の吹雪がお前に一体何をする?脅え過ぎるとそれこそ前のように命取りになりかねんぞ。」
「うん・・・。」
「まあ、どうしても怖ければまた駆け込んでくれば良かろう。」とレオニードは笑い、
ユリウスは真っ赤になって「もう!レオニード!」と怒ってみせた。
記憶を失って以来(もっとも以前がどうだったのか知る術はなかったが)、吹雪に対する恐怖は
小さくなるどころか募る一方で、去年など脅えたユリウスは事もあろうに薄い寝巻き一枚の格好で
書斎のレオニードのもとに駆け込んでしまったのだ。
それを思い出すと耐えられない恥ずかしさで一杯になってしまう。
だがその時、レオニードは嗤わずにそんなユリウスを受け止めて、彼女が落ち着くまで
辛抱強くつきそってくれた。その優しさで彼女は昨冬をなんとか乗り切れたようなものだった。
だから今、からかわれて怒る一方で、大きな安堵感で彼女は暖かく満たされ、小さな声で言った。
「・・・ありがとう。」
レオニードはまるで子供を安心させるように彼女の後頭部を軽くポンポンとたたくと、
戸口に待たせていたロストフスキーとまた軍務に戻っていってしまった。
ユリウスは窓から彼らを見送りながら、もう一つ、冬が彼女に思い起こさせる事を
今回もレオニードに言えなかったな・・・と思った。それはある反逆者の面差しだった。
記憶を失って混乱していたあの冬、いや言い方を変えれば彼女にとっては記憶が始まる最初の冬、
レオニードはなぜか彼女と弟をモスクワ蜂起に失敗した反乱分子達が処罰を言い渡される広場へ伴った。
リュドミールへの教育の一環だったのかもしれないが、まだ記憶を失って日も浅く精神的に不安定な
ユリウスには正直、辛い経験だった。
次々に名を呼ばれ、処罰を言い渡される罪人達の中にその若者はいた。
彼は亜麻色の髪を寒風にさらし、罪を言い渡されているにも関わらず、まるでそこに居る事を誇るかのように
広場一杯の群集の前に傲然と胸を張って立っていた。
なぜか彼女の心は激しくゆさぶられ喉が詰まるような思いで一杯になり、彼以外の何も目に入らなくなってしまった。
名前も顔も知らない青年だというのに・・・。
偶然にも彼はリュドミールの命の恩人だったらしく、リュドミールがすっかり興奮してしまったので、
彼らは早々に広場を引き上げた。
その青年の名はアレクセイ・ミハイロフ。
ユリウスはその名前をしっかりと記憶に刻み込んだ。レオニードには正直に言ってみたのだが、
「名門貴族の家柄だったが、兄弟そろって革命派に転じて破壊活動に従事していた男だ。
そんな危険な男とお前に接点があった筈があるまい。リュドミールが騒ぎ立てていたから、
そんな気分になったのだろう。」と片付けられてしまった。
言われてしまえば確かにその通りなのかもしれない。だが心の中で彼と冬が結びついてしまったのか、
冬になると彼をひんぱんに思い出してしまうユリウスだった。
遠目に見えたに過ぎないその姿を、彼女は何度も何度も脳裏に描きなおしては飽く事がなかった。
だってささやかだが、それだけが彼女の失われた過去との糸口なのかもしれないのだ。
ただの勘違いかもしれなくても、決してその記憶の感触を手放すわけにはいかなかった。
しかしもしそれが勘違いでなければ、シベリア流刑に処せられた破壊活動家と繋がりがあったかもしれないなんて、
自分は一体何者だったのだろう。
自分自身が何者かわからないというのは実に恐ろしいものだった。
こうしてユスーポフ家で周囲の優しさに守られて暮らしていても、そこには薄氷を踏みながら歩いているような
恐怖が常につきまとっていた。そしてその薄い氷の下には一体何が隠されているかは自分にもわからないのだ。
氷が割れた時に自分を飲み込むのは何なのだろう。
そう思うと、たとえ今の安寧を失っても自分の過去は何としても探し出さねばと、時折ユリウスは
駆り立てられるように感じていた。
だが、もしもそれでユスーポフ家の人々に迷惑をかけるような事になれば、どうしたらいいのかわからない。
とにかくもう一度、あの反逆者についてレオニードに相談してみようと思ったのだが・・・。
ユリウスは小さくため息をつくと、冬はまだまだ先だと自分に言い聞かせ、
今頃しびれをきらしているだろうリュドミールの部屋へ向かっていった。
(3)
その一月後、リュドミールの誕生祝いがユスーポフ邸で名門貴族としてはずいぶんささやかに、
家族とごく親しい身内だけでとりおこなわれていた。アデールとレオニードの事実上の別居は
すでに半ば公然としたものになっており、女主人(ホステス)を失ったこの屋敷はここ数年、
公式・非公式を問わず社交的な集いから遠ざかっていた。
もともと社交の場には義務として熱意無く参加する程度のレオニードとヴェーラだったので、
女主人の不在をいいことに、二人は静かな生活を満喫していたといってもいいいかもしれない。
だがレオニードはもとより軍務に忙殺されがちな身とあって、最低限避けられない
宮廷での公式な宴などでその時ばかりはアデールと並んでいれば事は足りたが、
ヴェーラは未婚の娘としては「変わり者」のレッテルを貼られかねないほど社交の場から遠ざかっていた。
もともと華やかな場にうつつをぬかす種類の娘ではなかったが、その簡素な暮らしぶりはすでに
家を守る未亡人といった趣にまで達していた。
そんな彼女もそろそろ縁談を決めないといけないぎりぎりの年齢にさしかかっており、
レオニードは保護者として一族の者から苦言を呈されることも度々だったが、
彼は多忙を口実に言を左右にしていた。
なぜなら、どんな縁談がこようがヴェーラが行く筈は無かった。
どんなに気丈を装っていようが、無残な結果で終わった恋の痛手が彼女をいまだにしっかりと
掴んでいるのは兄の眼には明らかだった。
それに爛熟したロシア貴族社会とはいえ、ユスーポフ家ほどの名門の娘であれば処女でない身で花嫁になった場合、
万が一相手に騒ぎ立てられてはどんなスキャンダルになるか、兄妹ともによく承知していた。
彼らは過ぎた事にお互いを責めるような事は無く、むしろ相手に思いやりを持って淡々と暮らしていたが、
二人の間にはエフレムの流した血がいまだ拭い去れずこびりついていた。
そんなレオニードとヴェーラには無邪気なリュドミールとユリウスの存在は一種の緩衝材でもあったのだ。
もちろんリュドミールはそんな兄達の事情など気づく由もなく、すこぶる楽しく誕生日を過ごしていた。
昼間は一族の中でもごく近しい者達が、リュドミールに年の近いいとこ達を中心に呼ばれており、
やや年長の者の中には若く美しいユリウスに好奇の目を向ける者もいた。(といっても10代の少年だが、
早熟な者ならこの年頃のロシア貴族はなかなかこういった面には油断がならないものだった。)
そんな一人が部屋の隅で彼女をつかまえて話しかけているところに、ちょうどレオニードが帰邸した。
彼は客人たちに遅刻の無礼を詫びながらさりげなくユリウスを下がらせ、彼女はむしろほっとしてその場を退いた。
リュドミールへの祝いに用意した馬を見せに厩舎へ弟と客人達を誘導しながら、
レオニードはユリウスを人前に出したヴェーラにちらりと咎めるような視線を送ったが、
妹は素知らぬふうを装った。
客人達は夕刻には帰り、晩餐はいつもの顔ぶれだった。
リュドミールは贈られた馬に夢中でその話ばかりをして飽きず、その様子にレオニードとユリウスは苦笑まじりで目を見交わしあった。
夜も更けてようやくリュドミールもベッドに入り、ヴェーラはお休みのキスに枕元に来た。
「いい誕生日だった?」
「はい姉上。本当に・・・楽しかったな。今年は兄上も早く帰ってこられて一緒に過ごせたし・・・馬には本当に」
「リュドミール、その話はもう勘弁してちょうだい」と笑うヴェーラにさすがにリュドミールも照れ笑いをした。
だが次いでその表情からふっと笑いが消えたのでヴェーラは「どうしたの?」と優しく尋ねた。
「姉様・・・。兄上が昼間、途中でユリウスをお茶会から引っ込めてしまったよね。」
「ええ・・・。それが何か?」
「僕はユリウスにはずっと一緒に祝っててほしかったのだけど。」
「リュドミール・・・ユリウスは家族ではないのよ。とても仲良くはしているけれど・・・。
さっきも兄上に無理にお願いして一緒に写真も撮っていたけれど、その事には兄上、怒ってらっしゃるのよ。
あなたも自分の立場というものをもうそろそろわからねば。」
「うん・・・。それはわかってるけど・・・。」ヴェーラは急にしょげたリュドミールがふと不憫で言葉を足した。
「まあ・・・あの時はセルゲイがユリウスにちょっかいをかけようとしていたから、お兄様はそれがお嫌だったのでしょうね。」
「ちょっかい?」
「あなたにこんな事言うのはまだ早いけれど、ユリウスはたいそう美人ですからね。殿方が彼女に惹かれるのは仕方ない事だけど、
我が家としてはほっとくわけにはいかないわ。もしユリウスがもて遊ばれるような事があればいやでしょう?」
「遊びでなければ・・・いいの?そうか、そういう理由でユリウスがいなくなる事だってあるんだ・・・。
誰かに連れていかれちゃうのかも・・・。」
「リュドミール?」
「姉様、僕、ユリウスがここから居なくなってしまわないか心配で・・・。だから僕とユリウスはこないだ約束したんだ。
ずっと友達でいようって。でも、そんな理由でユリウスが居なくなるかもしれないなんて考えた事も無かった・・・。」
「リュドミール・・・」ヴェーラはそんなにも弟がユリウスを思っていることに胸をつかれ、彼の手を優しく握った。
「だいじょうぶよ、ユリウスはきっとずっとこの屋敷にいてくれるわ。」
「本当に?姉様。僕が寄宿舎に入っても兄上はユリウスをこの屋敷から追い出したりしないよね?」
「ええ大丈夫よ。兄上は決してそんな事はなさらないわ。だから心配せず、もうお休みなさい。
楽しい一日だったでしょう?その気持ちのままお眠りなさい。」
そっとヴェーラはリュドミールの手を冷えないように羽根布団の中に入れてやり、
リュドミールはにっこりして姉の顔を見つめると瞳を閉じた。そしてほどなくことんと音がするように眠りに落ちた。
ヴェーラはしばらくその寝顔を見つめていたが、やがて灯りを落として弟の寝室を去った。
そして廊下に出て小さくため息をついた。自分の偽善者ぶりには我ながらほとほとうんざりだった。
次いで、確かにリュドミールの家庭教師という口実が無くなりもしユリウスが出て行くことを望んだら、
兄は今度はどう彼女を言いくるめるつもりなのかと苦笑した。
兄は絶対にユリウスをこの屋敷から自由にする事はできないのだ。
さすがにユリウスも少しおかしいと感じるのでないだろうか。
何も知らないユリウスは兄を信頼しきっており、兄も彼女の記憶喪失前とはうってかわって優しく接していた。
今夜の晩餐でも二人は微笑を浮かべあい、その姿はまるで気を許しあった恋人同士のようだった。
もっとも兄は傍目からそのように見えているなど全く想像もしていないだろう。
ヴェーラの見るところ、笑止な事に兄は自分の気持ちに気づいてすらいない。
そもそもの最初から、反逆者を追ってきたユリウスに彼がロシア帝国の軍人として反発しつつも、
一方では男として関心をおさえきれないでいるのが、妹の目からは明らかだった。
そして彼女が記憶を失った後の彼は監禁者というよりは保護者といった方が正しいような立場に、
(彼は絶対に認めないだろうが)嬉々としてたっており、その関わり方はあきらかに任務の域を逸脱したものだった。
だが何と言ってもユリウスは皇帝陛下からの預かりもので、監視の対象である彼女に惹かれる事は
あの忠勤な兄にはかなりのジレンマの筈だ。おそらく兄は自分の気持ちに気づく事すら無意識のうちに己に禁じているのだろう。
それが恋なのかどうかまではわからなかったが、どのみち感情の歯車が動き出してしまえばどうしようもない事を
ヴェーラは自己の経験としてよく知っていた。
ヴェーラがともすれば兄とユリウスの関係におそらく本人達より敏感になっているきらいがあるのも無理は無かった。
彼女はやむをえなかったとはいえ彼女の恋人を射殺した兄をまだ心のどこかで許せていなかった。
あの冷徹な兄、常に情よりも皇帝陛下への忠誠や貴族としての矜持、軍人としての責務を優先してきた兄が
それと激しく矛盾する気持ちを抱いた時、自分の感情にどう落とし前をつけるのか見てみたいという意地の悪い気持ちが、
ほんの少しだけだが彼女の中にはあった。
ヴェーラの目には、レオニードが抑制を失わない限りこのまま永遠に続くのかとも思えた奇妙に無邪気な彼らの関係。
だが、それはその後意外と早く幕を下ろす事となった。
(4)
それはリュドミールの誕生日から少し日が過ぎ、秋もだいぶ深まった深夜の事だった。
レオニードは書斎で軍部から持ち帰った報告書を読んでいた。
内容に集中して時間を忘れ、気が付くと真夜中をだいぶ過ぎていた。
少し迷ったが今夜はもうここで切り上げることとして立ち上がった時、
ふと冷たい風を感じて振り返ると書斎の奥のカーテンが窓が僅かに開いていたらしく、ゆれている。
レオニードは今まで気づかなかったのを不思議に思った。だがこの夜中に下僕を呼んで閉めさせるのも面倒で、
全く警戒せずその窓に近づき、そして潜んでいた賊と顔を会わせた。
己のうかつさに思わず笑い出しそうになったが、血走った目でレオニードの胸元に銃をつきつけてきた男には
そんな余裕は無さそうだった。
彼は「声を出すな。」と言わずもがなのセリフを発しながら銃口でレオニードの胸板を押し、
書斎の中央近くまで下がらせた。レオニードよりわずかに背は低いが腕力はありそうな恰幅のいい男だった。
何も声を出さずともそこらのランプ一つでも倒せば隣室のロストフスキー達が駆けつけてくるだろう。
だが問題は男が銃口をレオニードの胸板から外さず、引き金には指をかけていることだ。
それをなんとかせねば、この緊張しきった男はわずかな刺激ですぐに引き金をひいてしまいそうだった。
一方で男は誰か入ってくるのを警戒してかひどく戸口の方を気にしており、
せっかく脅しているレオニードの顔をろくに見ようともしなかった。それはレオニードにとっては大変な幸運だった。
なぜなら彼は視界の隅に何か動くものを感じ、次いでその正体がわかった時、大層唖然とし、次に激しく動揺していたからだ。
ユリウスが奥の衝立の陰にある、もう一つのライティングデスクの向こうで呆然としていた。
(一体いつからいたんだ!)とレオニードは今夜の己の鈍さを心底から罵りつつ、必死で表情をおさえた。
賊が気づかぬうちにユリウスを一刻も早く無傷でこの部屋から出さねばならない。
だが戸口との間に自分達がいる以上、自分達の位置を変えるか、賊が彼女に気づく前にカタをつけてしまわねば。
言葉で挑発してみるか・・・?と思案したが、ユリウスがそっとペーパーナイフに手を伸ばした気配に気づき、
(ばかもの!)と心中でうめいた。あの細腕でどうなるものか。逆に最悪の事態を招きかねなかった。
レオニードは焦った。彼女が馬鹿な事をする前になんとかせねば。
「あまり突きつけるな。痛い。」わずかに足を進めながらレオニードは言ってみた。
男は「勝手に動くな。侯爵様よ。俺の気分次第であんたは痛いも何も言ってられなくなるんだぜ。」
と答えながら、レオニードにつられるように歩みを進めた。
賊がユリウスに背中を向ける姿勢になったところでレオニードは立ち止まった。
「ほう・・・。私が誰なのかはわかっているのだな。勇気のある事だ。」と言い、言葉を続けた。
「物取りか?欲しいものがあれば取ってさっさと出て行け。」男は少し迷うような目つきをし、
「欲しいものねえ・・・」と口元を曲げ、ピストルを握りなおそうとした。
その瞬間をレオニードは見逃さず、手刀で男の手首を思い切り叩き落とし、次いで足元を払った。
そしてその刹那、レオニードが止める暇も無くユリウスが飛び出してきて、賊の体に体当たりしてナイフを突き立てた。
だが急所ははずれ、ナイフごと振り払われた彼女は近くにあったコンソールにぶつかり倒れた。
その間にレオニードは賊の腕を逆手につかみ短銃を握る手をねじりあげた。
その痛みに相手は思わず銃の引き金をひき、銃声が響いたが、銃口は天井を向いていた。
これで隣室の部下らをはじめ、屋敷中の者が駆けつけてくるだろう。
男の目が絶望と憤怒に燃え、だが腕をねじりあげられる痛みに耐え切れずついに銃を放してしまうと、
今度は逆に死に物狂いの力でレオニードの喉首を締め上げてきた。
レオニードはその姿勢から膝で思い切り相手の足元を払い、腹を蹴り上げ、
その弾みで男の腕を振り払い体を引き離した。
そこへ他の者達が駆けつけて来て、倒れた賊が床のピストルに手を伸ばそうとしているのを見てとるや、
ロストフスキーはとっさに自らの短銃を抜き、一発で男の胸板を撃ちぬいた。
ユリウスは自失した様子で床に膝をついていた。
レオニードは「ユリウス!大丈夫か!」と急ぎ駆け寄ったが、
ユリウスはひどくのろのろと顔を揚げて彼を奇妙な目つきで見上げた。
「・・・ユスーポフ候・・・?」
その手にはいまだしっかりと血のついたペーパーナイフが握られていた。
「・・・? もうそれは用が無い。手当てをするから離しなさい。」
と言って延ばしたレオニードの手をユリウスは振り払うと、彼の目を正面から見据え、
歯から押し出すようにして「・・・僕に触れるな・・・!」と言った。
その烈しい眼差しを見た時、彼はユリウスが記憶を取り戻したことがわかった。
二人の間に緊張が走り、レオニードはユリウスに刺される事を一瞬だが覚悟した。
(5)
そこに近づいたロストフスキーは彼らの様子がおかしいとは感じたが、まさかそんな事とは思わずレオニードに声をかけた。
「候、ご無事ですか。賊は既に絶命しております。私どもが控えていながらこのような・・・!」
レオニードは立ち上がるとナイフを握ったままのユリウスにあえて背を向け、遺骸の方に向かった。
「よい、もともと私が油断していたのだ。この屋敷に賊を入り込ませるなど己の管理が行き届いていなかった証拠だ。
こいつを死なせてしまったのは残念だったがやむを得まい。手間をかけたな。」
賊の体をあらため、一方ではユリウスが自失したままなのを見ながら彼女に聞こえないように続けた。
「身元がわかるようなものはさすがに身につけていないな。革命分子かラスプーチンの手のものだろうが、どうせ何もわかるまい。
ユリウスの事もある。あまり表沙汰にするな。」
もっともレオニードはこれは革命派の仕業ではあるまいとふんでいた。爆弾での暗殺がお家芸の彼らなら、
自分は今頃とうに肉片になっていた筈だ。彼をすぐに殺さなかったところを見るとむしろこれはユリウスを狙ったものだろう。
ラスプーチンの手の者なら組織だったものではなく、また捕らえたところで大元との関係まで探れる筈は無かった。
「承知いたしました。まだ、仲間の者もそこいらに潜んでいるやもしれません。私どもで捜索してまいりますので、
どうぞ候はもうお休みください。」
ロストフスキーらに後を託し、レオニードはユリウスと共に彼の居室に移った。彼女はまだ呆然としたままで、
その手にはいまだしっかりとペーパーナイフが握り締められ、片腕から血を流しながらもユリウスはそれを離そうとしなかった。
自ら握ったナイフの切っ先がかすっただけの軽い傷だったので手当て用の医薬品を運ばせた後、レオニードは人払いをし自ら
ユリウスの傷の手当てをした。軍人らしく手馴れた、しかし意外に優しい手つきで応急処置をほどこされながら
ユリウスはいまだ自失した様子だった。
ナイフを手にした時から奇妙な感覚が這い上がってきてはいた。
だがあの状況ではその理由を探る余裕は無く、レオニードを守らねばという一心でユリウスは賊にぶつかっていったのだ。
しかし、男の背中にナイフを突き刺した刹那に奔った、ナイフが人の肉に食い込み、骨に当たるその感覚!
そんなはずはないのに、「この感覚を知っている」という認識が体を貫き、ユリウスは絶叫しそうになった。
そして賊に振り払われて倒れながら机にぶつかり、倒れ、だが、ナイフを握る手を通して身を貫く感覚はそのままで・・・
続いて失われていた記憶の奔流が起こったのだ。
(いったいなぜ・・・)忘れていることなどできたのか。
自分自身を、クラウスを。
そして彼に耐え難い形で見捨てられたことを・・・。そして自分が何から逃れてロシアにやってきたのか。
一見呆然として見えるユリウスの内面では嵐が荒れ狂い、彼女は身じろぎ一つできずにいた。
その嵐はあまりにも大きすぎ、あとわずかの刺激で口からは絶叫が飛び出し、そうすれば今度こそ自分は本当に狂ってしまうだろう
としか思えなかった。
一方のレオニードは先ほどの乱闘中にユリウスが記憶を取り戻したらしい事には気づいていたので、彼女の沈黙をそのための混乱と受け止めていた。
同時に、ユリウスがここ数年自分に寄せていた全幅の信頼も消えうせたであろうことも察し、なぜかその事にほろ苦さを感じた。
そして、以前のユリウスに対して示していた自らの暴君ぶりを思い出すと、記憶を取り戻した彼女にどのような態度をとればいいのか
正直彼自身も少し迷い、しばらく部屋には沈黙だけが降りていた。だが記憶を失っていたからこその行動で手段としては愚かだったとはいえ、
この女が自分の身の危険を顧みずに彼を救おうとしたのは確かで、さすがにその事に知らぬ振りはできなかった。
「すまぬ」「・・・え?」
レオニードの思わぬ言葉にユリウスの意識はふっと混乱する内部から浮上した。
彼はユリウスがきつく握り締め過ぎて離せなくなってしまった銀製のペーパーナイフから優しく、
しかし断固とした力で1本づつ指を外させながら言った。
「人が死ぬところなど見せてしまった。しかもこの屋敷の中で・・・。お前にまで刃を持たせるなどあってはならぬ事だった。
さぞや恐ろしかっただろう。悪かった。」
ユリウスは苦い思いで呟いた。
「・・・。初めてではない。」
「?」
最後の指が外されると同時にユリウスはついに抑制を失い、
「初めてではない・・・!僕は・・・僕は・・・人殺しだ!」と悲鳴のように言葉をしぼりだすと同時に床に崩れおちた。
がっくりと床に手をつき、
「僕は・・・僕は・・・この手は・・・!クラウスにはきっとあの時見えたんだ・・・。この手が血に染まっている事を・・・。
だから僕を置いて・・・。」
レオニードは虚をつかれてユリウスを眺め、それから傍らに膝をつき覗きこむような格好で
「ユリウス・・・?何を言っているのだ・・・?」と尋ねた。
しかしユリウスはもう言葉にもならずただ頬に滂沱と涙を伝わせるのみだった。その目には目の前のものは何も映らず、
ただ自分の内部で荒れ狂う記憶と悔悟の苦しみだけを見つめており、傍らにレオニードがいる事すら、意識していなかった。
大きな悲嘆と絶望のかたまりがのどまでこみあげ、もう自分自身をどうすることもできなかった。
額をつけるようにしてしばらくその様子を見ていたレオニードはやおらユリウスを抱き上げると近くの寝椅子まで運び、
彼女を横たえると自らも傍らに椅子をひき、腰掛けた。
そしてユリウスの濡れたほほに指でふれたが、ユリウスは無反応でただ天井を見上げて涙を流すのみだった。
一刻ほどもそのままだったろうか。
レオニードはかたわらにあった水差しにナプキンをひたし軽く絞るとそっとユリウスの瞳にそれを載せた。
「話すがよい。それで楽になるのなら」
沈黙のまま、また小半時が過ぎたがやがてユリウスはゆっくりと語り始めた。
誰にも語る筈のなかった、自らの罪を。
「これでわかっただろう・・・。僕は罪人だ。
ドイツに送還するなり、ロシアの監獄に入れるなり好きにしてくれ・・・。」
長い告白のあと、かすれた声でかすかになげやりな響きでユリウスはつぶやいた。
ああ・・・とうとう・・・何もかもを明るみに出してしまった・・・。
しかも最悪の敵に・・・。
遠くロシアまで死ぬような思いでクラウスを追ってきたが・・・めぐり合えた彼には一瞬で置き去りにされ・・・。
そうだ。この男に言われたように、革命の闘士に恋など何の意味があったろう。
僕は一体彼の何を知っていたのだ。ドイツで置き去られた事が既に彼の答えだったのに、
それでもロシアまでも来てしまったのだ・・・。
僕の独り相撲だ。いや、違う、自らの罪から逃れるためにクラウスを利用しようとしていたんだ。
だが結局逃れきることはできなかった。この男は僕を官憲に引き渡すだろう。
僕がロシアに来たのは・・・クラウスに打ち捨てられたのも・・・もしかして神に罰されるための
長い道程だったのかもしれない・・・。
長い沈黙が部屋を鎖していた。すっかり観念したユリウスはむしろ今までに無い平安を感じていた。
かつてないやすらぎの中、このまま眠りにおちてしまいそうだった。だがレオニードの答えは意外なものだった。
「お前は罰されたいのか?だがあいにくここはドイツでなくロシアだ。お前はロシアでは何の罪も犯していない。」
ふいと立ち上がるとレオニードは酒を2杯注ぎ、横たわっていたユリウスを座りなおさせ、
自らも口をつけながらもう片方の杯を渡した。
「飲め」
呆然と、言われるがままに酒を口に含むとカッと熱いものがのどを伝いおり、ユリウスの意識を先ほどの麻薬めいた平安から
現実に引き戻した。
傍らに椅子を引き、腰掛けたレオニードはユリウスと向かい合う形になった。
「それでおまえはロシアに来たのだな。そして今、罪以外の全てを失い、いっそ罰されたいと願っているのか。
だが私はお前を裁く裁判官でもお前を赦す聖職者でもない。そしてたとえお前が裁きを受けたいと望んだとしても、
官憲に引き渡すことはできぬのだ。それでもと望むなら、お前の罪はおまえ自身であがなう道を探してくれ。」
ユリウスはぼんやりとレオニードの言葉を繰り返した。
「罪を・・・あがなう・・・。」
「ユリウス。私は軍人だ。任務とはいえ多くの人の命を直接、間接に左右する。
軍人でなければ罪として裁かれるであろうことも多い。
常に最良と思われる道を選び後悔はしないが、神の目にはどうなのか、所詮わからぬ。
私にできるのは多くの命を左右した己の行為の帰結を引き受けるだけだ。」
レオニードはユリウスの目を見据えて言った。
「お前も同じだ。お前はまだ人生を始めてもいなかった子供だ。だが過ちを冒してしまったのは確かだ。
いつか、道が見つかることもあるかもしれぬな。それまではお前が忘れられないのならその罪と生きていくしかあるまい。
それがいやなら全て忘れてしまえ。」
ユリウスは呆然とレオニードを見つめた。ユリウスは自殺も同然にいま全てをなげうったのに、あれだけ彼女を苦しめてきた
罪の恐怖と重さをこの男はあっさりとかわしてしまった。まるで肩透かしをくわされたようで、そんな気楽に全てを忘れるなど
できるものかと、(もっともここ数年は確かに忘れていたのだが。)急にユリウスの胸には怒りがこみ上げてきた。
レオニードはそんなユリウスの表情を見極めて、もう一つゆさぶりをかけた。
「ドイツの刑罰の事はよく知らんが、実際、捕らえられてもたいした刑になったかどうかもわからんぞ。
最初は過剰防衛で、2つ目は毒殺犯本人が進んで飲んだも同然だし、結局彼女の死も確認していない。
どちらにせよお前は未成年だったのだろう?発端になった詐欺罪にしてもお前は主犯ではない。
そういう意味ではお前の過ちの全ての元凶はお前の母だ。」
カッとしたユリウスは杯を握り締めて思わず叫んだ。
「母さんを悪く言うな!」
「そうか?お前の話だと諸悪の根源はお前の母親だぞ。ここロシアの貧民ならばいざ知らず、何もお前の人生を捻じ曲げなくても
貧しくとも親子が生きる道はあったのではないか?本当に娘を愛すればそのような偽りの過酷な道を歩ませる事は無かった筈だ。」
「何も・・・何も知らないくせに・・・!母さんがどんなに僕を愛していたか・・・!
父さんがどんなひどいやり方で母さんを捨てたか!僕らがどんな貧窮をしのいだかを。そうだ今ならわかる、
僕を娘として育てれば早晩親子で春をひさぐしかなかったろう。私生児を生んだ母さんには他に道は無かったんだ!」
杯を暖炉に投げつけユリウスは力いっぱい叫んだ。
だが頭の片隅では不思議な明瞭さが、レオニードが言った事もまた真実の一面であるとユリウスに告げていた。
母はなぜあんな事ができたのか。十数年もかけて周囲を欺き、その間、娘には虚偽の人生を強いたのだ。
もしかしたら一生続けさせる気だったのか。
ああだけど自分はどれだけその母を愛し、必要としていたことか。
クラウスに恋をするまで、いや恋をした後も母が生きている間は母こそが彼女の全てだった。
それなのに、母は彼女を母が仕組んだ偽りの中に一人置き去りにしていったのだ。
再び混乱に突き落とされ、今度はユリウスは声をあげて子供のように泣き出してしまった。
拳で寝椅子を叩くユリウスをレオニードは引き寄せ、胸に抱いた。
彼の胸の中でユリウスはまた声をあげて泣き、しゃくりあげ、彼の胸を拳で叩いたがそれは抵抗ではなく、
ただかんしゃくを起こした子供のしぐさだった。
思えば幼い頃からユリウスは母の前でもそのように泣いたことは無かった。彼女は母のため、いつも強い
「息子」を演じてきたのだから。自分でも気づかなかった、常に胸の中にあった何か大きな堅い塊が
しゃくりあげる度に少しづつ砕け散り、小さくなっていった。
やがて段々泣き声もしぐさも小さくなり、先ほど感じたやすらかさと眠気にユリウスは少しづつ包まれていった。
レオニードは眠ってしまったユリウスをそっと抱きしめた。それは性的なものを全く含まない、
傷ついた子供を抱きしめるのと同じものだった。
確かにユリウスの告白は意外なものだったが、軍人であるレオニードは人の生死に対して一般人とは少し違う感覚を持っていた。
彼女に告げたようにユリウスの最初の殺人は母親を救おうとした過剰防衛に過ぎないし、第2の殺人も完遂したのか未確認だ。
だがこの告白で財務長官が言っていた「不可思議な不幸続きのアーレンスマイヤ家」に何が起こっていたかはおおよそ掴めた。
何より母親によって始めからゆがめられてしまったユリウスの人生に哀れみをおぼえたのだ。
だがたとえ本人が本気で罪の裁きを望んでも、ロシア皇室の隠し財産の事を知る彼女にそれを許すわけにはいかない。
もっともレオニードが見たところ彼女にはまだその覚悟ができているわけではなく、今はただ混乱しているだけだった。
姑息かもしれないが、彼としてはユリウスには自分自身の罪と折り合いをつけて生きていく方向に誘導するしかなかった。
ロストフスキーが処理がすんだことと今後の処置について報告するべくやって来たが、レオニードは黙って手振りで
(明日聞く)と伝えた。ユリウスがレオニードに抱かれて横たわっているのを見ても、さすがに付き合いの長いロストフスキーは
驚いた顔ひとつせず、下がっていった。
レオニードは今夜はユリウスを一人にするつもりは無かった。彼は混乱し絶望した彼女が自らを害する可能性を恐れた。
(6)
ユリウスが目覚めた時、部屋の窓には朝日の昇り初めの光が差し込んでいた。
濁流から打ち上げられた思いでユリウスは厚いカーテンから差し込む光の筋を眺めながら、全てを忘れて呑気に過ごしていた
昨日までの日々とは全てが変わってしまったことをしみじみと噛み締めた。
昨日までの自分は無感覚な夢の中にいたようなものだ。ある意味では、自分があんなにも望んでいた平安を得た日々
だったのかもしれない。だが、もう二度とあんな時間は自分の人生には訪れる事はないだろう。その全てはまやかしだったのだ。
朝の清らかな光にいままでの欺瞞を責められるように感じてそれ以上耐えきれなくなり、目を閉じてうつむけに
なろうとした次の瞬間、ようやく彼女は自分がレオニードの膝で寝ている事に気づき跳ね起きた。
「まさか一晩中・・・?」
呆然としてユリウスは寝椅子の背もたれに肩を預けた彼の寝顔を見つめた。記憶を失っていた間でもこんなに
間近でレオニードをしげしげと見つめたことは無かった。ユリウスは少しぼんやりと、彼の寝顔を眺めていた。
やがてレオニードがみじろぎして目をさましそのまままっすぐに黒い瞳で彼女を見た。ユリウスは今まで自分が
彼を眺めていたことに咄嗟にバツの悪さを感じる一方で、自分が全てを告白し、おそらくもっとも知られてはいけない
相手に弱みを握られてしまった事を改めて思い出し、目を閉じた。
(もう、これで全て終わりだ・・・。ゆうべは官憲には渡さないと言ったが・・・。これで文字通りこの男に
生殺与奪を握られてしまった・・・。)
「起きたのか。」
ユリウスは返事をせず、目を落とし床を見つめた。だが聞こえてきたのはレオニードが軽く吹きだす音だった。
「?」目をあげたユリウスの顔を見てレオニードはさらに笑った。
「おまえ、ひどい顔だぞ。」
「・・・!」
「まあ冷たい水で洗って少し冷やすことだな」立ち上がってひらりと上着を肩にかけると
「私は寝室で寝なおす。これで軍務では体がもたんからな」と赤い顔のユリウスを尻目に隣の寝室に向かった。
「あ・・・」とユリウスは思わず1歩踏み出した。レオニードは振り返ると
「何だ?まだ一緒に寝足り無いのか?寝室までついてくる気か?」とユリウスを思いがけずからかった。
今度こそ真っ赤になったユリウスは思わず手近なクッションをつかむとレオニードの背中に投げつけたが、
彼はかまわず笑いながらいってしまった。
空しく床に落ちたクッションを拾い上げるとユリウスもふいに脱力し、笑いの発作におそわれそうになった。
「こんな時に・・・ばかな・・・」と首を振ると、壁にかかっていた鏡に、泣きはらして、かつて見たことも
ないほど目を腫れあがらせた自分の顔が見えた。ユリウスは今度こそ狂気じみた発作に逆らえず笑い出してしまった。
涙が出てくるほど一人で寝椅子にころがって笑い、やがて笑いの発作が鎮まるとあおむけになって涙がほおをつたうに任せた。
ゆうべあんなに泣いたのに、涙はいつまでも止まる事はなかった。
レオニードが予測したように賊の身元はわからなかった。アデールが戻らなくなって数年、屋敷の警備が手薄に
なっていた事を反省しレオニードは使用人の身元の洗い直しをはじめ、商人など屋敷への人の出入りをもう一度締め直させた。
そしてユリウスに釘をさした。
今の彼女を脅かしたくはなかったが、もしラスプーチンが依然としてユリウスを狙っているのなら、
記憶を回復した彼女が脱走したところで早々に彼の魔手に飛び込む羽目になるのがおちだった。
ユリウスとてあの異様な僧にまた捕らえられるのだけはごめんこうむりたかったのでその勧告は素直に受け止めた。
どのみち、すぐに脱走を図るような力など彼女には無かった。
記憶が戻ったことでユリウスはひどい苦しみに襲われていた。故国で犯した数々の罪の記憶、たとえここに監禁されて
いなくても還るべき故郷は自ら失ってしまったこと、それだけの犠牲を払ってまで追ってきたクラウスには瞬時にして
見捨てられたこと。そしてそのクラウス、いやアレクセイは終身刑に処せられてしまい、生きて再会できる望みは今度こそ
限りなく薄くなっている。それらの全てがユリウスの心を苛んだ。
何よりもそれらのことが過ぎてもう3年とは!
絶望に錯乱して己を失おうにも、若いユリウスにとっては3年とは取り返しのつかない長い時間に思えた。
知らないうちにクラウスは刑に処され、手の届かない遠い場所へ送られてしまっていた。
しかもその間、自分はのうのうとユスーポフ家で安寧を味わっていたに等しい。おまけに自分の監禁者を恩人とすら
思い、感謝し信用しきっていたのだ。自らのおめでたさにユリウスは歯噛みし、自分を騙していたレオニードを憎み、
何より自分自身に激しい羞恥と怒りをおぼえた。
そのくせ、この数年間レオニードに頼り切っていた自分がまだどこかにいて、実のところ怒りのですら彼への信頼感を
根こそぎ無くすことがどうしてもできなかった。それにしても動揺のあまりとは言え、自ら封印してきた全てを
彼にぶちまけてしまったことは取り返しのつかない失策だった。だが不思議なことに「彼が全部知っている」という
事実はなぜか今までの人生で味わったことの無い安堵感と、一方で矛盾することに彼自身に対しては自分がひどく無防備に
なってしまったような寄る辺無さを感じさせた。これは自ら虜囚の立場に甘んじ始めているということではないのか?
ユリウスはどこか後ろめたい疑問を自分に感じた。
だがそんな事は本当に彼女を苦しめている事に比べればささいな問題だった。
何より彼女を強く苛んだのは再び肩に戻ってきた自らの罪の重さだった。
自分は殺人者なのだ。よくも今まで罪無き顔で生きてこれたものだ。ロシアに来た当初はクラウスに会えるという
期待や幻想がそれを遠くに押しやっていたが、いま取り戻した記憶は
(お前は母と共に周囲を欺き、人を殺めたのだ。おまえは未来永劫殺人者で、その罪は消えることがない。
それだけでない。いまやたった一人の肉親となったあの善良なマリア・バルバラの人生におまえが何をしたか考えてもみろ。
彼女は家族を全て失い、傾きかけた家門とスキャンダルだけを背負わされ独りで取り残されたのだ。
お前を愛し、信じた高潔な姉。その愛にも信頼にも値しなかったおまえが彼女を破滅させたも同然ではないか)とささやいた。
全てが今さらどうにもならない事だったが、腹違いの姉にだけは心からユリウスは悔恨を抱いた。
だが、ここロシアで深く悔いても、まさにそれはユリウスの心の中だけの問題であり、彼女はレオニードの言葉を思い出して
いつか自分がこの罪を贖うことがあるのだろうか、それにはどうしたらいいのかとあやぶんだ。
だが彼の言うとおり、忘れられないのなら、結局それが分かる、あるいは裁きの日を迎えるまでは重すぎる罪の記憶を
再び背負っていくしか無いのだった。
そして同じくらい彼女を苦しめたのは、クラウスがシベリア流刑、しかも終身刑に処されているという冷厳な事実だった。
シベリア流刑という事が何を意味するのか、外国人の彼女には本当に理解する事はできなかったが、革命派として終身刑に
処された彼がむごい処遇をうけているだろう事は、明らかだった。
ああ・・・!でも生きていてさえくれれば!しかし、生き抜く事、この弾圧の時期において、それがシベリアの監獄での
革命派にとっていかに過酷で難しいことか、ユリウスは知らなかった。アレクセイがどんな日々を耐えているかを知れば、
おそらく彼女はどんな手段を使ってでも出奔しただろう。しかしその頃の彼女はロシアについてあまりにも無知だった。
おまけによみがえった記憶の辛さで彼女の意気は少し挫けてしまっていた。憲兵たちの中に慌ただしく自分を突き放して
去っていった彼の姿。ドイツで置いていかれた時とは事情が違う。追われていた彼に他の選択肢は無かったろうとはいえ、
思い出すたびに彼女の胸は鋭い痛みに貫かれた。そして、もう一つ、もしかしたら一番苦しいかもしれないのは、記憶を
回復した時の透徹した自己認識、自分はとにかく逃げ出したかったのだ・・・クラウスを逃げ場に利用しようとしたのだ
・・・というあまりにも苦い真実だった。
無理とわかっていても今すぐにでもこの屋敷を脱走してシベリアまで駆けつけたい、例え終身刑でも少しでも傍にいたいと
いう狂おしい思いと、それでも又拒まれるのではという恐れに彼女の気持ちは引き裂かれた。決してクラウスの事をあきらめた
のでは無かったが、この頃の彼女は自分自身にすら懐疑を抱き、いわばバラバラになってしまった自己のかけらを拾い集めるのに
精一杯になっていた。そしてやっとの思いで集めたそれらを繋ぎ合わせた所で、できあがる模様が以前と同じものになるのか
どうかすらわからなかった。
そのように自らを苛んでユリウスは日々を過ごしていた。悔恨と疑惑に毎夜眠れずに横たわり、天井を見つめ、いつか疲れ果てて
涙もかれていた。それでも朝は毎日訪れてくるのだった。
だがやがて彼女は少しづつ力を回復させていった。彼女の精神はもろいものだったが、肉体そのものに、自己を再生させるエネル
ギーがまだ残っていたようだった。全てを崩壊させてしまうには、まだあまりにも彼女の心も体も若かったのだ。
皮肉なことにユスーポフ家に軟禁されて外界の刺激から隔離されていることはいわば修道院の僧房に入ったように、苦しむ彼女が
傷を癒すのに必要な孤独と静寂の時間を与えていた。それに彼女自身は気づかなかったが、レオニードに全てを語ってしまった事で
肩に背負った罪の重みはかなり軽くなっていた。彼は裁きも赦しも与えはしなかったが、いわば聴聞僧の役割を果たしたのだ。
そしてあれからは一切何も言わず、ユリウスが自己と戦っているのをただ黙って見ていた。
記憶が回復したことを知らされたヴェーラは驚き、逆に気の毒にすら思った。リュドミールには、ただユリウスが病気とだけ伝えられ
見舞いも禁じられた。彼は心配でたまらなかったが命には別状のあることではないと言い含められ、彼女が冬が苦手なことは子供ながら
承知していたので回復を首を長くして待っていた。そして毎朝必ず、自分で温室の花を摘んできて、彼女の朝食の盆に添えるように
していた。最初の頃は手付かずのままの朝食と共に花も戻されてきていたが、やがてそれがリュドミールからのものだと知らされて以来、
花だけは盆に帰ってこなくなり、やがて少しづつ食事もとるようになっていった。
そうしてユリウスは、やがてゆっくりと日常生活に戻り始めた。記憶喪失以前のような攻撃的な態度はとらなかったが、
もちろん、もう子犬のようにレオニードにまとわりつく事はなくなった。一方でヴェーラとリュドミールには変わらず
友情をもって接していた。ヴェーラは黙っていたことを詫び、ユリウスは彼女を許した。(あなたが好きでそうしたん
じゃない事はわかっている。いいんだ。)
時折遠くを見つめていたが、そんな時、彼女の視線は何をとらえているでもなかった。その後、苦悶の表情を浮かべ一人
部屋にひきこもってしまう時、レオニードの視線は閉じられた扉に向けられたが、決してそこに入っていきはしなかった。
あの夜を期に二人の関係が劇的に変わったかといえば、傍目にはそうであるともそうでないとも言えた。記憶を失う以前の
敵対心に満ちて背中の毛が逆立つような関係にも、ここ数年間の子供と庇護者のような関係にも戻らず、二人の関係はいわば
新しい段階に入ったのだ。それは一見距離を置いたよそよそしいものに見えた。レオニードは相変わらず忙しく屋敷には不在がち
だったし、ユリウスも彼に会う少ない機会をむしろ避けていた。
アデール夫人が去った後、ユスーポフ家は兄弟だけの気軽な(と言っても規律には厳しかったが)家庭に逆戻りし、ユリウスは食事も
ヴェーラ、リュドミールと共に席に着くことが多かった。監禁された者でありながら友人、客、家族の間のような不思議な位置に
ユリウスはいた。ことに記憶喪失中の無邪気な時代にはほとんど家族同然だった。だからレオニードのたまの帰宅時も今までどおり
ヴェーラ達と一緒に彼を出迎えても少しもおかしくなかったのだが、ユリウスは巧みに席を外し、レオニードもユリウスのいる場所に
顔を出す事も無かった。
結局二人は急に距離が短くなったことに恐れをおぼえてお互いを避けていたのだ。あの夜、ある意味では記憶を失っていた頃よりも
さらに深い所で二人の心が隔てを失っていた事は確かだった。だが彼らのどちらにとってもそれは受け入れがたい事だった。
だから傍目には、むしろ二人の関係はユリウスが姿を現したころののよそよそしさに戻ったかのようにすら見えたかもしれない。
だが注意深く観察する人間がいれば、彼らが顔を会わせるほんのわずかな時間にレオニードが細心の注意を払ってユリウスの様子を
推し量っていることを、ユリウスが視線をレオニードに向けることを避けつつも、ふとあげる瞳がきらめき、頬がわずかに紅潮している
こと、彼らの間に新たに生まれた一種の緊張感に気づいたろう。次第にユリウスが一人で部屋にいても以前のような病んだ瞳で膝を抱えて
いることは少なくなったことにヴェーラもリュドミールも気づいていた。
「もうすぐ冬が去るからかしら・・・?」
(7)
そんなある日、レオニードが言った。ユリウスはそろそろロシア語を学ぶべきだと。これまでは脱走を警戒され、
ロシア語を学ぼうとするユリウスの試みはさりげなくも悉く絶たれてきた。身の回りの世話をする者もフランス語を
理解する者だけとし、ヴェーラ達にもユリウスにロシア語の書物やことに新聞を与えるのを禁じてきた。
(それでもユリウスは数年を過ごすうちに自然自然と片言程度ながら、ロシア語を解しつつあったのだが・・・。)
ロシア語の習得が許されたことに、ユリウスは「ドイツに帰さない」というレオニードの意思を見る気がしたが、
それが彼女にとって官憲に渡されない安寧を保障するのか、ついにロシアに終生監禁されて故郷とは永遠に断ち切られる
事を意味するのかまではわからなかった。そして記憶を取り戻した今、ロシア語をマスターすれば、ユリウスが脱走して
自由を得ようとする可能性も高まるのに、あえて学習を許すレオニードの真意をユリウスは図りかねた。
だがちょうど彼女は少しづつ気力を回復してきたところで、何か集中できる事があるのはありがたかった。ロシア語の習得に
真剣に取り組んでいれば、その間は自らをさいなむ様々なことを考えなくて済みそうだった。突然の兄の方向転換にヴェーラも
とまどいながら、ユリウスの家庭教師をかってでた。(本来ならいくらでも家庭教師など都合がつくものを、レオニードは
ユリウスが外部の人間と接触を持つことは相変わらず禁じていた。)
ヴェーラはユリウスの記憶の回復と共に兄と彼女の関係も変化せざるを得ないだろう事は察しつつも、その方向性には第三者
としては傍観を決め込むしかなかった。
やがて春も半ばを過ぎ夏も近づいた頃、珍しく軍務を午前に終えて邸に戻り、平服に着替えたレオニードが階段を上がると、
踊り場の出窓に陣取ってユリウスが本を読んでいた。
そこは庭から生い茂った木々の梢に包まれたような場所で、レオニードの少年時代のお気に入りの読書場所でもあった。
彼は懐かしい気持ちでふと足をとめ、「何を読んでいるのだ?」と久しぶりにユリウスに声をかけ、本を覗き込んだ。
レオニードの足音にも気づかず、没頭していたユリウスは驚いて顔をあげ、だが素直に表紙を見せた。
「プーシキンか・・・。革命家どものバイブルだな。だが美しいロシア語だ。学ぶにはもってこいかもな。」
ユリウスは開いたページの詩をつぶやくように読み上げた。
「日々のいのちの営みがときにあなたを欺いたとて
悲しみを またいきどおりを抱いてはいけない。
悲しい日にはこころをおだやかにたもちなさい。
きっとふたたびよろこびの日がおとずれるから。
こころはいつもゆくすえのなかに生きる。
いまあるものはすずろにさびしい思いを呼ぶ。
ひとの世のなべてのものはつかのまに流れ去る。
流れ去るものはやがてなつかしいものとなる」
(本当に・・・そうだといいのに・・・)
出窓に並んで腰掛けた二人の瞳には外の新緑が映りこみ、ユリウスの瞳はさらに若葉色に澄むようだった。レオニードは、
つと胸をつかれて、視線をユリウスからそらした。
一方のユリウスは久しぶりに彼がごく間近にいることをなぜか意識してしまい、頬に僅かに血が上るのを感じながら、
レオニードの顔は見ず傍らにある彼のシャツの肩先を見つめていた。軍服をまとっていない彼の姿はなぜかいつもユリウスを
とまどわせた。
「だがもうこれを読みこなせるとはずいぶん早い上達だな。」開かれた頁を指ではじき、ぶっきらぼうな調子でレオニードが
言葉を接いだ。
「おまえ、隠れてロシア語を学習していたのではないか?脱走に備えての独習か。ご苦労なことだったな。」
久しぶりの皮肉な物言いにユリウスは以前のような反発よりも、むしろ気持ちが傷つけられるのを感じた。
「そんな・・・。独習なんて・・・しようにもあなたは全て取り上げたじゃないか。新聞も、本も。
フランス語しか許されなくてもここはロシアだ。この館の中だけで暮らしていても自然に言葉は入ってくるよ。」
せいいっぱいの反論にもレオニードは答えず「どうだか」という顔で庭の方を眺めていた。
その冷たい横顔にユリウスは思わずつぶやいてしまった。
「記憶を失ってた頃はあんなに優しかったのに・・・。」
それが耳に届いたレオニードも窓を包む新緑をみつめながら言葉を返した。
「お前も人が違ったように素直だったな。どちらが本当のお前なのだ?」
いつもの低いがよく響く声と違う、かすれたかすかな声のつぶやきにユリウスは思わずレオニードを見あげた。
彼の顔にはユリウスが初めて見るなんとも形容しがたい表情が浮かんでいた。
そして本当に久しぶりに二人の瞳が合い、彼らはそのまま凍りついたようにお互い視線が外せなくなってしまった。
息詰まるような数十秒、いやもしかしたらもっと長い時間が過ぎ、やがてレオニードはそっと手をあげユリウスの頬に触れた。
視線はユリウスの瞳に据えたまま、軽く曲げられた指の背だけが頬の輪郭をたどるように微かにかすっていき、その指がそのまま
ユリウスの金髪にもぐっていった刹那、ユリウスはその感触と、これ以上見つめられる事についに耐え切れなくなり、目を閉じてしまった。
その瞬間、レオニードは引き寄せられるようにくちづけしかけ・・・からくも留まった。
そしてユリウスの肩を邪険に押しやると、怒ったような顔つきと足取りでさっさと階段を降りていった。目を閉じていたユリウスには
何が起こったかわからず、いや本当はわかりたくなく、出窓に腰掛けたまま呆然と彼を見送っていた
二人にとってそれは出来事とも言えない、小さな波紋に過ぎなかった。そしてその数日後の事だった。
「ユリウス、いい知らせがあるのよ!」
「どうしたのヴェーラ、楽しそうだね」
「聞いたらあなたもきっと喜ぶわ。いいことユリウス、夏の別荘にあなたも連れて行くお許しをお兄様がくださったの。」
「夏の別荘・・・?」
「田舎の本宅とは別で、それは小さな、小屋みたいなものだけど湖のそばにあるの、静かで素敵なところよ。
私も4、5年ぶりかしら。革命騒ぎも少し落ち着いて最近は治安も良くなったし今年の夏はここも暑くなりそうだから、
ひさしぶりに田舎で楽しんでこいってお兄様が。」
「・・・僕を外に出すのを許すなんて、信じられない。」床に目を落としたユリウスの手をとってヴェーラは
「ごめんなさいね、ユリウス・・・。何年もこんな状況で私達本当にあなたにひどいことをしている・・・」
「ヴェーラのせいじゃないよ。」
「でもお兄様がなさってることなら、ユスーポフ家の者も同じ咎だわ。別荘に行くぐらいで許されるとは思わないけれど、
このままでは誰だっておかしくなってしまう。だからお兄様の気持ちが変わらないうちにさっさと準備してしまいましょう。
矛盾する事を言うようで申し訳ないけれど、もちろん警護の者もつくわ。
あなたに完全な自由が与えられるわけではないのよ・・・。」
「・・・」さらに黙り込んでしまったユリウスを眺め、ヴェーラは言葉を次いだ。
「それに・・・ね、正直に言いましょう。兄には私たち妹弟と、そしてあなたをこの屋敷から遠ざけておきたい理由があるの。
この間アデールが来たでしょう。」
アデールの帰還は本当に久しぶりのことで、ユリウスは彼女の視界に入って機嫌を損ねぬよう自ら自室にこもっていたが
(直接言葉を交わす事は無かったが、アデールの彼女への視線の冷たさにはいくらユリウスでも気づかざるを得ないものがあった)、
すぐに階下からものすごい悶着の気配が伝わってきた。傍目には冷静沈着の鑑のようなレオニードと宮廷の貴婦人の中でも
群を抜いて優雅で美しいアデールの組み合わせなのに、二人を一緒にするとなぜこのような険悪な様相をきたしてしまうのか、
これは誰もが首をひねる謎だった。結局アデールは半日ともたずにまた屋敷から出て行ってしまった。
「正式な話し合いに入りたいようだわ。アデールに言わせると本来主人夫婦だけのものである筈の屋敷に余分なコブが
ついているのが諸悪の根源らしくって、そんなものがいては話し合いも冷静にはできないのですって。」
少し笑ってヴェーラは続けた。
「コブ扱いは失礼だけど、彼女の気持ちもわからなくはないわね。
コブとしてはおあいにく様としか言いようがないのだけれど・・・」
ユリウスは確かに、ユスーポフ家は兄弟の団結が強いと思った。3人の母はリュドミールを産んだ後ほどなく亡くなり、
父親も外交と軍務の重責を担う任務で留守勝ちだった上に妻の死後数年で暗殺される憂き目にあった。士官学校を出て間もない
レオニードが家督をつぎ、軍務に邁進しながらも妹弟の後見を果たしてきたのだ。大貴族といえど、いや大貴族だからこそ
油断していると狡い使用人や親戚に財産をかすめとられるし、当主が侮られると足元をすくわれ宮廷での地歩を失う。
稚いリュドミールを育てつつ、まだ若かった兄妹は支えあいながら名家であるユスーポフ家を守ってきたのだ。ユリウスは
ヴェーラの少し口の軽い侍女からそんな話を聞かされたことがある。(美少年めいた魅力のあるユリウスに夢中になる侍女は
常に数名発生していた。)
苦労知らずのアデールには、そんな中に割って入るのはかなりの努力が必要だったろうが、お嬢さん育ちの彼女にはそもそも
努力が必要なことすらわからなかったのだ。
「まあそういうわけで、私達は邪魔者として、夫婦水いらずにするべく田舎へ追い払われるわけよ」と笑いながらヴェーラは言った。
「だからこれは許可というより命令ね。さあ、わかったらさっさと準備をしてしまいましょう。あまりもたもたしていると、
別荘が近いもの同士の招待合戦に巻き込まれてしまう、それはごめんこうむりたいのよ。」
もちろん、準備といってもユリウスには大層な持ち物など全く無く、せいぜい着替え少々と楽譜、それにロシア語の教本程度だった。
侍女が小さな荷物を造ってくれているのを眺めつつ、ユリウスはレオニード達の正式な話し合いとは離婚のためなのか、
復縁のためなのかふと訝しく思った。
だがすぐに、このユスーポフの宮殿を出て汽車に乗るなど本当に数年ぶりである事に思いを馳せ、自由の予感に頭がくらくらした。
(一体、レオニードは僕が脱走するという可能性は考えないのだろうか?道理がわかっていても僕がどんなに衝動的なことを
やらかす人間か知っているだろうに・・・。
ロシア語を学ばせ始めておいて、このタイミングで丸1日以上移動にかかる別荘に行かせるとは・・・。)
この処遇の意味にユリウスは頭を悩ませた。
8)
もちろん、ユリウスは脱走などできなかった。車と汽車で移動する際も常にレオニードの配下の兵が数名まわ
りを固めていたし、だいたい金銭というものがユリウスには全く無かった。多少収まったとはいえ、いまだ混乱
が続く(らしい)ロシアに一文無しでろくに言葉もわからず飛び出したところでどうなるものでもなかった。それ
どころかレオニードに言われたようにあの不気味な僧侶の手に飛び込むのがおちかもしれない。ロシアに初めて
着いた頃のユリウスならばともかく、クラウスにあっさりと見捨てられた記憶に苦しむ今の彼女にはそんな気概
はもうなかった。それになんとか脱走したところでユリウスには行くあてがない。アレクセイ・ミハイロフがど
の監獄に収容されているかすら機密扱いで知るすべがなかったのだ。(せめてそれぐらい探っておくべきだっ
た・・・。レオニードの書斎に何か鍵になる情報があるだろうに。)だがもちろん彼女の手が届く範囲にレオニー
ドがそのようなものを放置しておく筈もない事はユリウスもじゅうじゅう承知していた。ユスーポフ家の豪奢な
生活のお相伴にはあずからせても、彼女には金銭も知識も自由もとことん与えないのがレオニードのやり口だ
という事をユリウスは実感した。
リュドミールはユリウスとの初めての遠出に興奮して傍を離れなかった。ユリウス自身、久しぶりの外界に圧
倒され、最初は過ぎゆく街角や道を行きかう人々に恐怖すら感じたほどだ。(ほんとうになまってしまっている・・・。
虜囚は牢獄を恋い慕うというが・・・)ヴェーラはそんなユリウスの様子を痛ましげに見ていたが、リュドミール
の「ユリウス、どうしたの、ねえまた気分が悪いの?僕、手を握っててあげようか?」無邪気だが真剣な声にユ
リウスも笑いを見せ、「ううん、病気じゃないよ。でもそうだね、そうしてもらえるかな?リュドミールももう幼
年士官学校の準備に入るんだもんね。騎士の仲間いりだ。この旅の間は僕の騎士になってもらおう。」
「いいよ、じゃあ約束だ。僕がユリウスをお守りする騎士でユリウスは僕の貴婦人。」早速膝まづくリュドミール
に接吻のため手を与えながら、ユリウスとヴェーラは思い切り笑った。
だが汽車に乗り込む時、あの頃と変わらぬ駅舎と雑踏にユリウスは立ち尽くした。4年と少し前の春この駅に
着いた時の、無鉄砲で根拠の無い希望に満ちていた己れを思い出し強烈に胸を締め付けられた。あの頃と今では、
何もかも状況は変わってしまった。そして自分は何て愚かだったことか。リュドミールは少年らしく汽車に気を
とられていたが、ヴェーラはユリウスの様子に気づき、声をかけようとしたがやめた。ユリウスの今の過酷な状
況は兄によるものだった。それに手を貸してるのも同然な自分が同情を示してどうなるというのだ。だが、車窓
の風景が田舎に移るにしたがって、しだいにユリウスは初めて見るロシアの美しい夏の大地に目を奪われた。や
がてその口元には小さな笑みが浮かび、ヴェーラをほっとさせた。
翌朝別荘に到着後、困った事態が判明した。ユリウスの着替えの鞄が紛失していたのだ。あまりにも荷物が少
なく、小さい鞄だったことが逆に災いしたのかもしれない。召使達はおろおろして互いに叱責しあっていたが、
ユリウスは別に数日着たきりでもかまわなかった。ヴェーラも少し困った顔をして「そうね・・・屋敷に連絡し
て持ってこさせても数日はかかるわ・・・。それまではリュドミールのでは小さいし。お兄様の幼年学校時代の
ものでも残ってたら寸法が合うかしら?」
いくらなんでもそれにはぎょっとしてユリウスはあわてて拒否した。「とんでもない!ユスーポフ候の服なんて
着られないよ!いいよ2、3日くらいこの服で」
「そんな埃をかぶった格好で何を言うの?例えあなたが構わなくても私はごめんこうむるわ。そうだわ・・・」
と彼女にしては珍しくいたずらっぽい目になって
「私が休暇用に置いていたドレスがあるわ!5、6年前のでちょっと形が古いけれど、あれなら少し直せばあな
たの体にはぴったりな筈よ」
「いやヴェーラ、ドレスなんて冗談じゃないよ、僕は本当に着替えがくるまでこれで結構」「ではお兄様の服しか
なくてよ。着たきりなんて無作法は私は許さないのだから。」
ぐ・・・とユリウスが詰まったところでリュドミールが参戦し、「騎士の意見としては、もちろん姫にはドレスを
着ててもらわねばね。」と言い放ったので、ユリウスはついに根負けしてヴェーラのドレスを借りる羽目になった。
ありがたい事にヴェーラの趣味でドレスは簡素なスタイルのものだったのでユリウスは胸をなでおろし、初めて
彼女のドレス姿を見たリュドミールは最初感嘆の声をあげて、後は何かちょっと気まずそうにしていたが、すぐ
いつものようにまとわりつき、動きにくそうにしているユリウスを笑いながら手助けしていた。そして満足顔の
ヴェーラは当然ながら、屋敷に着替えの手配などしなかった。
レオニードが予告無く別荘に着いた時、ユリウスがドレス姿でピアノに向かっていたのはそういうわけだった。
やはりというべきか、アデールとの話し合いはあっという間に決裂し、おたがいの亀裂を決定的に深くしただけ
だった。怒り狂ったアデールが去り、屋敷に一人になった時、彼は異様なほどの開放感に包まれた。彼を苛立た
せる二大要素、アデールとユリウスの二人ともが目の前にいないということがどんなに心を安らげるかそれは滑
稽なほどだった。レオニードは女ごときに振り回されている己に気づかされて、自嘲で口元をゆがめた。だがア
デールは偶に現れて騒ぎ立てて終わりだが(皇帝陛下の命令がなければお互いがどんなに望もうと正式な離婚は
不可能だった)、ユリウスはそういうわけにはいかない。ここ数ヶ月の奇妙な緊張関係は彼を決して消耗とまでは
言わないまでも、必要以上に困惑させていた。
こうして一人になって、その異常さに改めて気づかされた彼は、ユリウスとの関係は当初の虜囚と監禁者の関
係が結局一番正しかったと思い至った。自分が平静さを取り戻した今、あの冷ややかな関係に戻ることは実に容
易な事のようだった。所詮、あいつはたまたま捕らえられた反政府分子の一人に過ぎない・・・。隠し財産の事
さえなければ、とうにアカトゥイかドイツに送られていただろう存在だ。父のアルフレートは皇室の忠実な協力
者だったが娘のあいつはそうではない。アーレンスマイヤ家に託された隠し財産については至急に何か対策を考
える必要があるだろう。久しぶりに頭がすっきりした気分でレオニードは眠りについた。
もちろん別荘に足を延ばす気は無く、この機会に軍務に集中するつもりだったが、来春以降に予定されていた
西部の補給線の検討がドイツとの関係悪化を鑑みて前倒しで早まることが決まった。この調子ではリュドミール
の幼年学校の準備にあまり意識と時間が割けなくなる。準備の実務的な面は執事や秘書に手配を任せられたが、
父代わりのレオニードとしては、入学に際してまだ幼い弟にいろいろ伝えておきたい事があった。だが彼らが屋
敷に帰ってきてからでは遅すぎる。レオニードは数日を別荘で過ごすしかないと腹をくくり、急ぎ休暇に入る手
筈を調えた。途中ちらりとユリウスの白い顔が脳裏をかすめ、「まずいな」という思いが浮かんだが、自分でもそ
の意味はよくわからなかった。
