615 :
名無しさん@ピンキー:2009/06/28(日) 01:21:52 ID:5C7qMQH6
うん、続き楽しみにしてます〜
>>611の続きです
* * *
使い込んだ小銭入れから残りのお金をぶちまける。
「ひい、ふう……何とかなるか」
母親のパート代とたまにあたしが手伝う内職での暮らしは楽ではない。
それでも月に僅かばかりの小遣いは与えて貰ってはいたのだが、他の子達と違い毎日の昼食もそれで
賄わなくてはならないため楽ではなかった。
父親は小学校を卒業する頃には全く姿を見せなくなった。
いいヒモの口でも見つかったのじゃないか、と叔母に母がこぼしているのを聞いてしまった事がある。
もうあたしには父親にも母親にも円満な家庭を望むだけの気力もなにも残ってはいなかった。
多感な思春期に於いて既に人生の大部分を諦めて、俯き唇を噛む日々が続いていた。
食費の入った封筒から千円札を抜いて近所のスーパーへ行く。
中学生になってからは夕飯の支度はあたしがやるようになった。といっても夕方の値引きシールの
貼られた安い鰯やアジなどの魚を焼き、味噌汁を作るくらいのものだったのでちっとも上達などしな
かったのだけれど。
「あ」
「よう、買い物?」
門を曲がったところでばったり兄ちゃんに会った。
「うん。兄ちゃんは……?」
「ん?ああ、まあちょっとな。……んじゃ俺急ぐから」
挨拶もそこそこに落ち着かない様子で駅の方へ駆けていく。
他の子達みたいに可愛い流行りの私服など持ってはいないあたしは、無理やり着ている小学校からの
それを誰かに見られるのが恥ずかしくて、いつも平日は制服姿でうろついていた。
いそいそとした後ろ姿を見送りながら、こんな時に会うなんて――学年の割には少々くたびれた
誰かからのお下がりのセーラー服に予備さえない靴を恥じ、ちくちくと締め付ける得体の知れない痛みに
怯えていた。
『子持ちの年上の女性と付き合っているらしい――』
少し前に、叔母が母に話していたのだという。
そんな事を中学生の娘に話す女親もどうかと思うのだが、その頃のあたしにはそれをどうこう考える
よりも、兄ちゃんに恋人ができたという事実の方が受け止めるには重いものであった。
小学校低学年のうちは当たり前にくっついていたあたし達だったが、徐々に父親が家に寄り付かなくなり、
兄ちゃんが高校生→大学生へと成長しその生活が変化するにつれてそんな事も無くなっていった。
特に邪険にされたわけではないし、あたしが避けたわけでもないけれど、『いつでもおいで』と言われると
安心していつの間にか足は遠のいていく。
本心は
「兄ちゃんとあれしたいなあ、これ話したいなあ」
という気持ちがはちきれんばかりに溢れてはいたのだけれど、何となくもたもたしているうちにその
きっかけを失った。
会えると思えば会わなくなってしまうものだというありきたりな事に、その頃のあたしは気がついては
いなかったのだった。
――そんなちょっとした心の寄りどころがどれだけ自分にとって大切なものだったのか、あたしは
この時死ぬほど苦しみ思い知る事になるのだ。
母と脚のぐらつき始めた不安定なこたつの上に広げられた紙を挟んで向かい合う。
テレビのドラマでよく見る事のある緑色の枠のそれには、ミミズの這ったような字で父親の名前が
書かれてあった。
「そういう事だからね」
いつかはこんな日が来るであろう事は予想も覚悟もしていたし、どこかで密かに願っていた事でも
あった 筈だった。
「……まさかやめてとか言わないわよね」
「別に」
「なら良いんだけど。ちっとも寂しそうじゃないのね、あんた」
なんだかあの人が気の毒に思えるわ、とぶつぶつ言いながら片方の欄に名前を書き込んでいた。
おとうさんがかわいそう。わかれないで、とでも言えば満足するのか?どっちにしろ面白い顔など
しないくせに――。 とりあえず何か文句を当て付けるものが無ければ気が済まないのだろう。そういうひとなのだ、この人は。
気の毒なのはどっちだ。
「明日にでも荷物、整理し始めなさいね」
「え?」
「引っ越すから。このアパートにいる必要もないし、あたしの知り合いに新しい仕事紹介して貰ったからね」
* * *
久しぶりに訪ねた兄ちゃんは慌ただしく片付けものをしていた。
「……どっか行くの?」
ちょっと大きめな鞄に衣料を詰め、紙袋まで使って教科書を持ち出そうとしていた。
「ああ?うん。ちょっとな」
「旅行?……じゃないよね」
「ん……。家、出るんだ」
「えっ!?」
聞いてない。
「独り暮らしするの?兄ちゃん」
「……」
荷造りの手を止めてちょっと困ったようにあたしを見て、また黙って続きを始めた。
その時、一番認めたくない可能性が頭の中を掠めて、まさかとは思いながらも半分恐いもの見たさに
突き動かされるような気持ちになり、冷静に考え直すより先にそれは口をついて出た。
「もしかして好きな人と暮らすの?」
ほんの少しだけ動きを止めた手はまた忙しなく動き、
「ああ」
とだけ答えた。
「嘘」
あっさりとあたしの疑問は解決したものの、その後にやってきたのはそれまでに無かった痛い程の
喪失感だった。
「行っちゃうの?」
こんな時に。
「兄ちゃん……学校どうするの?まさかやめちゃうの?」
「いや。やめないよ。バイトもするけど、後1年行けば卒業出来るし」
「じ、じゃあまだここにいたらいいじゃない。おばちゃんはどうするの?」
「……母さんが許してくれなきゃ仕方ないだろう?」
まだ子供の部類に入るであろうあたしにだって、子持ちの年上の女性ともなれば反対する叔母の心も
解らなくもなかった。
だがそれ以上にあたしは。
「あたしは……?兄ちゃんがいなくなったらどうしたらいいの?」
守ってやりたいと言ってくれたその手は、見えない誰かのために差し出されようとしている事実が
胸を押し潰されるような息苦しさを産み始めていた。
「……葵」
すっと差し出された手のひらが頭の上に優しく乗せられた。
「……ごめんな。俺がいなくても頑張れな。葵は強い子だから大丈夫だ」
ガラガラと心に入ったヒビが一気に広がって、縋りたい気持ちが行き場を失って崩れてゆく音がした気がした。
その事実をかき消したくて耳を塞いだあたしの頭にある兄ちゃんの手は変わらず暖かくて、こんな
時なのにそれが嬉しくもあり、同時に夕べは風呂に入れなくて汚れているはずの髪が恥ずかしくて仕方が無かった。
「あたし、おか、お母さんとね……」
プツンと切れた心の糸を繋ぐ間もなく、後から後から堰を切った様に涙が溢れだしては膝の上を濡らしていった。
「うん。聞いた。こんな時にごめんな。何か力になってやりたいけど……」
「だったら!」
いっちゃやだ。
そう言いたくて、でもそれは言ってはいけないと解っていて――ような気がして、口を噤んだ。
「……兄ちゃん。結婚するの?」
「いや、俺もどうしていいかよく解らないんだよ」
「じゃあ何で行っちゃうの?もっと先だっていいじゃない。おばちゃんだって可哀想だよ」
「……解らないからそうするんだよ。俺な、他に何も考えられる程余裕が無いんだ。待つ自信も。
……葵にはまだ解らないかもしれないけど。今、他には何も欲しくないんだ」
ふっと笑って離した手は、また教科書を探り、向けられた背中はそこにあるのに見えない壁で遮られた
様に遠く感じた。
「……バイバイ」
独り言のように小さな声で呟いて玄関へと足を向ける。
「葵」
僅かな期待に動いた心は、だが虚しく潰される。
「――元気でな」
