保守がてら、投下いたします。
先日の「イヌイチ(乾×一口)」の続きになってますが、続き物・設定に捏造あり・エロほぼなしという
三重苦仕様になっております。
不快に思われましたら「続・イヌイチ」でNG登録お願いします。
******
暗闇の中、ひたりと頬を撫でられる手の感触。それが自分の手で無いという事は、後ろ手に縛られた感覚から分かっていた。
じゃあ、この手は誰のものなんだろう。頬を滑る指が半開きの口に潜り込む。
――くちゅ。
ぞくっ。口の中を掻き回され響く水音に、軽く身が震えた。反射的に口をすぼめ、与えられているもどかしい快楽を逃さまいとする。
…相手は誰なんだろう。心の底でちりっとした焦りを覚えつつ、それでもキモチ良さには逆らえないなんて。
柔らかくて、細い指。…あなたは、誰なんですか?
――…い。
――ぬい。
*
「乾一!いつまで寝とるか!!」
三年C組に野太い怒声が響き渡るのと同時に、あたしの真後ろの席から、ごっごんと机に何かがぶつかる音がディレイで聞こえた。
「…っ、はい!何でしょう!!」
「何でしょうじゃない馬鹿者!あと元気がいいのは返事だけでいい!」
「へ?…!!」
指摘され、二重の意味で立ち上がっていた乾が慌てて席に座る。同時にクラス中に男子のげらげらという笑い声が満ちていき、恥ずか
しさにあたしまで頬が赤くなった。
やっぱり、男子って馬鹿。特に後ろの。
何で寝てる時にまで――…。
「ばか」
こっそり呟いた声は、授業終了のチャイムにかき消されたのだけど。
「乾ー、三年になって余裕だねえ。大学行かないの?」
「ただでさえアンタ学年ビリじゃん。え?何就職?」
「やめときなよー。今時高卒ってロクな仕事見つかんないよ?」
休憩時間になって早々、乾の机の周りにクラスの女の子が集まってくる。みんな乾の『気のいい女友達』という感じの人々だ。
「好き放題言うなあ…オレだってそりゃ考えてるって」
どうだか――あたしは心で悪態を吐きつつ、黒板の前に立った。週番の仕事が、今週はあたしの番なのだ。
ついでに言えば、週番は男女二人組の仕事であり、あたしの相手は乾だったのだけれど。
「もし良かったら、知り合いんトコの現場で働くー?初心者カンゲーだって」
「だーかーらー、オレは進学だって言ってるじゃねーか」
女の子に囲まれて、からかわれながらも笑う乾の姿を見て、声を掛けるのをやめた。
別に乾自体はどうでもいい。けれど、こういう時下手に声を掛けて、周りの女の子から不必要な反感を買うのだけは避けたかった。
女子の間柄というのも、かくもややこしいものなのだ。小さく息をこぼし、あたしは黒板消しを持った。
「い、一口さん、よかったらボクも手伝おうか?」
ふと声に振り返ると、額から汗を流しつつ自分に声を掛ける大柄な少年の姿があった。
「坂田くん。…いいの?」
「ほ、ほらボク高いところも手が届くし、あの先生みっちり書き込むから…」
坂田くんの言葉にも一理ある。平均よりはるかに低いあたしの背では、高いところに書き込まれたチョークの文字を消すのにも踏み台
が必要になる。
はっきり言って、面倒くさい。
「じゃあ、お願いしていいかな。ありがとう」
にこり。笑って応えると、坂田くんは更に汗を流しつつ、チョークの書き込みを消し始めてくれた。…あ。黒板にお腹くっついてるけ
ど、いいのかなあ。
服、汚れない?
******
何へらへらしてんだか。オレは机に頬杖をつきながら、まだ抜けない睡魔と戦っていた。全く、古文なんて呪文の詠唱と同じだよな。
それもラリホー系の。
「あ、坂田くんっ、汗、汗!!」
「え、あ、ご、ごめん!」
あーあ。坂田の出っ腹で黒板水拭き状態じゃねーか。一口もニブいよなあ。アイツの下心気付いてないのかよ。
「いぬいー?聞いてる?」
「あ?何が?」
やべ、聞いてなかった。
「だから、最近乾、本当に授業中寝すぎじゃないかって聞いてたの。進学はいいけどさー、アンタひょっとしてもう一回三年生やるの?」
「何かやってんの?あ、またバイトとか?」
知ってどうすんだろう。思ったが、適当にいろいろだよ、とはぐらかした。
オレは、今周りにいる女子がオレに対して何かを知りたいと本気で思っている訳じゃない事を知っている。
TVの番組、雑誌の1コーナー、新譜のCD、2ちゃんの新スレ。
日常を作るパーツの1つ。いや、最後のは特殊か。まあとにかく――そういう目でオレを見ているに過ぎない。
別に不快じゃないけれど、だからといって心地良くもない、微妙な間というやつだ。
「あれ、乾また寝てんじゃない?」
「起きなよ――…」
次は、丘の授業だっけ。…意識が遠のく中、オレは何かを忘れているような気がした。
「――もう三年も折り返しを越えてる時期だろうが。…オマエの場合はルリーダ先生からも話を聞いてるが、教師全員寛容なわけじゃな
い。これ以上下手を打つと留年も洒落で済まなくなるぞ」
「…はい」
ホーミングチョークでコブの出来た頭をさすりつつ、オレは職員室で丘の説教を聞いていた。
「わかったら教室に戻れ。次やったら鼻の下にキンカン塗るからな」
アンモニア入りの為、鼻の下などに塗れば悶絶必至である。『目の下にメンソレータム』と双璧を誇る罰に青ざめながら、丘に頭を下
げる。
「すみません。――失礼します」
ぴしゃり。職員室の扉を閉め、オレは大きく溜息をついた。
「バカ犬」「!!」
ぼそっと肩の辺りから響いた声に、心臓を掴まれたかと思った。
「な、何だよ一口…驚かすんじゃねーよ」
斜め下を見ると、変なマスコットの髪飾りとぴこんと跳ねる一つ括りの前髪が見えた。こんな頭の知り合いなど、周りには一人しか居
ない。
「驚くのは、自分の行いの悪さのせいでしょ」
「つか何でオマエ職員室の前…うわっ!」
尋ねようとしたら、いきなり分厚いプリントの束を渡され、オレは危うくバランスを崩して転ぶところだった。
「今日の5時限目、自習だからプリント取りに来たの。それ乾の持つ分だから、よろしくね?『週番さん』」
――あ。
******
「人が悪りーな一口。オレが週番だって、さっさと言えばいいのに」
「何言ってんの。朝は朝で予鈴スレスレまで教室来ないし、休み時間までぐーすか寝てばっかだったじゃない」
「…スミマセン」
プリントを抱えたまま、乾が肩を落としつつ謝る。
あまりにもしょんぼりした姿――人によっては『雨に濡れた子犬系』とでも名付け、愛でるのではないだろうか――に、あたしは大き
く息を吐き、明日からはちゃんとしてよね、と前を向き言った。
――そうだ。あたしはふと思った事に対し、尋ねてみた。
「乾、何で最近学校来るの遅いの?」
二年の時はそうでもなかったように思っていたのだけれど。質問に乾はしばらく答えを探すように黙ったあと、ヤボ用だよと答えた。
「野暮?」
「い、いいだろ別に。ホラ早くしねーと、5時間目始まっちまうぞ」
言い捨てて廊下を走っていく。一歩走るごとに揺れる、乾の一つ括りにした後ろ髪を眺めつつ、言い訳が下手なヤツ、と一人呟いた。
「ちょっと、プリント落とさない――…ん?」
ふと立ち止まった教室の前で、あたしは妙なものを見てしまった。
いや、そのクラス――三年F組――は、クラスのメンバー上、妙なものがかなりの頻度で(ちなみにその正体は、ほぼ間違いなく一人
の人間離れした体格の変態だったりするのだけれど)見受けられるが、今日見たものは、少々勝手が違っていた。
「…阿久津くん?」
休憩時間のF組。がやがやとにぎわうクラスの中で一人だけ浮いてる…というか、燃え尽きている男の姿。
いつも変なことに巻き込まれて、悲惨な目にあう確率の高い彼――阿久津宏海の真っ白になっている姿が、あたしの視界に入ったのだ。
「…」
いつもなら、良くある事と思って気にしない。けれど今日は何故か気になった。
「おーい一口!早くしねーとプリント配れねーぞ!」
C組の扉から顔を出し呼ぶ乾に、はっと我にかえる。
「あ…わかったから大声で呼ばないでよ!」
本当、デリカシーに欠けるヤツ。あたしは口をへの字に曲げつつ、その場を後にした。
5時限目は英語の自習。プリントは仕上げられなければ即宿題と化すので、皆が居るうちに答えを写…教えてもらい、仕上げるのがお
約束だ。
「…んがー…」
…まあ、お約束に当てはまらない馬鹿も居るけれど。自分のプリントにペンを走らせながらあたしは、背後から聞こえるイビキに呆れ
ていた。
******
「んー…っ、はあっ」
HR終了のチャイムと同時に背伸びをする。首を回すと、こきこきといい音が響いた。ここ最近の寝不足も少しは解消されただろうか。
「さてと…」
「帰んないでよ乾」
帰るか、と言いかけたオレの口の動きは、くりんっ、と振り返った一口のセリフに遮られた。手には学級日誌のオマケ付きだ。
「忘れてたでしょ」
「あー…忘れてた。そういや書かなきゃなんねーんだよな。なあ一口、1時限目って何やってたっk…あふっ!?」
ばちーん。
日誌のページをめくりながら尋ねると、いきなりビンタが飛んできた。見れば一口の額には青筋が浮かんでいる。
バシバシバシバシバシ「結局アンタは一日中寝てばっかりだったじゃないっ!一緒に組むあたしの身にもなりなさいっての!!」
「あっあっあっあっ!」
このバカ犬と罵りつつ繰り出される往復ビンタを頬に喰らいつつも、背筋がぞくぞくと震えだすのをオレは止められなかった。
いや、わざとじゃないんだけどな。
