夏休みを目前に控えた7月中旬の某日のこと。埼玉県糟日部市、陵桜学園高等部三年B組。世界中の青空を全部埼玉に持ってきてしまったような、素晴らしい青空だ。
ここでは今、6時間目、つまりは今日の最終授業を行っている。教科は世界史だ。
大学受験という人生の節目が近づいている今、授業に対して本腰を入れて臨まなければいけないというのは分かっているけど、夏休みを目前に控えた今日この頃にでもなると、さっさと月日が経ってほしいというのもまた事実。
そんなわけで、今日も今日とて、早く授業が終わってくれと祈りながら、俺は先生の話を聞いていた。
「……ほんで、冷戦は、アジアにも影響を与えたわけやけど、そのアジアの中でもっとも深刻やったのは、とある半島での出来事やったわけや。これ、分かる人おるかなあ……中学校でも習ったはずやけど……」
そう言って、黒井先生はぐるりと教室を見渡した。誰に答えさせるか考えているようだ。
「……じゃ、高良。答えてみよか」
「はい」
白羽の矢が立ったのは、我らが学級委員長、高良みゆきさんだった。ちなみに、席は俺の左隣だ。
「朝鮮半島で勃発した朝鮮戦争です。ソ連の支援を受けた共産勢力によって建国された朝鮮民主主義人民共和国が、大韓民国を突如として侵攻したものです。北朝鮮側は、中国、ソ連などの東側諸国の援助を受け、韓国側は、アメリカなどの西側諸国の援助を受けました」
「せーかい。さすが高良や」
全く先生に同感だ。これほど見事な解答をすらすらと答えられるのは尊敬に値する。
そして、先生の賞賛に対しても、
「そ、そんなことないです……」
と、少し恥ずかしそうにしながらも謙虚な対応をしてみせた。うーん、そんな表情も可愛い。本当にもう、人間の鑑だ。人格者だ。聖人君子だ。
いや、それだけじゃない。彼女は、容姿端麗、品行方正、成績優秀、文武両道、まさに非の打ち所がない。それでいて、どこかふわふわとした雰囲気に、俺は何か惹かれるものがあった。しかも、とびきり優しいときたもんだ。
こんな完璧な人が他にいるだろうか? いいや、いない。少なくとも、俺はいないと思う。いや、約一億三千万人もいる日本人の中から、必死になって探せばいるかもしれないけど。でも、それは、悪魔の証明というものだ。
昔、平塚雷鳥が宣言した「元始、女性は太陽であった」という言葉を思い出す。それは間違いなく正しかったんだろう。何故なら、事実、高良みゆきという彼女の存在は、俺の心を太陽のようにぽかぽかと暖かくさせているのだから。
そう、俺は高良みゆきに恋をしていた。そのことに気付いたのは、いつ頃だったかな。そう、思い返せば、二年前……。
「……じゃ、次は副委員長。答えてみいや」
「……ふぇ?」
思わず、素っ頓狂な声を出してしまう。
まずい、気付かないうちに当てられていた。過去のことを回顧している暇じゃなかった! どうして俺は、ノスタルジーに浸ってばっかりで先のことを見据えないんだろうか! いや、今はそんなこと言っている場合じゃなかったか。
ともかく、慌てて、教科書を手に立ち上がる。でも、質問を聞いていなかったので答えようがない。あわわ、どうする、どうすんのよ、俺!
「えーと……ですねえ……」
「何やー? まさか、聞いとらんかった……わけはないよなあ? 副委員長?」
黒井先生は引き攣った笑いをしながら、脅すように言った。ちなみに、副委員長とは俺のことだ。詳しく説明すると長いので以下略。
しかし、まずい、本格的にまずい。後々のことを考えて、ここは素直に白状するか? よくよく考えれば、ダメージが少ないうちに降参した方がいいかもしれない……。いやいや、でもでも、黒井先生のことだから、きつい拳骨が飛んでくるかもしれない……。
どっちにしろ茨の道が見えるというジレンマに苦しみ、パニックになる。どうする、本当にどうすんのよ、俺!
