嫉妬・三角関係・修羅場系総合SSスレ 講和(50)条約
叩きつけるような雨の中を、俺は傘も差さずに走る。
雨だろうと風だろうと雷であろうと、今の俺には気にならなかった。
水を吸って張り付くシャツもスラックスも、そしてパンツすらどうでも良かった。
髪の毛から流れ落ちる水も、隙あらば目を差そうとする雨も、意識することはなかった。
何かに追われるように地面を蹴り、冷たい雨風の中、焼け付くような息であえぎ、黒い雨雲の暗い空の下を泳ぐように走る。
駆り立てていたものは苦しみと恐れだった。
信じていたものが崩れ落ち、あこがれていたものが変転した。
三流ホラーのように化け物に変わるのなら、出来の悪いサスペンスのように狂ったのなら、ここまで恐くはなかった。
好きだった女が、昔から良く知っていた少女が、正気のまま、俺への好意のために、俺の行いによって、変わってしまった。
豪雨の中で頼りない光をともす街灯の下を走りぬけていく。
雨にけぶってかすむ我が家が見えたとき、俺はようやく安堵感を覚えた。
だが、影絵のように揺らぐその向こうの隣家を見てしまい、ゆるまりかけた足は再び全力疾走になった。
門を体当たりするように開けて、しかし何かに怯えて乱暴ながらもきちんと締め、震える手でかんぬきをかける。
そして俺は玄関に飛び込むと、扉を閉め後ろ手に鍵を掛けた。
制服の上にエプロンをつけて出てきた沙羅の姿に、一瞬美那の姿をだぶらせ、俺は震える。
「……傘を差さなかったのか?」
少し目を丸くしながら問いかける沙羅に、俺は濡れた体を投げ出すように抱きついた。
沙羅に下着以外をはぎ取られて、バスタオルで体中を拭われた後、俺は自室で着替えて、ダイニングに降りた。
やけどしそうに熱い緑茶を少しずつ呑みながら、俺は起こったことを思い返す。
沙羅は、何も語らず椅子に座る俺の背後に立って、湿り気の残る俺の頭を丁寧に拭いていた。
雨音だけが続き、二人とも言葉を発しなかった。
それでも沙羅の心遣いがしみた。彼女はこういうときじっと何も言わず待てる女だった。
そんな温かさが俺に少しずつ人心地を取り戻させ、湯飲みの茶を飲み干したときには、俺の考えはまとまっていた。
少しだけためらい、心を決めて俺は沙羅の名を呼ぶ。
「沙羅」
「うん?」
「ご飯を食べたら送っていくけど……そしたら、しばらくこの家には来ない方がいい」
ひとときだけ頭を拭く手が止まる。だが、沙羅は応えなかった。
「沙羅?」
「いやだ」
短いながらも本気の否定が返り、俺は思わず沙羅に振り返った。
沙羅は相変わらず無表情だった、目にも怒りも悲しみも浮かんでいない。ただ何か強い光だけがあった。
「沙羅のためなんだ。頼むから、俺の言うことを聞いてくれ」
「……理由を言うべきじゃないのか?」
当然の返答に、俺は少し迷った。だが、隠す理由はなくて、鞄から例の紙を取り出す。
それを見た沙羅に動揺はなかった。
「……及川か?」
カラープリンタで普通紙に印刷された、俺と沙羅が裸で寄り添って寝ている写真。
染みいった水でところどころインクがにじんでいる他は、なにも説明はない。
これだけ出されても、何のことかわからなくても無理はないのに、彼女はわずかな沈黙の後で正答した。
「ああ。美那につきあわないとばらまくって脅された。……俺が迂闊だったせいだ」
写真の左右には俺の部屋のカーテンが写りこんでいる。間違いなく、美那の家と隣接したベランダから写されたものだった。
自室だからと油断したわずかな隙、そこをこの写真は巧妙に……いや俺の間抜けさを的確に、突いていた。
「……確かに少し迂闊だったな。浩介といる時間が楽しくて、隙を作ってしまったようだ」
「だけど、……美那の考えていることがわからない。こんな写真で脅して、なんになるんだ?