(9)
別荘につくとちょうど午睡の時間だったが、警護を言いつけた配下の兵達は感心なことに任務を怠っていなか
った。レオニードは彼らの労をねぎらい、別荘に足を踏み入れた。数年ぶりだったが別荘の変わらぬ様子に彼は
まだ父母が健在でここで夏を過ごした少年時代を懐かしく思い出し、ふと最近同じようなことがあったような気
がした。みな寝ていると思ったが、サロンのほうからピアノの音色が聞こえてきたのでそちらに足を向けた。
開いている扉で立ち止まると、ほっそりとした見慣れぬ若い女性がピアノを奏でているのが見えた。一瞬それ
が誰かわからず、ヴェーラが近くの別荘の客でも招いたか?と思ったが、その女性が弾きながら楽しげに頭を巡
らした時、ようやっとそれがユリウスだと驚きと共に了解した。一方のユリウスは半ば目をつむって弾いていた
ので戸口に立っているレオニードには気づかなかった。ヴェーラの白い簡素な夏のドレスをまとい、少し古風な
形にゆるく髪をまとめたユリウスはレオニードの知らない若い美しい女性に見えた。彼はしばらく無言でそのま
ま戸口にたたずんでいた。
長い曲を弾き終え、余韻にひたりながらユリウスが次は何を弾こうか迷う様子で首をかしげた時、警護の兵士
に知らされた召使がようやく「若様、これは気づきませぬで・・・!」と慌てて廊下を走ってきて、彼女は初め
てレオニードに気がついた。最初は軍服でないせいか誰かわからない様子できょとんとして彼を見つめ、逆にじ
っと見つめられて相手がレオニードだという事を認識した次の瞬間、自分の格好に思い至り、真っ赤になって席
を立つとあっという間に反対側の扉から走り去っていってしまった。あっけにとられたレオニードは召使のあた
ふたとした挨拶を手で制すると、急いで彼女の後を追った。
「ユリウス!」それは中庭に通じる扉だったのでレオニードはユリウスが庭の木戸にたどり着く前に容易に彼女
をつかまえることができた。
「なんなんだ、いきなり。私の顔を見るなり脱走か?」
両手首を掴んで強引に自分の方に振り向かせるとレオニードは笑いながら言った。両手の自由をそれぞれ奪われ
てユリウスは振り払うこともできず、レオニードの視線が自分を上から下まで眺めおろすのを感じて真っ赤にな
ってそっぽを向いた。
「どうしたのだ、その格好は」
「・・・仕方なかったんだ、着替えが無くなって・・・」とそっぽをむいたままユリウスが口をとがらせた。
その様子が可笑しくて、レオニードは左手は開放してやり、だが右手は掴んだままで「見せてみろ」と言って、
ダンスのように彼女を一回転させた。ひらりとドレスが翻り、ユリウスはまるで白い花のようだった。レオニー
ドが笑ってもう一度左手もつかまえようとした刹那、ユリウスは不意をついて思いもよらぬ力で彼の手を振り払
い、一気に館に向かって走った。召使から兄の到着を聞きつけてちょうど戸口まで来ていたヴェーラに勢いあま
って突き当たり、「僕の服を出して!ドレスはもう終わり!」と叫ぶと自分の部屋へ走り去っていってしまった。
「あらあら」とヴェーラは庭に出て、夏花を手折ると笑いをおさえながら兄に言った。「お兄様がからかうからよ。
かわいそうに。」
「お前の着せ替え人形か?しかしあれがおとなしくドレスを着るとは意外だな。いったいどうやったんだ?」
「彼女の鞄が紛失してしまって私のドレスか、お兄様の古着を着るしか無かったのよ。お兄様はご自分の服を着
せた方がよかった?」と言ってのけると、ヴェーラは折った花を兄に押し付けてさっさと上がっていってしまった。
当主の急な到着のため、居間には急いでお茶とさまざまな軽食が並べられた。午睡からさめたリュドミールは
兄の到着を知らされて急いで走ってきて兄と姉に叱られた。笑いさざめきながらお茶を囲み、リュドミールが別
荘への道程と、ついてからのささいな出来事を息せき切って報告し、レオニードは笑みを浮かべてそれを聞いた。
夏の別荘の明るい空気が、ユスーポフ家の団欒をいつもより解放され華やいだ気分にしていた。
「そういえばお茶の時間なのにユリウスはどうしたの?兄上も到着されたのになんで降りてこないのかな?ああ
兄上、見たらきっとびっくりするよ!ユリウス、ドレス着ててすごくきれいなんだ。あ、しまった、黙っててび
っくりさせればよかった!」
「・・・さっき着いた時に顔はあわせている。さっさと引き上げられてしまったがな。」
「え、そうなの?なんだもう会ってたんだ。ねえユリウスってああしてるとすごくきれいだよね。僕が知ってる
女の人の中では一番だよ。(あ、もちろん姉さまは別格!) ユリウスは女の人なんだし、いつもああしてればい
いのに・・・。ねえ兄上もきれいだって思ったでしょう?」
「・・・まあ・・・そうかもしれないな」
急に言葉につまってしまったレオニードをおもしろがるような目つきで見ていたヴェーラは助け舟を出すように、
「でもリュドミール、ユリウスはもうドレスは着てくれないかもしれないわ」
「ええっ何で?」残念がっていぶかしむリュドミールにおかしそうにヴェーラは「さあなんでかしらね。」とはぐ
らかし、横目で兄を軽くにらんだ。レオニードは少し憮然とした顔をしていた。
「リュドミール、ユリウスの話はもういい。それより私はお前と話がしたくてきたのだ。」
「僕のため、ここまで?本当に?兄上が?」
「ああそうだ。おまえももうこの秋には家を離れる。その前にお前と少し時間がとりたかったのだ。夕食のあと、
二人でゆっくり話そう。それまで私は少し休む。」
「わかりました、兄上!」
忙しい兄がわざわざ時間を割いて自分のために別荘まで来てくれた喜びでリュドミールは顔を紅潮させた。
レオニードは予告なしに訪れたにも関わらず、主寝室には幸い風が通してあったので夕食までそこで少し休息を
とることにした。寝室の窓から見下ろすと、いつもの格好にもどったユリウスが中庭をそぞろ歩いていた。ユリウ
スが2階を見上げる前に彼は笑って静かに窓を閉め、寝台に身を横たえ、少しだけ眠った。
夕食の席はさすがにユリウスも逃げるわけにいかず、3人と共に卓を囲んだ。男装に戻ってしまったのでリュ
ドミールはしきりに残念がったが、ヴェーラが少しおかしげにたしなめたので(いい加減になさい、リュドミー
ル。あなたがそんな風だから、ユリウスもドレス姿ではあなたのお守りができないのよ)、ユリウスが何も言わな
いうちにその話は終わりとなった。レオニードは何事もなかったかのような知らん顔でその事にはふれず、ユリ
ウスをほっとさせた。兄弟はお茶の時間に彼らとしては珍しくよもやま話に花を咲かせていたので晩餐は静かな、
しかしリラックスしたものだった。ただユリウス一人だけが少々自意識過剰気味に居心地の悪い思いをしていた。
レオニードが来るまでは晩餐の後はサロンでユリウスのピアノを聞いたりゲームをするのが常だったが、明日
の昼食後には発つレオニードは、さっさとリュドミールを連れて書斎に入っていった。なんとなく所在無げな気
持ちのユリウスはピアノの鍵盤に触れてみたが、弾く気にはなれなかった。そして、多忙なレオニードがとんぼ
帰りで遠く離れた別荘にくるなんて、彼は本当に弟思いなんだなと思った。まるでその気持ちを読み取ったよう
にヴェーラが「リュドミールはお兄様がここまで来てくれたことに、大感激なのよ。」と紅茶を飲みながら言った。
「リュドミールには嬉しいことだよね。・・・ユスーポフ候は・・・弟思いな人だね」(ユリウスは記憶を取り戻
して以来、どうしても彼のことをレオニードと名では呼べずにいた)
「リュドミールももうこの秋の半ばからは寄宿舎に入らねばいけないし、考えてみれば家族水入らずで過ごせる
時間もあとわずかね。兄様は軍務でまたしばらくお忙しいようだから、今のうちにいろいろ言っておきたい事が
あったようだわ。私も帰ったら準備に本腰を入れねば。リュドミールの入学には兄上の代わりにつきそわなけれ
ばいけないでしょうね。本当ならアデールの仕事なのだけど・・・。こうも早く兄上が来られたところを見ると・・・
ね。まあわかっていたことだけど。だからユリウス、私も秋からはしばらくモスクワに行ってると思うわ。」
「そうだね・・・。まだ先と思っていたけどあっという間だったね。ヴェーラも寂しくなるね。」
「そうね。でも弟の成長が嬉しいのも本当よ。あの子がいなくなれば、あなたも少しは寂しく思ってくれるかし
ら?」とヴェーラは微笑んだ。ユリウスも微笑み返しながら、このユスーポフ家の人々にとって自分は一体なん
なのだろうと思った。確かにリュドミールが寄宿舎生活に入ってしまうことは寂しかったが、自分はそもそもそ
のように感じる資格のある人間だろうか?気が付けばすっかり家族に準じる位置にいて、少なくともアデールよ
りはうぬぼれでなく彼らに近しい存在となっていた。だが、それは随分皮肉で、不自然な事ではないだろうか・・・。
ヴェーラ達と親しさが増す程、記憶を失っていた時期ならいざ知らず、今のユリウスには疑念がわきあがってく
るのだった。もちろんヴェーラは賢く一線をひいており、ユリウスとはお互いその境界線を認知していた。だが
心の距離という点でやっかいなのはレオニードとリュドミールだった。(馬鹿なことを・・・。なぜそこにユスー
ポフ候が?)とユリウスは首を振った。そこにリュドミールが入ってきた。
「リュドミール、お兄様のお話は終わったの?」「はい姉上。」と神妙に答えるリュドミールの頬はかすかに高潮
して、瞳はわずかに涙でうるんでいた。おそらく兄との対話で感動している事を見て取り、ヴェーラと二人にし
てやろうと気をきかせてユリウスは先に部屋に戻ることにした。だがそのためには書斎の前を通らねばならず、
ちょうど出てきたレオニードとあいにく鉢合わせしてしまった。
「あ・・・」
なんとはなく気まずい気分でユリウスはレオニードを見上げた。何も言わないのも変なので、「おやすみなさい」
とだけ言って急いで通り過ぎようとした。廊下は中庭に面していて、レオニードは壁際に置かれた長椅子に腰を
おろした。その夜は月がとても明るかったので明日帰る身としては、せっかくの田舎の空気をもう少し味わいた
かったのだ。
「少しつきあえ。」自分でも思わぬ言葉が口をついてでた。
ユリウスは少しためらったが、おとなしくレオニードの隣に座った。二人はしばらく無言で中庭を眺めていた。
月の明かりが夏花が生い茂る庭を銀色に照らし、どこかで虫が鳴いていた。ペテルスブルグの屋敷もまるで都
会とは思えないほど静かだったが、ここ夏の別荘はそれとは全く違う、命に満ちた静けさと清浄さに満ちていた。
その夜の空気のせいか、二人の間にはユリウスが記憶を回復して以来、常に付きまとってきたぎこちなさが嘘の
ように消えていた。
「・・・不思議なものだな。」決して不快でなかった沈黙を破ってレオニードが言った。
「リュドミールは我々の両親とここで夏を過ごしたことは無い。あれが生まれてまもなく二人は相次いで亡くな
ったからな。父上も母上も末っ子に伝えたいことは沢山あったろうに。・・・だが、ここに来ると私は彼らの存在
をペテルスブルグの屋敷より強く感じる。書斎でリュドミールと話している時、なぜか同じ部屋に父上たちが一
緒にいるような気がした。ただの感傷だろうが、おかしな事だな。」
ユリウスには、それが彼女に言っているのではないことがわかっていた。レオニードはいわば独り言を言って
いるのだ。だから彼女もあえて返事をせず黙っていた。レオニードも答えは求めず、ただ無言で隣にいるユリウ
スの存在になんとなくくつろぎを感じていた。その後もしばらく二人は黙って座っていたが、やがて夜空を細い
光の弧が流れ、同時に「あ・・・」と声が出て、彼らは目を合わせて笑った。レオニードが「つき合わせて悪か
ったな。」と言ったので、ユリウスはそれを引き下がる機会と承知して立ち上がった。
「おやすみなさい。」レオニードも静かに「おやすみ」と言い、再び庭に視線を戻した。
翌朝、レオニードがいるという緊張感のせいかいつもよりずいぶん早く、夜明け前に目がさめてしまったユリウスは、
二度寝する気にもならず身支度を済ますと階下に降りていった。意外なことにレオニードとリュドミールも既に
起きていた。二人はレオニードが帰る前に、湖まで早駆けをするつもりだった。
「おはよう、ユリウスも早いね。」
「うん・・・。なんだか早くに目がさめてしまって。その格好は、馬?」
「そうだよ。兄様が帰るまえに、湖まで行くんだ。」
ユリウスも一緒に・・・と言いかけて、さすがにリュドミールもそれはレオニードは許さないだろうと気づき(彼
もこの頃には、ユリウスの行動はずいぶん制限がかけられていることはさすがにわかっていた。彼女の存在の意
味と謎に首をひねるようになるのは彼が家を離れもう少し成長した後のこととなる。)、ちらりと兄を見た。弟の
期待に気が付いたレオニードは朝から厳しい顔をつくるのも面倒になり、
「お前も行くか?」とブーツを履きながら顔も見ず無造作に彼女に聞いた。ユリウスは驚き、「え・・・」と思わ
ず問い返しそうになった。そして突然、自分も馬で駆けたい、体全体で風を感じたい、と痛切なまでの願いが
こみあげてきた。
「でも邪魔じゃないの・・・。せっかく兄弟、水いらずなのに」とリュドミールの気持ちも考えたが、当のリュ
ドミールは否である筈もなかった。冷えないように外衣をまとい、まだ薄暗い中、ユリウスは兄弟と厩舎に向か
った。もちろん自分に一頭与えられる筈はないとわかっていたが、レオニードに乗せられる気恥ずかしさよりも、
室内を出て遠出できる喜びのほうが上だった。そしてレオニードの前に乗せられ、「行くぞ!」との合図と共に、
一気に二頭の馬は早駆けをはじめた。
ユリウスにとって夜明け前のまだ冷たい大気の中、風が頬をうつ清涼さはここ数年味わったことのない素晴ら
しいもので、彼女は思わずのどをのけぞらして笑った。リュドミールがついてこれるよう速度を加減していたが、
レオニードは予想通り素晴らしい騎手で、危なげなくやすやすと馬を繰りながら、腕の中にしっかりとユリウス
をホールドしていた。いくつかの丘を駆け上がり、また駆け下る間に東の空は夏の朝の早さで白み始め、彼らが
湖についた頃太陽はちょうど湖の東岸から昇ろうとしていた。
レオニードは無言で馬を降りるとユリウスを抱き下ろした。馬を木立につなぐと、手をとるでもなく彼女を岸
辺に誘った。そして二人並んで、湖面のへりの光の筋が、やがて湖面の輝きと別れて朝日として昇っていくのを
眺めた。朝の光が徐々に周囲を鮮やかな色彩に変えていく間、二人は一言も口をきかなかった。だがこの美しい
時間は人生の中でそう度々は訪れてこないこと、彼らが今ささやかだが何かかけがえのない、純粋な瞬間を分か
ち合っていることはお互いがわかっていた。
そしてリュドミールが少し遅れて到着し、二人は同時に振り返った。輝く湖面を背景に朝日がユリウスの金髪
を逆光で透かして輝かせ、兄とユリウスの二人が微笑んで彼を迎えている。それは子供から少年へと成長しかけ
ていたリュドミールには一生残る、幸福の記憶のイコンとなった。やがて大人になり、思いもかけぬ運命の変転
を経た後もそれは時折彼のまぶたに甦り、少年時代の失われた幸福の切なさに彼の胸を締め付けさせた。だがこ
れはずっと後の話となる。
帰ってきた3人を朝の食卓とヴェーラが迎えた。丘に立ち、彼らが見えた時、兄とユリウスの騎馬の様子を見
て、ヴェーラは少しだけ胸が痛んだ。二人の間には静かな理解の空気が漂っていて、何かが始まりそうになって
いるのは傍目にも明らかだった。
10)
その後数週間を別荘で過ごした後、夏の終わりはまだ先だったがユリウス達はペテルスブルグへ戻った。レオ
ニードは西部地域の視察に赴いており不在だった。そしてヴェーラとリュドミールは入学準備でにわかに忙しく
なり、ユリウスは一人で過ごす時間が増えた。しばらく違う空気に触れていた事で彼女の気持ちはやや明るさと
強さを取り戻していた。一人の時間でも以前のように己の過去と罪に溺死せんばかりに浸ることはなくなってい
た。
しかし、それは一方で彼女に現状を直視するよう迫るものでもあった。このまま、ユスーポフ家で虜囚として
奇妙に気楽な日々を過ごすのか?それともここを脱走してシベリアのクラウスを追うのか?ドイツへ帰るという
選択肢に全く現実味を感じられない以上、彼女の前には結局この二つの道のどちらかしか無いのだ。そしてどち
らに自分の真実があるかは明らかだった。だが同時に、まだその時期が来ていないことも認めざるを得なかった。
今の自分にはそのための準備も情報も、いやそれ以前にまずそこに至らせる何かが足りない、もしくは何かがそ
の邪魔をしていた。決断できない自分の弱さを振り払うように、彼女はピアノに向かった。長く、激しい曲を選
び、まるで何かをそこに探しているかのように没頭する姿はそれまで彼女がここで見せた事のないものだった。
ヴェーラと帰宅したリュドミールは、自分達に気づかずピアノに向かうユリウスのそんな姿を見て、初めてこ
の大好きな友達の中には自分が撥ねかえされそうに烈しいものがある事に気づいた。彼女との間に超えられない
距離感を感じ、なぜか傷ついた思いで彼は声がかけられず鍵盤に指を走らすユリウスをしばらく眺めていた。す
ると肩に手が置かれ、振り返るとレオニードがそこにいた。
「兄上!」
「お帰り、リュドミール。」「兄上も・・・お帰りなさい。長い任務、お疲れ様でした。」
ユリウスもようやく彼らに気づき、指を止めた。そして二人の方を見たが、その視線はリュドミールを通り過ぎ、
レオニードに向かっていた。
「・・・お帰りなさい。」「・・・うむ。・・・お前もな。」彼らが会うのはあの日以来だった。二人の視線は無言
のまましばし互いに留まり、リュドミールは微妙な居心地の悪さを感じた。それを振り払うように「僕、着替え
てきます。」と断ってその場を去った。ユリウスは視線を鍵盤に落とし、「みんなが帰ってきたことに全然気づか
なかった・・・喧しくしてたなら気をつけないと。」とつぶやいた。
「構わん。それぐらい勝手にしろ。我慢できなければこちらから言うまでだ。」と言ってレオニードもサロンを去
った。言葉は相変わらずぶっきらぼうだったが底には優しさがあり、ユリウスは彼の背中に我知らず微笑んでい
た。
それから数日後、レオニードとヴェーラは彼の書斎で膝をつきあわせていた。リュドミールの入学に関する様々
なこと・・・リュドミールが学ぶ学科、優れた教師や要注意な人物、同期の子供たちの家柄や顔ぶれ、しかるべ
き姻戚関係への根回し、舎監の顔ぶれなどを一通り話し合い、互いに了解したあと、ヴェーラは思い切ってユリ
ウスもモスクワに伴いたいと兄に告げた。
レオニードは意外な提案に驚き、一瞬検討してすぐに却下した。(あれを目の届かない場所へやるわけにはいか
ない。)そんな焦燥にも近い感情がちらりと胸をよぎったが、彼はそれを突然そんな事を言い出したヴェーラへの
いらだちととった。
「そんな事はできない。お前もわかっているだろう。いくら親しくなろうと、あれは家族ではない。あくまでも
ここで監視下に置かねばならない人間だ。」
「でもお兄様・・・。」
「大体リュドミールは遊びに行くわけではない。大事な門出の時にあれを連れていくわけには行かぬだろう。」
「ええ・・・ええ、それはわかっていますわ。でも・・・」
「どうしたというのだ、一体。お前らしくも無い。」
はっきりと口に出すなどしたくなかったが、ヴェーラも苛立ち、もうあえて言葉にしてしまった。
「私達がいなくなれば、ここでお兄様とユリウスはしばらく二人きりになってしまうわ。」
妹がまさかそんな事を言い出すとは思いもよらなかったレオニードは、正直意味がわからなかった。
「何が言いたいのだ。」
ヴェーラも兄を見つめ返した。こうなったらもう兄を怒らすのを恐れてもしょうがない。
「私はそうすればきっとお二人に起こるだろうことが、果たして正しいのかどうかわからないのです。」レオニー
ドはヴェーラが何を言いたいのか図りかね、そしてようやくほのめかされた事に気づき、驚き、次いで激昂した。
「・・・おまえは兄をそんな目で見ていたのか?」
「気づいてないのは当人達だけですわ!二人の距離はどんどん縮まっていっているではありませんか・・・。
お兄様は一体ユリウスをどうなさるおつもりなの?このまま閉じ込めて誰にも会わさず、お兄様の愛人にでもしてしまう
おつもり?」
「ヴェーラ!」
レオニードは妹のむきだしな言い方に驚き、怒った。
「あれを外に出せないのはあくまでも政治的な事情だ。お前のかんぐるような下賎な理由ではない!」
「政治的な事情も確かにおありでしょう。それについて口を挟む気もお兄様に事情をお聞きするつもりもありま
せん。でもご自分のお気持ちに気づかぬ振りは卑怯だわ。お兄様は自分の感情にも彼女の感情にも知らぬふりで、
これではまるでユリウスは飼い殺しも同然よ!」
レオニードはカッとして机の上にあった置物を思い切り床に叩きつけ怒鳴った。
「あれはアレクセイ・ミハイロフの女だ!私にどうしろと言うのだ!」
ヴェーラは自ら招いたとはいえ、初めて男としての感情をあからさまにした兄を呆然と見つめた。それはアデ
ールの火遊びに苛つく時とは全く違っていた。嫉妬や恐れを兄の顔に見るのは初めてだった。
「それでユリウスをあんな宙ぶらりんな状況に?彼女がミハイロフを追ってきたからといって・・・。もう何年
もたつのに・・・。そんな事であきらめておしまいなの?」
「ヴェーラ、お前は何を言ってるのかわかっているのか?最初は愛人にするつもりかと責め、次は手をだせとで
もそそのかすのか?」
「私はそんな事は一言だって言ってません!手を出すかどうかはお兄様の・・・いえお二人の問題ですわ。私が
いやなのは、お兄様が彼女に選択の余地を全くお与えにならない事よ。とにかくもう二人を見てひやひやしてる
のにはうんざりなんです。でも馬鹿な事を言いました。いらぬお節介で失礼しましたわ。」
もともと望みは薄かったが、自分の無様な失敗を悟りヴェーラは退却をきめこんだ。さっさとドレスのすそを翻
し歩きかけたが戸口で振り返ると
「確かにユリウスは来た頃はアレクセイ・ミハイロフの女(意地悪くレオニードの言い方を真似た)だったかもし
れないわ。でも果たして今もそうなのかしら?そんなにも人の気持ちが変わらない忠実なものなら素敵ね。いっ
たいお兄様は彼女に今の気持ちを確かめたことがおありなの?それとも何か恐れてらっしゃるの?」
レオニードはものすごい表情で妹をにらみつけたが、返答はしなかった。
その頃ユリウスは居室で窓の外の闇を見つめていた。耳にはまだ、たまたま通りかかりに漏れ聞こえてしまっ
たレオニードの怒声がこだましていた。
「あれはアレクセイ・ミハイロフの女だ!」
確かにそうだった。
皇帝の隠し財産という新たな要素が入り込んだ事で彼のもとに留められる理由は強固になったものの、最初に
出会った時からレオニードにとってユリウスは「ミハイロフの女」以外の何者でもなかったろう。わからないの
はレオニードがそれを改めて口にしたことにユリウス自身がひどく苦い気持ちが抑えられないことだった。それ
以上何も聞きたくなく、ユリウスは急いで部屋に戻ったのだ。
(わからない・・・。自分の気持ちが・・・。)
あのように無残に振り捨てられた事を思い出した今でもクラウスを恋する心を失う事は無かった。危険な状況
で見捨てられたことを怒り、恨む気持ちもないではなかったが自分が罪から逃れるため彼を利用しようとしてい
た事にも気づいてしまった今、革命に生きる彼がとった道を責める気にはなれなかった。むしろ自分があの時の
彼にとってどんなに危険な存在だったかを考えるとぞっとした。
そしていま、クラウスはシベリアにいる。同じロシアとはいえ、それはユリウスが軟禁されているこの屋敷か
らはあらゆる意味で遠い場所だった。
生きて再び出会うことはあるのだろうか・・・。だがその不安はロシアに来た頃の狂おしいものとは異なり、ど
こかにあきらめを含んでいた。
そして堂々巡りをするユリウスの思考の一端にはとても自身認められることではなかったが、常にレオニード
がいた。記憶を失っていた間のレオニードの優しさと彼に頼りきっていた自分の姿を思い出すと、羞恥でいたた
まれない気持ちになり、欺いていたレオニードとおめでたかった自分の両方に怒りがわいてくる。だから極力そ
の事については考えないようにしているのに、なぜかふとしたはずみでその頃のレオニードの言葉やしぐさを思
い出してしまうのだ。呼びかけると振り向いた黒い瞳が笑みを含んでいたこと、吹雪に脅えた時差し出された大
きな手、リュドミールとふざけていると彼ともども後頭部を軽くはたかれ、子供のように髪をくしゃくしゃにさ
れた事・・・。
そんな白日夢めいた記憶を振り払うと、今度は自分が彼に全てをぶちまけてしまった事に思い至る。記憶が戻
ってからはもはや理由なく吹雪に脅えることは無くなったが、その代わり自分が殺人者であることにうちひしが
れ泣きあかす夜もあった。翌朝、腫れたまぶたを見たレオニードの瞳に無言の了解を感じ取ることが自分にとっ
て果たして良いことなのかどうかさえユリウスにはもう判断がつかなかった。だが彼に自らの生殺与奪を委ねて
しまったと思うと、なぜか今まで知らなかった安堵感に包まれる。そして彼が別荘で過ごしたわずかな時間が二
人の距離をどことなく縮めていただけに、ユリウスの胸に先ほどのレオニードの言葉は思わぬ痛みで突き刺さっ
てきたのだった。ロシアの短い夏はもう終わり、また秋が来ようとしていた。
そして、ヴェーラとリュドミールがモスクワへ赴く日がやってきた。ユリウスは駅までは行けず、ユスーポフ
邸で彼らを見送った。リュドミールは幼年学校の制服が良く似合っていて、急に成長して見えた。
「ユリウス・・・。」
「リュドミール、元気でね。・・・君なら、大丈夫。きっとお兄さんにも負けないよ。でも、お願いだから、体に
は気をつけてね・・・。友達や先輩につられて無茶はしないでね。」
「うん・・・。ユリウスも、元気でね。冬が苦手なんだから気をつけて。あと・・・。」
「なあに?」士官学校に入るのに、こんな事を言って軟弱に思われるのではとリュドミールは真っ赤になりながらも言わずにおれなかった。
「僕の事忘れないで。」
ユリウスは瞳を見開いて、そしてリュドミールの名を呼ぼうとしたが喉が詰まって声がうまく出ず、咳払い
と、そっと彼の頬にキスをした。そしてやっと言葉が出た。
「馬鹿だなあ、リュドミール・・・。忘れるはずないじゃないか。」
(忘れるのは、君の方だよ、リュドミール・・・。新しい学校や友達、新しい環境で新しい目標ができて、子供
時代は置き去りにされるんだ。でも、それでいいんだよ。僕の事は子供時代のおもちゃと一緒に忘れるのがいい
んだ・・・。)
そんなユリウスの胸の内は知らず、リュドミールは照れくささを振り払おうと、「そうだよね!」と笑うと「じゃ
あ!休暇にね!」と手を振り、見よう見まねの敬礼をすると姉と共に車に乗り込んだ。ヴェーラはユリウスに一
声掛けたかったが、まさか自分の兄に気をつけろとも言えず、車の窓から優雅に微笑んでみせて出発した。
(11)
しばらくは何も起こらなかった。レオニードは夏から始まった検討作業が大詰めに入り軍部に泊り込む事の方
が多い位で、たまに帰宅してもとんぼ返りで軍部に戻るか、邸には深夜に帰り、まだ夜も明けやらぬ早朝に出て
行く有様だった。そんな日々が続いた後、ようやく問題の補給体制の立て直しに目処がつき、レオニードは肩の
荷を降ろした気持ちで帰邸した。車寄せから邸に入る時、空から白いものがふわりと舞い降りてきた。(初雪
か・・・。)月日の経過の早さにレオニードは少し驚いた。ついこの間まで夏だったのに。リュドミールは寄宿舎
の生活に少しは慣れただろうか。そう言えば、自分自身、しばらく邸で食事を取ることも無かった。晩餐の席に
一人でついた時、「そういえばあれはどうしていたのだ?」と久し振りにユリウスの事を思い出し、執事に訊ねた。
「はあ・・・それがあの方は最近はすっかり食が細くなってしまわれて。お食事も部屋の方に運ばせていただい
ております。」「・・具合でも悪いのか?」「お医者様はいらぬと仰せられてしまって。確かにご病気では無いと思
われますが、ただ、ご気分は優れられぬようです。ピアノを弾かれてもすぐやめてしまわれますし。」
レオニードはユリウスの居室の前で一瞬躊躇した。誰かに言って自分のもとまで来させても良かったのだが、
調子が悪いとわかっている女をわざわざ呼びつけるのも少々気が咎めた。そう遅い時間ではなかったが、夜に女
の部屋を訪れる気まずさを首を振ってやり過ごすと、「ユリウス、私だ。入るぞ。」と声を掛けた。だが中からは
返事が無く、レオニードは一瞬、ひやりとした。ヴェーラもリュドミールもいない今、もし彼女が脱走を試みて
いればそれはたやすい事だったかもしれない。召使達や警護の兵の目が常にあるとはいえ、しばらく目を離して
いたのはうかつだった。レオニードは今度はノックすると、返事を待たず扉を開けた。彼が思わず安堵したこと
に、ユリウスは部屋着にショールをはおった姿で部屋の奥の寝椅子に腰掛けていた。椅子を窓際に寄せて外を見
ていた様子だった。(あの格好では外には出られないな。)と一瞬らちもない考えがレオニードの頭をかすめた。
呼びかけに全く気づいていなかったユリウスは、驚いてレオニードを見た。彼が部屋に入ってくるなど初めて
の事だった。だがその目にはかすかだが確かに涙がにじんでいた。
「・・・どうしたのだ?」記憶を回復してからは以前のように脅えることは無かったのにと、レオニードは不審
に思った。ユリウスはショールをかき合わせながら
「ううん・・・。何でもない。そちらこそ、どうして・・・。」
「・・・いや、調子が優れぬというから様子を見にきただけだ。だが顔色は悪くないではないか。」
「え・・・、ううん、別に病気でもなんでもないよ。本当に。」
「食も進まぬそうだが。」
「そんな事ない・・・。何でもないって、本当に!」
「何でもなくて食も進まず泣いているのか?」
「・・・泣いてなんか。」「嘘をつけ。」
「・・・。」「だから何だ。」
「本当にたいした事じゃないんだ。」
「言ってみろ。」
「リュドミールが・・・。」と彼女は手にした紙に目を落とし、レオニードはうかつにも初めてその紙片に気づい
た。
「リュドミールからの手紙か?お前が泣くような事が書いてあるのか?」レオニードは少々弟が心配になって尋ねた。
「ううん・・・。とても元気にやってるみたい。がんばってる。・・・でも、人より少し遅れて入った分、取り戻
したいって。・・・それで、クリスマス休暇も、学校に残るつもりだって書いてある。」
レオニードは弟の背伸びぶりがいささか微笑ましかったが、それでユリウスが涙ぐむ気持ちがわからなかった。
「で、何でお前は泣いてるのだ。」
「・・・泣いてなんかないよ。」
「何度同じ問答をさせれば気が済むのだ?」
「・・・。ちょっとだけ、寂しくなっただけだ。・・・。あと自分が馬鹿だなと思っていやになっただけ。」
「はあ?」
ユリウスは自分が言ってる事の恥ずかしさに顔があげれず早口で言った。
「だって、クリスマス休暇には帰ってくるって言ったのに!ああいやになる、こうなる事はわかってたのに、こ
れじゃ僕の方が甘えん坊だ。当たり前なんだ、家を出て学校に行き、新しい世界に触れる。子供時代の事なんて
忘れて当然だし、忘れるべきだ。わかってるのに!」
(ああ、甘えていたのは僕の方だった・・・。あの子の存在が僕にとってこんなに大きかったなんて・・・。)ユ
リウスは恥ずかしさに身もだえする思いだった。実のところリュドミールが居なくなって以来、ユリウスは毎日をもてあましていた。自分の生活が彼無しではいかに空虚なものなのか、それは驚く程だった。自分を愛し、必
要としてくれる存在がどんなにこの数年の自分を支えてくれていたのか、彼がいなくなって初めて気づかされた
のだ。一方、レオニードは呆れ果てていた。
「そんな事でか!馬鹿馬鹿しい。」
その言葉にユリウスはさらに小さくなるようだった。レオニードはそんな彼女を見下ろして呆れついでに続けた。
「あいつ、私のところには手紙の一通もよこさぬくせに。あいつがお前を忘れるわけはあるまい。むしろお前か
らは早く卒業して欲しいくらいだ。大体、あいつは発つ前に私になんと言ったと思う。」
ユリウスはまだうつむいたまま、レオニードの言葉の続きを待った。
「兄上、絶対にユリウスを追い出さないでね、そんな事をしたら僕はこの家を出て、馬丁になってでも探しに行
くからね、なんて抜かしたんだ。私はわが弟がこのユスーポフ侯爵家を出る記念すべき日にあたって言うのがそ
れなのかと、私は一体どこであいつの教育を誤ったのかと、本当に情けなかったぞ。」
ユリウスは思わずふき出し、レオニードも珍しく声をたてて笑った。かつての無邪気な関係に戻ったような錯覚
に、この時二人は彼ら自身に、油断したのだ。
「そうだね。」と涙をうかべたままユリウスが微笑んでレオニードを見あげた。
その刹那、レオニードは自分でも思いもよらなかった激しい愛情と欲望に突然つきあげられた。ユリウスがふい
に表情の消えた彼をいぶかしく思っていると肩に手が置かれ、レオニードがゆっくりと身をかがめてきてそっと
くちづけした。彼の唇のためらいがちな感触にユリウスが驚いているうちに、それは次第に激しく熱を帯びたも
のになっていき、レオニードは続いて彼女の身を引き寄せ、その首元に唇を滑らせながら強く抱きしめた。彼女
のくちびるに、素肌に一度触れてしまうと、もう自分を抑えることはできなかった。
一方のユリウスは当初の驚きからさめ、逆に自分を取り戻して必死で抗ったがやすやすと押さえ込まれ、あと
はレオニードの思うがままだった。もみあっている内に部屋着はいつのまにか引き裂くように取りさらわれてし
まい、いまや残骸が足元にたぐまっているだけで、ユリウスは肌を覆うものもないまま、レオニードに組み伏せ
られてしまった。ユリウスは羞恥と屈辱で息もできなかったが、彼女の両手を床に押さえつけたレオニードは動
きをとめて、彼女の露わな姿をじっと見下ろすと、「きれいな体をしていたのだな。」とつぶやいた。それを聞い
てユリウスはぞっとした。今の今まで心のどこかで、レオニードが思いとどまってくれると、彼がそんなひどい
事をする筈がないと思っていた。だが今の言葉で彼が引き返す気などないこと、完全にただの牡になっている事
を覚り、恐慌をきたしたユリウスは悲鳴をあげ、死にもの狂いでもがき始めた。だが精一杯の抵抗も力では敵う
筈もなく、彼女は終いには誇りも何も捨てて泣きながら懇願したが空しかった。初めて男を受け入れるユリウス
にとってそれは惨いといってもいい手荒さで、彼女は自分がいかに男女の事に無知だったか、女の体を持つとい
うことがどういう意味を持つのかを、どんなに涙を流そうがただ体いっぱいで受け止めさせられたのだった。そ
して彼の肉体的な力と想像もしなかった行為に圧倒され、その最中はクラウスのことを思い出すことすらできな
かった。しかしユリウス自身は気づいてなかったが、レオニードの仕打ちと肉体に対し、混乱した恐怖や怒り、
次いで訪れた恥辱、そして絶望と悲しみはあっても、そこには嫌悪感だけは無かった。もしも相手が彼でなけれ
ば、思い込みの強いユリウスは舌を噛み切るぐらいのことはしていたかもしれない。
やがてお互いにとって夢魔のような一刻が去った。荒い息づかいもおさまらぬまま、レオニードは彼女の腕で
覆われて彼から背けられていたユリウスの顔を引き戻し、涙をたたえたその瞳を見つめた。ユリウスもまた涙越
しに彼を見上げた。
この時、やっと二人にはわかった。お互い自分では気づかぬふりをしていたが、いずれこうなる事は心のどこ
かで知っていたという事を。そして今、彼らは何かを始めてしまった。それはこの一回では終わらず、行き着く
所まで行かないと終わらないだろう。だが、たとえそこに真実のいくばくかが潜んでいようとも、決して彼らの
関係は実りある幸福なものにはならないという事も既に悲しいほど明らかだった。終点がどのような姿をとるの
かはわからなかったが、二人に何の未来も展望もある筈は無かった。
そんな昏い予感のもと、レオニードはユリウスをそのまま無言で引き寄せた。先ほどとは打って変わった静か
さでそっと抱きしめられ、その優しさにユリウスは自身を根こそぎ奪われ変えられてしまうかもしれない恐怖を
おぼえ、震えた。そしてようやくクラウスの事を思い出し、もう彼には会わす顔がないと気づき、愕然とした。
自分は今、全てを失ってしまったのだと経験の浅い娘らしく思いこみ、改めて絶望を噛みしめた。そして抗うこ
ともかなわず、絶望と痛みに力が抜けた体を、そのままその場で再びレオニードに組み敷かれた。二度目は最初
とは打って変わった優しさと巧みな執拗さで、レオニードはユリウスから快感のあえぎ声を引き出していった。
そして再び貫かれながらユリウスは、心はとにかくも、体は今後は自分のものであっても自らの意思では制御が
できない、レオニードの意図のままに反応してしまうものに作り変えられていく事を覚らされた。涙は自分を慰
める役にすらたたなかった。
もみあっている内に部屋着はいつのまにか引き裂くように取りさらわれてしまい、いまや残骸が足元にたぐま
っているだけで、ユリウスは肌を覆うものもないまま冷たく固い床に、組み伏せられてしまった。ユリウスは羞
恥と屈辱で息もできなかったが、彼女の両手を床に押さえつけたレオニードは動きをとめて、彼女の露わな姿を
じっと見下ろすと、「きれいな体をしていたのだな。」とつぶやいた。それを聞いてユリウスは背筋が冷たくなっ
た。今の今まで心のどこかで、レオニードが思いとどまってくれると、彼がそんなひどい事をする筈が無いと思
っていた。だが今の言葉で彼が引き返す気など無いこと、完全に只の牡になっている事を覚らされて恐慌をきた
したユリウスは悲鳴をあげ、死にもの狂いでもがき始めた。
だがその抵抗はレオニードの中にある何か残虐な部分に火をつけただけだった。普通の女ならもう全てあきら
めて身を委ねるような有様になってもなお、決して彼を受け入れまいとする頑ななまでの拒絶。ユリウスがまだ
男を知らないなどと思いもよらない彼にとって、それは先ほど彼女に感じた愛おしさを真っ向から否定されたの
も同然だった。そんなに奴がいいのか?いまだに?言葉に出してそうなじれないだけに、理不尽な怒りが駆り立
てられ、彼の行動は惨さを増した。感じた愛おしさの分だけ、彼女を滅茶苦茶にしてしまいたかった。
なおもあがこうとする彼女の両手を、手首に痣ができそうな位強く片手で束ねて頭上に固定してしまうと、
レオニードは彼女の両肢を割り開き何の愛撫も加えず、全く濡れていないのを承知で強引に彼女の中に何本かの
指をねじこんだ。今まで何物もそこに受け入れた事の無かった彼女はショックとありえない痛みに思わずのけぞ
り、叫んだ。そして恐怖に満ちた目でレオニードを見つめた。信じられないと言わんばかりに驚愕と怯えに固ま
ったユリウスの表情にレオニードは更にひどく残酷な気持ちをそそられ、わざと乱暴に、その狭さを楽しみなが
ら彼女の内部をかきまわし、「暴れるともっとひどい事になるぞ。それとも自分で動きたいのか?」と顔を寄せて
耳元で声の調子だけはひどく優しくささやいた。
ユリウスはがっくりと瞳を閉じ、頭を床に落とした。そんな脅しをかけられずとも、もはや彼女の体はその数
本の指でしっかりと縫いとめられ、恐怖のあまり身じろぎさえかなわなかった。やがて彼女を充たしていた指が
前後に、彼女の思いもよらない動き方を始め、十分に彼女を嬲り悲鳴を歌わせた後、やがて一本の指を中に残し
たまま、他の指はその周囲をまさぐり始めた。レオニードは彼女の表情を、反応の一つ一つを見逃すまいともう
片方の手で彼女の顔をしっかりと押さえつけた。苦しげにひそめられた眉、涙を滲ませて震えるまつげ、血が出
そうなほど噛み締められた唇から、彼の指の動きにつれて抑えきれず漏れる声。なんとか彼の手から逃れようと
あがくはかない動き。自分が彼女にひきおこす全てを味わいつくしたかった。
一方ユリウスは彼が今、抱くというよりなんとしても自分を穢そうとしている事を未体験なりに感じ取り、恐
怖と絶望に涙ぐみながらも最後の意地をふりしぼって、自分を冷たく見下ろす黒い瞳を睨み返そうとしたが、彼
の指が自分の知らなかった頂にふれた瞬間、思いもよらぬ鋭い快感に腰が跳ね、はずむような声が漏れてしまった。
そのまま鋭敏な部分をなぶるように撫で擦られてユリウスの下肢は意思とは関係なくびくびくと震え、彼女は自
分でも聞いたことの無いような声をあげ続け、自分の内部から何かがにじみ出るのを感じた
それを確かめたレオニードは蔑むような笑みを浮かべると、最後の指を抜き取り、さらに彼女を残酷なまでに
割り開くとゆっくりと体を重ねてきた。そして彼自身が押し当てられた時、それでもまだユリウスは最後の抵抗
を、いや懇願、哀訴を試みた。震える手で彼の腕をつかみ、必死に彼を見上げながら、きれぎれに「・・・レオ
ニ・・・・ド、やめ・・・お願い、お願いだから・・・、やめ・・・て、あなたがそんなこと、お願いだから・・・
いやだ、レオニード、レオニー・・・ド、いや・・・!レオニード・・・!」、強張りを押し当てられながらの哀
願は、最後は悲鳴に近いものになってしまった。
レオニードはそんな彼女を、涙を流し口元をわななかせて自分に哀願する彼女をじっと凝視していた。彼女の
両手は震えながらもすがりつくように必死にレオニードを掴んでいて、その爪が食い込む感触を意識した瞬間彼
の表情はひどくゆがみ、ひっつかむようにしてユリウスの上半身を持ち上げ彼女の顔を両手で掴むと、強く激し
い口づけをした。彼の舌がまるで口中も犯そうとするかのように深く差し込まれ口蓋を蹂躙し、それが彼の答え
だ、もう逃れる術は無いと悟ったユリウスは目の前がすっと暗くなり、絶望のあまり全身の力が抜けてしまった。
涙が一筋流れるのと同時にはらりとその両手が彼の腕から滑り落ちて、彼女がようやく諦めた事を察したレオニ
ードは、それでも優しく扱ってやる気になど毛頭なれず、ユリウスの上体を床に横たえると、細い足首を力任せに
握り肩に担ぎ上げ、彼女が鋭く息を吸い込むのを聞きながら、ねじりこむような強引さで一気に身を沈めた。
彼女の内部の抵抗で、彼が事実に気がついた時にはもう遅かった。ユリウスは文字通り身を引き裂かれる痛み
に四肢を硬直させて絶叫し、顔をそむけた。レオニードは急いで彼女の顔を引き戻し、かすれた声で「ユリウス?」
とささやきかけたが彼女の顔は痛みとショックで蒼白にひきつれ、まぶたは固く閉ざされ決して彼を、いや何で
あれ、見る事を拒んでいた。レオニードは激しく自分を罵りながらも体は引き返せず、そのまま彼女を陵辱した。
最初は彼自身さえ痛みを覚える交合だったがやがてなめらかに身は動き出し、それはユリウスの流した血の滑り
によるものだった。だがレオニードの意識は自らの快感よりも、こわばり、背けられた彼女の表情だけを追って
いた。彼は今、自分が何か大事なものを取り返しがつかないほど傷つけ、破壊している事を意識していた。これ
だけの快感の中、体はもうこれ以上は不可能なほど彼女と深く繋がっているのに、彼女自身は固く閉ざされて彼
の手が届かないところにいるようだった。
彼がやや冷静さを取り戻した分、交わりは長く続き、逆にユリウスの苦しみを引き伸ばした。固い大理石の床
の上で、ユリウスはただ翻弄されていた。実際のところ男の体と行為について確たる知識を持っていなかった彼
女には、文字通り体が割られたかと思うような最初の痛みも、信じられないような痛みにもかかわらず自分の内
部がめり込むように押し込まれた男のもので押し広げられ満たされてしまう事も、それに続く抽送も、痛みの中
に時折まじり始めた不思議な感覚も、起こっている何もかもが受け入れ難い衝撃だった。自らの全てをさらされ、
踏みにじられる屈辱と絶望に耐えかねていっそ気を失う事を望み、それが無理ならむしろこの晩秋の冷え切った
大理石の床の冷たさと、それに擦られる腰骨と背中の痛みに意識を集中させていたかった。だがいつのまにか腰
にはレオニードの腕が回されていて、ささやかなその願いさえかなわなかった。やがて訪れた最後の瞬間、レオ
ニードはユリウスの上体を抱き寄せ、強く強く抱きしめた。そしてユリウスは初めて男の体が自分の中で膨張し、
弾けて精を吐く事を知り、その未知の感覚、この最後の駄目押しに思わず彼の胸板を空しく打とうとし、哀しい
叫びをあげた。その部分は自分の意思とは関わりなく、何度も跳ねるそれを包み込み、どくどくと流れる熱いも
のを痛みと、それまで知らなかった感覚で受け入れている。これはもう致命的な段階の変化だ、取り返せない、
自分は、この体はもうあらゆる意味で、今、完全に、完膚なきまでに犯され、レオニードのものになってしまっ
たと彼女は一瞬薄れ掛けた意識の中で思い知らされていた。
涙を流しながらぐったりとなってしまったユリウスをレオニードはなかば繋がったまま静かに床の上に横たえ、
血の気の失せた彼女を見つめていた。彼女はまた面を背け、両腕で顔を固く覆ってしまった。だが誰かその時の
彼の表情を見る人がいたら、果たしてどちらが傷ついた側なのか判断に迷ったかもしれない。やがて彼は腕の間
からのぞく彼女の頬の涙を親指でぐいと拭きとると身を離し、彼自身が先ほど近くに打ち捨てたユリウスの部屋
着を手に取り優しく彼女を拭いてやった。鮮やかな血の色と彼の体液に濡れたそれを無造作にまた床に投げ、面
を覆っていたユリウスの腕を静かにどけて彼はその顔を引き戻し、じっと見つめた。お互いの瞳がユリウスの涙
越しに見交わされたがそこにあるのは一種の昏い、索漠とした了解だけで、今度はレオニードがそれに耐え切れ
なくなり、彼はそっとユリウスを抱きしめた。まるで壊れ物を抱くように。それはあまりにも遅きに失していて、
既に彼らの間では何かが、今まで培ってきた何かが、これからありえたかもしれない何かが致命的に失われてい
たが、彼はそれでも彼女に触れずにはいられなかった。最初からやり直す事など叶わないとはわかっていても、
心はもう無理でもせめて体だけでも歓ばせてやりたかった。彼女の体はまだ震えていたが、彼は唇で軽くその肩に
触れた。夜はまだ長かった。
もう全て終わったと思ったのにレオニードが服を脱ぐ気配に、ユリウスは慄いた。なんとか体を起こそうとした
ところをそっと抱きとめられ、気がついたら彼の胸の中にいた。初めて触れる男の素肌や筋肉質の四肢が自分の
それに絡みつく感触に、先ほどの陵辱とは違った意味で彼女の感覚は混乱し、まだ力の入らない体で、なんとか
彼を押し返そうともがいた。だが長いこと冷たい床に横たわって冷え切っていた体は無条件に人肌の温もりを喜
び、肌は彼の体から伝わる熱を歓喜して求めるようだった。
だがこれからまた同じ事を繰り返されるのかとユリウスは恐れ、逃れようとあがいたが、彼の手はそっと肩から
背中、腰を優しく撫でさすってきた。それはまるで興奮しかけた馬か犬を撫でるようなさりげなさで、ユリウス
は結局動物がなだめられるように、その手の感触に身を委ねてしまった。くまなく体を密着させられた上で時間
をかけてそうされているうちに段々強張っていた肉体に血がまた巡って来るのをおぼえ、ユリウスは小さい吐息
をもらし、一瞬体の力が抜けた。何にも隔てられずに触れ合う素肌の感触は、初めてなのになぜか故郷に帰った
ような懐かしさと心地良さで彼女を覆い始めていた。彼女の体がほぐれかけた事を知ったレオニードはさらに柔
らかい触れ方に変えた。触れるかどうかの瀬戸際で全身をくまなくまさぐられ、ユリウスは嫌悪感よりもどこか
くすぐったいような、ぞくそくする感じに体が覆われ、彼の腕の中で小さく身悶えを繰り返した。さっきまであ
んなに恐ろしかった肉体にこんなにもあっさりからめとられ、肌を合わせている自分が信じられなかった。だが
彼と自分の体がからみあって互いの体から発散される熱が一種の膜を作って彼女の体を熱くし、早くも汗ばみか
けさえしていた。
彼女の表情から硬さがとれ、その体に火が点りかけていることを充分に確かめてレオニードは次の段階に移った。
彼女の全身を知りたかった。このしなやかな体の何もかも。表面の肌や爪も、隠されているあわいから生まれる
彼女の匂い、彼女が秘密にしている部分、彼女自身がまだ知らない感覚、彼女が何を悦ぶのか、弱いのはどこな
のか、彼女の内奥部がどのように息づくのか。何もかも手に入れたかった。触れられて初めて彼女は知るだろう、
肉体がいかに独自の言葉と文法をもっているか、その前では観念も理性もあまりにも無力である事を。そう、
恐らく愛すらもその前では無力だ。
この時までレオニードは本気で女を愛した事など無かったのに、ふとそんな思いが胸をよぎった。
だが彼女の肉体の滑らかさはどうだろう。女の体など結局みな同じなのに、なぜ今夜はこんなに駆り立てられて
しまうのか、彼にはどうしてもわからなかった。そして今まで何年も共にいながらなぜ彼女に触れずにこれたの
かも今となっては不思議だった。一瞬また抑制を失いかけ、彼はユリウスの美しいがまだ固さを残した乳房を掴
んだ。ユリウスが息を吸い込む気配を感じ、レオニードは己に苦笑してそっと手を緩めると、そのまま手を彼女
の背中にまわし、首筋に唇を触れた。一瞬肩をこわばらせたユリウスをなだめるようにもう片方の手で後頭部を
支えて、その重みと金髪の感触を心地良く味わいながら頭をのけぞらせると、もう一度首筋と、そして鎖骨をレ
オニードはそっと吸った。いやいやをするようにユリウスは首を振ったが、その頬は一気に紅潮した。
レオニードの熱い吐息が耳元をくすぐり、耳たぶのうしろに唇が触れた時、ユリウスは思わずぴくりとしたが、
そのまま舌が今唇が触れた部分に当てられさらに身をすくめた。そうすると胴にレオニードの腕がからまり上体
が抱き起こされて、彼の唇が胸元をこすった。
「あ・・・」と思わず声が漏れた時、もう片方の手が彼女の内股をそっと撫で、さっき傷つけた部分に触れた。
ユリウスははっと身を強張らせたが、彼の手はすぐ離れて腿を軽く撫で下ろすに留まって彼女を安堵させた。
だがすぐにまた唇がのど元にあてられおとがいを吸い、彼女を呻かせると身に両腕がからみつき、唇がふさがれ
た。それはひどく優しい口付けで、だが上半身はしっかりと抱きしめられてしまっているのでユリウスは逃れる
事ができず彼の唇と舌が優しく、次第に深く自分のそれを貪るのをいつしか目を閉じて受け入れ、いや味わって
いた。そうされているうちに段々と体は一層熱く、彼の唇が離れる度に彼女から漏れる吐息も浅く、早くなって
いった。時折目を開くとレオニードの瞳が先ほどとは全く違った優しさと暖かさで注がれていて、ユリウスもご
くごく間近にあるそれしか見えなくなってしまった。
やがてレオニードは抱きしめていた両腕をゆるめ、両手で彼女の顔をはさむと、また口付けし、そっと上体を倒
していった。さっきはあんなに辛かった床の冷たさが、彼女の今の熱くなった体には無性にありがたかった。
レオニードのくちづけはどんどん深いものになっていき、横たわったまま彼らは激しくくちづけを交わしていて、
彼を押し戻そうとしていた筈の彼女の両手も気がつけばいつしか彼の肩にすがりついていた。さすがに息切れし
て一瞬唇が離れ、ユリウスが吐息を漏らすと、レオニードの舌が彼女の喉を舐め下ろし、胸元まで下がっていっ
た。そして彼女の乳首が捉えられた時、ユリウスは大きく呻いた。舌で愛撫された後、優しく吸いたてられ、よ
うやく唇が離れたら舌ではじかれてまた舌と唇でついばまれ・・・その快感にユリウスは胸元からなんとか引き
離そうとレオニードの頭をつかみ、「レオニード、やめ・・・、レ・・・」と呻いたがそれはさっきの無惨な懇願
とは違い、初めて彼女の手に触れるレオニードの髪の感触と同様、二人の距離を縮めるものでしかなかった。レ
オニードは自分に触れた彼女の指の感覚に、不覚にも一瞬信じられないような幸福感と安堵感をおぼえた。そし
て舌を離して同じ部分をそっと甘噛みしてやると彼女の手に力が入り、彼女が感じている事を伝えてきた。
ユリウスの意識はいまや激しく混乱していた。あんなにも自分を傷つけた男の肉体に自分の体はこんなにもあっ
さりと屈服しようとしている。こんなにも異質な、自分とは何もかも違う身体にどこもかもがぴったりとよりそ
ってしまう。女の体ってみんなこうなのか?こんなにも簡単に抱かれた男のものになってしまうのか?時折そん
な怒りに似た自分への問いかけが心に沸き起こるのだが、それも彼が与えてくる快感にさらわれがちだった。自
分でも彼に体を開きかけているのは明らかで、あと少しで全面的に屈服してしまう予感がした。今でさえ、彼に
しがみつきそうになるのを必死の思いでこらえている。こんな浅ましい事になる位なら、最初の時のような惨さ
の方が、自分を閉ざしていられただけむしろましだった。なぜ、こんなある意味さっきよりもむごい仕打ちを彼
は自分に加えるのか。レオニードは彼を憎む自由さえ与えてくれないつもりなのだろうか。そんな言葉が脳裏を
よぎった刹那、レオニードが彼女の脇腹を軽く噛み、彼女が思わず跳ねるように身をひねり声をもらす間に、頭
を下半身へと滑らせてきた。ユリウスは最初の時の無理やり与えられた鋭い快感と指の感触を思い出し、彼の巧
みさから逃れる事意外何も考えられなくなったが、体はまるで水ででもできているように力が入らなかった。
膝を軽く曲げたまま開かせられた両脚の間に彼の頭が寄せられて、彼女は羞恥で死にそうだった。彼の唇が内腿
の柔らかい部分に触れ彼女をおののかせたが、恐れとは逆に膝の内側のほうに愛撫は滑っていき、一瞬彼女を安
堵させた。が、膝頭を軽くかじられて思いがけない感覚に足が撥ね、油断した分、声を上げてしまった。もう何
をどうしても無駄だった。彼が誘導する通りに自分はきっと応えられさせてしまう。こんな快感、決して望んで
などいないのに拒むことが許されない。
ついにユリウスは泣き出してしまった。輝く髪を乱れさせたまま手で自らの顔を覆い、彼女はその夜三度目の懇
願をした。「もうやめて、レオニード、お願いだから、もう、やめて。」
レオニードは、今度のこの呻きには胸の中が彼女への愛おしさや哀れみ、欲望の入り混じったもので一杯になり、
彼女の頬の涙をそっと吸い取ると耳元でささやいた。
「駄目だ。」そして心の中で続けた。欲望がどういうものなのか、お前はまだ、何も知らないのだから・・・。
そして彼女の手を取ると、泉のようになった彼女の女の部分に触れさせた。指先に触れた己の思いもよらない有
様にユリウスは熱いものに触れたように驚きの声を挙げて手を引っ込め、恥じて身を固くした。レオニードはそ
の動揺に乗じて一気に攻めに入り、それから先はユリウスはもう、彼に溶かされていくだけだった。与えられる
快感は逆に拷問のようで、羞恥のためやめることを懇願していた筈の呻きがいつのまにか「レオニード、レオニ
ード、レオ・・・」とひたすら彼の名をうわごとのように唱える、甘くかすれた呟きに、そしてむせび泣きに変
わってしまった事にさえユリウスは気づけなかった。その連呼は明らかに無意識なだけにどこまでも甘く彼の心
に浸み込んできた。同時に今まで知らなかったその甘美さこそが、自分が今弱みを持ってしまったのだという苦
い自己認識を生み、レオニードの誇りをじわりとだが、切り裂いていった。彼もまたこの夜からは地図も無く、
方位もわからないその先の世界へ歩みだしかけていた。
>>41続き
(12)
こうやって彼らの関係は始まった。もうかつてのような無邪気さや、夏の別荘で共有したやすらかな時間は取
り戻すことはできなかった。レオニードは抑制を振り捨ててしまった事に自棄になったかのように、もはやため
らいなくユリウスを抱き、ユリウスも何事かあきらめたのか、まるで意思を失ったように、彼を拒もうとはしな
かった。
昨年から引き続いて起こった出来事に疲弊して、彼女にはもうレオニードを憎む気力すら無かった。責めると
すればここからさっさと逃げ出すべきだったのにそうせず、敵となれあってしまった彼女自身の甘さと油断で、
今の状況は自業自得としか言いようがなかった。リュドミールとヴェーラが屋敷にいないことはせめてもの幸い
だった。ヴェーラはこのような乱脈さに眉をひそめたろうし、いくら子供でもリュドミールも何か気づかずにお
れなかったろう。
ユリウスには思いもよらない事だったが、レオニードは軍人とはいえこの時期の爛熟した上流社会の一員でも
あったので、ご他聞にもれずごく若い時に一通り以上の経験を積んでいた。いや、積まざるを得なかった。年若
くして当主となった彼はいつまでもおぼこである事は許されず、早く世間を知る必要があったのだ。
しかし無駄な才能と言ってもいい程、肉体的に女を悦ばせ征服することはなぜか彼にはあまりにも簡単で、そ
こには心が入り込む余地がないほどだった。女が喜ぶほど、彼の心は冷たく退いていくのが常だった。つまりレ
オニードは体の愛は学んだが、心の愛し方は学び損ねていた。アデールとうまくいかなかったのも結局肉の喜び
を妻に知らしめておいた一方で、妻の軽はずみな行動の数々にあっさりと彼女への興味を失ったからだった。
アデールは夫にとっての自分の存在はごく表面的な、「妻」という「立場」に過ぎない事、彼にとってまず第一
に「皇帝陛下の姪」でしか無い事を敏感に感じ取った。彼はアデール自身を求めておらず、知ろうとも思わない
のだ。彼女には侯爵夫人として、また高位軍人の妻としてふさわしい行動だけを求めていた。別にそれは政略結
婚の常として珍しい事では無い、自分も同じように割り切れればどんなに楽だったろう。だが、アデールはどう
しても夫に無関心になれなかった。夫婦でありながら愛を、夫の心も臥所も、求めて得られないなど誇り高いア
デールには、いやきっと誰にとってもたまらない羞恥と屈辱だった。だが決して口に出せないぶんその苦汁は実
に苦く、皮肉にもその屈折がいっそう夫を遠ざける結果を生んでいた。
しかしユリウスの肉体は今までの経験と全く異なる影響をレオニードにもたらした。あまりにのめりこみそう
になる自分を恐れ、そうさせる肢体を憎むかのようにレオニードはユリウスに大胆に官能の印を刻み込んでいっ
た。だが性愛が深まれば深まるほど、口に出せない分、二人の間にはやがてアレクセイ・ミハイロフの影が大き
くのしかかってきた。
ユリウスが未通娘だったことはレオニードには大きな驚きだった。男として、手付かずのユリウスを手に入れ
た喜びはもちろんあったが、寝た事もない相手をロシアまで追ってくるとは、いくら罪からの逃避という願望も
あったとはいえ、ユリウスのミハイロフへの情熱がどんなに強いものだったか改めて思い知らされる事でもあっ
た。何といってもユリウスは当時まだ17歳の少女に過ぎなかったのだ。寝ていないからこそかえって初恋の思
い出は美化されるだろう。おまけに死んでいればいつか思い出として諦めもついたろうが、相手はシベリア流刑
で、いわば琥珀に閉じ込められた昆虫のように凍結された存在だ。そう考えると幻滅される事が決してない、そ
して生きているアレクセイはやっかいな恋敵だった。
何と言ってもまずい事に、レオニードはユリウスの心を得る前にその場の欲望に負けて、しかも控えめに言っ
てもかなり強引な形で先に体を手に入れてしまったのだ。心と切り離された肉体の快楽を充分知っているレオニ
ードにとっては、体を手に入れたからといって即、心がついてくるわけではないという事は自分自身の体験から
も自明の理だった。体が狎れる事と愛は似ているが、違う。だからレオニードは激しい、時には驚くほど淫猥な
行為をユリウスに加えながらもこのベッドには3人目の人物がいるのではないかと感じる事があった。忘我の瞬
間どんなに強く抱きしめていてもユリウスの全てを得た気にはなれなかった。
一方でユリウスの体はレオニードの愛撫に馴らされ、そう日もたたないうちに、わずかな刺激でやすやすと快
楽の淵に追いやられるまでになっていた。深まる一方の快感はむしろ苦痛にすら思えるほどで、ユリウスは貪欲
な官能の世界をただ手を引かれるままに進むしかなかった。しかし、彼女の心が恐れに揺れるのは体がレオニー
ドに馴らされていくことでなく、彼が無意識に示す優しさにだった。どんなに淫らな事を強いられても深い部分
の彼女自身が揺らぐことはなかったが、行為や欲望とはかかわりない部分で彼の愛情の深さが垣間見える時、ユ
リウスはそれが自分を変えてしまうのではと、本当に恐ろしく、クラウスとの思い出に必死でしがみつこうとした。
だが皮肉なことにレオニードは最後までその事に気づかなかった。そして愚かにも、この時期、彼の矜持は自
身が身を屈して彼女に愛を乞う事を決して許さなかった。従って快楽の度が増すたび、彼らの関係の危うさも平
行して一層浮かび上がってくるのだった。ユリウスは決してクラウスの名を口に出さず、レオニードも臥所で彼
女を言葉で嬲る際も決して彼の事には触れなかった。どちらかが言葉にしてしまえれば、どれほど楽だったこと
だろう。
ユリウスはいまだにアレクセイ・ミハイロフの女なのか?
まだそうであり続けているのか?
今はもう、身も心もレオニードのものになっているのではないか?