返事も返せず振り向けず、別れの時間はあっさりと終わりを告げた。
それからひと月後、新しい土地で中学2年の春を迎えた。
いつもそこにいて、悲しい心を受け止めてくれた。声を聞いてくれた。
そのあたしの心が全く届かなくなってしまったこの時、それを奪ってしまった見知らぬ誰かを憎み、
リアルな胸の苦しみと痛みを、
……初めての恋と同時に失恋という形で記憶の奥に葬った。
――将希21歳、葵13歳の春――
なんだか続きが待ち遠しくなる話だな、乙。
おい、哀しさ切なさで胸がひしゃげそうなんだが
GJ! 続き待ってます
あと数回にかけて終わる予定です。
他の方の投下も楽しみにしているので遠慮なくやっちゃって下さい
* * *
兄ちゃんと会ったのはそれから5年後の事だった。
『父親が亡くなった』
その事を聞いた時、真っ先に浮かんだのは“殺されたりしたんではあるまいな”などという不謹慎な
思いであった。
(元)妻や娘にあれだけの修羅場を演じていたろくでなしだから、まあまともな死に方はしないであろう
事は常々予測されていた事態ではあった。
――実際は不摂生が祟っての何ちゃらであり、まあそれはそれで納得するに値したのだが――実の
娘なのである、あたしは。離縁したとはいえそこは親子の情愛というもので涙の一粒も零れるものなの
だろうが、そんなしおらしさは微塵も残ってなどいなかった。
それどころか生前はあれだけ周囲に迷惑をかけまくり疎まれていた人間が、死んでしまった途端
一気に同情を集める存在になるというのがおかしくて仕方がなかった。
前妻である母はおろか、ついこの前までねんごろだった女(どうもその辺は相変わらずらしい)も
姿は見えず、別れたとは言え血を分けたあたしという娘でさえもこんな状態なのだ。
こうなった今、眉をひそめられるのは生きているあたし達なのだ。しかも母はあたしに
『お父さん死んだんだって』
と一方的に連絡を寄越しただけで、線香一つあげにくるつもりはないらしい。
だから、式を取り仕切ってる叔母を除いての最も近い身内の立場としては、それを一手に引き受け
無ければならなかったのだった。
母というひとが少々自己中なのは今に始まった事ではない。
中学生のあの春の日、新しい土地で待っていたのは、新しい父親という見知らぬ男の人とその連れ子
であった。
何も聞かされてなかったあたしは突然の変化を受け入れるに間に合わず、戸惑い、後退り、閉じこもって
しまった。
「葵?」
低いやや粘りのある声に弾かれるように振り向く。
「ああ、やっぱり葵だ。……俺の事わかる?」
黙って頷くと、久しぶりだなと答え父の棺の前に跪く。
黒いスーツの肩を背中から眺めながら、やっと家族に会えたような気がして少しだけ嬉しくなった。
こんな時だというのに。
「今お前、働いてるんだってな」
飲み物を口にしながら通夜の席の隅っこで並んで座った。
叔母さんに聞いたのだろうが、あたしの事などもう忘れていると思っていたので驚いた。
「大丈夫なのか?……ちゃんとやっていけてんのか?」
「うん。大丈夫へーき」
母親があたしには寝耳に水だった再婚をした。だがあたしにはその相手と連れ子に馴染めず新しい
学校に溶け込むのにもいっぱいいっぱいだったため、気がついたら家での居場所はどこかへ行ってしまった。
母も新しい夫と子供に気を遣うのを最優先にしあたしの事は見て見ぬふりをした。
完全に孤立したあたしは中学の担任に進路は無理を言って就職先を探してもらい、卒業すると同時に
そこの寮へ入った。
「結構気楽にやってるよ。仕事しんどいけど、もう慣れた」
中卒でデスクワークなど出来るはずないので工場の肉体労働ではあるが、それなりに充実はしていた。
「そうか。友達とかいるか?楽しいか?」
「え?ああ、うん」
「彼氏とかいたりしてな」
どくん、と胸が跳ねた。
きゅうきゅうと押し潰されるような痛みに襲われ、そっと胸を押さえた。
「どうした?」
「……ううん。ひ、人のことより兄ちゃんは?……その、け、結婚とか」
「ああ、俺か?俺はまだしてない」
「えっ!?」
あたしの頭の奥の方で苦い記憶が呼び出される。
呼んでも呼んでも届かなかったあの早春の別れの日。
何が言いたいのか察したのだろう。ふ、と小さく息を洩らして笑うと
「結局すぐだめになったんだよ、あれは。だから別れてしまった。まあ、俺には背負いきることができな
かったんだよ。……若かったんだ、多分」
勢いに任せて突っ走った恋はあっという間に散ってしまったのだろうか。
叔母は何も言ってはいなかったしあたしも聞けはしなかった。
あの出来事はもしかしたら母子の間にちょっとした溝を作ってしまったのかもしれない。――あたしみたいに。
母が父となかなか別れようとしなかったのは次が居なかったからだと思う。
実際あの人はあたしより明らかに新しい父親という人を大事にしていたし、円滑な家庭が組めないのは
あたしの努力不足によるものだとよく責められたからだ。
結局男無しでは生きられない女なのではないだろうかと哀れにさえ思う。
あたしはそうはなるまい――そう考える度、誰がどう見ても愚かだと思うような惨めな実父との結婚
生活をきっぱり断ち切る勇気の無かった母を情けなく苛立たしく嘆いていた。
――幸せとは誰かに縋らなくては手に入らないものなのだろうか。
望んでも望んでも自ら掴み取れないままのそれを欲しては、未成年故の脆い立ち位置にある自分の
弱さに唇を噛んだ。
* * *
棺の蓋がいよいよ閉じられた時、本来なら駆け寄って涙の一粒でも流すべきなのだろうがあたしには
そんな感傷は残ってなどいなかった。
案の定数少ない参列者は眉をひそめていたし、叔母は心底情けないとでもいいたげに仏とあたしの
顔を交互に見ては溜め息をついていた。
「――お疲れ」
火葬場の庭でやれやれと空気に当たっていたあたしに兄ちゃんが声をかけてきた。
「大変だったなお前ひとりで。よく頑張ったな」
「あたしは何も……」
わんわん泣いて『お父さぁん』なんて棺にしがみついたりしてたわけじゃない。逆に『一体何をしに
来たのか』と思われる方が余程普通の捉えられ方だろうに。この人は何を見てそんな事を思うのだろうか。
「頑張ってないよ。冷たいよ。あたしは」
「……泣く事だけが別れじゃないよ」
はっと顔を見上げると、長年会わずに居たはずの兄ちゃんの昔と変わらぬ瞳がそこにあった。
「取り方なんて人それぞれだろう」
目を細めながら今出て来た建物を見上げていた。
「色々な事があった。ありすぎて自分の感情を置き去りにしてきてしまったんだよお前は。それは仕方の
ない事だと思う。それでも今こうやって最期にちゃんと送り出してあげてるだろう?ここにいるだろう?」
本当ならここへ来ない選択肢もあった。なのにここへ来る事を決めたのはあたしだ。母に言われた
ところで拒否しても多分叔母にチクチク言われる位の事で済んだのだろう。
「葵。お前は優しい子だよ」
成長しても女のあたしが決して抜く事のない背丈は、どんなに追いかけても追いつけない年齢と同じく
何年経っても差をつけたままで、その手のひらは気付けば髪に触れられる。
――昔のように力強い優しさでわしわしと乱される事は無かったけれども。
「もっと楽になれ。兄ちゃんの前でくらい意地張るな。頑張らなくていいんだ」
そう言って見上げる先を同じ様に見上げれば、灰色の煙が細長い煙突から風に煽られて空に流れる。
『あたしはここにいるのに』
あの日泣きつきたくてもこの存在を心に置いてくれなかったその人のたった一言に救われた気がした。