人を好きになるって、そういうことじゃないだろう? 俺にはわからないよ」
あの教室での思い詰めた美那の顔を思い出す。思いは真剣なように見えた。
それゆえに真意が図りかねた。
沙羅が泥棒猫などと呼ばれるような絆なんて、俺と美那にはなかったからだ。
あったのは、俺の一方的な思いだけ。
「きっと……及川は、幸せな女、だったんだ」
ぽつりと沙羅がつぶやいた。
そのとき、インターホンがなった。
「はい、どなたですか?」
豪雨の中の来客にいぶかしみながら、俺は立ち上がってインターホンのところに行き、受話器をとった。
「私だよ、浩介、開けて」
その声に思わず受話器の口にあたる部分を押さえて、沙羅を見る。
「美那だ!」
その言葉に沙羅は無表情のまま、玄関に向かった。
「沙羅! おい、沙羅!」
俺の声にも振り返ることなく、沙羅は玄関に姿を消した。
やがて鍵が開く音がして、すぐに扉の開く音とともに激しい雨音が流れ込んだ。
美那と沙羅の会話に声は、雨音にかき消されて聞こえなかった。
息詰まるような時間が過ぎて、沙羅とそして美那がダイニングに入ってきた。
美しいといえる女が二人、しかも両者とも同級生。クラスの男共であれば、例外なくうらやましい奴めというだろう。
なのに、俺は、一分でも早くこの時間が終わることを願っていた。
リビングで沙羅と美那が向かい合って座っていたからだ。
とはいえ、露骨ににらみ合ってる訳ではない。沙羅はお茶なんか振る舞ったりしている。もっとも美那は手をつけてないが。
それでも二人の間に帯電した空気が満ちていた。
しかし、それは争う寸前の男同士の一触即発ではなく、冷え冷えとして粘っこい異質の空気である。
それでも対決という状況には充分ふさわしかった。
俺はといえば、長方形のリビングテーブルの長辺に座る彼女らの横にいた。
まるでレフェリーのごとく、彼女らから等距離の部分である、リビングテーブルの短辺のところに座っていた。
対決からはじき出されたポジションなわけだ。
なにげなくここに座ったら、女達が対決ポジションに位置してしまい、以来うかつに声も掛けられなくなった
そのため冷え冷えとした沈黙が俺の胃まで十分に冷やして、何か理由をつけて席を立とうと思い始めたとき、美那が口を開き始めた。
美那の言ったことは、先ほどの繰り返しに近いものだった。
「つまり、私が、及川の居場所を奪ってしまった。そして好きという気持ちに気づいたから、浩介を返してほしいと?」
「ごめんね、宇崎さん。ほんとうに悪いとは思う。だけど、私には浩介が必要だから」
腹立たしい内容のはずなのに、表情を一切変えないまま沙羅は美那の言葉を要約をして返した。
それに対して、美那は少し笑顔すら浮かべ、さらにはわずかだが頭まで下げた。
「言うことを聞かなければこの写真がばらまかれると?」
「そんなことは言ってないわ。 ただね、こんな写真をとられちゃうようなだらけたつきあいは、二人にとってよくないと思う」
構わず沙羅は要点に突っ込み、美那はあくまでもにこやかに対応した。
「私たちは、つきあうのにふさわしくない?」
「そうよ。宇崎さんは美人だし、きっと浩介以上のいい人がすぐにみつかると思うからもったいないよ」
ふと、沙羅の目だけが燃え上がったように見えた。
「浩介以上のいい人?」
「ええ。たとえばもっと運動ができる人とか、もっと勉強ができる人でもいいし、もっと大人の人でも似合うと思うよ」
そこでまた沈黙が落ちる。再び雨音だけが室内を流れた。
沙羅がすこしうつむいた。その手がスカート越しに自身の膝をつかむ。
美那はすこし安心したように肩を落とした。だが沈黙があっても俺が口を挟める状況ではなく、黙って俺は待つしかなかった。
「中学の時」
やがて、ぽつりと沙羅がつぶやいた。
「体育の後、なぜか制服がなくなったことがあった」
顔を落とした沙羅の表情はわかりにくい。
「帰るときに、ジャージを貸してくれた男子がいた」
俺は記憶が呼び覚まされるのを感じていた。
「昼休みに、弁当がなくなってたこともあった。」