「台湾です」
「え?」
その小さい囁くような声は、俺にとっては天使の救いにも神の啓示にも聞こえた。
先生に気付かれないよう、慌てて視線を左に移すと、みゆきさんがニッコリと微笑んで、俺に向かって目配せしていた。
その瞬間、俺はみゆきさんの意図を悟った。間違いない、みゆきさんが俺に助け舟を出してくれたのだ。
ああ、本当に優しいみゆきさん。願わくは、その嬉しさに感激の涙を流したいところだけど、ここは自制する。今は答えるのが先だ。
でも、この恩は一生忘れない。俺は深くそれを胸に刻んだ。
「台湾です!」
「お、おおっ」
自信に満ち溢れた俺の大声の解答を聞き、黒井先生はちょっと怯むと、
「何や、随分、自信あるみたいやなあ……。まあ、正解やからいいけど。ま、ちゅうわけで、副委員長が言ったとおり、中国国民党は内戦で中国共産党に破れ、台湾島に逃げたわけや」
黒井先生の解説が始まる。俺はそれを聞きながら、ほっと溜息をついてから、着席した。
ふう、良かった。九死に一生を得た。全く、冷や汗をこんなに掻くのは久しぶりだなあ……。
それから、みゆきさんに礼でも言おうかと思ったけど、みゆきさんを見ると真剣に先生の解説を聞いているようだったのでやめた。
俺は、そんな彼女の真剣な表情も好きだったからね。
593 :
名無しさん@ピンキー:2008/09/02(火) 23:40:51 ID:hy1qZlZ4
「お前、危なかったなあ……。みゆきさんに助けてもらえなかったら、終わりだったぞ?」
放課後、鞄に教科書などを詰めていると、みのるが話しかけてきた。
「あ、やっぱり分かってた?」
「そりゃなあ。黒井先生にまでは聞こえなかっただろうけど、こっちまでみゆきさんの声が聞こえたからさ。まあ、良かったなあ。愛しのみゆきさんに助けられて」
「何言ってんだよ。みゆきさんは誰にでも優しいさ。もし、俺以外の奴が答えに窮したとしても、彼女は答えを教えてくれたさ」
そんなことを言ってやると、白石は何故か呆れたような目をして溜息をつくと、
「……お前はいいよなあ。想い人がいて。ま、いいさ。俺も精一杯応援するから、頑張れよ。今日、委員会だろ?」
「ああ、そうだな。委員会だ、委員会」
さっきも言ったように、俺は学級副委員長。学級委員長であるみゆきさんと同じ、学級を代表する身分だ。ということは、みゆきさんと俺は同じ委員会に所属しているわけで、委員会は数少ない接触の機会、というわけだ。
みゆきさんは隣の席だけど、休み時間になると、いつも泉や柊の机に行っちゃうからなあ……。まあ、そんなわけで、俺は月一回+臨時で何回かある委員会の日を、いつも心待ちにしていた。
「みゆきさんと接触できる機会なんてそうそうないんだし、ましてやあと一年で卒業という身だ。少ないチャンスをちゃんと生かせよ?」
「あ、ああ。ありがとうな、みのる。あ、そうだ」
俺は、みのるに礼を言っている間に、ふとあることを思いついた。
「ん、何だ?」
「お前は、想い人いないのか?」
「想い人……? んー……さあ、どうだろうね」
そう言って、何故か、みのるはあさっての方を向いた。
何なんだ、その思わせぶりなそぶりは。腑に落ちないじゃないか。というか、拒否しないってことは、やっぱりいるのか?
何か言ってやろうかと思っていると、みのるはやがて俺に向き直り、
「まあ、俺のことはどうでもいいだろう。ほら、委員会に行けよ、副委員長。みゆきさんがさっきから、こっちを見て待ってるぞ」
早く言えよ!