ちなみにこの(誰が呼んだかは知らないが)『C組名物SMショー』は、クラスからも生温かい目で受け止められている。
変なクラス。
「はあはあ…本当、乾ってビンタされてる時輝いた顔するよね…」
「おう。ついでに言えばもう2、30発は貰っても平気だぞ」
腫れた頬の、じんじんと痺れる痛みさえキモチイイと感じる――それがオレの特性なのだ。
「えらそーに言うなっ!――…ああもうわかったわよ。日誌はあたしが書いとくから、乾はこれ写しとけば?」
「?」
赤くなった右手をひらひらさせながら一口が差し出したのは、数枚のプリントだった。三行見ただけで眠りに落ちそうな言語は、間違
いなく今日の英語のだ。
「その調子だと、宿題になってもやって来なさそうだしさ。あたしが日誌書いてる間にでも仕上げればいいんじゃないの?」
「――…」
「…何?」
「いや、一瞬オマエの後に光が差したような気がして…」
これが神か仏かってやつなんだろうか。だとしたら神仏はずいぶんフレンドリーなんだな。
「礼なら坂田くんに言いなさいよー?あたしの分かんないところ丁寧に教えてくれたんだから」
「…」
…なんとなく、さっきのセリフを撤回したくなったのは気のせいだろうか。
******
かりかり。かりかりかり。
クラスメイトが部活やら帰宅やらでどんどん席を立つ中、あたしと乾の間では、シャーペンが紙の上を走る音だけが響いていた。
「なー、ここのwhatの使い方なんだけど…」
「ん?ああ、これねー…」
説明すると、乾はふーん、なるほどなあ、と呟きつつ、再びプリントに向かう。
時折、ペンを持った手を口に添えたり、ペンの頭をかつんと机に当てたりしながら。
多分この乾の姿ですら、色んな女の子に見出されて、手垢の付いたものなんだろうなあ。
難しく考え込んで寄せる眉も、伏せたまつ毛の長さも。
――ちくん。
胸に、針で突付かれたような痛みを感じ、あたしはそれを全力で否定する。
「…なに考えてんだか」
「何か言ったか?」
「なーんにもー。それより乾、早くしないとあたしもう日記仕上げちゃうよ?」
「げ。待て待て、あと3枚だからなっ!」
乾の慌てっぷりに小さく笑いつつ、あたしは日誌に目を落とす。本当は日誌なんて、とっくに書き上がっていたけれど。
「そういやさ、最近一口坂田と仲いいな」
ぴたり、とペンを止め乾が尋ねる。『そういや』の流れなどない唐突な発言に、あたしはしばらく考えてしまった。
「そう…かな?時々手伝ってもらったりはしてるけど」
いつも困ってる時にタイミング良く現れるんだよね。妖怪道中記のご先祖さまみたいな感じでさ、と言ったら例えが古くて分かんねー
よ返された。そんな古くないと思うけど。
「ふーん…オレはてっきり先輩に見切りつけたのかと思ったけどな」
「そんな訳ないでしょ」
馬鹿げた質問をばっさり斬り捨てる。
「そういう乾はどうなのよ」
仮にも、ドMでも『もて四天王』なんて呼ばれる男だ。引く手あまたなんて言葉も霞むくらい、本当は相手に困らない筈なのに。
「ねーな。先輩が例え阿久津のモンになっても、先輩はオレの憧れだ」
どうして真っすぐあたしを見て答えられるのだろう。
「憧れ、ねえ」
「そゆこと」
あたしは、憧れと恋が似て非なるものだと知っている。乾が強く想っているにも関わらず、阿久津くんからお姉さまを奪おうとしない
理由も。
だけど、言わない。それはコイツ自身気付いていないだろうから。
そして、あたしも気付かない事を心の底で願っているから。
――本当、馬鹿だね。
かりかりとペンを走らせる音を耳に心地良く感じつつ、あたしは西日の差し込む教室の中、ゆっくりと眠りに落ちていった。
******
かつん。紙にピリオドの印を叩き込む音と共にオレのプリントが完成したのは、西日が赤味を帯び始めた頃だった。
「はー…出来た、っと。一口、そっちはど…」
顔を上げ尋ねようとして、言葉が止まる。机をはさんで向かいに座る一口は、すやすやと微かな寝息を立てていたのだ。
「何だよ、自分だって寝てんじゃねーか」
今と授業中が別物なのを棚に上げ、オレはひとり愚痴る。
「おーい一口、日誌書き終わってんのか?」
へんじがない ただのし…じゃない、ずいぶん深い眠りについているらしい。
週番の仕事で、朝一番に教室に来ていたという辺りに理由がありそうだが。
「…別にオレだって、遅刻してる訳じゃねーけどさ」
それにしても、寝顔まで子供染みてるよなあ。無邪気っつーか、幼稚っつーか。
くりっとした大きな目も、見た目に反して古臭い発言が目立つ口も、今はただひっそりとそこにあるだけだった。
「…」
そっと、閉じられた学級日誌を手に取り、今日のページを捲ってみる。ちまっとした一口の字は既に書くべき全ての項目を埋めていた。
――なんだよ、とっくに書き終わってんじゃないか。
ならば、いつまでも教室に居続ける理由はない。オレたち以外に誰も居ないなら尚更だ。立ち上がって揺り起こそうとして――オレは
手を止めた。
ふと、視界に留まった一口の手が、オレのおぼろげな白日夢を思い出させてしまったのだ。
――頬を撫でる、柔らかな掌。細い指先。
「…一口」
一応呼んでみるが、相変わらず返事は無い。ど、くん。…どくん。どくん。
早まるな、正気になれと頭の中のオレが叫ぶ。けれど体は叫び声に逆らうように、ゆっくりと一口の手を掴んでいた。
小さくて、柔らかな一口の手。なんかコイツの体のパーツって、どこもかしこも小さいような気がする。
オレは目を閉じ、静かに掴んだ手を自分の頬に寄せた。ほのかに温かい掌が、ひたり、頬を撫でる。
「…」
ぞくっ。背中に軽く電流が走った。――はっきり言って今の自分は、不審とかあやしいなんて言葉で片付けられないくらい変だ。
もし今一口の目が覚めたなら、ビンタ100発どころの問題じゃない。
分かっているのに、手が止まらなかった。オレは、夢の中のオレと同じで、触れられるキモチ良さに抗えないまま、ゆっくりと一口の
指を自分の口へと導こうとしていた。
人差し指が唇を軽くかすめたその時――。
ポーン。
『下校時刻になりました。生徒の皆さんは、すみやかに帰宅してください』
「!!」だんっ!反射的に手を机に叩きつける。
――義務的な下校放送の声により、オレは危うい倒錯の世界からギリギリのところで強制送還と相成ったのだった。
「痛っ!?…あれ?あたし寝てた?…っていうか乾、何やってんの?」
「いや…何でも…」
本当、オレ何やってんだよ。一口に背を向け、赤くなった顔と昼間同様に熱を持ってしまった股間を悟られまいとする姿は、間抜け以
外の何者でもない。
いや本当に、何やってんだ。
一口相手に。
******
「おー、もう星出てるなー。秋の日は鶴瓶ポロリって言うけど本当だな」
「そんな言葉聞いたことないけど、本当、もう真っ暗だねー」
街灯の光に、吐いた息が微かに白く染まる。いつの間にかそんな季節になったのだ。
何も変わってないようで変わり続ける。冬服になって尚感じる寒さに、あたしは軽く身を震わせた。
「にしても、わざわざ送んなくていいのに。…乾ん家、方向違うでしょ」
「ばっか、季節の変わり目ってのは変なヤツが多いんだぞ?それに、帰るのが遅くなったのはオレのせいでもあるしな」
変なヤツの中に自分を入れてない辺りが、乾の乾たるところである。
そりゃ確かに、意外と紳士的なところは評価していいのだろうけれど。
「あ、それとな、朝の教室の鍵開け、明日からオレやっとくから。一口いつも通り学校来るんでいいからな」
「え?…乾いいの?」
予鈴ギリギリから急に朝一番の登校は大変じゃないのかな。
「どうせ補習のついでになるしな。ちょっと遠回りになるだけだろ」
「補習?」
初耳だ。あたしの言葉に乾はちょっと考えた顔をして、体育のだよ、と答えた。
「オレ、スポーツ推薦狙っててさ。でも部活入ってなかったから色々面倒な事になっててなー…。そんな時、ルリーダ先生から、新しく
学科が出来た所が遅くまで積極的に募集してるからどうだって話持ち掛けられて…」
前を向きながら、照れ臭そうに語る乾の言葉はしかし、途中から聞こえなくなっていった。
「――…でもしなきゃオレ普通に大学行けねーもんな。…一口?」
「…え?」
「え?じゃねーよ。話振っときながらぼーっとしてさ。何だよ、風邪引いたか?」
――違う。けれど、言葉が出てこなかったので、代わりに首を振った。
「そうか?でもなんか顔色ヘンだぞ?やっぱ熱あんじゃねーの?」
そう言って額に当てようとした乾の手を、あたしは反射的に身をよじり拒んでしまった。
「…!!」
街灯に照らされた乾の顔が、不自然なくらいこわばる。あれ、あたし、何で。
「…っ、もう…家すぐそこだから、今日はありがとね」
あたしは一気に言葉を放つと、振り向く事もせず走って乾の元を離れた。
どくん。どくん。どくん。
全力疾走の体に、晩秋の風が冷たい。けれど全然気持ちよくない。
驚いてたのだろうか。
ひそめた眉も、見開いた目も、堅く閉ざした口も、全部見覚えのある部分なのに、あたしの知らない乾の表情だった。
――何も変わってないようで変わり続ける。
さっき思い浮かんだ言葉が、呪文みたいに頭をぐるぐる回って離れない。
「…はあ、はあっ…けほっ」
家のすぐそばで足を止め、息を整える。あんなに走ったのに、体がぞくぞくして、震えが止まらない。
――何も変わってないようで変わり続ける。
乾も、お姉さまも、阿久津くんも、みんな、みんな。
――あたしは?