生きていてもいいのだと思うことができた。
だが、静かに命の終わりを見上げるあたしの隣で携帯電話の向こうに語り掛ける横顔は、すぐまた
側から離れていってしまうのだろうという予感に忘れていた胸の痛みを思い出す。
誰だって縋りついて寂しさを癒やす存在というものが欲しいのだ。それを軽蔑し責めて目を背けて
おいて同じぬかるみにはまっていたあたしは実は母と同じだった。
「兄ちゃん……恋人できた?」
携帯を切った兄ちゃんのどことなく弛んだ頬に、あたしは汚れた我が身を恥じた。
「お前は?」
笑って首をふった。
でも本当はこの人にだけは知られたくないと思っただけだった。
――あたしは既に女であった事を。
兄ちゃんが結婚したと聞いたのは、それから暫くしてからだった。
――将希26歳、葵18歳の秋――
627 :
名無しさん@ピンキー:2009/07/05(日) 11:28:55 ID:bmxuM27N
( ゚Д゚)マンドクセーハナシダポ
面白いんだがハッピーエンドになるんだろうかこれ
いや、精神的にきついな
続きに期待
>>611の冒頭をみると、ハピエンかなーと思ったり。
兄ちゃんに近づきそうで、近づけませんなあ。
もどかしく続きを待ちますよ〜
わっふるわっふる
空っぽの色紙が僕の手の中に残った。
「じゃあ、この色紙を持って行ってくれるやつ、誰かいないか?望月と仲の良かったやつ」と担任教師が教壇から言った。
当然のように手は挙がらない。
あいつと仲の良かったやつなんていない。
「誰もいないか。すまん清水、お前行ってくれないか?」
教師はすまなそうな笑顔で僕に頼んだ。
「いいですよ」と僕は言った。
「本当にすまんな、学級委員長」
僕は教師から色紙と手紙の入った封筒を受け取った。
薄っぺらい、ちゃちな色紙だった。
* * *
『短い間だったけどありがとう』
『次の学校でも頑張ってね』
『さようなら』
色紙に書かれた寄せ書きを見ながら、僕は石段を昇る。
この町の地形は結構独特で、町の北側に山が、すぐ南側には海があって、山肌に住宅や寺が密集していて、坂が多くて道は狭く二人がぎりぎりすれ違えるくらいしかない。
強い夏の太陽が僕の影を石畳に色濃く焼き付けている。
ふと背中に手を回してランドセルに触れる。
黒のランドセルはじんと熱を含んで、それが指先に伝わる。
僕は色紙から目をあげる。
さすがに寄せ書きに罵倒の言葉はなかった。
あれだけ望月をいじめていた連中が、わずかばかりでもまともな心を持っていたことに僕は少し安心して
それからそんな賢しさを苛立たしく思った。
「望月のこと、ちょっと気にかけてやってくれな」
職員室に日誌を届けに行ったときに、担任教師が言った。
四月の下旬のことだ。
「あの子、なかなか口下手で友達も作れてないみたいなんだ。俺も気をつけるようにするけど、なかなか目の届かないところもあるからな。
何か困ってるようだったら手助けしてやってな。頼む!」と拝むような格好をして笑った。
「はい、分かりました」と僕も笑って応えた。
「何かあったら教えてくれよな」
「はい」
教室に戻ると、やんちゃな男子数人が箒でちゃんばらをしていて、女子は仲良く喋りながら二人で一つの机を後ろから前へ運んでいた。
教室の隅っこに望月がいた。
彼女は箒を持って床に置かれたちりとりにゴミを集めようとしていた。
しかしちりとりが動いてしまって上手くいかないようで、今度はしゃがんで左手でちりとりを押さえて右手で箒を操ろうとした。
彼女の小さな右手一本で扱うには箒の柄は長すぎて、満足にごみは入らなかった。
望月がそうやって苦闘していると、ちゃんばらをしていた男子の一人がよろけて、その拍子にせっかく集めたごみを撒き散らしてしまった。
男子は謝りもせず望月を一瞥して、それからおろおろしている彼女を友人と一緒に笑いものにしていた。
「僕がちりとりやるよ」
僕はしゃがんで、彼女からちりとりを受け取った。
受け取るとき彼女の手が触れて、僕は少しどきりとした。
望月はお礼も言わず、目を合わせようともせず、立ち上がって散ったごみをまた集め始めた。
「ほうき係は三人いるはずなんだから、全部一人でやることないよ」
ちりとりに集められていく埃の塊やビニール片や、牛乳ビンの葢なんかに目を注ぎながら言った。
おそらく窓際でちゃんばらをしているやつらがそのほうき担当なのだろうが彼らがサボっていて、また周りの女子にも頼めないので仕方なく一人でやったのだろう。
「何か困ったことあったら言ってよ。僕も手伝うからさ」
箒が止まった。
僕は顔をあげた。
いつも少しうつむいている望月とちょうど目が合った。
彼女はさらにうつむいて「いいの」と言った。
彼女の白い頬もきれいな目も、長い髪に隠れて見えなくなった。
「いいの……って?」
「私が悪いから、どんくさいから、変な子だから、だから、いいの」
「そんなこと……」
望月はごみを全て片付け終えると、一度も顔を上げずにそのまま立ち去った。
後にはちりとりを持った間抜けな僕が立っているだけだった。
ある朝いつものように登校すると、三人の女子が僕の席の一つ前の机を囲んではしゃいでいた。
そこは望月の席だった。
僕は自分の席に座って、様子を窺った。
三人が何をしているのかすぐに分かった。
彼女たちは望月の机にペンで落書きをしていたのだ。
まだ書き始めたばかりのようで、机の右三分の一ほどに幼稚な嘲罵の言葉が書いてあるだけだった。
「やめなよ」という声が喉元まで出かかって、しかしそこで萎んで消えしまった。
望月が登校してこの机を見たら、と考えて、なんだか胸が絞られるように痛んだ。
こなければいいのに、と思った。
こないでくれ、と心の中で祈った。
しかし望月は来てしまった。
彼女は机の前で立ち尽くして、それから深くうつむいた。
遠くでさっきの三人がくすくす笑っていた。
その様子に気付いた他の子も愉しげに見物していた。
望月はやっと席について、ランドセルから筆箱を出して、消しゴムで落書きの上を擦った。
けれどペンの文字は消えず、消しカスが人を小馬鹿にするように机の上に散らばっただけだった。
彼女は消しゴムをしまうと、途方に暮れたようにまたうつむいてしまった。
女子三人は反応をなくしたおもちゃに興味をなくしたようで、今度はファッション雑誌を囲んではしゃいでいた。
僕は一度教室を出て水道でハンカチを濡らしてから、また教室に戻った。
そのハンカチで落書きで汚れた机を強く拭いた。
「良かった、水性だから落ちるよ」
望月は顔を上げて、僕の手元をジッと見つめていた。
軽く拭けば消えるのに、僕はなぜか意味もなく力強く拭いた。
落書きはあっという間に消えた。
彼女の孤独もこうやって消えてしまえばいいのに、と思った。
望月に目をやると、彼女は何か言いたげに口をわずかに開いたり閉じたりしながら、相変わらず机に視線を落としていた。
* * *
望月へのいじめはその後も続いた。
体育の時間、校庭を走っているとき教師の目の離れた隙に男子の一人が足をかけて彼女を転ばせた。
彼女は見事に前のめりに転んで、肘と膝を擦りむいた。
真っ赤な血が白い足に一本の線を引いて涙のように流れていった。
そのときも彼女は泣かなかった。
うつむいて耐えていた。
けれど望月はだんだん休みがちになっていった。
そして七月には学校に来なくなった。
もうすぐ夏休みに入る七月の中旬のある日、彼女が転校することを担任から聞かされた。
