「何ゆえ…契りを交わさん…? 」
男と言う男は、例外無く自分を抱く。或る王など指揮下の軍勢を道化にしてまで歓心を買おうと必死に為った。
都が危機に陥った時のみ上げる筈の狼煙をわざと上げ、自分が微笑むのを見て満足し繰り返し、最後には国を
滅亡させてしまった程だ。己の美に絶対の自信を誇る女は、己の前で胡座を掻き剣を抱いて眠る男を睨みながら
花弁にも似た可憐な唇を噛む。普通の男ならばその表情をした途端に肩を抱いてくる筈だった。
「解らぬ…男色家でも有るまいに…」
「何ぞ抜かしたか、虞姫よ? 俺の配下や無辜の民の血は、俺の命に替えても吸わせん」
この男に拾われたのは日の光を浴び、弱っていたからであった。戦の後の亡骸から血を啜っていたが、朝日の
昇るのに構わず夢中になり、正午を迎えてしまったからだ。楚々と弱々しげに振る舞う女を抱き、巡幸のための
馬車へ乗せたのが昨今、『覇王』と呼ばれ始めたこの男だったのだ。男に附いて行けば、血に困る事は無いだろうと
心の中で哂っていたのだが…。
「そうでは無いわ! これを見て…」
薄絹の夜衣をはだけ、艶然と微笑んで見る。…これで飛び掛かって押し倒さない男はこれまでは誰も居なかった。
これまで古に賢者と呼ばれた者も、王と呼ばれた者も、聖人と呼ばれた者も、最後には必ず…欲望に屈したのだ。
しかし男と臥所を共にして早三月。女に勇んで飛び掛かる所か、部屋に閉じ込められ夜行すら出来ぬ状況であった。
「…主(ぬし)は何も思わんのか? 」
「奇麗だとは思うがそれだけだ。格別、どうこうしようとは思わん。…股座の当たりがむず痒くなる。止めろ」
己の自負を捨てねばならぬのか。女の胸の奥で怒りが渦巻く。人風情にしな垂れ懸かるなど、自分の流儀では
無かったが、三月にも亘る押し込めと、手当たり次第に血を啜る事が出来ぬのはもう限界だった。普通の食事でも
滋養は満たせるが、趣きは飽くまで血を啜る方が良い。だが、この男で飢えを満たそうとは思わない。何故ならば…!
「ええい忌々しい! 去(い)ね! 」
「枕で俺は殺せぬぞ? …大人しく眠りに就くのだな」
腹立ち紛れに投げ付けた木製の枕が瞬時に両断される。何時の間に男が鞘走らせたのか、長大な『鋼の剣』が
格子窓から漏れる月光を鈍く反射していた。一般の者は『青銅の武器』しか持たないが、『覇王』と号するこの男は
潤沢な鉄の武具を生産させ、己の揮下に分け与えていた。男自身はさらに精錬させた『鋼の武具』を身に纏っていた。
「主は何時、真に眠るのだ…」
再び鞘に納めた剣を抱き、片目だけ瞑り、寝息を立て始めた男を見やる。開いた片目は、自分を見据えたままだ。
陰部の淡い蔭りも、薄絹に透ける乳房とその頂きの朱鷺色の小さな乳首も、濡れ光る紅唇も、全て見ている筈なのだ。
それでいて、何もしない。幾星霜の刻を嘉(よみ)して来た女には、己が世に存在してより初めての出来事だった。
女は決意した。流儀など言っては居れぬ。この男を篭絡せねば、傾国の美女と語られ続けた己の名が廃る!
