379 :
102:
みなさん、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
365の続きです。
・・・・・・・・・・・・・・
もうすっかり日は落ちていた。
静かな闇が、当然のような顔でその場に横たわるのを引き立てるように、青い月が昇り始めた夜の入り口。
イヌイの読み通りの時刻にその岩に着いた時、雲一つない晴天の夜空に月光は冴え冴えと輝き、
闇を散らして澄んだ紺色に変えていた。
その色はイヌイの贈った桃子の着る藍の絣と、まるでそろえたように同色で、大犬は不安に
銀の瞳を曇らせた。
桃子を草原に下ろした時、そのまま夜に溶けて消えてしまうように感じて胸を病む。
イヌイはその印象が間違いではなかったと後に知る。
さっきまで翔る空の広さの中、抱かれるイヌイの腕は力強く、その逞しさに安堵感すら感じていた
桃子だが、やはり実物を目前にすると愕然として、急速に心細さに襲われる。
この世界も自分も、そして目の前の愛しい妖獣も。何もかもに不安を覚えて立ち尽くす。
初めて出逢う同族。
それは冬枯れもせず青々と広がる草原の中にぽつんとあった。
確かに岩だった。
ぼんやりと白く滑らかに美しい。だがどんなにきれいでも、それはもの言わぬ岩なのだ。
空の上より、あれだがそうだと教わってから、桃子は言葉を失い青ざめたままだった。
「誰か食い意地張ったやつが壊したか。マナーがなってないぜ。」
天頂部が裂け、欠けているのを見てイヌイはもらした。
マナー云々ではないだろう。
これが自分の将来とすでに聞いている桃子には、その乱暴された痕跡はとても痛々しくて見ていられない。
その反面これが自分の同族であるとは未だ信じられず、桃子は心のどこかでイヌイが「今までの話は
全て嘘だ、からかっただけだったんだ、信じたのか?」と笑ってくれるのを願っていた。どれほど待っても
当然ながらそんな言葉は与えられなかった。
遠巻きに見守る桃子を尻目に、青草にさくさくと分け入り、イヌイはその岩の亀裂にためらいなく
手を差し入れた。
「運がいいな。まだ生きてる。」
「食べるの?イヌイのおじちゃん。」
追ってそばに寄って来たマサルの明るい声に救われる。
イヌイはそれには応えず、ただ黙って小猿に笑顔を向けて、慣れた手つきでそのなだらかな丘をなでる。
欠けた頂部分がイヌイの手で隠されると、白い岩は桃子が見るこの距離からだとまるで女の尻に見えた。
ズクンと股奥に刺激を感じて桃子は反射的に目を逸らす。それは同調なのか嫉妬なのか。今の桃子に
それを己に問う余裕は無かった。
「何をしてる。来い。」
未だグズグズ遠巻く桃子をイヌイが呼んだ。
「おまえの育った村に一番近い桃岩だ。…母親かもしれないぜ?」
「そんなこと言わないでよ!」
大きな声で怒鳴った自分に、桃子自身も驚き、改めて緊張していると知る。
ふざけたように軽く言うイヌイに、相変わらず思いやりに欠けると思った。
イヌイの言った意味も含めて、初めて見る桃岩は、桃子にはただ恐ろしかった。
だがやっと得た念願の機会、旅の目的地から逃げ出すわけにはいかず、桃子は恐る恐る足を踏み出した。
イヌイのつけた青草の倒れた跡をそのままなぞり近寄ると、その背に隠れるようにして、鍛えられた
男の肩越しにそれを見た。そのせいか、遠くから見たときよりそれは柔らかくなめらかな温かみを
もって見える。
「欠けさえなけりゃあ最上クラスだ。よかったな、初めて逢う同族がべっぴんで。」
桃子の恐れを知ってか知らずかイヌイが笑いかけた。
思いがけない優しいイヌイの笑顔と、初めて会う同族が欲目抜きに美しい肌色をしているのを認めて、
桃子は安堵で泣きそうになった。