ポケットの中の携帯電話から『DESIRE』の着メロが響いた。
けれどあたしは、いつもならすぐに取るはずの、一番好きな人からの電話さえそのままに――。
ただ道の真ん中で立ち尽くす事しか出来なかった。
ぎゃーっ!「前後編」なのにタイトルに入れるの忘れてた!(毎度ポカばかりですみません)
気を取り直して、後半です。
******
その人の名前を知ったのは、生徒会選挙の日。
共学で女子の生徒会長候補者なんて、珍しさから結構気後れしてしまうものなのに、演説の壇上に上がったあの人の瞳は真っすぐで、
あくまで毅然としていて。
――この人が会長になるんだ。投票前からあたしは確信していた。
実際会長に決定した時、あたしは自分の事のように嬉しくて、その日は眠れなかった。
いつかあの人に近づきたいと思っていた。あの人の傍に立って、あの人に振り向いてもらって、あの人に触れて――。
――けれどあの人は、あたしじゃない、違う人を見ていた。
それは、誰よりもあの人を見ていたあたしが知る、残酷な真実。
******
「ふあぁ…あああふっ」
朝もやも漂う通学路には、学生の姿なんてまだない。運動部の朝練に向かう部員が関の山だ。
そんな中を大あくびしつつオレは、早朝の補習を受けに学校へと向かっていた。
――元々お前は身体的に推してしかるべき能力を有している。が、私の推挙を得るならば、もう少し鍛えた方が良いだろう。
数週間前の体育教官室で鉄アレイ(12kg)を軽々と持ち上げながら、体育教師・ルリーダが微笑みと共に語りかけた言葉に端を発する
この補習だったが、何か騙されている気もしなくないのは、オレの考えすぎだろうか。
――いや、疑っちゃいけないよな。先生だって放課後は部活があるからって、わざわざ朝に時間割いてくれてるんだし。
でもなんで先生の机、『打倒 あいす』なんて貼り紙がしてあるんだろうな?
つれづれと考えつつも、気が付けば学校にたどり着いていた。――おっと、ダメだ。今日は直接体育館に行っちゃいけないんだよな。
慌てて向きかけた足を職員室方面へと向き直し、オレは立ち止まった。
――っ、もう…家すぐそこだから。
昨日、オレが何の気もなく出した手を拒んだ一口の表情が、脳裏をよぎる。
一瞬だけ見えた、泣きそうな、困ったような顔。
オレのうしろめたい部分をえぐるような目をしていた。
「…」
気付い…たのかな。放課後の教室で、オレがやっちまったコト。
何であんな事をしたのか、自分でも理由が分からないのが更に苛立たしい。
「失礼します」
職員室の扉を開け、声を掛けると丁度クラス担任が電話応対をしている所だった。いくつもの鍵が掛かっているコーナーから自分のク
ラスの鍵を取り出し、そのまま出て行こうとした時、かちゃりと受話器を下ろす音がした。
「おい乾、ついでに日誌も持って行け。――今日、一口休みだから」
――え?
「休み、ですか?」
「うん。風邪だって、さっき連絡が入った。残念だったなあ。あいつ今まで皆勤賞だったのに」
「…はあ」
学級日誌もついでに受け取りつつ、オレは担任の独り言をぼんやりと耳にしていた。
やっぱり、体調崩していたのか。妙に赤い顔してたもんな。
でも。
それでもやっぱり、アイツが休んだのはオレのせいじゃないかなって、心の隅で思った。
多分、それは間違いじゃない。
******
ぴぴぴぴ。ぴぴぴぴ。ぴぴぴぴ。
「38度2分、結構高いわねえ。…お母さん休んで病院いこうか?」
「いいよ別に…けほっ、薬飲んだし寝てたら治るから」
枕元で中腰の姿勢のまま顔を覗き込む母親に、あたしは咳き込みながら言葉を返した。
「パートだって、そんな気軽に休めるものじゃないんでしょ?」
「でも夕利、ここ数年風邪なんて引かなかったじゃない」
子離れ出来てないなあ。
冷却シートを額に貼る、ひやりとした指先を心地良く感じながらも、ちょっとだけむず痒さを憶えてしまう。
「大丈夫だって。あ…そうだ、仕事の帰りに桃ゼリー買って帰ってくれると嬉しいな」
半分割りのがごろんってしてるの。そう言うと母親は、根負けしたのを認めるかのように大きく溜息を吐くと、お粥は台所にあるから
ね、と呟いて立ち上がった。
「それじゃ、体はあっためなさい。――行ってくるから」
ぱたん。部屋のドアが閉まり、あたしはゆっくり目を閉じた。
頭の中がもやもやする。寝ているのに陽炎の中に立っているような、変な感じ。
…風邪で学校休むなんて、何年ぶりだろう。少なくとも高校に入ってからは一度も休んだ事はなかった。
「けほっ」
寝返りを打つついでに、枕元の充電器に差し込んだままの携帯電話を手にする。
「――…ごめんなさい」
着信履歴には、一件の不在着信。『お姉さま』と書かれた着信履歴に向け、あたしは小さく謝った。
昨日は、結局電話には出られなかった。何度もポケットの中で鳴る『DESIRE』を聞きながら、あたしは、あたしの中でざわめいていた
よく分からないものに対して戸惑う事しか出来なかったのだ。そんな状態ではマトモな受け答えなんて出来やしない。
――きっと、余計お姉さまを困らせる。
それは、嫌だった。
今までの自分なら、どんなにいっぱいいっぱいでも、無理して喋っていただろうから尚更に。
お姉さま。今のお姉さまを受け止められるのは、あの男だけなんですよね。
――あたしじゃ、ないんですよね。
考えて、涙が出た。一人だけの考え事は、感傷的になりすぎて困る。
今の『かわいそうな自分に酔う自分』を止めたいのに、いつまでたっても止まらない。
せめて、隣にアイツが居てくれたらいいのに。
悲劇の主人公はオマエだけじゃねーだろって、軽くたしなめてくれたらいいのに。
******
頭の芯がぼんやりする。…眠い。体中に回った疲労感が眠気を更に助長させる。ルリーダ先生の今日の補習内容はウォーミングアップ
代わりの鉄球避け30セットの後、徒手空拳組手10本だった。――これ本当に補習だよな?
どういう推薦の仕方をするのか少し気になるのだが…それより今は眠気と闘うのが先決だ。オレは日誌の一ページをシャーペンの頭で
叩きながら、気を抜くとがくりとなってしまう現状を、崖っぷちスレスレで耐えていた。
「乾珍しいじゃーん。今日は寝てなかったよ」
「やれば出来る子だったんだねえ。エライエライ」
…子ども扱いするなよなあ。同級生なのに。
「オレだって、鼻にキンカン塗るなんて言われたら起きるっつーの」
くさりつつ言い返すと、今時キンカンって、と笑われた。あれ?キンカンって一般的じゃないのか?
「あ、今日一口さん休みだっけ。乾日誌ちゃんと書いてんの?」
手元の学級日誌を目ざとく見つけた女子が、尋ねる。
書いてるよ、と答えると、他の女子がそっかーじゃあ今日はSMショーは無しかー、とぼやいた。
「あれ面白いんだけどねー。アタシ達だと『えっ?いいの!?』って気になるけど、一口さん、いい意味で遠慮ないから」
「そうそう」
かつん。ページを叩く手が止まる。…改めてクラスメイトからアイツが休みだと聞かされるのは、何か変な気分だ。
目の前の席は、ただの机と椅子でしかないなんて。
「…」
何考えてんだろオレ。溜息を吐きつつ、オレは席を立った。
「あれ?乾どこ行くのー?」
「…眠気覚ましにトイレ行ってきます」
何で敬語まじりなんだろ。多分これも眠気のせいだ。
眠気覚ましついでに顔でも洗うかと足を踏み入れた三年男子トイレには、2名の先客が居るようだった。
「…でもよー。ここのSS、オレ出番少なすぎじゃね?オレ一応本編じゃ主役よ?」
「しょうがありませんよ。何せ王子の場合、ハードルが高いともっぱらの評判ですから。コレの書き手など、『刺身セットの菊みたいな
モンで、食っていいかどうかさえためらう』と周りに愚痴っていたそうですし」
「菊ぅー?あれ手抜いてるヤツってプラスチック製じゃねーの?…ハッ!つまりオレは三次元でこそ映えるプラスチックドールってやつ
なのか?」
「違います」
F組の百手太臓と安骸寺悠の二人は、普段から良く分からない会話を交わしているが、今日のはとりわけ分からない。
いつもならもう一人居るはずのツッコミ役の姿が居ない事もその理由だろうか。…まあ関係ないけど。オレは気にせず隣に立ち、小用
を始めた。
「今だったらオレが傷心の伊舞なぐさめるSSリクエストするね…っと。…ムフフ、宏海のヤツも、今のフヌケ状態なら簡単に伊舞引き渡
しそうだしな」
「そうですね。身から出た錆とはよく言った物ですが。…矢射子と伊舞に同時に嫌われるとは、とことん不運な男ですね」
「――!!」
眠気が吹っ飛んだ。微妙に説明臭い会話だったが、そんなのはどうでもいい。
阿久津が――矢射子先輩に嫌われた?