昼休みも半ばを過ぎていたのに、彼女は固まったように座っていた。あくまでも無表情に、なんでもないように。
「次の時間にパンをくれた男子がいた」
だからジャージを洗って返してくれた礼に、彼女にパンをおごっただけだ。
「お気に入りのキーホルダーが無くなったことがあった。一緒に探してくれた男子がいた」
その頃になると、違うクラスの俺でも何が起きているかは わかった。
ある女子グループが焼却炉でなにかこそこそしていたから、念のために見たら、たまたまそれが見つかっただけだ。
「修学旅行の時に、班行動のはずなのに私だけ一人置いて行かれた。一緒に行こうって言ってくれた人がいた」
その時美那は仲のいい友人とどこかに行ってしまっていた。
そして所在なげに立っていた彼女と目があって、その時にはもう知り合いだったから、声をかけただけ。
「この学校の合格発表のとき、その人はまた同じ学校だねって声をかけてくれた」
卒業前には俺はその女生徒をすこしまぶしく思っていた。
集団に埋もれまいとしているように凛と背筋を伸ばし、俺のように愛想笑いを浮かべることもない。
他の女子のようにとりとめのないおしゃべりを続けることもなく、いじめを受けてもその姿勢を変えず清冽な雰囲気を変えなかった。
その時好きだったのは美那だ。その女生徒には異性としての感情は持ってなかった。
それでも彼女の人柄には好感を抱いていた。……いや、尊敬すらしていた。
だからその偶然を、俺は合格の喜びとともに、伝えたかった。それだけだ。他意はない。
「でも、その人の目はずっと別の人を追っていた。好きな女性の一喜一憂にその人も一喜一憂していた。それでも一年の時は別のクラスだったから、我慢できた」
クラスが違っていた去年、彼女は会うたびにきれいになっていったと思う。
陰湿ないじめがやんだから、俺はそう思って、すこしうれしく思っていた。
「彼が追う女性は、同じ女なのに明るくて華やかで、人当たりがよくて、彼が好きになるのも無理はないって思った。幼なじみと知って、あきらめようと思った。だけど……」
「宇崎さん……」
のまれたように話を聞いていた美那が思わず声を発した。美那にもわかったのだ。
「その人は、思いをずっと我慢していたけど、端から見ればその女性を好きなのは丸わかりだった。その女性だって、彼の思いをわかっていたのに、……わかっていたのに、彼を利用するだけだった」
「違うよ!」
美那の悲鳴のような抗議は、沙羅の激しい声にはねのけられた。
いつの間にか沙羅の顔があがって、その目が美那を貫き通さんばかりに鋭さを帯びている。
「違わない! 修学旅行の時、及川と浩介はせっかく一緒の班になった。なのに及川が仲のいい友人をもう一人入れたいといって、浩介は自分から班を出た」
美那が楽しめるなら、それでよかった。
「夏の課題を提出したとき、まるっきり同じ内容のが二つあって、丸写しだって教師が怒ったことがあった。浩介が自分が写したと告白して再提出になったことがあった」
……一度やったから、もう一度だって、がんばればできるから……
「浩介がいる前なのに、友人にからかわれると及川は、ただの幼なじみだよって何度も何度も否定していた」
それがその時は真実だったからだ……。
「あ……ああ」
美那の顔が蒼白にゆがんでいた。家に入ってきたときの思い詰めた表情と違って、その顔から自信が抜け落ちていた
「見ていてたまらなかった。浩介はいつも笑いながら泣いてたんだ。見ているだけの私の方がつらいのに、浩介は笑いながら、好きだという気持ちを抑え込んで」
それはきっと自業自得。
「浩介の側が及川の居場所というなら、どうして浩介はそんなに苦しい思いをしなくちゃいけなかったんだ?」
「わ、私は……」
美那の唇だけがむなしく動く。後に続くべき言葉は出なかった。
その美那に紙が叩きつけられ、美那が思わず顔を背けた。
「こんな写真、ばらまきたいならばらまけばいい! 私は、浩介と会うために学校に行ってる!
こんな写真で学校を辞めさせられるんなら、その時は浩介の子供を産んで、浩介のために料理を作って、帰りを待つ生活をする!