床より降り、胡座を掻き眠る男に近寄る。害意を抱かぬか部屋を出ようとしない限り、男が剣を振るう事は無い。
三月にも亘る期間で女が学んだ、男の習性の一つだ。胡座を掻く男の膝の上に座り、そのすべらかな繊手で
男の頬を撫でる。
「主(ぬし)は眠って居るか? 」
「ああ、眠っている。血を啜るならば抗う。む…? 用向きは違うか…虞姫? 」
男の首に女は唇を這わせた。男は向けられる害意には敏感だ。…幾度も『斬られて』来たので承知している。
「…こそばゆい。止めろ」
「…何ゆえ主は己の物にしようとせぬ…? 木石(ぼくせき)ではあるまいに…」
「媚態は似合わぬ。平生(へいぜい)に戻れ。…調子が狂う」
鎧の直垂を大きく押し上げているのは、間違い無く隆起した男根だ。男が真に欲情している事に女は驚いた。
何故それで耐えられるのか、女の経験では理解が不可能だった。男の首に両腕を掛け、ぶら下がる様にして
男の顔を見る。優しげに微笑む男とまともに視線が合い、小娘のように女は顔を赤らめてしまう。何故じゃ?
女は己の心の動きをどうにも認められずに煩悶して居た。…間違い無く、妾は…この者を…好いて居ると?!
「…あの城塞(まち)の民を殺し、穴埋めにした事を…まだ気にして居るのか? 主の責では無いのに…」
「お前の本性を知らず野放しにして、民に犠牲を強いた。…全ては俺の責だ。だが…」
「だが…何じゃ? 申して見よ。聞いてやらんでも無いがの」
「感謝している俺もいる。御蔭で…出逢えたからな」
雷光の如く、女の脳裏に閃いた光景があった。血を啜り、眷属と成り果てた人間達を『もう一度殺す』ために
戦う男の姿の傍に現われた『己の天敵』の姿だった。闘う男と部下に加勢し、槍を以(も)て薙ぎ払うその姿に
歯噛みしたのを覚えていた。あの時の男の顔はまるで…! 男が女に興味を示さぬ理由が、胸を劫火の如く
嫉(や)いた。
「あの…『喪門神』の女か! あの『喪門神』に! 主は下賎なる人の身でっ…! 」
「…闘い続けるか、勇おし者と称えられる者に為れば逢えると聞いた。その果てに『覇王』と呼ばれたに過ぎん」
「適わぬ恋など諦めい! 実らぬ想いなど抱くな! あれは…人を人とも思わん類の者! 」
「…知ってるさ。だから…戦い続ける。闘いの中で死ねば…勲しを立てた俺を迎えに来てくれるやも…おい?」
胸鎧に顔を付けた女に、男は声を掛けた。女はまさか己が泣き出すとは思っては居なかった。三月に亘る中、
女は巡幸用の馬車で常に男とその軍勢と同行していた。男と軍勢の向かうところ、敵は無かった。信頼に満ち、
軍勢は男の下で進軍する事を何よりの誇りとしていた。故郷の歌を高らかに吟じ、兵卒と語り合い共に笑い合う男。
その生を限り無く謳歌しているかに見えた男が、選(よ)りにも選(よ)って…死の象徴たる『喪門神』に…!
「だから…『初穂』は『喪門神』のために…か! 己の奇麗な思いを見ろ、と操を立てて…! 」
「…っ! 」
男の身じろぎが語らずとも答えていた。童貞でも女を襲った者は数多く居る。だが、この男は違う。一度言葉を
吐いたならばそれを成し遂げる強さが有る。男は言った。古(いにしえ)の者は屈してもこの俺だけは違うのだ、と。
実はそう言い切った男の自信に満ち溢れた顔に見惚れていた。…何の事は無い。女の心はもう、男の虜(とりこ)と
成り果てていたのだ。数多くの男に自ら身を任せ続けて来た己を抱く気など、恐らく男には毛程の筋もあるまい。
三月の夜の間、散々この男にその事を吹いて来た己を始めて呪った。自らの過去の過ちを悔いた。女は嗚咽を漏らし、
顔を上げる。
「主はさぞやこの妾を・・・醜いと胸の内で蔑んでいたであろう…! 」
「醜くは無いぞ? …古(いにしえ)の聖賢もころっと参ったのも不思議では無い。安心しろ」
「ならば…ならばっ!」
「それは断じて否だ。済まないな…。俺が死んだら、他の誰かがいつか…お前を優しく抱いてくれるだろう」
男の右手が、嗚咽を漏らす女の背に回される。何時の間にか朝日が二人を照らしていた。夜がまた、終わる。