乾いた音を受け、ああどこかがプッツンしておサラバしたのだと、拳児は覚悟していたのにそれでも薄ら寒い気持ちになった。
まず右手を動かしてみる――既に骨折しているので痛いが、指がなんとか動く。漫画は描けるようだ。
次に左手――幸運にも問題はない。グーチョキパーどれもできる。
では足か。右――靴の感触。なるほど左足――違った。
おかしい。どこが千切れてしまった? 首?胴?そんなはずない。
興奮状態になっているせいだろうが、痛みに対してひどく鈍感でよく分からない。
いや……本当に想像通りになってしまったのだろうか?
思い出そう。耳に届いたのは、骨を砕き肉を引きちぎるあの嫌な音だったか?
もっと軽い、そうまるで……。
《っ……そんなっ》
最初に声を出したのは四肢切断を試みたその執行官。彼女は全てが一番だった。
驚きも。何が起きたのか理解への早さも。それを信じられなかったのも。
衝撃に遅れてやってきた痛みに、さらに遅れて痺れが来る。
"両手を"自分の赤く腫れた頬に添えて、何度も何度も確かめるようになぞった。
「……はっ…………はっ……」
ゼィゼィと、"その人物"らしからぬ声がした。
*
残された力で造り上げたこの狭い世界には、自分以外の三人は入れないはず。
従って自分を止める可能性があるのはケンジか、おねえちゃんか、 ――以上に限られる。
だがケンジは先程から動いていない。抵抗する分だけ徹底的に自由を奪ったので動けるはずもない。
霊感といったものから程遠い彼が自分と接触できるのは一時的に繋がりを得たからに過ぎない。
精をやり深く通じることで、霊感の高い の影響を受けたのだ。
けれどたかが数回の交わりで抗し得るのは絶対に不可能。
おねえちゃんは意思疎通程度はこなせても観客以上のことはできないはずである。
せいぜい動きを封じる程度、代わりに逆にこちらが脅かされることもない。
実際に呆然したまま、私とその前にいる を見ているではないか。
消去法でいけば後は。いや――そんなはずがない――。
「……もう、やめて。やめよう?」
元は同じ心。そこから枝分かれした同士だけあって、抗ってくる力は確かにあるだろう。
だが一度だって自力で解いたことなどないではないか。
《く……っ》
頬が痛い。例え人間でない存在であっても痛みはある。そう、痛い――当然だ。自分で自分を叩けば痛いと感じるのは。
「――八雲!」
おねえちゃんが叫んだその名。そうか、そうなのか。やっぱり私を止められるとすれば私だけ、か――。
「妹さん……?」
不思議そうにケンジが呟く。どうやら状況がつかめてないらしい。自分のミスだ。この男に集中するあまり他を疎かにした。
その隙にヤクモが動いた。生半可な意思では拒絶などできないはずなのに――ケンジを助けるために、蝕みの束縛を振り切った。そして私を止めたのだ。
「もうやめよう……ね?」
ヤクモは体のどこも痛めていた様子もなく、私の眼前に立っていた。
少しだけ肩が上下している。大して移動してないはずなのに、走ってきてぎりぎり間に合ったみたいに。
伸ばしきったその手。叩いてから硬直し動かしていないらしい。
睨まれているのかと思ったけれど、表情は何かを訴えたい人間がするそれだった。
二つの眼光は鋭い刃を合わせたのようなのに、ぽろぽろと、悲しいのか嬉しいのか相変わらず涙を零している。
泣きながら睨みつけているのだ。
《……やるわね。でもまだっ――》
従僕たる漆黒の螺旋を、一目で数えられないほど操作して手足を狙う。今のは偶然。いつものように――
「だめっ!」
だが、ヤクモが素早くそこを飛びのいた。おかげで噴き上げた黒の奔流は見事に空振り。捉えられない。
何よりも手が届く距離まで詰められたままだったのが失策だった。
身体に飛びつかれて、押し倒されて、馬乗りにされて、肩を地面に押し付けられてしまったから。
「やった!」
ケンジが嬉しそうに言う。呆れるほど甘い期待――と、からかってやりたいが、私は無駄な嘘が嫌いだった。
もうほとんど力も時間も残されていない。
《……やっぱり、あなた一人にしておけばよかったわ……自分退治、やってみる?》
私は白旗をあげつつも、最後にそう言ってやることにした。
*
未だ自由を奪われたままである。夜空を切り取ったような深くて黒い牢獄は時たま不気味に震えて出られそうにない。
床は日を待つ胎児のように微動して、相変わらず空気は粘っており冷気と熱気が混在している。
だがもう勝負は決まったと拳児は思った。あの八雲が…自分と、そして天満を助けてくれた。
そして謎の幽霊はもう抵抗しそうにない。心残りがあるとすれば自分の手で――。
「播磨君…八雲……やーも?」
拳児は八雲の名が二回呼ばれたと思った。
特に気にせず、天満と視線を合わせ、組み合ったまま硬直している二人を注視する。
どうやって元の矢神に戻れるのかはよくわからないが…後は八雲とあの少女の問題なのだろう。
・・・・
・・
二人が何も言わないせいで、怖いほどに静かだった。
確かに町中にいたはずなのに。昼だったはずなのに。ここは地球の裏側のジャングルか?
いや、それならもう少し何かの気配がしてもいい。この暗くて先が見えず狭苦しい世界は、多分どこでもない場所なのだろう。
汗が引いていく。一体ここに来てからどのくらい時間が経ったのだろう。
連日徹夜で原稿にかかると時間の感覚が乱れ締め切りの危機意識が薄れてしまう。だがここはそんな概念さえ無意味に思えた。
頭が冷えてくる。拳児はふと折れた部分が気になった。
少し前から痛いと感じていなかった。興奮のあまり脳からエンドルなんとか――麻薬物質が出すぎたせいだろう。
麻酔の代わりだったそれが切れ、また痛みの感覚が戻ってくると思ったが、そんな気配はない。
拳児はもう折れた部分が痛くはなかった。何事もなかったように痕さえ腕から消えている。
《どうしたの》
「……」
一人の成長した八雲と、半分ほどの子供の八雲。抱きしめてもらえるはずの母親に、床に押し付けられている子供。両者の体勢はそのようにも見える。
《さあ早く。今まで苦しめられてきた相手よ?》
「……」
拳児も天満も、その少女さえも開演時間を待つ客の目をする。舞台はもう八雲の独演だった。今はもう誰も泣いてはいない。
《何もしないの? なら――》
「子供の頃――」
迷いが消え凛とした声。怒りの篭もった獣のごときそれではなく、自分の扱える言葉の限界を知りながら、埋まらぬ部分を願いで補おうとする声。
少女の肩をその手に捉え、大事そうに労わりながら。先の見えないトンネルの中で話すように、八雲の声が反響する。
怒った拳児のそれとは違う……小さくありながら、広く深い。それを聞いた拳児は先程の心残りを撤回した。
目に見えない、耳で聞けない、けれどその少女が持つ恐ろしい瞬間の足音が静まっていく。
「確かに私は……ずっと姉さんと一緒にいたいと思っていた。永遠を望んでいた。
だから、分かるよ…その気持ちに踏みつけられたあなたが、約束を違えた私や姉さんをどれだけ許せないと考えているか」
515 :
名無しさん@ピンキー:2010/02/03(水) 20:22:13 ID:dRzC4DSb
静かに続く旋律は、カンの虫を起こした赤子への子守唄にも近かった。
惨苦に呻くそれではない。極めて柔らかく、遥かに時を積み重ねた存在へではなくて、過去の自分に諭すものだった。
全ての感情を今の言葉に乗せようとしている。
《…分かってくれた? なら―》
「だけど違うの。その頃の私は知らなかった。変わるということ。人は変わるの。辛い事でも、人は逃げないで乗り越えることができるんだって」
震える手で少女の陶器のような顔を包み、少しだけ赤い箇所を指の腹でなぞる。ごめんね、と小さな囁きがした。
《……お姉さんがいないと生きられない弱虫が、何か変わった?》
「変わったよ……夕日をただぼうっと眺め、永遠に変わらない時間を思っていた頃とは違う。
姉さんと離れて、少しずつ、世界が広くなっていくのがわかるの……。今まで姉さんしか見ていなくて隠れていた部分が見えてくるようになった」
《それで広くなった世界の感想はどう? 辛いでしょう、苦しいでしょう。またいつ幸せが奪われるかわからないのよ》
「…そうだね…また、いつ……辛いことがやってくるか」
肯定すると八雲は両目を閉じた。そして忘れたことのない日を、思い出さなかったことなどない日のことを瞼の裏に映す。
もし一日だけなかったことにできるのなら、迷わずそれを選んでいただろう運命の日。
「……それでも……」
瞼と口が開かれると同時に――乏しく、生気のない、色つやさえない少女の顔を濡らすものがあった。
この薄暗い空間はどこが光源になっているのかなど分からない。けれど確かにそれは光を受けて。
涙粒が八雲の頬を伝い落ち、少女の頬を打っていた。
「それでも、私の決意は変わらないよ……姉さんがいなくても立ち上がってみせる。もう二度と……自分から閉ざしたりしない……!」
そう紡ぐ唇は震え、涙と合わせ顔全体を陽炎のように儚げにしていた。
摘まれるのを待つ花のように無防備で、沈む夕日のようにいつまで無事であるか分からない。
《大した意気込みだけど……それはケンジが手に入るかもしれないから? お姉さんの代わりがいるから?》
"昨日のことも知っている。結局そういうことでしょう? 上手くいくかもしれないから"――そう言いたげに少女は毒の蓋を開いて見せた。
「播磨さんは……そうだね、確かに私みたいな子によくしてくれた」
八雲の潤んだ眼は閉じられて、けれど今度はすぐに開かれた。それは瞬き。瞼の裏に像を結ぶ暇もない程の。早さが迷いのなさを表していた。
「けれど違うよ。そういうのは、もうやめたの。一年前からもうやめた。
たった一人の誰かにすがるような……その人がいないと生きていけないような、いることが当然の、ひたすらに求める、弱くてみっともない生き方はしない。
それと……私の大事な人はもう、姉さんだけでも、播磨さんだけでもないよ」
《あら。他に誰がいるの?》
言ってみろ。そう問われた八雲の口元は上向いていて嬉しそうだった。
誇らしい何かを自慢したくてたまらない。言葉に詰まるどころか溢れ出るのを堪えてる。
そんな決壊寸前の様子が見え隠れして仕方ない、子供のような微笑。
次の言葉は長くなるのか、八雲は胸いっぱいに息を吸う。
「誰かじゃないよ。……あのね…私の周りには、大勢の人達がいる。
優しい人、厳しい人、かっこいい人、温かい人、元気な人、真面目な人、不思議な人……。
その皆が背負っているの。誰かとの関係が終わらないか……悪くならないか、不安を隠して思い悩んでいる。
家族、友人、好きな人……。大事な人達が全部思い通りになるわけじゃないことを知って、でもその中で幸せを見出している」
八雲はにっこりと微笑んでいた。おどおどと彷徨うことの多かった瞳には力があった。
一年の中にあった思い出。それは昨日、卒業式の帰りに振り返っていた拳児といた情景だけではない。
二人ぼっちではないのだ。皆がいてくれたから。
サラ・アディエマス。東郷榛名。稲葉美樹。俵屋さつき――閉ざしていたのは私の方だったと、気付かせてくれた親友達。貴方達とは、永遠不変を求めてもいいですか。
高野晶。沢近愛理。周防美琴――今更ながら悔しく思います。先輩達との間に、姉さんという回り道を作ってしまったことを。ご卒業おめでとうございます。
麻生広義。菅柳平。結城つむぎ。ララ・ゴンザレス、ハリー・マッケンジー、東郷雅一――知っていますか、サラ達が先輩達のことをどれだけ好きなのか。
花井春樹――偽りのないその正直さに憧れました。どうか大切に。第二ボタンは大事にします。あと袴ですが、メルカドで一日だけ着たことがありました。
播磨修治――中学校は大変ですか? 遊びに来てくれる回数が減って少し寂しいです。それと、隣にいるその子は覚えがあるので今度紹介してください。
伊織――つまみぐいは止めましょう。協力するので、お友達ができたらまた家に連れてきて。子供を授かったならもう決して隠さないように。
先生方――両親のいない私達姉妹が、公私共に大変お世話になりました。あと一年どうか……あ、でも……その、家で飲み会は、どうかと。目的は播磨さんですよね?