……なんてことは胸の奥にしまって、俺はみのるに別れを告げると、みゆきさんの方へ向かった。
「みゆきさん。待たせてしまってごめん」
「あ、いえ、とんでもない。まだ、お時間はありますから。それに、さして待ってませんから、お詫びしなくても結構ですよ?」
優雅に微笑みながら、みゆきさんはそう言った。心の底から気にしてないらしい。本当にこの人は、聖人君子か?
そして、みゆきさんの笑顔の眩しいこと。これを見るだけで、俺は一週間分のエネルギーを注入された気分になる。俺にとっては、みゆきさんの笑顔の方が、タウリン千ミリグラムなんかよりは、よっぽど滋養強壮に利くね。
「では、参りましょうか」
「うん」
俺とみゆきさんは、二人で連れ立って、委員会が行われる三年M組へと向かう。俺たちがいるのはB組なので、そこまでは結構長い。
「今日の議題って何だっけ?」
ずっと黙りこくりながら歩くのもなんなので、歩きながらみゆきさんに問うてみる。
みゆきさんは、顎に人差し指を当てながら、
「えーと、前回の委員会で、先生が予告していましたね。確か……二学期の学校行事について説明するとおっしゃっておられたはずですよ。二学期になってからは、行事が立て込むから、一学期中に出来るだけ準備をしておくべきだということで」
寸分違わず、前回のことを記憶しているとは……俺も見習いたいな。爪の垢でも煎じて飲みたいものだ。ところで、爪の垢を煎じて飲むなんて、ただの変態のような気がしないまでもないけど、さて、俺は一体、何でそんなことを考えているんだろう。
「さすがみゆきさん。記憶力いいなあ。記憶力だけじゃなくて、学級委員長としても優秀だし。さすがは三年連続で学級委員長をしているだけあるよね」
それは、決してお世辞じゃない。率直な俺の感想だ。
「そ、そんなことありませんよ。私なんてまだ至らないところばかりで……。これでも努力しているんですけれども……皆さんにはまだまだ及びません」
みゆきさんはそんな風にちょっと戸惑った笑いをしながら謙遜した。
だけど、もっと自分を誇ってもいいんじゃないかなあ。まあ、みゆきさんには、言うだけ無駄だろうけども。
でも、何しろ、彼女はいつも謹厳実直に委員会に取り組み、決して自分の仕事をおろそかにしない。まさに精励恪勤で模範的な委員長タイプで、本当に尊敬できる人なんだ。まあ、少しドジが多いのが玉に瑕だけど。
ともかく、彼女の働きようは素晴らしいので、緑綬褒章か黄綬褒章の授与候補に推薦されてもいいと思う。まあ、日本がそこまで寛容だとは、俺もおよそ思ってないけど、少なくとも、クラスのみんなはもう少しみゆきさんに感謝すべきだと思う。
まあ、いいかな。みゆきさんに感謝するのは俺だけというのも、みゆきさんを独り占めしているような気がして悪くない。ついでに、みゆきさんも俺に感謝してくれれば最高だけど。
……いや、待てよ。みゆきさんは、他に感謝するような人物……つまり、彼氏がいるんじゃないだろうな。よくよく考えてみれば、俺は、みゆきさんのことをほとんど知らない。
確かに、いつも、泉を筆頭とする女子三人とつるんでいるけど、だからといって男がいない証拠にはならない。いるという証拠もないけどさ。でも、みゆきさんのことだから、いてもおかしくない。
その上、誕生日、血液型、好きな食べ物などなど……何一つ俺は、彼女のことを知らなかった。さっきも言ったように、俺とみゆきさんの繋がりは委員会くらいなもので、あまりプライベートな会話をしていない。そういうのを切り出すきっかけというのもなかったし。
じゃあ、彼氏がいるか聞いてみるか? いやいや、それはさすがに失礼だろう……。俺としては、あまりみゆきさんのプライバシーの権利を侵害したくない。
…………でも、まあ、好きな食べ物くらいは……聞いてもいいかな? ……いいよなあ。それくらい。
「あの、すみません」
「え? な、何ですか?」
突然、みゆきさんが俺のことを呼んだので、思わず敬語を使ってしまう。別にやましいことをしているわけじゃないのに、どうしてこんなに動揺してしまうんだろうな。
まあ、それはともかく、急いでみゆきさんの方を向くと、みゆきさんが眉を曇らせていた。一体、どうしたんだろう。俺はみゆきさんのそんな顔は見たくないのに。