しかしそれを自らにさえ問う勇気が、この頃の二人にはなかった。最初のようにユリウスの体が痣だらけになる
ような手荒な扱いは二度としなかったが、やがてレオニードの愛撫は巧みな分、まるで彼女の心を傷つける事を
望むかのように心理的には残酷さを増していった。
そのように彼らの日々は過ぎていった。倫理観に富んだヴェーラがいれば少しは違ったかもしれないが、
リュドミールの入学が滞りなく終わった後も、邸で起こっている事を知ってか知らずかヴェーラはモスクワから
帰ってこなかった。彼女もまたクリスマスと新年はリュドミールにつきあってモスクワの邸で過ごすことを伝えてきた。
その後もなぜか彼らを放置するかのようにヴェーラはペテルスブルグの邸には戻ってこず季節は過ぎ、
また夏がやってこようとしていた。
突然レオニードが部屋に入ってきてユリウスは驚いて顔を上げた。彼が昼間のこんな時間に帰ってくるのは珍
しいことだった。いぶかしみながら本を置き、立ち上がったユリウスが声を挟む間もなく、レオニードは彼女の
腕をとると「来なさい」と寝台に導こうとした。昼ひなかで召使達の気配もそこらでしているのに、カーテンも
閉めない明るい部屋での行為を強いられる事に、ユリウスはさすがにたじろぎ逆らおうとしたが、例によってあ
っさりと裸に剥かれてしまった。身を覆うものもない状態で明るいまま寝台に横たえられ、ユリウスは「いや
・・・!」と顔を背けたがレオニードはかまわず彼女を見つめた。
シーツの上の白くしなやかな肉体は、他の女達のようにコルセットで締め付けて人工的なくびれを作った豊満
なものとは異なり、柳のようにしなやかで少年の持つ清らかさと女性らしい滑らかさを併せ持っていた。視線に
耐え切れず顔を覆い、羞恥にうつぶせになってしまったユリウスのしみひとつない背中のくぼみに唇を押し当て
るとレオニードはそっと手を滑らせた。そして背後から抱きかかえユリウスの耳元でささやいた。
「そんなにいやがるな。今日からしばらくペテルスブルグを離れる。当分抱かれることはないのだから我慢しろ。」
胸元にすべってきたレオニードの手に気をとられながらユリウスは思わず「え・・・?どのくらい・・・」と聞
き返した。だが「私がいなくなるのが嬉しいか?」とはぐらかされ、「・・・そうだね。あなたにおもちゃにされ
ずに・・・あっ・・・」皮肉を返そうにもやすやすとレオニードにいつもどおり渦の中に引きずり込まれ、ユリ
ウスは後はただあえぐことしかできなかった。
夏のあまりにも明るい日中での行為の恥ずかしさは逆に彼女を昂ぶらせ、レオニードの黒い瞳がいつもより、
より冷静で突き放したような表情を浮かべている事がそれに油を注いだ。突き上げられるうちに、やがて彼女は
自分の内奥に今まで知らなかった反応が生まれてくるのを感じ、恐れをなしてその感覚からなんとか逃げ出そう
とした。だがそのあがきがかえってレオニードにそれと悟らせてより追い詰められて逃げ場を無くす事となり、
やがて彼に巧みに誘導されるまま真っ白な炎に焼き尽くされるように極みに達して、そして落ちていった。
しばしのあと、「なに・・・だったの、今のは・・・」と呟いたユリウスにレオニードは(そんな事も知らなか
ったのか・・・)とその無知がかわいくいじらしく、また初めてユリウスが達したことに男としての深い満足感
をおぼえていたので、そっとユリウスの額に手を寄せ、汗をぬぐってやりながら「おまえが本当に女になったと
いうことだ」と言って額と唇に軽くキスした。
それはこの頃の彼にしては珍しい、実に恋人らしい優しい仕草だったが、ユリウスは自分はこれでまた一つク
ラウスに裏切りを重ねたのだ、なぜ裏切りはこれでもうおしまいという事は無く、次から次へと続いていくのだ
ろうと、体は先ほどの余韻にひたっていても、心の内は暗然としていた。その昏い瞳を見てユリウスの気持ちが
体の反応には寄り添ってはきていないことに気づいたレオニードは我にもなく傷つき、身を起こすと身支度を始
めた。どのみちこれは無理な寄り道で彼には本当に時間が無かったのだ。レオニードは空しさと失望でそのまま
声もかけずに部屋をでていこうとし、ユリウスは絶望にひたりながらも、それでもなぜか彼を追わねばと思った。
だが衣服をまとう間などなく、裸体にシーツを巻きつけふらつく足でなんとか立ち上がると、「レオニード!」と
叫んだ。驚いて振り返った彼に投げつけるように聞いた。
「・・・まだ答えを聞いてない!どのくらい帰ってこないの?」
このように自分をぶつけてくるユリウスは本当に久しぶりでレオニードはとまどった。自分の不在を喜んで聞
いているのか、惜しんで聞いているのか見当がつかない。
「長ければ・・・5ヶ月だな。早くて3ヶ月強といったところだ。」
いくら普段から不在がちとはいえ、ユリウスにとってレオニードがそんなに長いこと屋敷を空けるのは初めて
の事だった。思わず呆然とするユリウスにレオニードは一瞬声をかけそうになったが、先ほどの失望の苦い味が
まだ残っていたので何も言葉にできず、そのまま身を翻した。ユリウスはかっとして叫んだ。
「あなたはいつもそうだ!僕の全てを奪おうとする!でもそれだけだ!僕を変えて・・・僕の体を変えてしまい
ながら、それをただ冷たく見ている!あなたは僕を奪って奪ってその先一体どうしたいの?!」
これは客観的にはかなり自分の事を棚に上げた言い草だったが、ユリウスにはそれを言う権利が確かにあった。
レオニードはすでに扉の把手を握っていたが一瞬うつむいて「くそっ」と吐き捨てると、シーツにくるまってベ
ッド近くに立っているユリウスのもとまで足早に戻り、顔を触れ合わんばかりに近づけて激しい調子でささやいた。
「そうだ。私はお前を奪っている。たとえお前が私を愛していなくてもな。奪う以外に、私に一体何ができると
言うのだ・・・?」
憤怒に似た何かに満ちた表情で一気にそう言うと彼女のあごをつかんでひどく乱暴にくちづけし、今度こそ出
て行ってしまった。ユリウスは足音が遠ざかるのを聞きながら、床にへたりこみがっくりとベッドに額をつけた。
唇には血の味がした。窓から差し込む夏の光はわずかに傾いたようだった。
(13)
入れ違いでヴェーラがモスクワから戻ってきた。リュドミールが幼年学校の寄宿舎に入ってからのほうがヴェ
ーラには何かと手がかかる事が増えたのだ。ようやっと様々な挨拶や折衝がひと段落つき、リュドミールが学校
になじんだのを見届け、彼女はようやくペテルスブルグの屋敷に戻ってきた。どのみち兄もしばらく任務で帰れ
ないなら、ユリウスを一人で屋敷に置いておくわけにもいかない。何より、ヴェーラにはぺテルスブルグの屋敷
が一番落ち着ける場所だった。
だが、久しぶりにユリウスを見てヴェーラはショックを受けた。屋敷の者から二人の間が男女のものに変わっ
たことはそれとなく知らされていたが、それにしても1年足らずだというのに彼女の変わりようはあまりだった。
わずかに面やつれしたユリウスは同性でもぞくりとするほどの妖艶さを漂わせていた。今までの少年と言っても
通じていた中性的な透明感に代わり、肌も髪も瞳も以前とは違う艶となまめかしさをたたえて他人と見違うほど
だった。彼女はもう決して少年にも青年にも見えず、男装は逆に彼女が新しく手に入れたなまめかしさを強調し
ているだけだった。
だが何よりも悪かったのは、美しさは増していながらもユリウスがとても不幸そうに見える事だった。(お兄
様・・・彼女に何をしたの?)とヴェーラは胸の内でつぶやき、兄をけしかけるような事を言った自分の軽はず
みを心から悔いた。自分が何も言わずとも、二人は結局関係を持ったろうが・・・何も着火点になるような事を
言う必要は無かった。監禁者の愛人となってユリウスに幸福がある筈もなかった。かつてエフレムとのひどく不
幸な形で終わった恋愛を経験し、実はいまだそこから脱しきれてないヴェーラは恋のもたらす傷には敏感だった。
今までのところ、彼女の目にはユリウスは兄を嫌っているとは思えなかった。二人の間には確かに惹かれあうも
のがあった筈だ。だが、何かがひどくゆがんでいるとしか思えないユリウスの変貌ぶりだった。
本当のところは本人達以外には決してわからない類の事とは言え、兄に腹を立てたヴェーラはユリウスをせい
ぜい外に連れ出すことにした。兄の許可は得ていなかったが、社交界のうるさ型の目につく場所でなければ、ユ
リウスの事は遠縁、あるいはヴェーラの友人として通してしまえばよい。夏はまだ盛りで気候は良かった。美し
い公園や気の張らないコンサート、ヴェーラは屋敷の外に出ればユリウスのなまめかしさが薄まると言わんばか
りに、引っ張るようにして彼女を連れ歩いた。そしてそんな外出先の一つでユリウスは彼女に、アナスタシアに
再会したのだ。運命の歯車が再び大きく回りだそうとしていた。
(第一章 了)
53 :
書斎:2009/08/09(日) 07:11:28 ID:h2vNUIt3
春なかばの明るい陽光も、もう落ちかけていた。まだあたりは春の夕方特有の柔らかい光に満ちていたが、
書斎でユリウスは本を読みかけたまま机に突っ伏していつの間にか眠ってしまっていた。髪に触れられた感触で
目を覚ますと、帰邸したレオニードが傍らに立っていた。思わずはっとして身を起こすと、彼の視線が机の上の書
物に向けられている事に気づきさらに身を固くした。それらはどれも社会主義について書かれた本だった。そもそ
もレオニードの書斎にそんなものが置いてある事自体に驚きつつも、それらを少しづつ読み進めるのが彼女の最近
の日課になっていた。
「面白かったか?」とレオニードが卓上に散らばった何冊かの本の表紙を指先でなぞって言った。ユリウスは
返事もできず黙っていた。「読みたければイスクラもあるぞ。全号とまではいかないが。どうしてもというな
らば、軍の保管庫から借りてきてやる。」ユリウスの表情はますます固くなった。
最近では、まるで抱かれる事と交換条件だったかのように、新聞や書物を自由に読むことが許されるように
なっていた。行動については相変わらず制限が厳しかったので、ヴェーラとリュドミールがいない現在、彼女
はまさにこの邸内に監禁状態となっていた。それまでの一見家族ともみまがうような扱いが結局まやかしだった。
これが本来の、このユスーポフ家における彼女の真の立場だったという事が剥き出しだった。
ヴェーラ以外にロシア語を教えてくれる人もいないので、今は辞書をひきひき自分で考えねばならなかった。
イスクラなど字面を追うのも精一杯で内容の理解などとても無理だった。使われている言葉の意味さえわから
ない。ヴェーラが帰ってくるまで家庭教師をつけてくれとはさすがに望めなかった。言えば案外叶えられた希
望かもしれないが、その代償にレオニードが何を求めてくるかが怖かった。この頃のユリウスは夜毎の褥で彼
に抱かれること。そしてその度自らの体に裏切られる事に打ちのめされ、気概や誇りというものをすっかり打
ち砕かれていた。彼に抱かれるためにのみ存在しているような毎日。今の立場では、もう誰にも、どんな人に
も会いたくなかった。
返事をしないユリウスの固さをむしろ楽しむかのようにレオニードは本を一冊手に取るとそれで彼女のあごを
くいと上げた。ユリウスは一瞬目をつぶった。まさかここで?いや、まさか。彼はここで執務を取る事も度々だ。
いくら寝室や私室でああでも、ここは彼の半ば公的な性格の空間だ。謹厳で、氷のように冷たく冷静な彼の表の顔
そのままの書斎。むしろこのあごの下に添えられた本で頬を張り飛ばされる可能性のほうが高いだろう。そう踏ん
だ矢先、ユリウスは自分の甘さをまたも思い知らされた。そのままの姿勢でレオニードは彼女の乳首をブラウスの
上からつまんでねじりあげた。
「!っつ・・・。」と思わず声を洩らし、眉を寄せてしまったユリウスの反応を楽しみながら、彼は「今日はもう
読まないなら、出した本は片付けてくれるか?」と言った。そして今ひねりあげた部分を同じその指で優しく撫で
ると、あごの下に添えていた本をユリウスに差し出すように降ろした。ユリウスは相変わらず彼の目は見ずにそれ
を受け取ると立ち上がり、机の上にあった本を集めて抱えると、書棚に行き、1冊1冊戻し始めた。しゃがんだり、
腕を伸ばす自分の姿を見つめる彼の視線を痛いほど感じた。全て戻し終え、彼のほうを振り向くと思ったとおりレ
オニードは机にもたれて足を組み、ユリウスを眺めていた。ユリウスは「戻しました。」と言ったが、不覚にも言
葉が震えてしまった。彼はそれでも黙ったまま、しばらく彼女を見つめていた。何がなし、ぞっとして何か言われ
る前にと急いでその場を去ろうとユリウスが動き出すよりも一瞬早く、レオニードが足を踏み出してきた。
あせったユリウスが逃れようとする機先を制して彼はその両手を素早く掴むと書棚に彼女の体を磔にした。
あれから彼の寝室で夜を過ごす事を命じられもう半年以上が経ち、既に数え切れないほど褥を共にしているのに、
まだ彼女の目に脅えが走った。無言でゆっくりと身が寄せられ、書棚と彼の体の間にぴったりと押さえつけられ身
動きが封じられた上で彼の唇が寄せられてきて、自分のそれがふさがれる前にユリウスは急いで顔を背けた。そし
て無駄と知りつつ呟いた。
54 :
書斎:2009/08/09(日) 07:12:25 ID:h2vNUIt3
「こんな所で?・・・隣には誰か控えている筈では?」「そんな事が気になるのか?今更?」とレオニードは彼女
が顔を背けた分、自分の前に差し出されたも同然なその耳元に唇を寄せ、舌先で舐めた。「レオニード!」ユリウ
スは歯を食いしばってその感触に耐え、ささやいた。「からかうのはやめて。誰か来てしまう。」「私がからかって
いると思うのか?」レオニードは彼女の手を押さえ込んだまま、唇を下げるとブラウスの上から彼女の胸を吸った。
「・・・あっ・・・」その初めての、淫らがましい感触に思わず声が洩れた。そしてもう片方も同じようにされ、
ユリウスはのけぞって呻いた。唇を離したレオニードはユリウスを見つめながら言った。彼女は息をはずませ、絹
のブラウスは両胸の先端部分だけが濡れて透けていて、それはひどく扇情的な姿だった。
「からかっているのはおまえの方だろう。よくわかっているはずだ。」
ユリウスは目を見開いて聞いていた。
「私はその気になったら、お前を抱く。この邸内のどこででも、たとえそれが廊下でも階段でもな。朝、昼構わず
に、おまえを好きにする。誰が見ようが構うものか。」
もっともこれは只の脅しだった。独占欲の固まりのようなレオニードが彼女の痴態を例え召使だろうが、他の者に
さらすような事をする筈が無かった。逆にそんな事があれば彼はその誰かをどうにかしてしまったろう。昔話の暴
君のようにに目を潰してしまったかもしれない。そうとは気づけないユリウスが思わず洩らした「レオニード・・・。」
という絶望的な呟きに重ねるようにして、彼は言い足した。
「それに目下のところ、おまえの仕事はそれだけだ。そうであろう?私に抱かれる以外、おまえに他に何か出来るのか?」
「・・・!」誇りを傷つけられて瞬時に彼女の目に怒りと恥が交錯し、やがて底知れない悲しみに変わっていくの
をレオニードはじっと見ていた。この頃の彼は幻と競うことに疲れ、彼女が自分に反応を示すならそれがなんであ
ってもいいという、半ば自虐的な境地にまで達していた。
いま、幾分かの反応を引き出せた事に苦い喜びをおぼえながら彼は彼女のズボンの前立てに手を伸ばし、ボタンを
一つづつ外した。ユリウスはもう抵抗もせず、しかし彼を見ようとしないで視線をどこか遠くに向けていた。だが
前立のボタンを外し終えた彼の指が、中に潜りこんできた時には小さく息を吸い込み、身を固くして思わず足を閉
じようとした。レオニードはそれに構わず、狭い中で下着の上から彼女の亀裂を擦った。足を閉じた分、敏感な部
分への刺激も強まり、ユリウスは唇を噛み締め、眉を顰めた。その表情を見つめながら彼は下着の脇から指をこじ
入れ、その中の有様とユリウスの呻きに満足して言った。
「男の格好をしていても、おまえは骨の髄まで女だな。こんな風に、短い時間でここまでも滴っている。自分でも
わかるものか?」
「・・・。」ユリウスは歯を食いしばり、眉根を寄せて耐えていた。
「娼婦でも、なかなかいないぞ。こんなに濡れやすい女は。」
ユリウスはできる事なら耳を閉ざしたかった。そんな侮辱、それが本当の事なのかどうかなど聞ける筈は無かっ
たし、自分の体がすぐ彼に向かって開かされてしまう事は彼女の意思の及ばないところだった。だがそもそもそう
させているのはこの男でないか。急に彼女の中に怒りがこみ上げてきた。彼女はレオニードの瞳を不意に見据えた。
自分を監禁した上でいたぶり抜こうとしている下劣な男。何か侯爵だ、何がロシア帝国の軍人だ。おまえが僕を自
由に出来るのはこの体だけだ。せいぜい好きにすればいい。僕が真におまえのものになる事は無い。決して。一瞬、
彼女の瞳に火花のような反抗心が燃え上がりレオニードを瞠目させたが、すぐに消え、彼女はまた自らを遠くにお
こうとした。それを感じ取ったレオニードはそうはさせるものかと激しく彼女の乳房にむしゃぶりつき、舌で責め
ながら、彼女の秘所を指で蹂躙した。もう、どこが彼女の弱点かは知り抜いていた。無反応でいようとした彼女は
狙い通りすぐに顔をゆがめて彼を引き剥がそうとしたが、体は彼女を裏切って一度目の痙攣を示した。「・・・っ
あ・・・」と彼女が息を呑んだところで彼は指を引き抜いた。そこまで彼女に火をつけておいて、レオニードは囁いた。
「脱げ」
55 :
書斎:2009/08/09(日) 07:13:04 ID:h2vNUIt3
ユリウスは観念して、目をつぶり、黙ってボウタイをほどいた。絹が擦れるシュッという音が妙に響いた。ボタン
は共布で包まれたクルミボタンの小さなものだったので外しにくかった。それも一列にびっしりと並んでいるから
時間がかかる。レオニードにわざと焦らしていると思われるのがいやで、手が震えた。これから彼に嬲りぬかれる
ことは明らかだった。できれば早く終わってくれ、彼女が望めるのはそれだけだった。
ブラウスのボタンをやっと全て外し終わり、胴衣の細い紐とボタンに手をかけてユリウスは一瞬ためらったが、自
棄な気持ちで事務的にさっさとそれらも外し去った。そして乱暴にブラウスを脱ぎ、床に落とすと胴衣に手をかけ
たところで、「・・・色気の無い脱ぎ方だな。」と声がかかり、レオニードが身を寄せるとユリウスを挟むようにし
て書棚に手をつき、ささやいた。彼女の手をとって自らの口に指先を入れ、少しねぶるとそれを彼女の乳房にあて
させておいて、残ったズボンのボタンを外すとそれは床に落ちた。もう彼女がまとっているのは前を開けた胴衣と
下穿きだけで、この謹厳な書斎にはひどく似つかわしくない眺めだった。そのまま激しく愛撫しながら彼は言った。
「・・・皮肉なものだな。おまえが嫌がるほど私は駆り立てられ、おまえの体も燃えてくる。わざとなのか?それ
がおまえの手口か?」
「わからない・・・。なぜ、あなたがそんなにも僕を蔑み、傷つけようとするのか・・・。娼婦みたいに扱われる
のは、僕が望んだことではないのに・・・。」
これは否応無くひきだされてしまう官能上の反応以外には、ほとんど自分というものを見せなくなってしまった彼
女の、血を吐くような呟きだった。だがレオニードはその言葉の意味をあえて胸中に浸み込ませず、彼女の髪を掴
むとぐいとひっぱって仰向かせた。そしてその瞳を覗き込みながら心の中で呟いた。娼婦?おまえは娼婦がどんな
ことをさせられるのか知っているのか?もしおまえが娼婦なら、とてもこんな事ではすまぬのだぞ。
いっそ本当に最下級の娼婦のように扱って、己に奉仕させてやろうかと怒りに駆り立てられ暗い欲望が一瞬胸をよ
ぎったが、さすがに実行はしなかった。
一時の鬱憤晴らしにはなるかもしれないが、後味の悪さで自らが苛まれ、さらに距離が広がるに過ぎないことは
既にいやというほど学習済みだった。
そんな彼の逡巡を知ってか知らずか、ユリウスは苦しい姿勢で仰向けにされたまま、どこか空ろな瞳になっていた。
ユリウス、何を見ているのだ?私でないことだけは確かだなとレオニードは胸の内で呟いた。こいつはこの私の書
斎で奴の奉じる主義思想を学ぼうとしている。彼女の中身は全然変わっていない。
「この書斎でおまえが記憶を取戻した時」
ユリウスの片足を持ち上げ、自らの腰に巻きつけるようにしてレオニードは言った。
「あの時、正直私はおまえに刺されると思った。」
彼の言葉に驚いてユリウスは声も無かった。そこへ下から押し広げられ、彼が侵入してきて彼女は顔をのけぞらし、
呻いた。「つかまれ」と言ってレオニードは彼女の腕を首にまわさせ、彼女の腰を持ち上げて、したたかに打ちつけた。
「あの時私を刺しておけば、」とレオニードは深く貫きながら言った。
「いま、こんな目には合わずに済んだであろうに。」
彼のものが奥まで当たって、ユリウスは悲鳴に似た叫びをあげた。
「いい声だ。ロストフスキーも呆れているだろうな。丸聞こえだろう。」
では今日の護衛は彼なのか。誰に聞かれても屈辱的な事に変わりは無いはずだったが、あの冷やりとした副官だと
思うと余計に辱められている気がした。レオニードに何をされても声も立てず、何の反応も示せなくなれれば!
なぜ彼がこんなに簡単に自分に火をつけてしまう事ができるのか、彼が言うように自分の体が娼婦よりも下等に
できているのか、レオニードにしがみつきながらユリウスは彼のものにえぐられ、打ち据えられながら自分の中から
液がしたたりもれ、内股を濡らすのを感じていた。どこかから聞こえてくるあられも無い声が自分のものだとは
信じられなかった。お願い早く終わって、いや終わらないで、いまこの瞬間、自分の望みもわからない彼女にできるのは
ただレオニードにしがみつく事だけだった。
その後二人は着替えて何食わぬ顔で晩餐につき、長いテーブルで一言も口をきかずに、食事をとった。贅をつくし
た料理でも、彼らの口には何の味もしなかったろう。侯爵家の料理長は腕のふるいがいが無い事だった。
56 :
書斎:2009/08/09(日) 07:13:46 ID:h2vNUIt3
その夜、眠っているユリウスをレオニードは傍らで頬杖をついて見つめていた。行為の後、彼女はだいたい身を
少し離して、顔を背けて眠ろうとする。それを彼が無理に引き寄せて眠ってしまうことのほうが多いが、そのまま
好きにさせている時もある。だが彼女は気づいているだろうか?そんな場合でもふと目を覚ますと彼女はそっとよ
りそってきて身を添わすようにして眠っている。今も彼のほうを向いてなかば手を伸ばすような姿勢で静かな寝息
をたてている。(かわいい奴だ。)そんな素直な思いで飽かず眺めていた。そうやってやすらかな寝顔を見つめてい
ると、彼女が天使だと簡単に思い込めそうだった。彼女にとっては不運なことに、彼の手の中に落ちてきた天使。
だがもちろん彼女は只の女で、その頭も心の中も、人間ならではの愛憎や計算で充たされている。彼女が寝言を言
わないタイプだったのは助かった。もしも奴の名でも呟かれようものなら、自分は何をするかわからない。だがこ
うやって無意識にこちらを向いて眠っているのだから、少なくとも体の繋がりだけは確保できているのだろう。彼
女がどんなに自分を疎んじようとも、彼は絶対に共に眠る事を放棄するつもりは無かった。これは結婚後早々に褥
を別にされたアデールが知ればさぞ傷ついた事だろうが、彼の胸にはそんな事はちらりとも浮かばなかった。
しかし起きている間、どうしたら彼女をこちらに向かせることができるかがわからなかった。無邪気な顔で眠っ
ているこの女をどうすればいいのか。正確に言うと、自分が彼女に何を望んでいるかさえ、彼はよくわかっていな
かった。それがわかっていれば答も対処法もひどく単純なことだったのに、この時期のレオニードはそれを掴むこ
とができず、もどかしい思いで愚かな仕打ちを続けていた。だが彼女の寝息を聞き、その寝顔を眺めているとひど
くやすらかな気持ちが広がってきて、彼はそっとその腰に手をまわすと自分も眠る事にした。これ以上見つめてい
ると、身勝手な欲望でまた彼女を起こしてしまいそうだった。
そのしばらく後、ユリウスはふと目をさました。レオニードの規則正しい寝息と胸の上下で彼が本当に眠っている
事を確認して、彼女はその寝顔を見つめた。眠っているさなかでも彼の腕は彼女の腰にまわされていた。
レオニードが眠っている時だけは、ユリウスはおそれなく彼を見つめることができる。やや日に灼けて浅黒い、
彫りの深い顔。あの炯炯とした黒い瞳は今は瞼の下だ。眠っている時の彼はとても若く、端正に見える。
思わずふっと笑みが浮かび、そして次の瞬間ひどく苦い思いがこみ上げてきた。この男を憎むことができたら。
心の底から疎んじることができたら。意識から完全に切り離すことができたら。彼に抱かれても無感覚でいること
ができたら。彼が自分の体を滅茶苦茶にしてしまう前の関係に戻る事ができたら。
・・・そうなったらどうだと言うのか?結局皇帝の命のもと監禁されている身とその監視者という立場に変わりは
無いというのに。大体元の関係になど戻れる筈も無かった。少なくとも彼が僕に飽きるまでは。彼は愛など口にし
ないで僕を抱く。人が嘘でも相手を喜ばすべく言うような誓いもない。ことに最近はまるでおまえは私の只の欲望
のはけ口だとでも念押ししたいかのように、口にするのは皮肉や僕を傷つけるためにわざわざ選んだような言葉ば
かりだ。なぜかわからないが、いつの間にか関係はすっかりこじれてしまっていた。うまくやっていきたいなどと
は思うわけではないけれど。だが彼は自分のもとになぜか帰ってくる。体に飽きるまでの事かもしれない。自邸に
女がいるのが手軽だというだけかもしれない。でも彼は僕を掴まえておこうとしている。手の内から逃さないと彼
の瞳は言っている。僕は彼の瞳を見るのがこわい。あまりにもまっすぐに僕を求めてくる。いつまでもこんな関係
が続く筈は無いとわかっていても、僕は彼が怖い。何も誓わない男にどんどん変えられていきそうで怖い。
57 :
書斎:2009/08/09(日) 07:15:06 ID:h2vNUIt3
(クラウスは連れていくと誓い、そして僕を捨てた。それも一度ならず。)
そんな苦い思いがこみ上げてきて彼女はため息をもらすまいと唇を噛んだ。だが瞳からは涙がこぼれ落ち、彼女は
レオニードを起こさないようにそっと顔をうつぶせにして、敷布にそれが吸い込まれるのに任せた。考えるまでも
なくどちらの男もたいがいだった。自由を奪い、女を意のままにしようとする男と、愛を誓いつつ同じその手で振
り捨てていく男。そして傍らにいるのは一方だけだった。
(だがそれは愛ではない。)静かな声が自分に告げた。
(たとえ拒まれても、おまえが求めずにいられないのはどちらだ?)
その時彼の手が頭におかれてユリウスははっとした。咄嗟に寝ている振りをしようと身動きせずにいるとその手が
そっと髪を撫でてやわらかく彼女を引き寄せた。一瞬、今考えていた全てが彼に伝わっていて、その罰を受けるの
かと非現実的な恐れを感じて彼女は脅えたが、レオニードは彼女の髪に顔を埋めてそのまま又眠ってしまった。
ユリウスはその寝息に安堵し、彼の胸に頬をよせてその鼓動を聞いているうちにいつもの安心感に包まれて先ほど
の問いかけも忘れ、いつしか深い眠りに引きずり込まれていった。
眠っている時だけは、彼らは自意識から解放され幸福な恋人同士の姿をしていた。
書斎 終
58 :
1910年晩秋:2009/08/09(日) 07:26:54 ID:h2vNUIt3
雲がすごい勢いで奔っていった。もう秋も終わりだ。目の前に広がる原野はただ荒涼としていた。どこまでも見
晴らしが良すぎて、ここで野戦をすればかえって膠着状態に陥りそうだ。もっともここまで敵を迎え入れるなど
あってはならない事だが。(だが備えは必要だ。)レオニードは背後にいる技師長に振り返って「どうだ。」と問い
かけた。「3、4日はかかると思います。」
「わかった。焦る事は無い。」そう答えて後は技師達に任せ、彼はその足で廃屋に入った。かつてはこの地方の地
主の館だったものだが、数年前に頻発した暴動の一つで略奪され今は打ち捨てられていた。近くの集落にも誰も
いない。だが幸い雨風がしのげる程度の部屋は残っており、技師達の作業スペースはここで十分まかなえそうだった。
荒れた廊下を通り半ば破れた扉を開いて、元はサロンらしき部屋に入ったレオニードはある物を見て足を止めた。
窓は破られ、壁紙は垂れ下がり、残された家具は破壊されるか打ち倒されている。どの部屋も似たり寄ったりだ
ったが、彼の足を止めさせたのは、中央に残されたグランドピアノだった。破れた窓から入る黄金色の光の筋が
埃の粒子を輝かせながらピアノに射していた。近づいてみると内部は無残に壊されていた。全て破壊するには大
きすぎると思われたのかもしれない。鍵盤にそっとふれてみると意外な事に音を出した。だがそれは鈍いくせに
ひどく狂った音階だった。
レオニードは一瞬、目の前にあの金色の髪がゆらいだような気がした。今回のこの長い任務は将来のドイツとの
対戦に備えたものだ。それがいつかはわからないが。2年後、5年後、10年後。その時は必ずやってくる。彼女
は敵国の内部にいながらにして故国との戦いを見せつけられるわけだ。だが。
(それが何だ。)自分の中でそう言う声がした。その捨て鉢な響きを厭い、レオニードは手の甲で鍵盤を払った。
無様で狂った不協和音が鳴った。
こんな所に来てまで。
彼は一瞬目を閉じ、妄念を振り払った。為すべき事、検討すべき事は文字通り山のようにある。(助かることに。)
またそんな皮肉な声を聞き、さすがに苦笑して彼は扉のほうに向き直った。その拍子に不用意に左手の先が鍵盤
にふれ、突然明瞭な音が鳴り響いた。たった一音の美しい音。それに不意打ちにされ、その残響が消えてもなお
レオニードは虚ろな部屋に立ち尽くしていた。
終
>>52から続く
第二章
(1)
アナスタシアはその一瞬の微妙な空気に自分が何かの核心に触れた気がしたが、
深追いせず話題をずらした。
「ユリウス、あなたはリュドミール様にピアノを教えておいでだったとか。」
「ええ・・・。そう大したことはできなかったけれど。」
「あら、そうでも無いのよ。リュドミールは私達上の兄姉と違って
なかなか才能があったらしいわ。もっとも、きっとそれは先生が良かったのね。」
「まあ・・・。私もぜひ一度あなたのピアノを聞かせていただきたいわ。」
ユリウスは複雑な気持ちでアナスタシアの言葉を社交辞令として受け流そうとしたが、
アナスタシアは早くも立ち上がってピアノの方へ歩いていった。
ユリウスは本当に固辞しようとしたが、折悪く執事が入ってくると何事か
ヴェーラにささやき、彼女は顔色を微妙に変えて
「アナスタシア、ごめんなさい、内向きの事で少しだけ外させていただくわ。
ユリウス申し訳ないけれどアナスタシアのお相手をお願いね。」
と言うと急いで執事とサロンを出て行った。
そういう展開では、ユリウスはピアノの傍らで待つアナスタシアのもとへ
行くしかなかった。
「何を弾きましょう?」
「そうね・・・。ショパンはどうかしら?」
「では を。」
アナスタシアは流れ出したユリウスの調べに耳を傾けた。
彼女が予想したよりもユリウスは「弾き手」だった。
(これは・・・。使えるわ。)と判断し、演奏するユリウスのすぐ傍らにそっと腰を下ろした。驚いて弾くのを止めかけたユリウスの耳もとに触れんばかりに唇を寄せ、アナスタシアはささやいた。彼女のつけている百合の香りがふわりとユリウスをつつんだ。
「お願い、弾き続けて。そして弾きながら私の話を聞いて頂戴。」
以前、私達がお会いした時にお話しした事をおぼえていらっしゃるかしら?
もちろん先だってでなく、5年前の馬車の中での事よ。
ユリウスはピアノを弾く手が震えそうになるのを必死でおさえた。
アナスタシアはその顔色を見つめながら言葉を継いだ。
あの時私は言ったわ。私達はアレクセイの力になれる日を待とうって。
でもあの後続いた出来事のせいで、答えてはいただけなかった。
今、もし同じ事をお尋ねしたらあなたは何て答えてくださるかしら?
今のあなたのアレクセイへのお気持ちは?
今度こそユリウスは指を止めてしまった。
アナスタシアは再びユリウスの耳もとでささやいた。「続けて。」
「僕の・・・気持ち。」指を鍵盤に走らせながら呆然とユリウスはつぶやいた。仲間が言う通り危険な賭けだったが、アナスタシアは自分の直感を信じた。
「アレクセイ・ミハイロフを脱走させる計画があるのよ。」
その言葉は澄明な稲妻となってユリウスを貫いた。
私はアレクセイにとってはなんでもない只の幼馴染だわ。
でもあなたもご存知のように私は彼を恋い慕っていた。
だからあの後、革命派に近づいたの。少しでも彼を理解したくって・・・。
そして今はその思想そのものに心から共鳴して、この国に革命を起こすことは
アレクセイに近づくための手段ではなく、私自身の人生を投じて悔いの無い、
生きる目的となった。
だからあなたにどうしてもアレクセイを救出する手助けをしていただきたいの。
彼はこの革命に、このロシアの未来に必要な人物なのよ。
お願い、あなたは革命の事もこの国の問題点も何もおわかりでないかもしれない、
でも彼を愛してらっしゃるのでしょう?革命のためでなくていいの、
愛のために協力してちょうだい。
これはユスーポフ家にいる、あなたにしかできない事なのよ。
(僕がクラウスのためにできることがある・・・!)
ユリウスはようやく濃い霧の中から抜け出て、突然視界が開ける思いだった。
冷たく清潔な空気を吸ったように頭が冴え、周囲の何もかもが明瞭に見え始めた。
ユリウスは鍵盤に烈しく指を走らせながら傍らのアナスタシアを見つめ、言った。
「ありがとう、アナスタシア。時間は過ぎてしまったけれど、いま、
やっと5年前の質問にお答えできます。僕の答えは「ええ」です。」
アナスタシアもユリウスを見つめ返し、うなずいた。
静かだが、固い決意のもとで二人はしばらく無言になり、
ユリウスは演奏を続けた。ちょうど曲が終わる頃、ヴェーラがサロンに戻ってきた。
「ごめんなさいね、アナスタシア。
このあたりも最近物騒になったようで、憲兵に強引に面会を求められてしまっていたの。
でもたいした事もなかったわ。」
「まあ、最近の彼らの権高さは本当に失礼ね。でもこちらはお気になさらないで。
いま、ちょうどユリウスのピアノを聴かせていただいてたの。彼女の演奏は素晴らしいわ。」
「私もいつもそう思ってたのだけど、何せユスーポフ家は芸術的趣向には欠けた血筋ですからね。
あなたがそう仰るのなら、私も自分の耳に自信がもてるわ。悪いわね、ユリウス、頼りない聴衆しかここにはいなくて。」
そこでアナスタシアは他意のなさを装って言った。
「ヴェーラ、唐突なお願いで申し訳ないのだけど、ユリウスさえ良ければ少し私のお手伝いをしていただきたけないかしら。」
思いもかけない言葉にヴェーラは驚いた。ユリウスも驚いた顔でアナスタシアを見た。
「実は来年の春から初めてのヨーロッパ公演旅行が決まっているの。
最初はフランス、成功すれば、他の国へ年をあらためてでも広げる予定でいるわ。
それであちらのピアニストと競演するのだけれど、こちらでの練習相手が急に病気になってしまって・・・。
あまり時間も無いのに、感覚や技術の合う方を探すのは大変で困っていたのよ。
人は沢山いるようで、なかなか難しいものね・・・。
それで今、ユリウスの演奏を聴かせていただいて、私のヴァイオリンとぜひ合わせてみたくって。
どうかしら、ユリウス、ヴェーラ。」
ヴェーラは驚いて少し黙っていたが、ユリウスの方を振り向いて言った。
「確かに急なお話だけど・・・。ユリウス、あなたの気持ちはどうなのかしら?」
「・・・僕なんかの腕前でもし役に立つのなら・・・。」
「ごめんなさい、こんな急な申し出なんてユリウスにもユスーポフ家にも本当に失礼だと思うのだけど・・・。
とにかく時間が無くって・・・。そうしていただけると私は本当に助かるの。」
ヴェーラはしばし黙考した。レオニードがいたら決して許さない話だろう。
だが、久し振りにユリウスの表情に生気が宿っているのを見ると、ヴェーラはそれを圧殺するのは忍びなかったし、
ただでさえ兄には腹を立てていた。この事が知れたら、軽はずみな決断と兄からは叱られるだろうが、
ヴェーラはユリウスが彼女らしさが取り戻すためには、わずかでも自由と自信が必要だと思った。
「そうね・・・。あなた達本人がそう望むのなら・・・。でも申し訳無いけれどあまり長くは・・・。
リュドミールが帰ってくるクリスマス休暇までというのはいかがかしら?兄もその頃には戻ってくる筈だわ。
それまでに、アナスタシア、ユリウスと練習しながら他の方を探していただくというわけにはいかない?
ごめんなさいね、兄は家の者の行動にはなかなか厳しいのよ。」
(つまりユスーポフ候が不在の間のみという事ね・・・)とアナスタシアは察しをつけた。
ユリウスは床に目を落としていた。
(まさか・・・いえ、今、そんな事を詮索するべきではないわ。
それにユスーポフ候に何か感づかれるような事があっては全てが水の泡なのだし欲張ってはいけない。)
「それでも、助かるわ。ユリウス、それであなたは良くって・・・?」
「ええ、あなたさえよければ。それで僕がお力になれれば。」
アナスタシアは早速明日自ら迎えに来ることを告げて帰っていった。
ヴェーラは「急な話だったけど・・・大丈夫?」とユリウスを気遣った。
言外に様々な意味が含まれていることを承知でユリウスは答えた。
「うん・・・。わかってる。クリコフスカヤ嬢にもユスーポフ家にも迷惑をかけないように気をつけるよ。
でも自分でも練習しなくてはいけないから、きっとしばらくはやかましくしてしまう。ごめんなさい。」
「いいのよ。どうせ私達しかいないのだから。」
早速鍵盤に指を走らせるユリウスに微笑んでヴェーラはサロンを去っていった。
この時点ではヴェーラはユリウスとアナスタシアの思惑に全く気づいておらず、
(兄上には帰ってこられてから事後報告という形にしよう・・・)と彼女は算段していた。
約束通り、アナスタシアは翌日ユリウスを迎えに来、練習場所でもある彼女の邸へ連れて行った。
ヴェーラは遅ればせながら、芸術家が集まるというアナスタシアの社交サロンにはユリウスを引き入れないよう、
さりげなく釘を刺した。
いまだに理由はわからないとはいえ皇帝陛下からの預かり者で、今は兄の愛人でもあるユリウスを
あまり人目に曝すわけにはいかなかった。
アナスタシアもヴェーラとは違う思惑でそれを承知した。芸術家仲間のふりをしていても彼らは全員革命家だ。
万が一露見した場合、ユリウスと彼らはお互いを知らないに越した事は無かった。
ユリウスは初めて訪れたアナスタシアの邸宅の音楽室で彼女と向かい合っていた。
彼女は夫の急死の後も実家には戻らず、夫の残した邸宅に住まい、音楽活動の拠点としていた。
行きの車の中では彼女達の会話は当たり障りのないものに終始していた。
アナスタシアの邸のかいわいは、ユリウスが初めて訪れる場所だったが、
もっともそれを言えばこの街に4年以上いてもユリウスはどこも知らないも同然で、
自分がいかに無為に過ごしてきたかを、あらためて思い知らされた。
アナスタシアは時間を無駄にせず、二人きりになった所で早々に口火を切った。
「ユリウス、手短に言うわね。
私達はここ数年、アレクセイ・ミハイロフの脱獄計画を進めていて、
それはかなりいいところまで来ているの。
シベリアの監獄と言ってもその厳しさはまちまちで中には随分警備のゆるいところもあって、
幸運にもそういった監獄に収容された囚人達は結構やすやすと脱獄・亡命しているのよ。
でもアレクセイは終身刑だけあって、警備も囚人の扱いも最も厳しい監獄に収監されているの。
そこは存命率もたいへん低いところで、私達はもっと早く彼を出したかったのだけれども、
それだけ失敗は許されない場所だから準備に時間がかかってしまった。
そしてもしかしたら、まだ計画のどこかには穴があるかもしれない。
だからあなたに再会できた事は私達にとってとても幸運な事だったわ。
なぜなら、あなたがレオニード・ユスーポフ候の邸にいるという事は、軍部の機密にとても近いところにいるという事なのよ。
例えば彼ほどの高位の軍人ともなれば、軍からの報告書(もちろん暗号化されたものだわ)が
彼の不在中も自邸に届けられている筈だわ。帝国的なお役所仕事ってところね。
私達はそれをぜひとも手に入れたいの。あなた心当たりはおありでない?」
「毎日、そんな書類が来ていたなんて気が付かなかった・・・。気をつけてみる。
・・・でも、アナスタシア、これはこの期に及んで言うことではないけれど。」
ユリウスは少しためらった。
「何?気になることがあれば言ってくださらないと。」
「今回の事でユスーポフ家の人々に危害が加えられるような事はないね?」
言った途端、ユリウスは自分がひどく愚かだと思った。アナスタシアは黙って相手を見つめた。
ユリウスは革命家ではない。アナスタシア達の活動の持つ呵責無さを知らないだろう。
それはアナスタシア自身いまだにたじろぎを覚える事もある程だった。
だがあまりにも赤裸々な事実を伝えてユリウスが翻意するのは避けねばならなかったし、
その一方で甘言で欺くような事もアナスタシアにはできなかった。
アナスタシアは言った。
「あなたは私達の活動がどのようなものかまだおわかりにはなっていないでしょうね。」
ユリウスはそれが質問への答えかと思い、自らの甘さを恥じた。だがアナスタシアは言葉を続けた。
「でもその件に関しては安心なさって。私も友人を傷つけるような事はしたくないわ。
あなたにご協力いただいて私達が得ようとしている情報は、直接的に誰かを襲うためのものではない。
言わば情報を繋ぎ合わせて物事の裏やつながりを見つけ、情勢を読み取って私達の作戦の危険や失敗を避けるために必要な、
いわば大局的なものなのよ。」
万が一今回の件が発覚すれば、ユスーポフ家は面目と名誉を失い恥辱にまみれるだろうが、その事には触れなかった。
「でもユリウス、これは言っておきたいわ。私達以外にも革命派には様々な勢力があるの。
そしてユスーポフ候はその多くから憎まれているでしょうね。必ずしもリストの上位にいるとは言えないけれど、
彼はいつ暗殺の憂き目にあってもおかしくは無いし、自分でもその事は承知だと思うわ。
だから、彼の身に何も起こらないと私が保証する事は意味が無いのよ。」
ユリウスはその言葉に少なからずショックを受けたが、堪えた。どのみち自分は既にクラウスを選び、
一歩を踏み出したのだ。レオニードの身を気遣うのはいわば二重の裏切り行為だ。
「わかったよ。僕の言った事は忘れて。」
アナスタシアはユリウスの表情を慎重に見つめて、言った。
「話を戻しましょう。先ほどの報告書のことだけれど、まずはどのような形で運び込まれているか、
そして保管されているかまでをとりあえずは探ってくださる?
怪しまれないように、決して表立って何かをなさらないで。」
ユリウスは頷いた。アナスタシアは微笑むと、「では音あわせに入りましょう。」と言った。
ユリウスは「え・・・」と驚いた顔をした。アナスタシアは、
「つまらぬ事から秘密は漏れるものよ。避けれる危険なら手間は惜しんではいけないわ。
それに本当にあなたとは音を合わせてみたかったの。」と言うと、傍らのケースからストラディヴァリを取り出した。
ユリウスは息が止まる思いで、顔色を変えた。
「アナスタシア・・・。これは・・・。」
アナスタシアもユリウスの動揺から察し、優しく言った。
「・・・おわかりになるのね、これがあの人の縁のものという事が。」
「ロシアに来て暴動に巻き込まれた時・・・このストラディヴァリとは別れ別れになってしまった・・・。
もう二度と目にする事はあきらめていたのだけれど・・・。よかった・・・。
クラウスを愛する人のところにいってたんだね・・・。」
その言葉にはアナスタシアも驚いた。
「そう・・・。これをロシアに持ち帰ってくださったのはあなただったの・・・。
なんて・・・なんて不思議なんでしょう・・・。」
(いけない・・・ここで泣いては)と思いつつ、ユリウスは涙を抑える事ができなかった。
(どこかであきらめてた・・・。奇跡なんて起こらないって。でもこうやって・・・!
あきらめちゃいけない。僕はもう、決してあきらめまい。
この先何が起ころうと、クラウスを愛し続ける事だけは僕はもう何があっても手放さない・・・!)
アナスタシアはそんなユリウスを見て、先ほどおぼえた危惧は杞憂だったと知った。
彼女は命に代えても任務を遂行するだろう。
帰路は一人で車で送られながら、ユリウスは決意を固めていた。
彼女の中でこの数年のユスーポフ家での係累は既に無に等しくなっていた。これからは戦いが始まる。
クラウスのために僕は悪魔にでもなるだろう。思えばもともと魂など既に売り渡したも同然の自分ではなかったか。
何もためらわせる物は無い筈だった。
車が静かにユスーポフ家の門内に滑り込んだ時、ユリウスはこの豪壮な邸宅に初めて訪れるような身震いと戦慄を感じた。
(2)
一方でヴェーラにもこの頃思いがけない変化が訪れようとしていた。
彼女がその画廊に入ったのは全くの偶然だった。ユリウスはアナスタシアのもとへ行っており、ヴェーラは護
衛を伴って大叔母の誕生祝の品を注文に宝飾店街にでかけた。久しぶりに一人で少しぶらついてみたくなり静か
なそのかいわいを歩いているうちに雨が降られ、急いでたまたま開いていた画廊に駆け込んだのだ。他の画廊と
は違う、窓が大きくとられて装飾も少ない簡素な内装に一瞬とまどったが、壁にかかっている絵にはさらに驚か
された。
荒々しい原色の静物画らしきもの、古典的な遠近感や詩情が全く感じられない奇妙な(としか思えない)風景
画・・・。ひどくゆがんだ人物像。まるで幼い子供が書きなぐったといってもいいような代物の数々だった。だ
が、ヴェーラはなぜか引き寄せられるように歩み寄り、それらの一つ一つにじっと眺めいってしまった。
「美しいでしょう?」
振り返るとあまり背の高くない、人の良さそうな中年男が髭に埋もれた顔でにこにこと立っていた。
「あ・・・、ごめんなさい、予約もなしに失礼を。正直に申し上げて、わたくし雨宿りに入らせていただいたの
です。」と一緒に入ったものの所在なげにしている護衛も指し示して、ヴェーラは微笑んだ。「いえいえもちろん
結構ですとも。この雨のおかげで、美しいマドモアゼルがこの絵と出会えたのですから、私にとっては恵みの雨
です。」
「あなたがこの画廊のご主人?」
「オーナーです。販売や管理は別の者がおります。でもこの通り、入りびたり気味なので、私はむしろ商売の邪
魔ですな。どうです、あなたはこのような絵を見られたことはおありですか?」
「我が家で先祖がせっせと集めたものとはだいぶ違いますわね。」とヴェーラもこの男が(自分よりは少々年配だ
ったが、少年のような純真さを立ち上らせて憎めない感じだった。)きらきらと目を輝かせて絵を指し示すのにつ
られて、悪気無く、笑いながら正直に答えた。「なんと言ったらいいのかしら・・・、ええ、こんなものを見るの
は初めてですわ。以前見た印象派とかいう画風のものともすいぶん違いますし・・・。これも絵・・・で売り物
なのですか?」
「ええ、そうですとも!というより、私はすっかりこの画家達のとりこで、ほれこんでしまっているのです。彼
らのアトリエがあるパリに行ってはせっせと買い集めるものですから、いまや屋敷の壁もすっかり占領されて、
もう掛ける場所がなくなってしまった。だからこのように画廊を開き、入りきらないものをここで掛けているの
ですね。」
「まあ・・・」とヴェーラが少々あっけにとられているところへ構わず、その男は続けた。
「というのは半分は嘘で、私はこの絵を、この新しい芸術をロシアの人々に、沢山の人々に見て欲しいのです。
ことに芸術家をめざす若者にね。いま、どんなにものすごい変革が芸術の世界でも起ころうとしているかを、ロ
シアの心ある若者達にこの天才達の作品を見て、知って、感じて、ゆさぶられてほしいのです。私は正直、本当
は売る気などほとんど無いのですよ。ただ、屋敷に招ける人はどうしても限られてしまいますからね。美術館の
アカデミーは頭が固くて、この新しさを理解できない。だが、こうやって街中の画廊なら、誰もが気軽に見る事
ができるでしょう?そう、今日のあなたのように、雨のおかげで美しいマドモアゼルに予期せぬ出会いが起きた
ように。」
「ではあなたは、これらが本当に新しい芸術だと確信してらっしゃるのね?」ヴェーラは彼女としたことが、男
の熱情に圧倒されながらも、正直に尋ねた。
「もちろんですとも!あなたも一目見て、おわかりになったでしょう?いやいや否定されても駄目ですよ。私は、
同族をすぐかぎ当てるんです。絵をごらんになった姿を見ただけで、私にはわかるんですよ。魅入られる人と、
そうでない人が。」
ヴェーラは降参して、笑った。
「・・・そう・・・なのかしら?魅入られたのかしら?確かに目を離せませんでした。でも今は絵よりもあなた
の演説に圧倒されてますわ。」
「おお、これは失礼しました。ついつい、このフォービズムの作家達の事となると私は」
「フォービズム?」
「最初からご説明しますよ。どうぞおかけになってください。ああ、私としたことが、いまお茶をご用意します
から。」
急に降り出したにも関わらず雨はなかなか上がらず、ヴェーラはそれを自分への言い訳に、男の講義と解説を
しごく楽しく聞いていた。護衛は退屈な画廊で長滞在と諦め、画廊のオーナーも危険性は無さそうだったので急
いで車を停めた宝飾店まで戻り画廊まで車を動かさせた。話しているうちに、お互いの身元も教えあった。ヴェ
ーラは簡素にしていても見るからに上流階級の令嬢だったので男もある程度の予想はしていたが、ユスーポフ家
と聞いて、さすがに少し驚きの顔を見せた。男の名はシチューキン、繊維業で財をなした一家でヴェーラもその
名は知っているほどロシア有数の金持ちだったが、階級が違うので二人の世界はいままで全く交わっていなかっ
た。
「おお・・・。ユスーポフ家のご令嬢をこんなにおひきとめしてしまったとは。」と、シチューキンは恐縮してみ
せたが、彼にとってはヴェーラが先ほどからマティスの小さな静物画のほうをちらちら気にしているほうが問題
事だった。
人がある芸術に惹かれる時、その人の人生の問題事を関連して考えて良いものだろうか?だがヴェーラが家族
の解決のつきそうにない問題に頭を悩ませていたのは確かで、そんな中、シチューキンがさんざん迷った挙句「貸
して」くれたマティスの一見単純な形と色の小さな静物画は、ヴェーラの心をひどく慰めてくれたのだった。彼
はその代わり、ぜひ今度は屋敷のほうに来て欲しいと誘った、いや懇願した。こことは比べ物にならないコレク
ションが置いてある。ここにはゴーギャンもピカソも置いてない。セザンヌも大きすぎて持ってこれなかった。
そうだ、ここには大きすぎたといえば、なんといってもマティスの最高傑作(にきっとなるだろう)をあなたにお
見せしないわけにはいかない・・・!
この熱心な誘いは性的にも、社会的にも、あらゆる意味で全く下心が無かった。あえて言えば宗教的な熱情に近
く、一種の布教活動の趣さえあった。ヴェーラは思い出しくすりと笑った。モスクワから帰って以来、初めての
純粋に楽しい時間をあの男と「フォーヴィズム」の画家達は与えてくれた。感謝しなくてはと、ヴェーラは思い、
もう一度机上に飾ったマティスを見つめた。これを返さないで、正式に自分のものにするいい方法が何か無いか
しら?そのためにもとりあえずシチューキンの招待に応じてみようとヴェーラは決意した。
そして、ヴェーラとシチューキンの親交はすぐに深まった。シチューキンもヴェーラを最初は同好の士として、
次には女性としてひどく気に入り、彼の屋敷を訪れた際は次の訪問を定めないとヴェーラを帰そうとしなかった。
シチューキンは今までヴェーラが知っているどんな男とも違っていた。厳粛な厳しさを持った兄や父、宮廷の
軽佻な伊達男達、あんなにも自分を惹きつけたエフレムの思いつめたような情熱(彼の事を思いだすのはヴェーラ
には本当に辛い事だった。)が彼女の知っている男達だった。シチューキンの体面や打算に左右されない好意の純
粋さや、絵画に向ける情熱はヴェーラには新鮮な驚きだった。ことに自宅をついに美術館として開放した事には
驚かされた。彼は自分が集めた美を独占する事を望まず、それらがロシアの若い芸術家達の目を開かせ、さらに
新しい創造につながる事を望んだ。それも決して自分の功名のためではなく、彼はただ自分の持っている素晴ら
しいものをそれを必要とする人間と分かち合う事を望んでいただけだった。そんな男は今まで彼女の周囲にはい
なかった。
そして、何よりも彼は彼女を笑わせてくれた。彼と居ると彼女は自分の中に今まである事すら知らなかった自由
さを感じた。警戒心の強いヴェーラとしては大変珍しい事だったが、まず最初の短い間に、彼らは心を許した親
しい友人となった。シチューキンは絵画だけでなく社会の様々なことに興味が深く、二人には議論は楽しいコミ
ュニケーションだった。しかしある日の会話はいつもと異なる感興をヴェーラにもたらした。もう秋だったがそ
の日は珍しく暑く、今年最後の水遊びとヴェーラはシチューキンの屋敷の池で、彼が漕ぐボートに乗っていた。
「ではあなたは共産主義に賛成なのね?」
「うん、彼らは過激なようだけど言ってることにはもっともな事が多いよ。僕も繊維業を営んでる家の者として
は学ばされることが多くて耳が痛い。労働者の権利はもっと保障されてしかるべきだ。君はロシアの多くの工場
や炭鉱で、10歳にも満たない子供が毎日14時間以上も働かされて、しかも給料のほとんどをピンハネされてる
事実を知ってるかい?彼らの多くは体を壊して職を失い、若いうちに死んでいってしまうんだ。どの階級に生ま
れたかというだけで一部の者が富と栄誉を独占するなんておかしいよ。どこの国だって問題はあるけれど、ロシ
ア特有の旧弊な制度の数々がどんなに他のヨーロッパから遅れをとらせているか。ロシア正教なんて迷信的とい
っていいくらいだ。いい例があのラスプーチンじゃないか。本当は彼に治癒力があるかどうかなんてどうでもい
い事なんだ。問題は我々ロシア人が彼の力を過大評価して、宮廷で彼が振るっているとされる力を神秘の尾ひれ
をつけて、実態より大きくしてしまう事なんだよ。それに比べれば僕は共産主義者、ことにボリシェビキの主張
には数学的な明快ささえ覚えてしまうね。」
ヴェーラはシチューキンの言いたい事もわかったが、一方で彼は共産主義者の主張の単純さが持つ呵責の無さ
を知らないのだと思った。だいたい彼らは私有財産を否定している。彼らの革命が成功すれば、抹殺されるの
はヴェーラたち貴族だけでなく、大ブルジョアも同じ筈だが、シチューキンは人が良すぎてそんな事もわから
ないのだろうか。
「そうね・・・。共産主義者が宗教を迷信というのは彼らの勝手かもしれないわ。人は無神論者になる自由は確
かにあるかもしれない。でも他の者にも神を信じるなというのは、結局人に神を信じる自由の選択を許さないと
いう意味で、彼らが忌み嫌う旧弊な教会や制度と全く同じこと、あるいはより悪辣なのではないの?」と反論し
ながら、ヴェーラは初めてこの年上の男を、シチューキンを守ってやりたいと思った。きっと、革命が起ころう
と起こるまいと、何もかもが行き詰ったロシアには間もなく大変革の時代が訪れるだろう。その時、この純粋で
優しい人には、私がついていてあげなくては。
その気持ちはかつてエフレムに感じた若い、激しいときめきとは違ったが、ヴェーラの中に根をおろした確か
な愛情だった。ヴェーラは自分の人生がようやく次の章へ移ろうとしている事を知った。シチューキンも彼女の
目に表れた愛情に気づき、オールを漕ぐ手を止めると彼女に幸福そうに微笑みかけた。ボリシェビキも無神論も
彼らにはもうどうでもよくなった。
3)
ヴェーラは露知らぬ事だったが、そうやって彼女も外出勝ちになることはユリウス達にとって実に好都合だっ
た。最初の会合の後、ヴェーラの不在時を狙って書斎でユリウスは手がかりを探そうとしたが、レオニードがそ
うそう情報を放置している筈もなかった。とりあえず彼が使っている大きな机に向かい、落胆のため息をついた。
いつもの事だが見事に整頓された書斎、彼が普段使っているマホガニーの豪奢な机でも置かれているのは文鎮ぐ
らいで、予想はしていたが引き出しには全て鍵がかかっていた。長い不在とわかっているのだから当然の事だっ
た。ユリウスは背後の本棚に目をやり、銀製の写真立てが並んでいる中、数枚が伏せられているのをふと不審に
思い、手に取った。
それらはレオニードとアデールの婚礼の際のものだった。長く裾をひく豪奢で美しい花嫁衣装をまとったアデ
ールと礼装の軍服のレオニード。彼らは気品に満ちて若く美しく、似合いの一対だった。この屋敷の庭で撮った
1枚には盛装した祝賀の客の中央にニコライ2世の姿もある。姪の披露宴のため皇帝まで来賓し、その日この屋
敷ではさぞ華やかな宴が催された事だったろう。
アデールが姿を現さなくなってから既に久しい。ユリウスは知らない事だったがそもそも彼女が記憶を失う発
端になったのが、アデールがラスプーチンの手に彼女を引き渡した事だった。彼女なりに夫を案じての行動だっ
たが、皮肉な事にこれが結局夫婦の亀裂を決定的なものにした。その独断でレオニードから見限られ、引導を渡
された形で、アデールは不本意にも別居に踏み切らざるを得なくなった。
ユリウスはそんな経緯は知らなかったが、結婚が将来破綻する事をまだ知らない2人の写真は彼女に複雑な思
いを抱かせた。本来ならこの屋敷は自分が初めて来た頃のように、様々な貴族達が訪れる華やかなサロンにアデ
ールは女主人として君臨し、社交面で夫の足りない面を助けていた筈なのだ。ユリウスはまさか自分が夫婦の障
害になっているとは思った事もなかった。しかし、これらの華やかな写真はレオニードには正式な夫人がいる事
を久しぶりに思い出させ、そして、今の自分の立場も彼女につきつけた。(母さんはどういう気持ちだったんだろ
う…)と、長居して怪しまれないよう早々に居室に帰ったユリウスは久しぶりに母のことを思い出していた。だが
今の自分の状況を鑑みて母の気持ちを推し量るのも辛く、ユリウスはサロンのピアノに向かった。アナスタシア
は律儀にレッスンも続けたがり、その面の準備もしておかねばならなかった。
だが程なく、ユリウスはレオニードあてに送られてくる書類にやっと気づく事ができた。意識するとは不思議
なもので、ここ数年見ていた筈なのに、今までは全くその存在に気づいていなかった。それは早朝に、軍部から
の使いの手で屋敷に届けられるのだった。受け取るのはまだ邸に入って間もない年若い従僕だった。以前の係の
ものは、レオニードの視察に伴われていた。それを聞いたアナスタシアは声を躍らせた。
「それは幸運なことね。古参の者ではあなたが近づくと警戒されてしまうでしょうから・・・。それで保管場所
はわかったの?」
「それが少し不思議なんだ。彼は確かに書斎に入って行くんだけど、その後の書斎には全く変わった様子がない。
机もキャビネットも引き出しはたいした容量は無い筈なんだ。あれだけの頻度でくる書類なら結構な嵩になる筈
なのに、あの整理された書斎のどこにそれがあるのかがわからない。だから思ったのが、笑わないで聞いてほし
いんだけど、もしかしたらあの書斎には隠し扉か隠し棚があるのかもしれない。」
「ユリウス、それは笑い話にはならないわ。私達ロシア人は秘密が大好きなの。あなたもユスーポフ家でファベ
ルジュの一つくらい贈られたのでなくって?様々な細工ものの精緻さはそんな秘密好きからも来ているのよ。あ
なたの言うように十中八九、ユスーポフ家の書斎には隠し扉か、隠し棚がある筈だわ。だって我が家にもあるく
らいですもの。」
ユリウスはぽかんとしてアナスタシアを見た。(ロシア人って・・・。)
「よかったらご覧になる?参考になるかもしれないわ。」アナスタシアはにっこり微笑んで立ち上がった。
従僕は誰もいないと思った書斎に彼女の姿を見て驚いた。この早朝の、まだ暖房も入らない寒い書斎にはいつも
彼が最初に入るのが決まりだった。棚から1冊本を取り出しながらその美しい女性も少し驚いた様子で彼を見た。
年若い従僕はすっかりどぎまぎしてしまった。新入りの彼にとっては侯はいわば雲の上の存在であり、その愛人
となるとさらに(興味はあっても)、接し方の難しい相手だった。彼女はなぜか男装していたがその若さと美しさ
で、邸の使用人達の間では何かと噂の種だった。何やら複雑な事情でここ数年この邸にいるらしい。彼女が候の
ものになるかどうかは、気の毒な事に密かに賭けの対象にすらなっていた。ある朝、動かぬ証拠品として血と精
液にまみれた彼女の寝巻きが喚声の中、召使部屋に掲げられて、大穴狙いをした少数の人間は大負けをしたのだ
った。そして彼女に向けられる視線は[堕落した女]への、より好奇心といささかの軽蔑を増したものになっていた。
彼はそんな事を思い出しながらとりあえず、教えられた作法通り、彼女の爪先あたりを見て「おはようござい
ます。」と挨拶した。相手は「おはよう。早いね。」と返事をし、彼はその気さくに驚いた。そういえば侍女達
も辛口ではあったが、なぜかこの女性には点が甘かった。
彼女は彼が抱えた書類に目をやると、「それはレオニードの仕事のもの?僕にも手伝わせてくれる?」と笑顔で尋
ねてきた。
従僕は返事をためらった。彼はこの書類の中身については全く知らされていなかった。ただ重要なものだから
教えられた手順を絶対に守るようにと厳命されていただけだった。決まりきった退屈な作業に年若い彼は少々飽
きていた。本来それは彼の叔父である古参の従僕の仕事で、彼が候の視察にともなわれていなければ、新入りな
どが手を触れられることなど許されない筈だった。叔父がなんとか、甥を職場のいい位置に押し込もうとして、執事に頼み込んだのだ。
だが候の命令は絶対だと聞かされていた分、その愛人の願いとなると無下に断るのもどうかと思われた。自分
に縁などないと思っていた存在に間近に話しかけられて、彼はどぎまぎするのを抑えられなかった。そして彼女
はにっこりと微笑むとさらに一歩近づき、軽く彼の手首に触れた。「僕・・・あなたを困らせているのかな・・・。
ええと、あなたのお名前は・・・。」
「ヨ・・・ヨシフです。」「ヨシフ・・・。まだ入って間もない人だよね?僕の名前はユリウス。」「存じ上げてお
ります。」「そう。ありがとう。」そして再びにっこりしたかと思うとまぶたを臥せて言った。
「じゃあ知ってるよね・・・。僕は・・・とても寂しいんだ、ユスーポフ候がいなくって・・・。」従僕の胸の高
まりは最高潮に達した。
「せめて、何か彼に関わることで手伝えれば・・・少しは気がまぎれるかも・・・。」と言い、彼女は奇妙に熱い
まなざしで彼が持っている書類をじっと見つめた。
「とんでもありません・・・!あなたにお手伝いなどさせたら、私が執事殿に怒られます。どうぞご勘弁くださ
い。」ヨシフは慌てて言った。彼女はがっかりした様子で
「そうか・・・。そうだよね、済まなかったね、無理を言って・・・。」とうつむいた。ヨシフは何だか自分が悪
い事をしているような気になり、「お手伝いしていただくわけにはいきませんが、良かったらご覧になりますか?」
彼女は顔を上げると不思議そうに、「見る・・・って?」と言った。ヨシフは「こちらにどうぞ」と言ってユリウ
スを書斎の奥に導くと、古い書籍の詰まった本棚から厚い辞書を2冊抜き、壁の羽目板をそっとずらした。そし
て現れた鉄製の取っ手を引くと、右手奥の角側、本棚と本棚が人ひとり通れるほどあいていた壁面が動き、その
奥に小部屋が現れた。
隙間を隠すかのようにそこに置かれていた、花瓶で飾られた小テーブルをどけると「どうぞ」とユリウスを案内
した。そこは天井まで棚が作られた小さな部屋で、人が3〜4人も入れば一杯になってしまいそうだった。棚は
全て書類で整然と埋め尽くされ、空いた壁面には地図が貼ってあった。「こんな仕組みがこの書斎にあったなん
て・・・。これは開けるのに鍵とか番号とかは無いのかい?」とユリウスはつぶやいた。「金庫ではございません
からね。」ヨシフは定められた作業をしながら答えた。
彼女の目は異様なまでの真剣さででヨシフを見つめていた。「すごいね・・・。これを全部君が?」「私は指示通
りに並べるだけでございます。」ヨシフは彼女の目の輝きにむしろ居心地の悪さを感じ始め、急いで今日の分の作
業を終えると「さ、もうよろしいですか。」とユリウスを促して室外へ出ると、先ほどの手順を逆に繰り返した。
暗かった隠し部屋から書斎に戻るとヨシフは急に不安になり、急ぎ「ユリウス様、ここをお見せしたことは、ど
うぞ誰にも・・・。」とささやいた。何かに気をとられていた様子のユリウスは、振り向くと、「ああ・・・もち
ろんだよ、ヨシフ。ありがとう。君を困らせるような事はしないよ。」と微笑んだ。「本当にありがとう。」
アナスタシアに指示された誘導方法で若い従僕は驚くほどあっさりと隠し部屋を開けてしまい、(女の武器なん
て、僕にもあったのか。)とユリウスは呆れていた。
ユリウスからの情報をアナスタシアはミハイルに伝えた。「報告書のありかはわかったわ。でも全て、一通づつ封
印されているらしいの。開封されたものはとにかく、新しいものはやっかいね。それこそ私達が見たいものなの
だけど。」「そうだな・・・。暗号の解読もあるからな・・・。封蝋なら、偽造という手もある。まずはやはり、
少し持ち出してもらわねば仕方ないな。それはできそうなのか?」「大丈夫だと思うわ。ユスーポフ候も不在だし、
ユリウスが書斎に出入りするのは普段の事らしいから。」
実はこの頃はまだ、ミハイルとアナスタシアの間ではユリウスの処遇についての意見は割れていた。ミハイルは、
いっそユリウスはスパイとしてユスーポフ家に残してはどうかと提案していた。だがアナスタシアはユリウスを
今の状況に残す気は全く無く、ユリウスの情報とアレクセイに会わせる事は引き換えであることを、脱獄させた
アレクセイを迎えに行くのに女連れでは足手まといになりかねないと渋っていたミハイルに受け入れさせた。そ
して、党には今回のユスーポフ家の情報提供者とアレクセイを救出に向かうメンバーに含まれる女性が同一人物
である事は絶対に報告させなかった。彼女がユスーポフ家にいたなど知れればボリシェビキの中では将来、逆に
やっかいな事になりかねない事をユリウスとレオニードの関係に察しをつけたアナスタシアは危惧していた。
ユリウスがアナスタシアに求められた任務を淡々と勤め上げるうちに、秋は深まっていった。書類はそう嵩が
あるものではなかったが、一度にそう多くは持ち出せる筈もなく、またあまり近々のものを動かすとヨシフに気
づかれる可能性があったので、どのぐらい抜くかというのはかなり神経を使う作業だった。写しをとられた報告
書はミハイル達が偽造させた封蝋でまた封印され、ユリウスは細心の注意を払ってそれを元の位置に戻した。
単純ではあっても、決して間違えてはならない、緊張が強いられる作業だった。だがその間は彼女は何も考えず
に済んでおり、クラウスの役に立っているという無邪気な満足感に浸っていられた。
そして気が付くと、もう初雪の舞う季節が訪れてきていた。
その朝、ユリウスは朝食の席で、ヴェーラに告げられた。12月中旬にはリュドミールが、その二週後、ちょうど
聖夜にレオニードが戻ってくると。
「翌日は宮廷の参賀に揃って出席せねばならぬのに、お兄様も慌ただしい事だわ。」
とっさにどう答えてよいかわからず、「そう・・・。」とユリウスは無表情に言った。ヴェーラは深追いせず、「き
っとリュドミールを見たら驚くわよ。私がモスクワを発つ時でも、もう随分変わってたわ。不思議なくらい背も
伸びてしまって。夜中寝てると、骨が伸びるのが痛くってわかるんですって。本当かしらね?」と淡々としゃべ
った。ユリウスは微笑んで聞いたが、リュドミールに会うのも懐かしさと裏切りの痛みが交じり合うのだろうか
と感じた。
アナスタシアからの迎えを私室で待ちながら、レオニードの帰還の日がわかった以上、ユリウスは久し振りに
彼の事を考えざるを得なかった。クリスマスイブに帰還なら、あの時彼が言った通りあれからちょうど5ヶ月だ。
気まずい別れ方だった。誇り高い彼の事、いっそあれきり自分の事を疎んじて遠ざけてはくれないだろうか。そ
れこそ、父が母に飽きて捨てたように。だがそれはまだありえない事は、自分の体がよく知っていた。この1年、
あれだけ臥所を共にしていても、彼らの体はまだ新たな発見を重ねていた。その生々しい記憶に絶望してユリウ
スは思わず手で顔を覆った。うぬぼれでは無く、帰って来れば彼は必ず自分を抱くだろう。たとえすぐにではな
くとも。
では、抱かれながら彼を欺き通すなど、本当に自分にできるのだろうか?それではまるで娼婦でないか。いや、
クラウスのためなら、再び悪魔になってでもと自分は誓ったのだ。これは戦いだ。それを思えばどんな事でも耐
えられる筈だ。こちらの弱さを逆手にとってあの傲慢な男を騙してやれ。それは存外簡単な事なのではないか?
ユリウスはそう自らをけしかけようとしたが、自分がそんなに強くてしたたかな人間でない事はよくわかっていた。
そして彼が求めているのは体だけではないという事も本当はよく知っていた。だがそれはもう、ユリウスからは
決して与えられないものだった。
そして思った。この事を知れば、レオニードは自分を殺すかもしれない。シベリア流刑の囚人の脱走をもくろ
み、軍の情報を横流ししていたなど、銃殺に処されるに充分だろう。自分達の関係の如何を問わず、彼が自分の
処置をためらうとはとても思えなかった。しかし、それはいっそ光明のような気すらした。
(それならそれでいい・・・。レオニードからは裏切り行為と言われてもしかたない。それに僕自身、もうクラ
ウスに会える体ではなくなっているのだ。最後にクラウスの役に立つことができるなら、今までの日々が続くよ
りも、殺されるか、官憲に引き渡されてしまえばむしろいっそ楽になるというものだ。ああ、でもその前にせめ
てもう一度だけ、言葉を交わせなくてもいい、たとえ遠くからでもいい、クラウスの姿だけでも、一目でも見る
ことができたら・・・!)