「そ、それどういう事だよ!!」
オレは振り返り、既に手洗い場に立った二人に向け叫んだ。
三年男子トイレに「ソルカノン充填120%!!?」「ヤツの弱点は雷です!!王子、早くサンダラを唱えてください!!」という絶叫が響いた
のは、また別の話だ。
******
最初に好きになったのは、物怖じしない強いまなざしだった。
凛とした表情を、更に強く見せる眼光――あたしの周りにそんな人、今まで居なくて。だから好きになった。
性別がどうとか、関係なかった。ただ、触れたいと、欲しいと思った。
形のいい唇からこぼれる、メゾソプラノの声も、白くて細い指も、ポニーテールに結い上げた髪も、全部、全部。
「…んっ」
いけないコトだと分かっていながら、自分で自分のカラダを弄る事を覚えたきっかけも、お姉さまを想ってだった。
声が漏れないよう、布団の中に潜り込んで、パジャマのボタンの隙間からそっと胸を触る。――薄っぺたいあたしの胸は、汗でじっと
りとしていた。
お姉さまの胸はすごく大きくて柔らかい。服の上からしか触った事ないけれど、桃みたいな甘い香りがする柔らかな谷間は、あたしの
頭ですらすっぽりと包んでくれそうだった。
「はっ…あ、くふっ…」
吐息で熱がこもる暗闇の中、あたしの指は更に下へと降りていく。片手を胸に当てたままショーツの上から触れた部分は、じっとりと
熱くなってて、指先がすこしぬるついた。
――ぷちゅん。
「…っ!!!!」ショーツに手を入れ、濡れた場所に直接触れた瞬間、快楽に背がくうっと引きつった。
女の子なら誰でも持ってる、熱い部分。
あたしにも、そしてお姉さまにだってある、大切なトコロ。――今、あたしの指は、あたしを弄びながら、お姉さまをも弄んでいる。
そう思うとドキドキが止まらなかった。ぷちゅくちゅと粘ついた水音が耳を、布団中を熱くする吐息が肌を責め立てていく。
「…っ、あっ、あっ、くぅっ、ん――…」
お腹の底が切なく疼く。波が、もうすぐ、来――。
――…先輩が例え阿久津のモンになっても、先輩はオレの憧れだ。
「っ!!」
いきなり頭の中に飛び込んできた声に、あたしの指が止まった。
「い…ぬい…?」
布団から顔を出し、名前を呟く。外気の冷たさが火照った頬に容赦なく染み込んでくる。
それは、昨日の記憶だ。放課後の教室で、アイツがあたしに向けて真っすぐ言い放った言葉だ。
けれど、今のいけない一人遊びを止めるには十分な力を持つ言葉でもあった。
「…シャワー浴びよ」
のろのろと起き上がり、すっかり用をなさなくなった冷却シートを額からはがす。時計の針は既に正午を回っていた。
『〜♪』
携帯電話から再び『DESIRE』が流れたのは、そんな時だった。
******
「…じゃあ、一口も話聞いたのかよ」
放課後の誰も居ない教室は、意外と声が響く。オレは気が付いて慌てて声のトーンを落とした。
「いや、オレのは安骸寺たちからの又聞きたけど…じゃあもう少し話、詳しく聞かせてくれるか?」
風邪を引いて喉を痛めているにも関わらず、一口はオレの要求に応え、昼間掛かったという矢射子先輩からの電話内容を教えてくれた。
この前の日曜の事だ。
その日、矢射子先輩は阿久津の家に招かれたという。家族――阿久津は父親と二人暮しらしい――との初めての顔合わせとなった訳だ
が、多少緊張しつつも、顔合わせは和やかに行われていた。
時折、阿久津とその父親の間に、過剰とも思えるスキンシップがあったらしいが、それはオレの知りたい話じゃないので割愛させて貰っ
た。
さて、問題は昼に起きた。昼食時となり、料理の腕には自信のある先輩は、進んで台所に立ち、三人前の昼食を手際よく作り上げた。
「…うらやましいな」
『あたしもそう思うけど、まだ話終わってないよ乾』
献立は、鶏の照り焼き、蕪とがんもどきの煮物、小松菜のおひたしに三つ葉を散らしたかきたま汁――。
「…腹減ってきたんですけど」
『馬鹿言ってると切るよ?』
前もって特訓していた甲斐もあり(一口いわく、女の子の努力というらしい)、阿久津の評価は上々、父親も、口数少なくなりつつも、
きちんと平らげたそうだ。
そして、この父親は食後の茶を啜りつつ、こう言った。
――いやあ、今度の彼女が料理上手で良かった。前の彼女はとてもじゃないが、上手とは言えなかったしな?宏海。
「今度の!?」
オレはうっかり大声を出してしまった。電話の向こうで乾ウルサイと言われ、口を押さえる。
『なんかあたしが思うに…けほっ、そのお父さんが結構変わってる気がするんだけどね。…それでも、お姉さまには寝耳に水な話よね』
「あー…確かに寝てる耳ン中にミミズ入れられたら驚くよなー」
『…切っていい?』
なぜか怒りだした一口をなだめつつ、話は続く。
がちゃん、と片付け中の食器を落としながら、先輩は当然阿久津に問い直した。
――宏海、前のってどういう意味?
――あ、そ、それはだな…その、説明するけど事情があってだな…。
――佐渡さんは、確かに器量は良いが、少々物言いがキツかったしなあ。はっはっは。
――うるせえバカ親父黙ってろっ!!や、矢射子勘違いするなよ。オレは…。
――言い訳なんて聞きたくないわよこの女たらしーーーーっ!!!!
前の彼女というだけでもダメージ大な先輩。更に相手が阿久津に何かと縁のある佐渡あいすと来れば倍率ドン(←一口:談)である。
先輩は阿久津の頬を思いっきりひっぱたくと、割れた食器もそのままに阿久津の家を飛び出したという。
******
「けほっ…それからお姉さまは、今の今まで予備校にも行かずに家に引きこもってるって訳。…で、乾のほうは?」
喋りすぎて痛くなった喉を押さえつつ尋ねると、乾は、オレが聞いたのはその続きだよ、と答えた。
出て行ったお姉さまを追いかける為とりあえず父親に数発拳を入れた阿久津くんは、アパートの入り口で一番あってはいけない人物に
会ったらしい。
――…お兄ちゃん?朝、お父さんからメール貰ったんだけど。
同じ色の髪をした少女――阿久津くんの実の妹で、伊舞ちゃんという――は、お姉さまが出て行った方向をちらりと見て、尋ねた。
――お兄ちゃん、あいすさんと付き合ってたんじゃないの?何で急に相手変わってるの?
――いや…伊舞、良く聞け。オレは元々佐渡とはそういう付き合いをしてない。今付き合っている人が…オレの本当の彼女だ。
阿久津くんは、腹の底を振り絞るような声で、妹に向けて言い放った。
けれど、時は遅すぎた。
目の前に立つ妹は――ぽろぽろと涙を落としつつ、こう言ったそうだ。
――お兄ちゃん、じゃあ…あいすさんとは遊びだったんだ…それで、二股かけてたんだ…。
――わかってねえじゃねえか!なに勘違いしてんだ伊ぶべっ!?
すぱぁん。お姉さまに叩かれたのとは逆の頬に、伊舞ちゃんのビンタが決まる。
――お兄ちゃんの馬鹿!最低!…お兄ちゃんなんか、大っ嫌いっ!!!!
「…そりゃ…すごいね」
『シスコンの阿久津からすりゃあ、そりゃもう死刑宣告よりひどい仕打ちだったらしくてよ。こっちも日がな一日生ける屍みたいになって
るって話だぜ』
昨日見かけた『燃え尽きた阿久津宏海の図』が多分それに当たるのだろう。
『正直、自業自得って気もするけどな。阿久津が前もって説明していれば、先輩も妹も泣かさずに済んだんだしなー…けどさ』
「…うん」
そうだ。問題は、起きてしまった過去を問い質し、責める事じゃない。
お姉さまと阿久津くん、この二人のこれからの関係がどうなるかだ。
あたしは、ためらいながらも、今考えている事を乾に話そうとした。
『一口…』「あのさ…」
奇しくも同時に声を出してしまい、同時に黙り込む。
『…何だよ』
乾のすすめる声に、あたしは小さく咳払いをした。
「…あのね、乾怒らないで聞いて。あたしは――二人の仲を戻したいって思ってるの」
『!!』
電話口の乾が、息をのむ。当然の態度だ。
あたしも乾も、お姉さまのことが一番大好きで、だったら今こそ振り向いてもらう絶好のチャンスなのだから。
そんな時にわざわざヨリを戻させようなんて、馬鹿げているのかもしれない。
けれど。
『一口…それでいいのか?』
しばらくしてから返ってきた乾の声は静かな響きがあって、無理に感情を押し殺しているようだった。
「…だって、お姉さま電話口で泣いてたんだもん。…っく、あ、あたしじゃっ、今のお姉さまの涙っ、止められないんだもん」
――どうしてもっときちんと話を聞けなかったんだろうって、何度も何度も悔やんでいた。切ない、メゾソプラノの声。
あたしは、布団の上に涙を落としつつ、昼間の自分を恥じた。
「ごめん、乾。本当に嫌だったら…今の話聞かなかった事にして」
ぐしゅっ、と鼻をすすりつつ、あたしは乾の返事を待った。さすがに今回は、あたしのわがままで乾を振り回せない。そう思いながら。
けれど、あたし一人の手で仲を取り持つ事になっても構わない。
――ややあって、はーーっ、と長い溜息が携帯電話から聞こえた。