「さっきから、難しい顔をしていらっしゃるようですけど……大丈夫ですか?」
……ああ、俺を心配してくれていたのか。うーん、本当にみゆきさんは優しい。優しすぎる。気配り上手すぎ。ついでに、俺に彼女がいるかどうかで心配してくれたら、最高なんだけど。
……って、妄想が過ぎた。調子に乗ってないで、ここはちゃんと返答しよう。これじゃあ、ただの万年思春期男だ。
「あ、なんでもないよ。ただ……」
「ただ?」
俺は意を決し、みゆきさんに好きな食べ物が何か聞いてみることにした。これくらい聞いても、バチは当たらないだろう。そうだよ、ほんの世間話程度さ。あははは。
うん、自然だ、自然を装って聞けば、何も疑われない。落ち着け、俺。
俺は、ふうと溜息をついてから、意を決して聞いた。
「今、付き合っている彼氏はいるんですか?」
「……」
その瞬間、みゆきさんの笑顔が凍りついた。外のどこかから、小鳥のさえずりも聞こえる。静かだった。
……………何聞いてんだ、俺ー! 馬鹿! 馬鹿!
ああ、俺の青春は終わった。万事休す、やんぬるかな……。お父さん、お母さん、生まれてきてごめんなさい……。
俺は、頭を抱えてうなだれた。もう何もしたくない。もう何も考えたくない……。
しかし、そこに、全く予想していなかった言葉が飛び出された。
「あ、えーと、いませんよ?」
「え?」
一面凍りついた空気に飛び込んできた、ほのかな暖気のような言葉に、恐る恐る俺は顔を上げた。するとそこには、曖昧ながらも微笑を浮かべるみゆきさんがいた。そして、その笑顔は、ほんのりと俺を救われた気分にさせた。
凍りつくような北風なんて何のその。まさにみゆきさんは太陽だった。
「ご、ごめん。変なこと聞いちゃって」
俺は一応詫びておくことにした。しかし、みゆきさんは少しも微笑を動かさずに、
「い、いえ、別に。良く聞かれますので。ですから、お気になさらないで結構ですよ」
え、良く聞かれるの? ……なんて質問しようと思ったら、知らないうちに、俺たちはM組に着いてしまっていた。
そして、当のみゆきさんは、既に教室にいた先生に何かを聞きにいってしまった。どうやら、みゆきさんとのトークタイムはこれで終了みたいだ。
……少し残念だけど、元々の目的は委員会だし、仕方ない。俺も、みゆきさんの補佐として恥ずかしくないように、微力ながらも、委員会に頑張ることにしよう。曲がりなりにも、俺は副委員長なんだし。
それが、みゆきさんのためでもあるだろうし、ね。
―――
さて、肝心の委員会はというと、割とつつがなく進行した。みゆきさんがさっき俺に言ったとおり、体育祭や桜藤祭など大型学校行事についての説明がなされた。
委員会の模様をストレートに伝えると、長い上に聞いてられないので、頑張って俺が要約してみた。先生からなされた説明は以下の通り。
夏休みを目前に控えた今、各学級で何の問題もなく、学業に励んでいる点を評価する。夏休みは、大学受験に向け、より一層の勉強をしていただきたい。しかし、一方では体育祭や学園祭など大型行事を念頭に置くことも忘れてはならない。特に、三年生は最後となる。
ホームルームで、体育祭における生徒の出場種目や桜藤祭での出し物などを煮詰め、9月の頭ごろまでに最終決定できるよう、委員長たちには腐心するくらいの気持ちで頑張ってほしい。
以上が、学級主任のありがたい話だ。
先生は話し終わってから、質問がないことを委員に確認すると、まとめにかかった。
「では、これをもって、委員会を閉会しますー。委員長ー、号令ー」
やけに間延びした口調で変な人と思う人もいるかもしれないけど、これでも学年主任の先生だ。これで割りと頼りになる。「人は見かけによらず」とは本当の言葉だと、俺はこの先生から学んでいる。ああ、ちなみに性別は女性だ。
「起立、礼」
「ありがとうございましたー」
みゆきさんの号令で委員会が完全に閉会し、委員たちは三々五々に帰っていく。
ああ、これでみゆきさんともお別れか……。目の前にある桜藤祭についてのプリントを見つめながら、俺は物悲しい溜息をついた。
って、いや、待て待て。せっかくのチャンスをみすみす逃すようなことがあっちゃいけない! これが終わったら、また次の委員会までみゆきさんと話す機会はなくなるんだから!