彼女の物思いを破るように、侍女がアナスタシアからの迎えが着いた事を知らせにきた。ふりむいて「ありが
とう。」と言ったユリウスの凄絶な美しさに侍女は一瞬息を呑んだ。
「ではユスーポフ候の帰還までとヴェーラに約束させられてしまった以上、あともう少ししかないのね・・・。
もう少し時間があればいいのだけれど、欲張っては危険かもしれない・・・。」「・・・。」ユリウスは黙って窓の
外を見た。空は冬の濃い雪雲に覆われていた。次に何を聞かれるか、ユリウスはわかるような気がした。
「ユリウス・・・。こんな事、聞きたくは無いのだけれど・・・。ユスーポフ候とあなたは・・・。」
「ごめんなさい、アナスタシア。答えられない。その事は聞かないで。」ユリウスは外を見たまま硬い表情で答えた。
「・・・そう。・・・ごめんなさい。・・・いずれにせよ、ユスーポフ候に気づかれないうちに、できるだけ早く
あなたをあそこから出さないと。アレクセイが脱獄した後では、あなたは必ず公的にも監視対象になるでしょう。
それから脱走を図るのでは全てが露呈する危険を冒すことになるわ。その前にあなたにはズボフスキー達と共に
シベリアに行ってもらわねばいけないけれど、タイミングが難しいわね。あまり早すぎてもユスーポフ候が気づ
けば、監獄の方に手が回ってしまうかもしれない・・・。」
ユリウスは振り向き、首を振った。
「アナスタシア・・・。僕はもう彼には会えない。・・・わかるでしょう?」
二人は女が知る悲しみの内に静かに見つめあった。アナスタシアは言った。
「ユリウス・・・あともう一つ確かめたい事があったの。あなたユスーポフ候がアレクセイの助命嘆願をした事
はご存知だった?アレクセイには本来死刑判決が下されていたのよ。」
「え・・・」ユリウスは驚愕した。
「やっぱりご存じなかったのね・・・。」「レオニードが、なぜ・・・。」
アナスタシアはそれには答えず、ユリウスをその黒目がちな瞳で見つめた。
「人間って不思議ね・・・。私、夫を愛してはいなかったの。そしてあの告白で、人としての尊敬と信頼も無く
してしまった。私達の結婚生活は欺瞞でしかないと思っていたわ。でも、彼が死んだ時には自分の一部も一緒に
失われたような気がしたの。彼は、彼との結婚は確かに私の人生のある部分を形作っていたのだわ。」
「アナスタシア・・・。」
「でも、私が常に最も大事にしてきたもの、私の真実はそれとはまるで異なるもので、何があっても変わらない
し失われない。それはあなたも同じ筈よ。ダイアモンドはインクに漬けても染まるものではないでしょう?」
「・・・。」
「だからユリウス、つまらない事は言わないで。あなたの真実は全く変わってなどいないのだから。あなたを受け
入れるかどうかはあなたでなくアレクセイが決めること、そしてその後の事は二人の問題になるでしょう。ユリウス、
あなたは生きる事を恐れているだけだわ。
それにこれが成功したら、アレクセイには伴侶が必要だわ。おそらく心身ともに疲弊しきっている筈だから、誰か
傍にいて支える人、彼が心から信用できる人間が必要なのよ。それができるのは、あなた以外に一体誰がいるの?」
「・・・アナスタシア・・・。」
ユリウスは確かめずにいられなかった。
「でも・・・あなたは・・・それでいいの?今回のことはあなたが事を進めているようなものなのでは?」
「いいのよ、ユリウス。あれは幼い初恋だったわ。革命を目指す者として、私は彼を自由にすることができたら
それで満足なの。それに革命家同志の夫婦なんてぞっとしないわ。」とアナスタシアは微笑んだ。
「どうも革命家といえど、革命家の多くは妻の理解は欲しそうだけど、対等な戦士は家にいらなさそうなのよ。
そこだけはブルジョア的価値観を否定しないようよ。女権論者のヴェーラが聞いたらきっとがっかりするわね。
その年は雪が多かった。アレクセイ達の渡る危ない橋にとってそれは吉なのか凶なのか、アナスタシアにはわ
からなかった。彼女はアレクセイの脱獄が決行される時期にはフランスに渡っている筈だった。遠く離れた地で
同志の報告を待つしかない。もしもこの計画が成功しなかったら、自分はどんなにショックを受けるだろう。
一体その時は演奏家としての務めを恙が無く終えられるだろうか?いや、聴衆への責任は果たさねば、それが革
命家としての責務にもつながるのだと、アナスタシアが自らへはっぱをかけなおしていると、ミハイルが興奮し
た様子で入ってきた。
「アナスタシア、危ないところだった!俺はユリウスって娘のことを何と言ったっけ?ユスーポフ家に残せ?、
いや、悪かった、彼女は100万回解放される価値があるぜ!」「ミハイル?」「俺達が利用しようとしていたルー
トに大掛かりな手入れが入る計画があることが、例の報告書の解読でわかったんだ!本当に危ないところだった。
あれを知らなきゃ俺とズボフスキーはアレクセイを脱獄させるどころか、その遥か手前で網にかかるところだっ
た。命拾いとはこの事だな。アナスタシア、あんな事を言って悪かった、俺は命に代えても彼女をアレクセイに
会わせるぞ。」ミハイルはアナスタシアの白い手を力をこめて握っり誓った。
(4)
まず、予定通りリュドミールが帰還してきた。ユリウスと彼が会うのはまさに1年ぶり以上だった。昨年のク
リスマス休暇は寄宿舎に留まり、イースター休暇は級友のクリミアの家に招待され、夏の休暇は優秀な成績の副
賞としてフランスの陸軍学校へ派遣され・・・と彼はまるまる1年以上、ペテルスブルグから遠ざかっていた。
リュドミールの方からは忙しいだろうにひんぱんに手紙が届いていたが、ユリウスは本当のことが書けない辛さ
で、次第に返事は途絶えがちになっていた。そして今、彼らは久し振りに向かい合っていた。リュドミールは照
れくささから、ユリウスは何とも言えない後ろめたさから、その再会は予想されたよりもぎごちないものになっ
ていた。
何より、ユリウスはリュドミールの成長振りに驚かされた。単に背が伸びただけではなく、彼はもう彼女の知
っていた甘えん坊の子供ではなく、少年期から青年期にかけての年齢独特の輝きをまとい始めていた。リュドミ
ールもユリウスが記憶よりも陰影にとんだ美しさの女性だった事に驚き、(僕が子供だったからわからなかったの
かな?)と内心思った。
「やあ。」と制帽をとり、リュドミールは微笑んだ。そしてユリウスを軽く抱擁した。ユリウスは彼がもう自分
とさほど変わらないほど背が伸びていることに驚きながら、抱擁を返した。だが身を放した後、リュドミールは
腕を一杯に伸ばして彼女の両肩をつかんでにっこりし、その笑顔は「甘えん坊」のままだった。しばらく会えな
いでいたが、ユリウスはやはり彼にとって大事な友達、いや、家族の一人だった。彼女の待ってないペテルスブ
ルグの我が家など、彼には想像がつかなかった。変わらない笑顔につられるように、ユリウスもふと気がゆるんだ。
「リュドミール・・・すっかり見違えちゃった。でも笑うと変わらないね。」
「びっくりした?今じゃ僕は同期生の中ではけっこう背が高いほうなんだ。入学した時は逆だったのにね。ユリ
ウスは少し痩せた?」「う・・・ん、どうかな?それより本当に元気だった?演習の時の怪我って本当に良くなっ
たの?」「ああ、あんなの、すっかり忘れてたよ。それより、二人におみやげがあるんだ。」ユリウスとヴェーラ
の手を引いて、荷物を置かせた間に行くとリュドミールは鞄から何やら突拍子も無いものを次々取り出して、二
人を散々笑わせた。
晩餐の席で「それでユリウスは僕のいない間、何をしてたの?」とまっすぐな瞳で聞かれ、ユリウスは言葉に詰
まった。ヴェーラがちらりとユリウスの表情を伺うのがわかった。同性のヴェーラに気遣われるのは辛く、屈辱
的なものがあったが、リュドミールにだけはレオニードとの関係を知られたくなかった。
「リュドミール、あなたアナスタシア・クリコフスカヤ嬢を知ってるでしょう?昔はよくこの邸にも来て頂いた
わ。あなたにヴァイオリンを弾いてくださったことは憶えている?」
「ああ、姉様の友達の。確か早くにご夫君が亡くなったんだよね。あの人は今、ヴァイオリニストとして世間に
出てるんじゃなかったっけ?」
「この秋は、ユリウスは彼女にぜひにと請われて練習相手をしていたのよ。」
「ええっ。それはすごい事じゃないか。それにユリウスなら、練習相手じゃなくて公演でも大丈夫なんじゃない?」
「ヴェーラ・・・。」とユリウスは少し眉をひそめてしまった。ヴェーラは素知らぬ顔で、「でもリュドミール。
この事はお兄様にはまだ内緒ですからね。」と弟に告げた。
「兄上はそういうの嫌がるかもね。」あっさりとリュドミールは笑って答えた。「でもどうするの?兄上も来週には
帰ってこられるのでしょう?お願いして続けさせてもらうの?」と聞かれ、ユリウスは
「もともと僕は繋ぎだから。最初からクリスマスまでという約束だったし、いい人も見つかりそうだって言って
たから、とりあえずこの間で終了という事にしたんだ。」
リュドミールは(では少なくともこの休暇中は大丈夫なんだな。)とユリウスを連れ出す算段を頭の中で始めた。
「でも何かあったらまた呼ばれることもあるかもしれない。だからユスーポフ候には僕から言おうと思ってる。」
ユリウスはこの二人をも欺いていることに苦痛を感じながらそう言って、ヴェーラ達は何も疑わずにうなずいた。
計画では、最終的にはユリウスはアナスタシアとの練習を装い、昼間に堂々とユスーポフ家を出て行く筈だっ
た。帰ってこないユリウスにユスーポフ家から使いが来ても、アナスタシアの方で今日はそんな予定は無かった
といえば、アナスタシアに嫌疑をかけずユリウスが姿を消す時間が充分稼げるだろう。その時だけ迎えには別の
人間と車を行かせ、そんな男はアナスタシアの方では知らない、行かせていないと言えば、賊に侵入された以前
の事もあり、ユリウスが誰かの企みに落ちたという事で通る筈だ。問題は時期だった。シベリアの長い冬が終わ
る頃、脱獄計画は決行される予定で、ユリウスはそれに間に合うぎりぎりのタイミングでユスーポフ家を脱出せ
ねばならなかった。それまでの数ヶ月を彼女はここで周囲の人間を欺いて過ごすのだ。ユリウスは3日前、これ
が最後だろうと訪れた時の会話を思い出した。
「ではユリウス・・・。これでしばらくお別れね。私は明日からヨーロッパ行きの準備に入るわ。発つのは春だ
けど、たぶんもう・・・なかなかお会いできないでしょうね。ユリウス、くれぐれも気をつけて。いいこと、マ
ダム・コルフの店のワシーリィが連絡係よ。あなたとアレクセイが必ず会えるように祈っているわ。そしてもう
決して彼と離れては駄目よ。」
「アナスタシア・・・。」
「帰国してもすぐにはお会いできないでしょうね。同志を通じてお互いの安否ぐらい確かめられるといいのだけ
ど・・・現状ではそれも危険だわ。知らない事が少ないほど、秘密が露見する可能性も減るものですからね。
でも、私達の行動が実を結んで革命を成し遂げられれば、こそこそする事も無くなる。それまでは私とアレクセ
イは革命家という絆で結ばれた同志というだけで充分だわ。もちろん、あなたともね、ユリウス。官憲に脅える
事無く、堂々とあなた達にお会いできる日が楽しみだわ。」
彼女はユリウスをそっと抱きしめ、頬に別れのキスをした。ユリウスもアナスタシアの白い頬にキスを返し、
抱擁した。
「ありがとう・・・。アナスタシア。あなたもどうぞ無事で。あなたとも、あなたの音楽とも又きっと会えます
ように。」
「そうだわ、忘れるところだったわ。あなたの言う通りだわ・・・。もう一つ、音楽も私達三人をつないでいる
わね。」
ついにこらえきれず浮かべた涙で瞳をうるわせ、アナスタシアが言った。
「どうぞ、幸福の調べがいつまでもあなたとアレクセイと共にありますように。また会えるその時まで、
さようならユリウス。」
「・・・さようなら、アナスタシア・・・。また会える日まで・・・。」
そうしてユリウスはアナスタシアの邸を去った。だが彼女達が会うのは本当にこれが最後となった。
結局アナスタシア生来の高潔さが彼女を滅ぼした。彼女は目的のために他の犠牲を惜しまない非情さを持ちえず、
最終的には革命家としてより、一人の人間としての良心に従う道を選んだのだった。
(5)
それはロシアのクリスマス、1月7日の前日だった。ユスーポフ家はクリスマスと新年の準備に皆余念が無かった。
明日の宮廷での参賀の準備もせねばならない。それになんといっても今日は5ヶ月ぶりに主が帰ってくるとあって、
邸内には手落ちがあってはならない、緊張と興奮がみなぎっていた。ユリウスはそんな中、ピアノを弾くのも
憚られ、手持ち無沙汰な気持ちで楽譜を持ってふらふらと広間にさしかかった。するとふいに玄関の方が騒がし
くなり、皆が集まってきた。レオニードが帰還したのだ。ロストフスキーとその他数名の部下を伴い邸内に入っ
てきた彼を、100人近い召使達が整然と並んで迎え、その中をヴェーラとリュドミールが微笑みながら長兄のも
とへ進んでいった。
一人離れてユリウスは、その光景を広間を挟んで半ば絶望的な気持ちで見つめていた。レオニードが人々の波
にさっと目をやった時、自分を探しているのがわかった。そして彼の視線が周囲の人々の輪を超えてユリウスの
立っている階段のたもとに向けられた時、意外な事に彼の表情に一瞬さざ波のように、揺れが生じた。だが彼は
何事も無かったように傍らのリュドミールの肩を抱き、妹の頬にキスをした。そして召使達をねぎらって、それ
ぞれ持ち場に戻らせると、ユリウスの方へ向かって歩いてきた。ユリウスは楽譜を持つ手に汗がにじむのを感じ
た。(いけない・・・怪しまれるような顔をしては)
彼が自分の前で立ち止まった時、「お帰りなさい。」と自分の口から滑らかに挨拶がでた事にユリウスは驚いた。
レオニードは最初、無表情にユリウスを見下ろした。だがふっと微笑むと「ただいま。」と言ってユリウスの頬
にキスをした。それは軽い、本当に挨拶のキスだったが、身をかがめた時にいつもの彼の匂い、葉巻と皮の香り
がして、ユリウスの体じゅうの血はどっと沸きかえった。(僕は・・・!)とユリウスは自分の体の勝手な反応を
愧じて罵ったが、今きっと自分は濡れた瞳で彼を見上げているのだろうという事はわかった。ホールに残ってそ
んな二人の様子を離れて見守っていたリュドミールはふと不審をおぼえた。まるでだまし絵のように、記憶とは
何かが違っていた。所詮まだ14歳にもならない彼にはまだその違和感の正体を言い当てる事はできなかった。
だが、何かがしこりとなって心の底に沈殿し、ざらつきを残した。
ユスーポフ家の人々は翌日は早朝から宮廷での新年の参賀に参加せねばならないので聖夜とはいえ、晩餐は早
めで軽いものだった。だが久し振りに兄弟が3人とも顔を合わせ、主にリュドミールのこの1年を話題の中心に、
賑やかに会話が弾んでいた。ユリウスにとっては拷問に近い時間だったがなんとか笑顔を作っていた。多少そこ
にぎこちなさがあっても、他の者はそれぞれその理由をとり違えて解釈する理由があったので、誰もあえてそれ
を指摘はしなかった。そして偽りの入りこんだこの団欒が、結果的には彼らユスーポフ家の3人が共に過ごした
最後の聖夜だった。彼らが集ってクリスマスを祝う事はこの後二度と無かった。
やがてそれぞれが明日の準備のため部屋に引き上げ、ユリウスも私室に戻った。関係を持って以来ユリウスは
レオニードの寝室で夜を過ごすことを命じられていたが、彼がいない間は元の部屋に戻っていた。そして今夜、
晩餐の後で私室に戻ろうとする彼女にレオニードは何も言わなかった。ユリウスは扉を閉めてそのまま背をもた
れかけさせ、うなだれてため息をついた。そして自分に与えられている部屋を見た。豪奢な部屋も今は牢獄にし
か見えなかった。本当にこの邸から脱出できるなら、たった今、逃げ出してしまいたい。レオニードが今夜来な
くても、明日は?その次は?またあの寝室に戻る事を命じられるのか?彼に抱かれる事を考えただけで今は身が
すくんだ。せめてリュドミールがいる間だけでも。初めてユリウスは心の中でクラウスに救いを求めた。
(クラウス・・・。助けて!もうこんなのはいやだ、君を思ってるのに、レオニードに抱かれるなんてもう出来ない。
君に会うために乗り越えねばいけない試練だなんて思えない、そんなのは間違ってるんだ!誰にとっても公平じない、
ひどい過ちなんだ!)と心の中で叫んだ。そしてレオニードが来る可能性を恐れて部屋で過ごす緊張に耐えられず、
一人階下へ降りていった。ふと、もう誰もいないだろう広間で、クリスマスツリーを見たくなったのだ。
予想通り、広間はもう召使の姿も見えず灯りは減らされて、暖炉の火だけがまだ赤々と燃えていた。だがツリ
ーを見ても全く心は慰められず、さらに静寂を求めてユリウスは真っ暗な、冷え切ったサロンに入っていった。
だがそこには先客がいた。彼女が今一番会いたくない相手、レオニードだった。
彼は明日の参賀で久し振りに拝謁する皇帝の事を考えている所だった。最後に拝謁してから半年以上がたっていた。
彼がラスプーチンとの対立でアレキサンドラ皇后の不興をかい、ニコライ大公の引きで陸軍親衛隊から参謀本部に
移った後は自然と皇帝に拝謁できる機会は減っていた。明日は貴重な機会だが、とても二人きりで謁見していただ
ける余裕は無いだろう。レオニードは一軍人に過ぎず国政に口を挟む事は慎むべきだったが、首相が進め
る農制の改革を皇帝が妨害して進まない事は軍の劣化・弱体化にもつながっていた。皇帝を心から敬愛するレオ
ニードだったが、彼の嫉妬深さは他の閣僚たち同様悩みの種だった。レオニードが大公に拾われるようにして参
謀本部に異動した事も内心快くは思っておられないだろう。アデールとの離婚が命じられるのももはや時間の問
題だった。やはり御前会議の席で意見を聞いていただく正攻法しかないのか。
誰か入ってきた気配に振り返ったレオニードもそこにユリウスを認めて驚いた。ユリウスは立ちすくんだまま、
無言でいた。
「寝てなかったのか。」レオニードは窓の外に視線を戻して言った。
「・・・あなたこそ。明日は早いのでは?」(今日、長い任務から戻って疲れているだろうに・・・)とユリウス
は思ったが、気遣うような言葉は言えなかった。「休養は充分とってある。考え事がしたかっただけだ。」と
レオニードは答えた。ユリウスはほっとしたと言うより、あんなに悶々としていた自分が馬鹿のように思え、
「そう・・・。邪魔をしてごめんなさい。」と言って去ろうとした。
「待ちなさい。」
ユリウスがびくりとした様子で立ち止まるのを見てレオニードはいつもの痛みを感じた。彼女はのろのろと振り返り、
ゆっくりと窓際に立つ彼のもとに歩いてきた。明かりの灯らない入り口では暗くて見えなかった顔が窓際に近づ
いてくるにつれ雪明かりの反射でほのかに白く浮かび上がってきた。ユリウスはやはり希望を失ったかのような
表情を浮かべていた。思えば関係を持ってからのこの1年、彼女は笑顔も涙も見せなくなっていた。
かつて彼女をあんなにも際立たせていた、あの生気を失なってしまった顔。彼は決してそんな彼女を見たいわけ
では無かった。彼らはほの青い雪明りの中、凍えそうに冷たい部屋でしばらく無言で見つめ合っていた。
やがてレオニードがそっと手を伸ばし、ユリウスの頬に触れて言った。
「この間は・・・悪かった。」
ユリウスは驚いて目を見張った。(この人が僕に謝るなんて・・・)
「聖夜だからな。仲直りしよう」とレオニードは照れくさそうに言うと、背をかがめてユリウスの額に口付けした。
間をおかず、見開いたままのユリウスの瞳からはらはらと涙がこぼれ落ちた。レオニードは涙のしずくを頬から
指でそっとすくいとると、それは優しくユリウスに口付けした。そして彼女の体に静かに腕をまわすと、ユリウスの
髪に顔を半ば埋めて言った。
「私は愚か者だ・・・。馬鹿な事ばかりしている。だが・・・。会いたかった・・・。」
二人の着衣も肌の表面もすっかり冷え切っていたが、こうして体が触れ合うと、そこだけが暖かかった。
(レオニード、そんな事、言わないで・・・。僕はあなたを裏切っているのだから・・・。それもあなたが思いも
よらぬやり方で・・・。)
さらにレオニードがしっかりと彼女を抱きしめて顔をさらに深く彼女の髪に埋め、耳元に唇が寄せられた時、彼女は
次の言葉を予感し、心の中で絶叫した。
(言っちゃいけない、今、その言葉を言わないで・・・!僕なんかに、お願いだから、どうか言わないで・・・!)
レオニードがそっと呟いた。
「愛している。」
そして顔を離すと、涙を流すユリウスの顔を両手ではさみじっと見つめて、長い優しいくちづけをした。
レオニードはユリウスが自分を愛してはいない事はよくわかっていた。だが彼は待つ気になっていた。ユリウス
にはああ言われたが、実のところ変えられているのはレオニードの方だった。離れて過ごしたこの数ヶ月で彼は
その事を思い知らされ、もはや自分の心を受け入れざるを得なかった。ユリウスに出会いさえしなければ、そん
なものが自分にあるとは知らぬまま一生を終えられたのかもしれなかったが、もう元の自分に戻る事はできなかった。
一方のユリウスはくちづけされながら、どうしても涙を止める事ができなかった。しかしその涙が何故、何の
ために流されているのか自分でもわからなかった。それはもしかしたら生まれていたかもしれない愛のための涙
だったかもしれないし、あるいはここ数年の自分との訣別の涙だったのかもしれない。ともあれ、結果としてユ
リウスは意識しては望めないほど、レオニードを深く欺く事に成功していた。
久し振りに私室の寝台に横たえられ、ユリウスはせめてもの抵抗で精一杯冷たい声を出した。
「いいの・・・?明日は早いのでしょう?」
「私は皇帝陛下の前で居眠りした初めてのユスーポフ侯爵になるかもしれぬな。」
レオニードはにっと笑うと彼女の上にのしかかってきた。だがその夜の臥所は今までとは違っていた。どこかで
彼女を傷つけようとでもするような夏ごろのそれとは異なり、彼の愛撫からはひどく優しい、暖かいものが流れ
込んできて、彼女の体の輪郭を浮かび上がらせるようだった。ユリウスは自分の体と意思がどろどろに溶かされ
そうな恐れを感じ、レオニードを押しとどめて切れ切れに言った。
お願い、優しくなんてしないで・・・。僕は優しさなんか求めていない・・・。彼女が自分から要求めいた事を
口にするのは初めてで、レオニードは「知らぬぞ。そんな事を言って。」と笑った。そんな彼がひどく若く見えて、
ユリウスはその辛さに目をつぶった。
一夜明けて朝の光の中、ユリウスは生まれたままの姿で一人乱れた寝床で目覚めた。(ユスーポフ家の人々はとう
に家を出ていた。)昨夜はおそろしい位乱れてしまっていた。レオニードの体に包み込まれ皮膚ごとその中に溶け
てしまったようで、最後はひたすら彼にしがみつき、今感じているのは自分の感覚なのか、彼の感覚なのかわか
らなくなる程だった。体に残った余韻で起き上がることも出来ず、朝食を運んできた侍女は給仕をあきらめて呆
れ顔で去って行ってしまった。ユリウスは(本当に、まるで娼婦だ・・・。)と自嘲した。クラウスのためとはい
えこんなにも深く人を欺いて、必ず自分には罰が下るだろう。考えてみれば彼女は生まれてきてからずっと周囲
を欺いていた。ありのままの自分として生きられたのは、ロシアに来てから、このユスーポフ家でが初めてだっ
た。だが、今こうして自分はまた周囲を欺く道に自ら歩みだしている。偽りは自分の本質だとでもいうのだろう
か。今の自分ほどレオニードの愛に値しない女はいなかった。ユリウスは目を固くつぶり、まだ彼の感触が残る
自分の体を抱いて胎児のように体を丸めた。
(6)
新年の参賀の時はいつもそうだが、宮廷中がごったがえしていた。ユスーポフ家に割り当てられた控えの間で、
アデールとユスーポフ家の兄弟たちは久し振りに顔を合わせていた。アデールは侍女を従え、にこりともせず入
ってくると(だがそれだけで控えの間はそれまでとは異質な華やかさで満たさた。)、まずレオニードに「お久し
振りですこと。」と言った。レオニードも大儀そうに「ああ」とだけ答えた。これだけで漂う棘とげとした空気に
リュドミールは(ああ、またこれか・・・。)と内心げんなりしていた。決してアデールの事が好きなわけではな
かったが、彼の目からはどちらもどちらだった。兄が自分達姉弟やユリウスにかける優しさの半分でも示してい
れば、義姉の態度もずいぶん違うだろうに。アデールはリュドミールを見て、さすがに成長振りに驚いたようだ
ったが、彼女からは声をかけようとはしなかった。
気まずさをおしやるように、ヴェーラが「お久し振りです、お義姉様。新年おめでとうございます。お変わり
ないようで何よりですわ。」と声をかけると、待っていたかのようにアデールは微笑んで言った。
「あなたは随分お変わりになったのではなくって?革命家の下男から、今度は大ブルジョアの変わり者ですもの
ね。賢くなられたのか、逆なのか。」
ヴェーラは兄の前であてこすりを言われたことには少し動揺したが、(相変わらずね、この人は・・・。)とむ
しろ哀れみすら感じた。シチューキンとの事は、兄にはもっとうまい方法で知らせたかったが、兄がどう出よう
とヴェーラの心にも行動にも迷いは無かった。これで話の糸口ができたとも言えるくらいだ。しかしアデールの
方は兄にまだ執着があるのは明らかなのに、彼女は夫の心も体も失ってしまっていた。彼女の夫は他の女を愛し、
今日は妻に会う年に数度も無い機会だというのに、つい数時間前までその女を抱いていたのだ。(めざといヴェー
ラの侍女が未明に部屋に戻るレオニードを見かけ、早速言いつけてきていた。)それを思うとヴェーラの心はむし
ろ同情を感じざるを得なかった。
レオニードはアデールのあてこすりの内容には触れず、「よしなさい。」と不機嫌そうに言うと葉巻をもみ消し
た。「もう時間だ。行くぞ。」
冬宮の謁見の広間は新年の飾りつけが美々しく施され、花の香りが満ちた中に高位の貴族達が全て居並んでい
た。レースや絹の衣擦れの音、宝石や勲章に時折光が反射する中、そこここで囁きや目配せが交わされて何代も
前から旧知の者達のいつものゲームが駆け引きされている。やがて彼らの番が来て、レオニードとアデールは夫
婦らしく手をとりあい皇帝の前にすべりでて、優雅に挨拶した。ある意味、彼らはいまだに話題のカップルで、
人々の目は自然とこの侯爵夫妻に向けられた。二人の別居はいまや知らない人は居ないほどだった。レオニード
は決して普通の意味で人気があるというわけでは無かったが、人がその存在を無視できない種類の男だった。ア
デールは彼と婚約した時、夫となる男が人よりも際立った人物である事に内心はちきれそうな誇りと喜びを感じ
たものだ。だが、今はその誇りも虚しかった。人々はラスプーチンと折り合いの悪いレオニードの失墜を今か今
かと見守っているのだ。陸軍親衛隊から参謀本部への異動は表向きには左遷というには微妙だったが、皇帝との
距離が開くという事は確かで、終わりの始まりととらえられるのは仕方の無い事だった。同情や怒り、意地の悪
い喜びや興味本位の冷やかしなどそれぞれ関心のあり方は違っても、彼の失墜はこの不確定な昨今において、確
実に予想する事が出来る数少ない未来の一つだった。ただ、妻の血筋とユスーポフ家という名家としての地位、
そして彼自身の群を抜いた有能さへの評価だけが今までそれを食い止めていた。だが最初の条件を失えば後の二
つでは足りないことは明らかで、そして夫婦の不仲はあまりにも有名だった。
アデールはそんな好奇心交じりの視線の集中を撥ね返すかのように胸を張り、しかし優雅に立っていた。彼女は
意識の中では依然として皇族の一員で、誰からも下位に見られる覚えは無かった。だが宮廷中の注目を集めざる
を得ないこの瞬間に、ラスプーチンが急に体調を崩した皇太子のため奥に下がっている事はそんな彼女にとって
も素晴らしい幸運だった。皇帝はお気に入りの姪とその夫に型どおりに、しかし嬉しそうに祝福を与えたが、ア
レクサンドラ皇后は違った。
「ユスーポフ候はずいぶんと長い視察だったそうね。親衛隊の任務が解かれたそうそう、そんなに長く首都と陛
下のお傍を離れるとはよほどペテルスブルグがおいやなのかしら?それとも噂どおり実は宮廷がお嫌いだった
?アデール、あなたも長年よく辛抱していることね?」と露骨にあてこすった。新年の参賀にはふさわしくない、
そしてアレクサンドラらしくもない皮肉に広間中がユスーポフ夫妻の次の言葉を聞き漏らすまいと静まり返った。
(世間で流布しているほどアレクサンドラは強権をふるうような皇后では無かったが、この時の彼女は果てる事の
無い儀礼に疲れ、奥で休んでいる皇太子の身を案じて気がたっていた。)
(やれやれ、この参賀の場で引導を渡されるとはな。)とレオニードは衆人環視の場での屈辱を甘受する覚悟を固
めたが、意外な事にそこにアデールの甘やかな笑い声がこぼれおちた。
「皇后陛下、お気遣い、ありがとうございます。本当に夫は私をいつも放りっぱなしですわ。この人の頭はいつも
皇帝陛下と軍務のことばかり。でもそんな忠勤な夫こそが私の誇りですの。皇帝陛下は私に本当に素晴らしい伴侶を
与えてくださいましたわ。」と言ってそれは優雅に一礼した。
アレクサンドラは憮然とし、ニコライはほっとした表情でレオニードに長い任務の労をねぎらうと、次の者の拝謁を
合図した。彼らの離婚はすでに秒読みというのが公然たる認識だったので、アデールの答えには宮廷中が唖然とし、
鼻白んでいた。
「アデール!」ごったがえす宮中で真空のようにぽっかりと人の姿が一瞬消えた回廊でレオニードはアデールを
やっと捉えた。「さっきのは何のつもりだ。」
振り返るとアデールはあたりを見回して周囲に人影が無いのを確認すると、やはり激しい調子でささやいた。
「あなたこそどういうおつもり?私が何も知らないとお思いなの?邸の者から聞いてますわ。あなたのような立
場の方が、無用心なことをなさっておいでね。他所にお囲いになるならとにかく。その内噂にでもなったらどう
なさるおつもりなの?あまり私に恥をかかせないでちょうだい。お忘れかも知れないけれど、あなたの妻はこの
私なのよ。」
「我々がいつまで名のみの夫婦でいられると思ってるのだ?もう時間の問題だ。さっきの皇帝陛下のご様子を見
てもわかるだろう。」
「それでもまだ私はあなたの妻ですわ。そしておかしなものね、結婚して以来、今ほど離婚したくない気持ちに
なった事はありませんでしたわ。」
暗い回廊でアデールの頬にきらりと光るものが流れるのが見えた。
「アデール・・・。」
「でもあなたは違う。むしろ皇帝陛下が離婚を命ぜられるのを待ち望んでおいでね。わかりますわ。ご心配なさ
らないで、陛下の命がくれば、受けますわ。でもそれは陛下のご命令を拒めないからではない。あなたが喜んで
受け取ってくださるのはそれだけだからよ。私からの自由、私からあなたに差し上げられるのはただそれだけな
のね。」
アデールはそう言うと、これ以上涙を見られることを恐れるように顔を背け、レオニードの返事を待たずに歩み
去った。その後姿は内面の動揺を写すことなく、あくまでも典雅だった。レオニードは初めて妻の心を見た驚きで
その場に立ち尽くしていた。だが、妻の後を追うことはしなかった。
(7)
「兄上、お願いがあるのですが。」数日後の晩餐の席でリュドミールが切り出した。
「改まって、何だ?」
「ユリウスを連れて射撃場に行ってもいいですか?」
「射撃場?フォンタンカのか?」「ええ。」
レオニードはぴんときた。リュドミールは幼年学校でたいそう優秀な成績をおさめていた。ことに実技の中で射
撃にずばぬけた才能がある事を学校側も興奮した筆致で成績書にわざわざ書き添えていた。将官となる身分では
実技に卓抜している事は特に重要では無かったが、リュドミールは少年らしくユリウスに自分のいい所を見せた
いのだろう。(まだまだ本当に子供だな。)とレオニードは思った。
「そんな危ないところに女を?駄目だ。」一言で切って捨てられ、リュドミールはふくれ面をしかけたが危うく抑
えて、「危ない所なんかでは無いですよ。兄上だってまだ僕が幼い時分、何度も連れて行って下さったじゃないで
すか。」ともう一押しした。「駄目だ。」とレオニードは繰り返した。「兄上が最初に僕を連れて行って下さったの
は確か8つの時でした。ユリウスはそれに比べれば随分大人だと思いますが。」
「リュドミール、お前は学校で指揮命令系統の基本を最初に教えられなかったのか?いい加減にしなさい。射撃
場は子供が女性を連れて行くような場所ではない。」
変にこじれてきた会話に残りの二人はやや呆気にとられていた。ヴェーラは仲介に入るつもりは全く無く傍観を
決め込み、それを察したユリウスは所在なくグラスをとるとワインを少しだけ口に含んだ。その動きでレオニー
ドがちらりと彼女を見た。
(お前は?行きたいのか?)レオニードの目は問いかけていた。ユリウスは射撃場自体には全く行きたいと思わ
なかったが、リュドミールの希望ならなんでもかなえてやりたかった。彼のわがままを聞く機会がこの先二度と
あるかわからなかった。
「リュドミールの休暇もあと少しだし・・・。」ユリウスは自分の言葉にわずかに哀願じみた調子がにじみでるこ
とに、自分もずるいなと思った。僕は女の武器という奴を会得してしまったのか?レオニードは一瞬の気の迷い
から「ではロストフスキーを連れて行け。それでないと駄目だ。」と言ってしまった。言った端から彼は後悔した
が、一度許したことを取り下げる事は無様過ぎてできなかった。それに彼はふと、ユリウスが過去の痛手をどの
程度乗り越えているのか知りたくなったのだ。彼女の美しい体に残された二つの銃創、それは現在と過去が繋が
っている事を声高に主張するものだった。もし射撃場に行って彼女が平気でいれるなら、それはレオニードにと
って良い兆候だった。
一方、ロストフスキーが大の苦手のリュドミールは(よりによって・・・)と思ったが、それだけ兄は用心し
たいのだなと感じた。ヴェーラは事の成り行きを見守りつつ、(リュドミールは反抗期に入ったのかしら?それに
してもユリウスはリュドミールに弱く、お兄様はユリウスに弱い・・・。そしてリュドミールはお兄様と私に弱
いわ。どちらかというと私により弱い。さて、私とお兄様は?)と作戦を練っていた。参賀の際のアデールのあ
てこすり、兄は何か言ってくるかと思っていたのに、まだ全く触れてきていなかったがそのままで済む筈が無かった。
あまり深く考えずに同意した事に、射撃場に着いたそうそうユリウスは後悔していた。射撃の音が想像もしなか
った程、過去の苦い記憶を甦らせる。おまけに当たり前だがそこにいるのは男性ばかりで、男装していても一目
で女性とわかるユリウスには一斉に好奇の目が注がれた。貴族や上級軍人しか利用できない射撃場とはいえ男は
男で、以前なら気づかなかったかもしれないが、今のユリウスにはそれらの視線に含まれる性的な興味、次第に
それらが粘つくようなものに変わっていくことが肌身で感じられた。これはレオニードが渋る筈だ。しかも同行
者はまだ少年のリュドミールと明らかに随行者の立場に過ぎないロストフスキーでは、周囲の目が無遠慮になる
のを止めるものは無かった。尤も気味悪いほどの静けさをまとったロストフスキーのおかげで、さすがにユリウ
スに直接声をかける者はいなかった。だが人々の好奇の目は、リュドミールが銃を撃ちはじめた途端、驚きと賛
嘆に変わった。
最初に彼が拳銃を選んだ際、「おやおや、坊やにはまだ水鉄砲を用意した方がいいんじゃないか?」と無作法な声
が聞こえたが、リュドミールは落ち着き払って流れるように美しく構え、一発目で過たず的の中心を撃ち抜いた。
射撃場全体が静まりかえった。それはこの年端もいかぬ少年が見事に命中させたからではなく、その銃と一体に
なったかのような美しい姿勢とまれに見る集中力、少しでも射撃をかじった人間なら、恐らく一生のうちに一人
見れるかどうかの天才をいま目の前にしているという事に気づかざるをえなかったからだ。皆、射撃場にまぎれ
こんだ男装だが妙にそそられる女の事は忘れ、かたずを飲んで、リュドミールが次々と銃を替え、何発撃とうが、
どの種類の銃だろうがすべて外さずに的のど真ん中を、あるいはきれいな円形を描かせて打ち抜いていくのを魅
せられたかのように見守っていた。
ユリウスに自慢したくて射撃場まで連れ出したリュドミールだったが、銃を構えるといつものように、世界か
ら他の全てのものが消えた。あるのはただ、銃となった自分と標的だけだ。そして自分と標的の間には1本の輝
く細い糸があり、自分は正しく構えるだけで弾は勝手に標的に引っ張られていくのだ。自分が当てるのではなく、
標的が弾を吸い寄せる。そうとしか思えなかった。賞賛される度、なぜ皆はあの糸に気づかないのだろう?と
リュドミールは不思議にすら感じるのだった。
ロストフスキーすら幼い頃からよく知っているリュドミールの思いがけない一面に驚かされ、見入ってしまっ
ていた。だから彼は傍らに立つユリウスの顔色がどんどん蒼白になっていくのに気が付くのが遅れた。彼女の体
がゆらりと揺れてからあわてて抱きかかえる始末で、そうでなければ、すんでのところでユリウスを泥だらけの
地面に崩おれさせるところだった。さすがに人々も魔法が解けたように、リュドミールから、謎のその連れに視
線を戻してどよめいた。ちょうど銃を替えようとしていたリュドミールも異変に気づき、明らかに意識を失って
いるユリウスを抱きかかえたロストフスキーのもとへあわてて向かった。観衆達はこの少年に拍手を送ったが、
リュドミールはそれに応える余裕はとても無かった。
間もなくユリウスは射撃場の控え室の寝椅子で意識を取り戻した。
「ユリウス!だいじょうぶ?」と目を開けたユリウスにすぐさまリュドミールが覗き込んで声をかけた。そのあ
まりにも心配そうな様子に、「あ・・・、ごめん、せっかくリュドミールが集中してたところだったのに・・・。」
というユリウスに「そんな事・・・、それより気分は?ああ、起きないで、まだじっとしてて。今お医者さんも
来るから。」「お医者さん?おおげさな・・・。ただの貧血だよ。必要ない、今からでも断って。」
まさか過去、二度撃たれた記憶が甦って失神してしまったなどと言えたものでは無かった。
ユリウスはリュドミール達が意外に思うほど頑強に言い張って、ついに医者には会おうとしなかった。それでも
少し横になって、だいぶ楽になったユリウスはもう大丈夫だからと帰り支度を始めた。そしてこの事がレオニー
ドに知れたら、ますます自分の行動は制限される事に気づき、ロストフスキーに「ロストフスキー大尉、この事
はユスーポフ候には言わないで。」と言った。リュドミールは少し驚いてユリウスを見た。もちろん彼は兄にこっ
ぴどく叱られる事は覚悟していた。
案の定ロストフスキーは「あなたの護衛が今日の私の任務でした。それに失敗した以上、候にご報告しないわけには
参りません。」としかめつらしく答えた。
「失敗なんて・・・。貧血を起こしただけで何ともなかったのだし、言っても彼を不快にさせるだけだ。」
ロストフスキーは露骨に無関心そうに答えた。
「私は候に嘘はつけません。」
なんとなくきまずい空気で3人は車寄せに向かった。そこでリュドミールは手袋を忘れてきた事に気づき、ユリ
ウスをロストフスキーに託し急いで取りに戻った。二人きりになって、ユリウスはさっき意識を失う前の最後の
瞬間に彼に抱きとめられたことを思い出し、ふと考えた。「ロストフスキー大尉、もしかしたらあの時も・・・。」
言いかけた言葉を途中で飲み込んだ彼女をロストフスキーはいぶかしげに見下ろしたが「ごめん、なんでもない。」
と言われ、また前方に視線を戻した。戻ってきたリュドミールとちょうどやってきたユスーポフ家の車に乗り込
みながらユリウスは思った。(今さら、わかったとて仕方が無い。あの時、僕をそもそもユスーポフ邸に運び込ん
だのが誰だったかなど。)
車中で、リュドミールはユリウスの顔色がやっと戻ってきた事に安堵し、多弁になった。以前から兄には筋がい
いと褒められていたが、多忙な兄にはそうそう射撃に連れていってもらえなかった事、昨年、実技演習で初めて
本格的に取り組み、自分にとってはごく自然な動作だがひどく皆に驚かれ、おかげで難しい先輩達にも一目おか
れて学校生活が随分楽に過ごせている事などを早口でしゃべった。だがユリウスはなぜか聞いている内に古い銃
創が熱をもってきたように感じてひどく疲れがでてしまい、リュドミールに悪いと思う間もなく言葉がするりと
零れ落ちてしまった。
「でもリュドミール、君は撃たれた事は無いだろう?最初に体にはすごい衝撃が走るんだ。全身の骨の分子がば
らばらになるような。そして少し遅れて焼けつく様な痛みがやってくる。それは切ったり刺されたりする痛みと
は全然違うんだ。」
リュドミールは思わぬ言葉に驚いてユリウスを見た。運転手の隣に座っているロストフスキーもバックミラー越
しに彼らを見た。ユリウスははっとして「ごめん、リュドミール・・・変な事言ったね。どうか気にしないで。
忘れて。」
リュドミールはユリウスはもしかして過去の何かを思い出したのかと不思議に思った。だがそれよりも自分の話
の何かがユリウスの心を傷つけたらしいのが気になり、「ごめん、気分が悪かったのにぺらぺらしゃべって。」
「・・・ううん、気にしないで。あんな才能に恵まれてるなんて素晴らしい事なんだ。素人の僕がつまらない事
を言ってごめん。」
「・・・ユリウス・・・、僕はむやみに、命あるものを意味無く撃つようなことはしないよ、約束する。だから
安心して。」
「リュドミール・・・。」
ユリウスは彼の若い、まだ稚なさを残した顔を見つめた。この子は軍人になる。いつまでも動かない標的だけを
撃っているわけにはいかないだろう。彼のためにもそんな約束をさせてはいけなかった。
「リュドミール、そんな約束はしないで。」いつに無い強い口調にリュドミールは少し驚いた。「ユリウス?」
「約束してくれるなら・・・、必ず生き延びると言って欲しい。何があっても。君を愛する者のところへ生きて
帰ってくると。」
「ユリウス様」珍しくロストフスキーが言葉をはさんだ。「お言葉ですが。」ユリウスははっとした。
「何だ、ロストフスキー、黙ってろ。」リュドミールが背伸びした口調で乱暴につっぱねた。
「ああ・・・、僕、また変な事を言ってるね。ごめん。多分今日は僕は何をやっても駄目な日なのかも。少し眠
るから、リュドミール、手を握っててくれる?」「・・・うん。こう?」
「うん。ありがとう。」そう言ってユリウスは目をつぶった。
ミラー越しに注がれるロストフスキーの軽蔑しきった視線を感じながら。
実りの無い会議に倦んでレオニードは一人長い廊下に立ち、葉巻を吸いながら窓の外を眺めていた。誰かの足
音が近づいてきて、彼の傍らで止まった。異例の若さで秘密警察の副総監の座が近いとささやかれているグルシ
ェンコフだった。
「これはユスーポフ候。お久し振りにお目にかかります。私のことは憶えていただけてますでしょうか?」
「今やあなたの事を知らぬものは、少なくともここにはおりますまい。」と答えてレオニードは微笑んだ。
一見目立たない小男だったが、グルシェンコフは恐ろしいほど有能な男だった。そして係累も資産も持たぬ彼が
このように早く、それも秘密警察という特殊な部署でのし上がってくるには相当な暗躍もあった筈だが、確たる
噂をのぼらせない事がかえって彼の底知れなさを示していた。「いつもの副官どのは今日はご一緒でないので?
あのような人材は貴重ですな。できれば私の部署に欲しいほどです。」
レオニードは口元だけ微笑んで聞いていた。この男がただの雑談で声をかけてくる筈はなかった。果たしてグル
シェンコフは無駄話はせず、すぐに本題に入った。
「ところで候はアナスタシア・クリコフスカヤ嬢をご存知ですな?」
「妹の友人で幼馴染ですな。私は数年お会いしていないが。」
「ところが妹君は交際を再開されたようです。あなたの視察中に、かなり頻繁に車が往来している。好ましくな
いですな。アナスタシア・クリコフスカヤは革命分子です。」レオニードはさすがに驚き、グルシェンコフの次の
言葉を待った。
「驚かれたようですな。」
「・・・。確かに。思いもかけない事だ。しかしそれではなぜ放置を?」
「我々は言わば彼女を泳がせているのです。彼女の資金と社会的地位を利用すべく様々な連中が寄ってくるので、
彼女を張っていれば自然に情報が集まってくる。※※通りのマダム・コルフの店が連絡場所として使用されてい
ることなど、我々には実に有難い情報でした。ああ、娼館です。いや、尾籠な話で失礼した。なかでも我々が特
に興味があるのは海外の資金提供者達の情報です。どのようなルートで、誰が資金や武器を提供しているのかを
ね。彼女を張っていれば必ず浮かんでくる筈だ。その為なら、いま大した動きはできない国内の革命派の動きな
どしばらくは放置しておけます。今彼女を捕縛してしまうより、そのほうが我々にはよほど得る物が大きいのです。」
レオニードは黙って聞いていた。
「彼女が加わっているのはボリシェビキの一派で名門貴族の令嬢が加わるのはいささか不向きな集団だ。育ちの
良い彼女は甘い。女だてらにルジェノフスキー将軍を暗殺した奴を覚えておいでかな?彼女は下級貴族出身だっ
たが、顔面が一生元に戻らぬほど殴打され乳房を焼かれた上、お聞き苦しい話ですが、取調べの口実で繰り返し
陵辱されても転向せず、口を割らなかった。逮捕から5年以上、いまだに監獄で頑張っておりますよ。だがクリ
コフスカヤ嬢にその根性があるとは思えませんな。そのうち必ずぼろを出すでしょう。まあ、遅かれ、早かれ時
間の問題ですが。」黙って聞いていたレオニードに向かい「なんとも長話で失礼した。そういうわけで、アナスタ
シア嬢は妹君にはふさわしくない交際相手と存知上げるが。」とグルシェンコフは話を結んだ。
「ご親切、いたみいる。」とレオニードはグルシェンコフの方を向き、にっこりと笑った。グルシェンコフはそれ
を受けて、軽く礼をすると、再び歩きだそうとした。そこへレオニードは声をかけた。「しかし、なぜわざわざ?」
グルシェンコフは振り向いた。お互い、微笑みは目には及んでいなかった。彼は言った。
「私は常に保険をかける男です。異常値を見つければそれを排除し、均衡を保つ。そしてまた次の異常値を潰す。
異常値同士はたいがい関連しております。そして世界は異常値の上位にいくつかの極点があって均衡を保ってい
る。失礼ながらあなたは宮廷内のもう一方の隠れた極点で、私の世界の均衡を保つには大事な存在なのです。」
(食えない男だ。)レオニードは思った。彼はラスプーチンの引きも強い男で、異例の速さの出世にはその影響も
ささやかれていた。ロシアの早い夕日にグルシェンコフが長い影を落としながら廊下の角を曲がって姿を消すと、
まるで入れ替わるかのようにロストフスキーがこちらに歩いてきた。
帰宅した二人はヴェーラと食堂で午後のお茶を飲んでいた。そこへレオニードの足音が聞こえてきて三人は顔
を見合わせてため息をついた。ユリウス達を邸に送り届けた足でロストフスキーは軍部に戻ったので今夜はレオ
ニードにこってり絞られることは覚悟していたが、まさかこんなに早く戻ってこようとは。案の定、勢いよく食
堂の扉が開いたかと思うとつかつかとレオニードが入ってきた。リュドミールは慌てて立ち上がり、ユリウスは
レオニードから視線をそらした。
レオニードはまずユリウスを見て「何で起きてるのだ。休んでなさい。」と言った。
「ただの貧血だったのだし・・・」とユリウスは言いながら、レオニードがリュドミールに向き直るのを見て
「レオニード、リュドミールには何の責任も」とさらに言葉を継ごうとしたが、「おまえには関係が無い。これは
私と弟の問題だ。行きなさい。」と言われ、引き下がらざるを得なかった。リュドミールはレオニードと書斎に向
かいながら(だいじょうぶだから)と目顔でユリウスに伝えた。ヴェーラはやれやれと二人についていった。
リュドミールは兄の前にうなだれて立っていた。ユリウスにはああ目顔で合図したものの、静かな分、兄の怒り
は本当に久しぶりの大きさで彼を威圧していた。そんな弟を机に腰をかけた格好で腕組みし、しばらく黙って見
つめていたレオニードはようやく口火を切り、
「私の言いたい事はわかっているな?」と言った。「はい兄上。」うなだれたままリュドミールは答えた。
「・・・今日の事は私が許可した。だから私の過ちだ。お前達を行かせるべきではないとわかっていたのだから。」
「・・・。」
「だが。」と言うとふいに身を起こしてレオニードはうつむいていた弟のあごを開いた手で力任せに掴み、驚いた
顔を仰向かせると、
「リュドミール、これに懲りて二度と己が護るべきものを自らの手で危険にさらすような事だけはするな。取り
返しのつかない事になって後悔するのはお前自身だ。わかったな。」と言い渡した。リュドミールはしばらく硬直
していたが、やがて「わかりました。」と慄える声で言った。「よし。」と言うとようやく弟から手を離し、「もう
良い、下れ。」とレオニードは命じた。それまで黙って見ていたヴェーラもリュドミールについて書斎を出ようと
した時、「ついでだ。ヴェーラ、お前は残りなさい。」と声がかかり、ヴェーラは(ついにきたか)と思い、しょげた
弟の後ろで扉を閉めるとレオニードの前に進んだ。
ヴェーラはまず自分から口火を切ろうとしたが、兄に先手を取られた。だがそれは彼女には意外な言葉だった。
「ヴェーラ、おまえは最近アナスタシア・クリコフスカヤ嬢と近しいのか?近頃ひんぱんに外出しているという
が行き先は彼女のところか?」「・・・え・・・?」「どうなのだ?」これはユリウスの事を聞かれるのだろうか?
