「…………………」
次が移動教室で必要な教科書その他を忘れているのを思い出し、
食堂から教室へ急いで戻ってきた僕が見たのは、中空をぼんやりと見ているクラスメイトだった。
彼女は教室のほぼ中央の席で少し首を上げ時計と黒板の境界あたりを見ている、ように見える。
教室には彼女以外居らず、何とも異様な雰囲気を醸し出していた。
その異様さに僕も立ち止まっていたわけだが、そのままでいるわけにはいかない。
予鈴がまだ鳴っていないので授業開始まで五分以上あるとはいえ、それほど時間があるわけではない。
何とか目的を思い出し、自分の席から教材を持ちだそうと一歩踏み出そうとして、はたと気付いた。
そういえば僕の席って彼女の隣だった……。
今朝席替えがあり、彼女の隣の席になったことをすっかり忘れていた。
この異様な雰囲気の中心に近づくのはかなり遠慮したいが、そうも言っていられない。
クラスメイトがこんなことで授業をさぼるのを止めないのも気が引ける。
筆記用具その他を持ち出すついでに声を掛けておこう。
そう自分を納得させて一歩踏み出した。
台風の中心は穏やかというが、この雰囲気は台風ではなかったようだ。
中央に進むほど重みが増してくるようで、居心地の悪さは二次関数的に増えている気がする。
今は自分の席で教科書とノートを出しているが、それはこの異様な空間を作り出している元凶の側にいるということで。
非常に空気が重いというか、以上に居づらい空間というか、何となく拒絶したい空気が吹き付けてくる
そして目には見えない何かが彼女からまき散らされているような感じがするのは、決して気のせいではないと思う。
用具はなんとか出し終わったが、長い前髪に隠されていた彼女の目は焦点があっておらず茫洋としている。
未だに現実世界に帰ってきていないらしい。
それとも目を開けたまま眠っているのだろうか。そうだったら器用なものだ。
何はともあれそのままにしておくことは気が引けるので、とりあえず声を掛けてみる。
「あの、もうすぐ次の授業なんだけど」
「……」
無反応。
「移動教室だからそろそろ移動した方が良いんじゃないかな」
「…………」
返答無し。本当に眠っているんだろうか。だとしたらよほど深く眠っているんだろう。
それとも無視されているんだろうか。そうだったら悲しいけど。
しかし、声を掛けてしまった以上、こちらから引き下がるのも何となく悔しい。
なので、とりあえず揺すってみることにした。
肩に触れた時その細さにちょっと感動したがそれに浸るわけにはいかないので、すぐに揺すりながら声を掛けた。
「もう予鈴が鳴るから起きた方が良いよー」
「ピーガーガガガーピー」
…………はい?
何か人間の声らしくない音が聞こえたような気がしますよ?
……とりあえず反応はあったのだ。もう一度揺すれば起きるかもしれない。
半ば現実逃避するようにそう考えもう一度揺することにした。
「授業に遅れると面倒ですよー」
「カカカカカッ。カカカ」
そこまで言い終わると同時に彼女の首がガクンと垂れ下がった。
背中は真っ直ぐにしたままだったので机に額がぶつかることはなかったのは幸いだ。
…………なんて考えてる場合じゃないですよ!?
何あの声!明らかに人工音っぽいし、人の口から出るのは間違ってる音なのですよ!?
理解しがたい現象に混乱していた僕の視界の中で何かが動くのが見えた。
項垂れていた彼女が頭を動かしていた。
左を見て、右を見て、左を見て。
その仕草は可愛らしい。さっきまでの電波っぷりが嘘のようだ。
そしてもう一度右を見て、視線が下がった。
視線の先は……、僕の手?
「あ、ごめんっ!」
混乱のあまり彼女の肩を掴んでいたままだったらしい。慌てて手を離す。
起きたら肩に手が掛けられていたのだ。気にならないはずがない。
視界から消えた手の持ち主を確かめるように彼女は首を上にゆっくりと動かしていく。
そして僕の顔を見られる角度まで上げたところで止めた。
目を隠すように伸ばした前髪が横に流れ彼女の顔が見られるようになった。結構可愛らしい顔だ。
だが無表情というか、どこかぼんやりとした表情をしている。
ただ目はきちんと焦点が合っており僕の顔を捉えていた。
いきなり起こされたのだ。頭がぼんやりしているのだろう。
見ている、ということは話したいことがあるということだろうし少し待つことにした。
「…………」
一分待ったが、彼女は見ているだけで何も話さない。沈黙が気まずいので肩に手を置いていた理由を話すことにした。
「えっと、寝てたみたいだからさ。起こさないといけないと思って。
もうすぐ授業だし。勝手に体に触ったのはごめん。謝るよ」
「…………」
返事はなかったが髪が少し揺れた。少しだけ頷くように顔を動かしたらしい。
「よかった。ありがとう。
えーと、そろそろ授業だし教室出た方が良いよ」
「……待って」
小さいが何故か耳によく残る声で彼女が僕を呼び止めた。何か聞きたいことがあるらしい。
「ん?何?」
「…………………見た?」
少し顔を赤くして彼女はそう言った。
見た、というのはおそらく寝ている姿を見たのか、ということだろう。
年頃の女の子なのでそういう姿を人に見られるのを気にしているのだろう。
とはいえ、見てしまったものは見てしまったので正直に答えて謝った方が良いだろう。
「うん。寝ているところを見てごめん」
「…………………………………そう」
答えを聞くと彼女は真っ赤になってしまった。よほど寝ているところを見られて恥ずかしかったようだ。
でも見てしまったのは不可抗力なので出来れば許してほしい。
あと一月も気分が悪いまま過ごしたくないし。
きーん、こーん、かーん、こーん
予鈴が鳴った。
そろそろ行かないとまずいようだ。
固まっている彼女にも声を掛けないと。
「あのさ、もう授業だから行かないと。話が何かあるならまたあとで聞くよ」
「え…………あ、はい」
どうやら自分を取り戻したようだ。この分なら彼女も間に合うだろう。
僕は彼女を残して教室を出て行った。
この後、彼女にあれは寝ているのではなくて何かと交信しているという話を聞かされ驚いた僕の話は書く予定がないそうです。
終わり