俺は急いで教室を見渡す。すると、ちょうどみゆきさんは外へ出ようとするところだった。俺は意を決し、呼び止めた。
「み、みゆきさん!」
緊張のあまり、裏返った声が出てしまう。
それでも、みゆきさんはゆっくりと振り返り、
「……え? どうかされましたか?」
目をぱちくりさせながら、きょとんとした顔をした。
……まっずーい! 呼び止めたはいいけど、何を話せばいいんだー!
頭が真っ白になる中、俺は何とか脳をフル回転させて、言葉を紡ぎ出す。
「え、えーと、あの、その……ですね。ば、バスまでまだ時間があるから、何かいい暇つぶしの方法は知らないかなあ……と思って」
よし、何とか言い訳を作った。少々、苦し紛れなところがあるのは否めないけど。
そして、みゆきさんはというと、廊下で見せたように、また顎に人差し指を当てながら、思案しだした。
「暇つぶしですか。そうですね……図書館は……あ、今日は、特別整理日で閉館でしたね。そうなると……どうしましょう。私も、暇つぶしするところがありませんね。困っちゃいましたね」
みゆきさんはそう言うと、悪戯っぽい笑いを浮かべ、左手で拳骨を作り、自分の頭を小さく小突いた。まるで小さな悪戯を指摘された子供のようで、何とも微笑ましい。
……この人は、俺のHPを根こそぎ奪い取るつもりなんだろうか。反則だよ、その笑顔は……。いっそのこと、舌も出してくれれば完璧でした、みゆきさん。
しかし何はともあれ、ここはチャンスじゃないか?
俺はここぞとばかりに、提案をしてみた。
「あ、それじゃあ……えーと、俺が話し相手になりますか?」
「え、よろしいんですか?」
「まあ、俺でよければ、ですけど」
「いえ、別に嫌ではありませんよ。こちらこそ、私でよければ、ですけどね」
みゆきさんはそう言って、ふふっと笑うと、教室の中をすたすたと歩いていく。
そして、窓際に近づくと、窓からグラウンドを見下ろした。俺もそれについていくような形で、窓際に立ち、グラウンドを見渡す。
グラウンドでは、野球部など運動系部活が大勢活動していた。ちなみにここは三階だ。既に、先生も他の委員も教室を出払っていて、三年M組は、俺たち二人だけの空間になっている。
何気なく野球部のノック練習が目についたので、じっと見てみる。顧問教師によるバットの快音がしきりに響き、そのたびに、野球部員諸兄がボールを取るべく必死に身体を張っている。
「皆さん、部活動に一生懸命ですね。インターハイが楽しみです」
「この学校は、どこの部活もそれなりに強いからね。みゆきさんも、どこかの部活に入ってれば、インターハイに出れたんじゃない?」
俺は、野球部のノック練習を見ながら答えた。
すると、しばし沈黙が流れてから、
「私は……私は、いいんですよ。皆さんのお傍で見守ってるだけで。それに、部活に入ると、帰るのも遅くなってしまいますしね」
「そう?」
「はい。私は、あくまで引き立て役ですからね」
みゆきさんは断定するように言った。俺に話しているというよりは、自分に対して、言い聞かせているような気がした。
みゆきさんはどっちかというと、引き立てられるほうじゃないの……とも思ったけど、それを口にすることはやめた。みゆきさんはとことん謙虚な人だから、笑いながらそれを否定するだろう。無理に俺の意見を押し付けても、嫌がるだけだろうし。
俺はもう一度グラウンドを見渡し、耳を澄ませる。しきりに発せられるバットの快音、ジョギング中と思しきどこかの部員の掛け声、吹奏楽部が奏でるオリンピック・マーチなどなど、様々な音が、心地よい風に乗って俺の耳に入ってくる。