親の仕事の都合だと言うから、たぶんいじめが原因ではないのだろう。
担任は色紙を掲げて
「これにみんな一言ずつお別れの言葉を書いてください」と言った。
色紙は僕のところにも回ってきた。
『転校先でも頑張ってください。さようなら』と書いた。
望月をいじめていたやつらと何も変わらない言葉を書いている自分がたまらなく嫌になった。
* * *
インターホンを鳴らす。
しばらくしてドアが開いて女性が顔を出した。
望月のお母さんだろうか。
穏和な感じの人だった。
「こんにちわ、日奈子のお友達?」
僕は望月と友達なんだろうか。
この女性の言う『お友達』は『クラスメート』ぐらいの意味なんだろうと頭では分かっていても、少し言い淀んでしまった。
「あの、これ、今度転校しちゃうって聞いて、クラスのみんなで寄せ書きしたんです」
僕は色紙と手紙を差し出す。
「あら、ありがとう。今、日奈子を読んでくるからちょっと待ってて」
望月の母親は色紙を受け取らず、踵を返してさっさと中に入っていってしまった。
僕は気の重くなるのを感じながら、強い日射しの下で彼女を待った。
引き戸の開く音がして、奥から小さい足音が聞こえた。
「あの、これ、クラスのみんなが寄せ書きしてくれて、あと先生から手紙」
なんとなくしどろもどろになりながら、目の前に立っている望月にそれらを手渡した。
彼女は受け取った色紙を見て、それから悲しいような悔しいような表情をほんのわずか、僕の見間違いかと思うほどに滲ませた。
胸が痛んだ。
僕は咄嗟に彼女の手から色紙を引ったくって、それを折り曲げた。
驚くほど簡単に小さくなったそれを右のポケットに無理に押し込んだ。
望月は目を丸くしていた。
とんでもないことをしてしまったという思いが湧いて、僕は焦った。
最低の行動だ。
謝ろうとした僕に、望月は手紙を差し出した。
担任からの手紙だ。
差し出された手紙を受け取った。
彼女の思いが僕の心に流れ込んできた。
そのことがすごく嬉しかった。
僕はその手紙を封筒ごと破ってポケットに押し込んだ。
色紙も手紙も、二人の視界から消えた。
世界から消えた。
「ありがとう」と望月が言った。
彼女はうつむいてはいなかった。
目と目が合った。
優しい目をしていた。
僕は彼女に言わなければならないことがあるような気がした。
『頑張ってください』でも『寂しくなるね』でも『さようなら』でもない何かを。
けれど言葉は声にならず、思いは形にならず、夏の光に溶けてその行き場を失った。
僕は何も言えず、彼女の透き通った瞳を、頬にかかるきれいな髪を、ただ見ていることしか出来なかった。
蝉が鳴いていた。
その夏初めて、蝉の鳴き声を聞いたような気がした。
短いけどこれで終わりです
乙!
おお・・・いつの間にか新作がきてる。
保守
きりのいいとこまで落とします
* * *
それは突然の事だった。
『葵?……元気か』
「兄ちゃん……?」
休日のだらけた頭で時計が昼になろうとしているのを寝床で確かめながら、必死で今の状況を受け
入れようと頭を巡らす。
父の葬儀から2年。
突然の電話は、沈んだ泥のような澱んだあたしの日々を何の躊躇いもなくかき回していった。
電話を切ってから急いで化粧をし、着替えて電車に飛び乗った。
待ち合わせた駅に着いて懐かしい顔を見ても、まだどこか現実ではない所にいるような気がして不安だった。
「元気そうだな」
「……どうして?なんで急に……」
本物だ。本物の兄ちゃんだ。けど、なんで此処にいるのかとか番号はとか、何用だとか頭の中には
疑問符が飛び交っていた。
「仕事でこっちに1ヶ月間出張する事になってな。挨拶しようと伯母さんとこに連絡入れたら、お前
ずっと帰ってないって聞いたから。……ま、久しぶりだし、どうしてるかなって」
「今寮出てアパート借りて一人でいる」
「そうか……ちゃんとやってけてるか?」
「うん。大丈夫だよ」
あれからも実家(と呼べるのかは疑問だが)にはほとんど寄り付いていない。
母は相変わらず今の家族に気兼ねしてあたしの存在は隅に追いやっているし、あたしも向こうの人間
も未だに空気が馴染まない。
無理に仲良くなろうとしても亀裂が埋まるわけでもないので、本当に険悪になる前に避けた方が互い
の為なのだ。結局のところは。
とりあえず入った喫茶店でお茶しながらそんな話をする。空白の時間を埋めるには近況報告から入らねば
仕方ないのだ。
「そんなんでいいのか?ケーキとか頼んでもいいんだぞ」
「いい、そんなの」
「女の子ってそういうの好きなんじゃないの?遠慮すんな」
「もーいいってば」
あまり気を遣って欲しくなくて、つい意地になって断ってしまった。
「そうか……」
目の前に出されていたメニューを引っ込められる。
「ごめんな。つい子供扱いしちゃうよ」
「……あたしはもうハタチだよ」
「だよなー。ついこの前までと比べたら、随分でっかくなって驚いたばっかりなのに。すまんすまん。
あんまり好きじゃないのか?悪かったな」
「そうだよ。立派なオトナですよあたしは」
いつまでも子供じゃないんだ。
そう言おうとして合わさった視線は、ほんの少し眩しそうな、それでいて寂しげに見えたのはあたしの
思い込みだろうか。
何となく悪い事をしてしまったような気がして、黙って氷の溶けたアイスコーヒーをかき回した。
苦い。意地張ってないでシロップ位入れたら良かった。
そんな事を思いながらあたしはある事に気付いていた。
視線を落とすと目に飛び込んでくる兄ちゃんの薬指――怖々と盗み見たそこにあるべき物が見当たらない。
「兄ちゃん」
「何だ」
よせばいいのに。もう1人のあたしが高ぶる好奇心を抑えにかかる。
「……奥さん、いるって聞いたけど」
それは間に合わなかった。
兄ちゃんはふと指を見下ろして
「うん」
と呟いた。
――あたしは何を期待していたのだろう。
止せば良かったと考え無しの言葉遣いにいつも後悔する。
別れてしまえば楽になるのに、謝られると赦してしまう。縋られればその場は払っても、後で必ず
逆に縋りに行ってしまう。
それで立場は逆転し、結果――棄てられる。
一言相手を突き詰めただけで全てが音を立てて壊れてゆくのだ。
知らないふりをしていればある意味幸せなのかもしれないのに。
あたしは自分から不幸になりに行ってるようなものだ。
「葵?」
「……あ。うん、ごめんぼーっとしてた」
何事もなかったようにストローに口をつける。
「そっかー。じゃ、1ヶ月寂しいねー」
出来る限りの明るい声で冷やかすように笑って答えた。
「……大人をからかうなよ」
「あたしだってオトナですよ?」
取り繕った笑いはどう届いたのかは解らないけれど、兄ちゃんは笑ってくれた。
大好きだったあの笑顔で。
「これからどうする?久しぶりだし飯でもと思ってたんだけど、夕飯にはまだ早いしな」
どこか気の利いた所を案内出来れば良かったのだろうけど、あたしは生憎そういったものを知らない。
家を出てから、経済的にも精神的にもいっぱいいっぱいで余裕がほとんど無かった。だから友人も
少ないし、遊びに出掛けるような誘いにあった事も無かったからだ。
そんなあたしにも不満を洩らす事もなく、じゃあと適当にぶらつくかと決めて兄ちゃんは初めての
土地を珍しそうに眺めながら歩いた。
何気に立ち寄ったショッピングモールの店でふと足を止めた。
これ可愛いな。
何となく表に飾ってあった淡いクリーム色のチュニックを手にして見ていると、
「それ欲しいのか?」
と横から覗き込んでくる。
「……あ、ううん。見てただけ」