『…ばかやろう。病人がちょろちょろ動き回ったところで、風邪ぶり返すのがオチじゃねーか』
電話先の乾の声は怒っていた。当然だろなあ、なんて思っていたら、乾は怒った声のまま、オレのセリフ取るんじゃねーよと呟いた。
「――…?それって…」
『オマエにばっか無茶な事させるかってーの。オレも乗るぞその話。今更断るなよ?あともう泣くなよ』
詳しくは明日な。そう言って切れた電話を握り締めながら、あたしはこぼれ落ちる涙を止める事が出来なかった。
「…っ、ごめん、ごめん乾…ありがと…」
部屋のカーテンの隙間からは、あの日と同じあたたかな色の夕陽が差しこんでいた。
******
「…」
充電切れスレスレの携帯電話のディスプレイを眺めつつ、オレは、しばらくさっきの会話を反芻していた。
――あたしじゃ、今のお姉さまの涙止められないんだもん。
それは、一口だけじゃない。きっと、オレにも出来ない事だ。
悔しいけれど、矢射子先輩が好きなのは阿久津の野郎だけであって、オレたちの姿なんか眼中に無いのは、事実だった。
「…仲を取り戻す、か」
「面白そうな話をしているな」
「うひゃおわっ!!!?」――がたたんっ。背後でいきなり聞こえた声に、オレはどこかの新喜劇よろしく椅子から転げ落ちてしまった。
「うむ。今のリアクションは中々いいぞ。往年の上島R兵を髣髴させる」
「あ、安骸寺…!?なん…」
何で、と言いかけた口は、安骸寺のヒマだからだ、というセリフに遮られた。
「王子が時間ギリギリまで補習を受けている間退屈でな。何かないかと思ったら、一(はじめ)が興味深い会話をしてるのが聞こえてな」
「それって盗み聞きって言うんじゃ…」
「そんな事より、今の話は例の二人に関してだな?」
安骸寺の表情の読めない眼がオレを捉える。脳裏になぜかアナコンダと豆柴の向き合う図が浮かんだが、何故なのかよく分からない。
「あ…ああ、矢射子先輩と阿久「伊良子と藤木の対決…俺もREDは毎号買っているが、あれだけは先が読めん」
「違げーよ!!何でそこでシグルった話になる訳?オレたち虎眼流!?つかせめてジャンプキャラでボケろよ!!」
口走ってはっとなる。うっかり反射的にツッコミを入れてしまったが、少々言い過ぎた。
安骸寺はうつむき、ふるふると震えている。
「…あ、悪い…」
「合格だ。今のつっこみ、協力に値するぞ一」
へ?あまりの超展開に、頭の中が真っ白になってしまった。
「宏海と矢射子を復縁させようというのだろう?俺もその話に乗ったという事だ。…つっこみ一つ出来ん宏海をこれ以上見るのもつまら
…もとい、忍びないしな」
安骸寺はそう言うと、にやりと口元だけで笑みを作った。
「よくわかんねーけど、協力してくれるなら助かる。…ありがとう」
不気味ささえ感じる笑顔からわずかに目を逸らしつつ、オレは礼を言った。あの眼はどうも苦手だ。
何というか、余計な部分まで覗かれている気分にさせられる。
「こっちは遅かれ早かれ動くつもりだったんだがな…俺にしてみれば一、オマエの方がよく分からんぞ?今だったら矢射子の心など、労
せずとも落とせるだろう。人の心は移ろいやすいからな――…そんな目で睨むな。冗談だ」
眉間に皺をよせ安骸寺はうそぶいたが、冗談にしてはタチが悪い。
「…義理立てすると思うのもいいがな、たまには自分の気持ちを冷静に見つめてみろ、という話だ。今のオマエからは義理以上のものも
伺えるぞ?」
――は?小難しい口調のせいか、理解するのに時間がかかってしまった。
というかまだよく分からない。誰が誰に義理以上の…。
「ふむ、時間だな…失礼する。――安心しろこんな面白事、そう簡単に口外せん」
「え、いや…ちょっ、待て安骸寺…」
オレの言葉をはね返すように、ぴしゃりと扉が閉められ、同時に下校放送が教室に鳴り響く。
オレは、閉められた扉を睨みつつ、やっぱりあの眼は苦手だと思った。
――余計な部分まで、覗き込むなんて。
762 :
イヌイチの人:2007/11/10(土) 08:22:22 ID:Fasnx+d2
ひとまずここまでです。続きは只今打ち込み中ですすみません。
週番がピンとこない方は、「一週間日直をやる」くらいの感覚で受け止めていただければ幸いです。
次もエロが(今回以上に)ない上長いので、場合によってはエロなしスレに投下するかもしれませぬ。
というより残りKB数が心配で…。
では、失礼します。
うわぁっぁっぁっぁ…
まさしく寸止め。生殺しです。
楽しみにしております!
>>745-
うは、続き来てたGJ!
現在436KB・・・500までだっけ?やばそうなら次たててからがいいのかもしれんが
まだ大丈夫じゃね?
765 :
745:2007/11/15(木) 07:58:11 ID:xdO8qhmh
続きできましたので、投下いたします。
これで「イヌイチ」「モモテウラ」「続・イヌイチ」の続き物はひとまずまとめになると思います。
キャラは多いがエロなし・捏造設定アリなので、苦手な方は「オマツリ」で、
NG登録お願いします。
766 :
オマツリ・1:2007/11/15(木) 07:58:56 ID:xdO8qhmh
******
晩秋というより、もはや初冬に近い土曜の朝。雲ひとつない青空という陳腐な表現も、その通りなんだから仕方ないと開き直ってしま
うほどの快晴。
なのに自分は何故、ここに居るのだろう。
「お姉さまー!次あれ乗りましょうっ!ジェットコースター今なら20分待ちですって!!」
片腕に柔らかな感触を覚えつつ、百手矢射子は引きつった笑顔を浮かべていた。
「おい一口、あまり先輩にベタベタすんなよな!」
矢射子を挟んだ向こう側で乾一が、矢射子と腕を組む一口夕利に向け文句を言うが、一口はどこ吹く風のようだ。
「仮にも先輩は…「いいじゃない乾、お姉さまだって受験の合間の息抜きは必要よ。ね?お姉さま」
「あ…そ、そうね」
そういう一口や乾も受験生じゃないのか。喉まで出かかったツッコミを、矢射子はぐっと飲み込んだ。
関係のこじれた恋人、阿久津宏海との一件で塞ぎ込んでいた矢射子の元に、一口から誘いの電話が来たのは、つい2日前の事である。
気分転換に、との事で足を向けた遊園地だったが、胸に去来するのは、やはり空しさだった。
――そういや、宏海とはまだ、遊園地に来た事なかったっけ。…出来るなら宏海と来たかったなあ。
ぼんやりと待ち時間に思い、溜息を吐く矢射子。
その瞳にはいつも宿していた、凛とした光の姿は無かった。
「…ちょっと、本当に何とかなるんでしょうね」
心ここにあらずの矢射子の後ろで、一口は更に後ろに並ぶ乾に向け、小声で囁いた。
「こっちは安骸寺にメール送ったぞ。あとは、向こうのメール待つだけだな」
振り返る一口に、同じく囁き返す乾。
「何のんきな…」
「向こうにだって向こうの予定があるんだろうよ。――しかし」
本当に、見てらんねーな。矢射子の背中を見て、乾はぽつりと呟いた。
憔悴しきった矢射子の姿など、自分が一番見たくなかったものだった。けれど、今日はそれすら向き合わなければならない。
心に受ける痛みなんて、全然気持ちよくないのに。
――頼むぞ阿久津。オマエじゃねーと、先輩は元に戻らねーんだからな。
ぐっ、と目を閉じ、乾は心の中で一番頼りたくない相手に対し、祈った。
767 :
オマツリ・2:2007/11/15(木) 07:59:51 ID:xdO8qhmh
「……」
所変わって遊園地『DESTINY LAND』入口。
待ち合わせにやや遅れてやって来た阿久津宏海は、門の手前で揃ったメンバーに対し、しばし驚きのまばたきを繰り返していた。
「遅いぞ宏海。どこぞのギャルゲーの如く『電車がモロ混み』だったのか?」
まず声を掛けたのは、クラスメイト兼諸々の理由で腐れ縁の安骸寺悠だった。
「何メモリアルだよ。…いや、そうじゃなくて」
「そうよ赤毛!こんな乾いた空気の中で放置なんかされたら、アソコが切れちゃうじゃないの!」
『唇なら翠たま、さっきからリップクリーム塗ってたタマ』
どうにも卑猥に聞こえる言葉遣いをするのは、悠の押しかけ何とか兼、妹の友人の魔法使い・地山翠。
変わった語尾は翠の使い魔の精子(読みは『しょうこ』だ。読み違い厳禁)のものである。
「翠。…オマエはもう少しマトモな言い方覚えろ」
そして。
「…はよ」
「…うす」
姓は違うが、宏海の実の妹――星出伊舞。
本来はニコニコとよく笑い、兄にじゃれつく妹ではあるのだが、今は仔細あって、互いの間には重苦しい雰囲気が漂っている。
ぼそりと掛けられただけの声も、胸に痛い。伊舞はくるりと宏海に背を向け、翠に、早くしないと混んじゃうよー?と声を掛けた。
「悠…あまり詳しい事言わねえと思ったら、こういう事かよ」
「Wデートだ。嬉しかろう」
はっきり言って半分強制のようなものだった。今までの宏海の痴態が収められたDVDを盾に、『遊園地に来い』と脅されたのだ。
ちなみにこの脅迫行為は原作でも割と頻繁に行われてるので、安心である。(何が?)