そんな諸々の音を聞いて、ああ、青春しているなあ……なんて年寄りじみたことを考えていると、みゆきさんと初めて会ったときのことが、まざまざとまぶたに浮かんだ。あのときのことは、寸分たりとも忘れていない。いや、忘れたくとも忘れられないだろうな。
彼女と初めて会ったのは、二年前だった。つまり、高校に入学して間もない頃だ。俺は大した感慨もなく、学級委員長に選ばれ、委員会に出席した。そこで、彼女と初めて出会った。
一目惚れだった。一目見ただけで俺は心惹かれ、彼女のことをもっと知りたくなってしまった。でも、みゆきさんは単に可愛いだけじゃなかったということが、後に分かることになる。
俺はそれから、委員会を通じて、彼女のことをだんだん知っていった。精励恪勤で模範的な委員長。何事にもまじめに取り組み、しかも誰にだって優しく、何でもできる完璧超人。まさに非の打ち所がない。
みゆきさんは、俺にとっては心を寄せる人物であると同時に、尊敬する人物でもあった。
彼女のことを知れば知るほど、単なる一目惚れではなくなっていった。俺のみゆきさんへの恋慕は、日に日に膨らみを増していった。
何度も言おうと思った。けど、今のところ、それを言えたことは一度たりともない。でも、誰が俺を責められよう。簡単に告白なんてできたら、恋愛に悩む人なんて地球上から絶滅するに決まってる。しかし、今日に至っても、それが絶滅しているようには見えない。
何でいえないのか、といったら、もう理由は分かってる。つまり、俺は告白することで、みゆきさんとの関係が破綻しないかと恐れているに違いない。恐らく、世の中の恋愛に悩んでいる人も同じ理由の人が一杯いるはずだ。
俺は同じ学級委員としてみゆきさんと同じ仕事ができて、それで彼女と繋がりを持てているということに満足していた。それだけで居心地が良かった。だから、それを失うのが怖かった。
ちょっとしたことで生まれた綻びは、次第に大きくなっていって、いつしか修復不可能なものになってしまう。俺は、そんな風になるのは嫌だった。俺は、彼女をいつも近い場所で見ていたかった。もし、彼女との間に綻びが生まれたら、そんなことができるわけはない。
この状況を打開するにはどうすればいい? ……いや、それは当の昔に決まっている。うだうだ言わず、告白すればいいんだ。行動したときの後悔より、行動しないときの後悔の方が大きいとは、トーマス・ギロビッチ博士の言葉だ。
でも、俺はとてつもない臆病者だった。言い出す勇気がなかった。俺は内心忸怩たる思いでいた。しかし、それでも俺は行動を起こせずにいた。何とも言いようもないこのジレンマに俺はいつも苦しめられていた。
思わず溜息が出る。気付けば、グラウンドで練習していた野球部員はまばらになっていた。多分、ノック練習が終わり、水でも飲みにいったんだろう。
……もう考えるのはやめにしよう。どうも俺は、一旦ネガティブに考えると、とことん落ちてしまう癖があるらしい。後ろ向きに考えていても何も始まらない。今は、みゆきさんと楽しい会話でもしていたほうが得さ。
……そういえば、みゆきさん、さっきから黙っているな。どうしたんだろう。
俺は気になって、みゆきさんを見てみた。すると、驚くことに、みゆきさんはうつらうつらと顔を揺らして、舟を漕いでいた。
思わず苦笑いしながら見ていると、うつらうつらと上下を繰り返していたみゆきさんの首が、ふと、かくんと激しく前傾した。その瞬間、みゆきさんは驚いて目を覚まし、
「ひっ……ひゃああ!」
あたふたと左右を見回した。