頭の中を流れていくものが、たった一年間にあったことなのか疑わしい程に凝縮されている。
だから、何度も何度も確認した。けれどいくらやっても、それは確かに一年という時間に収まってしまう。
隙間がない程に詰め込まれていて、一つ一つはとても説明しきれない程の密度で自らの中に息づいている。
姉との永遠だけを望んでいたならば、絶対に得ることはできなかった。
姉との思い出と比較してもその輝きは全く衰えない。
八雲は嬉しくてまた泣いた。
「自分のことでも大変なはずなのに、時には辛い部分を引き受けてでも誰かを支えようとさえする人達。
その皆に囲まれて…支えられて……たまに私も支えになれて……ちょっとずつ自分が大人になっていくのがわかる。
臆病なくらいゆっくり……けど確実に。それが嬉しいの……。嬉しいから……今はもう、怖くないの……」
烏丸大路――今でも世界中の読者が待ち望んでいます。早く、帰ってきてください。編集部も、矢神の皆も、貴方の事を覚えてますから、どうか忘れないで。
播磨拳児――こうやって私は皆が好きですと八方美人に言いますが……ごめんなさい、やっぱり、貴方だけは特別です。ずるいですか? はい、愛しています。
塚本天満――手紙にあった、何度も書き直した跡。嬉しかった。一番近く――そして遠かった。求め――そして憧れた。だけど、背中は追いません。大好きだよ。
「でもね、一年前とはちょっとだけ違うの。皆を見てるとね、嫌になってくるの……立ちあがるくらいのことで止まりそうな自分が。
嫌なの……友達や先輩達のおかげでね、ますますこの人達みたいに……誰かの力になれる私を、目指したくなってしまうから。
姉さんのため?違う。私がそうなりたい……
姉さんにしか向けられなかった感情を……
大切な人達に……向けられるよう!だから。だから。……だから、私は……!」
八雲はそこで大きく息を吐いた。
全てを吐露する寸前、これまでの疲労に肩の位置が少し下がる。
声を発することを堅く戒められていて、それでも堪えきれずに声帯を絞る――そんな際にいた。
「あなたに、私を渡すことは、できない……! 認めない……絶対に、嫌…………」
激しい嗚咽と大粒の涙が形成する、八雲と少女の架け橋。
視界は輪郭を無くすほどに形を変え、混ざり合い、やがて白く濁る。
レモン色のそれは月光のように柔らかで明るい。
《……》
何もかもが見えなくなる一方で、少女を掴んだ手は今までにないほどに震えていた。
彼女が纏う、一点の染みさえない無地の白へと八雲は強くシワを刻む。
《……………………もう。汚れちゃったじゃない》
それだけ言うと、突如束縛に使っていたはずの髪が集まりヴェールのごとく少女の足先までを覆い隠した。
パシッ。八雲の体が弾かれる。蛹のような形になった少女が空中に浮き、そのまま地を離れ竜巻さながらに回転した。
遠心力に風が巻き起きるも、激しさは一瞬。勢いづいた髪がからまりを解き、音もなく退き、開花を思わせる優雅さで舞う。
卵の殻のように髪が割れて、その下から少女の元と変わらぬ姿が露になった。
「……すごい」
もうどこも汚れてなどいなかった。服のシワさえが見当たらない。表情にもいつもの冷静さが戻っている。
これは、天から降りてきた御使いの如き神々しさを持つにも関わらず、彼女にとってはただの着替えに過ぎないのかもしれない。
それでも八雲は今しがた見た、殻を剥離しての再生を思わせる光景に感嘆のため息を漏らしてしまう。
《あなたは、皆が大好きなのね……でも最後がおかしいわ。私だけは拒絶するの? 私だけ例外で、独りでいなくなればいいって?》
「おかしい……? ううん……私がいるよ。だから、独りじゃないよ」
《それが矛盾してるって――》
八雲は言葉を制し、立ち上がると迷わず手をさし伸ばす。
少女の発言をたぐると、このままでは彼女はいなくなってしまうのだろう。
《何?》
「独りじゃないよ。全部を渡すことはできないけど、一緒にいることはできるから。それじゃあだめ、かな?」
《はあ!?》
呆れ返ったといわんばかりの、天を衝く声。だが彼女の――横を向いて頬を膨らました、拗ねる様なしぐさは外見相応に彼女を飾る。
何それ、調子のいい……そんな呟きがぽつりと漏れる。想像したのか、身震いしたかに見えた。
《ふー………》
長いため息。幽霊でも難しい顔をするんだと少し八雲は面白く思った。
《――まったく。はいはいはいはい、おなか一杯、胸一杯!》
極めて軽いその声は、ますます年相応の女の子であることを強くアピールした。
眠りにつくように瞼が閉じられると、少女は一瞬で姿を消す。
八雲は慌てた。天満も拳児も同じく探す。だが空気に溶けてしまったようにその気配が感じられない。
「? おいどこへ――おわっ!?」
消えていたのは呼吸する間もない僅かな間の出来事。
彼女が次に現れたのは未だに束縛から抜けられない拳児の正面だった。頭突きできそうな程に近い。そう思った本人ももうやるつもりはないが。
間近に顔を突きつけられて、慌てる拳児をその少女は愉快そうに観察、そして――。
《もうわかってると思うけど、あの子には普通の人間とは違う力がある。それは私のような本来交わるはずのない存在の世界に繋がっている》
拳児はつい受身に回ってしまった。漫画のような世界の話をされただけではない。
明確な殺意さえ抱いたはずの相手と今の晴れ空のようにすっきりした表情の少女を、頭の中で一致させることがどうしてもできないために。
眼光には迫力があった。心の奥まで貫く程の鋭利な刃は記憶にある誰よりも畏怖を感じさせる。だてに長生きしていないということか。
けれど全体で見れば少女は嬉々として楽しそうだった。
《大丈夫? 受け止められる? どんな厄介事を呼び出すかわからない地雷女よ。
そしてそのことごとくに対し、力のないあなたは何もできない…今日みたいにね。そんな無力感に耐えられる? もう一度言うわ。あなたは何もできない》
棘のある言い方だった。けれど裏には八雲が心配でたまらないといった意思が込められている気がした。
もしかして励まされている? いや、試されているような気もする。拳児は迷った。
《そんなあなたは何をしてくれるのかしら……ふふ。
応援し見守ることかしら、それとも身体を張って盾になることかしら……精々、覚悟しておくことね》
そうか、期待されているのか。ならばこうだ。満足してくれればいいが。
「漫画家にゃ丁度いい。ワケわかんねえ出来事を、こうだったらいいなって面白そうに描くのが仕事だ」
《あら》
それっきり、背を向けられてしまう。何も言わないなら期待に沿えたのだと勝手に解釈させてもらおう。
そして次に少女は天満に顔を寄せていた。彼女の束縛が包帯のように丁寧に解かれたのを見て、俺は無視かと拳児は問い詰めたくなった。
《……》
「やーも、あの――」
《その呼び方はやめてって言ったでしょ》
「ご、ごめんね…でも何て呼べばいいのか」
《……他にはないの?》
「ユーレイちゃん?」
《絶対ヤダ! ああもう…》
呆れ返ったように少女は足元を軽く蹴り、再び飛んだ。その際に天満を目の端に残して告げる。
《嬉しかったと言ったのは本当よ。ずっと傍にいてくれてありがとう。凄く、凄く嬉しかった。……今更信じられないと思うけど……本当に、本当だから》
「うん! 信じるよ」
《……実はあなたを殺すと言ったのも、そもそも八雲を奪うと言ったのも、最初からそんなつもりなかったって言ったら…信じる?》
「うん!」
《……つまらないわね》
振り向いてもらえなかったが、天満は少女が笑っているのだろうと思うことにした。
なぜなら、昔の八雲は嬉しいことに限って隠れて見せようとはしなかったから。
《さてヤクモ。さっさと終わらせ……何よこの手は。握手? そんなので――全く》
八雲が強い拒絶の意志を持っている以上、八雲に従わなければいけないらしい。
よくわからないが、そういうルールなのだと少女が説明してくれた。
拳児の知る八雲は嬉しそうに、幼い八雲の半身は不満げに手を交える。
……パチッ。空気が蜃気楼のように曲がり、静電気に近い音がした。
夢の情景さながらに、二人の間が水を吸った絵のごとく滲んだ。不安定なものに変異していく。
あわせるように、薄気味悪かった世界も薄暗くあいまいなものへと溶けていく。
「ちょ、ちょっと怖いね…」
《大丈夫。寝て起きた後みたいに一瞬よ》
繋がった二人の間から花火の光が見えた。花火?いや、この世ならぬ光。太陽と月を混ぜたような。それは元は同じ光。
《元気でね、おねえちゃん。ありがとうヤクモ。ケンジは……まあ、巻き込んで悪かったわ》
「おい!」
《冗談よ。ケンジがいなかったら私達姉妹は…だから本当はね、あなたとも話をしてみたかったの。
時間とらせてごめんなさい。学校までサービスしてあげる》
少女が少しずつ薄くなっていった。漆黒の髪と純白の服、寒風を思わせる青い肌、原初の火の瞳。それらが色を失い同じものになっていく。
微妙なグラデーションの波に溶け込むように消えていく。八雲の体に重なっていく。
魂を混じりこませ、淡い色合いに体が透けていく妹の姿に、天満は思わず声を出した。
「……ばいばい。やーも」
《違うってば》
「あ。うー……」
《それはもう諦めたわ。でもそういう意味じゃないの。ばいばい? 違うわよ――》
――音もなく、眩いばかりの白が爆ぜた。入り口では黒だったのにそれと極めて対照的な白。
まるで知っていた場所のように懐かしい生誕の色。光より速く太陽より熱いそれに三人は飲み込まれ、そして――
《……また、会いましょう》
*
パタパタパタ――。
"確認のため復唱します。高校二年生と三年生の姉妹が、昼前を最後に、登校中に行方不明。妹の鞄が自宅付近で発見。二人の特徴は――"
「はい。姉は髪を耳の上あたりで縛って、長さは腰のあたりまで。妹は肩に届くかどうかのショート、こちらのほうが背が高く、160以上…」
パタパタパタ――。
"お姉さんのほうが留学中で、卒業式に合わせ一時帰国。妹のほうはそれから一人暮らし、学校では人望ある生徒。トラブル等、何か困っていたような――"
「いいえ、心当たりは何も…学校でも仲のいい、人気ある姉妹でして」
パタパタパタ――ばたん!
「谷先生、塚本姉妹が見つかりました……おまけつきで」
「「「刑部先生!?」」」
通報の最中。先程の谷同様に職員室へ走りこんできた刑部絃子のその朗報。
それはめでたい――が、こういうとき……警察へ敷かれた専用回線まで使っておいて何もしないままに用無しになった時、何といえばいいのか。
まさか間違えましたはないだろう。
"は? 今なんと? おさか?? それが犯人ですか?"
教職という立場に誇り持つ三人の男性教師は、電話の向こう側にいる警察官――負けず劣らず仕事熱心で少々思い込みが強そうな、
途中に人員の手配も署内へ指示してくれた――しかも一人ではなく複数の気配がする――に対し、何と説明すべきかを悩むのだった。
――――――――――――
今日はここまで。
あんまり引っ張るべきじゃないと思うのでがーっといきました
いろいろドン引きな話でごめんなさい。不明なところはさらっと流すくらいがよかったと反省。
それでも、ちょっとだけでも、読んでやったぞという皆さんありがとうございました。
522 :
名無しさん@ピンキー:2010/02/03(水) 23:53:40 ID:Y92HhgE3
乙です。もう少しエロ成分大目の方がこの板的には喜ばれるかもしれないですね。
乙!幽子が鉄拳制裁されるかと思ってたから和解できてほっとした
幽子の触手で播磨含めて三人仲良くやられちゃえばエロパロ的に問題なかった
エロ成分まではあと○回・・もうしばらくお待たせするかと。
触手ネタは考えていてむしろやりたかったんですがストーリー上おあずけに。
では続き
*
ここは矢神高校の校門前。学校のあちこちの窓からは珍しい光景を覗き見する生徒達の顔だらけ。
天満だけでなく八雲まで。誰も見たことのない姉妹揃っての平謝り。
行方不明だった姉妹(本人達は少し前にそう扱われていたと知った)は親友達に必死で頭を下げていた。
「びっくりしたわよもう、とつぜんドスンと降ってきたような音がして何かと思ったら」
「ご、ごめんなさいぃぃ〜」
「けど、正門に私達がいたのにどうやって美術室へ? 何のために?」
「そ、それはね…えっとぉ……そう、裏門から! 烏丸君の描いた浮世絵でもないかなーって」
「塚本さん、美術室は施錠しておいたはずなんだけど…」
「だそうだけど、お姉さんと二人でどうやって入ったの八雲?」
「え……えっと…あ、開いちゃった…かな?」
「どーしてそこで目を泳がせて疑問系!? 事件のニオイがするよ八雲っ」
「そ、そうかな? よくあることだと思うよ…」
「ないと思うよ八雲」
「普通はないよ八雲」
「あーもう、姉妹そろって無茶苦茶なんだから。どれだけ皆に迷惑かけたと思ってるのよ!」
「ご、ごめんね。怒らないで〜」
「ごめんなさい……」
「美術の絵? そんなの、連絡くれれば私達で……全く!」
「といいつつほっとしている愛理さんです」
「一番泣きそうだったからなぁ。まあ二人とも、こいつがトゲトゲしてるのは勘弁な」
「晶!美琴!」
「許して! 今度メルカドおごるから!」
「ご迷惑、おかけしました……」
胡散臭さが増すばかりで要領を得ない二人の言い分に貴重な時間が費やされていく。
大勢の人間に囲まれる中で、八雲はふいにその中に花井がいないことに気付いて謝罪を止めた。
(――次は、私の卒業式と言ってたっけ……。でもきっと、話を聞いて町中を探してくれているんだろうな。……あれ?もういいって誰か連絡したのかな?したよね?)