及川一人で私も浩介もいない学校に通えばいい。 浩介は渡さない! 浩介を悲しませた女になんか絶対に渡さない!」
ほとんど叫びに近い糾弾と宣誓の言葉は、沙羅が秘めていた熱い思いだった。
言い終わって肩で息をつきながらも、沙羅の目は鋭さを一切減じなかった。
その熱さが、俺の恐れや惰弱を灼いて、腑に落ちるように心が落ち着いた。
「美那、ごめん」
「こ、浩介?」
頭はなんの気負いもてらいもなく下がった。
「俺に勇気がなかった。狂いそうに好きだったのに、幼なじみの関係を壊したくなくて、告白できなかった。
美那の気持ちを無視して、一人で悲劇の主人公をやっていた俺が、一番の馬鹿だ」
「やだよ、浩介」
「でも、そんな一番みっともない時の俺でも、沙羅は好きだと言ってくれたんだ」
あのときの沙羅の顔は今でも忘れたことはない。
「聞きたくないよ、言わないで」
「聞いてくれ。こんな俺でも沙羅を幸せにすることだけはできるんだ。好きだという思いに応えてもらえることがどんなに人を幸せにするかは、俺、よくわかるから」
「だったら! だったら私も!」
その叫びの悲痛さに心がうずく。それでももう引きずられはしなかった
「でも一人だけなんだ。俺は、一人だけしか幸せにできないから、だから、ごめん。謝ってもなにも慰めにはならないけど、ごめん」
「いやだよぉ、やだぁ、なんでぇ」
「俺たちは、お互い、間違えまくってしまったんだ。……ごめん」
美那がぼろぼろと涙を落とす。俺たちはただ無言でそれを見守っていた。
沙羅の目から、厳しさも鋭さも消えた。ただ苦い、勝利感など無い取り返しの付かない苦さだけが、俺と沙羅を取り巻いていた。
やがて美那は何も言わずに、泣きながら立ち上がる。
俺たちに掛ける慰めの言葉も無く、美那もそれを待つはずもなく、しゃくりあげる声だけを残して、美那は家を出て行った。
美那が去っても、俺たちは動かずただ手を握りあっていた。
「俺は馬鹿だ。自分が一番傷ついていると思い込んで、美那や沙羅、喜多口も傷つけて……」
「私だって偉そうに言えない。浩介はつらいときに何度も助けてくれたのに、私はずっと手をこまねいていて……。
だから私が及川の立場であっても、全く不思議じゃないんだ。本当は私にも彼女を罵倒する資格なんかなかった……」
「俺は、……きっと罪深い」
「浩介が罪深いなら、この嫉妬と執着に支配されて、そして及川が去って安堵すらしている私は、間違いなく地獄行きだ」
「俺たちは、思っている以上に似合いのカップルなのかもな」
沙羅はわずかに苦い笑いを浮かべる。
雷鳴と風雨が、俺たちの罪に非を鳴らし続けていた。
そして嵐はやがて去り、
「美那?」
俺の手にメモリーカードが渡される。ここは校舎裏。嵐が過ぎ去って太陽が輝いた次の日。
俺は美那に呼び出されて二人だけでここにいた。呼び出しに応じたのは、彼女の目が、とても真摯で澄んでいたからだ。
「ごめんなさい」
彼女は深々と頭を下げた。
「本当は宇崎さんにも謝るべきなんだけど、……まだ心に整理がつかないから」
「これに、例の写真が?」
「うん。これだけ。あの写真をコピーとかは、する気が無かったから。だってすごく悔しかったし。だからこの中にしか入れてないの」
数gの頼りないプラスチックの板。俺は手の中でカードを二三度もてあそんだ。
「もう邪魔はしないから」
そう告げる美那の目が、少しだけ潤む。
「でもね、これだけは言いたいの。……私、待ってるよ。浩介を好きなまま、待ってるよ」
「……美那」
ついと涙が彼女の頬を伝う。
「待ってるだけならいいよね? そしてもし宇崎さんに振られたら、その時は、ね」
「俺が振られることは確定なのか?」
涙を流しながら、彼女は思いっきり舌を出す。
「浩介が宇崎さんを振るなんて、生意気なんだから! 振られてへこんだら、二度と逃げられないように私が浩介の心をメロメロにしてやるんだから!
復讐してあげるんだから! 一生、私から……はな……さ……ないん……だから」
手で何度目をぬぐっても涙はあふれ、ついに美那は顔を覆った。
「馬鹿……浩介! きっと……、後悔……するんだから!」
背を向けて美那が駆け出す。
でも俺が彼女を追いかけることはない。去りゆく姿を目で追い続ける俺に、クールな長身の影が寄り添う。
「……もし私が娘を産んだら、美那という名前はどうだろうか?」
「……母子で修羅場なんかごめんだ。……それに」
見上げた空は雲一つなく晴れ上がっている。
「俺はもう、悲しい女は見たくない」
「そうだな。……そのとおりだな」
手が握られる。少し冷たくて意外に華奢なその手こそが、俺の絆。
空いた手のメモリカードに力を加えると、乾いた音をたてて割れた。
二人分……いや三人分の思いを込めて、破片を放り投げると、太陽がそれを数秒間きらめかせて、やがて消えた。