何だかその様子がやたら可愛かった。ほほえましかった。思わず、俺は顔をにやけさせてしまう。
やがて、俺が見ていることに気付いたのか、みゆきさんは顔を赤くさせると、
「あっ、あっ……。お、お見苦しいことをお見せして、す、すみません!」
ご丁寧にもお辞儀までして、みゆきさんは詫びた。
いや、別に詫びられるところなんて全然ないんだけど。目の保養になったし。
俺はいささかにやけ顔を修正させてから、
「い、いや、そんなことないよ。それより、みゆきさん、疲れてるんじゃない? 大丈夫?」
と、聞いた。
すると、みゆきさんは、眼鏡を押し上げてから、こめかみに手を当てて、
「そう、ですね……。最近、お勉強のしすぎなのかもしれません……」
やっぱりそうか。疲れるのも無理はないだろうな。みゆきさんのことだから、ついつい根を詰めてやってしまうんだろうな。それに加え、毎日、東京と埼玉を往復するのは、やっぱり疲れるに違いない。
みゆきさんには何か気晴らしが必要なんだ。でも、彼女の気晴らしって何だろう……。
そんなことを考えていた俺だったが、ふと妙案が思いついた。それはまさに、電球がポーンと点いてしまったような考えだった。つまりはインスピレーション。だけど、こんなこと言ったら迷惑に思われるかなあ……。いや、迷惑だよなあ……。
いやいや、でもでも! 今日は押せ押せで行くと誓ったんだ! 当たって砕けろだ! 行動したときの後悔の方が小さいなら、俺も行動してやる!
トーマス・ギロビッチ博士の研究が虚偽でないことを祈りつつ、俺は一か八かの賭けに出た。
「あ、あの、みゆきさん」
口から出た声は、少し震えていた。でも、ここで引き返すわけには行かない。
「はい? 何でしょう?」
上目遣いにみゆきさんが見上げた。その不意に見せた顔に、思わず胸が一気に高鳴ってしまう。
そのまま家に持ち帰りたい気分になったけど、俺はどうにかこうにか気持ちを落ち着かせて、邪な考えを振り払い、
「良かったらでいいけど……その、肩、揉んであげようか?」
「えっ……」
一瞬のうちに、みゆきさんの顔が驚愕への色と変わる。それを見た瞬間、俺の頭には「後悔」という二文字が焼き付けられた。
「あっ、いや……迷惑だったね、ごめん……。うん、今のは忘れて」
俺は即座に発言を撤回し、視線をみゆきさんからグラウンドへ向けた。
やっぱり最初から迷惑な話だった。それだというのに、俺は馴れ馴れしいことを。行動したときの後悔の方が小さいとは言うけど、裏を返せば、行動しても後悔はおのずと出てしまうってことなんだな……。
「して……いいですよ……?」
「え?」
みゆきさんは、恥ずかしげに小さい声で何か呟いた。だけど、俺は何を言っているのか聞こえなかった。
だから俺は聞き返したのだが、それで余計に恥ずかしくなってしまったようで、みゆきさんは胸板に顔を埋めてしまった。
そして、
「そ、その、わ、私も肩こりに悩んでましたので……その、し、して……いただけるのでしたら……それを受けるのにはやぶさかではありません……」
と、もごもごと話した。
「……本当にいいのかい?」
何だか目の前のことが信じられず、思わず俺は確認した。
それに対し、みゆきさんは、顔を上げて口を開いた。
「も、もう。あなたの方から申したことですよ?」
顔を真っ赤にさせてそういうと、みゆきさんは俺に背中を向けた。どうやら、「揉め」ということらしい。
「じゃあ……触るよ?」
「……どうぞ」
一呼吸置いてから、返事があった。