ユリウスがアナスタシアとのレッスンの事を兄に話した気配はまだ無かった。ヴェーラは一瞬頭の中で思いを巡
らせた。射撃場で倒れてしまったすぐ後でこの話となると、ユリウスはますます外へ出されなくなり、アナスタ
シアの求めに応じられなくなるかもしれない。「ええ・・・。夏、久し振りに偶然会いましたの。しばらく彼女と
は会っていなかったのですが、それ以来、またお付き合いさせていただいてますわ。」
「彼女にはもう会うな。」ヴェーラは思いがけない物言いに少し驚いた。
「・・・理由はお聞きできますの?」「聞くな。ただ、交際を控えればそれでよい。」いつものヴェーラなら、
さすがに自分の旧友との交際に関してとあってはもう少し食い下がっただろう。だがユリウス、さらに何と言っても
シチューキンとの交際を兄に認めさせたい彼女としては、ここは1歩譲る事にした。ユリウスにもこの事は伝えて
話がこじれないようにせねば。
「・・・理由を教えていただけないのは残念ですわ。でもご命令ですのね。お話はそれだけ?」
「私からはな。お前の方が何か私に言うべき事があるのではないか?」
兄がこう出るとは思わなかったが、アナスタシアの件でこちらが譲った今はいい機会だ。ヴェーラは淡々と答え
た。「折を見てお兄様にはご報告しようと思っておりました。新しい友人が出来て、近い内にお兄様にもお引き合わ
せしたいのです。」
「あれのあれこすりは本当だったわけか。お前も一応未婚の娘だ。立場はわかっているであろう。婚約もしてい
ない男としょっちゅう会っているという事か?」
「お義姉様が存外我が家の事をご存知なのには驚きましたわ。無関心ではおられないのですね。」
「アデールの事はいい。お前の話だ。」ヴェーラは軽くため息をつくと兄を見つめなおして言った。
「ええ、貴族の娘としてははしたない行動かもしれませんわね。でも私はあの方と出会えて幸運だと思っており
ます。相手の方の名前はセルゲイ・シチューキン。貴族ではありませんが、私には何の問題もありませんわ。」
「シチューキン・・・。あの布屋のか?」
ヴェーラは軽く肩をすくめた。シチューキン家はいまやロシア有数の財閥だったが元々は繊維業で頭角をあらわ
した一族だ。だが兄はじめ、頑迷な因襲制階級主義の貴族の眼には「布屋」に過ぎないのだろうと、まるであんな
に嫌っていた共産主義者のような感想を抱いた。
「身分など関係無いと言いたげだが、我々侯爵家の人間の結婚には皇帝陛下の許可が必要な事を忘れたわけでは
あるまいな?それとも純粋に『友人』として火遊びで留められるのか?」
「あの人に会っていただければお兄様もおわかりになりますわ。」
今度はレオニードが肩をすくめた。ブルジョアになど会う気は無かった。ヴェーラもまさか一度で兄を説得でき
るとは思っていなかったので、今日のところは最小限の話だけでも出来た事に満足し、アナスタシアの件につい
て掘り下げるところまで頭がまわらなかった。
弟、妹と説教を続けてうんざりしたレオニードは、着替えようと従僕を呼んで居室に入るとそこにユリウスが
いて、少し驚いた。
「・・・寝ていろと言ったろう。」と大きな椅子にすっぽり包まれるように座っているユリウスの髪に思わず触れ
ながら、レオニードは口調だけは咎めるように言った。「病気でも無いのに寝れないから。」とユリウスは答え、
レオニードが着替え始めると立ち上がって窓際に行った。軍服を脱ぎながら彼は声をかけた。
「そう楽しい所では無かっただろう。」
「・・・うん。銃声を聞いているうちになんだか気が遠くなってしまって・・・。」とユリウスは外を眺めながら
正直に報告した。(やはり駄目だったか。)とレオニードは思った。
「でもリュドミールは本当に凄かった・・・。何を、何発撃っても決して外さなかった。みんな集まってきて、
びっくりしてたよ。あんなに美しい構えを初めて見るって誰かが言ってた。」
「・・・そうか。」
「僕が自分で判断して行ったんだし、リュドミールは実に見事だったんだ。それだけはあなたに言っておかないと
と思って。」「わかった。」
話しながら、二人ともこんな風に普通に会話するのは実に久し振りだと気づいていた。着替えを終えたレオニー
ドは従僕を下がらせ、窓の方を向いたままのユリウスに近づくと射撃場でさぞ他の男の視線にさらされていただ
ろう彼女の体に後ろから腕をまわし、自分の中に包み込むようにした。
ユリウスはその抱擁にかかとから力が抜けるような安堵感を感じた。あの射撃場で男達に浴びせかけられた全身
を撫でまわすような視線を思い出し、自分が今日は本当に異質な緊張感の中に居た事を実感し、それが彼の腕の
中でゆっくりとほぐれていくのに任せた。レオニードは無事彼女を取り戻せたとでも言わんばかりの自分の態度
の情けなさに腹を立てつつも、しばらく身を離す事ができなかった。先ほど弟に言ったことは、まさに自分に向
けての言葉だった。弟にではなく、自分自身に怒っていたのだ。この女を護りぬけなかったら、傷つくのは彼自
身だった。
(8)
リュドミールが短い休暇を終えて学校に戻る日が来た。「今度はユリウスがモスクワに遊びに来てよ。絶対だよ。」
彼はそう言って、敬礼をしてみせた。入学前、ここを発つ時の見よう見まねのそれとは違って見事に決まって
いて、逆にユリウスは噴き出してしまった。「何だよ、ひどいなあ。」と言いながらリュドミールは笑って「じゃあ。」
と大きく手を振ると、車に乗り込んだ。ユリウスは車がユスーポフ家の門を出て見えなくなっても、いつまでもその方向
を見送っていた。
あの日、リュドミールがレオニードに酷く叱られた事をユリウスはヴェーラからそれとなく聞かされていた。
リュドミールは気にしないように振舞っていたが、兄弟間に何かしこりが残されたような気がしてユリウスは少
し心配だった。だがそれより衝撃だったのは、ヴェーラがアナスタシアとの交際を禁じられたという一件だった。
ヴェーラもいつもの彼女ならもう少し食い下がってもよさそうなものなのに、理由は良くわからないが、彼女な
りの判断で少し様子を見るつもりらしかった。
ユリウスは激しい不安を感じた。レオニードがヴェーラに理由を告げずに交際を禁ずるというのは、もしかして
アナスタシアの活動が漏れているのではないだろうか。何か他の事に気をとられているようなヴェーラにそれ以上
聞けず、ユリウスは不安で煩悶した。
そして彼女をさらに陰鬱な気分にさせるのは、そんな会話があったとは知らず、あの日晩餐前の短い時間だという
のに、あのままレオニードに抱かれていた自分の救いがたさだった。それはむしろ自分から求めたといってもいい
程で、それ位彼女は射撃場での経験に脅えていて彼にそれを鎮めて欲しかったのだ。レオニードは求めるでなく静
かに抱いていただけだったのに、ユリウスはそっと体の重みを彼に預け、それは抱いてくれと合図したのも同然
だった。結局立ったまま求め合い、身を壁に押し当てられ両足を抱え込まれ、彼の首に腕をからめてしがみつき、
レオニードを受け入れながら、ようやくユリウスは人心地がついた思いだった。
どれだけ自分がこの男に依存してしまっているのか、ユリウスは最悪の形で思い知った。そしてアナスタシアの
件が彼女の心に不安の楔を打ち込んでいた。
下町を、ヨシフは心配事で頭を一杯にしながら歩いていた。今日の午後は休みをもらって、洗濯女のジーナと
落ち合う約束をしていた。なけなしの金を奮発し映画を見て、何か食べさせて・・・。だが彼の頭を一杯に
している心配事とは付き合っている彼女の事ではなく、とある疑問と不安だった。
(おかしい、報告書の並びが違う・・・。候のご帰還前に直しておいたけれど一体、なぜ・・・。叔父にも言えな
い、こんな事は・・・。動かすとしたら彼女しかいないのだけど、そんな筈もない。僕も中身は知らないけれど
女性が見たがるようなものではないのだし・・・。)
誰にも言えないだけに日に日にその心配は膨れ上がり、いまや彼の頭はその事で占領されていた。だから彼は突
然ものすごい勢いで荷馬車が飛び出してくることに、最後の瞬間まで気づかなかった。気づいた時には信じられ
ない程の激痛と共に道路に転がり、上に荷馬車の残骸がのしかかっていた。誰かが「御者が逃げたぞ!」と叫ぶ
のを聞きながらヨシフの意識は薄れていった。
それは吹雪とまではいかないものの、雪が絶え間なく降り続ける日の事だった。ユリウスは朝食の後も軍部に
向かう様子もなく、新聞に手を伸ばすレオニードを不思議に思い、訊ねた。
「こんな時間なのにまだいても良いの?」
「もう少ししたら礼拝所で葬式だからな。」
「・・・お葬式?」意外な答えにユリウスは目を見張った。ユリウスはロシア正教であるユスーポフ家の礼拝所
に足を踏み入れた事は無かった。使用人の葬式も邸内で行うとは知らなかった。
「従僕が一人死んだ。まだ若い男だったが、かわいそうにな。」
「・・・全然知らなかった。気の毒に。僕の知ってる人だろうか。」
「お前は知らぬのでないか?ヨシフは入って日が浅かったからな。」
瞬間、ユリウスの体は硬直した。(いけない)、と思う間も無く彼女は「ヨシフ?」と問い直した。
レオニードは怪訝そうに彼女を見た。ユリウスは(中途半端な嘘が一番危険なのよ。一部省略された事実という
のが人を欺くには最も効果的ね。)というアナスタシアの言葉を思い出して言った。
「朝、書斎にいる人でしょう?一度鉢合わせした事がある。」
「ああ。」とレオニードは納得した様子で新聞に目を戻した。
(葬式に僕も出たいなどと言うと疑われるだろうか・・・。疑われるだけだ・・・。それに女主人のアデールや
ヴェーラならとにかく、僕はそんな立場の人間では無い。僕はたまたま存在を許されている愛人にしか過ぎない
のだ。使用人たちの僕を見る目には「堕落した女」と書いてある。僕が葬式に出るのはむしろ死者への冒涜とと
られるだろう・・・。)ユリウスは汗ばんだ手を握り締めた。
不安という楔が打ち込まれて出来た心の亀裂が、疑惑という介添えでまた一層深く、大きくなるのを彼女は感じ
ていた。
「侯爵様、これは何て書いてあるんですか?私は学が無くて字が読めないのです。」葬儀が終わった後、目を真っ
赤に泣き腫らした若い女がレオニードに尋ねた。ヨシフの恋人ででもあったのだろうか。周囲の使用人たちが非
礼を咎めて彼女の袖を引いたが、レオニードは構わず答えた。
「これはラテン語という昔の言葉だ。読めずとも困らん。ここには『神は与え、また奪い給う』と書いてある。
お前も知っている言葉だろう。」
「・・・ええ、聞いた事あります。大事な人を無くしたら、みんな同じような事を考えるんですね・・・。
ありがとうございます、侯爵様。」
切れ切れにそういうと女は使用人仲間に囲まれて礼拝堂を去っていった。埋葬までは付き合わないレオニードは
その姿を見送った後、再びその墓碑銘に目をやった。それは何代か前の侯爵夫人が幼い長男に与えた墓碑銘だった。
ユリウスはその夜まんじりともできず横たわっていた。ヨシフの死は恐ろしい衝撃だった。レオニードは幸い葬
儀の後は軍部に行ってしまい、そのまま泊り込みだったので、硬直した体で抱かれて不審を抱かれる危険は少な
くとも昨夜は免れることができた。
事故だとレオニードは言っていた。ユリウスは後で執事を呼び止めて詳しい事を聞いた。外出先での事故。
突然突っ込んできた荷馬車。だが御者は姿をくらましてしまい、ヨシフは死に損だ・・・。かわいそうに、
敗血症さえ起こさなかったら2〜3ヶ月寝込んだだけで回復したろうに・・・。あんなに長い事苦しんで・・・。
事故・・・。本当に・・・?いや、ヨシフを狙って、何の得があるだろう。報告書はアナスタシアからそっくり
の封蝋で閉じられて返され、ユリウスが元の場所に戻しておいた。今更ヨシフを手に掛ける必要は無い筈だ。
ユリウスは夜通し寝返りをうち、寒気がするのに何度も額の汗をふいた。違う、絶対に違う。だが確かめように
も、
脱出の合図がくるまで彼女からアナスタシアに連絡をとることは不可能だった。ユリウスは闇の中で顔を覆い、
うめいた。「絶対に違う。」だが、闇は何も答えず、いっそう暗さと密度を増してユリウスを押し潰すようだった。
彼女は結局一睡もできず朝を迎えた。あの、昔なじみの罪の感覚がまた彼女をがっちりと掴み、あまり強いとは
いえないその精神を握り潰そうとしていた。
(9)
翌朝、ユリウスは自分の目が信じられなかった。ロシアの冬としては奇跡的な事に空は一片の雲も無く晴れ渡り、
真っ白な外界は一面にきらきらと、いや目がくらむように輝いていた。ユリウスは朝食も取らず、サロンから
呆然とそれを眺めていた。そしてまるでその輝きに吸い込まれるように扉を開け、外に、白色と光の世界に踏み
出していった。誰かが止めようとしていたが、その声は全く彼女の耳に届かなかった。
「あれは?」朝になってようやく帰邸できたレオニードは軍帽をとり、外套を脱ぎかけながら聞いた。
「は・・・。それが晴れてるからと言って庭の方にお出になってしまいました。随分お止めしたのですが・・・。」
雪かきした石張りのテラスから足跡が点々とすっかり白一色となった庭園についていた。レオニードは外套を
まとい直し、急いで足跡を辿った。
何度もその下でリュドミールと共に寝転んだニレの大木の近くでユリウスは一人、ずいぶん長い時間立ちつくしていた。
青い空は自分を吸い込んでいくようだった。庭も木立も邸も雪に包まれて白く、昨夜の煩悶の闇が嘘のように、
どこまでも白と青の清浄な世界にユリウスは立っていた。
全ての罪も過ちもまるで存在しないようだった。そんな事は錯覚だとわかっていても、今、ユリウスは世界の
全てが自分を包み込み、昼間なのに突然空が透明になり、星までが見え、天空が自分を吸い込んでいくような
感覚に襲われた。なぜこの罪深い自分がそんな風に思えるのかわからなかった。だが、罪も過ちもそのままに、
自分は今大地に立ち、世界と向かい合っている。何もかもが一瞬で永遠だ、罪も穢れも慟哭も。ただ自分は生ま
れてきてここに在る。
ユリウスはいま全てを了解し、許し、許されたと感じた。自分が負う負債は人の世の時間と矩の中で返すべき時
が必ず来るだろう。だが今、自分はこの一瞬、それを離れた時間にいる事を何者かが許したのだ。この奇跡の感
覚を失うまいとユリウスは空を見上げた姿勢のまま目を閉じて立ち尽くしていた。
みじろぎもしない彼女の様子に声をかけそびれて少し離れた所からユリウスを見ていたレオニードは、ふと彼
女が実際よりひどく遠い所にいるような気がし、その名を呼んだ。
「ユリウス!」
ユリウスはその声でふっと遠い所に行っていた何かがまた体内に戻ってくるのを感じた。そして振り向いて、
今しがたの不思議な感覚で洗われた目でレオニードを見た。
背の高い、強い、自分を愛している男。
レオニードは大股で近づいて来て言った。
「何をしているのだ。少し晴れてるからといって不慣れなお前が一人で出るな。ロシアの冬を舐めてはいけない。
庭で凍死などいい笑いものだ。」
ユリウスはどこか不思議な表情でレオニードを見つめていたが、ふと頭をめぐらせ、木々の梢を見て言った。
「ああ・・・ヤドリギが見たくなって。ほら、あそこにある。」
「下まで行ってキスでもするか?」「大晦日はとうに過ぎたよ。」
だがレオニードは笑ってユリウスを捉えてくちづけした。そしてそのまま彼女を抱くとしばらくじっとしていた。
「レオニード・・・?」ユリウスのいぶかしげなな問いかけに、「いや、何でもない。晴れている内に戻らねばな。」
と言ってレオニードは外套を片袖脱ぐとユリウスを引き寄せてその中に包み込み、彼女の肩を抱いて邸の方へ歩
き始めた。
「ほら見ろ、雪雲が出て来た。あっというまに吹雪になるぞ。」
ユリウスはそっと彼の肩に頭をもたれかけさせた。さっきの不思議な感覚がまだ残っていて、それが彼女にもう
突き詰めて考える事をやめろと告げた。高まる緊張を勘づかれ、怪しまれれば全ては水泡に帰してしまう。自分
の命は惜しくはないが、クラウスの計画だけは頓挫させてはいけない。
ユリウスはクラウスの脱獄は魂の全てをかけて念じていたが、自分が脱走しおおせるとは何故かどうしても信じ
られなかった。しかし警察に引き渡されて口を割るくらいなら、殺された方がましだった。
だがレオニードは自分を他人の手に引渡しはしないだろう。必ず自分の手で始末をつけようとする筈だ。彼女は
半ば死を覚悟していた。それに一方ではレオニードに応えずにおれない自分がいる事もまた真実だった。それが
たとえ愛ではないにせよ。
真実の中の偽り、偽りの中の真実。どちらかだけを抽出する事など出来るだろうか?いずれにせよ残されている
時間はもう少ない。もうすぐロシアの長い冬も終わる。そしてシベリアにも春が来る。本当にあと僅かな時間、
自分の生に残されたのはこの僅かな時間だけなのだ。ではその間だけでも自分はレオニードのものでいよう、
例えそれがどんなに欺瞞に満ちた残酷な仕打ちでも、誠実さのかけらもない事でも。自分は必ずその負債を払うだろう。
ユリウスは善悪の彼岸に立ち、ただ自分の生を燃焼させろと何者かが言う声を聞いていた。この時ユリウスは気
づかなかったが、出会って以来初めて彼女はレオニードよりも高い地平に立っていた。
次の朝がきた。レオニードの腕の中で目覚めたユリウスはカーテンから差し込むまだ弱弱しい冬の朝の光を見つ
めていた。いつかの朝もこうだった。レオニードに全てを明かしてしまったあの夜が明けた時、濁流から打ち上
げられたような思いで朝の光を見ていた。あれからどれだけの時が過ぎたのだろう。あの時、多分自分は生まれ
変わったのだろう。今の自分は記憶を失う前とも、記憶を失っていた時とも違う人間だった。おそらくこの傍ら
で眠っている男が、真実を恐れない男が僕を作り変えてしまったのだ。かつて罪から逃れてきた孤独な、17歳の
自分、決してあれから自分の力で強くなったわけでも賢くなったわけでもなく、ただこの男の強い腕に護られて
力を与えられ、正気を失わずに生きてこれただけだ。でも今、僕はその中からすり抜けようとしている。生きた
ままでなのか、死体となってかはわからないが、もはやこの腕の中に留まることは叶わなかった。
(時が近づいている。)そう思い、自分でも気づかなかったがユリウスは微かなため息をついた。
すると眠っているとばかり思っていたレオニードが彼女を引き寄せた。そして横たわったまま長い指でユリウス
の髪を直してやりながら、寂しいか?と聞いた。ユリウスはすぐに彼が聞いているのがリュドミールの事とわか
り、小さく微笑んだ。レオニードには寂しさを見抜かれていたが、その本当の理由まではわかっていないだろう。
あなたは?弟が手元にいなくて本当は寂しいのでないの?一笑にふされると思っていたのにレオニードは返事を
せず黙ったままユリウスを見つめて微笑んでいた。ユリウスはふとその微笑みに触れたくなり、手をあげると彼
の頬にさわった。レオニードは一瞬驚いた顔をしたが目を閉じ、やがてユリウスの指先が離れると優しくその手
を握り、そっと手のひらにくちづけした。
「あいつがもう少し長く家にいたらきっとお前に惚れていただろう。そうなると面倒な事だ。」レオニードはユリ
ウスを自分の上に抱き上げながら感傷を断ち切るように言った。
「まさか。」レオニードは笑った。「お前は本当に男を知らぬな。」ユリウスも笑って首を振った。わかっていない
のはレオニードの方だった。リュドミールは決してそんな目でユリウスを見る事は無いだろう。彼らはいわば何
かの間違いで別の親から生まれた兄弟のような存在だった。だがもう自分は彼には会えない。あらゆる裏切りの
中で一番辛いのはもしかするとこの事かもしれなかった。だがレオニードはいつまでもユリウスを物思いにはふ
けらせなかった。たとえ弟であろうとこれ以上この二人の時間に誰かを割り込ませるつもりは無かった。彼はさ
っさと仕事にかかった。
それからしばらくたったある日の夕方、レオニードは執事と女中頭が廊下でひどく深刻な表情で顔を付き合わせ
ているところに通りがかった。珍しい事に二人は何やら意見が割れているようだった。
「どうしたのだ?」 「は・・・。いや、こんな事をお耳に入れるのもどうかと思っておりましたが、洗濯女が
一人、最近おかしくなってしまって段々手に負えなくなってきたので、その処遇をいかがしたものかと・・・。
先日のヨシフの葬儀の時、身分もわきまえず、旦那様に話しかけたあの娘でございます。」
「どうかしたのか?」
「はあ・・・。実はどうもヨシフと言い交わしておったようで、看病も彼女があたう限りついてやっておりまし
た。ヨシフは敗血症だったので随分うなされていたようで、繰り返し同じうわごとを言っていたとかの事で。」
女中頭が言葉を添えた。「あの娘も・・・まあ前から少し変わった娘ではありましたが・・・葬儀の後、明らか
におかしくなって、憑かれたようにその事ばかり言っているのでございます。仕事の最中にいきなり叫びだしたり
・・・かと思うとじっと石のように固まっていたりで。昨日はついに3階の窓から飛び出そうとする始末で。この
ままでは、とてもお邸には置いておくわけには。かと言って帰せる里もあの娘にはもうありませんし・・・。」
レオニードは少し興味を引かれて聞いた。「ヨシフは何と言っていたのだ?」
「はい・・・しきりに、順番が違う。彼女が。と繰り返していたそうで。娘の方は言い交わしていたのに、他に
女がいたのかと大層裏切られた気持ちでおるようで。でも何もそのような事ぐらいであんなに。やはりもともと
あの娘は少しおかしかったのでございます。」
だがその瞬間レオニードは立ち尽くし、足元に亀裂が走るのを感じた。グルシェンコフの声が聞こえた。「異常値。」
執事達はヨシフの作業の具体的な事は知らないだろう。彼らにとっては毎朝届けられる機密文書もただの「書類」
だ。
もちろん余分な好奇心など抱かれては論外だ。ヨシフとてその内容については全く知らず、興味も持たず、ただ
定められた手順通りに勤めていたろう。だがその厳密に定められた書類の並べ方、「順番」はあの若い従僕には大
きな意味を持っていた筈だ。それともあの哀れな娘が思い込んだようにヨシフの「女」の順番か?前者の場合で
は「彼女が」とは何だ。どちらにせよ確かめる方法は一つだった。黙ってしまった主人を訝しげに見つめる執事
達に「金はかかってもよい。その娘の事は、悪くないようにしてやれ。」とだけ言うとレオニードは足早に書斎に
向かった。
廊下を歩みながら、彼は最近この邸内に起こっているいくつかの出来事を思い浮かべていた。異常値はどれだ。
たわいも無いものもあれば、単独のものもあるだろう。だが、関連しているものが確かにある筈だ。ヨシフの唐
突な事故と死、おかしくなった洗濯女、アナスタシアとヴェーラ、妙にまだ邸内の事にくわしいアデール、ヴェ
ーラとシヴェンスキー、子供から男になりかけているリュドミール、リュドミールとユリウス。
ユリウス。そこまで考えたところで彼はちょうど隠し部屋の前に立っていた。明らかにヨシフの死に驚いていた
ユリウス。彼女は気の優しいところがあり、それがいいか悪いかは別として使用人の自尊心を認める類いの人間
だった。だからヨシフの存在に気づいていても不思議ではない。だが。
レオニードは退屈さえ感じさせる一連の作業を経て隠し部屋に入った。暗号化された報告書。同じものは視察先
にも数日遅れで届けられており、帰還後は朝届けられたものに目を通すと彼はすぐ暖炉で燃やして処分していた。
だから彼はうかつにもしばらくこの隠し部屋に保管してあるものの処分を怠っていた。(処分は必ず彼自身が行っていた。)
一番下段がそれだ。彼は膝をつき、封筒の並びを確かめた。一見同じに見えても微妙に異なる紙質の封筒。
決して時系列順に並ばないように順番は厳密に定められている。見たところそれは破られていない。ではこの事
ではないのか?どちらにせよこれらはもう焼却せねばならない頃合だ。レオニードはいくつかの封筒をまとめて
引き出し、そして気づいた。封蝋は偽造だった。
ヨシフは封蝋の偽造には気づけなかったろう。かなりよい出来だったからだ。だが、今までの人生で何百、いや
何千何万という封蝋をペーパーナイフで切ってきたレオニードは違う。彼はありとあらゆる封蝋を見ている。爵
位、皇室、軍隊、年齢、様々な階位による差意がそこにはあった。そしてこれは偽者だった。彼は丹念に見てい
った。ある一定期間のものだけが偽の封蝋だ。彼はその一つ一つを開けていった。中身は本物だったが、いつも
開封する時の、あの手が切れるような感触は無く、明らかに既に人手が触れていた。
もう認めざるを得なかった。この邸にはスパイがいる。またしても。
晩餐の席でヴェーラは執事に訊ねた。
「お兄様は?今日は早く帰っておみえでなかったの?」
「何か調べ物があるとかの事で、今日は書斎の方に軽食をお持ちするようにと。」
「あら、最近の兄上にしては珍しいわね。」
ユリウスも少し怪訝そうな表情を浮かべていた。ヴェーラの見るところ最近の二人の関係は随分安定してきてい
た。ユリウスは幸福そうとまではいかなかったが何か以前とは違う落ち着きをまとっていたし、兄は明らかに態
度を改めていた。今はシチューキンという存在が心のあらかたを占めていたので、ヴェーラは兄とユリウスを割
と気楽な気持で見ることができるようになっていた。一瞬、ヴェーラは兄も居ないこの席でシチューキンとの事
をユリウスに話しておこうかと思ったが、何かに気をとられているユリウスの様子を見て、やめにした。
レオニードは書斎で一人、灯火もつけさせず、闇を見つめていた。幾つかの可能性があっても最も疑わしいもの
がどれかは考慮の余地も無い程だった。後はそれを自分が受け入れられるかどうかだけの問題だった。何かを振
り切るように立ち上がると、彼は夜半だというのにロストフスキーに車を出させ、邸を出て行った。市中を走ら
せてくれというあいまいな命令で、途中下町の火事にぶつかり、車は止まらざるを得なかった。ロストフスキー
は恐縮したが、レオニードは黙って少し先に見える炎と煙の方を見ていた。ようやく車が動き出し、冬宮前の広
場に停めさせると、一人車外に出てじっと冬宮を眺めていた。結局その晩は彼は軍部に戻り、その日は邸には帰
らなかった。
ユリウスは一人、レオニードの寝室で暖炉の火を見ていた。期日は定められていなかったが、アナスタシアから
の使いがくるまで、もうそんなに日数は残されていない筈だった。もし来なければ?このまま何らかの理由で放
置されたら?そんな疑いがふと胸をよぎったが、その問いは意外な程重みを持たなかった。その時は自分は死を
選ぶだろう。ひどくあっさりと何の気負いも無く、ユリウスには自分の選択が見えた。アナスタシアの(あなた
は生きる事を恐れているだけだわ。)という言葉が脳裏をかすめたがユリウスは首を振った。彼女と自分の生き方
は違う。
こうやって一人で夜半、暖炉の火を見ていると、あの夜をどうしても思い出す。母はひどくやつれた顔で聖書を
燃やしていた。ふとユリウスは母を哀れに思った。だがそれはもう遠い遠い過去の事だった。今夜のユリウスは
レオニードを待っているだけの、ありふれたただの愛人だった。やがて廊下を歩む足音が聞こえてきて、ユリウ
スは微笑んで立ち上がった。
だがその晩ユリウスは彼の激しさに驚いた。レオニードは寝室に入ってくるなり無造作に灯りを全て消してし
まい、無言でユリウスを突き倒すように横たえた。こんな抱き方をされるのは久し振りだった。だが短い時間で
絶頂近くまで追いやられた後は、あと少しというところで何度もそらされ、ユリウスは不満に泣き叫びそうにさ
せられた。長い時間繰り返し焦らされ、おかしくなりそうになったところでレオニードは一転して滅茶苦茶に突
いてきた。まるで彼女を壊そうとでもするかのように。
ユリウスはもう何が何だかわからなくなり、自分が泣いているのか獣のように叫んでいるのかも把握できず、こ
のまま気が狂っていくのでないかと快感の中で自らをあやぶんだ。お互いの表情も見えない闇の中、小さくなっ
た暖炉の火だけが彼らの体の輪郭をなんとか浮かび上がらせていた。まるで闇そのものに抱かれているようで、
幾度目かの絶頂に追いやられた後、ユリウスは失神同然に泥のような眠りに落ちていった。
だがレオニードは違った。彼女が規則正しい寝息になると、そっと身を起こして小さな灯りを手に、眠る彼女
を見つめた。そして彼女の喉に触れた。細い、白い喉。シャツの襟元から見えるこのたおやかな線に、彼は今ま
で幾度熱い思いに駆り立られてきた事だろう。だがそう望めば同じ部分を締め上げて、片手でその命を奪う事も
また容易だった。
偽りでもいいではないかと、彼は一瞬思った。彼女をこうやって手の中に収めておけるのであれば。かつてそう
していたように。しかるべき手をうった後、このまま気づかぬふりをしていればこの嘘吐きの小さな生き物を失
う事はないのだ。
だが、自分がそんな事は出来ないのはよくわかっていた。目の前の事実を直視しなければ、いつか致命的な失敗
に繋がるという事は骨身に叩き込まれている。見たいものだけを見ていては、最終的には勝利どころか全面的な
敗北を喫すだろう。その誘惑は優れた軍人なら最も犯してはならない禁忌だった。そして彼の本性は軍人で、
その本性を偽る事だけは彼にはできない相談だった。
ユリウスが目覚めた時、レオニードはもう着替えを済ませてベッドの足元の方に腰掛けて彼女を見つめていた。
一部の隙もない軍装の彼とあられもない姿勢で目覚めた自分の有様はあまりにも対照的で思わずユリウスは上掛
けに手を伸ばし、身を覆った。「・・・起こしてくれたら良かったのに。」恥ずかしさのあまり思わず恨みがまし
い文句が口をついてでた。レオニードは無言でかすかに微笑んでいたが腕をのばして彼女の頬に触れるとしばら
くそのままでいた。あまりに長く彼が黙っているので「レオニード?」とユリウスが問いかけると、ふっと微笑
んで手を下ろし、「もう起きなさい。朝食はたまには食堂でとろう。」と言って立ち上がった。
いつも早起きなヴェーラは朝食をとっくに済ませてしまっており、レオニードとユリウスだけが席についた。
ユリウスは身支度はしたものの、まだどこかぼんやりした体と頭で給仕を受けながら、こうして二人きりで夫婦
然として朝食をとる事に何とも居心地の悪いものを感じていた。だから途中でロストフスキーが戸口に現れ、目
顔で合図されたレオニードがユリウスの肩に軽く手を触れて席を外した時はむしろほっとした。そして耳は自然
と二人の会話に吸い寄せられ、そしてユリウスは凍りついた。
きれぎれに耳に入ってきた言葉。「・・・書斎・・・報告書の・・・順番・・・並びが違う」「・・・本当に
・・・?」「・・・いや、今日はもう出ねばならない。明日、確認・・・」
自分の血がすっと足元まで下がっていくのが分かった。レオニードはユリウスの元まで戻り、「途中だがもう行く。
今夜は向こうに泊まりだ。」と声を掛けるとロストフスキーを従えて出て行った。
ユリウスは夜半まで待った。こんなに時間が過ぎるのが遅い一日はいまだかつて無かった。幸いヴェーラは出か
けていたので落ち着き無く室内を歩き回る彼女の姿をいぶかしまれる事は無かった。食事も喉を通りそうに無く、
誰とも顔を合わす自信の無かった彼女は結局運んでもらった夕食も手付かずで下げてもらわざるを得なかった。
そして皆が寝静まったと確信できる時刻になってから灯火を手に部屋を滑り出て書斎に向かった。そして隠し部
屋の前でしばし躊躇した。自分は今、何か愚かな事をしているのかもしれない。だが、(クラウス・・・。)
ユリウスは隠し部屋を開けると、中に入り、順番通りに戻した筈の封筒に手を伸ばした。
「・・・こんなに簡単にひっかかるとはな。」
ユリウスは驚愕して振り向いた。レオニードは戸口にもたれて彼女を見つめていた。ユリウスの表情が真相の全
てを語っていて、怒りと悲しみが酸のように彼の心を灼いた。そして驚愕と共に彼女の眼に微かにうかぶ哀れみ
の表情、それはレオニードにとっては最も耐え難いものだった。
彼が一歩室内に踏み込むと、ユリウスは封筒からそっと手を離し、床に膝をついたままの姿勢で一瞬目を閉じた。
そして聞いた。
「なぜわかったの?いつから?」それは修辞的なものでなく、純粋な疑問からだった。
「説明してやる義理が私にあるのか?」レオニードは静かに答えた。
「反対に教えてくれ。一体どうするつもりだったのだ?何もばれずに逃げおおせられると思っていたのか?それ
とも」
と言うとピストルの台座をユリウスに向けて言った。
「私を撃って逃げるか?」
「やめて。」震える声でユリウスは言った。
「僕はもう誰も殺したくない。」
「だがヨシフは死んだな。違うか?」「あれは・・・事故では」
「相変わらず甘いな。本気でそう思っているなら、おまえは革命家になどなれぬぞ。それともそう信じたいだけか?」
ではやはりそうなのかとユリウスは目を閉じた。また新たな血を僕はこの手に塗っていた。
うなだれて床に膝と手をついたユリウスを見下ろしながら、昔、同じような事があったとレオニードはこんな時
なのに、出会った年の事を思い出していた。あれだけ日々を経ながらも、結局彼らの関係は振り出しに戻ったか
のようだった。あの時はアレクセイ・ミハイロフの逮捕予定を知らされた彼女が駆け出したところを自分が転ば
せて、その手を軍靴で踏みにじったのだ。自分は今でも同じ事ができるだろうか?その少し前、秘密警察の手に
引き渡すと脅した事もあった。あそこの拷問にかけられれば、この女はひとたまりも無く吐くだろう。この女は
弱い。だが、自分にそれができるのか?あの時ですら、なぜか残虐な気持ちにかられるまま口先でいたぶっただ
けで決して本気では無かった。
そしてグルシェンコフ。レオニードは知っていた。あの立ち話で触れられた取調べの指揮をとっていたのは実は
他ならないグルシェンコフで、彼は筋金入りのサディストだった。どこか嗜虐心を誘うユリウスは格好の獲物だ
ろう。
そもそもあの時、グルシェンコフはクリコフスカヤのもとに出入りしていたのは本当はユリウスの方だという事
は掴んでいた筈だ。奴はヴェーラとこいつを取り違えるような中途半端な事はしない。あの時はあえてそれを伏
せ、まだ何も気づいていないレオニードを嬲り、恫喝していたのだ。お前の愛人も道を違えていれば同じ目にあ
わせるぞ、と。
追憶を振り払い、もう一度レオニードはユリウスを見つめた。彼女はもう彼を見ようとしなかった。抗弁もせず、
ただ頭を垂れてまるで彼の裁きを待っているかのようだった。
おまえの人生は偽りばかりだな 。 そうでない物はあったのか?レオニードはよほどそう言ってやりたかったが、
それは逆を返せばユリウスの真実はただ一つで、結局変わらなかった事を認める言葉でもあった。やつへの忠誠
心。いま彼女はそれだけを守り抜こうとしているのだ。文字通り身を捨て、命を捨てて。
そしてレオニードがそう考えたまさしくその瞬間、ユリウスは顔を上げ静かな眼差しで、彼が最も聞くのを恐れ
ていた言葉を言った。
「お願い。僕を撃って。あなたの手で。」
彼の愛を見透かした上でそれを逆手にとる懇願に、レオニードは目の前が真っ白になる程の怒りを彼女に感じた。
夜半、ヴェーラはロストフスキーに起こされ驚いた。信じられない無礼に怒り、
「な・・・これはどういう事ですか?」と咎めようとしたが、彼に冷たく「候がお呼びです。」
と言われ何事か起こった事を察し、急いで夜着をはおるとロストフスキーについて兄の書
斎に向かった。そこで彼女が見たのは書斎の隠し部屋の扉が開き、床に座りこんでうなだ
れているユリウスに兄が短銃を向けている姿だった。彼女は自分の目が信じられなかった。
兄がユリウスに視線をそそいだまま聞いた。
「ヴェーラ、お前も知っていたのか?こいつは誰に情報を流していたのだ?」
「お兄様・・・。何のこと・・・?何をなさっているの?」とヴェーラは事態を半ば察し
つつも、認めたくなくて兄に問い返した。、
「時間稼ぎをするな。ヴェーラ、私の不在時に起こっていた事だ。こいつが外部と接点を
持てたどうかはお前が一番良く知っている。それとも答えられないのか?お前もぐるか?」
(ああ、アナスタシア、あなたがまさか・・・。言えない、もう私にも兄上にもこれ以上
血を流させないで・・・。)
ユリウスが突然顔を振り上げて叫んだ。
「彼女を巻き込まないで、彼女は関係ない!」我知らず目をつぶっていたヴェーラは「彼
女」とはアナスタシアの事を言っているのかと思ったが、目を開けるとユリウスは自分で
はなく、レオニードを必死なまなざしで見上げていた。ユリウスが庇っているのはヴェー
ラだった。
レオニードは黙ってユリウスを見下ろした。その黒い瞳は妹が初めて見る非情さをたたえ
ており、ヴェーラは背筋が冷たくなった。
「お兄様・・・お願い、ユリウスの話を聞いて。何かの行き違いではないの?ユリウス!
そうでしょう?」
ヴェーラは必死だった。ユリウスが何か申し開きをしてくれれば・・・!それがどんなに
怪しいものでも自分はそれを頼りにきっとなんとか兄を説得してみせる。兄だって本当は
ユリウスを撃つ気などない筈だ。兄の手は愛する者の血で汚れるためになど出来ていない。
本当は人一倍愛情の強い彼がそんな事をすれば、きっと内面の何かが崩壊し、二度と取り
返せない傷を負うことになるだろう。そんな事を兄にさせてはいけなかった。
「ユリウス。お願い、何か言って。」ヴェーラはできるだけ落ち着いた声を出し、何とかユ
リウスの視線を捉えようとした。だがユリウスは再び目をつむり、かたくなに口を閉ざし
てしまった。「ユリウス!」ヴェーラはついに悲鳴じみた声をあげてしまった。ユリウスは
自分だけでなく兄をも破滅させてしまう事がわからないのだろうか。(ユリウス、あなたは
それでもいいかもしれない、でもそれはあまりにも身勝手だわ、あなたはお兄様の心まで
殺そうとしているのよ、なぜそれがわからないの!?それともそんな事はどうでもいいと
思っているの・・・?)
「もう良い。お前にはもう聞かぬ。」レオニードはヴェーラに言った。
「この女は認めているのだ。だがこのユスーポフ家から裏切り者を出すわけにはいかぬ。」
そして「立て。」とユリウスに言った。ユリウスはのろのろと立ち上がり、レオニードをま
っすぐに見た。レオニードも彼女を見返した。そして銃を持つ腕をのばし、冷たい銃口が
ユリウスのこめかみにあてられた。次いで安全装置を外す音が室内に響いた。
ヴェーラは悲鳴をあげそうになり両手で自分の口を押さえて、次いで兄を止めようとした
がエフレムとユリウスが重なり、涙で喉が詰まり声が出なかった。ふだん不気味なほど無
表情なロストフスキーでさえ、主が女を撃つ惨さに耐えられず目をそらしていた。
だが当のユリウスは静かに目を閉じた。
(これでいい・・・。これでいいんだ、きっと。できる事ならクラウスにもう一目会いた
かったけれど・・・これでいいんだ。)
口元にはわずかに微笑みさえ浮かんでいたかもしれない。
レオニードは恐ろしいほど落ち着き払っていたが、ユリウスのやすらかな表情を見て冷た
く「気が変わった」と言い、ロストフスキーに裏手に車をまわすよう命じた。
ロストフスキーが部屋から出て行くと、ヴェーラはようやく出た声をふりしぼって恐る恐
る尋ねた。
「お兄様・・・。どこへ・・・どこへ連れていくおつもりなの?」
(まさかどこか別のところで射殺なさるのか、憲兵に引き渡しておしまいになるのか・・・)
だが兄の返事は予想外のものだった。
「ヴェーラ、こんな事をしでかす女が正気だと思うか。しかるべき病院で監視下に置くし
か仕方あるまい。狂人は狂人として遇するのが一番だ。」と冷然と言い放った。
「お兄様、まさか精神病院へ・・・?お願いお兄様、そんなむごい事は、ユリウスをそん
な所へだなんて」懇願するヴェーラをさえぎり、無言のままのユリウスを見て
「狂ったものは仕方がない。他に方法があるか?こいつは自分で選んだのだ。」と冷たく言
い捨てるとレオニードはユリウスを引き立て、連れ去った。
ユリウスは無抵抗に車に乗せられ、レオニードの隣で運ばれていった。無言の内に彼の白
熱した憤怒が伝わってくるようだった。先ほどからレオニードはユリウスに直接には一言
も言葉をかけていなかった。ユリウスはその沈黙に、どんなひどい言葉でもいい、何か言
ってほしい、それでないならいっそ先程のように銃口をあてひと思いに殺して欲しいと心
中で願ったが、一方でレオニードの選んだ処罰はなんであれ自分は受け止めねばならないと
わかっていた。彼の心を贖うために、自分ができるのはそれだけだった。そして彼が選んだ
処置がこれだった。異国の精神病院で一生幽閉され朽ちていくこと。長い緩慢な死、多分
この世で最も彼女を知っているレオニードがそう決めたのなら、それはもしかしたら今まで
自分の犯してきた罪に最も効果的な罰なのかもしれなかった。
ロストフスキーが運転する車は、真夜中の屋敷街を離れ暗い街頭を長いこと走ったのち止まった。
窓は目隠しされていたのでユリウスはどんな所に止まったのかわからなかったが、観念して
レオニードに従って車を降りた。だが彼女の目の前に広がっていたのは、まだくすぶっている
れんがづくりの建物の焼け跡だった。
ユリウスはわけがわからず呆然と廃墟を見つめた。隣に立ったレオニードが外套のポケ
ットに手を入れたまま、無表情に言った。
「よいか。よく聞け。お前は3月の7日、このストルスキ病院に入院したのだ。そして、
翌8日にこの病院は出火し、患者は全員焼死した。医者や看護で生き残った者達も口も
きけぬ重態でもう長くあるまい。当然記録などもみな焼けている。つまり、ユリウスと名
乗っていた女は一昨日ここで死んだのだ。」
今度はレオニードの顔をユリウスは呆然と見つめた。レオニードはまっすぐに廃墟に瞳を
すえていた。
「おまえはもう誰でもない。わかるか?私の言っていることが。」ユリウスに向き直ると
レオニードは言った。
「お前は自由だ。何処になと望むところへ行け。この混乱したロシアで辛酸をなめつくし
て生き抜くか、それとも故郷へ帰って身を隠すか、何を選ぶもお前の勝手だ。」
愛する男のところへ行けとだけは、レオニードはさすがにどうしても言葉にできなかった。
だが自由になった瞬間、ユリウスがアレクセイ・ミハイロフのもとへ、たとえそれがシベ
リアの監獄だろうと瞬時に走っていくだろうことは以前から、そう、初めての出会いの時
から、ずっとわかっていた事だった。
「レオニード・・・!」
見る見るうちにユリウスの瞳に涙が珠のようにたまってきて、レオニードの胸には鋭い痛
みが走った。だがこの苦しみももうこれで終わると、その時の彼は思った。
「だが一つだけ条件がある。」しっかりとユリウスの瞳を見つめてレオニードは言った。
「スイス銀行の隠し口座のこと、あれだけは決して誰にも漏らすな。よいな。革命派の奴
らには扱いきれない代物だ。彼らが飛びついても災いが災いを呼ぶだけだろう。そして、
もし洩れたときには、私は今度こそお前を地の果てまででも追って殺さねばならない。言
っていることがわかるな?」
ユリウスは涙をたたえたまま、黙ってうなずいた。アレクセイ・ミハイロフにも決して言
うなとレオニードは言っているのだ。そしてユリウスもあのアーレンスマイヤ家にまつわ
る全ての悲劇と惨劇を生んだ隠し口座にこれ以上人生を狂わされる気は全く無かった。
レオニードが望む通り、この秘密は死ぬまで守り通す覚悟ができた。彼を最悪な形で裏切
った自分だが、この誓いだけは決して破るまい。レオニードもその決意を見てとり、「よし」
と言った。そしてユリウスに手もふれぬまま、
「話はそれだけだ。もう行け。この通りをしばらく行けば※※通りにでる。マダムコルフ
の店がお前の仲間達のたまり場だ。娼館だから気をつけろ。」と告げてあごで方向を示した。
「レオニード・・・ありがとう・・・。」とユリウスに言われた時、彼は思わず顔をゆがめ、
早口で「早く行け、私の気の変わらぬうちに。」と言うのが精一杯だった。
ユリウスはなおも涙をたたえて彼を見つめていたが、やがて一瞬固く目をつぶり拳を握ると
「・・・さようなら・・・!」と言い、差し示された方向へ、足を踏み出し、早足で歩き
かけた。だが突然振り返ると、レオニードのもとに駆け戻り激しく口づけした。それはユ
リウスから与える初めての、そして最後のキスだった。強く強くレオニードをかき抱き、
次の瞬間はじかれるように身を翻すと、ユリウスは今度こそ振り返らず闇の中へ走り去っ
ていった。
残されたレオニードは身じろぎもせず、彼女が消えた闇の先を見つめていた。そのまま長
い時間が過ぎ、やがて彼がついに振り返りロストフスキーの待つ車へ歩き出した時、その
表情は氷の刃と呼ばれたレオニード・ユスーポフ候へと完全に戻っていた。
ペテルスブルグの街から雪がすっかり融け消えた頃の事だった。
「お兄様、私は家を出て行きます。」
あの夜、レオニードがユリウスを伴わず帰宅して以来、兄の目を見ようともしなかった
ヴェーラが、書斎を訪れて言った。しばらく黙っていたレオニードは「どこへ行く気だ?」
と訊ねた。
「結婚します。シチューキンと。ずいぶん前に求婚されておりました。」
「どんなに金持ちでも平民だぞ。ユスーポフ家の人間にそんな結婚が許されると思うの
か?」わかっていても、あえてレオニードは言った。ヴェーラが言葉を続けやすいように。
「ええ。その通りですわ。あの人は侯爵家の娘としてでなく、身一つの、ただのヴェーラ
で良いと言ってくれました。かつて私のおかした過ちもご存知です。その上で私を望んで
下さったのです。ですから、私は本当にその通りにしようと思います。」
「・・・そうか。好きにするが良い。」というとレオニードは椅子を廻して、窓の外を眺め
た。
「・・・よろしいのですか?」少々拍子抜けしてヴェーラは訊ねた。
「よいも悪いもお前はもう決めているのであろう。好きにしろ。欲しいものは持っていけ。」
とまだ新芽をふかない木々の梢を眺めながらレオニードは言った。
「お兄様・・・。」
「お前が選んだ男だ。間違いはあるまい。」
ヴェーラはふいにあふれてくる涙をこらえきれず、瞳をそっと押さえた。
「泣くな。だがこの家を出て行く前に聞いて欲しいことがある。もう少しこちらに。」椅子
を戻してレオニードが言った。ヴェーラは素直に兄の傍によった。立ったままのヴェーラ
と腰かけたレオニードは彼がひじをついた机をはさんだ形で相対した。
「ユリウスの事だ。」ヴェーラはまさか兄が自分からその話を持ち出すとは思わず、驚き、
緊張のあまり蒼白な顔になって話の続きを待った。
「私は以下のように皇帝陛下に報告した。長い幽閉生活に耐え切れず、精神に変調をきた
した彼女を3月の7日、偽名でストルスキ病院に入院させた。だが、翌8日にこの病院は
出火し、患者は全員焼死したと。わかるか?」
「・・・3月の8日。・・・ストルスキ病院。」とヴェーラは繰り返した。兄はじっと彼女
の目を見上げていた。
そんな筈は無かった。忘れようがない。あれは全て3月の10日に起こったことだ。そし
てあの病院に入院させたのは・・・あの少し前に執事が言っていた。洗濯女が一人、変調
をきたしたと。とても邸に置いておける状態でなく、身寄りもいない女で・・・。
「ストルスキ病院は突然の出火で何もかもが焼け、入院の記録なども何も残っていない。
患者だけでなく、医師や看護人すらも焼死してしまった。ユリウスはその中にいたのだ。
なにせ精神病院で、遺骸も引き取り手の無いものも多く、我が家もそこまでする義理もな
かったので彼女のなきがらは他の患者達とまとめて埋葬された。私が直接遺骸は確認した
上でのことだ。私達が彼女に会うことはもう無いだろう。」言い含めるように兄は続け、ヴ
ェーラは了解した。
「3月の8日ですのね。」
「そうだ。お前は我が家の出納を執事だけにまかせず自ら管理しているだろう。間違いが
ないようによくあらためておきなさい。」とレオニードが言った。ヴェーラはその言葉をか
みしめた。つまり兄は皇帝陛下を欺いてユリウスを逃がしたのだ。兄は彼女を殺さなかっ
た。彼女はどこかで生きているのだ。
「陛下はお信じくださいましたの?」
「さあな。まあ私が独身に戻る日が早まったのは確かだ。」
ヴェーラも兄の様に苦笑しようとしたが、耐えきれずに涙がこぼれた。
それが兄にとってどんなにそれまでの自らを否定する行為だったかヴェーラにはよくわか
った。あの夜、短い時間に知りうる限りの偶然をつかまえ危険を承知で、兄はいわば対岸
に跳んだのだ。それも愛する女の命を救い、しかも彼女を手放すためだけに。ヴェーラは
もう感情が抑えきれず、顔を覆いながら、
「ええ・・・、よくわかりましたわ。我が家の記録をよく見直して、間違いがあれば直し
ておかないと。」と答えた。そして言った。涙を流しながらだが、その瞳は晴れやかだった。
「お兄様、私も同じですわ、きっと。私もあの人を・・・シチューキンを守ってあげたいの
です。あの人はあまりにも純粋で・・・。たとえそれが・・・世の中全てから守ることなど
能わないとわかっていても、それでも彼の幸福のため私は戦えますわ。私は・・・私のできる
最善の事をあの人にしてあげたい。お兄様が彼女になさったように。」
レオニードは立ち上がり、妹の傍らにまわると彼女を腕に抱き、「幸せになれ。」と言った。
ヴェーラも兄をしっかりと抱きしめた。
数週間後、ペテルスブルグに一斉に春の花が咲き開く頃、シチューキンとヴェーラの結婚
式が行われた。それはロシア有数の財閥の人間とユスーポフ侯爵家の娘の結婚としては考
えられないほど質素なものだった。招かれたのも家族と限られた友人だけのもので、こと
に花嫁の家族は幼年学校から休暇をとってきた年若い弟だけだった。だが新しい夫婦は十
全に幸福そうで、出席した人々にこの二人の幸福な結婚生活が末永く続く事を充分に予想
させるものだった。
シベリアの人里離れた小さな小屋でアレクセイが意識を取り戻した時、心配そうに彼をの
ぞきこんでいたのはミハイルと、忘れようにも忘れられないズホフスキーの顔だった。
「アレクセイ・・・!大丈夫か?俺達がわかるか?ああ、まだじっとしていろ。」
「ズボフスキー、ミハイル・・・!ああ、再びこんな風にお前たちと会えるとは・・・。
ズボフスキー、心配してたんだ、よかった、生きていてくれたんだな・・・。」
「アレクセイ、それはお前こそだ。あの監獄でよく生き延びてくれた!もっと早く出して
やりたかったが・・・。やっと。・・・やっと、お前は自由だ。」
彼らは固く手を取り合い、互いを抱擁した。しばらくは3人とも無言で、この再会の喜び
をかみしめていた。やがてミハイルが照れくさそうに涙を外套の袖で無造作に拭うとアレ
クセイに言った。
「もう一人、お前に会わせねばならん人がいる。その人がいなければこの脱走計画は無残
な結果になるところだった。」
「?同志の誰かか?」
「厳密には同志と言えるかどうか・・・。だが誰よりもお前を愛している人だ。窓から見
える、あの木のところで待っている。できればもう少し、身奇麗にしてから会わせてやり
たかったが一瞬でも早く会いたいというご希望だから、仕方ない(笑)。ほら、行ってこい
よ、色男!」
アレクセイは弱った足で少しよろめきながら小屋の外に出た。小屋のすぐ目の前の丘、シ
ベリアには珍しい落葉樹のもとにほっそりとした人影が見え、それは彼が出てきた気配に
気づいた様子ではっとこちらを振り向いた。ばさりと、木から雪が落ちた。
ああ・・・あの振り向き方・・・あの金髪はまさか・・・まさか・・・!
「ユリウス!」
アレクセイは叫ぶと獄中で何度何度も、繰り返し夢に見た恋人に向かって走り出した。
一方のユリウスは最初、小屋の中、不安な気持ちで彼の目覚めを待っていた。意識を失っ
たまま樽から抱えだされ、ベッドに寝かされた彼の顔を見た時、ユリウスは全てを忘れた。
どんなにやつれ、垢や汚れにまみれていても、それは彼女の唯一人愛する男の顔だった。
ただ無言で涙をぽたぽたとたらしながらアレクセイに寄り添うユリウスをミハイルとズボ
フスキーも微笑んで見つめた。
「大丈夫だよ、ユリウス。すぐに気づくさ。」
だが、もうひと時も離れたくないという気持ちと裏腹に、彼女を見た時に彼がどんな反応
をするかユリウスは恐ろしく(もしまたあの時のように突き放されたら・・・。)、時間が
たつと共に胸の鼓動は怖くなるくらい高鳴ってきた。
「どうしよう、僕、このままクラウス・・・いや、ごめんなさい、アレクセイを見ていた
ら、倒れてしまいそう・・・」と言って、ミハイル達にはあきれられたが、少し小屋から
離れたところで彼女は動悸を鎮めようとしていた。だが小屋から出てきた彼の姿を見た瞬
間、すべての恐れや不安は吹き飛んでしまった。振り向いた時木の幹に勢いよく体がぶつ
かり、その衝撃で枝に積もっていた雪がばさりと、ふりかかってきたが、彼女はそれにも
気づかず、雪まみれのまま走り出した。
二つの人影は雪原をころがるように駆け下り、足を雪にもどかしくとられながらお互いに
向かって走りよった。
「ユリウス・・・!」「クラウス!クラウス・・・!」
そしてお互いに一杯に開いた腕の中へ飛び込んでいった。しばらくは言葉にならずに抱き
合い、信じられずに顔を見つめ、笑い、自らが泣いていることにも気づかず、また抱きあ
った。
「信じられない・・・!本当に、本当にお前なのか・・・?」
「クラウス・・・!長かった・・・!」
「ああ、神は俺を罰している、試練にさらしていると思っていた。だがいま俺はこの腕に
お前を抱いている・・・!これが夢でなければ、神よ、感謝します・・・!」
あまりの驚きと喜びで惑乱して、アレクセイは戦闘派の共産主義者でありながら神の名を
唱えていた。だが次の瞬間、アレクセイは雷にうたれたように、自分がかつてユリウスを
冷酷に振り捨てたことを思い出した。
「ユリウス・・・俺がお前にしたことは・・・。許してくれ・・・!いや・・・許される
筈はない、ああ俺はなんてことを。許さなくていい、だがどうか抱きしめてさせてくれ・・!
お前は本当にここにいるんだな、ユリウス・・・」
「そんな昔の事、忘れたよ・・・クラウス・・・。そうだよ、僕だよ。君を探して、やっ
と・・・やっとここまでたどり着けたんだ。抱いて・・・もっと強く僕を抱きしめて・・・!」
雪原の中で二人は固く抱き合い、雪にまみれてまるで一つの雪像のようだった。ミハイル
達は小屋の戸口でずいぶん待っていたがあまりにも二人が動こうとしないので、やれやれ
と首を振り、彼らが凍死しないうちにと二人のもとへ向かっていった。
その五日後の夜、ようやくアレクセイとユリウスは二人きりで向かい合っていた。あれか
ら一行は全速力でシベリアを離れ、五日目にしてそこそこの大きさの地方都市に着いてい
た。彼らがやっと人にまぎれることが可能な大きさの街だった。それまでも二人は橇の中
で片時も離れず手を握り合っていた。語り合いたいことは山のようにあったが、二人とも
まだその力はなく、ただ互いの存在を傍らに感じるという奇跡に満足しきっていた。だが
この街に着き、ミハイル達が悪気無くからかいながら別室に去った後、二人きりになった
彼らはどこかきまずいような思いでぎこちなく、向かい合っていた。
アレクセイは、ただ照れくさくて黙っていただけだがユリウスは違った。再会できるとわ
かった時から彼女は覚悟していた。今までの事を何も言わずにクラウスと人生を共にする
わけにはいかないと、いまだに男心にうといユリウスは考えていた。隠し口座の事は別に
して、彼女には彼を欺くようなことはできなかった。果たして許してもらえるのかはわか
らなかったが、今度こそユリウスは過去を知ったクラウスが彼女を捨てようとも、どこま
でもついていく覚悟だった。言うなら、初めて二人きりになった今をおいてなかった。
「クラウス・・・いやアレクセイ。聞いて。君に聞いてもらわねばいけないことがあるん
だ。それを聞いて、まだ君が僕を求めてくれるかはわからないけれど・・・。僕は君に会
うまで、このロシアで・・・」
アレクセイは、ユリウスが何を言おうとしているか察しがついた。ここ数年、ユリウスが
いい暮らしをしていたらしい事は身なりや彼女の話す上流階級のロシア語などからも明ら
かだった。何の係累もない異国の若い女がそのような暮らしを営めるにはよほどの幸運か、
なんらかの犠牲が必要な筈だった。
「ユリウス・・・。何も言うな。全て、俺があの時お前を置き去りにしたから起こったこ
とだ。その後、お前に起こったことは俺がお前にしたも同然なんだ。責任は俺にある。で
ももしもお前があの過ちを・・・俺を許してくれるというなら・・・。どうか言わないで
くれ。」
「クラウス・・・でも僕は」
「すまない・・・もし聞かねばならないなら・・・ずっと先にしてくれ。二人の関係が強
固に、誰にも、俺たち自身にも壊されなくなった時に、全てが昔話になった時に。俺は監
獄で様々なことを見た。人間は驚くほど強く・・・そしてもろいものだ。
だから今は言うな。聞いてやれない俺の弱さを許して、黙って俺におまえを抱かせてくれ。
そして俺ら二人が二度と別たれることがないように祈ろう。俺達に与えられたのは昨日で
も、明日でもなく、今日だけなのかもしれない。明日には、いや今晩だって一瞬先には何
が起こるか本当にわからない・・・。
過去を振り返って、お互いを傷つけあう時間は、今の俺達には無いんだ、ユリウス。」
ユリウスはアレクセイを見つめた。垢をおとし、ひげもあたったアレクセイはかつての面
差しを取り戻していたが、5年にわたった牢獄暮らしはさすがに彼をやつれさせ、老け込
ませてもいた。だが亜麻色の髪の中で輝く瞳の暖かい色は初めて出会った頃と変わらずユ
リウスの心をわしづかみにした。そしてアレクセイは膝を突くと彼女の両手をとった。
「ユリウス、こうやって膝まずいて頼む。俺の傍にいてくれ。もうこれから先は、俺の妻
として生きてくれ。お前には何も約束してやれない。辛苦と危険が常につきまとう暮らし
になるだろう。でもどうか俺の身勝手な望みをかなえて、妻になってくれ。」
ユリウスは涙ぐみながらも微笑んで言った。
「そして君が僕の夫なんだね。・・・なんだかおかしい。」
アレクセイも微笑んで言った。
「笑うなよ。俺はいつもお前の事を心の中で、俺のエウリディケと呼んでいた。光り輝く
髪をした、俺のエウリディケと。」
ユリウスは熱いもので胸がいっぱいになり、笑いながらすすり泣いた。
(ああ・・・やっぱりこの人を愛している。僕の、運命の恋人はあなただ・・・!
あなただけだ・・・!)
もうそれ以上彼に抗がって言葉を続けることはできず、ユリウスは自分の前に膝をついた
彼の頭を身をかがめて抱きしめた。それが彼女の答えだった。…アレクセイは下から微笑
んで彼女を見上げたが、ふいに恐ろしいほど真剣なまなざしになり、彼女の顔を両手では
さむと深く深くくちづけした。それが二人が再会以来交わす最初のくちづけだった。
アレクセイの愛撫はレオニードとは異なり、性急で未熟ですらあったがユリウスが感じて
いたのはそれまで感じた事の無い、ただ涯のない祝福に満ちた幸福感だった。ともに爆ぜ
散った瞬間、ユリウスの脳裏に誰かの黒い瞳がかすかに浮かんだが、すぐに消え去り、二人
は至福の中、抱き合ったまま眠りに落ちていった。春とはいえまだ雪が残る小さな都市での
静かな、星々達だけがにぎやかなありふれた夜、よくある誓いに満ちた恋人達の夜、だが二
人にとってはそれは運命の夜だった。
第2章 了
106 :
チェス:2009/08/09(日) 10:06:54 ID:XtISsDvI
ユリウスは交わりの後の心地よい気だるさに浸っていた。起き上がってガウンを羽織ったレオニードが少し離れた
小卓の水差しからグラスに水を注ぎ、一口飲むとユリウスに渡した。それを素直に受けとって飲み干し、水差しの
脇に戻そうと彼女もガウンをまとってベッドから出てレオニードの横に立つと彼の視線が小卓のすぐ脇に置かれ
たチェス台に注がれているのに気づいた。そういえばかつて一度だけ彼らが盤を挟んだ事があった。
あれは何年前の事になるのだろう?とにかく彼女がまだ記憶を取り戻せず、自らのものと言えば名前しか、それも
レオニードに告げられて初めて知った名前しか持っていなかった頃の事だ。
ユリウス、わざと負けるのはやめてよ!ぶじょくだ!リュドミールが小さな癇癪を破裂させた。ユリウスは苦笑し
てそんなつもりは無かったけど・・・と言ったがリュドミールは珍しい事にすっかりへそを曲げてしまったらしく、
さらに言い募った。だいたいユリウスは几帳面すぎる。僕に譲るったって何も3回に1度、判を押したみたいに負
けなくても。譲るなら譲るでもう少し工夫して負けてくれればいいのに。レオニードがリュドミールにそこまで無
理を言うな。お前が強くなればいいことだろう。と書類に視線を注ぎながらも部屋の反対側から声をかけた。もち
ろん強くなります、でもすぐには無理だし、ユリウスもそんなに僕に合わせるくらい余裕があるならもっと強い人、
そうだ兄上とでも対戦すればいいんだ。ユリウスは呆れて首を振った。レオニードとチェスなんてとんでもない。
リュドミールと僕どころの差ではない、下手すれば3手で終わりってところだろう。だかリュドミールはよほど腹
に据えかねていたのか、わざわざ重いチェス台を兄の前の卓子まで運んでいった。ユリウスはリュドミールが叱ら
れないかハラハラしたが、レオニードは意外なことにポーンを手に取って、ユリウスを見るとにやりとし「どうし
た?」と声をかけた。ははあ、これは僕を徹底的にからかう気だなと察しをつけてユリウスは負けん気が駆り立て
られた。結果はわかっているにしても少しは手こずらせてやろうと、同じく好戦的な笑みを頬に刻むと立ち上がり、
彼の前に意気揚々と向かった。
極力ねばりはしたものの、彼女は結局盤面のあちらこちらと奔走されたあげく、しまいにはキングは丸裸になり、
レオニードのポーンに詰まれた。
あーあ、思った通りだ。レオニードにからかわれただけだ。
いや、思ったより手強かったぞ。もう少し早く切り上げるつもりだったのだから。慰めはいいよ、なんだかさっき
のリュドミールの気持ちがわかるな。ユリウス、そうでしょう?まあそう言うな。予想外に善戦だったのだから何
か褒美をやろう。何が欲しい?うーん。急に言われても。欲のない奴だな。晩餐までに考えておけ。
そんな事もあったなと二人は期せずして思い出していた。あの無邪気な日々は随分昔の事のようだった。
「結局、僕は何をお願いしたんだろう?」レオニードは目をそらし笑った。あの時ユリウスは何も得る事はなかった。
レオニードは急な呼び出しが入ってすぐ軍部に向かい、彼女の望みは聞き損ねた。数日後帰邸した時ユリウスが何
も言わないのでレオニードも自分の方から言い出すのも馬鹿馬鹿しい気がしてそれきりにしたのだ。今も彼の方だ
けが覚えているのは癪な事だった。しかし本当にあの時彼女は何を求めるつもりだったのだろう。
あの時期、レオニードは彼女を欺いている事になんら痛痒を感じなかった。むしろそこには奇妙な満足感すらあ
った。それが単純な征服欲なのか自分に問いかける事もなく、そうだ、そうしてこの手に収まっておれば良いと無
意識のうちに彼女に語りかけていた。彼がしている事は彼女の目を覆い、耳をふさぎ、手を縛り、足を結わえてい
るも同然だったが彼はそんな日々に満足しきって、彼女が己に心をあずけてくる事にも何の恐れもなく余裕をもっ
て受け止めていた。征服欲と独占欲が満たされ、女に首輪をつけている事に安堵して、今思うと彼の心はずいぶん
安らかだった。
107 :
チェス:2009/08/09(日) 10:07:38 ID:XtISsDvI
「久しぶりに対戦するか?」
「結果はわかりきってるのに?」
「さあどうかわからぬぞ。だが只では面白くない。何か賭けよう。」
「賭け?あなたからそんな言葉を聞くなんて。」レオニードは微笑んだ。
「それに僕には賭けるものなんて何もない。」
「では文無しのお前からは駒を奪う毎にくちづけをもらう事としよう。お前はどうする?何か欲しいものは無いのか?」
少し前の彼なら戯れ言にしても決して言わなかった言葉だった。自由の身にしてくれと言われ激昂するのが関の山
だったろう。だが最近ユリウスの態度やありようは明らかに変わってきていた。レオニードは余裕を持ってユリウ
スの返事を待った。ユリウスは暫く考え、だが意外な答えを返した。
そうだね・・・候爵で大金持ちのあなたからは思い出をもらおう。
レオニードは虚をつかれた。思い出?そう。僕が駒を得る度に一つ思い出話を。それはずるいな。いちいちそんな
ものを話していては気が散るではないか。力の差を考えればそれくらいのハンデは貰って当然だと思う。それにあ
なたも僕の気を散らすんだし。そうでもしなければ僕は駒の数だけキスされてしまう。(見え見えだったな)と苦笑
して、口づけで気が散るのは彼も同様だったがそうは言えず、それがいやなのか?別にいやじゃないけど、とにか
く僕があなたに賭けて欲しいのはそれ。で、やるの?やらないの?
いたずらっぽい笑顔でそこまで言われてはレオニードも引き下がれなかった。暖炉の前の敷物に直接チェス台を置
くとレオニードはオニキスの黒の駒を、ユリウスはアラバスターの白を握った。
序盤、二人は慎重に駒を動かした。だがユリウスはどうせ負けるのに決まってるのだからとすぐに馬鹿馬鹿しくな
り、捨て身で駒を奪うことに専念しようと、定石を放棄してさっさと大きく動かしだした。
レオニードはそれと悟って眉をしかめた。これは油断がならない。案の定、ユリウスはすぐに黒のナイトをつまん
でひらひらさせながら言った。
「約束だよ?」
「何が聞きたいのだ?」
「何でも・・・そうだ、あなたはどんな子供だったの?まさか子供の時からそんなにいかめしかったわけではない
でしょう?」
これはたまらんなとレオニードは額に手を当てた。この調子で一個一個やられるのではかなわない。
「別に、取り立てて変わったところのない普通の子供だったと思うが。ただユスーポフ家の後継者というつもりで
親も周囲も遇してはいたろうな。だがどんな子供だったかなどと、当の本人にわかるわけがなかろう。」
「ふうん。つまらない答えだね。僕はあなたは絶対ものすごい利かん気でしかも強情な子供でさぞや周囲を困らせ
たと思うな。」
「これは尋問か?どちらにせよ質問の追加は無しだ。思い出話は一つづつの約束だろう。」
「でも一つながりの思い出話だ。」
構わずレオニードはさっさともう一つのナイトを動かしユリウスのビショップを奪うと彼女の唇を奪い、逃れられ
ないよう顔を支えて、長いこと貪った。
子供の頃はパリだったって本当?なんだかぴんとこないけれどさぞ華やかな生活だったのでは?
士官学校ではどんな風だったの?
左の腕にかすかに残っている傷跡はいつ、なぜついたの?
じゃあロストフスキーとはその時から離れず?
恋文なんてあなたは書いたことあるの?
初めて女の人に触れたのは?
お互いに駒を取られる度それぞれのやり方で気を散らされ、二人とも戦略はそっちのけで駒を取る事に集中しだし
た結果、盤面はかなり無様な状態を呈していた。レオニードはユリウスの言うようにキング以外の全てを取り上げ
てから詰むつもりだっが、これ以上自らをさらすのはかなわない、もう次で終わりにしようとした所で、ユリウス
がチェックメイトをかけた。
「油断したね。」とユリウスが盤の向こうで笑った。だが彼女もレオニードの度重なる口付けで髪もガウンの襟元
もくしゃくしゃに乱れてしまい、唇は濡れて紅くなり頬も紅潮して目は暖炉の火を映してきらきらと輝いていた。
108 :
チェス:2009/08/09(日) 10:09:00 ID:h2vNUIt3
「全くだ。」とレオニードも笑い、盤に残った駒を払うと、ユリウスのあごを捉えて口付けした。
「ずるい、負けたのに」「知ったことか」とまた笑って軽く乳房を掴んで首元に口づけした後、手首をつかんで体
ごと引き寄せた。そのまま抱き上げてベッドにぽんと投げ降ろしてガウンをかなぐり捨てると、彼はまた
挑んできた。ユリウスはさぞ執拗に仕返しされるだろうと思ったのに、予想に反して彼はむしろ笑みを含んだよう
にあっさりと抱いてきた。
だがユリウスは彼のかたち一杯に充たされてあえぎながらも、ささやいた。
おねがい・・・極めさせないで。そっとして。
レオニードは思わず動きを止めて、どうした?と訊ねた。
ユリウスは下から手を伸ばし、レオニードの顔を両手ではさんでささやいた。
あなたの達するところを見ていたい。
虚をつかれ、こいつ。ずいぶん余裕だなとレオニードが笑い、逆に激しい攻めに切り替えようとするとユリウスは
また押しとどめ、息をはずませながらも
だって結局あの時、僕は何も貰わなかったでしょう?あなたはその後知らんぷりだった。と鳩のように笑った。
だからご褒美に、あなたのその時の顔を見ていたい。いつも僕は先にどうにかなってしまって、ちゃんと見た事が
無い。
・・・ばかもの。レオニードは顔をくしゃくしゃにして脱力したように笑い、いささか調子に乗っているユリウス
の仕置きに入った。
チェス 終
>>105からの続き
第三章
(1)
1914年 春
アレクセイは、汽車の揺れではっと目をさました。いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
コンパートメントには同志と彼の二人きりとはいえ迂闊なことだった。
「すまない、ヤン、うたたねしていたようだ。」
「なに、構わんさ。あちらではお前一人を駆けずりまわさせたようなものだ。気にせず少し休んでくれよ。」
ヤンの気遣いに感謝しながらもアレクセイは座り直し、車窓を流れる景色を眺めながら、意識の隅に微かに残る
夢の残滓を掴もうとした。珍しいことにその夢は幼い頃の記憶に繋がっていた。
(アレクセイ、おまえは運がいいのだ・・・。)
もうずっと忘れていた、曽祖父のしわがれた声。皺の一つ一つに泥が浸み込んだ黒い手。
あれは、母が病の床につきどんどん容態が悪くなっていった頃、彼が故郷で過ごした最後の秋だった。
もう収穫の季節は過ぎ、晩秋の引き締まった大気の中、掘り起こされた土の匂いが漂っていた。
アレクセイは泥に足をとられながらも転ばないよう細心の注意を払って畑にいる曽祖父に近づいていった。
それは集中力を発揮するためのただの遊びで、実際は転んで汚れようが、それで家令に絞られようが一向に構わ
なかった。生まれつき気概と反逆心に満ちた子供だったアレクセイがおとなしく従う唯一の相手がこの母方の曽
祖父だった。館にいても母は眠っていて部屋にはなかなか入れてもらえず、それに日々痩せて透明になっていく
ような彼女の様子がどうにも怖い時もあった。曽祖父は怒るとすさまじく恐ろしかったが、年老いていても、弱
っていく母より彼の方が子供の目にも何か確かな感じがしてアレクセイは家令の目を盗んでやってきたのだ。
「おじいちゃん。」
「アレクセイ、何しに来た。」
曽祖父は鍬をふるう手を止めずひ孫の顔も見ずにぶっきらぼうに答えたが、彼を追い払おうとはしなかった。
今日はご機嫌のよさそうな事に安堵して、アレクセイは邪魔にならない程度に離れたところでしゃがみこんだ。
「僕にもやらせて。」
「馬鹿言え。侯爵さまの子供に鍬など握らせられるか。わしが鞭で打たれるわ。」
アレクセイがしばらく黙って作業を眺めていると、やがて曽祖父がいつものようにぽつぽつと話し出した。
ここはしばらく休ませないといくら何でももう駄目だ。ずいぶん何期も続けてしまったからな。藁と灰を撒いて、
耕すだけで何も植えない。そしてまたふかふかの、作物にとっていいベッドになった時、お前の好きな蕪を植え
てやろう。
おじいちゃんは、土地の事なら何でも知ってるんだね。
ああそうだ、何せ生まれた時からのつきあいだ。あの畑も、その隣も。隣り合ってる畝でも地味も水具合も、
皆少しづつ違うんだ。だがどれだけよく知ってようがこの土地も、わしがここで育てたものも、まるまるわしの
物にはならんのさ。
アレクセイ、お前は運がいいのだ・・・。
お前はわしらと違って好きな道を選ぶことができる。お前の母親のおかげでな。
彼ははその言葉に、どこか身の置き所のない「恥」を感じた。なにか、自分だけズルをして、みんながそれを
知っているような。曽祖父はそんな彼の気持ちには気づかなかったが、この神をも恐れない利かん気旺盛な孫を
愛おしむ気持ちは強かったので、アレクセイの頭に手を置くともう一度、同じ事を言った。
「わしらは何百年もそうやって自分のものでない土地に縛り付けられて生きてきた。だが何もわしらの物にはな
らん。一生かけて耕してもな。だが、お前の生きる道は違う。お前は自分で選ぶことができるのだ。罪深い事だ
が世界を変えることだってできるだろう。
おぼえておきなさい、お前は運がいい。だからよく選んで、過ちのない道を選ぶのだ。」
彼は、侯爵の庶子であるアレクセイがどんな道を選べば賢明だと思っていただろう。曽祖父はアレクセイが赴
くことになった首都ペテルスブルグやそこでの貴族の世界は言うに及ばず、中産階級の暮らしさえ知らなかった。
都会の工場へ出稼ぎに行くには既に老いていた彼が知っていたのは、生まれた村の共同体と耕し続けてきた土地
と自分の家族、そして神だけ。彼の息子は勉強が出来たので、村の教師の勧めで苦学した果てになんとか小役人
の職にありつくという精一杯の社会的上昇を果たしたものの、無理がたたったのか早くに亡くなった。そしてそ
の一人娘、彼から見れば孫娘はたまたま領地の視察に訪れた侯爵に見初められ一軒の館と手当てを与えられてア
レクセイを生んだ。それは村の中で奇妙に浮いた存在となり、昔かたぎの曽祖父には決して喜ばしい事ではなか
った。彼は信じがたい幸運のおこぼれに預かろうとはせず、唯一の子孫となった孫娘とその息子とは絶縁とまで
はいかないものの微妙な間をおいていた。
だがたとえ無知で無学でも、曽祖父は農民にありがちな偏狭さに陥いる事のない、彼なりの智恵と誇りに満ち
た人間だった。天性の人懐こさで寄って来るアレクセイを拒みはせず、ひ孫が自分とは全く異なる世界へ歩みだ
していく事を、責めるでなく有頂天になるでなく、それがアレクセイのためになると信じ黙って背中を押してく
れたのだ。もっともその曽祖父にしても全く理解できないだろう道を彼は選択したのだが。だがいま振り返ると
自分の最初の一歩を押し出させたものはあの会話から始まっていたような気がする。
アレクセイの追憶を、ヤンの大あくびが破った。ほっそりとした体格で顔も細面、少し癖のある黒髪のヤンは
黙っていればブルジョア育ちの文学青年といった繊細な趣きをもっていたが、実際のところその無遠慮なもの言いと
ふるまいは同志内でも群を抜いていた。
「ヤン、お前も疲れたろう。少し寝たらどうだ。俺はもうずいぶんすっきりしたから起きている。」
「いや、今寝たら逆にもう何があっても起き上がれないような気がする。起きているよ。何か話そう。何か
『差し支えの無い』話を。」
偽装のために党の指令で借りきったコンパートメントなので、話し声はそう外に漏れる気遣いもないが、用心す
るにこしたことは無かった。しかし差し支えない話題といっても彼らの関心は一般的な見地からは『差し支えの
ある』ことばかりだったので、「そうだなあ・・・。」とお互い首をひねった。
「明日はやっとペテルスブルグ、我等の美しき、花の冠たる北の都か・・・。お前、家に帰るのも久しぶり
なんじゃないか?」
「ああ、そうだな、この『仕事』の前は別の奴と炭鉱に行ってたから・・・まあ、1月ぶりってところか。」
「あんな美人の奥さんをよくそんなに放っておけるなあ・・・。俺にはとても無理だな。心配じゃないのか?」
ヤンの戯言をアレクセイは笑って自分も戯言で流した。
「悔しかったら、お前も早く結婚しろ。」
ヤンはまた笑った。「今のなりわいでは、ちと難しいな。お前やフョードルは勇気があるよ。」
「まあ、ガリーナのおかげはずいぶんこうむってるな。それは確かだ。」
「ガリーナは本当に、しっかりしたいい娘だよな・・・人の奥さんにこんな言い方もなんだが。だがとにかく
お前達の奥さん達は人に妬まれても仕方ないくらい別嬪さん達だ。俺がお前なら、たとえ同・・・仲間でも絶対
会わせたりしないね。たとえどうしても必要な連絡のためであっても、俺の不在時に男を家に入れるなんて
まっぴらだ。」
アレクセイは苦笑して言った。「他に無いのか。もっとましな『何か差し支えのない』話は。」
「そうだなあ・・・。もしかすると少し差し支えるかもしれないが。」
「何だ。」
「昔おまえが音楽をやってたっていうのはやはり本当なのかな、と今回思った。」
「・・・そんな話が広まってるのか。しかし、なぜ?」
「どんどん差し支えがある方向に話が進むが」ヤンはだが笑いながら続けた。
「おまえは本当に演説がうまい。人を・・・聴衆をのせるのがうまい。感心したよ。おかげで今回はごっそりと
入党者を手に入れることができそうだ。」
だがアレクセイは眉をひそめて答えた。
「酔わせて終わりでは駄目なんだ。俺達はユートピアを約束するのではない。一時の熱狂では醒めるのも早い。
彼らの自覚されていない、意識の奥に潜んでいる真の欲求を、彼らの正当な怒りを掴んでそれを改革の原動力に
していかねば。だが単純なお題目を刷り込むだけでは駄目だ。あとはあの地域の同志達に任すしかないわけだが、
火をつけて帰るだけが俺達の仕事だろうか。」
「もちろんおまえの演説が感傷的な音楽みたいに聴衆をひと時酔わせて終わりだなんて意味で言っているわけ
じゃない。俺が言いたかったのは・・・そうだな、音楽の事は全然知らないんだが・・・。お前は聴衆を掴む力
がある。労働者達に話す時、言葉は平明に、論理も明確でわかりやすくというのは鉄則だが、その単純な言葉
の繰り返しや少し変えた言い回しで最後まで人を引っ張ってく遣り方が・・・なんていうか、一種の・・・曲が
演奏されてるのを聞いてるみたいでな。序章から最終章まで、ある旋律が変奏を繰り返して織り込まれていて
・・・だんだん、頭に染み入ってくる。聞き終わるとその旋律が体に浸み込んでいる、最初に序章で聞いた時
よりも確かに理解できたと思える・・・。それもおまえは聞いている層に最も合った旋律を見つけるのがうまい
・・・そんな感じがする。」
「何だ、今日は褒めごろしか?こちらこそ驚かされるぞ。やはり文学少年だったんだな。」
「こういう言い方は党ではブルジョアに毒されたメンシェビキ流感傷的自由主義と批判されるから駄目だ。忘れ
てくれ。まあ、うまく言えんがとにかくそんな気がして、おまえがもともと音楽家だったって話を思い出しただ
けだ。ただの印象論だ。気を悪くしないでくれ。」
彼らは段々議論に熱が入りだし、だが警戒心は置き忘れず、顔を寄せてささやくように話し始めた。
表現の仕方はどうあれ、人を煽動できるというのは素晴らしい能力だ。これからはどんどんそれが必要に
なっていくだろう。炭鉱や大規模工場、そして軍隊。党員になりうる人間がいるのはそういった場所だ。特に
これからは軍隊だ。おまえ、イリイチ・・・レーニンの演説を聞いた事は無いだろう?俺は1903年のあの大会の
時、そこにいた。実に見事なものだった・・・。美辞麗句は使わず、短い言葉に込められているのは、身震いす
るほどの冷徹な現実主義と、揺るぎの無い・・・そう、確かな目的意識だ。おれも本当の若造だったが、あの時、
決めたよ。ついていくなら奴だと。彼はしたたかで、しかも迷いが無い。俺達の目標を、本当にやりとげられる
人間がいるとすれば、それは彼だ。
アレクセイ、俺がそうだったように、パンフレットや声を潜めて語る秘密集会では駄目なものがある・・・。
聴衆をつかみ、実際のところそれぞれの欲求や必要は千差万別な彼らを、まず一つの大目的に対する意識で団結
させる事が必要な時がきっと間もなく来る。おまえは、その中でも素晴らしい演奏者、いや指揮者になれるよ、
アレクセイ。人々を楽器にしてな。おまえには、扇動者に必要なカリスマ性ってものがある。まあ、レーニンと
まではいかないが。
と言ってヤンは笑った。
アレクセイはヤンの賛辞には感謝しながら、同時に複雑な気持ちにもなっていた。自分にはやはりまだ甘い
ところがあるのだろうか。彼のその特技は諸刃の才能でもある。中身の無いアジテーター、ただの扇動者に留ま
る事だけは避けたかった。そしてそれと過去の噂が結びついてしまうことも。
庶子とはいえ侯爵家の血筋だと、あのドミトリー・ミハイロフの弟だと知られているのは仕方が無い。ドミトリ
ーはいつまでも俺の誇りであり続けるだろう。生きていれば袂を分かつ事になったかもしれないがその事は考え
まい。だがドミトリーの弟であることと合わせて、特別扱いされる事は避けたかった。特別扱いされるのは、
1人前として扱われない事と同じだ。彼にはまだ実績が無かった。ドミトリー・ミハイロフの弟、モスクワ蜂起
で捕縛後アカトゥイから脱走、それは人目をひく経歴ではあるが、それだけではいわば虚名だ。その中に溺れさ
せられてはいけない。
脱獄以来、党は彼の再逮捕を避けるために極力危険度の低い任務を割り当てようとしていた。だがアレクセイ
はそれに逆らい、あえて資金調達のための押し込み強盗のような手を汚す仕事にも強引に加わった。例え危険で
社会的規範から見れば犯罪行為であってもそれが必要だと思えば彼の中にためらいはなかった。もっとも義賊気
取りになる同志が愚かに見えることは認めざるをえない。目的と手段を取り違える人間はたとえ同志でも要注意
だった。
最近は党にドイツから資金が流入してくる事情もあり、アレクセイの組織の中の地歩も上がった事もあわせて、
そういった調達行為に彼が直接関わる事はもうあまり無い。そしてヤンにたった今賛嘆されたような彼の一種の
才能が党にとって重宝なものとなりつつあった。それが党の活動全体の中で一つの貴重な役割を果たしているの
はわかっていたが、だが彼が求めているのは無闇に同志未満の人々の熱意に火をつけて去っていく事でなく、も
っと違うもの、彼らの声に耳を傾けて、彼らの世界をもっと自由なものに変えていく方法を探すことだった。
深く、自由な呼吸ができる生活。それが例えいったんは彼らの暮らしを苦しくさせるものであっても、短い今日
よりは長い明日とその先に続く未来を喜びに満ちたものにするために。希望を持つという事すら知らない、ある
いは希望を声に出す事すら大罪だと思い込まされてきた人達。もしくは声に出したが最後、立ち直れないほどの
弾圧をうけることを思い知らされ、意思を挫けさせられそうな人達。炭鉱で、工場で、過重な、多くの場合危険
かつ過酷な労働に耐え、保障の無い営みを今日のパンのために続けざるを得ない人達。
子供から老人、男女を問わず大半の働く人達にとって日々は苦しかった。
アレクセイが子供の時いた農村では、農民は道で地主貴族に行きあうと、泥の中でもひざまづかせられた。
そしてそれは都会の工場でも同じ事で、気まぐれな監督官が彼らの稼ぎを当然のようにむしりとり、文字通り鞭
をふるう。だがその監督官でさえ、システムの中では真の収奪者ではなく末端に過ぎず、彼らもまたその中で搾
取されているのだ。人間なら本来持っている筈の権利、例えば誰も鞭をふるわれずに済む、恣意的に稼ぎを毟り
取られずにすむ、自分達の代表者は自分達で選ぶ事ができる。そんな単純な事さえも、闘わねば手に入らない。
そして希望を抱くことさえ罪として目を目を伏せさせる、ロシア全体を覆う因襲性。だが立ち上がる力さえ見出
せれば、ロシア人ならではの粘り強さで彼らは闘える筈だ。いつかは闘わねば彼らの子供も孫も相続できるのは
無知と貧困だけという負の円環から抜けだすことができない。
アレクセイは自分でもよくわかっていた。すぐれた革命家の多くとは違い、結局、彼の出発点はマルキシズム
で構築された思考ではなく、何世紀もロシアの農民が胸に抱き続けてきた一種のユートピア幻想に過ぎなかった。
誰もが平等な、良き世界という夢。そうとは知らずに幼い心が曽祖父達の呟きから感じ取っていたぼんやりした
火種に、あの時、デカブリスト的な熱情に燃えたドミトリーが火をつけ、方向性を指し示したのだ。例えどんな
に手垢のついた幻想でも、それを捨てる事はできない。そうだ、俺は甘い。俺は結局、社会主義革命にとっては
扱いにくい農民という前近代的な大集団とこれまたマルクス主義が忌み嫌う貴族主義的な熱情の奇妙な混合物な
のだろう。これではレーニンがどう唱えようと実際のところプロレタリアート重視が暗黙の前提である大多数の
活動家達の中では異端同然だ。その上俺はどうあがいても確固とした理論派にはなれないし、叩き上げのプロレ
タリアートともまた異なる。とどのつまり自分は、故郷で、ミハイロフ家で、そしてドイツでもそうだったよう
に、ここでもはみだしものなのだ。だが、いくら甘いと嗤われてもその夢のためならば俺はどんな苦い杯でも飲
んでみせるだろう。
だが一方で、とアレクセイはヤンの寝顔(結局眠ってしまった。)を見ながらこの国が確実に富みつつある現状
を考えた。レーニンがロシアの経済的成長には苛立ちを覚えているという噂も入ってきている。1905年以来の経
済成長率は実にここ数年で2倍近くに膨れ上がった。鉄道線は延び工場の生産性は上がり海外からの投資は集中
し、ロシアには資本が、富が蓄積されつつあるのは確かな現実だ。道半ばで倒れたストルイピンはかつて「20年
あれば!」と言ったと聞いた。戦争も内乱もない20年が稼げれば!ロシアは栄光を取り戻し、ヨーロッパにお
ける無駄に大きいだけの後進国扱いされる事は無くなるだろうと。
レーニンが心配しているように、この蓄積されつつある資本によって社会が豊かになれば、我々の活動は無化
されてしまうだろうか?いや、所詮、上からの分配など搾取の再生産に過ぎない。表面的な繁栄からのおこぼれ
を口を開けて待っているのと同じだ。それは一時的な欺瞞に過ぎず、社会の構成は全く変わる事は無いだろう。
まやかしだ。簡単に与えられるものは簡単に取り上げられる。特にここロシアでは。
残念ながらこの国には、中産階級が富むことにより漸進的に事態が改善するのを期待できるような、成熟した
市民政治は存在していない。ここはロシアで、西ヨーロッパ諸国とは違う。封建貴族、次いで市民が発言権とヘ
ゲモニーを獲得しえたような近世をこの国は持ちえなかった。政治も社会構造も中世から一気に現代にきたよう
なものだ。我々の社会はあまりにも階級性が強く縦にも横にも連携が欠けている。中産階級は層が薄い上にむし
ろ農民・労働者層を忌避し憎悪と恐怖を感じているだろう。彼らとの共闘は無い。彼らを巻き込めないなら、
支配層のルールで戦ってはゲームに負ける。そしてそもそもルール自体が間違っているのなら手段は選んではおれない。
確かにここ数年で経済は急速に成長した。だが皮肉な事にそれを下支えさせられる側の悲鳴も同時に大きくな
っている。弾圧を受け挫けたとはいえ、まだ人々の胸にはあの年燃え盛ったゼネストの熱の記憶が残っている筈
だ。今、この大きなひずみの力を革命に転化できなければ、ロシアはいつまでも大半の人々が半奴隷のまま生き
て、死んでいったこれまでの姿を変えられないだろう。ブルジョア革命など待っていられない。確かにロシアは
遅れている。だが先進者が踏んだ段階を飛び越せるのが後続者の特権だ。上からの改革を待つにはロマノフはあ
まりにも無能で政府は旧弊で国土は広すぎる。
腐敗した豊かさと地を舐める惨めさの間に存在する階層、それらはそれぞれ孤立している上にいま互いへのぴり
ぴりした恐怖と怒りで満たされつつあるのが肌で感じられる。
そう、表面的な繁栄とは裏腹に、好機はゆっくりと近づいてきている。あとはいつ、どうやって、誰がどんな形で
その火種を爆発させるかだ。
その時、汽車はちょうど川を渡る鉄橋にさしかかった。揺れは一層激しくなり、車窓から見える川はまだ氷に
閉ざされていたが、彼には確かに季節が変わり目にある事が感じられた。
「世界を変えろ」
曽祖父の声がそう言っている。いや、本当に曽祖父は文字通りそう言ったろうか?
