未来永劫忘れられない姿がある。凛々しく、雄雄しく月光の中にすっくと立ち、長剣を片手に下げた。虎体狼腰を持つ理想の戦人の姿を。
未来永劫忘れられない笑顔がある。爽やかで、健やかな微笑みを。朋友、朋輩とともに高らかに詩を謳い上げる歌声の中、一際響く『羽声』を。
彼の字(あざな)の通り、その羽声は他の誰にも比する事の出来ぬ見事な響きだった。激する感情に豊かな人間のみが放つ、天に選ばれし声。
それが、羽声だ。五つある音階の中で一番高い音階で、とりわけ発声が難しい。――そして彼の羽声を一度耳にして、聞き惚れぬ者など居ない。
亡楚の名将、項燕の孫である項籍、字は羽。彼が一人、武装したまま望月を讃え、夜に謳う様を私はただ、愕然として呆けながら見惚れていた。
「……隠れて聞くな。興が削がれる。――詩想の赴くまま、ともに謳い、ともに吟じようではないか」
この男の縁戚の、殺人を犯した『項伯』を匿ったのち、私は秦王の巡幸の際の暗殺に失敗し、過去の伝手(つて)を頼ってやっと流れて来た
江南の地で、私は……ついに待ち望んだ人傑に出会ってしまったのだ。この私が全身全霊、全力を以って仕えるべき、補佐に値する『王』に。
「誰かと思えば、子房では無いか。やはりその風体の方が似合うな」
詩を吟ずる彼の歌声に惹(ひ)かれ、つい衣服を換えずに部屋を出てしまったのに気付いたのは、彼に姿を認められ、微笑まれた後だ。
韓の宰相の家に産まれた私は、待望された男児の跡継ぎでは無かった。…この男に出会うまで、己が女性であることを何度呪ったろうか。
挙句の果てにはあの秦王の建てた後宮、阿房宮などと言う所に差し出されそうになった私は、男の為りをして故国を出て諸国を放浪した。
その際、高価な装身具を身に付けるだけ身に付けて来たので、叩き売って銭にして、資金として運用すれば、生活に困ることは無かった。
「私は男だ。出来得る限りに秦の官吏の追手を撹乱するためには、このような女の為りなど厭うて居られぬわ」
「だとしたら世の男は間抜け揃いだな。もう、体臭からして女臭が薫る。鼻が利く人間ならすぐに露見するぞ」
「…必要以上に他人と接触しなければ良い。そんな理屈も解らぬのか、孺子(じゅし)よ? 」
私には『才』があった。女の身では金輪際要らぬ類の才能、知略に長けていた。『もしお前が男であったなら』と父や一族は嘆いたものだ。
しかし、私が男であったならとても秦の官吏の綿密な包囲からは逃げられなかったろう。三皇五帝の名を剽窃して新たに『皇帝』と言う位を
創設し『始皇帝』と名乗った男、秦王・政。噂では秦の王族の血すら引いていないと聞く。奴が作った管理機構は、祖国韓の公子・非の著した
書に忠実に則(のっと)った厳罰主義によって動く。彼奴等は猟犬のように幾度と無く『男:張良』を冷徹に追い詰めていた。その都度に私は
『女装』することで逃げ果(おお)せて来たのだ。男では恥と感ずる女装でも、元々は女なのだから抵抗が無い。いや、私自身、実はかなりの
葛藤が有るのだが、元の性が女なので外見の違和感が全く無く、露見しないのだ。嗚呼、孺子と呼ばれた羽が唇を噛み、私を睨み殺さんばかりに
見詰めて来る。だが――歳より幼く見える童顔が堪らなく――可愛い。もっともっと、玩弄したくなる。
「そんな顔をするから内心が素直に解る。もっと巧く己の感情を殺す術を学ばぬと、長生など、とても出来ぬ相談ぞ」
「泣きたい時に笑い、怒るときに喜び、侮辱されればさらに謙(へりくだ)れ。……そんな下らぬ事を続けるならば、即座に俺は死を撰ぶ」
「…そんなに夭折がしたいのか? 」
「ああ、したい。雄雄しく己の持てる力の限り闘い、敢え無く敗れたとしても、民の言の端に乗って永劫に語り継がれる死を…迎えたい」
「愚にも付かぬ事を抜かす…。ただの孺子風情が、人生を全て理解した風な口を訊くな」
私はその時、羽の言葉をただの抱負とばかり思っていた。全てを知っていたならば、間違い無くこの呪うべき我が身体…女体を以って羽の
童貞を奪っていただろう。真剣に、書物から得た手練手管を使って篭絡を試みただろう。若し、若し、若し! ……悔恨の種は尽きない。
当時の私は、最悪の選択を成したのだ。この孺子を揶揄しようと試み――羽の歌声に酔っていたのか――服の袷(あわせ)を紐解くと、月光の