「まあまあ先輩達もこのへんで。時間なくなっちゃいますよ」
「……」
「あっ! 烏丸君、今なんて!? 何か思い出した??」
天満の声を皮切りに騒動は加速していく。今度の人だかりは姉妹ではなく烏丸大路を中心として。
自分が誰か分かるかと、全員が我も我もとアピールに励んでいるのだ。
そして彼らから少し離れた場所にじっと姉妹を見守る男がいた。
「あの子達をほったらかしてこそこそしてる拳児」
「んだよ」
「何があった?」
「秘密」
「私に隠すほど大事なことか?」
「俺が言っていいことじゃねえ」
「ほう。で、姉か妹どっちだ?」
「さーてな。いや両方?」
「そうか、姉妹を食べくらべ――」
「違う!」
「あら、拳児君も大人になったんですねえ」
美術室で三者が絡み合った状態で発見された、塚本姉妹(ついでに播磨拳児)。
進入経路や目的の謎その他矛盾などを孕みつつ――再会の時間は僅か。別れの足音は近い。
・・・・・・
・・・・
・・
小型の救急車のような丸い車両が重低音を響かせて唸りを上げた。
ガソリンを燃焼させた慣れない臭いが辺りを漂う。
「皆……ありがとう。ごめんね、ずっと前から準備してくれたのに最後でこんなこと。愛理ちゃんも泣くほど―」
「泣いてない! もういいわよ…それよか、頑張りなさいよ。これからが本番なんでしょ?」
「手紙、またくれよ。時間のあるときでいいからさ」
「私達も東京で新生活が落ち着いたらエアメール送るわ。確かアメリカだと宛先は大学のほうがいいのよね」
特に親しかった親友達と、天満は最後の会話をしていた。
涙交えた抱擁や感情を振り絞った言葉のやり取りとは程遠い。
自身の始まりを控えている彼女達にはそれでよかった。
――その一方。
「……それにしてもさ八雲?」
「な、何かな美樹…さん? もう行方不明のことは」
「そうじゃなくてさ……なんていうのかなぁ〜〜八雲、どこか変わった? お化粧でもしてる? 違うよね、でも…」
「ああそれ、珍しく私も同感」
「あー二人も? うーん、置いていかれちゃったっていうか。何だろねこの違和感。距離感?」
「だよねだよね! どこっていうことはないんだけど〜」
「…………(どきどきどきどき)」
おかしい。八雲は考えていた。昔は人前に立つだけで顔が強張り、笑いも恥じらいも苦手だったはず。
仮面の表情と長い付き合いの自分が、そのやり方を忘れてしまうなんてありえない。
なのに今は……顔が動くのを止められない。困っているし、言葉が見つからず、
図星を指摘されたらどうしようと不安で不安で倒れてしまいそうなのに。
「(でも…嫌な気持ちじゃない)あのね皆……あ、あれ?」
親友達が気をよくしているのは、今の自分の明らかに心当たりがある反応が面白いからだろう。
相変わらず気持ちをどう扱えばいいか分からないが、つまらない表情の作り方を思い出すのはやめようかな。
そんな心境になりかけた八雲の言葉が止まった。
「皆で集まって何を…サラ?」
サラ・アディエマスは八雲最後の砦である。その大親友が…携帯を開き、ナイショだよと言い、皆で円陣を組むとは一体。しかも八雲本人は外して。
「(携帯? ……ぁ!) ま、待っ―」
「ほほう。播磨先輩と昨日帰ったんだ。お姉さんが帰ってきた日に!」
「こっちは朝の? 三人で朝一緒ってことは〜三人で夜を過ごしたってことだよね。軍曹殿、匂います!」
「何があったのかな。『お姉さん、どうか妹さんを俺に下さい』『うぬう無礼な、ならば私を倒してみよ』とか?」
「そっかあ、八雲、何かと思ったらアダルティーな雰囲気が出てたんだ! オトナになったんだ、いいなあ〜…あぁ花井先輩はどーしていないの??」
八雲の大親友・サラ(何故だろう、大いに疑問がある)は昨日連絡したはずのことをまだ言いふらかしてなかったらしい。
いや、情報だけ握って公開の機会を伺っていたのか。紅潮しきってメルトダウン寸前の八雲。
彼女の放射能の混じっていそうな助けを求めるその視線を、背中に受けつつ少し離れた場所にいた拳児は申し訳なく黙りこくる。
「相変わらず隠れてる拳児」
「……」
「オホン! …まあそう憎からず慕っている若者同士、つい……ということもあるだろう。だが、八雲君はこれから体が第一の受験生だ」
「……」
「彼女のことだ、備えなどないだろうし……男のエチケット、あーガキじゃないんだ、分かるな? それは果たしたんだろう?」
「……」
「頼むから何か言ってくれ…それか、あの子の目指す大学にお腹の大きな生徒を推薦する方法を教えてくれ」
「……」
「おい。どこでもいい、否定しろ。言っておく、私は断定口調だが、実際は適当述べているだけだぞ。まさか君に限って――」
「……」
「否定せんかたわけ者〜! ……全く。あぁ、例の件だが準備はしておいたからな。ほら受け取れ」
「サ、サンキュ…っておい何持って――」
「本当に、拳児君も大人になったんですねえ」
パンパンと物理教師の十八番、次いで情けない悲鳴が矢神の空に高く響く。
だが付近を調査していた、行動が早く連絡の届いていない警察官がそれを銃声と思い込み――。
一騒動の後、やがてヴンヴンと唸る小型の救急車が校門を発っていった。
*
そこは少女にとって二度目となる道だった。一年前に、彼の背ばかり見てしがみついて通った道。
緑の山があり波立つ海がある。目で追っていた流れ雲。追い越して間もなく視界から消えていく。
暖房のおかげで寒さもなく窓があるから風の圧力もなく、じっくり堪能することができた。
こんなに綺麗だったのかと、アメリカの広いばかりのハイウェイとの違いに驚く。
ただ、それでも、彼がいないせいでどこか足りない。
それは自分のワガママなんだろうなと少女は思った。彼女の態度から読み取るのは難しいが。
「あ〜ん八雲ぉ〜私すっごい疲れたよぅ」
「ごめん、私もちょっと……」
肩と寄せ合い天満と八雲は頭を抱えながらも後部座席に座っていた。
今は空港に向かう最中。元2-Cの友人達とは学校で最後。空港で天満と烏丸を見送る大任は天満に最も近い八雲の肩にある。
……拳児は、同乗しなかった。
到着まで時間があるので眠ったらどうですか、と運転手が親切心を見せる。
彼は天満のいる大学の事務員で、烏丸付近の事情も当然熟知していた。
「烏丸君、大丈夫?」
車椅子ごとの乗る専用の座席に跨り、無言のままの少年に天満は明るく話しかける。
……こく。一瞬、姉の声を受けて彼が頷いた様に八雲には見えた。
「ありがと! ごめんね、えへへちょっとだけ」
天満は車の中央に設けられた席の烏丸から目を離すと、後部座席の八雲の隣にそっと体を預ける。
残りの時間を……姉として、妹のために費やすべく。八雲と、もう一人の妹のために。
「…そういえばさ、八雲? 出発のときに播磨君から何を貰ったの?」
「あ…まだ確認してなくて……封筒みたいだったけど」
それは学校を出発する直前。別れの悲しみを吹き飛ばす喧騒の後。
校門にいたクラスメイト、友達、教師、全員と握手した天満が烏丸大路を連れて乗り込んで。最後に八雲が段をのぼったその時に。
拳児は鞄から封筒を取り出し八雲に渡す。見れば、彼の鞄にはそれしか入っていなかった。
(「妹さん」)
(「え、播磨さん? 何ですかこれ……? 中は――」)
(「今はだめだ! 渡すかどうか悩んだけど、二人宛だ。車酔いがあるなら、パーキングエリアで開けてくれ」)
「私でも八雲でもなくて二人にって……? すいません、次のPAで止まって下さーい!」
ラジャー、と気さくな返事。そして程なく到着。駐車後、運転手は気を使ったのかわざわざ15分後に戻ると告げて車を降りていった。
一枚の薄い封筒。前にしたとたん、他の車の起こす騒音やくつろぐ人の談笑がひどく遠くに聞こえる。何故か感じてしまう正体不明の緊張。
空虚を見つめる烏丸大路だけが空気に呑まれずそこにいる。
封筒に八雲は覚えがあった。これは漫画の原稿を入れるのにいつも使っているものだ。
しかしその厚さは数ページ分にさえ満たないだろう。漫画ではないらしい。
天満は全くない心当たりに首をかしげた。今更ラブレターもないだろう。
どうやら今朝、拳児が準備していたものはこれらしい。
面と向かって言えなかったことでもあるのだろうか。
「(私と姉さんに?)開けるよ……」
「烏丸君、もうちょっとだけ我慢してね」
…………ぱらっ
「……何で……播磨君……が?」
それは漫画でもラブレターでもなく。
あるはずのないもの。消えてしまったもの。失ったもの。
写真だった。古い写真。本当に子供の頃だった自分達。そして母親。父親が残してくれた写真。
「――嘘。だってもう全部、全部」
「どこかに…まだ、残って……?」
全てを処分したはずだった。
辛かったから。悲しかったから。
受け止める勇気が私達にはなかったから。
見ているだけで苦しくなる。どうして、どうしていなくなってしまったのと。
自分達はいい子にしてるのに。あの子よりもどの子よりもいい子なのに、どうして自分達だけ。
家以外の場所が辛かった。例えば、学校。
運動会で皆の両手には、お父さんとお母さん。
ある日には自分の名前をお父さんとお母さんがどんな願いを込めて授けてくれたのか、皆が発表。
忘れ物をすれば、なんでお父さんとお母さんにきちんと持たせてくれるよう頼んでおかないのかと叱られた。
いて、当たり前。じゃあそれのない私達は何だったんだろう。
事情を知った大人の人は気まずさにすぐにごまかす。同い年の皆は、何でいないの、と残酷な興味の目で私達を見た。知らない。何で、なんてこっちが聞きたい。
皆で励ましてあげよう! と、誰かが学級会で言い出した。親切のつもりで…いい人のつもりで。
けど、子供だったし仕方ないとはもう分かってはいるけれど、こっちを見る目はどこか面白がっていて…優しい事をできた自分達に満足していて。
今日はとてもいいことができましたと合唱されて、皆偉いねと先生に褒められていて……それが、どれだけ悔しかったか。
お父さんが今度変わるという子がいて、かわいそうだと思ったけれど……どこかでうらやましかった。
今思えばそれはほんの短い間の特別なこと。それに施設に行くのを嫌がった私達のせいでもある。
世の中にはもっと大変な境遇の人達もいると知ったし、一年も半ばを過ぎれば皆が触れないでいてくれた。クラス替えがあるまでは。
毎日の楽しみとして沢山の写真を眺めることがあった。そして絵を描くのも好きだった。
お父さん達がそこから飛び出してただいまと言ってくれるような気がして。色んな絵本や童話――世界は夢ある物語で溢れていたから。
けれどどれだけ願っても、現実に叶うことはなかった。その度に辛くて、けれどまた次の日には今度こそはと考えてしまって。
ある日、二人は天国で見守っていてくれるよ、見るだけで進めなくなるからもう止めよう、と私達は決めた。
でも本棚の高い所に置けば椅子を使い、押入れの奥に投げてもよじ登り、蔵の中に隠しても鍵を持ち出して、私達はこっそり写真を覗くのを止められなかった。
もう嫌だと本当におかしくなってしまう程に追い詰められて、逆にこれがあるから辛いのだと、二人で捨てることを決めた。
家中のものを集めて、風と雨の強い日、台風が来るという日に思い出を全て川へと投げ捨てたのだ。
最初はすっきりしたと二人で笑ったけれど、からっぽの家に帰った瞬間に泣き崩れた。とんでもなく馬鹿なことをしたと。
まだ残っている、拾いに行く、大丈夫泳ぎは習ったと言う八雲を天満は叫んで止めた。噛みつかれても打たれても踏まれても。
振り回す傘を顔に受けて、血を流す天満を見て八雲は正気に戻り、二人だけの写真が残った。
それ以来は買ってもらった絵本など、物に思い出の残照を求めるようになった。
「……姉さん。古いものだけど税関は通るよね? ……持っていって」
「だめ! これは八雲が持ってないとだめ! せっかく、せっかく……それに、きっと最後の」
「ううん。だって…聞いてたでしょう? 私には皆がいるって。でも姉さんは――」
「私にだって向こうに友達くらいいるよ! でもこれは――そうだ、誕生日プレゼント!」
「……いらない」
今よりずっと子供だった自分達。懐かしい母の全身像。
父親の姿はなくても、映したのがその人であるから存在は感じることができる。
もう子供の頃とは違う。確かに自分達は愛されていたのだと、今なら――今なら、写真は写真と受け入れて、支えにできる。
「いらないって…そんなの嘘!」
「…」
欲しいのに。欲しいのに。欲しくて欲しくて喉から手が出てたまらないのに。
だが姉妹は別れる。写真は一枚。コピー? それではだめ。ただ同じ画であればいいわけではない。この一枚でなくては意味がない。
「お願い……早く、早くそれをしまって……! 忘れるから。あったことを、忘れるから……!」
「八雲! お姉ちゃんの、お姉ちゃんの言うことが!」
「聞けないよ!」
「っ…」
妹に押し付けられて天満は震えながら写真を封筒に戻す。そして背を向け自分の手提げの中へ。蓋を閉じる瞬間に後ろから、あっ…と、声がした。
恐る恐る振り向けば、もう妹は反対側の窓を向いて何も言わなかった。目が閉じられていた。本当に忘れようとしているらしい。
すごく、悪いことをしてしまったのではないだろうか。お姉ちゃんなのに、妹の、たった一つしかない写真をとるなんて。
見た瞬間はそう、本当に生き返ったような気さえしたのに………涙が出てきた。
今度こそは、最後に姉らしいことの一つもしてあげたいのに、してやれない悔しさ。
「八雲、やっぱり…お姉ちゃん…」
「泣かないで」
「でも…え?」
ひどくひどく懐かしい声がした。頬に人の手がかかったのにも天満は気付いた。
手なんて、遊びくらいにしか使ってみせなかった彼が…烏丸大路が、自分のために涙を拭ってくれていたのだ。
「烏丸君は…いいと思うの?」
「……」
返事はない。当然だ、彼が誰かに言葉をかけるなんてことはまだできない。この手だって励ましではなく何か珍しいものを拾おうとしてるだけかもしれない。
だから……気のせいなのだ。彼の声を聞いた気がしたのは。
しかし気持ちを伝えることは何も口の動きだけに限られたことではない。例えば、表情。
「(それでいいと僕は思う。妹さんはきっと君に持っていて欲しい気持ちのほうが強いんだ)」
たまに、烏丸に行う治療行為は医学的な見地から遠いものだと指摘されることがある。
けれど病気に対してではなく、烏丸大路に対してはそれが正しいという、彼の個を知る自分独特の不思議な自信があった。
今受け取った気がしたメッセージの解釈も、同じ。なので天満はそれに救われた気がした。
車内で騒ぐ自分達に気付いたのか、何事かと運転手が戻ってきた。
妹が少し疲れたみたいですと説明して納得してもらい、彼に目を戻す。もう涙を拭いてくれた手も喋った気がした口も、動いてはいない。
……気のせい? いや、違う。でも説明はできない。してくれたことを心に留め、自分も目を瞑る。
再出発。窓の隙間から僅かに雑音が入ってくる。風を切る音、うなるエンジンは大型トラック。
やたら大きな音楽を流しているのはオープンカー。子供の声の混じる、家族向けミニバン。
目を閉じればますます聴覚が鋭敏になる。その情報を子守唄にも思いながら、やがて天満は体が軽くなっていった。
「…疲れてたよね。ごめんね姉さん。ありがとう……」
やがて、天満はすうすうと寝息を立てていた。幸せそうな姉の姿を確認すると、八雲もすぐに真似て目を瞑る。
夢を見よう。幸せな夢を少しだけ。幼い頃に戻った気分で。そう想い目を瞑った。
・・・・・・
・・・・
・・
……ねえ八雲
何?姉さん
こうしているとね、思い出さない?
何を?
小さい頃、こうやって後ろの席に座ってさ、お父さんの車に揺られて――
あったね! …そう、スキー場へ行ったんだっけ。あ、そうだ姉さん。私スキー滑れるようになったんだよ
本当!? じゃあ、いつか一緒に滑りに行こうね! 楽しみだなあ〜
うん。でも…それっていつになるのかな?
えっと…烏丸君の病気を治してからだと……ずっと先……かな
私達が今の倍くらいの年齢になったら?
オバチャンじゃん! そんなに先じゃないよ、お姉ちゃんに任せんしゃい! 大丈夫、あと10年…お姉ちゃん28だ! ウッヒョー絃子先生より大人!
……ねえ姉さん? 私、その頃には何をしてるのかな
未来に何をしているか! う〜んこれはまた八雲殿、哲学的な質問を……あ!