いま、彼の耳に叫びたてるその声は、間違いも無く、彼自身の声だった。
世界を変えろ。
(2)
ちょうどその同じ頃、ペテルスブルグで運河沿いの道を二人の女が歩いていた。雪はだいぶ溶けかけていたが、
街路樹の柳の芽はまだ小さかった。
「もう、ユリウスったら、本当に無鉄砲だわ。もし自分に何かあったらどうするつもりだったのよ。あんな男達、
からかってるだけなんだから。放っておいてくれても大丈夫だったのに。」
「怒らないでガリーナ。」ユリウスは自分よりもずっと小柄なガリーナのかわいらしい顔を見ながら笑って答えた。
彼女といると、ユリウスは(実際問題、生活の知恵という点では彼女に頼りきりであるにも関わらず)、少年とし
て生きていた10代の頃の自分になぜかどこか戻ってしまう。ガリーナはそういう意味では真に女らしい存在だ
った。小作りで、可愛く、でしゃばらない賢さと決してへこたれない強さ。どれもユリウスが持ち合わせない美
点で、それを羨ましく思う一方で何としても彼女を守らねばというそれこそ騎士めいた気持ちにさせられる。
「おいで、ワシーリィ」とユリウスはガリーナの長男に手を差し伸べ、喜んで飛び込んできた彼を抱き上げた。
「えっ、もうこんなに重くなって!ガリーナ似だと思ってたけど、実はお父さん似だったのかな?」ワシーリィ
はきゃっきゃと笑うとユリウスの首にかじりついた。微笑んで見ていたガリーナだったが、ふと足を止め、道向
こうの広場の一角をじっと見つめた。ユリウスはワシーリィを抱いたままガリーナの視線の先を見た。それは
ペテルスブルグに春の訪れを告げるすずらん売りの露店だった。
「かわいいね、好きなの?」ガリーナは振り向いて微笑むと、「あたしにとっては特別な花なの。」と言ってワシ
ーリィを受け取った。ユリウスも微笑んで「特別?」と聞き返したがガリーナは笑みを浮かべたまま答えなかっ
た。ユリウスはワシーリィの頬を優しくつつきながら、「君のお母さんは何だかあやしいぞ。僕らに隠し事をして
るぞ」と笑った。ガリーナは「ユリウス、いい加減になさいな。」と笑ってワシーリィを下ろして手を繋ぐともう
片方の手でユリウスと腕を組んで歩き出した。
さてガリーナの方から見ると、ユリウスときたらどうにも危なっかしくてとても放ってはおけなかった。
こんなに世間知らずでそのくせ無鉄砲、よくぞ何の手掛かりも無くロシアまでアレクセイを追ってきて再会を果た
せたものだ。決して表立って探せる相手では無かったのに。詳しい事情は決して誰も語ろうとしなかったが、よほど
特別に神のご加護があったとしか思えなかった。ガリーナは夫に頼まれてユリウスの面倒を見だして、
すぐにわかった。この娘はそれまで自分が知らなかった種別の人間だ。それは容貌の美しさのみならず、互いが
属してきた国や階級の差だけでもない。輝くような純粋さと烈しさ、そしてそれと相反する憂いが同居している
不思議な人。だがその憂いや攻撃性は主に彼女自身に向けられている事も共に過ごす内に見えてきた。自分も人
に決して言えない過去を持つガリーナは、ユリウスのその憂いの理由はわからぬもののアレクセイの妻だからと
いうだけでなく彼女自身の魅力に惹かれ、ユリウスを友人としてガリーナ一流の暖かい心で受け入れていた。
「ところでユリウス、※※通りの例の食料品屋だけど、今週は肉のいい物がとてもお値打ちに入ってるらしい
わよ。」
「そうなの?相変わらずすごい情報網だね。・・・ちょっと足を伸ばしてみようかな・・・。ガリーナ、行く?」
「あたしはやめとくわ。ワシーリィを連れては無理だし。あなた良かったら行ってらっしゃいよ。アレクセイも
そろそろ帰ってくるんでしょう?でもさっきみたいな無茶は禁物よ。」
「うん、わかった。買えたらそちらにも少し持ってくね。」
「うちなんかいいわよ、あなた達で食べてちょうだい。あ、でも、もし砂糖胡桃があったらお願いしちゃおうかな。
じゃあね、気をつけて。」
ユリウスはガリーナ達に手を振ると、一人、歩き出した。彼女はこの街を歩くのが好きだった。ペテルスブル
グがこんなに美しい街だとは知らなかった。以前いた時には彼女は自分の足で街を歩くことなど無かった。
ここに戻って来るまで身を潜めていたモスクワとはまた違ったどこか夢のような魅力が、華美に過ぎるともいえ
る洗練と沸き立つような活力と堕落の混在がこの首都にはあった。もちろんアレクセイとの生活を始めたモスク
ワの事は一生忘れられないだろう。歴史があり実にロシアらしいが、蜂起の生々しい傷跡もまた色濃かったあの
街。だがどこかヨーロッパの香りがするこの水の都は歩くたびに新たな発見があり、彼女を喜ばせた。
輝く塔をもつ教会や宮殿の威厳。素晴らしく長くて広い街路に新古典主義の建築が見事な構成で立ち並ぶネフ
スキー通り。パリ最先端の流行が詰め込まれた繁華街、一見して外国人の姿の方が多い街角のカフェのコスモポ
リタンな匂い。ヨーロッパを熱狂させる新しい芸術を生み出し、一流の演奏者や演技者が腕を競う劇場、名門ホ
テルやレストランは毎夜パーティー騒ぎの着飾った紳士淑女であふれかえっている。縦横に張り巡らされた運河
に映るそれらは実にロシア帝国の首都らしい顔だ。
その一方で、下町に足を向ければ工場からは思わず鼻を覆うような刺激臭の排水がたれ流され、少し留まるだ
けですぐに目も喉も痛くなってくる。青白い顔でそこで働く労働者の多くは自分の部屋も持てない。よくて仕切
りだけの簡易ベッド、あるいは蚕のように棚に押し込められて短い休養を貪るだけで精一杯。それでも運はいい
方で、一度病気や怪我、監督官のきまぐれで職を失えば、帰る故郷の無い者には転落だけが待っている。救貧院
はあるものの長くはおれず、街に乞食の数は夥しかった。またこの街は、娼婦の数が市民の人数あたりに換算す
ると実に警官の5倍にも該当する快楽の都でもある。売春街は殷賑を極めて、そこでは娼婦達が世界中の人種を
集めたかのようなバラエティとまさかと思うような若さで我勝ちに客の袖を引いている。彼らはオデッサの奴隷
商人から売られてきていて、その多くは次第に病と貧困、そして絶望に冒されて若くして死んでしまうとアレク
セイは言う。貶められた、かなしく儚い者達。
だがそんな光輝や栄光、目を覆うばかりの貧苦や惨めさ、矛盾に満ちたこの北の都のありかたにユリウスは魅
せられた。夫達の活動はその矛盾や悲惨の落差に憤り、世界をいわば少しでも公平に均そうとするものだったが、
彼女の目にはその矛盾すら眩しくこの都の魅力を増すものに映った。もっともそれを夫に言わないだけの女とし
ての賢さはすでに身につけていたが。
男装で、大股で歩くユリウスの姿は、一瞬少年?いや女性?と人の目を惹きつけるものがあった。潜伏中の革
命家の伴侶としては目立つことは最も避けねばならない筈だったが、モスクワに移った当初、ガリーナが都合し
て縫ってくれたドレスを着てはみたものの、着慣れなさからくるそのぎこちないふるまいと全体の違和感に(何せ
彼女は自分で髪を結うことすらできなかった)、アレクセイとズボフスキー、ガリーナは、これは男装より変に目
立ってしまうのでは・・・と諦めがついた。いっそ男装のままでいさせた方がむしろ脱獄した終身刑の男がそん
な目立つ連れといる筈は無いと思われそうだった。できるだけ女の服を着るように心がけねばとは思いつつ、「慣
れるまでは」という条件つきで男装を許されたユリウスは結局、ついつい着慣れた格好を選んでしまう事も多か
った。幸い、様々な人種や退廃、貧富が混在するペテルスブルグではユリウスも単なる性倒錯者の一人として見
逃してもらえる。なにせ娼婦を買う女も多い街だ。
そんなわけで、ユリウスは女とはとても思えない大股の早足で、しかし軽やかに早春の街を歩いていた。今日
の彼女の心はその足取り同様にはずんでいた。今日は無理でも明日、あさって、しあさって。もうそろそろ夫が
帰ってこれる筈だった。信じて待つしかないとわかっていても、彼の不在が長引くと手紙や連絡など貰える筈も
無い中で、彼女の心は恐怖と不安に揺れた。もし帰ってこなかったら?出て行って永遠にそれきりというのは充
分あり得る話だった。それはシベリアの猟師でもモスクワの軍人でも同じ事かもしれなかったが、潜伏中の革命
家となると、危険の質はまた違っていた。
だがこの3年間で、伴侶として彼女にできるのはただ待つ事だけだという事をガリーナから学び、夫には再会
の喜びと安堵だけを伝えねばならぬ事は心得ていた。その為には自分自身をも騙すかのように心を強く楽天的に
保つしかなかった。以前のユリウスにはできなかった事かもしれなかったが、ロシアに来てからの数年間に起こ
った出来事が彼女を強くしていた。少なくとも強く、楽天的な人間であるそのふりができる位には。
もっともユリウスの持つ本質的な弱さは少なくとも当の夫とズボフスキーには見透かされていた。アレクセイ
と暮らし始めてまだ半年もたっていなかった頃の事だ。ある日、ユリウスは二人に郊外へ連れ出された。遠出の
目的は明らかにされておらず、ズボフスキーは何やかやと世間話をユリウスにもちかけたがアレクセイはひどく
むっつりとして会話に加わろうとしなかった。
ずいぶん長い時間馬車を走らせた後、3人は人の姿の無い廣野に立っていた。ズボフスキーは少し離れた岩の
上に馬車から取り出した空き瓶を立てた。そして振り向いてユリウスに拳銃を見せた。「使い方はわかるかね?」
ユリウスは驚いて返事もできずにいた。「初めてなんだな?大丈夫だ、まだ弾はこめられていない。触っても安全
だよ。」ユリウスはズボフスキーを見つめ、そして夫を振り返って問いかけた。「僕に射撃を覚えろということ?」
アレクセイは苦りきった顔で言った。
「フョードル。何度も言ったが俺は反対だ。ユリウスには必要無い。」
ズボフスキーは首を振った。「アレクセイ。俺も何度も言ったな。そして決めさせてもらった。もう言うな。」
そしてユリウスに向き直って言った。
「そうだ。我々は君に銃の扱い方を学んでほしい。物騒な世の中で俺たちは潜伏中の身の上だ。いつ何が起こる
かわからない。これは誰かを攻撃してもらうためではない。君は党員ではないからね。あくまでも君の身を護る
ためにだ。」
ユリウスはいぶかしく思った。そんなものを持ち歩いている方が、もし何かで憲兵にでも尋問された時など疑
われるだけでよほど危険ではないだろうか。それに銃で相手に傷を負わせ、あるいは殺してしまって捕縛された
場合、かえって夫たちに危険が及ぶ事になるのではないか?正直にそう言ったところ、ズボフスキーは頷いた。
「君がそこまで気づいてくれたら話が早い。正直に言おう、自衛のためというのは嘘じゃない。だが、いざと言
う時にはこれを使ってほしい。勇気をもって。」「ズボフスキー!!」ズボフスキーの最後の言葉と夫の叫びは
ほとんど同時だったが、ユリウスには夫の親友の言わんとした事がわかった。
「口を割るくらいなら死んでくれという事だね。」
「そうだ、ユリウス。」
何か言おうとしたアレクセイをみやってユリウスは微笑んで言った。
「いいんだ、アレクセイ。僕もそのぐらいの覚悟は出来ているのだから。でもズボフスキー、確かに扱い方を教
えてもらわないとね。おっちょこちょいの僕は間違えてとんでもない物を撃ってしまいそうだから。」
そして内心思った。(良かった・・・。人を撃つためのものではなくて。これ以上、誰かの血で手を汚す事はできない。)
「では始めるか。」「待て」「アレクセイ。往生際が悪いぞ。」「違う、俺が教える。弾はまだあっちだな。」
アレクセイが馬車に向かった隙にユリウスは訊ねた。
「フョードル・・・。これは皮肉とかでなくて、本当にただ不思議なんだけど・・・。」
「なんだい?」
「こんな事、ガリーナにも?なんだか彼女にあてはめて考えられなくて。」
ズボフスキーは彼特有の深く穏やかな眼差しでユリウスを見つめて答えた。
「ガリーナは強い。あれは・・・拷問にも恥辱にも耐えて生き残れる女だ。ロシアの女だ。だが、すまない、
君は・・・違うタイプの人間だ。君が弱いとは言わないが・・・君が持っている美点はまた違うところにある。」
「・・・。」
黙って聞いているユリウスにズボフスキーは言葉を継いだ。
「・・・これは俺が言うべきことじゃないが・・・強くなるんだ、ユリウス。君がこの先、アレクセイと共に人
生を送るのを望むのなら・・・。いや、すまん、余計なことを言った。忘れてくれ。」
ユリウスはズボフスキーを見つめて答えた。
「いや、あなたの言う通りだ。ありがとう、フョードル。」
アレクセイが弾をもって戻ってきた。まずは弾を込めずに構え方から。そして弾の込め方、安全装置の扱い。
それらを十二分に飲み込んでから、夫に手を添えられてユリウスは標的に照準を構え、それを撃った。やがて
介添え無しに当てる事ができるまで。腕はしびれ、耳の中は発射音でわんわんと鳴り響いた。だが過去の痛みが
蘇ってくるのをねじふせるべく、ユリウスは撃ち、アレクセイ達はそれを見ていた。
アレクセイは妻の体の傷を不思議には思っていたが、銃創とは気づいていなかった。だが彼女が今蒼白な顔で
何かと闘っている事はわかった。慎重に的を狙い、用意された弾を撃ちつくしたところで、ユリウスは二人の方
に振り向いた。アレクセイは銃を受け取りユリウスの肩を抱いた。
「よくやった。」ユリウスは彼の胸に顔を埋めて、「僕は大丈夫だよ。」と答えた。ズボフスキーはユリウスの肩を
ぽんと叩くと的の後始末に行った。
「フョードルの言った事は気にするな。あくまで自らの身を護る必要があった時に、使えればいい。」
アレクセイはユリウスを抱きしめて言ったが、彼女は小さく首を振り、もう一度同じ事を言った。
「僕は大丈夫だよ。」そして顔を上げ、夫の目を見て言い添えた。
「あなたの足手まといになるような事は決してしない。」
アレクセイは一瞬痛みが走ったような目をして
「そんな事にはならない。」と言うと彼女の頭を引き寄せ強く抱きしめた。
(僕はやはり撃つ側にはなれないだろう。・・・だけど強くならねば。この人といたければ。)とその時ユリウス
は思った。もっともそれ以来、幸い現在に至るまで銃を使わざるを得ない局面に陥ることは無かった。銃も部屋
の戸棚にしまいっぱなしだ。それでも自分の身は自分で護れるという自信はついたと言える。そしていざという
時の覚悟も。
ユリウスはちょうど来た市電に飛び乗った。席はみな埋まっていたので彼女は立ったまま、ゆっくりと流れて
いく街の姿を飽かず眺めていた。だが市電が屋敷街の外れを通って見覚えのある街角にさしかかり、ユリウスは
はっとした。いま通り過ぎてどんどん離れていくあの角。あの道をまっすぐ進み、一つ目の角を曲がってしばら
く行けば、アナスタシアの住まいだった館がある。ユリウスは急いで市電を降り、道を戻った。ああ、確かに
ここだ。失われてしまった彼女の美しい面影をしのんでユリウスは呆然とした。
(アナスタシア・・・。僕達はあなたに何もできなかった・・・。ごめんなさい、本当に・・・。お墓に行く事
すらできない。僕達にできたのは、ただあなたのために泣く事だけだった。いや、アレクセイは違う。
あれから後の事をあなたはどのくらい聞いていただろうか?僕達は亡命を勧められたけど彼は拒んだ。祖国に
残って戦いたいと。多分、あの直後、監獄で起こった火事で亡くなってしまった同志達のことを考えていたんだ
ね。アレクセイはたとえ表向きは焼死した囚人の中に含まれていたとはいえ、ペテルスブルグではやはりあまり
にも危険だろうということで、僕達はモスクワに行った。蜂起の後5年以上を経てモスクワの状況はかなり落ち
着いてきたから、ストルイピンの膝元の首都よりはましだろうと。内心リュドミールと出くわさないかだけが心
配だったけど杞憂だったね。ズボフスキー夫婦も一緒で、奥さんのガリーナには随分助けてもらった。
僕はあなたとは違って革命家にはなれなかったけれど、彼女のおかげでなんとか革命家の妻は務まってると思うよ。
でもアレクセイは、あなたを助けられなかった事にとてもショックをうけて、渦の中心に、ペテルスブルグに、
戻る事を選んだんだ。だから僕は3年ぶりに帰ってきた。あまりにも多くの事があったこの街に。)
(3)
昨年、収監されたアナスタシアをアレクセイ達はついに救い出す事ができなかった。シベリアの監獄が、特に
女性の政治犯には地獄そのものであることを知っているアレクセイは、救出作戦が進まないという情報に血相を
変えてモスクワの同志を振り切りペテルスブルグまで押しかけて党に叱責をうけた。
だがアナスタシアはついにシベリアに送られることはなかった。移送以前に監獄で服毒死したのだ。
救出を断念した党の仕業か、実家がせめてもの政治力と財力で毒を差し入れたのか・・・。
真相はわからなかったが、ユリウスの知っている、あの気高く美しい人はもうこの世からは去っていった。
今も耳に残る彼女の言葉。
「ユリウス、あなたは生きる事を恐れているだけだわ。」
今、振り返るとあの頃の自分は確かにそうだったと思う。そして生きる事を恐れなかったアナスタシアは死ぬ
事も恐れず、その行動はあくまでも高潔だった。彼女は自らが重罪に問われ、どんな仕打ちをうけるか、そして
名門である彼女の生家が何もかも失う事も全て承知の上で名乗り出たのだ。それも見も知らぬ一介の異国の娼婦
のために。誰にも真似の出来ない事だった。
アレクセイは多くを語らなかったが、同志の中では憤りの声の方が多かったらしい。彼女はやはり貴族の甘ちゃん
に過ぎなかった、そんな偽善的な自己陶酔で党を再び危険に曝すのか。救出計画が難航したのは一つにはそんな
理由もあったのかもしれない。
最後の結末は・・・彼女が自ら決した選択だとユリウスは信じた。そう信じたかった。
この一件で、アレクセイは物事の進行に影響力を持つためには政治と闘争の中心に身を置かねばならぬ事を痛
感し、ペテルスブルグに移る事を決意した。彼と共に戻ってきたユリウスだったが、行く場所さえ気をつけてい
れば、3年前とは異なり現在はペテルスブルグの方がその混沌とした有様で彼らにとってはむしろ安全な状況に
なっていた。もっともモスクワ同様彼女はほとんどこの街を知らないのも同然で、しばらくは慣れるのに必死だ
った。この3年間でガリーナから下層階級寄りのロシア語を徹底して仕込まれていて、もともとはペテルスブル
グの下町っ子である彼女のおかげで、会話の面では怪しまれる事は少なかった。
だがユリウスは本当にロシアの事もペテルスブルグの事も何も知らない。少しつっこんだ話をすれば彼女が
ドイツ人、少なくとも外国人である事はすぐ相手にわかってしまいかねなく、ユリウスは転居するたびに夫達が
練り上げる彼女のプロフィールを間違いなく覚えこんだ上で、抜かりなく生活を営まねばならなかった。
モスクワでアレクセイとの暮らしが始まった頃、そんな緊張と慣れない家事に忙殺されながらも、夫の帰り、
それも不確定な帰りを待っている時間は時にあまりにも長く感じられた。ユリウスは簡単な翻訳程度の事など
何か自分にもできる事があるのではないかと夫やズボフスキーに申し入れたが、夫は頑として彼女を活動に
関わらせようとしなかった。ガリーナさえ簡単なプロバガンダの冊子を熱心に読んでいたのに、アレクセイは
ユリウスがそういったものに近づく事さえも嫌がった。
最初の頃二人はその件でよく喧嘩した。
(僕は君に近づいて、理解したいだけなのに。)
(お前に深入りして欲しくないんだ。俺たちが勝ち取ろうとしているものを信じてさえくれていたらそれでいい。
もし憲兵にでも捜索されて、こんなものが出てきてみろ、一巻の終わりだ。家にそんなものを持ち込んでガリー
ナに読ませてるだなんて、フョードルだって呑気すぎる。)
(アレクセイ、僕はもう覚悟はできてるんだ。ならば君の闘いが何を目指しているかぐらい理解したいと思うの
は、君と同じ方向を見て、思想的にも結ばれたいと思うのは当然でないの?)
(ユリウス、その気持ちは本当に嬉しい。でもそれだけで俺には充分だ。お前は知らないんだ。投獄されるとい
うのが何を意味するのかを。裁判なんて有名無実だ。こんなもの持っていたというだけで、すぐに地獄の底行き
だ。)
ユリウスは(でも君はそれを多くの人に渡しているんだろう?)という言葉を飲み込んだ。納得はできなかっ
たが、せいぜいガリーナの所に行き、ごくごく簡単に書かれたプロパガンダの冊子やフョードルの隠し持つ蔵書
に目を通させてもらうのが関の山だった。
それに家事全般を一人で全てこなすというのは、元来豊かな育ちでは無かったとはいえ、裁縫や料理などを全く
母親から仕込まれなかった彼女にはそれなりにやっていけるようになるまで結構な時間がかかり、あまり抽象的
な思考にふける余裕は無かった事も確かだった。
正直なところズボフスキーとしてはユリウスに翻訳の一つもやらせたかった。手はいくらあっても足りない上
に、彼女は他に知人の一人もいないから秘密が洩れる気遣いもない。少し基本的な事を指導してやれば、うって
つけの人材だったろう。
だがアレクセイは頑としてそれを許さなかったし、ユリウスの家事の悪戦苦闘ぶりをガリーナから聞いて、
ズボフスキーも諦めがついた。憲兵の手入れよりも彼女が火事を起こさないかのほうが余程心配だった。
そして当時、指導的な革命家の妻がこなしていた仕事といえば同志達の身のまわりの面倒を見るに留まらず、
指示や連絡を取り持ち、隠れ家の手配、暗号文の作成・解読にまで及んでいたが、確かにそれらはユリウスには
明らかに荷が重すぎた。ドイツにでも亡命していればとにかく、ロシアの土地勘や国情を基本的に知らない者が
できる事では無かったし、ユリウスの敏感さや繊細さがその役割には不向きな事は明白だった。
第一、それらの事を託すには彼女はあまりにも目立ちすぎる存在だった。
アレクセイはたとえフョードルの頼みでもユリウスを活動に加わらせる事は頑強に拒んだ。それはもちろん
万が一の事があった場合、彼女の身の最低限の安全を確保するためだったが、一方では自分の活動の具体的な
内容までは知られたくないという気持ちもあった。正義感の強い彼女が知れば衝撃を受けることも多いだろう。
アレクセイ自身は既にかつての倫理観や社会通念を振り捨てていたつもりだった。
獄中で、5年間。彼にとってそれは権力というものの本質を、権力の名のもとに人間が人間に何をしうるか学ぶ
には充分な時間だった。
他の多くの監獄とは違い、アカトゥイでは書物や新聞の差し入れ、執筆などは許されるべくもなかった。
比較的労務の少ない季節の長い夜、眠る事もできない極寒の独房で恐怖と絶望が自らを蝕もうとするのを恐れ、
彼は今までに影響を与えられた事物・論述を極力一言一句思い出そうとした。そして頭は奇妙に冴えわたりその
要求をかなえた。
彼はその中で取捨選択を行い、赴く道を選んだ。牢獄に繋がれた活動家は奇妙なほど2種類に分かれた。
道を引きかえそうとする者と、更に先に進もうとする者。その中間は無かった。アレクセイ自身はボリシェビキ
であることを選びなおした。ボリシェビキ、その統率者の何事にも揺るがされない目的意識と組織力こそが革命
へのもっとも強い武器となり、最終的な勝利へと導いてくれるだろう。自分がそれに立ち会えるかどうかは
わからないが。いや、信じろ。俺は決してここで朽ち果てはしない。必ず立ち戻ってみせる、たとえそこが目を覆う
ような闘争の場であっても。彼は窓の無い独房で目をつぶり、遥かな星座を思い描いた。たとえ今見えなくても
この天井の上に人の手の届かないはるか高みで天体は確かに存在し、星々は無音で動いている。信じろ。
彼らが為しとげようとしている事は、皮肉な目から見ると東西を問わず何度となく繰り返されてきた転覆劇、
あるいは簒奪劇の一つに過ぎなかったが、一方ではいまだかつて人類が見た事の無い面も確かに含まれていた。
なぜなら急激な工業化と技術の進歩、それらと手を携えて成長する資本の巨大化で世界は変容しつつあり、それ
までに無い新たな枠組みを必要としていた。それに気づいた者と気づかぬ者の闘いの厳しさは、そのまま新旧の
世界がぶつかり合いきしむ音だった。
その戦いに参加し、かつ勝とうとする者は、それまでとは異なる倫理律を掲げねばならなかった。そして捨て
去らねばならぬものも多かった。それまでの人生においてどれだけ価値があろうとも。アレクセイもまたその
一人で、それまでの彼を形作っていた多くのものと、彼はこの時無意識にだが別れを告げた。
計算の無い優しさ、彼を常に高みにさらっていった音楽への情熱、与えるのを惜しまない暖かい心。もう迷いは
無いつもりだった。例えこの手で人を殺め、傷つけ奪うような所為でも必要だと判断できれば実行する。
それをためらわせるような社会的な倫理観は、既に彼には革命を妨害させる、なんら本質と関わりの無い、
押し付けられた欺瞞でしかなかった。それは富める、自らは何も生産しない者達をさらに富ませるための枠組み
に奉仕させるためのからくりだ。皇帝への敬愛、ハリストスへの畏れ、なんら内実の無い権威に盲目的にあらゆ
る意味で人々を何世紀もひざまづかせ、文字通り骨が見えるまで鞭打たせてきたからくり。曽祖父の肩には、
まだその痕が残っていた。
従来の倫理観を欺瞞の首輪として切り捨てた彼は、怪物、悪魔、犯罪者、叛逆者と断罪されてもなんら痛痒を
感じなかった。
だが妻には自分の全てを知られたくないというのは捨てたつもりのそれらの残滓がまだどこかに残っていたの
だろうか。ひよこについている卵の殻のように。妻が与えてくれる愛の喜びと、倫理性を振り捨て非情である事
は彼の中ではなんら矛盾はなかった。それなのに妻には自分の奉じるものを理解して欲しい一方で、その目には
なぜか今となっては夢や幻だったとしか思えない、ザンゼバスチァンでの彼の姿を幾分なりとも残しておいて
欲しいと願う自分がどこかにいた。
妻への愛はまさに、いま現在の彼を動かす炎の片輪だったが、一方では旧い、切り捨てた筈の過去への感傷を
彼女に預けているのかもしれなかった。命をかける闘争の前では何ら役には立たない、「人間らしさ」というもの
を。
そして彼女はまさに人間らしさの固まりだった。鋭敏な感性とその裏返しのもろさや激情、かと思えば他人の
窮状を放っておけない子供のような純粋さと意外なしたたかさ・・・。
光と影が入り混じったやや不安定な人となりは、革命家の妻としては耐性に欠けると指摘されても仕方なかった
が、彼女がそんな人間だからこそアレクセイはあの少年の日からあんなにまで惹かれ、時を経ても忘れられず、
そして今でも愛さずにはいられなかった。
繊細な感覚の持ち主である妻には自分の活動の持つ冷酷さまでを知らせる必要は無かった。ただ、自分を、根本
的な大義の正しさだけを信じてくれていればそれでよかった。
その一方で落ち着いて考えてみれば、確かに実のところ彼らはその過去を含め、お互いのことを良く知らない
のだ。あの再会の喜びと驚きは、全ての疑念やためらいを押し流した。だが自分がユリウスに危険で秘密の多い
生活を強いる以上、これから先の二人のためには、なぜそんな苦難をしのばねばならないのかを理解しておいて
もらう必要があるのは確かだった。ユリウスが、彼の見ているものを見せてくれと願うのは当然の事だ。
何度かの口げんかを経た後、彼はユリウスを社会見学に連れ出した。ドイツの小都市しか知らなかった彼女は、
モスクワ近郊の工場での劣悪な労働環境や生活、そこから零れ落ちた人々が行き着く貧民窟、迫害に脅えるユダ
ヤ人街、蜂起の傷跡が生々しい街角に息を呑んでいた。おそらく彼と再会するまでの数年間はロシアでも豊かな
環境にいたのだろう。地方や農村、できたら自分が生まれた故郷にも連れて行ってやりたかったが、さすがにそ
れはできなかった。宗教革命や市民革命を経た他のヨーロッパの大国とロシアは事情が違う事も丁寧に説いた。
今は彼女もロシア社会の旧弊な仕組みがあまりにも人々に犠牲を強いていること、そして現状の帝政の制度内で
はそれらが民主的な手続きの上で改革される可能性は無いに等しい程度のことは、その正義感の強さから理解し
てくれている。妻を革命の大義とマルクス主義の論理で染め上げる事までもはアレクセイは望まなかった。ユリ
ウスが彼女らしさを捨てずに苦しい生活を乗り切ってくれるなら、彼にはそれで充分だった。
そして彼は何があろうと、必ず妻の許へ帰ると約束していた。また二人は二度と分かたれる事は無いことを互
いに強く誓った。その約束は彼の立場とその活動の非合法性、また彼が革命に殉じる覚悟を定めている事を考え
ればただの気休め、もっと言うなら欺瞞と矛盾に過ぎなかったかもしれない。だが、自分達だけでもそれを信じ
ないことには二人の暮らしは持ちこたえられないだろう事は彼ら自身がよくわかっていた。
そんな経過を経て、この3年間、ユリウスは革命家の妻ではあったが、思想も行動も自らを深くその活動に
関わらせる事は無く、どちらかというと日常の些事に振り回されて過ごしてきた。
アレクセイとともに歩みだした時、彼女は過去の全てを振り返らない事を自らに課し、ほぼそれに成功していた。
実際そんな間隙が無いほどその生活は充分に幸せで、また彼女なりに忙しかった。だがさすがにあの街角に
立った時にはアナスタシアをしのばずにはおれなかった。後で思えばそれは何かの予兆だったのかもしれない。
しばらく街角で追憶に沈んでいたユリウスは振り切るようにして踵をかえした。気持ちを切り替えるために
市電には乗らずしばらく歩いて、やがて目的の店についた。やり手の主人と押し問答の末、新鮮な野菜と肉、
そしてガリーナに頼まれていた菓子を割りのいい値段で手に入れて、彼女は満足して帰路についた。市電を降り、
暗くなる前に早くアパートに帰ろうと大荷物を手に急ぎ足で歩いていると、珍しいことに、見覚えのある夫の
同志が少し先の角に何人かたむろしているのが見えた。
ペテルスブルグに移っても相変わらずアレクセイは妻を革命活動になるべく加わらせたがらなかった。
ただ、どうしても必要な連絡や手紙の受け渡しのために同志がアパートを訪れる事くらいは彼の立場ではまだ
否めなかった。もっともそれもごくごく限られた数の人間で、ユリウスには夫とその仲間達がどこで活動し、
会合をもっているかは全く知らされなかった。だから彼女がいま夫の同志を見かけたのは本当に滅多に無い偶然
だったのだ。(いけない、気づかないふりで早く通り過ぎないと)と思いつつ、ユリウスはちらりともう一度遠目
に彼らの姿を確認してしまい、そして信じられないものをそこに見た。
ロストフスキー。
(4)
ユリウスは愕然として眼を疑い、そんな筈はない、あれは良く似た他人だと自分に言い聞かせようとした。
だが身なりは変わっていても確かにその人物はロストフスキーで、夫の仲間達と行動を共にしている事も明らか
だった。まさか人目のある街頭で同志達に声をかけるわけにはいかず、彼女は胸の動悸をおさえながら走るよう
にしてアパートに向かった。
急いで部屋に入り後ろ手で玄関を閉めると、慌てていたせいで食料をばらばらと床に落としてしまった。
急いで拾おうとした自分の手がわなわなと震えているのに気づいて、震えを止めようと左手で右の手の甲を握り
締めながら、ユリウスはついにその場にへたりこんでしまった。
そのはずみでユスーポフ家で過ごした年月が突然恐ろしいほどの鮮やかさで、どっと押し寄せてきた。
あの晩秋の夜、組み伏せられた床がどんなに冷たく固かったか・・・!
追憶の生々しさにユリウスはめまいをおぼえ、うつぶせに手をついた。
「ああ・・・!」
(なぜロストフスキーがアレクセイの同志と・・・あんなにもレオニードに心酔し、彼からも一番に信用され、
常に傍らに控えていた男が。ボリシェビキなんてありえない。スパイ・・・?
でも青年将校としてあのような地位にいた人物がスパイなどに用いられるだろうか・・・?
では、逆にロストフスキーと一緒にいた人達が・・・?、いや、そんな筈はない、一緒にいたあの人は古参の
同志だと聞いている・・・。)
なんとしても疑惑をそのままにしておくわけにはいかない、アレクセイに彼の身元はわかっているのか確かめ
なくてはと気がはやる一方で、はたと、それには何故自分がロストフスキーを知っているか夫に説明せねばなら
ぬのだということに気が付いた。
数少ない、二人のアパートをまれに訪れる同志達の会話から彼らの動向が少しだけだがわかってしまうことが
あった。とりわけモスクワではレオニード・ユスーポフ候はかつて蜂起鎮圧の指揮をとった事でボリシェビキか
らひどく憎まれていた。あの時指揮をとっていた他の将校の一人はその後、ボリシェビキの手でこそないが爆弾
で文字通り粉みじんになっている。以前アナスタシアから聞いてはいたもののレオニードが暗殺の危険をくぐり
ぬけて今も五体満足でいるのはただの幸運に過ぎなかった事を知った時、ユリウスはひどい衝撃をうけた。
そして夫と彼との不思議な因縁も。レオニードがモスクワでアレクセイを捕縛した事を夫と同志達の会話でユリ
ウスは初めて知った。一方アレクセイはなぜユスーポフ候が彼の助命嘆願をしたのか、同志相手に首をひねって
いた。「あの小僧っ子が弟だったからか?だが奴はあの時借りは返したと言っていたのに。」
それはユリウスにも謎だった。彼女は結局最後まで、なぜレオニードがアレクセイの助命嘆願をしたのか聞け
ずじまいだった。一体何故。夫が言うようにリュドミールを救った礼だろうか?そう思いながらも、心のもう半
分は違う事を考えた。いや、レオニードが助命嘆願をした頃、ユリウスと彼の間には何も無かった。
まさか、いくら何でもうぬぼれに過ぎる。そう打ち消しても、心は恐れに揺れた。それはユリウスには答えを知
るのが恐ろしい問いだった。レオニード、そうだったの?だが有難い事に彼の答を聞く事はもう無い。
あのシベリアの夜、アレクセイは二人の関係が強固なものになり、過去が本当に過去になった時に失われた
年月の話を、思い出話をしようと言ってくれた。ユリウスの体が処女のものではなかった事を責めることは
決してなく、彼の大事な大事な妻としてこだわりのない愛を注いでくれている。だが、そんな彼も、もし妻の
最初の男でその体を自由にしていたのがいわば仇敵のレオニードだったと知ったら・・・。
監禁されている中で起こった事で、しかも力で強いられた関係でユリウスには逃れようが無かったとはいえ、
それが真実の全てではない事は彼女自身がよく承知していた。
それを知っても夫の愛情は変わることは無いだろうか?いや自分の事より、それはどんなに彼の心を切り裂い
てしまうだろう?しかもその男に生命を救われているというのは夫にとって二重の屈辱ではないだろうか?
ユリウスは考えるだに恐ろしく、あの数年間のことは決してアレクセイには話すまい、これは自分が墓まで
持っていかねばならないもう一つの罪なのだと強く心に誓った。
そしてその一方で、レオニードがいまやひどく隔たった存在になってしまった事を痛感した。自分では認めら
れなかったが、数年間にわたった彼との結びつきは実のところあまりにも深く、ユリウスは彼との別れが、物理
的にも精神的にも、それがどういう事なのか本当にはわからないまま飛び出してきたきらいがあった。
だが今、たとえ彼が命の危険にさらされようが、もう自分が彼のためにできる事は何一つない。それどころか
手を下すのは自らの夫の仲間、あるいは夫自身かもしれないのだ。ユリウスは今更ながら、そんな事態を考える
ことには耐え切れず、固く瞳を閉じて拳を握り爪を手のひらに喰い込ませながら、あれはもう完全に通り過ぎた
こと、終わったことなのだ、二度と彼の事は思い出すまいと自分に言い聞かせた。
事実、今日ロストフスキーを見かけるまではそれにほぼ成功していたのだが。
レオニード・・・つぶやこうとして、いま、その名を平静に舌にのせることさえ難しいことにユリウスは
気づいた。もう3年もたっているというのに。追憶を自らに禁じていた分、余計動揺してしまうのだろうか。
だめだ、彼の名を出せばアレクセイには自分の様子が異常な事に気づかれてしまうだろう。そして問い詰められ
れば、きっと動揺した自分は全てを隠し通せなくなる。だめだ。
だが、ロストフスキーの事は何としても確かめねばならない。彼が原因で夫達が危機にさらされるような事が
あれば・・・。アレクセイを失う危険の可能性をそのままにしておく事などできない。もどかしさと自分が
うまく聞きだせるのかという不安にさいなまれながらユリウスはアレクセイの帰宅を待ちわびた。
(5)
夫が帰ってきたのはその次の日だった。いつもの事だが、夫にまた会えてその腕に抱かれるのはまるで小さな
奇跡のようで、ユリウスはその幸福感でふるえた。(帰ってきてくれた。)安堵感でしびれながらそう胸の中で
つぶやかずにはいれない。彼は「おおげさだな」といつものように笑い、わざと音をたてて妻の頭頂部にキスした。
そしてしっかりと抱きしめると「変わりはなかったか?」と尋ねた。一瞬ぎくりとしたユリウスは煙草くさい
コートに顔を埋め、表情が見えない事に感謝しながら「先週ガリーナの隣のペドロヴィッチ夫人のとこで子猫が
生まれたんだ。これがもう少し寒い頃なら貰ってしまったかもね。」と答えた。アレクセイは笑った。
「冬の必需品だからな。でも駄目だぞ、猫は。」「わかってるよ。」とユリウスも笑って彼を見上げた。
そのまま口付けし、アレクセイは寝室にユリウスを引っ張っていった。若さのまま空白を埋めるように求めあい、
二人はやがて穏やかな眠りについた。幸福すぎて、ユリウスはその日はどうしてもロストフスキーの事は聞けなかった。
アレクセイは今月一杯はもうどこにも行かないという。確かめるのに少し時間はある。
ありがたい事に翌日、ズボフスキーがアパートにやってきた。
「すまないな、夕食時に。ガリーナには邪魔するなと怒られたんだが。どうしてもアレクセイに今日中に見せて
返事が欲しいと他の奴に頼まれたものがあって。」
「ううん、よかったら話しながら夕食も食べてって。ガリーナにも持っていってもらいたいものがあったから
ちょうどよかった。」
夕食後、ユリウスはフョードルにおそるおそる話を持ちかけた。アレクセイは隣室でズボフスキーが持ってきた
書簡への返事を書いていた。
「フョードル、昨日、街角でブガショフを見かけたんだけど・・・。一緒にいたのは新しい同志の人?」
「彼らを見かけたのかい?」
「うん、昨日は※※通りにちょっと足を延ばしてみたんだ。ガリーナお勧めのすごく安い食料品店があって。
そしたら帰り道でブガショフが少し先の角にいて。3時くらいだったかな。もちろん声なんかかけないけれど。
でも一緒にいた男の人がちょっと他の同志達とは雰囲気が違う気がして、どういう人なんだろうと思ったんだ。
背が高くて、淡い色の髪のひと。」
つくろいものをしながら聞くその声の屈託の無さにフョードルはあっさり答えた。
「ああ。ロストフスキーだな、それは。彼は高級将校あがりだから確かに他の奴とは様子が違う。」
「高級将校あがり・・・?そんな人が同志に?あやしくないのかい?」
「彼に関してはその危険は無さそうだね。俺達がモスクワから移って来る少し前の事だが、軍隊中の活動家が
何人か検挙されてシベリア送りになるところをこちらの同志が救出した。だがずいぶん弱っていたそうだ。
回復するのに数ヶ月かかって最近ようやっと動きだせるようになった程にね。よほど厳しい取調べを受けていた
んだろう。まあはっきり言って拷問だ。偽装ならそこまで痛めつけはしないだろう。本当に転向されてしまう。
俺は2、3度会ったな。無口だが、なかなかきれる男のように見えるね。」
「そうなんだ・・・。すごい人なんだね。ああ、カップが空になってる。お茶をもう一杯どう?」
「ありがとう。貰うよ」
何気なさを装って台所へ行きつつ、ユリウスは緊張で拳を握り締めていた。一見、筋は通っている。フョードル達
は全く疑いを抱いていない。当然ロストフスキーの軍歴も軍に潜入している同志の誰かが確認している筈だ。
でももう一言だけ、彼がレオニードの腹心だった事も承知しているのかさえ確かめられれば、どんなに安堵できる
ことか・・・!
・・・思い切って聞いてみようか・・・?
「フョードル、しゃべり過ぎだ。」
ユリウスは、はっとした。いつの間にか夫が傍らに立っていた。明らかに親友を咎めるその声の調子に、
フョードルは肩をすくめて、「すまんすまん」と全くすまなさそうでなく言った。
「まあ、見ちまったものは仕方がないな。ユリウス、お前がなんで奴の事を気にするかわかるぜ。」
「え・・・」と凍りついたユリウスに、
「あいつなかなか男前だからな。筋金入りの軍人らしく、どこでも背筋が伸びてやがる。姿がいいから目だって
しまうのが奴の弱点かもな。」とアレクセイは笑い、フョードルも笑った。
台所が薄暗かったのを幸いに思いながら、ユリウスも「もう!やめてよ、アレクセイ!」と安堵で笑い声をたて、
夫を軽くこずいた。
「アレクセイ、おまえはまだ奴と組んだ事はないんだろう?」
「ああ、だが一応党員の把握はしてるよ。あいつはこちらを知らんだろうがね。まだもう少し様子を見ないとな。
それよりフョードル、今お前に渡すこの返事なんだが。」
話題が変わった事にユリウスは胸を撫で下ろした。その一方で、駄目だ、これ以上は聞けない、聞けばきっと
全ての歯車が狂う羽目になるだろう・・・と実感した。そして、同性と異性ではずいぶん違う目で見ているものだ
なと思った。ロストフスキーの外見と能力がいかに優れていても、あの滲み出る冷たさに怖気をふるわない女は
いないだろう。
それからたった数日後の事だった。アパートの玄関を誰かがノックした。それはアレクセイの仲間が届け物に
来た事を知らす合図どおりの音だったので、ユリウスはいつものように扉の覗き穴から来客の顔を確かめようと
した。だがそこに立っていたのはロストフスキーだった。
ユリウスは愕然とした。しばらく躊躇したが、これはいつ起こっても不思議は無い事だった。夫たちの活動の
ためには知らぬ振りで彼を帰すわけにはいかない。彼女は観念してそっと扉を開けた。ロストフスキーはようや
く開いた扉に安堵した表情で、決められた来訪の挨拶を言おうとしたが、そこにユリウスを認めて凍り付いてし
まった。ただでさえ通常より長く廊下で待たせてしまったのだ、彼女はアパートの誰かの目につかないよう急い
でロストフスキーを部屋に通した。
しかし久し振りにロストフスキーに面と向かい合うと、ユリウスは最初に彼を見かけた時同様、いやそれ以上
に生々しくユスーポフ家での思い出に引き戻らされざるを得なかった。軍人らしくと言うよりは人並みはずれて
感情を面に出さないロストフスキーだが、レオニードとの関係が始まった後、彼の顔には彼女をうとましく思っ
ていると感じさせる何かがあった。もっともそれはユリウス自身のもつやましさの反映に過ぎなかったかもしれ
ないが。
しかし確かに当時の彼女は、部下から見てレオニードの高潔さを損なうと思われても仕方がない存在だった。
常に傍に控えていたロストフスキーには二人の関係の生々しさは伝わらざるを得なかった筈だ。抱かれている声
を聞かれたのも一度や二度ではすまなかったかもしれない。それを思うと、ユリウスは彼の眼を見ることができ
なかった。一方でロストフスキーはまだ呆然とユリウスを見つめていた。
「これは・・・どういう事なのですか。なぜ・・・。」彼は信じられない様子でつぶやいた。
ユリウスは彼の顔も見ずに言った。
「・・・久し振りだね、ロストフスキー・・・。あなたが同志に加わった事は夫から聞いていたよ。」
「では・・・あなたは・・・あなたが・・・。」
「見ての通りだよ。ここへは夫への届け物を持ってきてくれたのでしょう?」
ロストフスキーははっとして、のろのろと懐中から封筒を取り出し、ユリウスに手渡した。
それを卓上に置くとユリウスは沈黙に耐えられず言葉を継いだ。
「・・・本当に驚いたよ。こんな形であなたに会うなんて。」
「・・・私もです。ユリウス様・・・いや、ミハイロヴァ夫人。」
ユリウスは弾かれるように目をあげ、そこに嘲りの色がないかロストフスキーの顔を見据えた。だが彼の薄い色
の瞳は、以前と同様たいへん表情を読み取りにくいものだった。ユリウスは情けない思いで言葉を続けた。
「このあいだ、あなたの事を聞いたよ。大変な思いで同志に加わったそうだね。」
「ええ。同志達に救出されていなければ、私はシベリアに着く前に死んでいたでしょうね。拷問の辛さには
死を願いましたが・・・。いま、あるのは僥倖だったとしかいいようがありません。救われたこの命は同志と
革命に捧げる覚悟です。」
あまりにも紋切り型の言葉にユリウスは少したじろぎ思わずつぶやいた。
「そう・・・。でもあなたまでがレオ・・・ユスーポフ候のもとを離れてしまうなんて・・・」
ロストフスキーはきっとなって頭を上げると言った。
「私はご存知のようにユスーポフ候に心酔していました。だがそれ以上にロシアの未来を憂えたからこそ、候を
思う気持ちを断ち切り、革命派に飛び込んだのです。命がけであなたの夫と同じ側にたどりついたというのに、
なぜもっと喜んで迎え入れてくださらないのですか?」
一気に彼の口をついてでたのはこの言葉だったが、二人とも本当の意味はわかっていた。
候に抱かれていた「あなた」がそれを言うのか?
あなたこそなぜ平気な顔で敵の妻の座におさまっているのだ?
毎夜あんなにも溺れあっていたのに?
ロストフスキーは言外にそう烈しく問いかけているのだった。
「・・・すまない。そんなつもりじゃなかったんだ。・・・あなたのように勇敢で有能な人が夫の仲間に加わって
くれて嬉しい。本当だよ、ロストフスキー。」
「私こそ、興奮してしまい、失礼しました・・・。だが、わかっていただきたい。この期に及んで言うべきでは
ないが、候を裏切ったと思うと私も辛いのです。」
「わかるよ・・・ロストフスキー。僕が悪かった、すまない・・・」
「ユリウス様・・・非常に申し上げにくいのですが、同志アレクセイはご存知なのですか?
その・・・あなたがユスーポフ家に監禁されていたことは。」
先ほどと同様、言葉は選ばれていたが言っていることは同じだった。
アレクセイ・ミハイロフはあなたが候に抱かれていたことを承知なのか?
さすがにユリウスは視線をそらし、しばらく黙っていたがやがてゆっくり首を振った。
「いや。ロシアに着いてからの事は・・・。アレクセイには何も言っていない。だからロストフスキー・・・」
「わかりました、ユリウス様。あなたがおっしゃってないなら私も決して。いや、実は私自身も候についていた
ことはまだ同志達にも言えずにいるのです。」
驚いたユリウスに
「誤解されるのが怖いのです・・・。私はこの国が変わるのを望んでいるが、候を憎んでいるわけではない。
今は敵となってしまいましたが、候を軍人として尊敬する心は失うことがないでしょう。
でも同志がそれを理解してくれるかと思うと・・・。むしろスパイ扱いされるのではないかと思うと語るのは
もう少し皆の信頼を得てからにしたいのです。せっかく死以上の苦しさを経て、仲間に加わることができたので
すから・・・。この気持ちをわかっていただけますか?」
ユリウスは再び彼を見つめた。その淡い色の目には初めて見せる必死な表情が浮かんでいた。いま彼はかつて
明らかに侮っていた女に懇願していて、ユリウスは居心地が悪かった。だがあの頑健そうだったロストフスキー
が数ヶ月も動けない程の拷問とは。確かにこの男は以前より線が細くなったし、さっきはほんのわずかだが片足
をひきずっていた。(偽装にしてもやり過ぎだろう。)あの冷静なズボフスキーもそう言っているのだ。迷いが全
て払拭できたわけではないが、ユリウスは答えた。
「・・・わかったよ。ロストフスキー。君が仲間に言える時が来るまで、僕は何も言わない。」
「ありがとうございます、ユリウス様。」
ロストフスキーもなぜユリウスがアレクセイと再会できたのか聞きたそうだったが、届け物に来ただけなのに
長居をした事に気づきあわてて帰っていった。まだ仲間入りして日が浅い彼は、いわば試験期間にいるのだった。
ユリウスはどっと疲れをおぼえて椅子に腰掛けた。彼との会話を思い起こすと、自分も夫への弱みをたてに口封
じをされたのでは?という疑念が、決して本気でないにせよ、一瞬胸をよぎった。しかし今はもう何も考える気
力がなかった。
ロストフスキーはアパートを急ぎ足で離れながら胸の中で毒づいていた。
あの娘がアレクセイ・ミハイロフと共にいるとは!