下、己の裸身を曝した。
「ふん、孺子よ。死なば、このような物も拝めぬのだぞ? 女の身体も知らぬ癖に、大きな口を叩くな」
羽の事を孺子と呼ぶ私も、実は歳はそう変わらない。…ただ、月のものがある御蔭で、間近に血を見ている回数が私の方が多いに過ぎない。
生意気にも一端の口を訊く彼を、少しばかり狼狽させるのも悪くない――そんな軽い心持ちで起こした行動だった。…するべきでは無かった。
「どうした? 私は丸裸だぞ? それとも男の為りをする女は抱けぬと言うか? 」
「!! ……早く服を着ろ、子房。 誰かに見られると折角の遁走の切札が使えなくなる」
「他の誰が見ていると言うのだ。誰かが見ていれば、月を讃える詩など金輪際、吟じようともせぬ癖に」
「俺は色香に迷う愚かな獣には成り果てぬ! 俺は……俺は……誓ったのだ!」
ふひゅん、と羽の長剣が空を斬り、宙を薙いだ。そして3撃、4撃、5撃――。仮想の敵、裸体の私が次々に斬り殺されて行く幻が見えた。
息も切らさずその行為は続いて行く。羽は首を激しく振り、目に焼きついた私の姿を振り払おうと躍起になっているのが手に取るように解る。
終には固く目を閉じて、詩を高らかに吟じながら、激しく剣舞を舞い続ける。だが、羽の眉根を寄せる狂おしげな貌が、ますます私の悪戯心を
妖しく昂ぶらせてしまう。――頑なに過ぎる求道者への、堕落を促す誘惑者の気分は…実際にその役割を演じて見なければ到底、解るまい。
そして――拒絶された時の空しさに――狂おしい程の、求道者への愛情と憎悪も。
「誰に誓った? 天帝にか? 地祇にか? それとも祖先の霊か? 私と孺子以外――知る由も無い。黙っていれば、解らぬ」
私は衣服の袂を貫かせて長剣を?ぎ取り、さらに足払いを掛け、地に伏した羽に跨った。柔和な布であってこそ剛剣は、刃を包まれるのだ。
艶然と微笑んで見せ、頬を撫でてやる。しかし羽は……哀しげな目をして、私を跳ね除け、横抱きにして立った。その羽の視線の先には……
羽飾りを付けた兜を被った、この世の者とも思えぬ美しさを持つ、女武者が一人立っていた。羽の詩吟の内容は、望月を讃えていた。だが、
私はその対象が月では無い事を漸く悟っていた。私の見ている前で、女武者の視線と、羽の視線が交差した。――胸が、鋭く鈍く嫉妬に痛む。
私の存在の入る隙間など、もう眼中にも、心の何処にも無いのだと嫌が応にも解る。
「天が知り、地が知り、人が知り――そして俺も子房も、あの『喪門神(しにがみ)』も知っている。だから――」
「解った。少し、酔っていたようだ。それにもう疲れた。――私の床まで、このまま運んでくれないか、羽よ」
「―――解った。もう無理せずに大人しく眠れ。……しっかり眠りに就くまで、傍を離れんからな」
女として完全に敗北を認めたくは無かったが、ここは引き下がるほか無かった。まだ、次の機会がある。その時はそう、頑なに信じていた。
しかしその機会は終ぞ訪れず、私は流浪を余儀無くされ、羽への愛憎は募り、増すばかりとなった。そう、愛する羽を殺し、滅ぼし、悪評に
塗れさせ、私の知る、羽の真の姿を、私の記憶の中で独り占めするために。鮮烈で清冽なる若武者を、私の想像の中で思いのままに抱くために。
だから私は彼の――『覇王』と呼ばれる男の敵と成り果て、熱狂的に献策した。そして高潔な彼を陥れ、裏切り――自栽に追い込んだのだ。
「嗚呼、やっと、やっと――私のものに――! 私のものだけになったのだな…羽よ…! 嗚呼――! 」
強い酒精に漬けられ保存された、羽の五つに分かたれし身体を全て要望通りに下げ渡された私は即座に役宅に引き篭もり、それを愛でた。
やっと、やっと自らのものに出来たのだ、と言う安堵と嬉しさの余りに狂ったように涙を流して笑い続けた。男で有る事を強調するために
娶った妻も、養子も遠ざけた一室で、水晶を削って作った大瓶に入った羽の首を眺め、語り掛けながら、暫くの間、至福の時を過ごした。
どこからともなく現われた一人の女が、「そこに羽の魂魄など、ひとかけらも居らぬぞ」と冷ややかに、唾でも吐き懸けん軽蔑の様子で
吐き捨てるまで。その女から全てを聞き、真の羽の、魂魄の姿を見せられた私は――仙道を極めることにした。…彼と、永遠を生きるために。