どうしたの姉さん。何かおかしなこと…言った?
ねえねえ、逆に八雲は10年後に何をしていたい? 教えて、そして約束しよう! 私は絶対に烏丸君を治してみせるよ!
え……そんなまた勝手に……もう。急にそんなこと言われても……
ないの!? 嘘だぁ、あるでしょ? メガヒットを手がける若きスーパー編集者? 播磨君の若奥様? それともそれとも
――あるよ。あのね姉さん、私は――
*
飛行機雲が伸びていた。どこまでも――どこまでも――。
それは終わりなき旅路を…姉の選んだ未来を象徴しているようだった。
最愛の人を乗せて飛び立った飛行機はもう、空へ消えた。今頃海の上だろう。
ロビーでの本当に最後の別れ。だがそこには絵に描くようなドラマチックな要素はなかった。
ばいばい八雲 うん姉さん 元気でね八雲 うん姉さん また会おうね八雲 うん姉さん。ずっとずっと――待ってるよ。いつかお帰りと言わせてね――
それだけで、足りてしまった。
それが寂しいとは八雲は少しも思わなかった。昨日の卒業式からもうここまでに――言葉は尽くしたから。
自分達が笑顔で別れを受け入れられるくらいに。車に揺られる中でも、夢の中でさえ深く深く繋がりあったのだから。
《……いつまでそうしてるの? 早く帰りましょう》
「うん……」
八雲は空港近くの道路で空を見上げて、頭に響く声に驚くことなく自然に返事をした。
それは永遠の彼女とこの一年で交わした、会話だけの接触と同じ。
一年前に、八雲を得るのではなく見守ると決め、以降は姿を見せる力も惜しみ消える日を先延ばししていた少女との。
あの後。光に包まれて気付いたら美術室で拳児を下敷きにしていた後。
八雲は自分の中にほんの一部だけ、今までの自分でなくなったのを感じていた。
だからどう、ということもない。確認した拳児の肘と同じで痛みの欠片さえ全くない。
外見も内面も――今以上の不思議な力を得たわけでも、元の人格に影響がでるわけでもない。
塚本八雲は塚本八雲のままで、ただ幼い頃に捨ててしまった心を再び見つけ戻す。それだけだった。
あるとすれば、欠けていた何かが補われたような満足…充足…一体感…といった、自分しか分からない程度のもの。
《……まあいいわ。もう少し…飛行機雲が消えるまで、ね》
「ありがとう」
こうして常に一つである限り少女が消えてしまうこともないようだ。
少しだけ彼女のために栄養(幽霊にそう形容するのが正しいか別として)を与える続けることになるらしいけれど。
自分の能力同様に、一生の付き合いになる。それでいいと八雲は思っていた。
ああ、でも――いつでもそこに誰かいる、というのはいいのか悪いのかよく分からない。
こうして普通に会話をしてるつもりの私は、傍から見ればぶつぶつ独り言の変な人だと見られるに違いないし。
もちろん悪用だけはしないでおこうと八雲は思った。
姉を乗せた軌跡、飛行機雲が消えていく。見えなくなるまでどこまでも伸びて、風に吹かれて。
最初に見たときには広い空にあるあまりに確かな存在感に、永遠を感じてしまう程なのに。
夕日の光を浴びて少しだけその輪郭がくっきり空に映る。
けれど今、胸の中に広がり焦げつくのは永遠ではなく――刹那の美しさと、思い描く未来だった。
やがて…本当に消えてしまった。いや、まだあるのかもしれないが、ここは空港。
飛行機雲なんて数多くあり、幾重にも重なりあってしまう。
他のものに上書きされて――日も沈んできて――本当にもう、見えなくなってしまった。
「――よし! うん、帰ろう――」
私の家へ。
私と両親、姉さんのいた家へ。
私と姉さんと。伊織のいた家へ。
私と播磨さんと伊織とサラの家へ。
そして――あ。ごめんねサラ。でも、仕返し。それに姉さんと約束しちゃったから。
いつか。ううん目指せ10年後――私と播磨さんと伊織、そして――姉さんと烏丸さんの家へ。帰ろう。
「――ぁ」
《どうしたの?》
勢いよく歩き出した八雲は、短く叫び足を止めた。もう止めないと決めた歩みを止めてしまったのだ。
「私、大事なことを忘れてた……」
《何? もったいぶらず早く言いなさいな》
「あのね……きゃっ」
八雲は俯くとひどく申し訳なさそうに顔を上げ…と。
その傍を大型のツアーバスが通り過ぎ、舞い上がる粉塵を残していった。八雲は軽くむせる。
「けほっ……えっと。えっとね」
《早く》
「えっと…ここからどうやって帰ろう? そうだ携帯……ない!? ど、どこで落としたのかな……お財布も……そもそも私の鞄、どこ行ったんだろう」
《……》
ブロロロロ。第二、第三のツアーバスがすぐ隣を通過していく。団体客がいるらしい。
健康に悪そうな濁ったガスが蔓延してきて、八雲は再度、けほけほと咳をする。
――少しばかり後に。空港の係員に頭を下げ、電話賃を頼み込む八雲の背を見ていた少女が我慢できずに言った。
《あなた……本当にヤクモ本人? おねえちゃんと入れ替わってないわよね?》
「……ごめん」
――――――――
ここまで。
いやほんとエロから遠い話ばかりですいません。
ホントホントすいません・・でもちゃんとラスト近くであります。
エロ無くても楽しいから良し
*
空港の天蓋はひどく高い。外のように広いのに、行きかう人々の熱気で中は温かかった。
合間を縫い彼らから離れたワンエリアへ。借りたテレホンカードを最近あまり見なくなった公衆電話機に差し込む。
(そういえば一年前に姉さんもパスポートを……あれは忘れたわけじゃないけれど)
とぅるるるるる…とぅるるるる…
《…気をつけなさい。こっちを見てる人がいる。あなた、狙われてるわ》
「えっ?」
待つこと数秒後、少女の声がした。狙われている? 物騒な忠告に八雲は戸惑う。
少し意識を集めてみると、確かにざわざわと何かの気迫……彼、花井春樹が顕著だったが…それを感じる。
このあたりにない制服を来た何の荷物も持たない女学生が不安そうに徘徊していたせいだろうか。
警備の人に疑われたのならいざしらず、もしかして旅行客を狙った…係わり合いになりたくない人達だったら。
今は家への電話をかけている最中だ。ひとまずサラに事情を話して学校なり先生なりに、と考えていたのにこんな時に。
ガチャ。
"はいもしもし、塚本です"
だがどうしようか決断するよりも親友の声のほうが早かった。
伝えるべきことがまとまらないまま、口を先に動かしてしまう。
「あ、あの、サラ。私――
どうしよう何て言えば――ガシャン! つー、つー、つー……ピピー。
「…え?」
カードが出てくる。八雲は一連の流れに驚いた。突然背後から手が伸びてきて、上がったレバーを下げたのだ。
普段は受話器の重みで降りているそれを。そんなことをするからほら、切れてしまった。
電話せず一文無しがどうやって帰れというのか。タクシー? 県外は人に悪いし金額が凄いことになりそう。
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ」
後ろからは荒い息遣いがした。興奮しているのか熱がある。
本当にすぐ近く、髪の間を通ってうなじにそれがかかってくる。
過去、そういった人に追いかけられた経験もあって、怖い記憶が戻ってきた。
肩に手を触れられる。誰!? いやだ怖い。身体をぐるんと振り向かされる。
「見つけたぜ」
「あぁっ」
――そうか。私は…
「ごめんなさい……外でずっと、姉さんを見送っていました……播磨さん」
《くすくすくす。紛らわしかったかしら》
勘違いをしていた。この人がいないはずないじゃないか。姉さんのまた新しい始まり…それを見届けないなんて。あるはずないんだ。
「外で見てたのか?」
「はい…播磨さんも?」
「ああ。便は昨日教えてもらってたからな。先に絃子にバイク頼んでおいて、二人が行った後で追っかけて」
学校で見た担任教師の姿を思い出す。そういえばあの審問会の最中にマフラーの排気音を聞いた気がした。
だが、追いかけてきたのならどうして。
「……どうして最後、姉さんが行ってしまう前に――」
「いや、まあ……元々、ギリギリの予定だったっつーし。やっぱ家族との別れを邪魔したら悪いだろ……」
「そんな!」
話すほど疑問が募る。むしろどうして今まで彼が来ていることを考えられなかったのかと自らを責めたくなった。
意識さえしていれば群衆の中に彼を見つけて姉と時間を作ることもできたのではないだろうか。
「……あのな、妹さん――ホントは」
後悔しているらしい八雲を安心させようと、拳児は口を開く。
刹那の瞬間、来るまでのことを思い返しながら。
*
・・・・
・・
背中には誰の重みも感じない。
速度に比例し冷えた風ばかりが熱を奪ってくる。
座した自動二輪はものぐさな本来の主の手を離れ、久しく走れたことを獣のように吼えて喜んでいた。
耳を圧する世界の中で、あの子の存在もぬくもりの欠片さえもがないままに、一年前と同じ道を走っている孤独な自分。
背景は全て幾重の線と化し背後へ流れていく。看板の文字は読む間もなく消えていく。追い抜いた邪魔者の数など覚えていられない。
激走する黒い車体とそれを操る自分だけしか分からない世界。それは正に、世界とは自分のこと――俺は俺だけのもの――を、体言する瞬間。
《……おい拳児。お前また何やってんだ?》
「! ……あ? 空耳か?」
大事な姉妹が乗った車をもう追い抜いてしまったのか。それともまだ、追いつけていないのか。そもそも道が違うのか……よくわからない。
それでも拳児は空港を目指して走っていた。従姉の用意してくれた相棒は足回りがよく身体に合う。
《そーいうの止めろよ。ウゼェ。くだらねぇ》
「…またてめーか」
返事と同時、あの全てを異にしていた少女との邂逅を思い出す。描いた絵の中にいたような感覚だった。
声も姿も風変わりでどこか金属的。人と違うその気配。足も本当の意味では地についてなどいなかったと思う。
そして終わりのほうに見せてくれた年齢相応のあの表情。姉妹と深い関わりのある、海の向こうより遠い国の住人。
拳児は今、少しだけ彼女が理解できていた。あの出来事は、自分の知らない世界での話であり、八雲だけが持つ特別な事情に起因するもの。
そんなラインの向こう側からの視点ではなくて己の経験にもあるものとして理解できていた。
そう、自分にもあったのだ。
それは――過去の自分が今の自分を否定してくる声。今、自分に聞こえてくるものと同じ。愛する彼女を送る最中、一年前に聞いた声とも同じ。
変わろうとする自分と元でありたい自分との喧嘩。そう認識することで拳児は自分の中で整理がついていた。
《追いかけてどうすんだ? まだ未練があるのかよ?》
「やかましいぞ!」
何を言われているのかは分かる。こうして天満の旅立つ空港へ向かっているのを滑稽だと笑いたいのだ。
自分がいようがいまいが結果は同じ。空っぽの背中で何をしにいくつもりかと言いたいのだ。
もう天満のためにできることはないと。
高速道路の外壁を越え、上から強い風が吹いてきた。バランスを崩されないように腰を低くしてハンドルをひねる。
(天満ちゃん……)
塚本天満。人生の分岐点とも言える、世界に一人だけの少女。中学時代から数えれば昨日で二度目の再会。そして今日、人生で二度目の別れ。
彼女がいないと生きられない。出会えずして今の自分はない。一体どれだけ救われたことか。繰り返すまでもなく、全てが肯定できる。
例え一生、彼女の隣……最も近い場所へ、見えない壁ができたとしても。感謝の気持ちは変わらない。
《分かった分かった。でももう用はねえだろ?》
「そうだな。写真も渡しちまったし、二人の邪魔するわけにもいかねえ」
《なら帰れよ。街へ出て暴れようぜ》
「だから後は……俺が乗り越えるだけだ。妹さんみたいにな」
八雲のように。拳児の中にはもう天満一人ではなかった。塚本八雲の姿があった。走る理由には天満のほかに八雲もあった。
彼女が今日見せてくれた雄図――それはこちらに向けられたものではないと知っている。
播磨拳児としてはただ聞いていただけ。けれど、しっかり届いてしまったから。
望んだわけでもない身の環境が辛い、でも頑張る――ではなくて。押し秘めた強い願いがあるのに、伝わらない周りが苦しい――ではなくて。
世界を悪者とせず、原因を自分の弱さにあると定め、だから今までの自分に勝って克服しようという誓い。それがしっかりと届いてしまったから。
播磨拳児という男は今まで多くの戦いに勝利してきた。世界に対する苛立ちを爆発させてきた。だが相手は全て他の誰かに限る。
気に入らない理由が手前にあると思うことはあっても、結局は目に映る誰かにぶつけてしまう。
それは一人の不良崩れだけに限らない。皆そうするのが当たり前。対人関係であってさえ。
例えば、好きな人が別の誰かを向いているから、その誰かに嫉妬するように。
なので八雲が少女に語った言葉は不思議だった。
誰かにではなく自分に向けたものであるから。
知らない言語のような新鮮さがありながら、知識ではなく身体と心で理解できてしまう。
先頭に立った感情は――ひどく嬉しい上向きのもの。
拳児は百戦錬磨を自負するが、己との争いだけはイメージさえ浮かばない。
克己心という言葉は知っているが、それは今までの欠点を克服するという意味だろうか。……大外れではなくても正解だとも思えない。
そもそも、自分との戦いとは、何をすればいいかがはっきりせず、前提となる勝敗の計り方さえがひどくあやふやなものなのだ。
他人に勝つよりも遥かに難しい。どれだけ困難な行路なのか彼女も分かっているだろうに。だが八雲は明確に言い切った。
《フカしただけじゃねえ? トートツにそんなヒトゴト言われても、知ったことじゃねーよ》
前方にバイクの集団があった。暴走族ではない。大学生のツーリングサークルか何か。加速して、初心な走りをしている彼らを一瞬で追い越す。
「危なっかしいなおい……耳が痛みやがる……で、何だっけ。トートツ? ……ああ、そーだな」
《おっ? 何だ、分かってるってか?》
――"こいつ"の言いたいことは分かる。
もし誰か、いや、それなりの時間を重ねた他人ではない誰かが突然に――本音らしき言葉の発散、自己の奮起を目の前でやってのけたとしよう。
その当人は極めて一生懸命で、抑えられない感情が爆発し、堪え切れなかった涙もあったとしよう。さながら今日の八雲のように。
見ればあっけにとられるだろうし意外性に驚くだろうし、それなりに応援したくもなれば、その人物への認識を改めたりもする。
だが――それだけだ。突然そんなことをされても説得力に欠ける。
具体的に今まで何をしてきたというのだ? ただ喚き立てるなら誰にだってできる。
今日この日までに何を乗り越えきたのだ? ないだろう。なら結局その場限りの言葉。
今まで見せてきたものをひっくり返し、なかったものをいきなり持ってきた都合のよさ。
できもしないことを勢いで口にするみっともない見栄、こうに違いないという弱い思い込み、ほんの一時の美点を至宝のように見せているだけ。
そんな疑いを感じてしまう。特に自分のようなアウトロー気取りで業の深い人間は。
"こいつ"はそう言っている。そして拳児はその意見に逆らおうとはしなかった。
「トートツなら、そうだな。ヒトゴトなら、な。けどそうじゃねえ」
《……》
けれど――八雲は違う。
そう言えるのはこの一年、彼女を見てきたから。そして見てきたものにあの少女が言っていたような臆病さは映らなかった。
大勢に背を向け忌み嫌い、本当に親しいごく少数にのみ感情を向ける小さきものは。
そうでなかったら、卒業式の日に泣くことなんてできはしない。
八雲の懸命な生き方を一年間目の当たりにしていた。
心に正直であろうと続けたその姿、彼女が持つ曲げようとも曲げられないものに支えられた日々の姿勢を自分は知っている。
だからこそ昨日、そして今日という日に……一年間の八雲の姿と、その内にあるありのままの感情を、はっきりと自分の中でかみ合わせることができた。
トンネルに入る。排気ガスを吸うのが嫌で口を結び息を止めた。明暗が夜になったように逆転し視界がやや狭くなるが、考え事には向いている。
――元々、誤った偏見がないはずの八雲をして一年。しかもそれだけが全てではないだろう。
まだまだ知らない彼女の形はあるに違いない。人を知るということが一体どれだけ大変で先の長いことなのか、思い知らされる。
それでも若い自分にとって一年とは決して短い単位ではない。そして八雲とは出会ってからを含めれば倍近くを数える。
おかげで、彼女の強さと志がその場限りでないと理解するには間に合ってくれた。
世界が偽物だらけに見える自分でも八雲には真実があるのがわかる。何故なら、自分と八雲は同じものを求めたから。
人生で初めて得た確たる目標が同じだった。何に代えても塚本天満の一番でありたい願い。そのためだけに全てを積み重ねてきた過去。そして、折れた経験。
叶わなかったという挫折。そこに起因した、決して死ねない毒が体の中に残り続けるような苦しみ。
日により、環境により、刻々と変化していくその味を自分と……そして八雲は知っている。
同じ辛さを知っているから理解できるのだ。学がなく相手を思いやるのが下手な自分にとって、共有すること以上の理解できる手段はない。
そして理解があるから、八雲個人にだけ通用するはずの言葉が、天満以外に許さなかったはずの播磨拳児という男の心の最重要部分まで届いてしまう。
感情に任せた殴り合いしか知らない自分にはそれが効きすぎるのだ。
八雲は自分を口下手だと考えているようだがとんでもない。未熟者と考えているようだが……いや。
日々精進。彼女が満足を得ることはこれからもないのだろう。
何を続ければいい、どこまで行けばいい、誰を追えばいい……そんな不良の思いつく範疇からは卒業している。一線を画しているのだ。
息が苦しくなってきたところでトンネルを抜けた。再び昼と夜とが逆転。新鮮な空気を目一杯吸い込む。
「あれだけの子を俺は知らねえ。それこそ、天満ちゃんだけと思ってたのにな」
折れることなくどこまで続くかの興味?