しかも自分の存在を知られてしまった。これでは候と自分の努力が水の泡だ。なぜあの部屋で二人きりだった
のに始末してしまわなかったのか・・・。もうそんな千載一遇の好機は訪れないかもしれないというのに。
しかし、あの娘あんなにも候の愛顧をえながらよくもぬけぬけと・・・。
何がミハイロヴァ夫人だ。激しい憤りがロストフスキーをおそった。
だがあの娘・・・いや、もう娘という年では無い、あの女が夫に全てを告白していなかったのは自分にとって
不幸中の幸いと言えるかもしれない。どうやってミハイロフ(そもそも彼が生きていたこと自体が驚きだ。)の
所にたどり着けたかはわからないが、そりゃあ夫(!)には候との事は言えないだろう。いくらなんでも相手が
まずすぎる。しかし頭が痛いのは、これをどう候に報告するかだ。
まだボリシェビキ内の監視の目があるため、暫らくはレオニードと直接会えないのをロストフスキーは初めて
心からありがたく感じた。こんな事はとても面と向かって言えるものではない。自分の報告を聞いた彼がどんな
顔をするかなど想像すらしたくなかった。
レオニードとユリウスが肉体関係を持った時、ロストフスキーはすぐ察しがついた。ヴェーラ同様二人の間の
火花がいつ着火してもおかしくないとは思っていたので、主人のために喜びはしないまでも、なるようになった
なと淡々と事実を受け止めた。
だがそれからの日々はむしろレオニードの苦しみが増しただけのように彼には見えた。おまけにあんなに真剣
になってしまっては、とても秘密にしきれるものではない。いつか屋敷の外に噂話としてでも洩れたなら大変な
事になる。当時、レオニードはまだ離婚していなかった。実質上はもう形だけの結婚とはいえ皇帝の姪を妻に持
つ高位の軍人が、外に囲うなら珍しくもないが、愛人を屋敷に同居させているとあっては立派な醜聞だった。
それでも普通の貴族なら多少眉をひそめられ、扇越しにかわされる艶笑話程度で済んだろう。だがユスーポフ家
は誰知らぬ者はない名家で普通の貴族とは違う。おまけにレオニードは只でさえラスプーチンに敵視されている
以上、無私・清廉という定評を失う事は軍人としても致命傷になりかねなかった。
それに当時世情は安定していても、ドイツとの関係は依然として緊張の度を増していた。そんなところに相手は
身許のあやしいドイツ娘ときたら、いったん騒ぎになれば、もう目もあてられない事になったろう。
だからレオニードがユリウスを手放した時、ロストフスキーは彼のため心から安堵したのだったが・・・。
こんな形でまた関わりができてしまうとは、そしてよりによって自分が候に知らせねばならないと思うと、ロス
トフスキーの胸には苦いものがこみあげ、文字通り命を懸けた任務に飛び込んだ自分をこんな窮地に立たすユリ
ウスを一瞬真剣に憎んだ。
(6)
一方その同じ時間、ユリウスはもの思いを続けていた。レオニードは夫以上に、いや誰よりも彼女を知って
いる男だった。それは体だけでなく、彼女の罪も、秘密も、もしかしたら魂までも。彼は全てを把握していた。
ロストフスキーにさっき言ったように、アレクセイには結局ロシアに着いてからの事はおろか、ドイツでのこと
も、何一つ語っていない。彼はユリウスがなぜ男子学生として現れたか、その理由すらまだ知らないでいるのだ。
だがそれは現在の生活になんら影を落としていなかった。アレクセイは常にいま、現在目の前にいるユリウスを
愛してくれていて、その事は過去を忘れたいユリウスをどんなに幸福にしただろう。だが、その心の平穏もいわ
ばユリウスが秘密や罪を全てレオニードに預けた結果生まれた強さによるものといえそうだった。
そうでなければ、ユリウスはただひたすら夫の保障の無い帰還を待たねばならないという不安を己の過去の影で
太らせてしまい、今の生活を持ちこたえる事ができず二人の幸福を自ら台無しにしていたかもしれない。
あのシベリアの夜、自分はアレクセイに全てを告白するつもりでいた。だが、いま思うと一体何をどこまで言
えただろう?姉達から財産を掠め取るため生まれた時から性別を偽って生きてきたと?それはまだしも、自分が
かつて手を血に染めた、それも一度ならずということは?アレクセイは知らずに殺人者を抱いているのだ。
それだけは知られたくなかった。受け止めてくれるかもしれない、でもそれを知ったその時、彼がどんな目で自
分を見るかと思うと恐ろしくてユリウスは竦み上がった。
そしてレオニードとの関係。「ある人と関係を持っていた。」それだけでアレクセイが納得できず問い詰めてき
ていたら。うまく説明などできる筈は無かった。きちんと説明しようとすればするほどきっと言葉は取り返しの
つかないものになり、疑念と嫉妬で二人とも結局ぼろぼろになったろう。そして初っ端から傷がついた関係は、
いくら二人が努力しても、修復し、育てるには長い時間がかかった筈だ。アレクセイが最初に言ったように、
自分達にはどれだけの時間が与えられているのかわからないというのに。
ユリウスの罪と秘密はどれ一つとってもあまりにも重い話で、今思うとあの時彼が何も聞かないでくれたのは
二人のためには本当に正しい決断だったとしか言いようが無い。
きっと真実を知っても最終的には彼は許してくれる。自分を受け止めてくれる。それは信じている。だが、本当
に彼に告白するかどうかはまた別の問題だ。
そして不慣れな生活と官憲の目を逃れねばならない緊張感で日常はそれなりに忙しく、ユリウスにとって故郷で
の出来事はすでに遠いものに感じられた。そしてその重荷はすでに一旦他の人に預けた事で、彼女にとってその
重さは軽減されてしまっていた。
それに生活を共にしだして、ユリウスはクラウス、いやアレクセイのほぼ全ての情熱と思考は革命に捧げられ
ていることがよくわかった。再会しなければおそらく全てを注ぎ込めただろうに、足手まといになる事はわかっ
ているのに、5年前とは違って自分をためらいなく受け止めてくれた。それなのに自分の過去を告白することは
彼にさらに重荷を背負わせる事だ。今、おそらく危険な生活を送っている彼にそんな事をしてはいけない。
それに多分二度と故郷に帰る事はあるまい。自分はここでアレクセイと生涯を過ごし、この地に埋められるのだ。
そして何よりユリウスを力づけたのは自分はアレクセイのただ一人の妻だという事だった。
ユリウスは身元を偽らねばならない緊張感、夫と自分だけでなく、夫の同志達の命もかかった緊張感よりも、
レオニードとの強いられた関係がいかに自分の心と誇りを傷つけて重たくのしかかっていたかに気づき、今更
ながら驚きを禁じえなかった。
あの頃の彼女の全世界は豪奢とはいえあの邸宅内だけだった。その閉じられた自由などない世界の中で常に監視
され、性行為を強いられる事は本当に辛かった。おまけに周囲から注がれる視線には、彼らがどんなに隠そうと
しても毒が、性的な軽蔑や好奇心が滲み出していた。たとえ、どんなに彼女に好意的な者であろうとも。
ヴェーラの気遣いにすらユリウスの心と誇りは切り裂かれる思いをすることもあった。
自ら覚悟し、進んで入った関係だったなら全ては違っただろう。だが少なくとも始まりは決してそうではなか
ったために、結局彼女はどうしてもその屈辱を受け流す事ができなかった。子供のときから、彼女は周囲の侮蔑
の目に曝され続けてきた。「親なしっ子」「妾の子」 男の振りというよりも母と自分を護るため、彼女は侮辱に
は敏感に反撥し、戦った。「受け流す」という芸当はついに身につかなかった。ユスーポフ邸では無意識のうちに
自分で心をどこか麻痺させたように過ごしていたが、もしあのままの状態が続けば、きっといつかその屈辱はじ
わじわと彼女を蝕んでいったろう。レオニードの愛の多寡とは無関係に。
だがアレクセイといれば、彼女が彼の妻である事は動かない真実で、たとえ身元は偽っていてもその一点は曇
りが無かった。その事がどんなに精神を安定させるか、自分でも驚く程だった。それは彼女がやっと得る事がで
きた、世界に相対するための大事な軸足だった。この頃の彼女はまだ自身の力で立つのではなく軸足を必要とす
るほど、まだそれほどまでに弱かった。
だが彼女が初めて得た、偽りの無い、人の道を外れていない誇りは彼女を支えた。夫の闘いの正当性さえ信じら
れたら、官憲の目を逃れねばならない危険性と生活の貧しさ、不自由さなど何ほどのこともなかった。
彼女は胸を張り、自分の足で街を歩き、生きることができた。
そして何よりも、ユリウスはアレクセイを愛していた。なぜこんなに愛おしいのか、なぜ自分の生がかくも彼を
中心にしてしまうのかわからない。でも理由なんて、どうでもいい。彼と巡り会え、いま人生を共に歩んでいる、
この幸運と幸福に自分は感謝するだけだ。
一方、アレクセイは妻の過去についてはどう考えていたのだろう?若くして革命に身を投じた彼は女性関係は
そう経験豊かとはいえなかった。だが、妻が処女ではなかったというだけでなく、誰かがその体を女として花開
かせた事は、抱いていて察しがついた。正直、表に出さないだけで、彼の内にも気の狂うような、灼けつくよう
な嫉妬は充分すぎるほどあった。夜半、ユリウスのやすらかな寝顔を見つめ、その頭から、体から、他の男の記
憶や行為を全て引きずり出し消し去ってしまえればと何度痛切に願ったろう。
だがその男がどんな奴だったかは知らないが、アレクセイが一緒にいれなかった数年間、そいつがユリウスに
充分な保護と、悔しい事だが愛情を与えていたのは確かだった。なぜなら再会した時、ユリウスは簡素だが良い
身なりをしていたし、体も充分に手入れされて健康で美しいものだった。そして話すロシア語は上流階級のもの
だった。外国から来てロシアに何の係累も無い若い女性がそれだけのものを得ている、そしてその体が男を既に
知っていたという事は、答えは明らかだった。
だが、ただの慰み者になっていれば陥っていたはずの一種のすさみは彼女には微塵も無かった。アレクセイが彼
女を振り切った後の数年間で起きていた事は、少なくとも彼の目からは彼女自身を損なってはいなかった。
彼女はむしろ強くなっていた。多分、アレクセイの知らない誰かの愛で。
その同じ年月、アレクセイは牢獄で女囚がむごい末路を辿るのを幾度となく目撃し、何もしてやれない己の
無力さにうちひしがれながら、同時にユリウスを捨てた自分の残酷さに震え上がっていた。
あの時俺を追っていた憲兵達は取り残されたユリウスを発見したはずだ。一体あの後、どんな運命が彼女を襲っ
たか。彼女は身一つで、おまけにおそらくロシア語もそんなには理解できまい。粗暴な憲兵達に捕らえられ、
もし女だということが知れたら、俺と関わりがあったという事が知れたら、あの若さと美しさでは興奮した憲兵
達が一体どんな行動にでた事か。
過ぎた事だ、もう考えまいとしても、牢獄の中では最悪の想像ばかりが浮かんだ。女囚達が辱められ、あるい
は陵辱の果てにさらに拷問を受け、命を失っていく姿はそのまま自分が浅慮にも振り捨ててしまった恋人の姿に
重なり、「俺は少なくとも彼女をあんな目に合わせずにすんだ、あの時の、あの選択は正しかったのだ」と思い込
もうとしてもそんな浅薄な言い訳では自分を騙すこともできず、彼の精神の均衡を失わせかける事も度々だった。
実のところ革命という大義に、己を捧げつくす決意がなんとか彼を救いあげたのだ。
だから思いもかけずユリウスと再会し、彼女がなお自分を待っていてくれたと知った時、彼はそれは自分には
値しないほどの恩寵だと心の底から感じた。だから自分が地獄へと追いやっていたかもしれない同じ年月の間を、
誰かがユリウスを守り、自分が与えられなかった安全を与えてくれていたのなら、アレクセイが文句をつける筋
合いなどありようもなかった。心はのたうっていたが、頭ではそう理解していた。
再会してから最初に二人きりで迎えたあの夜、ユリウスが過去を懺悔しようとしたことはわかっていた。
だがそれを聞いて、自らの心にさざなみが起きるのを彼は恐れた。ユリウスの告白を受けとめて、彼女の心を
軽くしてやれない己の狭量さは恥ずかしかったが、それで自分の心が揺れて、再会の喜びの大きさの分、理不尽
な怒りや嫉妬で再び彼女を傷つけ、彼女を失う羽目になることのほうがずっと恐ろしかった。
頼む、ユリウス、俺に知らさないでくれ、おまえを責めるようなことをさせないでくれ・・・。
そして生来反抗心に満ち、長じて革命家である事を選んだ彼には、過去よりも未来のほうがはるかに尊重される
べきものだった。過ぎた歴史に未来を損なわせてどうする?現在は明日には常にあるべき姿に刷新されるべきものだ。
それならば決して過去ごときに自分達の未来を干渉させるものか。
シベリアの丘で立っているユリウスの姿を見た時、彼はきっと死ぬまで自分は彼女を愛し続けるだろうと
悟った。それはまるで啓示のようだった。頭から雪をかぶった事にも気づかない様子で自分のもとに走り寄ろう
とする彼女。根雪に足元をとられ、お互いに辿り着くまでのあの数十秒がどんなにもどかしかったか。
あの晩アレクセイは思った。おまえが俺を許し、俺の傍らにいる事を選んでくれるというのなら、それで充分だ。
自らの生がいつどんな形で終わるのかはわからないが、もう決してこれから先の時間は無駄にすまい。
そうやってアレクセイはユリウスのおそらく彼に語るには辛いだろう過去を切り離して、二人の関係を
作りあげようとした。そして今までのところそれで二人は充分以上に幸せだった。
心揺れるユリウスにとって幸運なことにそれから数日、アレクセイは彼女のもとへは帰れなかった。普段の
ユリウスなら信じて待つしかないと承知していても不安で眠れぬ夜を過ごすのが常だったが、今回ばかりは自分の
乱れた心を落ち着かせるのに数日の猶予はありがたかった。そしてついにアレクセイが帰宅した時には変わらぬ
笑顔と抱擁で迎え、彼の腕の中で限りない安堵をむさぼる事ができた。だがその夜、夫の愛撫を受けながらユリ
ウスは体の深部から、封印していた記憶の感触が甦ってきそうな予感におののいた。
レオニードと離れて改めてわかったのは、彼がどんなに自分を愛していたかという事だった。記憶を失う直前、
宮廷からの帰りの馬車でレオニードは言った、皇帝からユリウスが脱走を図れば射殺せよという命令をうけてい
ると。ユリウスが知っている隠し財産の件はそれほど皇室に、そしてレオニードにとっては重いものだった。
その自分を、叛逆者のもとへ行くとわかっていてレオニードは自由にしてくれたのだ。これは彼の拠って生きて
きた信義を大きく曲げることだったろう。それも彼を裏切った女のために、あの誇り高い男が節を、自分の第一
義を曲げてくれたのだ。僕にそんな価値など無かったのに。
一緒にいた時は怒りや幽閉など様々な要素で屈折してよく見えなかったものが、皮肉なことに距離ができたことで
逆に見通しがついた。そして自分の中にも彼の愛に感応する何かがあったことも確かだった。だがそれは終わった
事として全てを封印し、葬り去られる定めの思い出だった。決して今のアレクセイとの幸福の中にそれを入り込ま
せてはいけない。あの強く誇り高いレオニードでさえ、あれだけ嫉妬で自らを傷つけていたのだ。
今ならそれがわかる。夫には決してそんな思いをさせてはいけない。首を振り、追憶を断ち切るとユリウスは
しっかりと夫を抱きしめた。この腕の、この胸のぬくもりを決して失いたくない。
それが今のユリウスの望みの全てだった。
(7)
その頃ロストフスキーの報告書がレオニードの手元に届いていた。
まるでついでのように末尾に書き添えられたユリウスについての簡潔な報告を読んだとき、彼がまず感じたのは
ロストフスキーが恐れたような失望ではなく、むしろ限りない安堵感とでもいうべきものだった。
アレクセイ・ミハイロフが監獄で焼死したという知らせを聞いた後、レオニードはなんとかしてユリウスの
行方を捜そうとしたが、それはまさしく広大なロシアの地で針一本探すのも同然だった。彼は激しく悔やんだ。
焼死を装って彼女を手放したがそれは何という皮肉だったことか。ミハイロフがこんな末路をたどるとわかって
いれば、たとえあの状況でも彼は決してユリウスを手放さなかっただろう。あまりにも急な事だったので、ユリ
ウスがミハイロフの収監されていた監獄近くにまで行けたのかすら知る術はなかった。アレクセイ・ミハイロフ
という人生の北極星を失って、彼女がこのロシアでどうやって生き延びていけるのか彼には見当もつかなかった。
ボリシェビキ達の手先になって糊口をしのいでいるのでなければ、あるいはアカトゥイ近辺の売春宿をしらみつ
ぶしに探すのが彼女を発見するのにもっとも手っ取り早い方法ではないかと真剣に考えたほどだ。
しかし、手は尽くしたものの、今のレオニードにできることはごく限られていた。おまけに彼女は死んだ事に
なっている人間なのだ。ユリウスを手放したあの夜、少なくともこれでもう彼女のために苦しむことはなくなると
彼は思ったのだが、これでは運命の思わぬしっぺ返しにあったも同然だった。レオニードは自分の失策にほぞを
かみ、初めて己れを無力だと思った。とりわけ冬の夜、ロシアの厳しい吹雪の音を聞く時が一番苦しかった。
だから、ロストフスキーの報告でユリウスがミハイロフ夫人としてアレクセイと人生を共にしていると知らさ
れた彼は、しばらく額ごと目を覆い、自らの想念が暴れるのに任せた。そして安堵の大きなため息をついた。
(よかった。)そんな言葉がまず心に浮かんだ。彼女は無事だった。そして最も捜し求めていた幸福を手にして
いたのだ。ちりちりと嫉妬が胸のどこかを焼いたが、共に暮らしていた頃の苦しさや、行方を見失った後悔と比
べれば、もうそれは残り火とでもいう程度のものだった。
そして、次にひどい皮肉を感じた。腹心のロストフスキーをあえて死地ともいうべき任務においやったが、まさか
こんな事になろうとは。
彼が潜伏した先は選んだわけでもないのに、レオニード達には全く情報の無いボリシェビキの内奥部だったことは
彼らには幸運だった。だがそこにアレクセイ・ミハイロフとユリウスがいることなど全く予想の埒外だった。
まるで彼らの人生はひどく皮肉な力で結びあわされているようだった。だが、ロストフスキーもさぞや報告しにく
かったろうと部下の苦境を察すると、そんな場合では無かったが、レオニードは苦笑を禁じえなかった。
そして次いで表情をひきしめた。
これで彼ら・・・レオニードとアレクセイ・ミハイロフ、ユリウスはいわば盤上で敵として相対する配置が完了
した。これからはロストフスキーを中間に死闘を演じることもあるだろう。その時はもう個人的な温情や配慮が
入り込む余地は無くなる。ユリウスもロストフスキーが革命派に与した事を信じれば、自分を改めて夫の敵とし
て認識したことだろう。長い時間と紆余曲折を経て彼らの関係はユリウスが初めてレオニードのもとに現れた時
に戻ったといえる。「振り出しに戻ったな。」レオニードは報告書を握り締め、つぶやいた。
ヨーロッパ中を巻き込む戦争が始まったのはその夏だった。開戦時、ロシアの国民は普段の不人気を忘れて
ニコライ2世に喝采した。それはどの国でも同じ事で、皆、この戦争はすぐに終わると思っていた。
「クリスマスには帰れるさ。」ヨーロッパ中が、戦いあうどちら側もがそう思っていた。
だがそれは人類が、いまだかつて知らなかった領域に自ら足を踏み入れた瞬間だった。物資と人命が無尽蔵に
消耗される総力戦という領域。銃砲、化学兵器、輸送機関、通信網。それらの科学的な発達が戦場をそれまでと
は異なる地獄絵図と化させ、戦争の行方を左右するのは、経済力と科学力だった。
そしてその点でロシアはあまりにも不利だった。ドイツに対して近代的な軍備という面で致命的に立ち遅れて
いたのに加え、茫漠なまでに広い国土には鉄道による輸送網も電信による通信網も努力はしてもまだ行き渡って
はいなかった。何より決定的な事にそれを動かす政府と軍部組織そのものが硬直化し、壊死しかけていた。
また経済的にも、それまでの急成長を支えていた資本はロシアの地力では無く、移り気な海外からの投資に過ぎ
なかった。開戦時、ロシア軍がドイツに優っていたのは・・・兵士の「数」だけと言って差し支え無いほどだっ
た。やがてそれすらもやがて帝国内部の敵、政府や軍ではびこる腐敗と無能、そして飢えと革命思想が食い荒ら
していった。
不利な状況を少しでも認識できた者達は激しく開戦に反対した。ラスプーチンですら開戦には否定的だった。
だが理性が非常時という興奮のカオスを鎮められた例しは古来無く、結局ニコライは軍の閣僚に押し切られた。
一方亡命先のレーニンは喜んだ。既にあきらめかけていたのに。開戦当時の興奮が過ぎればもともと無に等しか
った国民の求心力は雲散霧消し、政府への不満だけが募る事は間違いない。この戦争は長引くほどロシアの屋台
骨を突き崩す事となり、国家の機能は失われる。人々は新たな枠組みを求めるだろう。人が自らの力では望み得
ないほどの好機が転がり込んでくるとは、歴史がそれを望んでいるとしか思えない展開だった。
後に振り返るとこの時が境だった。この戦争を触媒としてロシアという高峰は何ものをもってしても
引き返させる事のできない、あまりにも大掛かりな瓦解と死闘、そして恐るべき試行錯誤の世紀に崩落し、
その衝撃が引き起こす波はロシア一国に留まらず文字通り世界全体をも作り変えていった。
だが人々はこの時まだ何も知らずにいた。
新しい世界を夢見る者も、旧い世界の正統性を疑いもしなかった者も。
彼らが見ていた、見ようとしていた何もかもがとどめようも無いほど変わり失われ、やがて全ての人が
等しく裏切られる事になろうとは、この時点では誰もまだ気づける筈が無かった。
この作品の作者さんが2chに公開されている部分は以上で終りです。
以下に同じ作者さんの断片的な作品を収録します。
141 :
朝食:2009/08/09(日) 10:41:26 ID:XtISsDvI
グルシェンコフはゆっくりと朝の菓子を味わっていた。彼は大の甘党だったが、一種ゆがんだ快楽主義から、
その好物を味わうのは朝の1度だけと決めていた。口中でクリームの脂の粒子と、その中で一体となった砂糖の
濃厚な甘みを楽しみながら彼の頭の中は様々な案件を処理していた。この神に向き合うのにも似た、純粋な時間
で行う判断が最も明晰だった。
顔色の悪いメイドがカップに紅茶のお代わりを注いだ。彼女は生まれついてのオシで、まだいとけない少女の頃
から彼に仕えてきた。(こいつはあとどれくらい保つかな?)とグルシェンコフは彼女の耐久度を推し量った。
昨夜は少しやり過ぎたかもしれない。だが彼女はさすがにそろそろ彼を退屈させてきた。この無口(当たり前だ)
と従順が反転して彼を襲う事は無さそうだ。もう少し気概があるかと思ったが。それでも長くもった方なのだが。
少々残念だが仕方無い。また次の奴隷を探さねばならない。従順で、口が堅く、彼を退屈はさせない誰か。
そして頭の中でもう一度ユスーポフについての報告書をさらった。何かが動き始めている。ラスプーチンから
は相変わらず彼に対する不快感を表されていたが、グルシェンコフはのらりくらりとそれをかわしていた。彼が
あんなにもユスーポフを意識するのはおかしな話だ。直接的にラスプーチンに危害を加える計画を練っている者
や、皇帝に影響力を持っていてなんとか彼を排除しようとする人間はいくらでもいるのに。そう、ラスプーチン
にさしだす山羊のネタは他にいくらでもあった。ユスーポフはグルシェンコフの獲物で、時期と理由は自分が選
ぶ。彼はその愉しみを誰にも渡す気は無かった。たとえ皇帝自身に求められようとも。
142 :
無題:2009/08/09(日) 10:54:23 ID:XtISsDvI
1936年 ベルリン
カフェで一緒に腰掛けているのは2週間前にひっかけたなかなか色っぽい女だった。
彼女は婀娜っぽく、足を高々と組み直しふんと口をとがらしてぼやいた。
「あなた本当にあの手の女に目が無いのね。ああいう、金髪ですらっとして足が長い女。それなら最初からああ
いうタイプに声をかければいいのに。」
彼は苦笑して黙っていた。こんなに短い付き合いの女にまで言われるとは、自分も相当露骨なのだろう。党にし
ても彼にはいつもその手の女をあてがってくる。だがみな勘違いをしていた。彼はむしろ性的にはブルネットの
小柄でふくよかな女が好きだった。まさしく今ぼやいてみせた目の前の女のような。「あの手の女」はいつまでも
彼をとらえて離してくれない人生の迷妄のようなものだ。だが今、ようやく彼はそれから解放されようとしてい
た。
そろそろ時間だ。もうすぐ彼女が来る。
ものすごい勢いで言い争いながらその若い二人は歩いてきた。
あなたは奔り過ぎよ!あんな2楽章があるものですか、全てぶちこわしだわ!
ついて来れないからって文句言うなよ。君のは矯めてるんじゃない、のろいだけだ。亀だ亀!それとも親父の真
似をして弓に鉛でもいれてるのか?文句を言うならやってみせてから言えよ。それで台無しなら僕も納得するが、
やれもしないで批評家面なんてよくも恥ずかしくないもんだな。
なんですって、そんな風に独りよがりだからバックハウス先生にも破門されたのがわからないの?
冗談じゃない、破門なんかされちゃいない。バックハウス先生は僕をアメリカには行かせたくないだけさ。何か
僕がしでかすとでも思ってるんだろう。だがな、大体僕たちがウィーンを追い出されてベルリンくんだりまで来
る羽目になったのは、君の!その!男前な性格のせいなんだからな。
カフェの前の公道で立ち止まり、見物人を気にもせず、ついに本格的にののしりあいを始めた二人。どこからか
ゴングの音が聞こえてきそうだった。腰に手をあてて「さあ、今からよ」と言わんばかりに闘志をみなぎらせて
いる少女。輝く長い髪を流行を気にせず無造作に後ろで一つに束ね、色気の無い男物のツィードのスーツと白い
シャツを身にまとっていた。だが彼女はおそらく何を着ていても、その美貌によってというより、あふれる気概
と生気で人の目を惹きつけずにはいれなかったろう。
彼がこの17年間、追い求めてきた少女。マリア・フォン・アーレンスマイヤ。
彼女が目と鼻の先にいる。
だが彼は声をかけるつもりは毛頭無かった。この数日間遠くから見守り、あるいはこのように手を伸ばせば触れ
られるほど近くにいても。
マリアはふとその年嵩の男に目が留まった。どうもここ数日、自分の周囲で彼を見かけているのは確かだ。人の
視線には慣れっこだが、彼のそれは様子が違う。よし、いい機会だ、そっちがこちらを見るのは勝手だ。では今
日はこちらから声をかけてやれ。素知らぬ顔で近づいていきなり不意をついてやる。「やられっぱなし」ほど彼女
の性に合わないものは無かった。まだ何か言い募ろうとするユーベルを遮るようにマリアは言った。
「とにかく中に入りましょう。ベッティーナおば様を待たせるわけにはいかないわ。」
「なんで『おば様』なんだ?」とカフェのテーブルの間をすり抜けながらユーベルは言った。「仮にも婚約者の母
親だ、『お母様』でいいだろう。」あてこすりを聞き逃した振りでマリアは「きっとまたいろいろおみやげを持っ
てきてくださるわ。マリア・バルバラおばさまのお小言の長い手紙、ダーヴィトおじ様のしゃれた短い手紙と小
切手、ベッティーナおば様は絶対に私を宝飾店か小物屋に連れ出される筈だから、あなたはその間、小さな愛し
い恋人からの手紙を誰にも邪魔されずに読めるわけね。」
「フリデリーケの事をそんな風に言わないでくれ。君に何の関係がある。」
ユーベルとしゃべりながらその男の隣を何気なく通り過ぎる振りで、マリアがいざ振り返り皮肉の矛先をその男
に向けようとしたその寸前、後ろから誰かが彼に声をかけて、マリアは空振りをした。
「失礼、ユスーポフ氏でいらっしゃいますね?」
声をかけてきた相手は灰色のスーツを着込んで明らかに同業者だった。彼は微笑んで立ち上がった。
無題 終
※構想のみの第5章の一部分だということです
訂正
>>58の作品は時系列からいって第二章と第三章の間に収録するべきでした。
お許しを。
うぜぇええええええええええええぇぇぇぇぇぇ!!
自分のサイトでやれよ、クソが。
2ちゃんを私物化してる連中だから言っても無駄
小説でもなんでもないし。ただのあらすじじゃんw
文章の長さ自慢をしたかっただけ
by13万字
せめてエロくやってください。話が面白く無い上にろくにエロ無しじゃ…
書斎、ってところがエロらしい。この部分見つけるのに10分かかった。
そこだけのupでいい気が。
保守♪
こんだけ書くの大変だっただろうし、きっと、‘読み応え有りました!’とか誉めてもらいたかったんだろなー。
でも、よく推敲して不要な部分をそぎおとすのも大切だぞ?字の量でうんざりされて読んでもらえなきゃ意味ないし。
捕手♪
補習♪
( ゚∀゚)o彡゚ レオユリ! レオユリ!!
ホシュ♪
アレク性
穴スタシア
ほかの職人さんも投降プリーズ
おまえの下手杉パクリSSならお断り
勘違いウザス
すみません、ウチの子がまた…
すみません、ウチの相方がまた…
>>159 他の人のも読まないならなんでここにいるのw
13万血さんの熱狂的ファン?
オル窓はベルばらに比べて人気ないね
補修♪
>>163 ベルばらに比べると細かく書き込まれてるから、隙間も少ないのかな。
どっちも好きだけど、単体ならレオニードが一番萌える。
百合ウス
艶ール
レオニード
169 :
名無しさん@ピンキー:2009/09/10(木) 19:48:04 ID:a0Rj3b5l
あげホシュ
風呂ーラ
ラ淫ハルト
毬ア・バル薔薇
織るフェウスの窓
姉ロッテ
安豚
臭裸
臼チノフ
夜ーコプ
ウザい
淫グリッド
Fレム
有るフレート
擦れたいを「13万字のエロパロ」に変えれば?
屁ル卍
振りデリーケ
イザー苦
夜亜非務
酒悪津骨変
甘ーリエ
POMの注文を聞いて投下したい人がすればいい
嫌ならファイルにしまっとく
職人も自由ROMも自由なのが2のエロパロなのさ
堕ーヴィト
倉裸
撫ラックス
絵ルヴィラ
図ボフスキー
画リーナ
毛レンスキー
工ーゲノ流布教授
丸コー
せっかく書いたものを、
こんなところに全部貼っちゃうから
文句言われるんだよ
自分のブログにでもあげて、
ここには要約程度にして、
そこにリンクはったら?
丸ヴィーダ
?
201だけど、楽しくも何ともないよ
的外れもけっこうハズカシイネ
207 :
名無しさん@ピンキー:2009/10/28(水) 01:19:37 ID:5TE7tCCE
アルラ畝
208 :
名無しさん@ピンキー:2009/10/28(水) 13:39:17 ID:0VCtXFvU
ここなんなの?
>>208 オル窓関連スレに投下していただいたSSをまとめている書庫です。
まとめ作業は時間を要するので大きな連休など余裕のある時に行っていただいております。
今は入庫休憩中なので保守してる状態です。
保守は皆さまのご協力で成り立っておりますので
ご理解、ご協力の程よろしくお願い致します。
絵ルヴィラ
捻ーリ
百合宇澄・麗音剥琉都・不穏・阿々蓮珠舞耶。
保守
あれ臭ぇ
○ト
暗豚岩ノフ
案妬新名
岩念コフ
藻ー律ツ
蔑T名
語リーナ
怒ミー鳥居
ヴァ尻ーサ
オーク寝不
御風呂ーモフ
躊意古布
蹴連スキー
凝ルニーロフ
押す点・雑件男爵
毛利っ津
下ル戸ルー徒
フォン・辺ー林画ー
233 :
無題:2010/01/05(火) 01:57:07 ID:EJfatUIp
その日侯爵家の当主たるその男は、留守にしていた邸に久方ぶりの帰還を果たした。
彼を迎える者達からの一通りの報告を受けた後、一度自室へ戻りそのままある人物の居室へと赴く
それは彼にとっては、いつもと同じ行動であったが常と違うことといえば、緻密な細工が施された小箱を彼が手にしているという一点だった。
一度扉の前で立ち止まり、その手で数回軽く扉を叩く居室の主が出迎える迄の一時、恐れなど持ち得ないかのようにみえるこの男の顔に僅かな影が宿り痕跡も残さず消え去ってゆく
極めて強靭な精神力を持つ彼を時に理不尽な迄の感情の揺らぎの中に堕とすことが出来る唯一の存在、それがこの部屋に住まう人物だった。
やがて金の髪に縁取られた邪気のない美しい顔が開かれた扉から現れ、その瞳に彼の姿を認めるとその顔は見る間に微笑みに彩られていった。
だが・・それを見ている男の心の奥深くでは、複雑な想いが湧き上がっている・・彼女の笑顔を望む一方で胸の奥深くでは観察者のような物のとらえかたをする自分を感じないではいられなかった。
《氷柱に閉じ込めた花が月光に輝くのを眺めているようだ・・・》
等と自らへの皮肉が込められたその比喩は彼に醒めた感覚を呼び起こし胸中にわだかまる。
すべてはレオニードがユリウスに対して抱いている葛藤に起因するものだった。
END
234 :
押し葉(1):2010/01/05(火) 01:59:56 ID:EJfatUIp
踵を返すと書棚に近付き、一冊の本を手に取ると長椅子に腰を降ろして何事も無かったように頁を繰った時、
何かがレオニードの足元の床の上にはらりと落ちた。
もうすっかり色褪せてしまった押し葉。
誰がいつこの本に挟んだのかわからないそれを手にとって見れば、どうやら熱帯の蔦の葉のようである。
レオニードは記憶を失って間も無くの頃のユリウスが温室の椰子の木の事で何か言っていた事をふと思い出し、
座り直すと葉の軸をつまんでくるりと回しながら、馬鹿めが、と呟いて錆び付いたような微笑を浮かべた。
ユリウスが自分の身に起こったことを把握し、周囲の人間に警戒心を抱かなくなるまでにはしばらく時間を要したのだったが
真実を知らされる事無く苦しみ、健康を損なったままのユリウスを案じたヴェーラがある日、
邸の庭の一角にある温室に行ってみないかと誘った。
雪に覆われ、死んだように色を失った木々が立ち並ぶ庭ばかり眺めていては余計に精神が蝕まれるだろう、
季節に関係なく緑に覆われている温室で樹木の生命力に直に触れれば、今のユリウスにとって何らかの助けになるかも知れない、と思ったからである。
「世の中には、熱帯の樹木で覆われた室内の道を馬車で走り抜けることが出来るほどの規模の温室があるのだそうだけど」
俯き加減で話を聞いているユリウスに、なるべく明るく、興味を引くように言う。
「我が家のはそこまで大きくはないにしても、別世界よ。だから何か思い出せるかも知れないわ」
藁にも縋る思いもあったろう、そうかもしれない、とユリウスも素直に彼女の提案を聞き入れたのだった。
かつて温室は貴族達の社交の場に好んで利用されていて、それこそ艶めいた事に利用される場合も少なからずあったのだろうが、
時代は移り、今はそういった華やかさとは無縁の、静かな落ち着いた場所になっている。
周囲が雪に覆われる冬の間も容易にここへ来れるよう、大理石の回廊が邸と繋がっていたのでヴェーラもユリウスもその回廊を歩いた。
途中、すれ違った園丁が二人に軽く会釈をした。ルバーシカを着た初老の小柄な男である。
「暖かくして水をやって放っておけばいい、という訳ではないのよ」
「そうなの?」
「本当ならここに無い植物ばかりですもの。病気に罹らないように管理するのは難しい、と聞いているわ」
「病気だなんて・・・人間みたいだね」
植物をモチーフにした鋳鉄とガラスを組み合わせた扉をヴェーラが開け、二人は共に建物の中に入った。
ユリウスはまず外との温度差に驚き、続いて眼前に広がるガラス張りの天井と壁に囲まれた、南国の植物の呼気に満ちた圧倒的な空間に軽い目眩を覚えた。
「すごい所だ・・・・・ねえ、リュドミールも来ているの?」
「リュドミールはここが大好きなのだけど、一度ぶら下がって遊んでいた蔦が切れて怪我をしたのよ。
それでお兄様にひどく怒られて・・・それ以来大人と一緒でないと来てはいけない、と言われて。
自由に遊べないからおかんむりなの。でもそう言うお兄様だって昔・・・ふふふ」
ヴェーラはその先は言わず、あちらにベンチがあるから行きましょう、とユリウスを促した。
緑のトンネルのようになった通路を十メートルばかり進むと、急に頭上が開けた場所に色とりどりの草花が植えられている場所に出た。
「ここは広くて、少し先は迷路のようになっているの。私が案内してあげてもいいのだけど、それでは探検の楽しみが無くなるでしょう?」
ユリウスはヴェーラと並んでベンチに腰を降ろした。
彼女の言う通り、ここは確かに別世界だった。雪に覆われ色らしい色も無い世界とは隔絶された空間であり、
ガラス張りの天井からは雲の多い冬の晴れ間の空が見えるが、保温と照明の為に各所に設けられたランプが濃い緑、浅い緑、そして色鮮やかな花を照らしている。
暖かく湿った空気は樹液の匂いをたっぷりと含んでいっそう濃い。
「ここへは好きな時に来ればいいのよ。部屋に閉じこもってばかりいるのは良くないわ、だから・・・」
本当にそうしていいの?と問い返すユリウスにヴェーラも安堵した。
「勿論かまわないわ、誰かにお茶の用意を頼んでもいいし」
「・・・ありがとう、記憶が戻ったら親切にして貰ったお礼は必ずします」
「大丈夫よ、きっと何もかも思い出せるわ」
本当に早く真実を思い出して欲しい、ユリウス、あなたの為にも私達の為にも。
でなければ、こんな嘘で塗り固めた事を続けていれば双方の傷が徐々に大きくなってしまう。
235 :
押し葉(2):2010/01/05(火) 02:00:51 ID:EJfatUIp
酷寒の地とはいえ、侯爵家の温室も各国王侯貴族の所有する温室の例に倣い、異国情緒を楽しめるよう装飾柱には蔓が絡み、
泉から流れ出す羊歯に覆われた段差のある小さな流れも、休息の為に置かれた椅子もすべて南国調にしつらえてあったが、
何と言ってもここを訪れる者の目を引くのは中央、ひときわ天井が高く造られた場所に植えられた一本の背の高い椰子の木であった。
記憶を無くして目覚めて以来、あらゆる事に消極的だったユリウスも、この瑞々しい緑に囲まれた静寂で暖かな場所が気に入り、
(邸の中は夫人のサロンから聞えてくる様々な音が、彼女の当時過敏になっていた神経を刺激し、騒音として苦痛を感じさせる事も少なくなかった)
ヴェーラに案内されて以後は何度か一人で訪れていたのだったが、ある日そこには珍しい先客の姿があった。
「ユスーポフ侯・・・」
「邸の主がここにいて悪いか」
驚いたような表情を見せるユリウスにレオニードは振り返りざまに言い、腕組みをした。
彼が座っている籐の椅子の背には無造作に軍服の外套が掛けられ、革のベルトにつけられたままの剣と手袋がテーブルの上に置かれており、
それは彼が帰宅後すぐにここへ来た事を示している。
「あ・・・ごめんなさいユスーポフ侯。ここでぼんやりするのは僕だけだとばかり・・・今まで誰も来なかったから」
「謝らなくてもよい。ここが気に入ったか」
「うん・・・。ここには変わった木や草があるね。外の庭のとは全然ちがう」
「当たり前だ。これらは全て南国のものだからな。この温室で育ったものもあれば、わざわざ運んで来たものもある」
「あの一番大きな木はどこからか運ばれて来たものなの?」
ユリウスが指差したのは例の椰子の木だった。
「立派な椰子の木だろう。これは先々代が南太平洋から運ばせたもので、恐らくロシアではここにしか無い」
その椰子の木の由来を聞けば誰もが「素晴らしい」と褒め称えるため、
レオニードは当然ユリウスも感心するだろうと予測していたのだが、彼女の返事は意外なものだった。
「かわいそうだね・・・」
ユリウスは奇を衒うつもりは全く無かったけれども、虚を付かれ、意味を図りかねたレオニードから返事は無く、
いずれにしても言葉が宙に浮いてしまった感に急かされて、ユリウスは自分が感じた事をそのまま、続けて口にした。
「だって、こんな遠い寒い国に一人だけ連れてこられて・・・ずっとここに閉じ込められたまま一生を過ごすなんて、囚人と同じだ。
せめて外の風に当たって、ガラス越しじゃない陽の光に当たりたいと思っているよ」
「馬鹿なことを。これを外に出せば・・・」
「わかっているよ。冬を越せない事くらい。でも・・・人工の明かりだけじゃない。あの木は僕たちが話している言葉にだって馴染めないんじゃないかな。
彼の国の言葉を聞きたがっているかも。本当の名前で呼んでもらいたがっているのかも知れないんだ。Arecaceaeではない、彼が生まれた国での名前で」
「馬鹿馬鹿しいにも程がある。お前には童話作家の才能があるようだな」
レオニードは黒光りする軍靴を履いた脚を組んだ。
「ユスーポフ侯」
「よいか、あれは植物だ。感情などあるものか」
「あなたにはわからないんだ、この国にひとりぼっちでいる悲しさがどんなものか・・・」
ユリウスは目に涙を浮かべ、記憶を失う前と同じ強い視線でレオニードに抗議した。
「ふん、それならもう一本南太平洋の島から抜いてくるか」
「・・・・・・」
「椰子の木同士さぞ話が弾むだろう。見ものだな」
レオニードは冷めた笑い声を立てると椅子から立ち上がり、椅子の背の外套を取って無造作に片方の肩に掛け、
テーブルの上の剣をベルトごと掴んだ。
「与太話はこれまでだ」
「ユスーポフ侯・・・」
「レオニードでいい」
背を向けたまま立ち去り際に言い捨てると、何か言おうと椅子から腰を上げかけたユリウスを残して、寒々とした灰色の空から雪が舞う外へ出て行った。
236 :
押し葉(3):2010/01/05(火) 02:01:32 ID:EJfatUIp
そしてその半月ばかり後、レオニードはユリウスを邸の外へ連れ出した。
ユリウス本人が忘却の彼方に追い遣っているにせよ、アレクセイ・ミハイロフに会わせるという当初の約束を果たす為に。
吹き付ける雪風の中、広場に晒し者にされる捕縛された反逆者達の姿こそ、さながら室内から戸外へ持ち出された木々のように寒々としていたが、
奴を見たユリウスは何を思ったのだろう。
手に取り、見るともなく見ていた干からびた蔦の葉を再び本の中に挟み直しながらレオニードは思う。
この先万が一、ユリウスが記憶を取り戻せば、今度こそ精神を崩壊させる事態にならぬ保障はない。
そう、彼女が深い闇の底に沈めている記憶は、この押し葉のようにすっかり姿を変えているわけではないのだから。
END
おれは多忙のため約一ヶ月ぶりの帰宅の途中だった。
理想の世界を創りあげるために必然的なことだと割り切ってはいるものの
正直・・・妻への心配事は尽きない
家事の覚束なさもそのひとつだが
過去の記憶の大半を失っている彼女が不慮の事態に巻き込まれてはいないかがどうにも気掛かりだった。
憲兵のあしらいかたも、ガリーナにきっちりと教えてもらったはずだが(おれはとりあえず隠れてろと教えるしかなかった)、外出時に以前関わりのあった人物と会わないとも限らない・・・
普段考えないようにしていた心配事が次々と思い出され・・・歩調は知らないうちに速まっていった・・・。
ユリウスが待つおれ達の部屋に明かりが灯っているのを目にした時、漸く落ち着きをとり戻したわけなんだか
慣れない心配の数々に自らの弱点を暴かれたように感じる
このところ自分でも持て余し気味な彼女への想いを自覚せざるをえない
階段を何段か抜かしながら昇りきると、漸く部屋の前にたどり着きそのドアの鍵をもどかしげに開ける・・・
だが・・・
迎えてくれるはずの妻の姿は、何処にも見出すことは出来なかった・・・
『少しの差で眠っちまったのか?』
そう思い寝室へ足を運ぶ
が、おれの期待を嘲笑うかのようにベッドにその姿はない・・
決して広くはない部屋の、それでもあちらこちらを探し回ったがユリウスの姿は最初から存在しないかのように消えていた。
一気に最前までの妄想めいた心配が振り返してくる
それでも必死に考えを纏めようと焦燥にかられていると、この耳に聞こえてくる微かな物音・・・それは床下から聞こえた
ベッドのある部屋の・・
『まさか・・?』
家を出る前彼女に教えたあることを思いだす。
ぐったりと血の気のひいたユリウスの幻が浮かぶのを振り払い
ベッド脇の床板をもどかしげに外していく・・
真っ先に金髪がおれの目に入り・・・続いて真っすぐにこっちを見上げている湖の碧の瞳と目があった。
おれの瞳に待ち望んでいた極上の微笑みが映りいつもなら思わず聞き惚れてしまいそうになる声が
「お帰りなさい」
と告げる
だが今日は安堵感と共に一気に疲労が襲ってくる、返事もそこそこにそれでも手を貸して床下の《収納場所》から引き上げるのを手伝うが
「・・・おまえ・・どういうつもりだ・・!?」
心配の反動でどうしても強い口調になってしまうのを止められない
「あなたが言い出したんだよ?」
忘れたの?と尋ねるユリウスの表情は何の曇りもなく、相変わらず真っすぐにおれを見詰めてくる
「次に会うまでに隠れるのが上達すればいいんだがな・・・って」
こいつは・・・
おれの軽口を真に受けるとは・・どこまで・・
「それに・・あなたの《足音》が聴こえたから・・急いで隠れたんだ」
おれは咄嗟に横を向いてユリウスに表情に読まれないようにした。 我ながら締まりのない顔をしているのがわかっているからだ。
最近堪え性が不足気味なおれは彼女の身体を引き寄せると思いっ切り抱きしめ・・かわいいことばかりさえずるその唇を自分の唇で塞いでやった・・・
こいつにこれ以上好き勝手に喋らせると、いずれこいつに殺されそうだ・・長いキスを終えた後、そんなことを考えながら彼女の紅を掃いたようになったすべらかな頬を撫でながら
「ただいま」
順番が随分後になったが漸くその言葉を口にすると笑顔を向ける
「・・お腹は空いてない?・・シチューを作ってみたんだけれど・・」
・・・どうやらこいつは何処までもおれを試してみるのが趣味らしい・・
そうこられたら、おれの言うべき言葉の選択肢はただひとつだろう?(自棄も入っているにしろ・・)
とびきりにクサイ台詞を吐くと ・・・あいつめ・・
「ははは・・・」
笑ってごまかしやがった。
つられて笑っちまうおれもおれなんだが・・・
すぐ近くにあるベッドに彼女を押し倒し、その後はユリウスの余裕をただ奪っていく行為に移ったわけなんだが・・・
あいつは・・・なんだってこう・・・・・・・。
END
昨夜久しぶりに帰宅したアレクセイと一緒に眠りに就いたぼくはいつもの枕とは違う感触の《枕》の上で目が覚めた。
隣にいる彼の存在が心を温かく満たしてくれている。
いつ帰るか知れない彼を一人この部屋で待つのは一緒に暮らし始めてまだ日が浅いぼくにとっては想像以上に心配で頼りない日々だったけれど
アレクセイを愛し一緒に生きることを望んだのだから弱音を吐くわけにはいかないんだ
それに・・・彼がぼくを心配に思っているのをわかっているからね
自分はもっと危険で大変なのに、ぼくを安心させる為に笑って普段と変わりないような様子で出掛けていった・・・。
その優しさに少しでも応えたいその時心からそう思った。
もう少しこうして寝顔を眺めてていたいけれど・・・
帰ってから食事もとらないで・・・(少し頬が紅くなる)
きっと・・・今度こそお腹が空いているはずだからね・・あなたが起きる前に食事の準備をしておかないと
(けだるさが残る身体を起こして着替えると台所へ向かう)
そういえば、
『シチューよりおまえが食べたい』
って・・・夕べはどういう意味なのかよく分からなくて笑ってごまかしちゃったんだけれども
あの後その意味がなんとなくわかったんだ。
彼に抱かれている時
「恥ずかしいから止めて・・」
っていくら頼んでも
「馴らさないと・・おまえが辛いから駄目だ・・・」
とか
「おれの愉しみを取り上げるつもりか?」
って理由をつけて絶対に止めてくれない・・意地悪があるんだけど・・・恥ずかしくて彼のほうは見ないようにしているんだ
最初は脚を閉じようとして抵抗してみたりするんだけど・・・軽く押さえ込まれて
ぼくさえよく見たことがないそこを見たあと
「恥ずかしがる事なんかないさ・・とても・・かわいいぞ・・」
そんなことを言って舌を這わせ始める
最初は猫がミルクを舐めてるような音がしていたのに・・何か啜っているような音が聞こえて
くる頃になると、ぼくも脚に力が入らなくなって・・・
ずるいんだ彼は・・そうなるのを待っていたように思いっ切りぼくの脚を開かせると感覚の集中してる処を執拗に責めてくる
でも夕べは・・・そこを舌先で撫であげられたまま・・・
自分でも溢れてるのが分かる・・・彼を受け入れるところ・・を指でなぞるようした後にゆっくりと沈み込むように埋められて・・
今まで感じた事のないような感覚に追い詰められてわけがわからなくなって・・怖くて、ただ彼に触れたくて
あの亜麻色の髪を両手で掻き乱すようにしてさわった。
少ししてから体を起こした彼がその口元を親指でなぞるみたいに拭いた後、唇の端を少し上げて笑ってる(?)顔が見えて安心したんだけど・・・
その時うっかり視線が合っちゃった・・ような気がしたんだ。(暗くてよく見えなかったんだけれど)
でもその視線がいつもよりずっと鋭いような感じがして・・・狼がこれから獲物にとどめでもさす・・・そんな雰囲気だった。
その後すぐに・・力が抜けた脚の膝の裏を彼の腕に引っ掛けるようにして開かれて・・・
ぼくにキスすると・・・・・いっきに・・・・
『前の時みたいに痛いの?』って覚悟していたんだけど・・
自分でもあんな声が出るなんておもわなかった・・・凄く恥ずかしくて涙がでそうになって
思わずアレクセイを睨んでたかもしれない・・・
だって・・・怒ったような顔をして
「・・・そんな顔されると・・おれは・・」
今日は加減が出来ないとか・・言っていたように思うんだけど・・・・・
それから後のことは・・・
実はよく覚えてないんだ。
気がついたら・・・困ったような心配そうな顔が近くに見えて
『・・どうしたの?
・・・ぼく・・どこか変だった・・?』
心配になってそう聞いたら
『・・ばかたれ・・・』
って言って笑われて
『どう考えてもおまえのほうが煽ってるだろ・・・この際気が済むまで味わうことにする』
だって・・・
煽ってる(?)とかよくわからないけれど・・・結局3回は『食べられた』
すべて終わった時には、ぼくは身体が凄くだるくてすぐに眠りに落ちてしまったんだ。
だから・・・今度はぼくのほうからアレクセイに《恥ずかしい》思いをさせて・・『食べて』あげたいと思っているんだ、そうすればきっとぼくがどんなに《恥ずかしい》か・・わかってくれるはずだよ・・!
でも・・・かなり勇気がいるんだけれど・・ね・・?
その後ユリウスが
『食べた』のか『食べられた』のかは・・・謎・・
おしまい
※なりきり4名によるカオスなショートストーリーです。
○イザーク
(ひなあられを見て)
これ知っていますよ、日本の風習で・・・確かこうするんだ。
オニワウチ、フクワソト〜
(あられを掴んで投げる)
○フリデリーケ
ああ・・見えるわ・・
おにいさん・・わたしのおにいさんが・・
まるで・・・・・山田に見え・・るわ・・・・アハハ・・アハハ。
オニワウチ、フクワソト〜
お・・にいさ・・ん・・ちゃんと・・年の数だけあられを食べて・・
(ぱったり・・・倒れる)
・・わたし・・あられを食べながら寝てしまったみたい。
夢をみていたわ・・
おにいさんにそっくりな黒髪の人が・・すばらしい演奏を3曲も・・
わかったの・・あの人は天才だわ・・あの人に負けない立派なドイツ人に・・・
きっとなってね、おにいさん。(抱きつく)
○イザーク
フリデリーケ、兄さんはいつかフランス人やイタリア人にも負けない技巧派になって
あの玉ネギ女を笑わせるように、お前を喜ばせてやるぞ。
http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp1-20090228-465779.html 何てことだ、例の悪魔に捧げられた薬のせいで犠牲者が出たというのか・・・!
フリデリーケ、兄さんは用法と用量を守って必ずドイツ人の名に恥じない立派な男になってみせるよ・・・!
○カタリーナ
お気の毒なことです。
お薬は用法用量をお守りくださいと・・お伝えしているはずですのに・・
・・用法も容量も・・何もかも間違っているのですわ・・・・(呆)
しかも、これではご両親も気兼ねなく悲しみに浸れないではないですか!
・・ただ・・ご冥福はお祈りします(合掌)
○ユリウス
久しぶりだね!!イザーク!!
暫く会わないうちに
堅物ぶりにますます磨きがかかっているようだけれど
それは・・・一体どんなおまじないなんだい?
>オニワウチ、フクワソト〜
(あられを掴んで投げる)
ああ・・・!
それは間違えて覚えちゃってるみたいだね
《ナマハゲ》っていうクランポスみたいなのがやって来て
悪人は・・地獄に・・連れて行かれちゃうんだ・・・それを防ぐ為にそれを投げ付けて逃げるんだ・・・よ
(説明しながら顔色が次第に青ざめて・・しかも間違えてるしww)
>例の悪魔に捧げられた薬・・・
この薬は何なんだ・・
イザーク・・・!!?
嫌なんだ・・・!!
愛するという本質を見失ったかのような
ただ・・快楽を持続させる為だけの・・・
悪魔のような薬の力のまえに
君が屈服してしまう姿を見るのが
たまらなく・・・
(俯いて唇を噛む)
ぼくでは力不足なんだね・・
(クラウスに↑のようにイザークに言ってみるように頼まれたんだけれど・・・一体何の話なんだろう???)
○イザーク
や、やあユリウス。
君がクラウスのナマハゲ仮面に驚いて気を失った事を思い出したよ。
>この薬は何なんだ・・イザーク・・・!!?
あっ、いやこれは・・・
心配するな、これを健康な僕が使ったら快楽の前にまず痛みが・・・
(どこが?と聞かれて)
いやその・・・生きていくことの痛みだ!
一度でも三擦り半男と言われて心に傷を負った事があればそれで十分だ!
愛せる!!そうとも、たとえ薬を使っていたって!
○ユリウス
(イザークのうろたえ振りに、かなり不信感をつのらせるが・・・)
>生きていくことの痛みだ!
真剣な語調につい心を動かされる
>愛せる!!そうとも、たとえ薬を使っていたって!
「イザーク、目を。。閉じて。。。」
逆らえそうにない蠱惑的な言葉に従い
イザークは目をつぶった・・・
(何故か唇をアヒル口にしながら真っ赤な顔をしている)
ユリウスはイザークに近付くとその手を彼の・・・
薬を握っている手にのばし彼女の吐息を感じる程近くに引き寄せた。。。
固く握られたイザークの掌を、白く細い指が解していきそしてそれを自分の唇のそばに寄せると
『パクッ・・』
イザークの掌にあった薬を口の中に放り込む
驚いて目を開けたイザークの視界に
イザークの手を口元にあてたまま、上目遣いで彼を見詰める彼女の姿が・・・
○イザーク
ユ・・リ・・・
飲んだのか!?え?そうなのか!?
(何てことだ、これを女の子が飲んだら一体どうなるんだ・・!)
とっ、とにかく医務室へ行こう!
(いやだめだ、ユリウスが女の子だってことがバレてしまう・・・!)
もとい、医務室は授業をサボっている上級生の溜まり場だからやめておこう、
ああ、どうすればいいんだ、ア○クセイならイザという時おばあさまに泣きつけるのに、
僕には頼れる身内なんて一人もいないんだ・・・・!!
○ユリウス
イザークの手を離して
自分の唇に握った手を添えたあと
何かを飲み込んだように喉が動く
>飲んだのか!?え?そうなのか!?
イザーク・・・そんなに心配するような薬なの・・?
ぼくは・・君がそんなに危険な薬を使っているなんて思っても・・・
駄目だ・・周りが揺れて・・・!
もう立って・・いられない・・・・・
○クラウス
お前達こんなところで何をしてるんだ
ユリウス・・・?
○ユリウス
(近くにある木にもたれ掛かるようにしてようやく立っている。)
クラウス・・・?
>お前達こんなところで何をしてるんだ
ぼくは・・・イザークの愛用してる薬を・・・
詳しいことは・・イザークに・・・聞いて・・・
(切なげに溜息をつく)
○クラウス
>詳しいことは・・イザークに・・・聞いて・・・
おいイザーク、お前が愛用してる薬ってのは何だ?
タッチを強めるための筋肉増強剤か?演奏会でドーピングなんてお前らしくないぞ
(観念したイザークに耳打ちされて)
なに?ではこれを使うと○時間以上勃ちっぱなしになるという訳か、おい
そっちのドーピングならかまわん、おれにも一錠・・・
(イザーク:「いくらあなたの頼みでも譲るわけにはいきませんよ!これには処方箋が」)
いやだと?この野郎、ケチケチしやがって
何が処方箋だ、どうせ闇で違法に手に入れたんだろうが!
そんな風に気が小せえからお前は女から相手にされねえんだよ!
(ユリウスのほうを振り向いて)
ああユリウス、この薬なら下半身に血が集まるだけだから心配いらん。
お前もとんだ聖者とコンビを組んだもんだな。
(丸めた楽譜でユリウスの下腹をポコッと叩くとスタスタと去る)
○ユリウス
「なに?・・そっちの・・・なら・・・おれにも・・・」
俯いていても途切れ途切れに聞こえてくる二人の会話が気になって顔をあげると、珍しい位に真剣な表情でイザークに迫っているクラウスの姿がみえた。
(君にそんな顔をさせるなんて・・まさかあの秘密がイザークに・・!)
尚更に会話の内容が気になり
いけないと思ってはいても全神経を集中させて聞いてしまう
「譲るわけにはいきませんよ!」
(譲る・・?クラウスに・・?どうやらあのことではないみたいだ・・よかった)
「・・・・・お前は女から相手にされねえんだよ!」
(イザークは昔から女の子に縁がないって言って・・・そういえば・・最初にクラウスは何て言っていた・・?そもそもあの薬のことをイザークは何て・・・)
『生きていくことの痛みだ! (中略)心に傷を負った事があればそれで十分だ!(中略)
愛せる!!そうとも、たとえ薬を使っていたって!』
その瞬間、切れ切れだったパーツが一つに繋がっていった。
『なに?そっちの(趣味)なら(以前)からおれにも・・』
『(あなたのことを誰にも)譲るわけにはいきませんよ!』
『(気持ちは嬉しいが人前では普通にしろ怪しまれるぞ、それでなくても)お前は女から相手にされねえんだよ!』
《クラウス・・・そんな・・!!》
編入時にきいた
『当校では男生徒同志が愛しあうことは禁じております・・』
という言葉が頭のなかで響いている
クラウスが自分に何か言っているのをただぼんやりと見ていると、意識がお留守になっているすきをつかれたように下腹を叩かれ
「・・きゃ・・!」
(両手で口を塞いで思わず出そうになった悲鳴を飲み込む)
「な・・何をするんだ!!」
頬を真っ赤にしながら、遠ざかるクラウスの後ろ姿を見送ると
さっき飲む振りをして袖口に落としておいた例の薬を取り出し掌に乗せて見つめる。
(この薬をぼくが飲めば、本当のことがわかる・・そう思っただけだったんだ・・・)
「ごめん・・イザーク・・
心配させてしまったね・・
薬は飲んでいなかったんだ・・・
唇に挟んでから袖口に落として隠していたんだけれど・・返しておくね・・」
そう言いながらイザークの手にその薬を手渡すと
「クラウスと・・君は・・大切な友人だ・・・
秘密は・・必ず守るからどうか安心してっ・・・!!」
声が震えそうになるのを必死に堪えてそれだけ告げると
その場から逃げ出すように全力で駆け出した。
○イザーク
>安心してっ・・・!!
へーっ、まるっきり女の子の言葉遣いだね、役柄になりきってないや!
(↑騙された怒りが中の人へ向かう)
そうだ・・・カタリーナさんにあげたほうの薬はどうなったんだろう、
彼女のことだ、きっと三擦半で悩んでいる患者さんに渡して感謝されているに違いない・・・
○カタリーナ
(食べ過ぎて食あたりを起こした猫に)
・・・・・ですから・・お気をつけて・・と・・申し上げましたのに・・w
あ・・これはイザーク先生からいただいたお薬です。
ブルーできれいでしょう? 記念に飾っておこうと思いましたが・・特別です。
さあ・・どうぞ・・つ◇
これで、きっとお元気になります。
・・安心したら眠くなりました。私は休みます。
猫さんは・・きっと眠れませんわw
○猫
・・・きれいな看護婦さんが、きれいなお薬をくれた・・・。
(薬品刺激にたいして腰がひけている。)
・・・僅かな不安を感じながらも、所詮好奇心が身を滅ぼす定めの猫は・・・そのブルーの薬を・・・。
○レオニード
(痙攣している猫を見て)
愚か者めが・・・
好奇心が猫を殺すとはよく言ったものだ、
我が家のブラックスもあの反逆者のカニドロップスで危うく命を落とすところだったのだ。
(猫をぽいと捨て、)
ブラックス、勤めを放りだしてどこへ行っていたのだ。
見ろ、その間にこのような薬物中毒猫の進入を許すなど・・・。
(猫、必死で逃げ出す。青い薬だけが後に残されている。)
○カタリーナ
>薬はどうなったんだろう、
猫さんにワンシート差し上げましたの。
痙攣してしまったそうですわ。かわいそうなことをしました・・
聞くところによると・・
残りはロシアの軍人さんの手元に渡ったと・・
・・・その軍人さんには全く必要のない薬ですのに。
それ以上・・あの。なんでもありません。
○レオニード
(書斎机の例の抽斗から取り出した薬のシートをシゲシゲと見ながら)
これが噂の薬か。
ふん、愚かな男どもが服用し心臓発作を起こす事故はうんざりするほど耳にしている。
壊れた馬車を3頭立ての全速力で走らせるようなものだという事がわからぬのか・・・
○校長先生
ふ・・・、私のような年寄りがこんな薬など・・・、誰も本気にすまい・・・。
いや、本気で心臓の心配をされることだろう。
・・・だが・・・愛は・・・全ての逡巡を無とする・・・!
END
○ユリウス
(モスクワの任務先から一通の封書が届く)
2枚の写真だけ・・・何を言いたいのだ、ユスーポフ侯は・・・?!
でも、なんて美しい夜明けなんだろう。力強い意志のある・・
もう一枚は、アンティークの薔薇の花びらのような朝もや。まるでやわらかく包み込むように・・・あたたかい。
この空の下に彼もいるのだろうか・・・自分を置き去りにしたクラウスを思い出した。
なぜ・・・僕をおいていくことができたんだ・・
その痛みをやわらげるような朝もやに目を落としたとき、ふと・・氷の刃と呼ばれる男の顔が心をかすめた・・・
○アレクセイ
冬の間は命あるものさえ疎らなこのシベリアの地に再び春が巡ってくるのか・・・
季節の移り変わりは雪と氷に妨げられて光だけが先に春になる。
黒ずんだ針葉樹の森に横たわる命無き倒木の上に苔が生え、新たな生命を育むだろう。
(レーゲンスブルクで幾度も見た薔薇色の空を思い出す)
ユリウス・・・無事に帰国しているだろうか。
おれの事は忘れて新しい人生を歩んでいて欲しい。
だがユリウス、おれはお前を生涯忘れない。
おれにとってお前は束の間の安息の日々に現われた天使だった。
そのお前を残酷に突き放した事実の重みを背負って祖国に全てを捧げ、生きて行く。
それがおれが自分で選んだ道だ。誰に強制されたものでもない。
夜明け前が一番暗いという喩えを知っているか?
いつか必ずおれは同志達と共に祖国の夜明けを見、お前は遥か遠くの空の下でおれ達の勝利を耳にするだろう。
おれはそう信じている。
○ユリウス
シベリア流刑を告げられたとき、クラウスの決意に満ちた清々しいまでの瞳が忘れられない・・・。
その姿だけでなく、彼のすべてが手の届かない・・どこか遠くへいってしまったと感じずにはいられなかった。
(そんなことを思いながら、ユスーポフ邸の中庭で空を見つめていた)
春とはいえ、シベリアの厳しい寒さがどんなものか僕には想像さえつかない・・・やっぱり足手まといでしかなかったんだ・・僕は・・・。
この館からでは夜明けを見ることすら叶わない・・・
でもいま感じている、この日差しは君のいるシベリアの遠い空の向こうから昇ってきたものなんだ・・・
僕らは同じ空の下にいる・・・ひとつの国の下に・・・
(レーゲンスブルクのあの窓から遠くロシアの空を見ていたクラウスを思い出し、涙を拭った)
君を追い求めること・・・心が追い求めてしまうことだけは誰にも止めることはできない。
そう、たとえ・・・再び悪魔に魂を売り渡したとしても・・・
伝説の力ではなく、自分の意志で君の力になれるよう、いつかここを飛び出してみせるよ・・・きっと・・・!
END
○ユリウス
パステルで描かれているような
淡い色だね・・
海に暮色に染まった空の色が映っている、それだけなのに・・・
あなたと一緒だと穏やかで幸福な色に思えるのは
なぜなんだろう・・・
夜空が一晩中薔薇色に彩られるような季節を
この国で何度か通り過ぎてきて、
ぼくにとってそれは、大切な想い出になっていったけれど
(アレクセイに出会うまでの数年間を思い出している)
これから二人で過ごす日々に
あなたは・・・
(不安そうな顔を俯かせて、不意に黙る)
○アレクセイ
ユリウス・・・・
人生には周りの景色を見る事すら辛くてやり切れん時がある
そんな時はこうして・・
(静かに抱きしめる)
○ユリウス
抱きしめられるとそのあたたかさに
全部委ねてしまいたくなるけれど・・・
(何も考えずにその手を彼の背に置こうとしたが途中でやめる)
あなたに・・・言わなくてはならないことがあるんだ。
記憶を失ってしまったけれど・・・
それでもいい・・と思える時も確かにあったんだ。
レオニードに連れられて遠目にあなたを見たあの日も、劇場で声をかけてきた女性があなたの名前を口にしたあの時も・・・
自分でも信じられないくらいに心は揺り動かされたのに
ぼくは、恐怖心から過去に蓋をして・・・何年も・・・
再会してからのぼくといえば
あなたと周りの人達に迷惑をかけて困らせて・・・
(黒髪の少女のようだったひとの面影が心によぎる)
「離さない」とあなたは言ってくれたけれども・・
本当にそれでいいの?
ぼくの弱さが、
いつかあなたを苦しめてしまうのかもしれない・・
それでも、後悔はないの?
『ぼくが、あなたの手を振り払うことが出来さえすれば、あなたはこれ以上苦しむことはないのかも・・しれない』
250 :
訂正:2010/01/05(火) 03:52:26 ID:EJfatUIp
○アレクセイ
・・・・・おれが後悔すると思ってるのか。
おれは人生に起こる事の全ては繋がっていると考えている。
生きる上で、闘う上で、それが必ず糧になると信じているから、おれは後悔などしない。
モスクワで敗北しシベリアの流刑地で過ごした数年間も
おれ達革命家にとっては誇らしい勲章なのだ。
だが、ただ一つだけ後悔の念から逃れられず長い間苦しんだことがある。
ユリウス、命の危険を冒してまでおれを追ってきてくれたお前を突き放した時の
残酷な言葉をお前は憶えていないだろうが・・・
突き放してよかったのだと自分に言い聞かせながら
それでもお前の気持ちを思うと胸が抉られた。
お前を苦しめる事に比べれば、お前の言う弱さとやらに苦しめられる事なんか物の数ではない。
お前が過去に蓋をしたからといって、それを誰が責めると言うんだ?
そうする事でお前自身の心が平安に保てると言うのなら、
お前に随分苦しい思いをさせたおれは他に望む事など何一つ無い。
(ユリウスの頬に手をやる)
おれ達は出会って以来ただの一度も世間並みの恋人のように過ごせなくて、
これからも人目を忍ばねばならんのがお前に対して心苦しいが・・・・
傷が治るまではおれ達の婚約期間だ。お前の笑顔を見ながら過ごしたい。
○ユリウス
・・・あなたは・・・
見かけよりも・・何倍も・・強情者で・・・
・・・自分勝手で・・傲慢で
・・振り返りもしないで
・・・かけていってしまうような・・
思い浮かぶ限りの悪口を並べてみようと思ったのに・・・
もう言葉が続かないことに気がつく、
微笑もうと精一杯努力はしているのに
溢れてしまいそうな涙に邪魔をされて
ぼくは、もう何もできなくなってしまった。
アレクセイの手は、ただ頬に触れているだけなのに
さっきまでは振りほどかなければと
あんなに思っていたはずなのに・・・
どうして
ぼくは・・・こんなにも弱いんだろう・・
涙で視界が滲んでアレクセイの表情もよく見えない
それとも朝の光を背にして立っているせい・・?
でも・・・ぼくの目に映るあなたの瞳は
どんな光よりも・・・眩しく感じる。
(その時・・瞬間的に脳裡にある映像が甦る)
白く靄のかかったような時の彼方
眩しい・・陽の光のなか・・
求めて・・求めて・・ただ飛び込んでいった
・・懐かしい誰かの胸・・・
でも・・抱きとめられたその時、視界一杯に閃光が広がり
白く焼かれるようにして《それ》は記憶の奥深くへと再び埋もれていった。
ほんの一瞬の・・記憶の断片のせいなのか
何処からくるのかもわからない苦しさがぼくの感情のすべてを押し流して
頬を伝う涙をとめる事もできない・・・
今の・・・
こんなにも《弱い》ぼくのままで
あなたの傍にいてもいいの?
あなたを《クラウス》と呼んでいた頃のぼくには・・あなたは二度と会えないのかもしれない
それでも
あなたはぼくを愛せるの?
○アレクセイ
>・・振り返りもしないで
>・・・かけていってしまうような・・
振り返りもせずに駆けて行くおれを止めるのはいつもお前だった。
ドイツで過ごした最後の夜、縋ってくるお前に心が乱れ、揺れた。
メンシェヴィキを離れてモスクワ蜂起に加わる直前、このペテルスブルクで再会した時、
人生は一本道だと思い込んで走っていたおれをお前は立ち止らせ、思索する機会を与えてくれた。
この身を祖国に捧げ、革命の為に全てを窒息させようと心に誓ったのは、
お前を捨て祖国を選んだ時だった。
お前の存在がおれを成長させたと言っていい。
だが・・・それも独りよがりな思い込みだった。
人は生かされているのだという事を忘れた者の行き着く先は孤独な地獄だろう。
お前がたった今おれに言おうとした悪口のおかげで
記憶を失くしていてもお前は心のどこかでおれの事を憶えてるのが分かったぜ。
あの頃・・・お前は短気ですぐにむきになっていたが、
時々見せる心の弱さが本来のお前の姿なのだろうということには気づいていた。
お前が女であることを隠しているのだから理由は聞けなかったが、
男として生きる事が本来のお前を損なっていたのは間違いないだろう。
今おれの目の前にいるお前に、何もかも取り去ったあるがままのお前を感じるんだ。
この瞳・・・15歳のあの頃から少しも変らない瞳でおれを見詰めている。
(涙を拭ってやりながら)
だからそんな事は考えなくてもいい。
おれをクラウスと呼んでいたユリウスは今目の前にいる。
おれはもうとっくに会っているんだよ。
ひとつだけ聞いておきたいことがある。
もう決してお前を離さないと言ったが、お前こそそれでいいのか、ユリウス。
お前が自分で言うほど弱い人間なら、地下活動家――今は犯罪者と同じだ、
おれの場合捕まれば今度こそ命は無い。
そんな男の妻になるなんてことは耐えられないはずだが・・・?
(少し微笑を浮かべながら、ユリウスに自覚を促す)
○ユリウス
(アレクセイの話す言葉が、それまで心の奥底で凍てついていた頑なな何かを少しずつ解していく・・そんな不思議な感覚に戸惑いを感じながら)
あなたと再び巡り会えたあの日、ぼくはあなたの腕のなかで
長い間捜し求めていた《何か》を漸く見つけ出した・・そんな想いで満たされていたんだ。
でも・・・日が経つにしたがって、あなたがぼくから離れていこうとしているように思えて・・
ぼくが求める程には、あなたはぼくを・・必要になんかしていなくて、独りよがりな行動をあなたが迷惑に思っているのだと考えたとき・・・何もかもが足元から崩れていくようで
・・・怖かった・・・
でもその後、
あなたが受け入れてくれてからも・・あなたを苦しめることになっても離れたくないと思っているぼくが心の奥深くに存在しているのが自分で許せなかった。ぼくは自分でも気が付かないうちにあなたに甘えて寄り掛かろうとしていたんだ。
(涙は拭われてアレクセイの姿もはっきりと見えるけれど、そのことが余計に脈拍を早くさせる。
その上心の奥に澱んでいたものを曝してしまった事にも思い至り、急に気恥ずかしくなり俄にはその顔をまともに見ることが出来なくなってしまった。
それでも、さっき感じ取った不思議な感情をアレクセイに伝えたい・・・)
おそらく・・・
あなたは長い間ぼくが望んでいた言葉を、たった今贈ってくれたんだ・・・
それに報いるためにも
ぼくは・・・強くなりたい
あなたと引き離されることに比べれば どんな事にだって耐えられるとあなたが気付かせてくれたから・・・
もう二度と・・・
(何か言いかけたけれど、やめる)
>そんな男の妻になるなんてことは耐えられないはずだが・・・?
あなたは・・意地悪だ・・!
ぼくの本心は今迄話したことでもう知っているはずなのに
それをぼくの口から聞きたいの?
(以前に話したことを不意に思出す。)
・・・まずはあなたが生をうけた日を祝って・・・
その後でぼくの『誕生日に相応しい日』というのをあなたが教えてくれる迄
・・それは・・言わない・・
(アレクセイの余裕のあるような微笑みに何となく反発して、ぷいと横を向く)
○アレクセイ
お前の膨れっ面を見るのは随分と久しぶりだな・・・
あの頃のままじゃないか。
まあ機嫌を直せ。おれは意地悪で言ったわけじゃないんだ。
お前がこれから先で直面するだろう現実にはそれなりの覚悟が必要だってことを言いたかったんだ、
早々に愛想を尽かされたくないからな・・・
こんな活動をしていれば何日も、時には何週間も帰って来れなくなる事がある。
そんな時でも心配せずにおれを信じて待っていてくれ。
お前が信じて待っていてくれれば、それがおれの力になるだろう。
だがもし万が一・・・最悪の場合・・・おれが本当に帰って来れなくなったらその時は、
手を差し伸べてくれる人間が必ずいるはずだ。
おれはそんな仲間達によって助けられて来たからな・・・。
(臍を曲げかけていたのも忘れて神妙に聞き入るユリウスに)
そんな深刻そうな顔をするな。
万が一に備えて覚悟は必要だが、心配し過ぎる必要は無い。
気を揉むあまり平穏な日々を、
幸福に過ごせるはずの時間を台無しにするのは勿体無い事だと思わないか?