「妹相手はデートとは言わん。…気を遣ったのか?」
ここ数日、不幸の重なった宏海の様子は、無残という言葉も生ぬるい程であった。
普段人間関係に対し、冷めた目で見る悠でさえ、策を講じずに居られなかったのだろうか。
768 :
オマツリ・3:2007/11/15(木) 08:00:29 ID:xdO8qhmh
「…なんか、悪いな」
「いや。むしろ気を遣うのはお前のほうだろう」
チケットを切りながら、悠は携帯電話を手に取った。何かチェックしているらしいが、宏海の位置からはよく見えなかった。
「なあ、そういえば今日、太臓はどうした?」
「王子なら一緒を呼んで、蔵出しAV鑑賞会をやっている。『10時間耐久抜かずレース』だそうだ。…何だ、連れてきた方が良かったか?」
「全力で断る。――言いたくないが、『よくもありがとう』ってヤツだ」
万年発情期のサルのようなあの変態が、今の状態でこの中に入ろうものなら、パニックに陥ること必至である。
即答した宏海に、悠は軽く笑い、ひねてるな。と呟いた。
「礼は受け取っておこう。…では、行くぞ」
ゲートの向こうで、翠が大きく手を振る。男二人、ゲートをくぐりつつ宏海は、今日が平穏に過ぎますように、と心の奥で祈った。
「もー、悠さんたち遅いから、ジェットコースター1時間待ちになっちゃいましたよー?」
「すまんな。とりあえず軽めのから攻めてみるか」
「いやーん悠様ったら、朝から責めるなんてダ・イ・タ・ン」
『漢字が違うタマ』
――悠さんたち、か。微かな言い回しの違いすら、鋭い刃になって宏海の胸を刺し貫く。
「ここからなら、メリーゴーラウンドが近いな。今なら空いてるんじゃないか?」
「あはは、でも高校生になって回転木馬って子どもっぽくないですか?」
「そうでもないぞ。いい歳した大人だって三角木「馬鹿野郎!いきなり何言いやがる!!」
――いかんいかん。気を抜いている場合じゃなかった。
コイツらに話を任せて、伊舞に良からぬ知識を植え付けるわけには行かない。
「そうですよ!悠様、そんなの一般的では無いですわ!」
珍しく、宏海の言葉を受ける形で翠が反論する。
「女の子だったらやっぱり騎乗「いいかげんにしろテメエら!!普通に遊園地の話しろよ!」
微妙に単語が繋がっている辺りが、ツッコミの甘さを表していると言えよう。その位宏海は未だ本調子ではなかった。
そして、そんな宏海の姿を伊舞は静かに見つめていたのだが――鈍い宏海が、視線に気付かなかったのは、いつもの事だった。
769 :
オマツリ・4:2007/11/15(木) 08:01:30 ID:xdO8qhmh
「キャーーッ!!」ちょ、ちょっと乾、回しすぎ!!」
「まだまだっ!コーヒーカップの恐怖はここからですよ先輩!!」
言うなり、乾は中央のボードを更に回した。
遊園地の隠れ絶叫マシーン、コーヒーカップの醍醐味を知り尽くしたと豪語する乾は余裕の表情だが、席を同じくした矢射子や一口は
たまったものではない。矢射子のポニーテールも、一口の結った前髪も、真横にたなびいている。
「やーんお姉さまっ、クラクラしちゃいますーっ!!」
ぽふっ、と音立てて、一口が矢射子の胸に倒れ込むのを目の当たりにし、乾の胸が鈍く疼いた。
――…一口は、本当はこうなる事を望んでたんだよな。
先輩の傍に立って、先輩の声を聞いて、先輩の体に触れて。
そりゃオレだって望んでいたけれど…一口の一途さは、オレなんかの比じゃないはずなのに。
それでも、振り切るって言うのかよ。オマエ。
「…ほらっ、最大回転行きますよーっ!」
ボードを回せるだけ回した矢射子達のカップは、もはや別次元の乗り物である。
「待って…あんっ!一口っ、どこ触ってんの!?」
――…本当に振り切る気、あるんだよな?一口。
半ば押し倒し倒されの、青空レズビアンショー状態になってしまった二人を目に、乾の頬に脂汗が伝う。
ポケットの中の携帯電話が震えたのは、その時だった。
「はあ…叫びすぎて喉が痛いわ…」
「乾ったら、やりすぎじゃない?…まだ頭がクラクラしてる…」
カップから降りて、足をふらつかせる二人に背を向け、乾はこっそりさっき着いたメールをチェックする。
――『アラビアン機械(マシーン)冒険譚ランプ・ランプ』前にいる。適当に言って別行動させろ。
簡潔な文は、間違いなく悠のものである。乾は一息吐くと、携帯電話のディスプレイを閉じた。
「ちょっと乾、聞いてんの?」
「えっ、あ…あー、じゃあオレ飲み物買ってきますよ。おい一口、行こうぜ」
え?と戸惑う一口を目でうながし、腕を引く。
「遅れるようだったら適当にうろついてて下さい!!何かあったらケータイで呼んで貰えたら、飛んできますから!」
一口を引きずりつつ、矢射子に向かって叫ぶ。
…オレに出来るのはここまでなんだろうなあ。心中で呟き、乾は矢射子に背を向けた。
770 :
オマツリ・5:2007/11/15(木) 08:02:21 ID:xdO8qhmh
「いっ乾、痛いよ!手離して!!」
背中に掛けられた声に、足が止まる。
「…悪い。変な力入ってたな」
ぱっ、と離した手をスカジャンのポケットに突っ込み、乾は、一口の顔を見ずに謝った。
「メール、来たんだ」
「ん。今近くに居るって…あとは、阿久津に会う事さえ出来れば予定通りだ」
「そっか。…え?」
納得しかけて、一口は首を傾げた――…会う事さえ出来れば?
「乾、それって会えなかった場合のフォロー考えてる?」
「…え?」
「「……」」
二人の間にしばし沈黙が流れ、すぐさまさっき矢射子と別れた場所に駆け込む。
しかし、時既に遅し。そこに矢射子の姿は無かった。
「せっ、先輩消えるの早すぎます!!」
「バカそうじゃないでしょっ!早くケータイで呼びなさいよ!!」
「お、おう、そうだった」
一口に急かされるままに、乾はポケットから携帯電話を出し、ディスプレイを開く――と、同時に『ピー』という機械音が流れた。
「…充電切れ…」
「なんで出かける前にフルにしなかったの!?」
「い、いや一口、オマエのケータイは?」
「あっそうか」
思い出したように一口は背中のリュックを下ろし、ごそごそと探しだした。しかし、探すばかりで見つからない。コートやジーンズの
ポケットも同様だった。
「…どうしよう。充電器に差し込みっぱなしだった…」
「オマエ人の事言え…ばぱあっ!!!?」
反論しようとした乾の頬に、速攻でビンタが飛ぶ。
「何よ何よ何よっ!!!!元々アンタが連絡役だったんじゃないの!!だったら変なトコでポカなんかやらかすんじゃないわよこのバカ犬!!!!」
パパパパパパパパパン!!!!!!
「ああ〜〜〜〜〜〜んっ!!!!!!」
一口痛恨の逆ギレ・スパンキン風林火犬の音とドM乾の嬌声が、デスティニーランドに響き渡った。
…しかし矢射子の耳には、届いていなかった訳だが。
771 :
オマツリ・6:2007/11/15(木) 08:03:27 ID:xdO8qhmh
『お客様に迷子のお知らせを致します。アイボリーのシャツに、紺の上着とズボンをお召しになられた5歳の――…』
――迷子放送だ。係員のよく通る声を耳にしつつ、伊舞は休憩用のベンチに腰掛け、通り過ぎる人々の姿をぼんやり眺めていた。
土曜日の遊園地は、カップルもさることながら、やはり家族連れが多い。
どこかで配っているのであろう、ヘリウム入りの風船を持つ子どもと、手を離さないように注意する父親、それを温かな目で見る母親
の姿が目に入り、伊舞は思わず目を細めた。
「――家族、か」
「おーい悠、買って来たぞー…あ、あれ?悠と翠は?」
背後にいきなり掛かってきた声に、伊舞の体がびくんっと跳ねた。
「…悠さんたちなら、二人でゴーカート乗りにいったよ」
「ふ、ふーん…」
女の子一人置いてくなよな、と愚痴をこぼしながら、宏海はそっと伊舞の隣に座り、注文のアイスクリームを渡した。
「伊舞はバニラとチョコのダブルだったな。トッピングが出来たから、ついでにチョコチップ付けといたぞ」
目の前に差し出された2段重ねのアイスに、伊舞の目が大きく見開かれる。
「――…」
「…何だ?お前チョコチップ嫌いになったのか?」
「う、ううん」
そんな事はない。チョコチップ(正しくはチョコスプレーだが)の付いたアイスやデザートは、子ども染みていると思いつつも、伊舞
が昔から好きなものの一つだ。
伊舞は受け取り、黙々とアイスを食べ始めた。
「悠が別行動始めちまったんならしょうがねえよな。…オレたちも他のモン乗りに行くか?」
自分のぶんのアイスを食べ終え、遠くを見る宏海の横顔を、伊舞はちらりと見る。
――普段と変わらないようで、全然違う顔だ。
ぱりん。口の中で最後のコーンカップのかけらが砕けたと同時に、伊舞の目にある乗り物が目に入った。
「――じゃああたし、アレ乗りたい」
772 :
オマツリ・7:2007/11/15(木) 08:04:28 ID:xdO8qhmh
足元お気をつけて下さーい、という係員の言葉に従い、宏海と伊舞が乗り込んだのは、観覧車だった。
かつては国内最大級などとうたわれた巨大な観覧車は、頂上に差し掛かればデスティニーランド全体は勿論、はるか遠くに離れたはず
の逢魔市さえ望める。
「久しぶりだね。観覧車乗るの」
「ん?――ん、ああ」
伊舞の言葉に、宏海は記憶の糸を手繰る。そういや前にここの観覧車に乗ったのは、いつの事だったろう。
「…憶えてる?昔、家族みんなでここに来た時、二人でこっそり観覧車に乗ったら、コレ結構時間が掛かっちゃって、お父さんとお母さ
んがその間に帰ったらどうしようって、あたし泣き出しちゃったよね」
「――ああ」
「お兄ちゃん、あたしの手ぎゅって握りながら、父さんと母さんがオレたち置いてく訳ないだろって言ってたけど、足がくがく震えてて、
…ふふっ、あたしよりもヒドい顔してたんだよ?」
久しぶりに見る伊舞の笑顔だ――思ったが、話の内容上、宏海はそうだっけ?とぶっきらぼうに返した。
だが、かすかには記憶がある。
まだ尻の青い、鼻タレ小僧だった自分と、泣き止まない妹と、どんどん高みに上っていくゴンドラと。
そのまま帰ってこれなくなったらどうしようなんて、今から見れば馬鹿馬鹿しいような恐怖に震えてはいたけれど。
小さな妹の手さえ握っていれば、一人じゃないから大丈夫だと信じていた。