少々後ろ暗い気持ちはあったけど、元々自分が言い出したことなので、俺はいよいよもって腹を決めて、みゆきさんの両肩に手をかけ、両手に力を入れた。
みゆきさんの肩は明らかに張っていた。ただ、察するに、緊張で余計に張ってしまっている分もあるようだ。
「みゆきさん。もう少し力抜いて」
「あっ、は、はい……」
言うが否や、肩の張りが幾分かなくなった。それでもだいぶ凝っているのが、俺は分かった。自慢じゃないが、俺の肩もみは、両親に絶賛されていて、一級品だと自負している。だから、揉んだだけで手に取るように、肩こりの状態がわかる。俺の数少ない特技の一つさ。
「あっ……」
「あっ、痛かった? 痛かったら言ってね」
しかし、みゆきさんは首をぶんぶん振り、
「あ、いえ。そうではなくて……その、気持ちよい、と言いますか……。あの、お上手なんですね」
「んー。昔から親によくやってたからさ。自然に、技術が身についたってことだろうね」
「習うより慣れろ、というわけですね」
「まあ、そういうことかな。それにしても、みゆきさん……凝ってるね」
「やはりそうですか……。ちょっと肩を酷使しすぎたのかもしれません……。あっ、ふうっ……はぁっ……」
いや、それはいいんですが、それよりその色っぽい声をやめてください。青少年の健全育成上、よろしくないです。一応、俺は健康優良日本男児を自負しているので、本当に勘弁してほしいんです。おかげで俺の胸の高鳴りは、止まるところを知らないんです。
「……ま、やめてほしくなったら、言ってね」
何とか自分を自制する為に、こう言うのが精一杯だった。
「あ、はい……」
その後も俺は、肩もみを続行していく。決して握力だけを使うのではなく、手首を使って肩を揉んでいく。そうすれば、肩もみする人も疲れない。はっきり言って、肩もみする人が疲れるような肩もみは失格だ。
そして肩もみをしていると、指先を通じて、みゆきさんの体温が伝わってきた。そのほのかな温もりが、俺には心地よかった。それと同時に、胸が締め付けられるように、胸の高鳴りが止まらなかった。
はっきり言って、この高鳴りを押さえつけるのだけで精一杯だった。嬉しいんだか苦しいんだか良く分からない。恋はほろ苦いものだ。
ただ、一つだけ分かった事がある。それは、俺はみゆきさんの役に立ちたかった、ということだ。最初から俺が何をすべきかなんて分かってた。俺は、みゆきさんの力になりたかったんだ。ただ、それだけだったんだ。
そんな風に、肩もみをすること十分。その間も、みゆきさんの注文に答えながら、俺は様々なテクニックでみゆきさんの肩こりを解きほぐしていた。……みゆきさんの名誉の為に言うが、その間、蕩けるような甘い事態は何も発生していないことだけは言っておこう。
ともかく、十分くらい経ってから、みゆきさんは肩こりをやめていいと言った。
その十分間は、まるで夢のような一時だった。手応えと実感にあふれた時間だったということも言える。何せ、この十分間で、俺はみゆきさんに対して何をすべきかということが分かり、そしてみゆきさんの役に立てた。それだけで俺は満足だった。
「今日は本当にありがとうございました。また何かあったら、お願いしてよろしいですか?」
「うん。みゆきさんがいいというなら、いつでも」
そういうと、みゆきさんは、ありがとうございますと呟き、また笑った。その笑顔は、本当に偽りがないようで、そして夏の太陽張りに眩しかった。
さんさんと輝く夏の太陽は、相変わらず陵桜学園を照らしている。
根拠は無いけど、少しみゆきさんとの距離が縮まったような、そんな気がした一日だった。