ようやく訪れた共に過ごせる日々を大切に思うなら
毎日を嘆いて暮らすなんてことは出来ないはずだ。
誕生日か・・・アカトゥイの監獄にいた間は今日が何月何日かなんてことは
全く意味を成さなかったからすっかり忘れちまっていたが、
忘れてはならん日はあるってもんだ実際・・・
一つは苦難を共にした多くの同志達が皆命を落とし、おれだけが助かったあの日・・・
あの日からこの命はおれだけのものでは無くなったんだ。
記憶を失くしてしまったお前が過去の中にその日を見つけることは叶わないかも知れないが
人生の節目になるような日はこれからも訪れるだろう。
※この共同は未完なので一旦ここで切ります。
ご了承くださいm(_ _)m
256 :
無題(1):2010/01/05(火) 04:12:14 ID:EJfatUIp
まんじりともできない夜を過ごし、朝食を済ませた後、外に出てユスーポフ邸の庭園をぶらぶら歩いた。
彼女のお気に入りの薔薇園に向かうと、ちょうど真っ赤な冬薔薇が咲き乱れていた。
花を一本手折って香りを嗅いでいると、庭師が近づいてきて、
「冬薔薇がお好きなのですか?」
と声をかけた。
「ええ、とくにこの真っ赤な種類の花が」
「何本かお切りして、花束にしましょうか?部屋に飾るのにちょうどいい大きさに」
「ありがとう、そうしてください」
彼が一本一本薔薇の花を切り、紐でまとめるのを眺めていると、レオニードがやってきた。
「ここにいたのか」
「うん・・・外の空気を吸おうと思って」
「そなた、薔薇の花が好きなのか?」
「うん。この花を見ていると、なんだか懐かしい気分になるんだ」
「そうか・・・」
彼は、ふと思いついたように、
「おまえが薔薇の花が好きなのなら、調香師に命じて薔薇の香りの香水を作るよう命じよう」
といった。
「え?でも・・・」
「構わぬ。香水の一瓶ぐらい、大したことではない」
そう言い捨てて、踵を返して去っていった。
257 :
無題(2):2010/01/05(火) 04:12:47 ID:EJfatUIp
ユリウスの首筋から、薔薇の香りと、彼女の肌の臭いが漂ってきた。それが彼の
官能を刺激する。
長い間、氷で作られた固い鎧の中に自らを閉じ込めてきた。それが今氷解していく。
駄目だ。自分を抑えていなければ、今すぐ彼女を押し倒し、見につけているものを
剥ぎ取り、彼女の身体を奪ってしまうだろう。彼女の華奢な身体を傷つけるような
ことをしてはいけない。
彼女は一日のうちに、しょっちゅう表情を変える。嬉しそうな表情、当惑した表情、
腹を立てた表情、恐怖に怯える表情。これはレオにニードが持たない資質だ。
正妻のアデールからは、石でできた男と呼ばれたことがある。そのうち、自分は
何の感情も顔に出さないでいられるのだと思うようになった。
ユリウスのような女を口説き落とすような魅力は、自分にはない。女性を喜ばす
ような言葉も口にはできないし、優しくエスコートしてやることもできない。
おそらく彼女はロマンティックな雰囲気が好きだろう。繊細な彼女は、細やかな
気遣いや、耳障りのいい口説き文句を喜ぶはずだ。
258 :
無題(3):2010/01/05(火) 04:13:59 ID:EJfatUIp
「あの・・・レオニード・・・」
「なんだ?」
「今夜は・・・そばにいてくれない?」
彼女にそう言われてから窓の外を見ると、白いものがちらついていた。
ユリウスが何を怖がっているかはわかる。この天候では吹雪になりそうなので、それを怖れているのだろう。
「今日は・・・ダメだ。吹雪が怖ろしいのなら、だれか侍女の中の一人についていてもらえ」
「なぜ?」
「明日までにどうしても片付けなければならない仕事がたまっている」
そう言ったものの、実際には、今夜彼女と一緒にいたら、自分を抑えられなくなるかもしれないと思った
からだった。
「そう…わかった」
「大丈夫か?なんなら、ヴェーラと同じ部屋で寝てもよいかどうか、頼んでやるぞ」
「大丈夫だよ。今夜一晩くらい、なんとか我慢できる」
レオニードが彼女の手をぎゅっと握りしめ、顔の筋肉がピクリと動いた。ユリウスが無理に強がっている
ことに気がついていたのだ。
何か彼女を慰め、力づけるようなことを言ってやりたいものの、適当な言葉が出てこない。
「私は仕事を片付けねばならぬ」
ユリウスはのろのろとうなずいた。必死に精神のバランスを保っているものの、なにかのきっかけで
それが壊れてしまいそうだった。彼女は椅子の肘掛けにつかまった。今にも泣き出して、お願いだから
行かないでと彼にすがってしまうのではないかと思った。
(ぼくは・・・一人なのだ・・・誰も一緒にいてくれる人はいない・・・)
レオニードはゆっくりと立ち上がり、ユリウスから離れたものの、一度立ち止まった。彼女を一人残して
おきたくはない。彼の心の葛藤が、彼女にも伝わる。
「行って、レオニード」
彼はうなずき、ユリウスに背を向け、扉を開けて静かに出て行った。彼女はレオニードがいなくなった後、
部屋の中に一人で取り残され、椅子にもたれながら静かにむせび泣いた。
END
259 :
無題(1):2010/01/05(火) 04:19:02 ID:EJfatUIp
※
>>256の続きを別の方が書いたものです。
香水などつけても、本物の花にかわれる筈もなかろう・・
自ら薫ってこそ花というものだろうに・・・
脳裏をこの上もなく優雅だか、決して打ち解ける事を知らない妻の姿がよぎる。
(あれも・・香水などで自分をごまかし外見を取り繕うばかりの愚かな女だが・・・)
苦い思いが、皮肉な笑みを唇にうかべさせた。
『どうやら香水自体に良い思い入れがないのだ、私は・・・』
そのような物を、約束とはいえ何故ユリウスに贈る事態になったのか
彼女に香水が似合うなどとは思ったことさえないのにもかかわらず・・・
記憶を失ってからのユリウスは、一頃の何かを思い詰めたような激しさと私に対する敵意も記憶と共に消え失せ
親鳥を見出だした雛鳥のように私を頼ってきた。
ある意味それは仕方のないことであったのだ、何にしろ他に頼るべき者の存在など、、、いまのユリウスには《無い》のだからな
記憶を取り戻した時、彼女のなかで私への感情がどのように変化するのか・・・
私には、、、知る術はない
260 :
無題(2):2010/01/05(火) 04:19:45 ID:EJfatUIp
それぞれの思惑のせいもあって、何となくお互いに近付かないようにしてその日の大半の時間は過ぎていった。
夕刻も過ぎた頃だっただろうか、一人書斎に籠もり明日からの任務の段取りを詰めていた。
すると、扉を叩く音と私の名前を呼ぶユリウスの声で現実へ戻される。
(何があったというのだ・・)
彼女がわざわざこの部屋まで訪ねてくる理由に思い当たることなどはないのだが、だからと言って追い返す理由も特別にない・・・
結果、私は扉を開けて彼女をなかへ招き入れた。
気まずい空気をそれ以上に胸が悪くなるものに変化させずに済んだのは、彼女から不自然にきつい香りが漂ってこないという事だったのだろう
「用向きは何だ?」
忙しさを装い、無表情に聞くと
「お礼を・・言いたかっただけ・・なんだ」
消え入るような声でそう告げ、私と視線をあわさないように顔をそむけた。
初めてあった頃のユリウスを思い起こさせるその様子に
今、これ以上会話を続けたとしても彼女の精神に良い影響は与えないだろうと判断を下した私は
「用事が済んだのならば、自室に戻るがよい。」
「今夜はおまえの話し相手をする程、私は暇ではないのだ・・・」
そう言ってユリウスの背を押して、扉のところまで連れて行こうとした。
−−−−だが、不意に
鼻先をかすめるように微かな・・・
以前どこかで嗅いだ記憶のある香りがふとたったかと思ったその直後
私の目前でユリウスの身体が均衡を失って崩れ落ち・・・
床に彼女の躯がたたき付けられる寸前で抱き留めると抱え上げて、近くの長椅子に横たえさせる。
気付かぬうちに彼女の華奢な手をとり脈拍を確かめるとまるで掛け替えの無いものを守るようにその白い手を包むよう握りしめていた・・・
知らず安堵の息が洩れる
きっとそんな様子を不思議に感じたのだろう、
少し前に意識を取り戻していたユリウスは私を見詰めていた。
案の定・・・彼女の瞳には先程まで堪えていた涙が零れ流れ落ちてゆく・・・
私が、一番望まない表情だ
(・・同じような光景を・・)
そう私は・・見た覚えがある。
あれは、どのくらい幼い頃の記憶だったか・・・
その理由は勿論のこと、状況も覚えていないくらいに私も幼かったのだろう、そして《彼女》はその後すぐに亡くなり私は必然的に子供のままではいられなくなった、、、
故に・・・私を抱いた母の香りと頬を伝い落ちた涙さえも
私は今まで忘れていたのだ。
私は、香水をつける女を侮り嫌っていたわけではなく
馨しい香りに包まれ、幸せで居てほしいと願う女が、悲愴に涙を流している様を見るのが苦手だったのだ
END
あのレオニードという男が出かけてしまって、ユリウスが長いこと寂しそうにしていたので、
ボクはユリウスと一緒にかくれんぼをして遊んでいたのだワン。
長いことかくれんぼしているうちに、ボクは疲れてしまって、ベッドの下に入り込んだまま
眠ってしまったのだワン。
ウトウトしながら眠っていて、ハッと気がつくと、レオニードが帰ってきていたのだワン。
ユリウスが恨みがましい口調で、
「あなたは一週間で帰って来るって言ったのに・・・」
「すまぬ。思いがけない事故が起きてしまったのだ。その事後処理に手間取っていた」
するとあの男の身体から、ジャコウネコの雄と、マッコウクジラの雄の匂いがしてきたのだワン。
「レオニード・・・あなた、いい香りの香水をつけてるんだね」
「これか?シベットとアンバーを混ぜたものだ」
二人はしばらくの間、ベッドの上でゴソゴソしていたんだけど、そのうちユリウスの体臭が
はっきりと変わったのだワン。ちょうど、雌犬が発○したときのような匂いだったワン。
「おまえ、体臭が変わったぞ」
「え?そんなはずは・・・」
「おまえが興奮したときには身体から漂ってくる匂いですぐにわかる。この香水のせいか?」
「意地悪・・・あっ・・・」
その後はずーーーーーっとベッドがギシギシ軋み続けて、ユリウスは一晩中悲鳴みたいな声を
上げ続けるし、ボクは心配で眠れなかったのだワン。
朝になってやっとレオニードという男が部屋から出て行ったので、ボクはベッドの下から出て、
眠っているユリウスの顔をペロペロ舐めたんだワン。するとユリウスが、
「う・・・ん・・・」
と言って眼を覚ますと、ボクの顔を見て、
「おはよう、ブラックス」
と言ってぎゅっと抱きしめたのだワン。
その後、ユリウスはルンルン気分で、フンフン鼻歌を歌ってるし、一日中上機嫌だったのだワン。
昨日はあれだけ不機嫌だったのに、いったいどうしたのだワン!?
おしまい
この間、あのレオニードという男が来て、
「私がいない間、寂しいのならこいつを相手にしていろ」
といって、ちっちゃな生まれたての仔猫をユリウスに渡していったんだワン。
そしたら、ユリウスがその仔猫に“レオ”という名前をつけて、暇なときには
その雄猫の世話をしているんだワン。
「ボクも抱っこして!」
といってワンワン吠えたら、
「だめだよ、ブラックス、この子はまだ小さいんだから、ちゃんと世話してあげないと」
と言うんだワン。
ボクがクゥ〜ンクゥ〜ンと鳴いていたら、ユリウスがボクとレオのために籠で寝床を
つくってれたのだワン。
こんなちっこい雄猫よりも、ボクのほうが役に立つのに、ユリウスはレオの世話に
かかりきりなのだワン。
ある日、いつものようにユリウスがレオの世話をして寝かせた後、レオニードが
突然帰ってきたのだワン。
ボクはびっくりして、素早くチェストの下へ隠れたのだワン。
「予定より早かったね」
「今回は思ったより任務が早く片付いた」
レオはまだ小さいから、籠の中でスウスウ寝ているので、こっそりチェストの下から
顔を出して覗いてみたのだワン。
すると犬が交○するときのような姿勢で、レオニードという男がユリウスの上に
乗っていたのだワン。
ボクたち犬は、一年のうちで発○期にだけ交○するんだけど、ユリウスとレオニードは
一年中発○期特有の匂いがするのだワン。わからないのワ〜ン??
しばらく二人でギシギシベッドを軋ませながら動いてたんだけど、そのうちレオニードが
「うっ!」といって、二人でぐったりしてしまったのだワン。
もう終わったのかと思ってみていると、今度はユリウスがベッドの上に仰向けになって、
その上にレオニードが乗って動き始めたのだワン。
動物はみな同じ姿勢しか取らないのに、なぜ人間はいろんな姿勢を取りたがるのワン!?
わからないのワ〜ン?
次の日の朝、レオニードはユリウスを残してさっさと出て行って、ユリウスはもう日が
高くなってから起きてきたのだワン。
そしてレオを抱っこして、
「おはよう、レオ」
と言ってミルクを飲ませ始めたのだワン。
「お前も大きくなったら恋人が必要だね」
と言ったので、
「ボクも恋人をつくって!」
と言いながらワンワン吠えると、
「あ、ブラックス、お前もいたの?同じダックスフントの雌犬を飼ってもらえないか、
頼んでみるよ」
と言いながらボクの頭を撫でたのだワン。
クゥ〜ンクゥ〜ン、ユリウス、なぜボクじゃなくてレオニードみたいな男がいいのだワン!?
あの男はいつもベッドの上でユリウスをいじめて泣かせているワン。
ボクはあの男みたいにユリウスを泣かせたり叫ばせたりしないのに・・・
終わり
ボクは寝付かれなかったので、夜にユスーポフ邸の庭に出て散歩してたのだワ〜ン。
夜、庭に出ると、護衛たちの体臭、草の匂い、樹の匂い、花の香り、動物たちの匂い、
いろんな臭いがするのだワ〜ン。
突然、動物の吠え声みたいな声が遠くから聞こえてきたので、ビックリして飛び上がって
しまったのだワン。
何の動物だろうと思って、声のする方向へそろそろ近づいていくと、驚いたことに、
ユリウスとレオニードがいたのだワン。
ユリウスは仰向けになっていて、その脚の間にレオニードが顔を埋めて、片方の手で
ユリウスの乳首をいじっているのだワン。そのたんびにユリウスが声を上げるんだけど、
そのとき、雌犬が交○するときと同じ臭いがはっきり伝わってきたのだワン。
ボクたち犬は、いつも戸外で交○するけれど、人間はいつも部屋の中のベッドの上で
交○すると思い込んでいたから、ビックリしちゃったのだワ〜ン!
ユリウスはときどき草を掴んで引き抜いたりしているけど、犬と同じように土の下に
あるものを探しているのかワン!?
それにしてもユリウスはなぜ交○のときに、あんなに苦しそうな声を上げるのワン?
きっとレオニードという男がユリウスを荒っぽく扱うせいだワン。
あの男はユリウスの両脚を掴んで、激しく腰を打ち付けているワン。
あんなに激しく身体ををぶつけたら、ユリウスが苦しいのも当たり前だワン。
ボクは舌でユリウスの身体を優しくペロペロ舐めるだけで、あんな苦しそうな声は
あげさせないワン。
なのにユリウスはあのレオニードという男のほうがいいんだワン。クゥ〜ンクゥ〜ン・・・
終わり
その夜、ボクはレオニードの書斎にこっそり入り込んだのだワ〜ン。
書斎を通って、寝室に入り込もうとすると、床の上に二人分の衣服が
脱ぎ散らかしてあったのだワ〜ン。
クンクン嗅いでみると、ユリウスとレオニードの臭いがしたんだけど、
なんでこんなところに二人の衣服が脱ぎ捨ててあるのだワン!?
そのまま寝室の扉の前に行くと、案の定、鍵がかかっていなかったのワン。
扉の隙間からそっとすべりこむと、二人がベッドの上で重なり合って
喘いでいたのだワン。
ユリウスはレオニードの背中に手を回してガリガリ引っ掻いているのだワン。
なんのためにそんなことをするのだワ〜ン!?
そのとき、廊下のほうからコツコツと足音が聞こえてきたので、ボクは
慌てて扉の陰に隠れたのだワン。
驚いたことに、そこに現れたのはアデール夫人だったのだワン。
いつもレオニードと不仲で、最近はほとんど別居状態なのに、なぜ、
今夜ここに来たのだワン!?
アデール夫人は扉のそばに立って、長い間、部屋の中の光景を凝視した後、
蒼ざめた顔でやっと外に出て行ったのだワン。
アデール夫人には恋人もいるようなのに、なぜあんなにショックを受けていたのか
わからないワ〜ン。
すると外から、
「奥さま、お客さまがお探しでございます」
というロストフスキーの声がして、アデール夫人の足音はサロンのほうに
遠ざかっていったのだワン。
人間の考えることはよくわかんないのワ〜ン。
二人が交○しているところを見たのが、そんなにショックだったのかワン?
レオニードみたいな、しょっちゅうユリウスをいじめて泣かせている男の
どこがいいのだワン!?
ユリウスといい、アデール夫人といい、この邸の女たちはみんな
レオニードにばかり関心があるのだワン。
ユリウスの恋人にはボクのほうがふさわしいのだワ〜〜〜ン!!!
おしまい
ブラックスが僕のそばに寄ってきて、同じようにその写真を見て驚いたようだけど、
ユリウスが目を離した隙に、彼はさっと写真をくわえて、外に出て行ったしまったニャン。
ビックリして後をつけると、ブラックスは庭に出て、足で土を引っかいて、掘った穴に
その写真を埋めたのだニャン。
ボクは知っているけど、ブラックスはいつも骨とか、お気に入りのものを土に埋めて
隠しているニャン。
きっとあの写真もお気に入りのコレクションに加えるつもりなのだニャン。
その夜、レオニードが帰ってきて、書斎で例の写真を探しているのがわかったニャン。
言い付けようか?と思ったけど、そしたらボクもあの写真を見たことがバレてしまうニャン。
「ユリウス、お前、私の書斎に入って本を読んだか?」
(ドギマギして)
「ううん、入らなかったよ。なぜ?何か探してるの?」
「いや・・・別に・・・」
それから二人はいつものように一緒にベッドに入って、ゴソゴソし始めたのだニャン。
物陰からこっそり覗くと、レオニードが仔猫みたいにユリウスの乳首を吸っていたニャン。
ボクも生まれてすぐのころはあんなふうに母猫の乳首に吸い付いていたのだニャン。
懐かしいニャン・・・・・・その後、母猫から引き離されて、この邸に連れてこられたニャン。
ユリウスはいつもやさしく世話してくれるけど、あんなふうに乳首を吸わせて
くれたことはなかったニャン。
レオニードがうらやましいニャン。もう大人になっても、ユリウスから授乳して
もらえるなんて・・・
朝になってレオニードが出て行ったので、ユリウスの眠っているベッドに上ってみたのだニャン。
ユリウスのおっぱいは白くて綺麗だったニャン。
乳首をぺろぺろ舐めていると、ブラックスもベッドの上にあがってきて、
「ダメ!ユリウスはボクの!」
と言ってウーーーッと威嚇したのだニャン。
こっちもフーーッといって離れなかったけど、ボクたちはユリウスの乳首を片方ずつ
舐め始めたのだニャン。
ボクは母乳がちっとも出てこないのが不思議で、乳首をちょっと強く噛んでみたのだニャン。
するとユリウスが、
「あ・・・いい・・・」
と言うので、何度も噛んでみたニャン。でも相変わらず母乳は出てこないのニャン。
なぜだニャン?レオニードはあんなに美味しそうにユリウスの乳首を吸っていたのに・・・
終わり
ー聖セヴァスチャンー
レーゲンスブルグ。
ドナウ河の上流に佇む”雨の砦”という意味をもつその街は、
その名にふさわしく、昨夜の雨によって、街中を敷き詰める石畳を
朝からしっとりと濡らしていた。
聖ペテルス大聖堂の鐘が午前九時を合図に鳴り始めると、
街中の教会の鐘が遅れじと一斉に追従を始め、街全体が巨大な聖堂と化し、
割れんばかりの大音響をその湿った石畳の上に垂れ流した。
普段なら、一日の始まりを賑やかに祝福するかに聞こえるその鐘の音が、
今朝のユリウスには迷惑な雑音以外のなにものでもない。
聖セヴァスチャンでは、昨夜の雨で雨漏りの生じた大講義室が閉鎖された為、
臨時に割り当てられた狭い教室に入り切らない程の生徒達が、
必須科目の音楽史を担当する教官の到着を待っていた。
空気に湿り気の残る、初秋にしては珍しく蒸し暑い朝で、
教室一杯に溢れた男子学生の体から発する熱気と思春期の雄特有の体臭にユリウスは閉口し、やはり今日登校するのではなかったと後悔し始めていた。
いつものようにイザークの隣りにユリウスが座っているところへ
ダーヴィトがやってきた。
「ここ、いいかな?」
「やあ、ダーヴィト、もちろんです」
イザークが答え、奥の方に席を詰めた。
ユリウスも辛うじて体を横に移動し、やあと、言葉少なく挨拶した。
その頃には、打ち消しても、打ち消しても、否定できない厭な触手が胸元を這い上がり、
それを抑えるのにユリウスは冷や汗をかいていた。
「ちょっと、こいつを見てくれ」
当代きっての新進気鋭の作曲家の名前をあげ、ダーヴィトは席につくと
おもむろに新品のピアノと弦楽器の為の楽曲譜を机の上に滑らせた。
「昨夜、ウィーンから届いたんだ。巻末に彼の直筆稿もついているぜ。」
両手で楽譜を大事そうに掲げたイザークの眼が輝いた。
「出版されると噂には聞いていましたが、もう入手できるとは知りませんでした」
「モーリッツさえ知らない特別なルートがあってね、
多分レーゲンスブルクで手に入れたのは、このぼくが最初だと思うよ。
これを今度の学内演奏会でやろうかと思ってね。なあ、ユリウス、どう思う?」
ああ…と、辛うじて口を開いたユリウスの返事が終わらないうちに、興奮したイザークが、彼にはめずらしく遮るように、新譜についての質問を矢づぎ早にダーヴィトに放ったので、
ユリウスはそれ以上口を聞かずに済んだことに安堵した。
少ししてクラウスが教室に入って来たが、空席が見当たらず、忌々しげな目つきで
教室全体を見渡していた。
「ここ、もう一人くらい座れるだろう」
ダーヴィトはイザークに目配せして、
「おい、クラウス、こっちだ」
と手招きした。
やって来たクラウスは、ダーヴィトの隣にユリウスがいるのにはじめて気づき、
あからさまに不機嫌な顔つきになった。
「せっかくだが、その程度の隙間じゃ、おれのケツが席から半分はみ出してしまうぜ」
そして、その前列に座っていた生徒の肩をつかみ、おい、詰めてくれ、と有無を言わさぬ調子で言った。
肩をつかまれた学生は一瞬迷惑そうな顔をしたが、
相手がクラウスと知ると慌てて隣りの学生を突つき、その学生がまた隣りを突つき…
と繰り返し、ようやくクラウスが座るに十分なスペースを作った。
おかげで、反対の端に座っている学生のケツが半分近く座席からはみ出すことになった。
なぜ、そんなにまでしてぼくを避ける…?
半ば朦朧としながら、ユリウスはクラウスの後ろ姿を怨めしげに睨めつけ、
今学期から新調した上級生用のダブルブレストの上着とネクタイが
彼になんとよく似合っていることかと考えないように努めた。
仕立てのよい学生服にぴったりと包まれた幅広い肩、
その肩にやや無造作にかかる真っ直な亜麻色の髪。
この世で一番美しい男性の髪の色はと聞かれたら、ぼくはこの色と答えるだろう…。
ユリウスはしばし吐き気さえ忘れて、彼の形のよい耳朶や、頬から顎にかけた男らしい輪郭を、
食い入るように盗み見ていた。
ほんの少し…、ほんの少し手を伸ばすだけで、これらのすべてに触れられるのに…。
ぼくにはそれは許されない運命にある。
カーニバル以来、新学期になってからも、クラウスはずっと故意にユリウスを避け続けていた。
女性であることを隠しねばならない己れに課せられた運命に、彼の理不尽なほどの拒絶が強固膜となり、
ユリウスは二人の間に立ちはだかる、目には見えない、しかし頑強な壁の存在に打ちのめされる思いでいた。
さっきから、何かが自分の中で爆発しようと、渦巻く濁流の加速を続けている。
頭は熱っぽいのに、手足の先からは熱が引いて氷のように冷たく、
体のあちらこちらで辻褄が合わなくなっていた。
五感が異様に研ぎ澄まされ、ちょっとした臭いや雑音にも神経が引っ掻き回されるようだ。
ああ…、この臭い、なんとかしてくれ。その時。
「モーリッツ、モーリッツ!
ここだよ、席を取っておいたよ、モーリーーーッツ!」
きんきんとしたラルフの声が通路を挟んだ向うの席から響き、頼むからそんな声で
がなり立てないでくれ…と脂汗をかきながら、ユリウスは彼に殺意を感じた。
「わかっているよ、うるさいな」
モーリッツがいつものように一部の隙も無いいでたちで、戸口で一瞬その存在を
誇示するように立ち止まり、こちらへ向かってきた。制服はレーゲンスブルグ一番の仕立て屋に注文され、
その生地は特別あつらえの英国製、磨き抜かれた革靴も最高級のイタリア革を使用した品であろう。
同じ学生服姿であるのに、彼の装いは明らかに他の学生達と違っており、
どんなに彼を好まぬ者でさえ一種の感嘆を持ってそれを認めざるをえないことを、
モーリッツは十分に承知していた。
ユリウスが”今一番会いたくない相手だ…”と思ったその時、
予兆を告げるように、苦酸っぱい味の塊が喉元を這い上がって来た。辛うじて嚥下したものの、
その予兆は、奈落の底でふつふつと滾(たぎ)る溶岩の泡(あぶく)から生まれる小悪魔のように、
払い落としても払い落としても、次から次へと、ユリウスの喉元を這い上り、
やがて互いに手に手を取り合って、ひとまわりもふたまわりも大きな化け物へと姿を変えていった。
ユリウスは脳裏の密やかに醒めた一点で、遅かれ早かれこの呪われた怪物が自分の喉元を駆け上り、
かならず自分を捕まえることを確信した。ようやく事態の深刻さに気づいたユリウスは、
気も狂わんばかりに後悔した。
どうして、もっと早く、席を立って帰宅しなかったのか?
もし、今ここで、この教室で、モーリッツをはじめとするこの学生達の前でゲロを吐こうものなら、
自分の人生はお終いだ…!
いても立ってもおられず、急に立ち上がったユリウスをダーヴィトとイザークが怪訝そうに見た。
「ユリウス?」イザークが心配した面持ちで呼びかけ、異変に気づいたダーヴィトも
顔色を変えて立ち上がった。ユリウスは、意思の力でどうにか、その猛り狂う怪物に繋いだ鎖を必死に押さえつけていた。
しかし、これも長くは続くまい。
考えろ、考えろ、考えろ、なにか方法を…!!
せめて…、せめて…
教室から出て廊下まで辿り着くことさえできれば…
「道を…、道を開けてくれ…ッ!」
「おい、どうしたんだ、ユリウス?」
一刻も早く通路へと焦るユリウスの心とは裏腹に、皮肉にも手を差し伸べようとするダーヴィト達に突破口を塞がれる形なって、
にっちもさっちも行かずに立ち往生したのが命取りになった。
その一瞬の隙を逃さず、化け物は、ユリウスの渾身の意思をあっけなく振りほどいた。
「おぇ…」
鎖が手から滑り抜けて行く。
無念のうちに奈落の淵へ突き落とされながらも、ユリウスは漸く苦しみから解放される奇妙な陶酔を感じていた。
もの凄い力に絞り上げられるように、ユリウスの胃が収縮した。
思わず前屈みになると、自由を得た猛獣は胃から喉元を駆け上がり、
手で口を被う間もなく、座っているクラウスの背後めがけて、ユリウスは反吐
を一挙にぶちまけた。呆然として立ち上がり振り向いたクラウスの肩や髪の先
はゲロまみれで、ユリウスが朝に食べた木いちごが未消化のまま、あちこちに
絡みついていた。
臭気が陽炎のように立ち昇り、教室中が騒然となった。
ユリウスは自分のしでかしたことを理解できず、これも呆けたように目を見開
き、しかし、これは始まりに過ぎず、彼女を二度めの嘔吐が容赦なく襲った。
「XxーーーーーーーXXXXXXXXXXXXッ」
自分のどこからこんな声が出るのだろうと、ひとごとのように感心しながら、
クラウスに再びゲロがかかるのを避けて右を向いた。吐瀉物は既に口から溢れ
始めていたが、心配そうにユリウスを支えようとするダーヴィトを目にして、
慌て左を向き直した。生憎そこにも同じく心配そうな顔をしたイザークがいた
が、時既に遅く、持ち手を失った放水ホースのように、ユリウスは首を180度
振りながら、右から左へ反吐を撒き散らした。
!!!!!
イザークは顔からモロにゲロの洗礼を受け、吐瀉物の飛沫がビチビチと彼の持
っていた新品の楽譜にも飛び散った。朝食に出たパンや玉子はまだ原形を留め
ていたが、胃液にまみれたそれらは既に醗酵が始まり、学生達の中には悲鳴を
上げて逃げ惑う者もいた。
時間にすれば数分の出来事でしかなかったが、漸く騒ぎが収まった時には、誰
もが長い悪夢から醒めたような錯覚を覚えた。
し…んと静まり返った教室。立ち並ぶ高窓からは何事もなかったのように、朝
の光が差し込む中、クラウス、ダーヴィド、イザークを除き、ユリウスを中心
とした半径5メートル以内には誰一人いなかった。最初に口を開いたのはモー
リッツであった。
「アーレンスマイヤ家も末だな」
レースの縁取りのついた高級そうなハンカチーフで鼻から口元を押さえながら、
彼が進み出た。迷惑そうな顔を装ってはいたが、ユリウスを非難できる喜びを
抑えきれず、眼は爛々と輝き、教室中をゆっくりと見渡しながら芝居がかった
調子で言った。
「新当主がこんな醜態を晒すようじゃ、先が思いやられるじゃないか…、アー
レンスマイ家では、はや財政難に陥って、傷んだ物まで食卓に出しているんじゃ
ないのかい?」
ユリウスは朦朧とした頭で、自分が引き起こした事態にまだ現実味を覚えられ
ずにいた。しかし、モーリッツがこれから自分をこの学生達全員の面前で、じ
わじわと容赦なく貶めていくことは疑いなく、その屈辱の予感に、体を震わせ
ながら唇を噛み締めた。
「いいザマじゃないか、見たまえ、神聖なる学び舎をこんな有り様に…」
「おい!」
それまで無言だったクラウスが遮るように声を荒げたので、モーリッツはびく
りとして言葉を呑んだ。
「御託を並べてないで、そいつをよこせ」
「?」
クラウスが自分の持っている特大判のハンカチを指して言っているのに気づき、
モーリッツは露骨に嫌な顔をしたが、
「よこせってんだ、学友が困ってる時にケチケチすんなよ、キッペンベルグ商
会の御曹司だろうが」
皆の前でそのような言い方をされ、しぶしぶとそれをクラウスに手渡した。
クラウスはそのハンカチをユリウスに差し出し、
「こいつを使え」
とぶっきらぼうに言った。モーリッツに借りを作ることにユリウスがしばし躊
躇を示すと、ダーヴィトが代わりに受け取り、
「遠慮することはないさ♪、さあ、そのきれいな顔や手が台無しだぜ」
と、ユリウスの顔を拭い、その手を取って指の一本一本まで丁寧に汚物を拭き
取った。ユリウスはダーヴィトにされるがままに任せて上着を脱がせてもらい、
その間にクラウスは自分も制服の上着を脱いでネクタイを緩め、シャツのボタ
ンを外すと、髪に纏わりついた汚れを払ったりした。イザークは、ユリウスの
顔を覗き込みながら「ユリウス、大丈夫か?」、「気にすることはないよ」と
励ます。
てっきり、クラウスが使うと思っていたハンカチが、ユリウスの始末に使われ
るのを見たモーリッツが
「返してくれよ」
と憤慨して言った。
「そっ、それは、そんじょそこらの店で買えるものじゃないんだ、レーゲンス
ブルクではうちだけが輸入しているフランス製の最高級のレース…」
「おっ、そんなに返してほしけりゃ、返してやるぜ」
一通りユリウスの汚れが取り去られたのを確認して、クラウスはダーヴィトか
らハンカチをひったくり、モーリッツの方へ放った。
「ぎゃあッ!」
女のような悲鳴を上げて、モーリッツは身を躱そうとしたが、慌てた為に足下
がもつれて、汚れたハンカチーフがもろに顔に命中した。頬に嫌な湿り気を感
じて手を当ててみると、指先にねっとりとしたものが纏わりついた。
「あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”…」
例えようの無い擬音を発するモーリッツの顔色が、見る見る真っ青になる。
「ママーーーーッ!!!!!」
そう叫ぶやいなや、口元を押さえて、ものすごい勢いで廊下へ走り出たモーリ
ッツの後をラルフが追う。
窓から身を乗り出したモーリッツの嘔吐(えず)き声が間隔を置いて聞こえ、
「モリーツ!」「大丈夫、モーリッツ!?」とラルフの心配そうな声があいの
手に入る。
しかしその内、ラルフの声が途切れて静かになったかと思うと、嘔吐き声の二
重奏 (デュエット) が盛大に奏でられた。
他の生徒達も触発され、いたたまれずに二、三人が、口元を覆ってバタバタと
教室を出て行った。
「キッペンベルク商会も末だな、跡取りの一人があんなザマじゃ」
わざと大げさに肩をすくめてやり返すクラウスの横で、張りつめた緊張の糸が
切れて、ユリウスの意識が突然遠のいた。
ゆらり、と、大きく身体を反転させ、ユリウスが床へ倒れ落ちそうになる。
その場にいた全員が、はっ、と息を呑んだその瞬間。
ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおッ
教室に走る低いどよめき。
クラウスが素早い身のこなしでユリウスを片腕で受け止め、そのまま軽々と抱
き上げた。
その一連の動作を、まるでヴァイオリンを構える時のように、なんなく自然に
やってのけたクラウスに、賛美の眼差しを送る下級生までいる。
しかしユリウスは、自分の身に何が起こったのかわからないまま、混乱して大
きく見開いた瞳でクラウスの顔を凝視したかと思うと、彼の腕の中で意識を失
った。そのユリウスの顔を覗き込むクラウスの表情に尋常ではないものが一瞬
走ったのを、ダーヴィトは見逃さなかった。
クラウスはそれには気づかぬままダーヴィトに言った。
「ダーヴィト、悪いが先に行って、医務室が開いているか見て来てくれ」
「わかった、イザーク、後は頼んだぞ!」
ダーヴィトがひらりと身を翻し教室を出た後に続き、ユリウスを横抱きにして
クラウスが大股で教室を横切って行った。
イザークは、頭から反吐にまみれて、その様子を打ちのめされた気持ちで見て
いた。
「ユリウスは女だ、できるだけ力になってやれ」
夏休み前に言われたクラウスの言葉が脳裏に甦る。
だが、あなたには敵わない。彼女が見ているのはあなただけだ。今もぼくは何
ひとつできず、ただ手をこまねいて見ているだけだった。ユリウスだって、ぼ
くの助けを必要となんかしていないさ…。
「いったい、ぼくに何ができるって言うんだ!?」
言葉が口を突き、身体中に鋭い痛みが走ったような気がして、思わず両手で自
分の両腕を抱え込んだ。
しかし、しばらく立っても痛みは止むどころか、ひしひしと実感を伴ってます
ます迫り来るではないか。
「……?」
ふと周りを見渡すと、教室を嘔吐の廃墟と化され、やり場の無い怒りに満ちた
生徒全員の鋭い視線が、百本もの矢となってあらゆる方向から、一人残された
イザークに突き刺さっていた。
あまりの気まずさに目眩を感じながら、沈黙を破ることを怖れたイザークは
「で…、できることからやってみようかぁ…」
と口ごもりながら、そろりそろりと吐瀉物にまみれたダーヴィトの新譜や、ク
ラウスの上着を手際よく片隅に押しやると、そそくさと、モップを取りに廊下
へ出て行った。
気ッ編ベルク
取るン・運ト・宅死す
亜ー連住まいや
螺っ旋
279 :
名無しさん@ピンキー:2010/01/19(火) 00:19:30 ID:z17LLE35
歩合すファイト
また垂れ流しの変なのが湧いてるしw
栗国府巣加屋
在出る歩ーファー
未廃露不
区羅裸
285 :
名無しさん@ピンキー:2010/02/01(月) 17:49:13 ID:Z6/W9FYH
減る満
老禅法尼庇
見入留
紅蓮
バッ区派薄
尼亜理恵
絵売利出伊家
院栗ッ戸
餌ー牙之流布
丸戸
座美ー寝
画理意名
射座悪
図募伏須木依
299 :
名無しさん@ピンキー:2010/02/23(火) 20:22:41 ID:zNVcNgZe
舞連寝る
龍土魅居留
部絵ー羅
真留都
図簿府隙伊ー
倉羅
丸徒
最近投下ないね〜
レオ×ユリ
アレ×ユリの新作まってマス・・・
もう2ちゃんは終わりw
みんな、荒らしの嫌がらせにいやけが嫌気がさして出て行った。
どこの板も過疎化が進んでるしね。
くすくす
最近オル窓に嵌ってこの板見つけたんだけど、
140までの長編凄く良かったです!
ロシア編の鬱々とした雰囲気とぴったりあってると思いました。
この人もっとどっかで書いているのなら知りたいですけど
ヒントとか教えてもらえませんか? 無理かな
おながいします
>>311 他では書いていないと思います。
(正確にいうとほんの一時期ブログがありましたが閉鎖されました)
残念ですけど・・
>>312 おぉ〜そうですか。ありがとうございます。
じゃあここに投下してくださるのをじっと待つほかないのか・・
でも、皆さん本当にお上手ですねぇ〜もっと早く知りたかったです。
保守ですね。
懐かし漫画板のオル窓スレ、アクセスできなくなったね。
>>314 漫画系みんなダメみたいだけど、どうしたんだろうね。
運営情報みても知識が無くてよくわかんないっす
じっと我慢の子でありんす
>>313 あの方はもうここには戻ってこないと思います。
以前、スレが大荒れに荒れたせいで、特定の人たちだけに公開するブログを
開いたんですが、そこでもまたトラブルがあって閉鎖してしまいました。
ひょっとしたら、もうネットで不特定多数の人間にSSを公開するのはこりごりと
思ってらっしゃるかも。
>>316 そうですか・・・
好き嫌いはともかくとして不満ならスルーしてくれればいいのにな・・@荒らし
まぁ2chはどこの板も困った人はいるけれど
もしここをみてくれてたら、新規の読み手もいることだけ伝えておこう。
去年の秋くらいまでは書いてくれていたみたいだし・・・
ということで保守
>>317 ありがとう・・・・
底意地の悪い荒らしだけでなく
あなたのような新規の読者さんもいること
伝言させていただきます。
長編の書き手さんは、リアが忙しくてオルを封印したのです。
ブログを開いたのも、内容がこちら向きではないと判断したからでした。
これこれ、伝言するなどと・・伝書鳩でも飛ばす気ですか?w
>>318 ぜひよろしくお伝えください、何とか知る手立てがあれば・・・・もどかしいですが。
どのくらい感動したかというと、スレを全部コピペして、ワードで綺麗に清書して
同人誌風にしてPDFにして読んでいます。何度も。どきどきしながら。
シーンの一つ一つがリアルのストーリーと見紛うような情景で浮かんできてしまいます。
第5章(ベルリン)も本当に読みたいです。
でもリアルがお忙しいならそれはしょうがないですよね
とにかくお伝え下さる手段をお持ちでしたらお伝えくだされば幸いです
レスありがとうございました
>>320 同人誌風w
おぉ、同志よ!私もやっていますww
ベルリンの続き、気になりますよね。
あれはあの場面だけ思いついたそうで
今のところ本当にあとが何もないらしいのです。
ですがリアが落ち着けば彼女の頭にはきっと創作意欲がフツフツと湧いてくるに違いありません。
そうなることを期待して待ちましょう!
13万字さん、なんと男ですよ。
でもあんなに繊細で偉大な創作が書けるなんて
どんな鍵つきサイトよりもすばらしい。
>>322 まじっすか!なんか妙に納得した・・・
でもオルフェウスの窓への愛に男も女もないわ〜
>>321 同志!(゚∀゚)人(゚∀゚) では首を長くして待ちましょう。
保守
今日も保守
私も保守しに来ちゃった・・・
保守
保守
原作スレでお勧めされたのやってみる・・・
麗尾爾鋳怒
暴走族みたいだ
今日も来ちゃった・・・
オルフェウスにハマりすぎてどうしよう・・・・・・
今日も保守
今日は私が保守当番
今日は私が保守するよん
私も保守
336 :
名無しさん@ピンキー:2010/03/23(火) 15:20:57 ID:MArDkVQp
落ちてるからあげてあげるね
ちょっと来ない間に・・・保守♪
今日はあたしが保守。
339 :
名無しさん@ピンキー:2010/03/28(日) 12:07:15 ID:fFqvpbhY
スリコギさんの作品はどれですか?
すいません、初投稿します!
あんまりエロくないかも。
ごめんなさい。
誰よりも、夫という立場の男よりも私との快楽を知り尽くした男。
「ユスーポフ候も見る目のない方だ・・・こんなにも淫らで、魅力的な方を。
昼の顔とは違って、夜もまたこんなにも情熱的でお美しいというのに・・・。」
後ろからアデールを抱きかかえるようにしながらドレスをめくり上げて、太も もの間に膝を割り込ませる。
官能への期待で、体が熱く痺れる。
男の右手がアデールの顎を後ろへのけぞらせる。
その首筋を男の熱を帯びた吐息とくちづけがなぞって行く。
「・・はぁ・・・ぁあ」
吐息が漏れてしまう。
「姫・・・まだなにもしていませんよ」
意地悪な言葉で責めながら、左手をドレスの中に忍び込ませ、形の良いアデールの乳房を丸く円を描くようにしながら揉みしだく。
「・・・・・ぅううん・・うん」
割り込ませた膝をアデールの中心に押し当てて、ゆっくりと前後に動かす。
遊ばせていた右手で、男の膝を差し込まれた太ももの付け根に、じらす様に指を這わせる。
「はぁっ、あっっああ」
声を出すまいとしていたが、強い刺激に声が上がってしまう。
体の力が抜けて、立っている事も辛く、腰が抜けたようにその場にへたりこん でしまいそうになる。
体の力が抜けるほどに、男の膝は強く体の中心を刺激する。
「うううん・・・はあぁ」
眉根を強く寄せ、何かをこらえるような仕草に、もっと残酷な事を欲しいているような顔に見える。
力の抜けた体を抱き寄せられて、体の重心をコンスタチンに預けると、中心の刺激をより求めるように、体が揺れる。
背中のフォックが外されて、コルセットが男の指に合わせて一つ一つ力を失って、肉体が開放されて行く。
首筋をなぞっていたくちびるが、耳朶を吸い、襟足に強く顔をこすりつけ、
背中の中心を背骨の凹みをなぞるように、くちづけし舌を這わせる。
潤んだ瞳に視界がかすむ。
そのままでいることが心もとなくなって、アデールの指が男の腕を強く掴む。
「あああ・・あん・・はぁ・・あ、うん・・・コンスタンチン・・・」
もどかしげに女は男の名を呼ぶ。
男の右手は乳房から離れ、女のドレス中に隠された太ももを脹脛からなで上げてる。
ドレスは上半身がだらしなく脱がされ、乳房があらわに揺れている。
その誇り高い女の快楽に溺れる風情を眺めた後、男の手が女の腰を掴み、押し付けていた膝をはずす。
「姫、今宵は良い物を用意して来たのですよ」
男は手の中から小さな、茶色の小瓶を取り出す。
コルクの蓋を開けると、甘く薬草を煮詰めたような香りが、立ち上る。
それを、手のひらに出すと、秘所に塗りこんでいく。
340の続き
男は手の中から小さな、茶色の小瓶を取り出す。
コルクの蓋を開けると、甘く薬草を煮詰めたような香りが、立ち上る。
それを、手のひらに出すと、秘所に塗りこんでいく。
「何をなさるの」
「これはさる秘薬ですよ、姫、私を信じてください・・・愛しい貴方に、
退屈な思いはさせません。」
そう耳元で囁かれながら、何かを塗りこまれた秘所が、熱く脈に合わせて、
ゾクゾクと脳髄までとろけるような快楽を伝える。
「あ、ぃや」
鼻にかかった声で、身悶える。
「まだ、何もしてはいませんよ」
そう、じらすとコンスタンチンは性器を熱く濡れたアデールの中心にあてがい、
軽く前後に滑らせてじらすと、一揆に男は中心を貫いた。
「あああああんん・・あああ」
体の中心を満たされて、肌は細かくあわ立ってゆく。
熱いぬめりの中、最奥まで押し入ると、入り口からきつく絞り上げるように締
め付ける。
男が強い刺激に、思わず腰を引くと、それを拒むように女の体が揺れる。
腰を掴んでいた両手で、ゆれる乳房を後ろから荒く握る。
女は涙ぐみながら、腰を揺らし続ける。
341続き
体の中心を満たされて、肌は細かくあわ立ってゆく。
熱いぬめりの中、最奥まで押し入ると、入り口からきつく絞り上げるように締
め付ける。
コンスタンチンが強い刺激に、思わず腰を引くと、それを拒むように女の体が
揺れる。
腰を掴んでいた両手で、ゆれる乳房を後ろから荒く握る。
アデールは涙ぐみながら、腰を揺らし続ける。
「ああ・・あああ・・あああ・・ああ」
固くとがった乳首を指で挟みながら、乳房を揉んで行く。
動きを拘束するように、自由になっている唇で、アデールの耳たぶに口付ける。
傾けられた首から頬に移動し、呼吸を奪うように口付ける。
いよいよ強くつかまれたアデールの指の力に、頂が近い事を感じる。
唾液が唇からあふれ、きらきらと光ながら、おんなの顎をぬらす。
「ああ、もう・・・もう・・・おやめに・・・」
そういいかけて、一瞬コンスタチンの腰の動きとアデールの動きが噛みあい、
深く貫いた。
「あーっ・・ぐっ」
足を踏み外したように快楽に落ち、アデールの体は細かく痙攣しながら前に崩
れ落ち る。
コンスタチンもアデールのその痙攣とうごめき、強く吸いつくような動きに、
こらえきれず、 大きく腰を打ち付けるように前後に動かす。
荒い息をつきながら、暫く繋がったまま、無言でアデールの乳房を掴む。
呼吸に合わせるように、何か別の生き物のように女の中心は飽きることを知ら
ずに、動き続けている。
「姫・・・寝台に」
そう、促すとアデールはもどかしげに、コンスタチンの腕を強く掴む。
衣装が半分以上脱げた、女を抱き上げると、愛撫の手を止めず女の耳朶を噛み
ながら、寝室の扉へ消えていった。
終わり
お目汚しですいません。
途中、改行エラーが出て改行を無くしたらすごく読みづらかったかも。
それに、コンスタチン・アデール共に途中男・女と書いてしまった。
恥ずかしい・・・。
エロい〜〜〜なんか新鮮〜〜〜
今度はダーヴィットとマリア・バルバラでおねがいします〜〜
アデール姫・・なんか可愛いです。
コンスタチンを尻に敷いていると思っていたのにw
GJです!!
すいません
なんか眠れないので連投します。
レオ&アデです。
気乗りしないパーティーを切り上げ、何時もより早く屋敷に帰った。
相変わらず、この屋敷の女主人は自分ではなく、義妹のヴェーラな気がしてしまう。
自分は客人・・・・。
文句の付けようも無いほど良く躾けられた召使達。
彼らの身支度一つとっても隙が無い。
居心地の悪さを感じるのはレオニードと不仲で世継ぎの出来る希望も無い事もあるのかもしれない。
そんな状況で、皇帝陛下からのお預かり者とはいえ、えたいの知れないドイツ人の娘までもう何年も暮らしている。
自室へ戻ると、きつく締め付けていたコルセットを外し、夜着に着替えた。
夫は帰宅しているらしいが、居ても居なくてもお互い干渉はしない。
最初こそ寂しさを覚えたが、それにももう慣れてしまった。
今では「諍い」というコミュニケーションがあった頃が懐かしく思われる程だ。
召使に部屋を片付けさせ、眠ろうとランプを絞り、目を閉じる。
廊下に人の気配がある。
扉の開く気配がする。
行儀を知らぬ召使かと叱る事も気だるく目をやると、大きな男の人影がある。
ノックもなしにレオニードが入ってきた。
珍しい事・・・夜に私を寝室へ訪ねてくるなんて。
「あら、お珍しい?どうなさったの」
険を含ませ、起き上がりもせず声を掛けたが何も答えない。
またどうせ、日頃の行状に対する叱責かと思いながら身を起こした。
レオニードはベッド脇まで来ると、立ち止まった。
ほんの数秒上から見下ろすと私の腕を掴み、ベッドに押し倒した。
あっけに取られていると私の顎を掴み急に唇を重ね舌を割りいれて来る。
予想も出来なかった事で咄嗟に言葉が出ない。
こんなにも熱い唇だったろうか・・・・すでに思い出すことも出来なかった。
冷静になると腹が立ち、一瞬押し戻そうと胸に手を当てつき返したが、ビクともしない。
「嫌か・・・」
息のかかる距離でそう聞かれると、心の何処かで惜しむ気持ちがある。
345続き
「嫌か・・・」
息のかかる距離でそう聞かれると、心の何処かで惜しむ気持ちがある。
そんな、心の動揺を気取られぬように目を伏せわざと冷たく言い放った。
「いいえ、ただどのようなお気持ちの変化かと・・・夜離れて久しくておりますのに。」
たっぷりと嫌味を含めていってしまう。
しかし、レオニードは何も言わず胸元から夜着の中に手を滑り込ませ、胸を痛いほど強く掴んだ。
「あっ・・・」
拒む事を躊躇している隙に、再度唇を奪われ、舌を差し入れてくる。
左手はすでに太ももを開こうと、膝頭から体の中心に向かいスッとなで上げる。
普段無い強引さに、情熱のようなものを感じて、体が熱くなる。
「ああぅ・・・・ううんぅん」
長く激しい口付けに息苦しくなり、強引に顔を伏せた。
離すと唇と唇の間からすっと透明な糸を引くのが見えた。
「・・・お加減でもお悪くて・・・」
このまま欲しいと思ったがこのまま負けてしまう事がしゃくに思えて、減らず口を叩くが、声が震えてしまう。
「・・・・」
あの人は答えもせずその間も、痛いほど乳房を揉む右手も、唇から耳元に移った唇も、休む間もなく攻め立ててくる。
「ああん・・んん」
言葉で拒んでも息づかいが乱れてしまう。
元々、嫌いなわけではなかった。
ただ、お互いに名門同士の結婚で、この人は今までの取り巻きと違い愛想がなく、また私もちやほやとされるのが当たり前と思っていただけだった。
初めて出会った時は、眩しくてこんな方の妻になれるならと嬉しかったくらいだった。
あの頃はまだこの人は首の細い少年で、私も少女だった。
そう思えば求められる事は嫌ではなく、ましてやこんな風に激しく求められれば・・・拒める訳も無い。
347続き
そう思えば求められる事は嫌ではなく、ましてやこんな風に激しく求められれば・・・拒める訳も無い。
「ああ・・あ・・あなた・・・レオニード」
何時もなら焦らす様に腹部から腰を撫で、巧みに中心を避けて膝まで撫でていくのに、今日は一気に、体を被せると乳房を両手で強く揉み、その頂を口に含み強く吸い上げてくる。
そしてレオニードは自分の硬くなったものを、パンツのジッパーを下げたままの状態で取り出すと、アデールのそこにあて、一気に突き上げて来た。
「はぁっ・・・」
体が熱くしびれていく。
幾度も体を重ねたわけではないが、何時もの形どおり自分の「上手さ」のようなものに高を括ったようなしぐさではなく、性急さや荒々しさが余計にアデールの体を熱くする。
「ああぁ・・・どうなさったの・・・」
レオニードは強引に抜き差ししながら、アデールの頭を押さえつけ唇を開かせ舌をねじ込んでくる。
何時もとはまったく違う仕草、波のように襲われる快感に自分がどれだけ声を上げているのかわからない。
いつの間にか、レオニードの背に腕を回し、腰を突き上げ、足をレオニードの腰にしっかりと絡めていた。
汗が体中から噴出してくるのがわかる、擦れ合う肌と肌がキュッキュッと音を立てる。
「ああぁ・・レオニード・・・あなた・・・」
ずっとこうして欲しかったような気がする。
レオニードの腰はより一層激しく打ち付けてきて、突き上げ擦りあわされていく。
急に、体の奥から震えのような快感が襲い掛かってくる。
347続き
「ああぁ・・レオニード・・・あなた・・・」
ずっとこうして欲しかったような気がする。
レオニードの腰はより一層激しく打ち付けてきて、突き上げ擦りあわされていく。
急に、体の奥から震えのような快感が襲い掛かってくる。
「ああ、あなた・・・おやめになって・・・・いや・・」
そう呟くが、訴える唇を塞がれより一層苦しくなってしまう。
「xxx・・・」
レオニードが何か呟いたように思えたが聞き取る事が出来ない。
「あぁあなた・・・」
瞬間、目が合いあの人の視線は私を捕らえたが、まるで遠くを見ているような目だと思った。
あの人の強張りが一段と熱く大きくなり激しく私を突き上げる。
蕩けるような快感が襲い感覚が遮断されて何もわからなくなってしまった。
味わった事の無いような一体感で、ただ体の奥が私の意志とは無関係に蠢き、疼いていた。
体の力が抜け、私に体重を預けたレオニードの重さが心地よかった。
目を開くとずっと心の奥底で願っていた願いがやっと叶ったようで、目の前にあるあの人の顔を見つめた。
・・・・絞られたランプの光から見える、彼の瞳は遠く昏い目をしていた。
見間違いではなかった。
そして、何事も無かったように冷たい瞳で、今までの事の後で一番冷たく昏い瞳をしながら私の汗を拭うとまくれあがった夜着を元に戻した。
「すまなかった」
そう呟くと部屋から出ていった。
珍しい夜だ・・・私が早く帰って来た事も。
あの人が私を激しく求めて来た事も。
ましてや「すまなかった」などと詫びる事も。
変わらないのは激しく求めても、私には興味が無かったということかしら・・・・。
あのプライドの高い人に「すまなかった」と詫びさせるほど激しく求めさせたのは
・・・・痛むほど求められた自分の体に尋ねながら、レオニードの香りが残るベッドの中で独り目を閉じた。
「一体私は誰の代わりですの・・・こんなにも激しくどなたをお求めに」
思わず含み笑いをしてしまったが、すーっと涙が頬を伝う。
そして、体に残る赤い痣だけが夢ではなかったと思わせてくれた。
駄作ですいません
一度レオ&アデは書いて見たかったんです。
おやすみなさい〜〜
アデールかわいい。GJ〜
なんかこわいレオニードなのに和んだよ。
今度はダビマリでかいてほしいな。
ぉぉぉお〜
保守した甲斐がございました!!
ありがとうございます。
アデール姫人気で妬けちゃうわ。
「目隠しでの生活は慣れたか?」
「汚れた世界を信じるそなたに目はいらぬ。」
「私の声だけをたよりに生きるのが相応しかろう?」
「は、はずして・・・」
「なら、私の声のする方へ来るのだ」
「私に口付けしなさい」
「私を楽しませる事が出来たら目隠しを外すが、嫌がるようなら、そのままにして私は出かけてしまうぞ」
「酷い、酷いよ、僕をこのままで一人にしないで」
着る物を与えられず、手は鎖で拘束されて、目隠しをされている_
こんな姿で1日一人にされたら、恐怖と孤独で気が狂ってしまう。
「では、口付けを・・・」
ベットの上に腰掛けしている、レオニードに這うように近づく。
折り目の堅くついた軍服のズボンの上に乗り上げる。
白鳥のように首を伸ばす
名前変え小津
>>352 昔、今は無きどちらかのHPで拝見したような・・・。
なんだか懐かしい・・。
レオ×ユリです。
暖炉の前でブラウスを剥ぎ取ると、白く柔らかな乳房が目の前に現れる。
レオニードはユリウスの胸に顔を埋めた。
懐かしい嗅ぎなれた体臭と汗ばんだ肌の匂いが甘く、レオニードに官能を
期待させる。
数え切れぬほど、夜を重ねて馴染んだ肌が、アレクセイ・ミハイロフの存
在で他の色を感じさせた。
嫉妬・・・・激しい嫉妬に体中の血が熱く沸き立つのを感じる。
ソファに座り、ユリウスを膝の上に座らせると、首筋にくちづけ、耳たぶ
を口に含む。
お互いの乱れた吐息がよりレオニードの息を乱れさせて、ユリウスの耳に
熱い吐息を吹きかけながら舌を這わせる。
時のたつのを惜しみ、こらえきれぬように片方の手は乳房に手を這わせ、
もう片方はpantsの中に差し込まれる。
「あっ・・・・・・」
言葉にならない声がユリウスの口から漏れる。
衣類の中は中心に触れるまでもなく、熱い湿り気を帯びた空気を感じる。
自分の中に高まるものを感じながらじらすように、その茂みを強くつかむ
「ああっ」
驚いたように声が上がる。
もっとユリウスを味わいたい欲望にかられて、荒々しく唇に舌を差込み、
後ろに反り返されたユリウスの首を乳房に這わせていた腕で、支える。
湿ったディップノイズと息遣いが漏れる。
「く、苦しい・・レオニード」
ユリウスがレオニードの唇を逃れて、首に腕を回して抱きつく。
レオニードの指が探りいれられる。
「うんっ・・・あっ」
と、下腹部の刺激に合わせるように声が漏れる。
手際よく衣類は脱がされた。
ブラウスだけが辛うじて肩に羽織られている状態で、膝の上に直に座らせると、
黒いレオニードの服の上に、キラキラと光る潤みがしみこんでいく。
355続き
ブラウスがだけが辛うじて肩に羽織られている状態で、膝の上に直に座らせると、
黒いレオニードの服の上に、キラキラと光る潤みがしみこんでいく。
太ももへ布を通して、温かい液体が沁み込んでくる。
ユリウスはその事を自分で自覚しているのか悩ましく腰をくねらせる。
「・・・ねぇ、キスして・・・」
吐息のように、甘くかすれた声でユリウスがねだる。
ソファに座らせると、ユリウスの膝を割り、両足を肩に乗せると、太もも
の付け根にくち付ける。
「あっ、違う・・・・そこじゃない・・・」
ユリウスが言い終わる前に、生暖かい甘い香りを放ちながら、妖しい息遣い
で呼吸する中心に唇を移動させる。
「あっ・・・ダメ・・うんっ・・」
両膝にぴくんと力が入る。
ひとしきりレオニード自身以外で愛された後で体に力が入らないまま、
レオニードに寝室に運ばれてゆく。
ベッドに辿り着いても、ユリウスは離れようとせず、そのまま抱き上げら
れた時の姿勢で首に腕を回したまま、レオニードの首筋、耳朶、瞼、鼻、
唇、頬と舐めるように口付ける。
いつもなら主導権を握られ流されるままになるのに、今夜はユリウスの方
からレオニードの体を一つ一つ確かめるように、激しくすがり付いてくる。
貴方の指の形も、耳朶も、眉も、この厚く大きな胸も、肩も・・・・慣れ親
しんだものだ。
いつもには無い激しい様子に戸惑いながら、レオニードも取り戻した久しぶ
りの妻の感触を確かめようと唇を這わせる。
ユリウスの左手を取ると、指の1本1本を口に含み、手首に口付けし肘からわ
きの下の内側へと唇を滑らせていく。
レオニードは立って抱きかかえているのももどかしくなり、ユリウスの腕が
首に巻きつけられたまま、ベッドに体を倒した。
ユリウスはベッドに横たえられると、レオニードは覆いかぶさるようにくち
づけを交わし、その唇が一つ一つを確かめるように、下がってゆく。
眩暈がするような深い快楽に全身が溶け出すような錯覚に囚われる。
356続き
眩暈がするような深い快楽に全身が溶け出すような錯覚に囚われる。
太ももの内側に強く口づけ、唇は中心を目指す。
濃い潤みを溢れさせながら
荒々しく、求めるとユリウスの中でレオニードの強張りが一段と強まる。
熱いものが体の中から流れ出てゆくのを感じる。
今更、他の人を同じように愛せるとは思えない。
例えそれがくすし伝説に結び付けられた恋人・・・アレクセイ・・・
君だったとしても。
体の奥から湧き上がる、痺れるような感覚に身をゆだねながら、
ユリウスはレオニードの一つ一つにくちづけた。
「何処にも行かないで・・・離さないで・・・・貴方と離れて
生きてなど行けない・・・意味が無いよ」
懇願するようなユリウスの言葉が響いた。
すいません、あの夜レオニードがユリを手放さなかったら。
再婚?ってな感じです。
アレ×ユリのかたすいません。
エロもたりません。
GJ!
>あの夜レオニードがユリを手放さなかったら。
誰しも一度は妄想しますねw
ユリウスが精神的に満たされている感じでうれしいです。
GJ!
良かったです!もっと読みたいです。
その上で・・・余計な事は・・・と思ってたんですが、
>>209にもあるし、ご存じだったらごめんなさい。
ここは投稿?スレではなくってなりきり板の他スレに投下されたSSをそこの住民さんがまとめられてるスレなんですよ。
最近はあまりSSの投下も無いし、入りにくいかもしれないけれど、一応お知らせしておきますね。
スレ主さんからストップ入らなければ、別に構わないことだと思いますが、
変な人が出てくる前にあえて書かせてもらいました。
口出しごめんなさい〜でもまた何か思いついたら読ませてくださいね。
>>359 なりきり板の他スレってどこ?それは秘密なの?
2chのいろんなところ(難民とかシベリアとかも)みているけどわからないです
おねいさんおしえてください。
>>360 教えてあげたいけれど・・・
あなたはここに相応しくないから出ていって下さいと
何回も注意しているのに居座っているキモイ亀がいて雰囲気がとても悪いです。
わたし達も迷惑してるんですよね・・・
>>360 「オル」でスレタイをしゃにむに検索してりゃ
そのうちどっかで見つからあ!
363 :
アネロッテ×ヤーコプ:2010/04/10(土) 02:06:58 ID:09qzF+Ri
初めての投下です。優しい目で読んでくれるとありがたいです^^
もしかしたら続きは明日の午前になるかも知れません。
ご了承ください。
「ユリウス・・・裏切ったわね!!!!!」
「アネロッテ姉様、さようなら・・・」
「ユリウっ・・・」
毒を入れられた。完璧に私の勝利だと思ったのに。
ああ、あいつは今頃どこに居るのだろう。
お願い、お前だけは逃げて。
そして、いつか復讐するのよ・・・。
・・・・・私は結局誰も愛せなかった。
心から愛せる人が欲しい、ずっと思っていたのに。
私に寄って来る男は皆私の体目当て。
そんな男をどうやって愛せと言うの?
私が唯一信頼できたのは、そう、ヤーコプだけだった・・・。
「アネロッテ様!!申し訳ございません!!!」
「いいの、出ていかなくて良いのよ。そうね・・・。お前、女の裸を
初めて見たでしょ、そりゃあ驚いて当然だわ。」
「アネロッテ様・・・。」
「私を抱く気は無い?」
「・・・え?」
「私と同じベッドで朝を迎えない?」
「アネロッテ様・・・!!!」
「ただし、条件があるのよ。」
「・・・何でございましょう・・・」
「これから私のしもべになってほしいのよ・・・。」
「しもべ・・・」
「そうよ、アーレンスマイヤ家の財産を私のものにするために・・・」
男は屋敷に来た時から女を愛していた。
しかし、それは叶わぬ恋。
ずっと諦めていた。
女の体が自分のものに・・・。
もちろん男は、女が今まで数え切れない数の男と寝たことを知っていた。
そんなことはどうでもいい。
異性の体すら見たことが無い自分に女から、しかも自分が愛していた女から
誘われたのだ・・・。
「本当によろしいのですか・・・?]
「もちろんよ。・・・お前、私を愛していたんでしょ?」
「アネロッテ様・・・!」
「気づいていたのよ。」
「あ・・・。」
「ほら、早く服を脱いで。ベッドの中に居る時間が短くなるわよ。」
>>363 おおお、これは珍しいカップルですね。
ぶった切ってすみません。
多分もうすぐ容量が一杯になりますので、次スレたてておきますね。
366 :
アネロッテ×ヤーコプ:2010/04/10(土) 02:51:23 ID:09qzF+Ri
「・・・細いわね。」
「はぁ・・・。」
「早く私をお食べ。」
「アネロッテ様・・・その・・・あの・・・」
「・・・そうね、お前、初めてなんだね。」
そういうといきなり女は男の物を掴んだ。
「ぁ・・・!!!ぅ・・・。」
女ははそれを強く握ったり優しく放したりを繰り返した。
その度に男の声は大きくなる。
女は男の物から出てきた汁をそれに塗り伸ばした。
そして、握っている手を上下した。
「あっ・・・アネロッテ様・・・ああッ!!」
男は崩れ落ちた。
女は鞭で男を打った。
「早く、ベッドにお行き!!早く!!!!」
鞭で打つたびに男は声を上げる。
「あッ!ああッ!!」
ようやく男がベッドに辿り着いたと思うと、女は男を押し倒した。
そして、自分はその男の上に乗った。男の物は見えなくなった。
「あッ、アネロッテ様!!!」
女は腰を上下した。
お互いの息が荒くなる。女も声をあげた。
「あぁッ・・・はぁッ・・・」
男はもう限界のようだった。
「アネロッ・・・ああ・・ああ・・あああ!!!」
その瞬間、女の中に男の汁が入って行った。
女より男が先に果てた。
367 :
アネロッテ×ヤーコプ:2010/04/10(土) 03:06:02 ID:09qzF+Ri
女は息さえ荒げたものの、理性は失わぬままだった。
女は男から離れると、今度は男の物を口でくわえた。
「アネロッテ様・・・ぁぁッぁぁ・・ぁぁぁぁ・・・」
男は二度目の絶頂を迎えた。
女は汁を口から一滴もこぼさぬよう、飲み込んだ。
男は、起き上がらなかった。
368 :
アネロッテ×ヤーコプ:
私が男と過ごして気を失わなかった夜なんて無かった。
増してや男が先に、いや、男だけが行くなんて・・・。
でも、今までの男とは違った。この男は私を愛している。
いつもの夜の行為は快楽を得るためだけのもであった。
だけど、今夜は何故か幸せ・・・。