「…あいすさんにね、昨日、聞いてみたの。お兄ちゃんに二股掛けられて悔しくないのって」
「なっ…!!?」
無知とは、ある意味無敵と同義だ。
もし宏海が同じ質問でもしようものなら、あの『氷の美少女』の事、そのまま絶対零度のの中で絶命させられる事請け合いであろう。
「それから、お兄ちゃんとケンカしちゃった事も――そしたらあたし、あいすさんに怒られちゃった」
「お、お怒られた?…伊舞、体のどこにも異常はないか?しもやけとか、凍傷とか」
うろたえる宏海に、伊舞は首を傾げた。
「言葉でしもやけなんて出来ないよ?どうしたの?」
「い、いや…」
――それならいいんだ。と宏海は深く安堵の息を吐いた。
伊舞は、膝に置いた指を遊ばせながら、その時の記憶をゆっくりと語り始めた。
773 :
オマツリ・8:2007/11/15(木) 08:05:36 ID:xdO8qhmh
『…私が、宏海に二股掛けられた?――どこからそんな与太話が出るのかしら』
『で…でも、あたし見ちゃったんです!お兄ちゃんがこの前、お父さんに違う女の人…その、前の生徒会長さんを会わせてるのを。…あ
たし、お兄ちゃんがあんな人だなんて思わなかった…!!』
昼下がりの学生食堂で、伊舞はそのままぽろぽろと泣き出した。あいすはそんな伊舞を見て、眉間に皺を寄せた。
困惑と怒りが混じった表情のまま、こういうのを避ける為じゃ無かったのかしらあの馬鹿――と小さくこぼすと、すっ、と息を吸い、
伊舞に向けて言葉を放った。
『伊舞…本来、私の口から説明するのは筋じゃないんだけれど、それはあなたの勘違いよ。私にも当然、付き合う相手を選ぶ権利はある
のよ?何が悲しくて不良と書いてクズと読むような男と付き合わないといけないのかしら?』
許容も無く慈悲も無く――佐渡あいすの舌鋒ここに極まれり、である。
――ちなみにこの時食堂外の廊下で、真白木さんどうしたんスか急に打ちひしがれて!という声が響いたのはまた別の話だ。
『あいすさん…』
『そもそも、家族を蔑ろにしたり、妹を泣かせたりする男なんて、論外よ。同じ血の繋がった人間一人守れずに、どうして他の女を幸せ
に出来るなんて思えるのかしら。傲慢極まりないわね。――まあ、もっとも矢射子元会長みたいに、それでも想い慕う人も居るのだから、
世の中は不思議なことばかりと言えるけれど』
『…相手の事、知ってたんですか?』
『何かとあってね。私や翠も、縁を取り持つのに一枚咬ませて貰ったわ。そうでもしないと元会長には、一生春なんて来ないでしょうし』
涼やかに言い放つと、あいすはそのままストローパックの野菜ジュースを一口飲んだ。
普段言葉少ない彼女が饒舌に語る図というのは大変珍しい。――おそらく、彼女の琴線に触れる内容だったからなのだろう。
『…っ、あたし…』
『悔やむ事はないわ伊舞。元はといえば宏海の配慮不足が原因なんだから。――けれど、アレは鈍感で、卑怯で、我を通す事が出来ない
馬鹿だけど、一応あなたのお兄さんなんでしょう?それだけは、忘れないで』
――家族。他人ほど隔絶されてなく、自分自身より確固でない、緩く温かな繋がり。
間界人という特殊な素性から、血の繋がりのある存在を持たないあいすには、その響きは優しくも切ないものであった。
泣き止まぬ伊舞にそっとハンカチを差し出すと、私からも『キツく』注意しておくわ、と言い残してあいすは席を立った。
『あのっ!』
遠ざかろうとする背中に、伊舞は最後の質問をした。
『あいすさんとお兄ちゃんって――じゃあ、どういう関係なんですか?』
涙でにじむ伊舞の視界の中で、あいすはゆっくり振り返った。表情はよく分からなかったが、やはり涼やかな声であいすは答えた。
774 :
オマツリ・9:2007/11/15(木) 08:06:57 ID:xdO8qhmh
「――…何て」
宏海の問いに伊舞はすん、と鼻を鳴らし、首を振った。
「そこまで聞くのは野暮だよ。…でも、本当そうだよね。お兄ちゃんは考えなしで、すぐ人に流されちゃうけど…それでも、
あたしには…世界に一人しか居ないっ、お兄ちゃんなんだよ、ね…ごめっ、ごめんなさ…っ!!」
きゅっと拳を握り、耳まで赤くなりながら涙を流す伊舞の頭を、宏海はそっと撫でた。
「いや…オレの方こそ、悪かった。オマエにつまらない勘違いさせて、泣かせちまったオレが悪いんだよ」
――そして、アイツにも。
脳裏に浮かぶ、ポニーテールを風になびかせる女の姿に、宏海の胸が強く痛んだ。
アイツに会いたい。直接会って、話がしたい。
けれど、観覧車の回転は遅く、行くべき場所へは、未だたどり着けそうにも無かった。
人ごみの向こうから見慣れた姿を見つけ、一口は息を切らしつつ、駆け寄った。
「い、乾、居た?」
「一口…ダメだ。オレの探したところには居なかった」
まだ頬の赤味の取れない乾が、心底悔しそうに首を振った。
「…どうしよう、安骸寺くんたちも見つからなかったし、まさかお姉さまだけじゃなくて、皆帰っちゃったんじゃ…」
そうなれば計画は台無しである。元々、会話をする機会に恵まれない乾達と悠の間に、きちんとした計画を練る時間は無かったのだが、
それにしたって穴が多い。
「乾ゴメン、あたしがちゃんとケータイ持ってたらここまで…」
青ざめた一口の目の端に光るものが見え、乾は痛みを堪えるように唇を噛んだ。
「…っ、そうだ!さっき通り過ぎちまったけど、ここ、展望台あるから…そこから探してみるってのはどうだ?」
いかにも苦し紛れな策である。だが、乾はこれ以上一口が泣く姿を見たくない一心で、手を握ると、そのまま走り出した。
「えっ?ちょ、いぬ…」
「いいから走れ!」
――走れって、アンタ、何いきなり手なんか握るのよ!?今までそんなコトした事無いじゃない!!
言いたいのに、口が上手く言葉を紡いでくれない。繋いだ手を離したいのか離したくないのか、一口自身戸惑いながら、人ごみの中を
二人は駆け抜けていった。
――…その場所を、携帯電話を見つめた矢射子が通りがかったのは、二人が走り去ってからわずか3分後の事だった。
何ともお約束である。
「…はぁ」
一口も乾も、本当どこ行っちゃったんだろ…心の中で呟き、矢射子は飽きるほど見たアドレスのページを、もう一度見る。
乾の電話からは、通話不可のアナウンスが流れ、一口の電話からは、何故か母親が出てきた。なんでも持って行くのを忘れたそうだ。
「…」
ピッ。アドレスのカーソルを上げるのも数度やってみたが、その番号へは、未だかける勇気が出てこない。
――阿久津宏海。
一時は食事の内容だの見てるTVだのといった、ささいな内容のメールだって交わせたのに、ここ一週間、メールも電話もしていない。
「…こんな事で、ダメになっちゃうのかな。あたしたち…」
振り返ってみれば、本当に瑣末なことなのに。
自分が付き合う前のことなんて、今の自分たちに何の関係があったのだろうか。
――相手の名に傷ついたのは確かだったけれど、それでも宏海は、あたしにきちんと説明しようとした。
それを激情にまかせて耳をふさいだのは、自分の方だったのではないか。
「…」
もしこのまま、別れてしまったら。
この数日、何度も想像してしまう悪夢が、矢射子の胸を締め付ける。
考えたくないのに、自分の元を去る宏海の広い背中が、脳裏から離れない。
展望台に着いた頃には、乾も一口もすっかり肩で息をするようになっていた。
「ぜえっ、ぜえ…こ、ここからなら見える、かな」
「は、はふっ…けほっ、風邪、ぶり返したら恨むからね…」
よたよたと歩きつつ、二人は空いている双眼鏡の前に立ち、揃って覗き込んだ。
「見える?」
「いーや…やっぱ人多いからかなあ…。あっ、あれ阿久津じゃねーか?観覧車」
どれどれ、と一口も同じ方向を覗いて見つける。確かにあの目立つ赤髪は、宏海のものだ。
「もう一人居るね…妹さん、かな?髪同じ色だし」
下りに差し掛かったゴンドラの動きは、あくまで緩やかで、しばらく出てくる見込みは無い。
「矢射子先輩…は…やっぱり分かり辛いな。おとなしめの格好だったし」
たしか濃いベージュのコートに、黒のタートルネックとフレアスカートだったっけ。呟く乾を一口がキッと睨みつける。
「それを根性で見付けてこそのプティ・スールよ!心の眼で見つけなさい!!」
「…オレ男なんだけど」
つーか、根性とプティ・スールと心眼って関係なくねーか?
乾は思ったが黙った。――乾にしては、賢明な判断と言えるだろう。
ごんごんごんごん。
観覧車の駆動音だけが響く室内で、伊舞は大きな手に頭を撫でられる感触を、くすぐったくも心地良く受け止めていた。
昔、繋いだ時と同じ、温かな手。
出来るならこのままでいたいけれど。
「ねえ、お兄ちゃん。…今の彼女のこと、好き?」
目を閉じ、返事を待つ。――返って来る言葉は分かってはいたけれど。
「ああ、好きだ」
それさえ聞けたなら、もう充分だ。
「…ふふっ、もういいよお兄ちゃん。――もう、大丈夫だから」
小さく笑いながら、伊舞は宏海から身を離し、窓に頬をよせた。ひやりとした窓の冷たさが、今の頬に気持ちいい。
「…そうか」
宏海も手を下ろし、窓の向こうを見る。空気が澄んでいて、随分遠くまで眺められる。
「ねえ、お兄ちゃん――あの観覧車の時の続き、憶えてる?」
「?」
窓に顔を向けたまま、出された伊舞の問いかけに、宏海は首をひねった。
「そういや…思い出せねえな。オマエは憶えてんのか?」
「憶えてるよ。てっぺんを過ぎて、だんだん降りて行ってる時にね、二人して窓の外を覗き込んだの。――これだけ高い所に居たら、お
父さんやお母さんの姿も見えるだろうって、二人して探して…で、見つけた時、お兄ちゃんボロボロ泣き出しちゃった」
…それは、憶えてなくて当然か。
というより、消したくなる記憶に分類されそうだ。
渋面を作りつつ、宏海は伊舞の向かいに座りなおし、同じように窓に顔を近付けた。
「…で、今日は何だ?悠たちでも下に居んのか?」
あまりにも長い事窓に張り付く伊舞に尋ねてみると、伊舞は悠さんたちは居ないけど――と指差した。
心なしか、その表情にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。
「お兄ちゃんの大切な人なら、居るよ」
こつん。
人差し指が窓を叩く。指し示す先に目を遣り――宏海は絶句した。
――矢射子!?