ちょんと触れた肩と屈んできたすぐ側にある横顔に思わずドキドキして、慌てて服から手を離した。
「兄ちゃんが買ってやろうか?」
「えっ!?」
いいよ、と首を振った。高いし、第一あたしにこんな可愛い系の服なんか着る機会はない。今だって
デニムのカプリに安物のTシャツというスタイルだ。久しぶりに大事な人に会うというのに、お洒落
一つするのもままならない。
若い女の子とあろうものが幻滅されたのだろうか、と少し悲しくなった。
――少しでいい。大人になって綺麗になった、と思って欲しかったのだ、多分あたしは。
まごまごしてるうちにすっ飛んできた店員に『今のパンツにも合いますよー』とか何とか言われ、
「サイズこれでいい?」
それ以上断れない空気に
「うん」
と答えると、兄ちゃんはさっさとそれをレジに持って行ってしまった。
「これ位させてくれ。頑張る葵にご褒美。たまには兄ちゃんらしい事してやりたいんだよ。」
子供に玩具を買ってあげるのを楽しみにしているという上司がいる。
「……ありがとう。兄ちゃん」
きっとそれと同じような気持ちなのだろう、この人は。
――そう思って、笑ってそれを受け取った。
それから翌週の休日も一緒にご飯でも食べようと約束した。
せっかく買ってもらったのだから、とあの服を着て待ち合わせ場所に向かう。
先に来て待っていた兄ちゃんは、あたしの姿に気付くと軽く手を上げて合図し、声を出そうとした
ように見えたのにそのまま口を閉じて少しだけ笑った。
「……なに?へ、変かな」
もしかして似合わなかったのか。せっかく買ってやったのに、とがっかりさせたのかもしれない。
そう思って申し訳なさを感じていた。
「……いや、似合う。可愛いじゃない」
「……ほんと?」
「ああ。全然変なもんか。女の子に見えるよ」
「ちょっ!?酷いなー」
はは、と悪戯っぽく笑う頬を思い切ってつまんでやった。
「ごめんごめん!いや、可愛い可愛い。本当だってば」
子供の頃よくこうやってからかわれては仕返ししてやったっけ。
怒って真っ赤に見えたであろう顔は、本当は違う理由で熱かった。
兄ちゃんの借りているウイークリーマンションが近くにあるので、そこでご飯を食べる事になっていた。
「寮に空き部屋が無かったんだよ。ビジネスホテルも1ヶ月だとばかにならないからね」
外よりゆっくり気兼ねなく長話も出来るし、何より安上がりだ。あたしも別に不満はなかった。
近くのスーパーで食材を買うことにする。
カートを押しながら歩いていると、時々
「奥さん安くするよ、どう?」
なんて販売員から声が掛かる事もあって、世間の見る目なんて適当なもんだと苦笑してしまった。
「いや、でもそんなもんかもしれないよ?」
いりません、と手を振りながら兄ちゃんがボソッとつぶやいた。
「この前これ買った所でもさ、『彼女さんによく似合うと思いますよ』とか言われたもんな。見える
人にはそう見えるんだよ」
「そうなんだ……」
少し前なら、あたし達は歳の離れた兄妹のようなものにしか見えなかっただろう。……実際、それ
以上でもそれ以下でも無かったのだけれど。
「そうだね。一歩間違えば援交だよ」
「え……!?ちょっ、お前いくら何でもそれは無いだろう!そんなに親父臭いかなぁ俺」
「あはは」
この時あたしは、少しずつズレ始めたこれまでの距離感と立ち位置に、変わらない筈の絆の強さを
信じる心が揺らいでいる事実をどう受け止めればいいのか、密かにその想いを胸に秘め始めていた。
「ほら、危ないぞ」
通りを歩きながら考えに耽っていたせいで、すぐ側を横切った車に気付かずにいた。
兄ちゃんが引っ張ってくれなかったら転んでいたかもしれない。
「うわ……ご、ごめ」
「もうー危ないなあ。考え事しながら歩く癖直ってないんだな」
そのまま掴んだ手を繋ぎ直して通りを歩く。
「ちょっ……大丈夫だよ」
「ダメだ。危なっかしいんだよ葵は」
「あたしもう子供じゃないよ」
「子供だよ」
何気ない一言だったろうに、あたしにはずきんときた。
「……子供じゃないよ」
「子供だ」
言い切られてしまって返す言葉を失くし、沈黙したまま歩いた。
「手離してよ」
「だめ。お前は見ててハラハラするの。昔から結構しっかりしてるくせして……そういうとこ、変わってない」
ビールの入った少し重い買い物袋を見ながら口を尖らす。
「お酒だって飲めるし」
「はいはい」
……結局あたしはいつまで経っても、危なっかしい歳の離れた従兄妹から終われないのだろうか?
反対側をすれ違う小さな子供の手を引く父親という親子連れと自分達を重ね合わせる事に、この人は
何の躊躇いも無いのか。
「ね、ねえ。知らない人から見たらさっきみたいに新婚さんに見えちゃうよ?」
「ああ、そうか?あ……もしかしたら嫌か?」
「……そうじゃないけど」
「……ごめん。そうだな。もう子供じゃないのにな。おじさんが相手じゃ悪かったな」
笑って、でも寂しそうに手を解かれた。
「嫌じゃないよ」
「……」
嫌なのは、そんなふうに構われるのが辛いだけ。あたしはもう“女の子”ではないのに。
少しばかり気まずい空気の中、部屋まで歩いた。
短期間の滞在だというのに意外と生活感のある部屋だった。その辺りに散らばっている服や小物、
家具も家電も備え付けてあるせいかとも思っていたが何かピンと来ない。
だが狭めのキッチンに立ってみてその理由がわかった。妙に調理器具が揃っているのだ。
包丁やまな板以外にも皮むき器に始まり、ボウルから何から一通り必要なものがしまい込まれてあった。
「兄ちゃん自炊すんの?なんか慣れてそう」
「ああ、まあな」
「奥さん幸せだねー」
「……そうかねぇ」
それ以上喋らずに野菜を洗い始めた背中を見て、あたしは聞いてはまずい事を聞いてしまったような
気になった。
せっかく入れ替わりかけた空気がまた澱んでいく。
もう何かを口に出すのもはばかられて、後について黙々と皮むきを始めた。
いいとこ見せようと思ったのになあ、なんてばかな事を考えながら、たどたどしい手付きで炊事を始めた。
独り暮らしをする女の子なら料理がうまいだろうと思われがちだが、金銭的にも時間的にも余裕が
なければ案外腕は磨かれないものである。
使えるだけのお金でそれなりの量と材料、器具(流行りのレンジ料理だってそれが買えなければ覚え
ようがない)で乗り切ろうと思うと、結局それなりの繰り返しになってしまう。
「期待外れでごめんね」
ほとんど兄ちゃんが作ったご飯を食べながら情けなくうなだれる。
「いや、大丈夫。最初からしてない」
「はあっ!?」
意地悪く笑いながら注いでくれたビールをヤケクソで飲み干してやった。
「まあ、まだ若いんだし。……結婚でもするような相手が見つかれば頑張ればいいさ」
その言葉に胸がチクンと痛む。同時にやり場のない絶望がそこへ被さってくる。
「……しないよ」
「ん?」
「あたしは結婚なんてする気ないもん。幸せな人にはわかんないだろうけどさ」
複雑な困ったような顔を向けられて少し後悔したけど、それがあたしの本音だった。
不幸になるくらいなら最初から独りで構わない。
あたしはここ数年で誰かに期待する事を止めてしまった。
暫く外を走る車の音だけが響く。
そんな中、兄ちゃんが口を開いた。
「俺な、こっちの社に移って来るかもしれないんだわ」
1ヶ月の予定だった出張はそれで終わるわけではなくなるかもしれないらしい。
「へ、へぇ。ああ、そう。じゃあ奥さんも来るよね?……今度は寂しくなくなるじゃん。良かったね!