自分にはない、八雲だけの強さへの尊敬?
こちらも負けてはいられないという競争心?
本当に大丈夫かという、保護者としての不安?
「全部、なんだろうな……妹さんのことが今まで以上に気になって気になって……、要するに、惚れたわけだ俺は」
そしてそんな彼女がこれからどうなっていくのか傍で見ていたくて。
別れの瞬間に泣いてるのではと気になって。
こうして追いかけているのだ。
拳児は八雲を意識すると嬉しくなった。
二人でしか読むことのできない本がある興奮。
自分と彼女の間にしかない大切なものを守っていける感動。
世の人々が誰も知ることのできない秘密を一緒に見て行ける期待。
こう言うと誤解されるだろうが――八雲となら、歩いていけそうな気がするのだ。
天満への気持ちを濁らせないままに。大事に抱いて、失いかければ目の色を変えて必死にしがみつく程度を当然としながら。
八雲との恋は天満とのそれと違って、がむしゃらに追えるものではないから。
一度目の天満への愛、それを永遠に守りながら進む恋。天満との色褪せない思い出が二人分あり、一つ一つ大事に乗り越えていく恋。
天満を慕いつつも少しずつ、少しずつ……人が新しく別の誰かを好きになる時間の、五倍も十倍もかけて少しずつ。そんな恋。
拳児は、いつしか過去の自分の声が黙ってしまっていることに気付いた。
高速道路の出口が見える。もう一走りで着くだろう。天満はもういるだろうか。そして八雲は……?
*
広々とした空港で二人の姿を必死に求める。
チケットを求め並ぶ者。自分のように誰かを探している者。お土産を探す帰りの客に、これから出発を控えた旅人……いた。向かい合って立っている。
何か、一言二言話している様子。烏丸がいないのは病人なので既に搭乗しているためか。
そして時間はまだあるだろうに、天満から八雲の傍を離れていった。遠くから見ているせいかそれはあっけないようにも見える。
いや、案外あっさりした別れなのかもしれない。大事なやりとりは姉妹の間で既に終わっていたのだろう。
天満がゲートに消えると八雲は外へと走っていく。見つからないよう隠れて追うと、駐車場の離れで止まりそのまま飛行場の空を見上げていた。
……そっと、サングラスを外す。八雲とは、彼女が拳よりも小さく見える距離が開いている。これなら見つかることはない。
やがて飛行機が一機飛び立っていく。八雲が両手を挙げていたのであれに天満が乗っているのだと分かった。
ああもう本当に逢えない。遅すぎる実感が湧いてくる。ここまで来ておいて何もできないなど腑抜けの所業ではないだろうか。
「――て」
だが――。その時、風に混じってやってきたのは、この季節によく嗅ぐ香りだった。
それは万物に"あること"を伝える合図。
山の雪が陽光に燻され融けたことを。その流れ出た水を吸い、桜の花が咲いた事を。
清らかな水と香りを受けて、土の中から新たな命が芽生えたことを。自分が、播磨拳児が、命に満ちた春の最中にあることを。
そして拳児はすぐ近くに塚本天満がいる気がした。『世界の変化』その中に……春風の中に天満を感じたのだった。
彼女が去っても春は残る。また、やってくるのだ。そして自分は彼女を感じることができる……。
これでいいという納得が心に広がっていく。拳児はその場で一年前と同じものをたっぷり吸った。そして。手にあるサングラスを――……
投げた。
ぼとっ――。草の上に落ちた音。八雲が気付いた様子はない。
飛行機が消えても彼女は人形のように固まっていた。そのまま、飛行機雲が見えなくなるまで。じっとじっと、その先を――祈るように、見つめていた。
*
その後は失敗してしまった。八雲が何故か空港へ戻っていったために暫し彼女を見失ってしまったのだ。
あちこちを走り回って汗を掻き、ようやく見つけた後姿は公衆電話エリアの前。そこで彼女が家を出たときに持っていた鞄がないことに今更気付く。
駆け寄って肩に手を置いた。怖がったような反応をされるのが少し辛い。サングラスなしが見慣れないせいもあるだろうが。
自分が来ていた事をひどく驚いたようで、どうして顔を見せなかったのかと尋ねられる。
ごまかすこともできたかもしれない。けれど、嘘はつきたくなかった。
「……あのな妹さん――ホントは、試してみたかった。天満ちゃんを遠くからそっと見て、それだけで見送るなんて真似……俺にできるかどうかってな」
「え――」
「塚本天満っていう、誰でもない大事な一人の女の子との別れだ。それを妹さんみたいに受け入れられるか、どうかをな」
「そ……、そう……でしたか。…………あ、サングラスは……?」
「去年と一緒で外したくなった」
『――播磨さん』。彼女の自分を呼ぶ小さな呟きが届く。今のやりとりで、ここに来た意図は半分以上伝わってしまったことだろう。
「…分かりました。色々踏み入ったことをお尋ねして、申し訳ありません」
「おいおいそんな……じゃ、家に帰ろうぜ。慣れてるだろうけど、かっ飛ばすから油断せず捕まってくれよ」
「はい」
空の虚しい背中だと思っていた。送るもののいない、未練の溜まった、風に吹かれるだけの背中。
けれど今はそうではない。去年、天満を行かせるために乗せた場所に、今年は八雲を帰るために乗せる。ひどく不思議だと拳児は思う。
「――播磨さん」
「何だ!? もうちょい、でかい声で頼む! 止まって欲しいなら二回叩いてくれ!」
「お願いが一つあるのですが…」
「すまねえ、もっとでかい声で! 風があるんだ風が!」
「…お話があります。今夜、お時間頂けますか?」
「ん、時間!? よく聞こえねえ、でも妹さんならオッケーだぜ!」
「ありがとうございます……」
PAにも止まらず高速道路を矢神を目指し一直線に。それは去年の繰り返し。しかし拳児にとって、違いは二つ。
それは繰り返された天満との別れを、一年前の痛みを含め、乗り越えることができたこと。一生分愛したはずの――いや、好きだからこそできると知った。
そして、その背に新しき大事な人がいるということ。同じ辛さを超えられる、君とならきっと大丈夫だと。そう思える相手がいると――知ったのだった。
山がかすかに赤く色づいている。その一つ一つである花の芽ぶきは、溶け残った雪を押し上げて早く咲かんと欲していた。
世界の始まり。それが――春。
*
遠くで鳥の声がした。
こんな時間に鳥? そう疑うほどにすっかり辺りは夜の気配に満ちている。
むしろ自分達のほうが静寂を乱すならず者なのだろう。
「着いたぜー。妹さん立てるか?」
「は、はい。なんとか…」
じゃりっ。久しぶりの地面に八雲は少しふらつく。
拳児の後ろに乗せてもらうことはよく経験したが、これほど長時間世話になったことは過去にない。
「バイクはどうすっかな……返すのは、まあ明日にするとして」
「あ…では垣根の内側へ」
熱の残るタイヤが地面に擦れる。サイドスタンドが立ち、牛ほどの大きなボディが上下に揺れる。
とりあえず通行の邪魔にならない程度に隠れたので拳児と八雲はそれでよしとした。
「あ、おかえりなさい二人とも。お風呂湧いてますからどうですか?」
サラが姿を現す。ご一緒を希望? うふふ? お湯半分抜いておく?
そんなからかいの笑みを浮かべる彼女に、確かシスターだよなと拳児は首をひねった。
そして冷えているはずだからと八雲に風呂を先に促して自宅の敷居をまたぐ。台所のほうからは味噌の良い香りが漂ってきた。
・・・・・・
・・・・
・・
「そう…花井先輩は無事に見つかったんだ」
「うん。でも何で空太君もいたんだろうね。あ、荷物は先生が家に届けてくれたよ」
「ありがとう……あ、こんなにメール……返信しないと……」
「皆もう知ってるよ? 明日でもいいのに、マメだねー八雲」
八雲は発言を止めて、未読だらけのメールの整理に追われることとなった。
二人が話すテーブルに配膳されたのは鯖の味噌煮と麻婆豆腐――そこへ何故か赤飯と鯛のお刺身が一人分。
前者と後者、あまりに統一感のない組み合わせ。半分ほどに箸がつけられていた。それはつい今しがた、八雲が親友に感謝しながら味わった分。
それはそうと、後者のものは今朝の冷蔵庫の中身では用意できるはずの無いものである。
サラが急遽用意したとしか八雲には思えなかった。その意味は……
「冷めちゃうよ、八雲」
「う、うん……ごめんね。あと一通、部長に送ったら……あっ美樹から着信…もしもし?」
これはだめだとサラはラップの用意をすべきか思い悩む。
と、そこで風呂場のほうでガラス戸が開く音。そういえば先輩の着替えは用意したっけ。
サラは言われる前にやっておこうと立ち上がり親友を置いて後にした。
PiPiPiPiPi...