あ、でもそしたらあたしとはもう遊んでくれなくなるかー、残念」
ここにきて現実に打ちのめされる。本来なら、ここでこうしているのはあたしではないのだ。従兄妹
という免罪符が無ければ――妹というフィルターがあればこそなのだから。
「いや、彼女は来ない」
「えっ!?まさか単身赴任?」
「いや」
はあ、と息を吐くと箸を置き、ビールを一口飲んでこっちを見直した。
「……離婚する事になると思う」
「嘘」
思わず指輪の無い薬指に目を向けた。
日焼けしたその跡の白さに、彼の決意のあとを今更に垣間見た。
「どうして……?」
「冷めたとか、これといって不満は無いんだ。だけど、気がついたら互いに必要なものが決して自分達
ではない……何て言うか、別に独りでいる時と変わりないような気がして来たんだ。一緒に居るこ
との意義が感じられないというか」
言ってることがよく解らなくて首を傾げた。
「俺はいつも相手を幸せにしたいと思ってきた。だけどそれは俺の独り善がりな傲りで、向こうはそれを
望んではいないんだ。俺に縋らなくても生きていける……。それは素晴らしい事なのに、俺は何となく
必要とされてない気がして、気がついたら色んな事が解らなくなった。虚しくなった」
もしかしたらこのまま戻らないつもりで居るのかもしれないと、僅かな期間なのに生活感の漂う部屋
を見回して思った。
「我が儘だよ」
同時にすうっと何かが醒めて、慰めでも叱咤でもない言葉が口をついて出た。
「葵」
「我が儘だね。自分がいなきゃ幸せになれないと思ってたんだ。自力で幸せになろうとする人間じゃ
兄ちゃんは価値を見いだす事が出来ないと思ってるんだ。そんなの……思い上がりだよ」
本当に縋りたい時にそれを許されなかったあたしは、誰かに不幸の淵から救い出して貰う事を諦めた。
そのかわりに、誰にも期待しない分、誰かのせいにする事も、誰かを頼る事も止めた。
だけども、心の隅にはいつもお守りのようにたったひとつ。
ひとつだけ寄りどころにしていた大切なものがあった。
「兄ちゃんは、どうしてあたしに優しかったの?」
「どうして……って」
「あたしが不幸で可哀想だったから?力のない幼い弱い子供だったから?」
冬の日の、寒さに凍えた手を温めてくれた優しさを思い出す。
「――だから守ろうと思った?」
どんな時も、ひとつだけ、あたしを支えてくれたあの時の優しさはそうだったのだろうか。
「同情なんかいらない」
自己満足な優しさならいらない。
「葵……」
「……兄ちゃんが好きだった。多分あたしの初恋だった。気付いた時には、もう離れちゃった後だったけど」
それを聞いた兄ちゃんの顔は複雑に崩れて、そして言葉が見つからないのか口を開きかけたまま何も
いうこと無くあたしをただ見つめていた。
「……がっかりだよ」
言い捨てた途端涙が零れた。
あたしを本当に妹だったらと言った事も、優しい子と慰めてくれた事も、それは兄ちゃんなりの精一杯
嘘のない優しさだったのだろう。
だからこそ悲しかった。
プレゼントされた服も、繋いでくれた手も――あたしはこの人にとって棄てられた子犬のような危なっかしい
小さな子供でしかないのだという事が。
存分に優しさを発揮出来るだけの存在でしかないのだろうという事が。
優しさは時には罪だ。
「ごめん葵……」
重苦しい空気の中、更に苦しげに声を絞り出して呟いた。
「ごめんな。兄ちゃん、お前の事は本当に大事に想ってた。だけど、そうやってしらないうちに傷つけて
たんだな。これまでもそうしてきた事あったんだろうな、他にも。俺は……嫌な奴だな。幻滅させたな」
――情けない兄ちゃんでごめんな――
テーブルの隅にぽとぽとと垂れる涙の粒を眺めるあたしの髪を優しい手が撫でる。だがそれはすぐ
はっとした様に引っ込められる。
子供扱いするなと再三に渡って言ったあたしに対する、それなりの謝りの気持ちだったのだろうか。
この人は本当に優しい人なのだろう。
だけどその優しさを素直に受け入れて貰えなければ、自分自身納得いかない人なのかもしれない。
それが時には偽善に見えるのかもしれない。……今のあたしのように。
「兄ちゃん」
「ん?」
「あたしの事怒ってる?」
「いや……。むしろ悪かったって思ってるよ。お前の事可愛がってるつもりが、逆に辛い思いさせて」
「……それはないよ」
それだけ言うと、あたしは玄関に立った。
「帰る」
「え!?……あ、じゃ、送るか」
「いい。まだ明るいし、駅から一本道だったから。いくらあたしでも大丈夫だよ」
努めて明るく言ったつもりだったけど兄ちゃんは沈んだままだった。
そんな顔を見るのがふいに辛くなって、あたしは自分でも気がふれたのかと思いたくなる様な言葉を
吐いてしまった。
「兄ちゃん……。いっそただの男と女なら良かったね、あたし達」
「え?」
「あたし兄ちゃんが思うほど子供じゃないよ」
靴を履いてドアを開ける。
「……とっくに女になっちゃった。ごめんね」
可哀想可愛いままの妹じゃなくて。
本当は傷ついたのはあたしじゃなくて、あたしが貴方を傷つけた。
名前を呼ぶ声を背にそのまま部屋を飛び出した。
視界に行く道を滲ませながら、醒めた筈の想い出は、まだ現実の中でリアルに痛みを伴っている事を
嫌と言うほど思い知らされた。
――あたしと兄ちゃん20歳と28歳の夏の夜――
GJ!!
読んでて胸がシーンとするね。
GJ! 切ないな……
葵はあと何回こんな思いを味わうんだろう
幸せになってほしいな
650 :
名無しさん@ピンキー:2009/07/11(土) 14:12:51 ID:P7NIS4Iu
切ないなあ……。てか葵たんを女にしたのは誰だよ畜生!
1ヶ月はすぐ過ぎる。
あの後何事も無ければ、時間があればきっとあたし達は何度も会っていたかもしれない。
メールも電話もわかっていたのに返さなかった。
未だリアルに疼く泣きたくなる程の胸の痛みが過去になってしまう事だけを、ただただ望んでやり過ごした。
部屋の隅に掛けた夏服はもうすぐ着る事はなくなり、次々季節が巡っていけばやがて古臭いものと
してどこかへしまい込まれてゆくのだろう。そうして忘れ去られる。
今の自分の中のどうしようもないやり場のない気持ちも、いつかそうして風化してゆくのだろう。
ただそれを願うばかりだ。
あたし達はただの男と女ではない。従兄妹という切符がある限り、必ずどこかで繋がっていられるのだ。
そのレールから外れる事は決してしてない。
一度しか袖を通さずにいた流行りの夏服を見る度にそれを思い出す日が来るのだろうか。
あたしの中でひとつだけ、ただひとつだけの優しい想い出。
誰かに幸せにして貰う事など夢だと思った。自分自身で掴むものだと思っていた。
だけどそれは望めば望む程どうしようもなく遠のいてあたしを打ちのめしていく。
あたしは幸せに生きる事を諦めた。
だからそれを棄てるために――
もう一度夢を見てみようと思う。
「もう会ってはくれないと思ったよ」
多分これが最後の休日になるだろうと思われる日、あたしはやっと兄ちゃんに連絡を入れた。
「結局あっちに戻る事になりそうだよ」
大まかな荷物はあらかた送り返してしまったらしい。部屋に残っているのは今週分の着替えと僅かな
身の回りの物の入った鞄と寝具だけだった。
「ここに居てもお前を傷つけただけに過ぎなかった。どこに居ても誰のためにもなれないと解ったよ」
本当に居なくなるのだ。
「……あれから妻とも何回か話したけど、離れてみてよく解ったよ。俺達は冷めてしまったわけじゃ
ない。けど、互いに自分達でなきゃ駄目かって言えばそういうわけでもないらしい。だったらいっそ
……独りに戻っても同じだと思う」
「……そう」
「ものわかり良過ぎるのも駄目なんだと。彼女の好きにして欲しくてよかれと思った事が、逆に自分
は必要ない人間なんだと思われたらしい」
そんなものなのか。知らない人間から見たら贅沢な不満に聞こえてくる。だけど愛や優しさの形は
人それぞれなのだ。まして夫婦の仲なぞあたしに解るわけもない。
「押し付けがましい優しさも、その逆も、結局俺はどちらも相手の求めるものを与える事が出来なかった。
必要として貰いたい気持ちが強かった。それは……葵の言うとおり、思い上がった自己満足だった」
あたしのせい?