「妹さん電話だぜ、ほい」
「ありがとうございます。今度は……え、花井先輩?」
「……メガネが?」
拳児が汗を流し終わり風呂後の一杯(コーラである、念のため)を終えた頃。
蓋を開けるとほぼ同時、八雲は友人との電話を終えて、残った夕飯に手をつけていた。そしてそこへ更なる電話である。
花井春樹――今日来なかったのは彼なりの拘りだろう。そう思っていた八雲は彼からの着信だけは想像していなかったため、少しだけ大きな声をあげてしまった。
だが拳児はそんな八雲へ何故か内心を探るような目をしてしまう。
「もしもし……えっ? どうして……はい、はい……それで……」
「ん?」
「あれ?」
様子が少しおかしい。八雲は電話に大事そうに手を当てて、慎重に言葉を選んでいるのだ。
「す、すいません先輩、待ってください……播磨さん、少し外します。サラ、せっかくのご飯ごめんね」
「!? お、おい妹さー……」
「いいよいいよ。いってらっしゃーい。ふふ」
ととととと……。急ぎ足で八雲は二階、自分の部屋へと駆け上がって行った。
彼女にしては珍しい、まるで他の誰かの前ではできない話をしますというその挙動。
拳児は隠し事されている気がしてどうにも落ち着かない。それがビンの底に残るコーラ程度の気がかりならよかったのに。
「……別に、なあ」
馴染みない疎外感。戸惑いの唐突な出現をごまかすようにぽつり。
だがぶっきらぼうにせよ口にしてしまったために、普段より八雲に神経を寄せてしまっていると気付く。
塚本八雲と隠し事。二つの単語の結びつきが弱いせいか。動物や漫画も彼女には打ち明けてきた過去があるからか。いや違う――それは真実と距離がある。
「気になりますか?」
「…まあ、相手が相手だしな」
花井の性分を言い訳にしつつ、少しだけ本音を混ぜた拳児の返事。
八雲の消えた方向をちらちら見ているその態度は話し相手であるサラに対し無作法にも見える。
が、当のサラは気分をよくした様に笑顔を向けていた。そして何か迷っているらしい同居人を後押ししようと手を考える。
「なるほど、女の子として気になると」
「な! そ、そそそそんなこと言ったか? 口に出てたか? 別に…や、妹さんとメガネになにがあろーが」
硬派を気取っていた拳児の顔が潰れる。いつもこうだ。サラと話すとすぐにこちらのペースを崩されてしまう。
元々年下は弟達を思い出して苦手だった。八雲という大の例外に隠れて分かり辛いが。
「そうですか? じゃ私は立ち聞きに行ってきますね」
おぉい! そう叫びそうになる拳児の大口に、サラは素早くタオルを詰める。そして子猫を思わせる身の軽さで廊下へと出て行った。
ペッと吐き出し、拳児も後追う形で二階の八雲の部屋を目指す。二人分の足音を鋭敏な聴覚で捉えた伊織は、本当に最近は落ち着かないとコタツの上で片目を開いた。
「(結局来るんですね先輩。ずばりジェラシーですか?)」
「(はあ? 馬鹿いってんなよ、HAHAHA)」
ぺたり、ぺたり。話し声はもちろん、足音も息をする音も衣擦れさえも、忍びの如き静けさで闇に溶ける二人。ぺたり。妙に息が合っている。
壁の向こうからは八雲の声が確かにした。それはとても軽くて上向きの声。すこぶる楽しそうである。
……みしり。拳児の指先が触れている部分の壁が静かに軋んだ。
『本当ですか? 嬉しいです……是非、是非お願いします。今度の日曜日……はい大丈夫です、分かりました』
ドグシャアァッ! 八雲の嬉々とした声に、ヤモリのように張り付いていた拳児は派手な音を立てて崩れ落ちた。
サラは、あちゃあと額に手を当て、重いはずの拳児を担ぎそそくさと無音で階段を滑るように降りていく。
「? ……あれ、誰かいるの? ……すいません、何でもないです。それで先輩、はい――」
扉を開けて廊下をきょろきょろと左右確認。しかし誰の気配もない。八雲は気のせいかと、特に誰かを疑わず会話に戻っていった。
再び、一階。相当に八雲の発言が効いたらしい拳児はうろうろブツブツ落ち着きがない。面白おかしく観察しつつ、サラは話を掘り下げた。
「デートのお誘いですかね。花井先輩、八雲のことは振られてから静かになったと思ってたのに」
「……で、でえぇぇぇぇと?」
「男女がより親睦を深めるために会話などして同じ場所で同じ時間を過ごすこと。広義では同性、家族間でも――あ、"ひろよし"じゃなくてこうぎ、ですからね」
「んなことは聞いてねえ! 国語の先生かおめーは」
「花井先輩、もしかして玉砕覚悟…高校生活最後の思い出作りということで、がばっと攻めるつもりなのかもしれませんね。
『さあ僕の二年越しの猛りを受け止めてくれ。播磨の奴とはもうしたんだろう?』『そ、そんな…でもお世話になったのに何もお返しをできていない…』こんな風に」
「ふざけんなぁぁァ! 人の負い目に付け込みやがって、てめーの玩具じゃねーぞ!」
誰の味方なのか分からない(聞いたところでどうせしれっと八雲の味方と言うだろう。ところで中に気になる台詞があった気がする)忍者シスターは置いておく。
拳児はクールに努めた。今は状況整理が大事だから。さあ考えよう――八雲のあの反応は何なのだ? まず大前提、八雲は自分が好きなはずだ。
男の自惚れではなくて事実のはず。昨日確かに告白され、腕に抱き、今朝も情愛を覚え空港で見守った彼女と今で違いはないはずなのだ。
それが突然花井、しかもまもなく東京へ行ってしまう、周防という彼女候補もいる男に!?
彼女の性格からしてありえない。だがありえないといえば、昼間の幽霊との邂逅である。拳児の脳裏に蟲惑的な笑みが思い出された。
(ユーレイ? そういえば妹さん…あの子と一緒になったんだよな)
美術室では"大丈夫です、それよりも今は姉さんを"と言われて他の連中の質問攻めに遭いそれっきり。話している機会などなかった。
空港からの帰りはもちろん、家についてからも様子がおかしくなかったのでつい前まではそう気にもしていなかったが。
ただ――あの接触が八雲に何らかの精神的影響を及ぼしていたらどうだろう?
例えば、あの幽霊は、自分よりもあのメガネが好きで……八雲はその影響を強く受けてしまった。
泣かず飛ばず、ゾンビのようなしぶとさだけが売りの不良漫画家よりも、赤門くぐる弁護士の卵のほうが将来性はある。
実家もこちらはごく普通、あちらは道場経営で土地もある。地域住民からも慕われているらしい。
あの幽霊は子供のようで年長者の風格もあった。シビアな計画性、将来設計がない、とはいえないのではないか?
(………)
塚本天満に対して働かせていた、起承転結を無視するそのプラス思考。
対して、妹には何故かそれを極めてマイナスへと仕事させてしまう拳児。
「ニャー」
「伊織…ありがとな。慰めてくれるのか? そうそう今朝はサンキュな、おかげで俺も妹さんも天満ちゃんも……くっ」
伊織を見て拳児はあることを思い出し、更なるショックを受けた。
八雲が口にしていた『今度の日曜』――それは確か、自分と一緒に新作漫画のための取材をする予定が入っていたのだ。
それをドタキャンされる……しかも相手はあのメガネ。こっそりと、八雲の好みを調べ近く迫った誕生日のプレゼントに備えようと考えていたのに。
「今度の日曜、約束してたんだよな……」
「えぇー!? じゃあ八雲が播磨先輩にドタキャン? 次の日は首にキスマークあったりするんですかね、そんな漫画が最近ありましたけど」
ぐぐっ…。拳児は肩に来る重さに徐々に前傾姿勢をとり、額を床にぶつけそうになった。
「うひゃあ……先輩が八雲にそんなゾッコンだったなんて。まあ、大して好きでもないのに私から奪ったあげく
破瓜の跡が残るシーツだけを残し人に洗濯させたというのなら、白頭巾被って黒杭とモーニングスターを持ち出していますが。何にせよ先輩、これは重症ですね」
「ジューショー? ああ、ラーメンに入れる奴か。イーリー飯店で今度おまけしてくれよ」
「チャーシュー。『シ』と『ー』しか共通点がありませんよ。重症とはこの場合、花井先輩に嫉妬してがっくりって事です。おまけはスタンプ集めてからにしてください」
嫉妬? 馬鹿な、あのメガネに?? 俺が? 元々競い合うことはあったがそれは誤解が殆どの原因。実際に三年生になってからは殴り合いも数える程度。
過去の全て含め例外はあれど、多くが最初に一言何か告げておけば回避できた争いのはず。
そう、嫉妬とはあのメガネにこそふさわしい――待て。
今の自分は正に嫉妬している状態らしい。ということは……
「そうか…俺が妹さんのこと」
「? 八雲のことがどうかしました?」
「……いや、悪い…………なあ、俺もう寝ていいか? 洗濯や皿洗いは明日やるからよ、朝飯の準備だけはすまねえが頼む」
「ありゃ……まあいいですよ。おやすみなさい」
「ああ。一人で取材できるように準備もしとかねえと……」
拳児が立ち上がったのには理由があった。突然頭が冷めたのである。
花井春樹に嫉妬、あるいは今までにない対抗意識を燃やすということは、あの男が慕う八雲を自分も…ということになる。
何を今更だ。昨日…そう、好きになった。今日、ますます好きになった。彼女となら――考えた。
だが考えただけだ。手を出したくせに、だ。本当に八雲を選ぶと口に出していない。
いや言ったか? それでも八雲は知っているのだ。播磨拳児の卑劣な内面を。
そんな男に資格があるか? そう思ったら拳児は頭が冷めてしまった。
眠る前の準備を終え、二階の仕事場に上がる最中。出てきた八雲とすれ違う。
話しかけてきた彼女の表情は楽しみでたまらないといった風に綻んでいた。だが今はそれを見るのが辛い。
「あ、播磨さん……あの」
「悪いな妹さん。俺もう寝るわ…デート、頑張りな。取材のほうは、一人でやっからよ……」
「え?」
花井春樹とは拳を交えた仲だ。認めている。八雲を自分とは違った、自分では届かぬ面で支えてきたと知っている。それを認めるくらいの度量はあるつもりだ。
だから今は頑張れと言った。心配は八雲の体のことと(無責任でいるわけにもいかない)プレゼントをどうしようかということくらいか。
関係を持ってしまったことは友人達のネットワークで知られてるかもしれないが、相手はそれすらも受け入れる器のある男。
八雲が嫌われることはあるまい。浮気されたような気分になっている自分がみっともないと拳児は思った。
*
「……サラ? あの、播磨さん…なんだか様子が」
「うーん。まあ個人的には八雲がお姉さんや沢近先輩との距離に悩んだみたく、播磨先輩にもちょーっと考えてもらえる偶然の機会かなと思ったんだけど」
「?」
「とりあえず、食べちゃって。そして何の電話だったかを教えてもらっていい? まあ、大体想像つくけれど」
「うん。サラと…播磨さんも誘おうと思ってたから……」
「Wデート。複数の男女(同数が理想とされる)がより親睦を深めるために会話などして同じ場所で同じ時間を過ごすこと。集団心理による発展しすぎに注意」
「あの…デート…って? さっきから二人の話が見えないよ……?」
「さあ? で、今度の日曜日が何だって?」
「うん――あ。 ……ねえサラ? 何で今度の日曜日って知ってるの?」
「は! ……八雲、無表情が怖いよ〜」
「……」
「伊織、助けて〜」
*
今朝方ぶりの仕事場に入る。棚が不自然に傾いていた。それはあの写真を急いで取り出した痕跡。泥棒を連想するより先に思い出す。
今日渡したのは、昨日の夜を経た結果、あれはやはり二人に渡し姉妹間で判断を任せるべきと考えるようになったから。
あの幽霊の件もあり、持ちだしてよかった、中々気が利いたのではないかと手前味噌ながら思う。
二人の間でどんな感想、やり取りがあったのかは知らないが……姉妹のためになっただろうか? それならいい。
拳児は仕事場の一角に設けられた自分の寝床(八雲は八雲の、サラは元天満の部屋を使っている。自分は一応一階だが面倒なのでここで寝ることが多い)
に身を固め、二枚の毛布を挟み寒さに備えた。……シーツにいい香りがする。サラの頑張りに感謝するのを最後に、拳児は長い一日を終えようとしていた。
・・・・
・・
静かだった。この部屋だけは少々壁が厚い造りになってるのは知っているし、今更だが。
今は何時だろう。こんなに寝つきが悪かったか? 疲れていたと思っていたのにウトウトすらできない。歯磨きを丁寧にやりすぎたせいだろうか。
――ギシッ。
階段をあがる音。八雲だろうか。サラである可能性もあるはずなのにどうして最初に出てくるのが八雲なのか、拳児は考えないことにする。
コンコン。木目のある木の扉が叩かれた。いつもの音だった。普段なら、一呼吸の後にどうですかと調子を聞いてくる言葉が来る合図。ごくり、喉が鳴る。
――カチャ。仕事場の鍵は、面倒なのでいつも放っておいてある。拳児は耳だけに意識を集中させた。
「播磨さん…もう、お休みですか?」
「……」
「あの……」
「……」
「……失礼、しました。おやすみなさい……」
とっさの言葉が出なかった。声は期待していた彼女のものなのに。
気心を知った仲。時にはそれは…と見られるような頼みごともしてしまう彼女に話しかけられなかったのだ。
自分と八雲の間に何か壁が出来てしまっている? 原因は色々あるのだろうが、大本をたどれば昨晩の行為も無関係ではないだろう。
今にして思えば今朝の目覚めのときもそうだった。それからは暫く息切れするようなスケジュールだったので改めて意識はしなかったが。
ほんのささいなすれ違い……いや、自分の思い込みか? それならいいのだが。
けれど、自分と八雲の向かい合う間に、薄い薄い氷の板のようなものが間にはさまっている気がしてならない。
叩けば割れるだろうが代償として破片で傷ついてしまいそうな障壁が。だが氷なら放っておけば溶けるだろう……明日の朝まで待てば、それで。
だから今は寝るべきなのだ――。
・・・・・・
・・・・
・・
コンコン。部屋の扉がノックされた。中は暗く、逃げ場ない空気の流れは安定していて、特に動くものもない。時刻は丁度、日が変わる数分前。
「……伊織?」
いや、動くものはいる。もそもぞと部屋の角で膨らんだ羽毛布団から手が生えた。掻き分けて、中から影が立つ。
そして愛猫が専用の揺り籠で眠っているのを確認すると、すっと扉の前へ動く。
「サラ、どうし――あ…」
「悪いな、寝るところだったか? けど妹さんと約束したからな」
八雲の部屋を訪れたのは拳児だった。カチューシャにサングラスのいつものスタイル。だが寝ると言ったはずの彼が何故ここにいるのか。
それは――思い出したから。空港からの帰りの際、時間を下さいと言われたことを。そして今は丁度日が変わる数分前。拳児はぎりぎりで間に合っていた。
「あ…は、はい! えっと…」
突然のことに迷っているらしい八雲。どこで話をすべきか。
もう寝ているサラや伊織の邪魔にならないよう。適切な場所を求め視線が部屋のあちこちに向く。
「俺の仕事場でいいか? 暖房つけといた。それに壁厚いし、話しても邪魔にもならないだろ」
「あ……わ、分かりました……」
――――――――
今日はここまで。最後の整理をしてやっと…Hへ。
ホント、お待たせして申し訳ないのですがもうしばらくスレを利用させてもらいます
それにしても播磨とサラは結構いいコンビなんじゃないかと。
乙です。エロシーンでの幽子はどうなるのだろう
無言で引っ込んでるんだろうか
週末といいつつ遅れてすいません、今回でやっとエロ突入ですよ、と。
エロいかどうかは別として・・ごめんなさい
八雲が仕事場の扉を開いてきたのは暫く後になってからだった。
その間に何をしてたのか、少なくとも着替えではないらしい。格好は風呂上り後と変わっていない。
「座ってくれ」
「はい」
髪に櫛を通してきたのだと分かったのは、彼女が椅子に座る時に黒髪が綺麗に揃って揺れたのを見たからだった。
ここへ誘ったのは自分だが元々話があると言ったのは八雲である。
だから拳児は作業椅子に座って言葉を待った。茶を用意しておかなかった落ち度を悔いながら。
立ち上がろうとする自分におかまいなく、と制してくる彼女がその背を正す。
「今日は、色々とありがとうございました。そして……すいませんでした。私の事情に巻き込んで……ご迷惑をおかけして」
「いや…妹さんのせいじゃねえよ。そりゃまあ、びっくりしたけどよ」
こうだとはっきり八雲は言わないが、彼女の事情とはあの少女の件以外にない。
保留になっていた部分をどれだけ教えてくれるのか。じっと続きを待つ。
「あの子は……その、上手く言えないのですが……私、なんです」
「そう言ってたな。で、元に戻ったと。体とか頭とかは何ともないか? 乗っ取られそうとか」
「それは全然……頭の中であの子の声がするくらいなので平気です」
「……全然平気じゃねえだろ、それ。憑かれてるんじゃね?」
「あ、怒ってます……失礼なことを、って」
幽霊には幽霊の人格があって消えないのだろう。
自分を奪われるのも友人が消えるのも嫌だった八雲が選んだこと。
しかし一対一で人と話せないというのは本人も大変なのではないだろうか。
「これから大変だな……あ、でもテストのときとか二人で勉強すりゃ便利かもな」
「そういうことに……協力するつもりは、ないそうです」
「ケチだなそりゃ。家賃タダってのはどーよ」
「あ……また怒ってます」
「せめて、妹さんに言わせるんじゃなくて自分で言えよ……」
「え? うん……時間が経って、薄くなってる……だから見えないし聞こえない? ……うん、うん……私と播磨さんの繋がり……えっ……///」
何故か頬を赤くしてそっぽ向かれてしまう。この謎の挙動は一体。
……こんな調子で、他の人間と会話するときやっていけるのだろうか。
事情を知る自分はともかく他は……。独り言の多い奇人扱いされないか、拳児は八雲のこれからを思いやって少しだけ顔を曇らせる。
さしあたってサラには話すべきか黙っているべきか。
「とりあえず、もう疲れたから眠るそうです……」
「お、おう。ユーレイも寝るんだな」
むしろこちらが疲れた気分。だが八雲が言うのは少女も大変らしい。
あまり負担にならないよう、頂く栄養(人間のそれとは違うのだろうが)はぎりぎりを保っているとか。
「ま……まあ、何かあったら言ってくれ。協力できることがあるなら協力するからよ。わかった、話ってのは―」
「えっと、すいません。これが本題では……ないんです」
「……そっか」
すっと、八雲の表情が引き締められる。拳児もそれとなく合わせた。
部屋に立ち込める温かな空気がどこかひんやりとしている。昨日と同じく、大事な話をされる場面でのピリッとした雰囲気。
喧嘩に立会い拳を交わす寸前の刺々しさではなく、大切な告白を控えた……例えば、恋人の父親の正面に立った時。
結婚式にて一歩一歩近づいてくる伴侶を見る時。こんな過不足のない丁度良い緊張があるのだろう。
「あの写真……私達、家族の写真……」
口調はいつもの八雲のものだった。物腰は穏やかであるし咎めるような含みはない。
ただ真剣なだけ。それが拳児にとって剣先を突きつけられたような鋭さである。言葉の刃。真っ白なその切っ先を握るのは八雲。
「どうして、播磨さんが持っていたんですか?」
八雲の表情は真実を求めていた。物分りがよく、器が広くて、多少のことでは動じない彼女が、濁した言葉を拒絶している。
少し前の穏やかさがもう、ない。あの写真が持つ意味を理解しているのか――そう言われている気がした。
「……」
無言で部屋の隅を指差す拳児。八雲からも棚の位置がずれているのは分かるだろう。長年不動であった成果として、一部壁が変色していた。
「そう……でしたか……」
すっと、八雲は再度背筋を正してピンと張った。
両手を膝の上に乗せて卒業式での生徒達と同じ格好を取っている。
「前に偶然見つけてな。今日が丁度いい機会だって……っ……妹、さん?」
「はい?」
拳児は喉を詰まらせてしまった。
八雲が目の周りを湿していたから。
座したまま、整った顔立ちのまま。泣いていたから。
何でもないのに突然涙腺にひびが入ってしまった。涙はその副産物。
本気で拳児はそれを考えた。ぬぐう動作さえ見せない今の八雲の様子からは、そうとしか言い様がないものだったから。
――つっ。頬を伝う証が幻でないことを教えてくれた。だが八雲の花の唇は何も喋らない。
(泣いてる…よな?)