この人は今、自分の存在意義を失いかけているのかもしれない。
必要とされない事の苦しみは、あたしが一番解っていた筈だったのに。
「ごめんな。情けない兄ちゃんでさ。すっかり幻滅させたな」
「そんな」
「いいんだ。それだけ葵は大人になったんだよ。もうあの頃のちびで危なっかしい子供なんかじゃない」
あたしをまだ子供だと言ったついこの間までの貴方はどこへ行ったのか。
謝らないで欲しかった。
傷ついたのはのはあたしじゃない。あたしが貴方を傷つけてしまったのだ。
幸せになることを諦めてしまったあたしは、色んな事に期待する事を止めてしまった。そのために
自分だけでなく、人に優しくする余裕さえ失ってしまったのだ。
酷いのはあたしの方だ。なぜ大切な筈の人間にさえ、それだけの事が解らなかっのだろう。
「兄ちゃん……」
「なに?」
やっぱり全部棄ててしまおう。
縋りつく事の無いように。
きちんと前を見るために。
決して振り返る事の無いように。
「あたし達はもう会わない方がいいのかもしれない」
貴方があたしを忘れてしまうように。あたしも想い出ばかりに囚われないために。
「あたしを……抱いて」
そして忘れて。
それまで力無く笑うだけだった顔が一瞬にして強張った。
「……は?」
「だから、抱いて」
「何を……」
まさかあたしがそんな事を言うはずがないとでもいうように目を見開いていた。
「ふざけるんじゃないよ」
「ふざけてなんかないよ」
膝の上で握り締めた手を、さらに力を込めて握る。エアコンは効いているのに、へんな汗が背中をつうと走る。
「……駄目だよ」
「なんで?」
「お前は妹だ。俺にとって、誰よりも……大切な妹だ。だから」
「大丈夫だよ。従兄妹同士って結婚もできるんだから」
だからそれ位許される。
「葵……」
「もうやめようよ。あたし達嫌でも一生縁はあるんだよ?その度に互いに腫れ物に触るみたいに過ごさ
なきゃならない。大事に想いたいからこそ言いたい事の半分も言えない気がする。そんなのはもう
嫌。辛い……」
これから先も、貴方があたしを踏み込めない優しさで守ろうとするなら、それ位ならいっそ。
「だからやめよう。傷つけるのも傷つくのも、ずっと恐れたまま生きて行くのは嫌なの」
事ある毎に罪悪感を感じなくてもいいように。
すっぱり切れてしまったとしても、それで良かったのだと振り返らずに済むように。
何よりも、あたしが貴方にしがみつかなくても良いように。
「……駄目だよ。絶対にいけない」
「あたしじゃ不満?」
「そんなんじゃない!」
突然語尾がキツくなった。言った後自分でもそれに驚いたのか、兄ちゃんは口をつぐんだ。
「……そんなんじゃない」
「だったら」
何故。
「駄目なものは駄目だ。……俺は、葵お前だけは……なにがあっても抱かない。抱く気はない。何が
あっても、だ」
あたしは女じゃないと言いたいのか?違うというのなら、あたしもそう見られるに値するという事
ではないのか。
「嫌なの?……あたしが嫌い?」
「違う。そうじゃない。そんなんじゃないんだ。お前を嫌いだなんて思った事なんて一度だってありは
しない。大事な女の子だと思ってるよ。今でも。……あの頃と変わらず」
何でだろう。大切にされていて、それはとても嬉しい事の筈なのに、何故かとても悲しい事のような
気がして涙が零れた。
ふと、兄ちゃんの肩が震えているのに気がついた。
同じように泣いていた。俯いて、鼻を啜る音がした。
「……大丈夫?」
他に何と言えば良いのかよくわからなくて、少々まぬけに思える声の掛け方をしてしまったかもしれない。
「大丈夫なもんか。辛い思いいっぱいして、それでも頑張って生きてきたお前に、本当に大事にしなきゃ
いけなかった筈のお前にこんな事言わせてるんだぞ?情けないよ。俺は、自分が情けなくてたまら
ないよ……」
悲しいのではなく寂しいのかもしれない。
やはりあたしは妹から抜け出す事が出来ないのだろうか。
「兄ちゃん。あたしはもう兄ちゃんの知ってる葵じゃないんだよ」
本当ならずっと胸にしまっておけば良い事だった。少なくとも兄ちゃんの前ではそれを知らんぷり
しておいた方が平和で楽だっただろう。
「何が」
「あたしはもうとっくに綺麗じゃない。年齢だけじゃなくて、女なの。兄ちゃんの知ってるあの頃の
ままじゃないの」
宙をさ迷うように目を泳がせて、それからゆっくりあたしを見る。無表情だった顔は徐々に驚愕した
それに変わる。
「ね?だからあたしはもう子供なんかじゃないんだってば」
「葵お前は……」
だからもうあたしを許して。
ただの女としてあたしを見て。罪悪感なんて要らないんだから。
「知ってる?兄ちゃん。男が女に服買う時ってね、脱がせる時の事想像してるんだってね」
最後の駄目押し。
二度目に袖を通した服を示しながら出来るだけ明るく振る舞った。
兄ちゃんの目はまるで知らない女の子を見るような目つきになった。
うん。それでいい、それでいいの。
――ただの男になって。
想い出からあたしを解放して下さい。
「……借りるね」
その辺にひっかけてあったタオルを手に取ると、さっさとシャワーしに向かった。
その間物音一つ、灯りを点ける気配すら無かった。
バスタオル一枚の姿で風呂から出て行った時には、薄暗くなりかけた部屋の真ん中でずっと同じく
俯き座ったままの格好をしている兄ちゃんの姿があるだけだった。
ふと顔を上げてあたしの顔を見る。
「……葵?」
「なに?」
「葵だ」
再会してからすっぴんのあたしを見るのは初めてだったからだろうか。
「俺の葵だ」
にっこりと安心したようにふにゃっと崩れた顔をして笑った。ツられてあたしもつい笑ってしまった。
「あたしじゃなかったら誰なのよぅ?」
「えー?だって何だかどこかのお嬢さんみたいになっちゃってたからさ」
「……」
さっきとはうって変わって軽口を叩くと立ち上がってこっちへ向かってきた。
あたしの前に立つと、まだ雫の伝う頬に指を添えた。
「本当にいいんだな?」
こくんと頷く。今更ながらドキドキしてきた。
ぷに、と2本の指でほっぺを摘まれる。
「痛」
「……行ってくる」
わざと摘まれたほっぺを膨らませて抵抗すると笑いながら指を離し、風呂場に消えた。
「永かったなぁ……ここまで」
シャワーの音を聞きながらころんと布団に横になる。
男の匂いのする枕。
昔はあんまり好きではなかったいわゆる“男臭さ”を愛おしく感じて、少しだけ泣きたくなった。
「大丈夫だよね。あたしは、大丈夫」
目を閉じて呟きながら過去を振り返り、時の重さを計る。
想い出というものは時間が経てば経つほど美化されて、それに囚われているあたしのような人間は、
そこから前に進めなくなってしまう。
だからそれを棄てるのだ。
――シャワーの音が止んだ。
なんという生殺し……いや、GJっすw
哀しいくらいに純愛だな……
GJです……切なくてうまくレスできねえ
658 :
沢井:2009/07/18(土) 23:34:37 ID:LTHcJ+PB
GJです。GJついでにコトノハ 第十三話置いて行きます。
目の前の男。その顔をよく見れば見るほど、それがよく知る人物の持ち物だと思い知る。
「な・・・あ、あんた・・・」
ちょっと待て。おかしいだろう。何故。何故あんたが、ここにいる?あんたは七年前に、ふらっと勝手に居なくなって。それから咲耶が変わってしまって。なんで。なんで今更、のこのこと現れた?