感情が積もりに積もり、もう我慢できなくなった時に起きるもの。泣く――とは、拳児にとってそんな意味がある。
辛い事・悲しい事での涙はこちらも気が重くなるし、喜びの涙はただ見るだけでも気分の悪いものではない。
自分のせいで泣かせたら嫌だし、自分のために泣いてくれるのは嬉しい。
一番好きなのは、今日見た八雲のような涙だ。
自らが招いた弱さを認め――泣きたくなる辛さ、無力感、やるせなさ、無念や悔しさ――それを受け入れ。
痛みだけは恐れず、受け止めた上で自分の力で乗り越えようとする……涙の後にある姿勢。それを見せてもらえたらもう言うことはない。
昨日も確かそんなことを思った。誰もが挫折しておかしくないことを乗り越えていく姿が見たいと。
図らずもそれは早々に実現したことになる。
だが……今はどうなのだろう。誰しもがそうしてしまうように、泣いて溜まったものをぶつけてしまうのか。
押さえ込んで克服しようとして、それでも失敗し泣いてしまうのか。
拳児に判断がつかないのは、八雲の様子は上記の概念からまるで一致しないためである。
石の彫像が何かの理由で涙を流せば、変わらぬ能面とのアンバランスさが引き立つ。今の八雲はそれに近い。
泣く、という行動の影響が顔のどこにもないのだ。顔の歪みや体の細かな揺れ。息苦しい嗚咽も、鼻のすする音さえも。
その橙の瞳さえ見なければ泣いているとはとても思えなかっただろう。
「え……? あ、す、すいません……」
自分の流しているものに今気付いたとしか思えない返事。少し遅れ気味かもしれないが、声も普段とそう差がない。
あまりにも自然すぎる涙だったのは、泣くことがもう当然で慣れすぎているから……そんな、持ち出すべきではない嫌な想像をしてしまう。
「ごめんなさい……少し、時間を頂けませんか」
顔を拭う八雲。その姿に拳児は話が悪い方向に向かっているのを感じた。
触れてはいけない大切なものに、無造作に、無思慮で、無意味な手垢をつけた。
そんな予感を畏怖しながら、向き合い方も分からないままに八雲が落ち着くまでの時間を待つ。
カッチ――。カッチ――。それから暫くの間、時計が最も大きな音を立てていた。
涙が止まっても、八雲は目を掌で覆って黙ったままだった。前日、告白を受けた時と同じ。深海で閉ざす貝のように。岩の中で眠り続ける化石のように。
時々、仕事椅子がぎしりと軋む。拳児はできるだけ音は立てたくなかった。急かしているようで嫌だから。なので身体を動かすのも極力止める。
暖房のうなり声がうるさい。台所にある石油ストーブのほうがこの場には合っているようだ。
外の窓が突風を受けガタガタ震える。静寂とは来て欲しい時に来ないものらしい。
ただ、どんな音がしても気を散らされることなく八雲への凝視は続く。
(……)
自分が何か言うべきなのだろうか。あの写真が八雲と、そして天満にどんな意味があったのか教えてくれと。
それとも聞くのを止めるべきなのだろうか。おいそれと話せないならいい、無理に知らせなくても良いと。
又は、八雲が話せる範囲を決めて伝えてくれるのを待つべきなのだろうか。姉妹の過去に、何があったのかを。
迷ってる間に彼女が口が開く。三番目らしい。幸い、瞬間的に腹を決めることができた。
「――私達の両親は」
今が夜でよかったと拳児は思った。夜の帳には一日の中でも特別な瞬間がある。
他の者には知られてはいけない話をするための。
魂と誇りをかけて取り扱わねばいけない話をするための。
この世の禁忌を前にして、拳児は八雲の瞳の中にいる自分を見つめる。それが一瞬、うるっと波紋に歪むのが分かった。
「……」
八雲の言葉が一瞬切れる。拳児は息をせず待った。長い時間であればそれは生命にも関わるだろう。
だがこの時に胸を熱いもので一杯に満たされ息が出来ないのは、きっと自分ではなく――。
「私と、姉さんの目の前で……亡くなりました」
「……」
鈍色の心の泉に波紋が立つ。強く広がり――やがて収まる。
そうか。そうだったのか。なんとなくそう思っていた。やっぱり。言葉が川のごとく流れて消え、また流れていく。
家庭の状況や昨日の天満の発言、幽霊の少女の言葉、断片的な情報からも存命ではないのだろうなと思っていたから。
生きているのならもう少し何かあるだろうから。何かの事情で家に来れないにしても。
「寒い日でした……本当に寒い日。だけど、声がしたので、私も姉さんも平気でした。
だから最初は、気のせいだと思いました。少しずつ、少しずつ……励ましてくれる声が小さくなっていくことが。
けれどてのひらにあるぬくもりが……冷たくなっていって。すごく子供だったのに……わかってしまったんです。
もうこれっきり……二度と、一緒にいることは、できなくなるんだ……って」
結果から始まる物語。八雲は下を俯いていた。人と話す時彼女はちゃんと相手の目を見るのに。
話相手は播磨拳児であるが、同時に八雲自身でもあるのだろう。隠されていた傷痕は表面だけでもとても痛々しく見えてしまう。
「やがて……泣いても、叫んでも……お願いしても……一度だってそんなことは、なかったのに……」
話からするに、病気ではなくて事故か事件……だろうか。それでも最期まで父親と母親は大事な子供達を護ったのだろう。
塚本天満を護った。塚本八雲を護った。その命に代えて。こして二人は反れることなく今も陽の下で生きている。
名前さえ知らない、"存在していた"というだけの人間に頭を下げたくなる経験は拳児にとって初めてだった。
「それ以来、二人で生きようと決めて…実際、そうでした。もちろん多くの人達に手厚く助けて頂きましたが…それでも、どこか離れている感じがして。
本当に心許せるのは姉さんだけ。そう思って戻らない日の甘美を懐かしみ続けた……そんなある日です。写真を全て、捨てたのは。
……馬鹿なことをした。今ではそう思います」
子供は時々信じられないことをする。大人からすれば馬鹿げたことを、分かりきっているのにやってしまう。
拳児にも失敗の経験はあった。最たるものは、自分の起こした喧嘩で両親が多くの人に頭を下げた事件だろう。
この時拳児は既にしまった、と形になった一つの失敗を持っていた。八雲の転がす言葉がどんどん早くなる。
「……その頃はまだ子供すぎて。過去の思い出、そこにある喜びより……現実のほうが……ずっとずっと、辛かった。
思い出はちっとも温かくない。笑ってくれることもない……撫でてくれることもない。見れば見るほど空しさの穴がどうしようもなく深くなるんです。
見ていても何も変わらない。胸の穴は埋められない程に大きくなるばかり。……なら、いっそ。
そう思い、そして……取り返しがつかなくなってから、後悔しました」
「そっか……」
後悔が、拳児の胸に波のように打ち寄せて端から徐々に削っていく。知らなかったとはいえ、もう一歩、裏を汲み取ってやることができれば。
何故家にあれ一枚しかなかったのか。意味は分からずとも、自分で納得しようとせずサラや絃子に相談するなど別の方法もあったのではないか。
「なのであの写真を見たとき……。なくしたものが……実は、そうではなかったと知って。――まだあったんだって。だから、まるで、まるで――」
そう、まるで――。続きは聞かなくても分かる。
「何度も願った事がやっと叶った……本当に、生き返ってくれた……! そんな気が、しま……し、た……っ」
それは八雲の意思であり、また、天満も同じ気持ちだったのだろう。
姉妹の清々しいはずの門出の日に、足を止めざるを得ない過去を暴き想起させる。抱いた悔やみの重さにすぐには動けなかった。
ぽたぽたぽた。果物を絞ったように、八雲の膝に染みができていく。
それを見てようやく――立ち上がって傍にあったティッシュで顔をぬぐってやることができた。
「……悪かった。辛いこと思い出させるつもりじゃなかった。ただ……いつまでも黙ってるのはどうかと思って……いい機会だと考えたんだ」
言葉なく、八雲はこくこくとひたすらに顔を手で隠して頷いていた。
責めるつもりはない。心遣いに感謝している。そう言っているのが分かる。
それで一瞬であってもほっとしてしまう自分が拳児は悔しかった。
「わたし……っ……!」
八雲の大きく開かれた口が上下にわななく。
部屋の中は暖房が効いていて、むしろ効きすぎているほどで、一枚脱いでもいいほどに暖かいのに。その声はどこか時間さえ凍らせる冷たさがあった。
押し絞ったそれは既に意味のある声ではない。だから本来言おうとしていた事はどうとでも解釈できるはずなのに。
心を見たように拳児には届いた。八雲のあの写真に込められた本音――
――本当は……あの写真が、欲しかった。
・・・・・・
・・・・
・・
溶けたガラスで作った碗が、もう二度と同じものができないように。
血の繋がりに代わりなどない。何人であっても完全に果たすことは出来ない。
時間と共に隠しきれぬいびつさが際立ち、やがて全てを割ってしまう。
けれど絆ある家族として。この一年を一緒にいた男として。自分の温もりではだめなのだろうか。
八雲の頭を手でそっと撫でてやると――反射的に見つめられる。そこには感情があった。よかった、彼女はまだ自分を使い切っていない。
「ごめんなさい……こんな姿を、見せたかったわけではなくて……」
「分かってる。けど話してくれてありがとな。…悪かった。俺があんなことしたばっかりに」
「……いえ。あの子と私、姉さんの問題に巻き込んでしまいましたから。せめて少しでも伝えないといけない……そう、思ったんです」
話。そう――自分もそうだ。今日は朝から多くのことがあったのに、まだきちんと話せていない。今日、八雲にどんな気持ちを抱いたか。
少女に襲われ諦めかけた時。八雲がいてくれたから頑張れた。天満への気持ちを含め愛してくれた塚本八雲という子がいたから。
声を聞き、名前を知り、思い出すこともできた。そして世界を受け入れ自分を克服しようとするその姿は輝いていた。
空港へ向かう時、過去の自分を相手にして、八雲のことばかり考えたことも話せていない。
別の男へ幸せそうな表情を向けられて、不安と疑惑を募らせ幼い執着を抱いてしまっていることも。
一つ一つはとても長くて、ありふれた言葉でしか飾ることができず、伝えられない。
全部を一度に……たった一言で告げられる魔法があればいいのに。こうして頭に触れることで少しは伝わってくれるのだろうか。
背負うだけが立派じゃない。本人は迷惑になると思っても、相手には喜びを与えることもある。それを返してやることだって……。
言葉は色々と腹底から出てきては喉を通らずに消えていく。
「……すいません。もう一つ、謝らせてください。……泣いていますが、少しすっきりしてしまいました……姉さん以外の誰かに、話してみて……」
「いや、いいぜ。俺こそこう言っていいのか……嬉しいからよ。妹さんの大事なことを知ることができたからな」
「……そう言われると、少し……報われました。もう、大丈夫ですから」
顔を上げる八雲の涙は止まっていた。
目の周りが蛍光灯の光がよく反射しているが。多少強引なしなりはあるが、無理に彩った声ではあるが――。
「よっしゃ、もっと楽しい話しようぜ。そんでこれからバンバン写真撮って、元気な妹さんの姿を見せてやろうぜ。な?」
明るく振舞おうとしている。
偽りであっても、繰り返すうちに本当に心からの喜びとなるように。
拳児はその意欲に乗ることにした。そう――自分も八雲と辛い話はしたくない。もっと楽しい話がいい。
一番最近にあった嬉しそうな八雲といえば……心当たりがあるではないか。
「ほら、今度の日曜とかメガネとデー、どっか……行くんだろ? 楽しそうにしてたよな。きっと絶好のシャッターチャンスが――」
「ふふっ」
「……い?」
鼻声混じりに笑われる。デートという単語をどもって言い直したのが聞こえたのだろうか。
それとも強引に明るい話題に持っていこうとしているのが胡散臭くみえたのだろうか。
「違います。サラから話を聞きました。すいません……誤解されてしまいましたね」
「誤解……むぐっ?」
すっと、もういいというように、何か言う前に口元を彼女の掌で塞がれた。触れられていることにドキッと胸が脈打つ。
興奮から逃げるようにこの行動の意味を考え、指の腹の柔らかさを唇で感じながら理解した。
「ふがふが?」
「……はい」
会話になっていないが、伝わる。――暗い話はここまでにして、楽しい話をしよう。自分のつい今しがたの発言と同じ趣旨。
姉さんのように前を向いて。そんな気持ちが込められていた。指が離れる。
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名無しさん@ピンキー:2010/02/08(月) 14:13:13 ID:nixAS0ND
「ご、誤解!? いや、俺はそりゃ…元から妹さんがそんなはずねーと、思ってるんだ……ぜ?」
「……最後、声が上ずっています……」
拳児は下手な慰めもここまでにして、次のテーマに話をあわせることにした。そうだ、八雲はいつまでも辛い過去を引きずって同情を誘いたかったのではない。
ただ知って欲しかっただけ。知れば同情してしまうのは当然だからずるい気もするが……そもそもが自分が踏み入りすぎたから。
「んじゃ……どーいうことなんだ?」
「あの、まず電話の相手ですが……花井先輩では、ないんです。電話は先輩のものでしたが……周防先輩でした」
「は!? けどよ――あ、周防がメガネの携帯使ってか?」
「はい……」
話はこうだ。
矢神動物園の人気者はキリンのピョートルとレッサーパンダの空太に二分される。
拳児と八雲もある時は二人で、ある時は大勢でよく出かけているが、主な相手はもっぱらピョートルだった。
理由は空太が拳児経由の動物ではなく、元来の気性の激しさもあってあまり懐いてはくれなかったためである。
八雲としてはもっと仲良くなりたいと常々考えていた。だが手を振ってみても頓着ない反応。
こちらから無視したことはなかったが、どうしても他の皆と比較して交流期間は短くなってしまう。
だがそんな空太が懐く例外が(その巨体から襲われているようにしか見えないが)、花井春樹。
何故、とそれを知る全員が首を傾げるも、きっと自分らにはわからない理由があるのだろうと納得している。
そしてそんな空太にもつがいができていた。そして赤ん坊が生まれたのが何と今日だという。
落ち着かない空太をなだめるためにも、彼は縁ある強敵の記念日に立ち会っていたとか。ちなみに一般人が立ち会うのは極めて少例。
無事生まれた赤ちゃんの一般公開はまだ先であるが、動物園になじみある八雲達には特別に見せてくれるよう、取り計らってくれたのだ。
それを連絡してきたのが周防美琴。最初花井に頼まれるも自分でいいのか悩んでしまい、それを見抜いた花井が自分の電話でコールして押し付けてきたらしい。
「で、当日、メガネや周防はもう東京へ行っちまってるわけか」
拳児は――信頼置ける強敵を疑ったことを強く恥じた。
「はい……自分達の分もサラ達と楽しんできてくれって……だから、デートではないんです。
そもそも……播磨さんとの約束を私が反故にする……そんな風に思われるのは……少し辛い、です」
「う」
確かに。場所が矢神動物園なら話は違う。自分達の漫画の取材とは――そもそも次に考えているのは動物の漫画だった。従って取材先も限られる。
いつもの動物園ならその場所としても申し分ない。約束は守られるのだ。当然だ、八雲はそんな子ではない。
知っていたはずなのに妙な方向へと考えてしまったのは何故だろう。
「そもそもサラの奴が……っと、なんでもねえ」
ぶんぶんと拳児は頭を振った。人のせいにするのはみっともない。
「悪い、全部俺の思い込みだ……すまねえ」
「別に……怒ってません。……好き…な、人に……そう思われる辛さ。それは私より、播磨さんが……」
「――!」
言葉を呑む。拳児がそうしたのは、天満にされた過去の誤解を指摘されたからではない。
今の会話の中に、に大事な言葉があったのを、聞き逃さなかったから。
"好き"という言葉を。異性に対する意味で八雲が口にしたのを、拳児は聞き逃さなかった。
(好きって……)
ためらいがあり、自然と出てくるにはまだ難しいようだが、確かに。
その相手を前にして―ー。相手とはもちろん自分、播磨拳児のことである。
彼女に好かれていることが確認できたのが、嬉しかった。寝る前にあったはずのもやもやとした悪い感情は既に無い。
悪夢から覚めた瞬間よりも良い気分。なので、つい。
「え…きゃっ!?」
ぎゅっと。前に飛び腕に中に八雲を抱いてしまう。それは嬉しさの体現としての抱擁。
スポーツでのハイタッチや、両手を握ってぶんぶん振るのと意味は変わらない。
ただ恋愛感情と分けられるほど器用な人間ではないから、どちらでもなくて身体を抱いてしまうのを選んでしまう。
「播磨、さん……」
ぎゅっと。今度は八雲から腕を回される。喜ぶ自分に合わせるように。
先程まで泣いていた女の子に何をするのかと、拒絶の可能性も少ししたのは杞憂だった。
(……)
衣服を通して、互いの体温が少しずつ上がっていく。知られる緊張、知る興奮に高まりが止まらず頬が上気していく。
「妹さん。いや、八雲?」
「……無理に、変えなくてもいいと思います……」
「そっか……んじゃ、妹さん」
「はい……」
「……悪い。せっかくの心意気を無駄にしちまうかもしれねえことを言う」
彼女は――こうしているだけでも、本当は辛いのではないだろうか。塚本天満を好きな播磨拳児を受け入れて、それでも愛することは。
天満に向いた拳児という男の気持ちを強く受け止め、天満と離れることにより起きる全てを理解し乗り越えることができ。
おまけに、いつか気持ちが薄れるのを期待するどころか、徹底的に拘らなくてはいけない。
拳児は、八雲と顔一つ分だけの間をとり、視界に彼女の顔だけが入るようにする。
表情から立ち上る体温が手で掬えそうなほどに熱く強い。橙に近い瞳を見つめ重々しく息を吸い、そして――。
「……俺は、天満ちゃんがいないと世界が焼いた骨みてえな灰色に見えた男だ。けど妹さんは天満ちゃんがいなくても頑張れる、周りにいい奴らはいるって言う」
「はい。言いました」
「それは俺も分かってる。けど……やっぱ違うんだ。誰と話をしても、今まで妹さんといた時でさえ、天満ちゃんとは違った。
違うのは天満ちゃんが特別だからだ。単に恋の対象ってだけじゃない。あの子は俺の太陽で……他の誰とも住む世界が違う。神様や仏様と一緒。他にいねえ」
「はい。私も、私の中の姉さんの場所は――他の誰にも譲れないと思います」
「だよな。俺だって、一生心からあの子の光が消えることはねえ。けど、それは妹さんと同じ理由でだと思うか? もしかすると……」
もしかすると――妹さんと違って、恋を引きずり続けてるせいなのかもしれねえ。だったら……俺は最低だ
拳児の言葉はそう続くはずだった。けれどそれは八雲により止められた。出掛かった言葉の続きを読んだように、彼女が強く拳児を抱擁したから。
言わないで、という意味ではなく。大丈夫です、という意味だと拳児は受け取れた。
彼女の体温は先程よりも熱い。もう暖房などいらないと思うまでに。
「……私も、姉さんがたまらなく恋しくなる時はありますから。播磨さんがいても、サラがいても……姉さんじゃないと。そう思う時が」
八雲がそこで言葉を切る。それは意識しないうちに拳児への皮肉じみが言い方になってしまったような気がしたからだった。
彼にも言えることではなく、自身の弱さを話すべきだと意を決する。
「……あのとき。私自身が狙われていると知ったとき……心の底から怖くなりました。あの子に、ここまでなんだって言われて……とてもとても、怖かった……。
そして私は……やってはいけないことをしてしました。抗うことも諦めて、言葉を向けるのも諦めて……姉さんに助けて欲しいと視線で訴えたんです……!」
静かに叫ばれているのを拳児は耳の傍ではっきり聞いた。
懺悔のように聞こえる告白だが、拳児はそれが悪いことだと思わない。むしろ逆である。
「もう、重荷にはならないって……決めていたのに! たった、一日会っただけで……」
「それは……結局は妹さんが何とかしたじゃねえか」
「それだけでは……だめ、なんです……」
「……」
ああ、塚本八雲という少女らしいな、と思えてしまった。
あれは仕方ないと多くが自己正当化しそうな場面で。自分に本当に非がなかったか見つめることができる人間を拳児は知らない。
しかもその言葉に、まさかという意外性や説得力の欠如はない。
その理由は普段から彼女がその行動を選ぶにふさわしい姿を見せていたから。
この子は逃げてなどいないのだ。こうして氷雨の中も自分を真っ直ぐ立てている。
少し考え方が固い気もするがそれが性分なのだろう。
「でかくなったなあ、妹さん」
「え……?」
拳児は背の高さを測るように掌で八雲の頭を撫でた。
「あー悪い。……成長したなって意味だ。いや、俺の中じゃ妹さんは最初から高いんだがよ。ところが……天井がねえ。底も知れねえ」
たまに忘れそうになるが、彼女は自分より年下だ。だが自己への向かい方については先輩である気がした。
弱さも辛さも、自分の行い隠さずに認めていて。それが彼女以外の誰かだったら、それにひどく感銘を受けて拍手喝采の笑顔だけで終わっていただろう。
こうは続かないに違いない――"こういうところが好きなのだ"。こうは続かないに違いない。
その内面の鏡に映るもの。人とは違うものさえ見通すらしい紅鮮の瞳で見ているもの。共に見せてくれないだろうか。そんな風には八雲以外には思えない。
「妹さんはカッコよかった。昨日も今日も、一年間こんなこと思ってたんだなって、俺に勇気をくれるくらいにな。俺は今日も妹さんに助けられた」
「そんな……播磨さんが頑張ろうとしてくれたから、あの子を止めることができたんです。勇気を頂いたのは私のほう――」
「俺が動けたのも、妹さんのおかげなんだ」
「え……そ、そんな」
「そんなはずある。その証拠に俺はこう思ってる。これからも、俺にたくさんの妹さんを教えてほしい……いつまででもない。ずっと、ずっと――ってな」
拳児は照れながらも嬉しいので笑っていた。本当に嬉しかったのだ。
共に背負ってくれる人がいることが。依存しきることなく、大事な部分を見失うことなく、互いによく影響しあって横にいてくれるのが。
笑ったり励ましたりを繰り返し、たまに衝突もして。一時は魔王とさえ呼ばれた人間の傍にいつでもいてくれる彼女がいるというのが。
同じ痛みを持つために、敏感に心の揺れに共鳴し深く感じ取ってしまう相手がいるということが。
そんな相手は今までにいなかった。――塚本八雲は誰とも違う。天満とさえ、違う。
「そういうことなんだな。かっかっか」
「あ、あの……?」
拳児は自分の中での彼女がはっきり形になったと思った。
塚本天満という少女と全く重なることなく、塚本八雲という少女の形とその世界が出来ていく。
これで先程まで溜まっていた心の淀みは目に見えて小さく感じられるようになっていった。天満と八雲は同じ姉妹でも違うのだと。
一方で、自己完結していく目の前の相手に八雲は言葉が選べないという様子だった。
「だからだな、もう一度言うとだな……俺は妹さんに傍にいて欲しいってことだ。好き…だから、よ」
「え、え……っ? う、うん――いえ――い、いいえ……! ああっ、そうじゃ、なく……」
困惑――今更で繰り返しな、確認するような告白を受けて。
色々なことが宙ぶらりんのままになってしまったようで、全てが解決してしまったようでもある。
だが余所目に分からぬよう上手く孤独を隠すより、世間からいささかぎこちないように見えても、二人で共に歩きたい。
「――好きだ。ずっと俺といて欲しい」
「あ……」
八雲は拳児の告白におずおずと遠慮深い態度を取りつつも、拳児の真摯で純な心情に喜びを隠せず、やがては顔を上げて答えた。
「……はい。私も播磨さんのことが好きです。――喜んで」
拳児は間に感じていた薄氷の壁が、心の泉に張った氷が、両側から穿たれて川筋を解けて流れていくのを感じた。
前に本で読んだ話によると、寒冷地では氷が一度溶けて流れたら最後、大流氷群がこれまで止まっていた分を取り戻すように激しい勢いで放出されるという。
――ガタン
「あっ……」
全てを飲み込むという表現があったと思うが、合っているな――と拳児は思った。
正に自分はそれさながら。八雲を持ち上げてその体を抱きしめているのだから。
少ない理性が先程まで自分が寝ていた場所を選ばせる。八雲を押し倒した先は固い布団となったが、どうか許して欲しい。