「あんた・・・ここで、何してやがる!?」
言った後から自分でも驚くほど、大きな声が飛び出した。俺の背を掴んでいた咲耶がびくりと身を震わせたのが、着物越しでも分かった。
「か、和宏君、これには訳が・・・」
「うるせえっ!訳だぁ!?んなモン知った事か!」
驚いた咲耶の手を振り払い、目の前の憎い者の襟首を掴む。まるで自分の身体じゃないかのように、腕はスムーズに動いた。
「っぐ!?」
「か、かずくん!?やめ・・・」
「あんたのせいでっ・・・あんたのせいで咲耶はなあっ!」
そうだ・・・この男さえ居なければ。この男さえ居なければ咲耶は、今のようになる事だって無かった。
俺の後ろに隠れて人の目に怯える事も、彼女の親族から後ろ指を差される事も無かった・・・全部、この男のせいで―――――!
「―――かずくんっ!」
どん、と。またしても、背に衝撃。覚えのある温かさが、俺を捕まえる。・・・何か言われる前に、俺は両手の力を抜く。高橋光也が、俺の前に屈み込んで苦しそうに二、三度咳き込んだ。
それから、咲耶は俺を見る。その目には大粒の涙が浮かんでいて。いつもよりも若干険しくなった瞳が、真っ直ぐに俺を見据えていて。
(・・・あ、やべ)
また泣かせちまった、と気付いた瞬間。
―――――パンッ、と乾いた音。
ビンタ、と言うにはあまりにも力の入っていない一撃が、俺の頬を張った。
「・・・・・・」
俺は何も言わなかった。否、言えなかった。・・・まさか、咲耶にビンタ喰らうとは思ってなかったんだ。
「・・・っ・・・」
そのまま、咲耶は何かを言いかけて・・・結局、何も言わなかった。呆然とする俺たちを置いて、俺が元来た道を走り去っていく。
「咲耶っ!」
光也の声だけが、夜の境内に虚しく響いた。
「な、なあ和宏君・・・咲耶は一体、どうしてしまったんだ?話し掛けても、逃げるだけで何も話してくれないんだ・・・」
(どうして・・・しまった・・・だと?)
ごめん咲耶。俺、やっぱりこの男は許せないや。そう思ったときにはもう、俺の拳が光也の頬に突き刺さっていた。
「あんたのせいだろうが!あんたが咲耶を置いて行ったせいで・・・!」
目を白黒させる光也を見下ろして、俺は吼える。本当なら、もう五、六十発はぶん殴ってやりたいが、俺は辛うじて自分を押し止める。
「わ、私の・・・?」
「・・・七年前、あんたが居なくなってからの事だ」
俺は、無様に尻餅を付く光也から目を逸らす。本当なら、こんな奴に何も話してやりたくない。だが、この男が事情を知らなければ・・・また、咲耶に近付こうとするだろう。
「あんたが消えてから暫く、咲耶は何の連絡も、うちに寄越さなかった・・・あんたの言った通りにしなければ、あんたが怒って帰ってくるって信じて、あいつは・・・」
「な・・・そ、そんな・・・」
相当、堪えている様だった。娘が何も知らずに保護を受けられる環境を、この男は作ろうとしていた。けどその娘の賢さが、それらをすべて壊したんだ。当たり前だろう。
「三日だ。たった十歳の子供が、三日間も、誰も帰らない家の留守を守ってたんだぞ・・・それから、あいつは俺たち家族以外の人と、話すことが出来なくなったんだ!」
怒鳴り、ふう、と息を吐く。これで全部だ、と言う代わりに、俺は光也に背を向ける。こんな奴よりも、家に向かったであろう咲耶のほうが、よっぽど心配だった。
「か、和広く・・・」
「呼ぶな」
俺は顔だけ振り向いて、憎き男を睨む。
「『光也おじさん』は、七年前に死んだよ。あんたは咲耶の父親でも何でもない、ただの幽霊だ!」
叫び、走り出す。待ってくれ、話を聞いてくれと、何かに縋るような声が、背後から俺を呼び続けていた。もちろん、後は一度も振り向かなかった。
咲耶を追って家に辿り着いたとき、父さんと母さんは居なかった。
「・・・なんで、こんな時に・・・!」
テーブルの上に置いてあったメモ書き・・・祭りのついでに近くの居酒屋でクラス会を開く、と言った趣旨のそれを右手で握り潰し、くしゃくしゃに丸まったそれをゴミ箱に叩き込む。
咲耶が部屋に居るのは知っていた。履いていたサンダルは玄関にあったし、暗い廊下に、開けっ放しになったドアから月の光が差し込んで、少女の姿をくっきりと浮かべていた。
決心が付いていないのは、俺だった。
(・・・こういう時、なんて言えば良いんだ?『気にするな』とか?それとも、『俺が守る』とか?・・・アホか、俺は何様だ)
自嘲し、心を落ち着かせて彼女の部屋へ向かう。・・・取り敢えず、無事を確認したら直ぐに自分の部屋に戻ろう。気まず過ぎる。
(なんだかんだで、俺達は結局他人同士だもんな・・・あいつの家のことに、俺が首を突っ込むわけにもいかない、か)
その事実を再確認したとき、不意に、左胸の辺りがぎりっと痛んだ。けど、俺はそれに気付かないふりをして、ドアの脇の柱―――ドアをノックしようとしたけど、開いたままだった―――を、こんこん、と叩く。
「咲耶、入るぞ」
返事は、聞かなかった。咲耶は、浴衣を着たまま、ベッドの上で膝を抱えていた。
「幾らか、落ち着いたか?」
「・・・・・・(ふるふる)」
問いに、首を横に振る咲耶。当たり前だよな。そう一人ごち、俺は彼女の脇に腰を下ろす・・・普段何気なく撫でていた彼女の頭が、妙に遠く感じた。
「・・・・・・」
そのうち、咲耶は俺の浴衣の端を掴んでいた。・・・捕まったってのが正しいのかもしれない。俺はそれを除けず、そのままにしていた。
「・・・・・・」
咲耶はそのまま、俺の左腕に寄り添うように身を寄せてくる。そして、俺の方をおずおずと見上げると、言い辛そうに、口を開いた。
「・・・さっき・・・ごめんなさい」
「ん・・・いや、いいって」
さっき、というのは、先ほどのビンタの事を言っているのだろう。咲耶は手を伸ばして、俺の左の頬に触れる。正直言って痛くも痒くも無かったが、それでも咲耶は、腫れてもいない頬を、摩っていた。
「俺の方こそ、ごめんな。もう殴らないって言ったのに・・・」
「・・・・・・(ふるふる)」
また首を横に振る。
「・・・・・・かずくんは、悪くない。悪いのはあのひとだもん・・・」
言葉に、俺は溜息をつく。
・・・あんた呼ばわりした俺が言うのも何だが、実の娘に『あの人』としか言われなかったあの男が、少しだけ哀れだった。
不意に、左腕に微かな震えが伝わってきて、俺は息を呑んだ。
「咲耶?」
俺の声に顔を上げることも無く、咲耶は俯いて・・・両手で自分の肩を抱いて、震えていた。寒いのかと思い、そう問おうとして・・・俺は固まった。
伏せられて口元は見えないが、微かに聞こえた。
「・・・っ・・・ぃ・・・」
苦しげに、呻くように、彼女が何かを言おうとしているのを。