観覧車の真下、家族連れやらカップルやらで出来た人波にもまれるように、肩を落とした矢射子が歩いている姿が、宏海の目にもはっ
きり見えたのだ。
「な、何でアイツが…!?」
「居た!!観覧車の真下!!」
「えっ――あっ、本当だ!!」
二人揃って双眼鏡を占拠し、早十数分。プティ・スールの根性を見せた一口の声に乾も反応した。
「よし、オレちょっと行って先輩止めてくる!一口そこで待ってろ!!」
「えっ…」
なんで、と尋ねようとした一口だったが、理由は単純だった。
「病み上がりのお前がこれ以上走ると、体に悪いだろーが。んじゃ、また戻るから」
言うが早いか、乾はひらりと身を翻し、猛スピードで展望台を抜け出した。
乾の脚力は、サイボーグ云々という馬鹿げた話を抜きにしても、全校中上位に食い込むほどの実力である。
言葉通り、『ちょっと行って』くる程度でも、すぐに矢射子の元にたどり着けるのであろう。
遠ざかる足音を耳に、一口は胸がきゅうっと痛む感覚に襲われた。
「ずるいよ…乾」
――あんたは、あたしに無いものをいっぱい持ちすぎてて、時々、胸が痛くなる。
無意識に繰り出せる行動が、羨ましくて、嫉ましくて、悲しくなる。
うっかり、涙をこぼしそうになり、一口はきつく唇を噛んだ。――アイツの為には泣かないと、かつて自分に言い聞かせていたから。
一旦、ぎゅっと目を閉じ、再び双眼鏡を覗き込む。
今、自分に出来るのは、矢射子と宏海を見守ることなのだ。
「――あれ?」
「ああっ!?」
べたん、と窓に顔を押し付け、素っ頓狂な声を上げる伊舞につられ、宏海も同じように額を窓に付けた。
眼下の矢射子は、相変わらず携帯電話を手にふらふらしている。
だがそんな矢射子の近くを4、5人の男たちがうろつき出したのだ。
「矢射子!?」
「どどど、どうしようお兄ちゃん!?」
いつもなら寄り付く男など一刀両断にしてきた矢射子だが、今回は勝手が違う。
下手をすれば傷心に付け込まれて、そのままエロパロ的展開へと進む可能性だって、ゼロではないのだ。
…板の性質上、そちらの方が有難いのかもしれないが。
「良いわけねえだろっ!!!!」
「お兄ちゃん誰と喋ってんの!?」
錯乱し、あさっての方向に怒鳴る宏海に伊舞がつっこむ。
つっこみに気を取り戻したか、宏海は、はっと息をのむとポケットをまさぐり、携帯電話を取り出した。
「…」
今まで気のきいた会話をする自信に欠けていた宏海は、ずっと自分から連絡を取ろうとしなかった。
――きっと、それも仲がこじれた原因のひとつなのだろう。
けれど、今はそんな事を言っている場合ではない。せめて、周りに気付かせるためにも。
「…っ!」
ぐっ、と力強く宏海は発信ボタンを押した。…だが、向こうは気付くようでもない。
プツッ。『…お掛けになった電話は、現在電波の届かない所に居るか、電源が入っておりません…』
OH! GOD!
「電源切ったケータイ持ってんなよ!意味ねえじゃねえかっ!!」
「えええーーーーーーっ!!?」
「くそっ、やっぱり開かねえかっ!」
力任せにゴンドラのドアをガンガンと押しても、開くはずが無い。冷静に考えれば当たり前なのだが、切羽詰った宏海には、判別すら
ついてなかった。
――あと少し。あと少しで、外に出られる。
ゆったりとした観覧車の動きが、この上なくもどかしい。宏海も、そして伊舞も歯を食いしばりながら、祈るような気持ちで一刻も早
く扉が開く瞬間を待った。
それは、遠く展望台で双眼鏡を握り締める一口も同じだった。
「乾…お願いっ!」
今、自由に動けて、矢射子を守ることが出来るのは、乾だけだった。
「ちょっ…すみません、通し…っ!!」
その乾は、展望台を出たとたんに目の前に広がっていた、大きなお友達の集団に巻き込まれていた。
運悪く、(本来は)女児向けバトルアクションアニメ・ショーの開演時間とかち合ってしまったのだ。
無論、乾は矢射子の危機を知らない。そして一口も、乾の状況を知らない。
ガチャガチャ。扉のカギを外し、到着したゴンドラの客を、係員がいつも通りの業務用の笑顔で迎える。
「はい、ありがとうございますー。足も…」バゴンッ!!「キャーッ!?」
扉を蹴り破らんばかりの勢いで、内側から扉が開くと同時に凶相の男が飛び出す様は、幼児が見ればトラウマ確定の代物だっただろう。
だが、男――宏海には係員の絶叫すら耳に入っていなかった。
タラップを降りる足の動きがもどかしく感じる。
「クソっ…アレ、使うしかないのか…?」
やっと地上へと降り立ち、宏海はシャツのボタンに手を掛けながら走った。
やや遅れ、伊舞もまた、兄の背中を追った。
同時刻、なんとか大きなお友達の中を抜け出した乾も、矢射子の元へと走り出した。
「矢射子――」
「お兄ちゃ――」
「先ぱ――」
――…。
どんっ。
「きゃっ!?」「痛っ!」
いきなり物凄い勢いでぶつかった衝撃で、矢射子の体が大きくよろめいた。
「あいたた、スミマセ…あ、あれ?」
尻餅をついた相手――伊舞は、相手の顔を見て、目をぱちくりさせた。
「あれ…矢射子さん、何で、ここに…」
確か兄の背中を追って走っていたはずなのに。何でいきなり矢射子の前に居るのだろう。――ザ・ワールド?
「大丈夫?立てるかし…っ!!」
腰を下ろしたままだった伊舞に手を差し伸べる、矢射子の表情も固まった。
――この娘、宏海の…。
伊舞はそっと矢射子の手を取り、立ち上がるとありがとうございます、と声を掛けた。
「あ、あの…矢射子さん」
「なっ、何?」
どきん。名を呼ばれ、矢射子は動揺した。――というか、何を話せばいいかわからない。
戸惑いを隠せない矢射子の前でしばらく逡巡した後、伊舞はぐっと握り拳に力を込めると――…ごめんなさいっ、と大きな声を上げ、
矢射子に向け、頭を下げた。
「…え?」
「あ、あたしがお父さんにヘンなこと言っちゃったから、矢射子さんに誤解させちゃったの!!お兄ちゃんは全然悪くないの!」
ぶるぶると膝を震わせながらも、伊舞は大声で矢射子に精一杯の弁明をした。
「お兄ちゃんの好きな人は、ずっとずっと矢射子さんなのっ!だから、だからっ…」
「その位にしてくれ、伊舞」
「――…!!」
すぐ隣から聞こえる声に、矢射子の呼吸が止まる。
――聞き違うはずも無い、愛しい声。…けれど、首が動かない。向き合いたいのに、指一本動かせない。
「お兄ちゃん…」
「あのなー…。オレはそこまで手の掛かるガキじゃねえんだぞ。何が悲しくて妹に告白の代理させにゃなんねえんだよ」
呆れ顔の宏海のセリフはしかし、全く説得力の無いものだった。少なくともこの一週間、廃人になっていた男の言葉とも思えない。
それはさておき、宏海は大きく息を吐くと、隣で微動だにしない女の名を呼んだ。
「矢射子」
名を呼ばれ、矢射子の肩がびくっとこわばる。
――返事しなきゃ。でもその前に息を吸って、首動かして、宏海の顔見て、宏海の…あれ?視界が暗くなっていく。
がくん。「おわっ!?矢射子?…ちょっ、息くらいしろ!!」
糸が切れた操り人形の如く、その場に崩れ落ちる矢射子を、宏海は慌てて抱きかかえた。
かすれゆく意識の中、矢射子は宏海の体から微かに漂う匂いを、鼻腔の奥で感じた。
宏海の体からは、なぜかたんぱく質の焦げた匂いがした。
「――これで、いいんだよな」
足元から伸びる影を見つめ歩きながら、乾は一人呟いた。
人ごみを抜け、矢射子の危機を知った乾は、更に駆ける脚に力を込めた。
あと少しで矢射子に辿り着く――そう確信した瞬間、矢射子は忽然と、男にまとわり着かれている状況から姿を消したのだ。
常人ならば、何が起こったかすら分からなかっただろう。
だが動体視力も並外れていた乾の眼は、その正体を捉えることが出来た。
音速の壁すら打ち砕く肌色の軌跡は、矢射子を抱き上げた一瞬だけ、姿を露にした。
「…阿久津の野郎、一度ならず二度までも全裸露出プレイなんかしやがって」
あんなのを見せ付けられて、どう足掻けというのか。文句なしの完敗だった。
オレの出る幕はない。認めるのは辛いけれど。
影はがっくりと肩を落としている。今の自分と同じように。――と、その先に、見覚えのある靴が目に入り、乾は顔を上げた。
「一口…」
一口は展望台の外で、乾が戻るのを待っていた。その頬や、耳は寒さからか、紅く染まっていた。
「…見てた、か?」
「うん。乾の情けないトコ、ばーっちり」
困ったように、笑う一口。けれど今の乾には、笑顔は作れない。
つられるように笑ったと見せようと、無理に引きつった表情は、悲しいほどに無様だった。
「ははっ、欲出しちまったよな。…せめて最後くらいカッコ、つけようと思った…ん、どな。無…」
――無理だった。
言葉は最後まで声にならず、灼けるくらい熱い涙が、喉を潰していく。
「――…っ…」
いつか、この身もちぎれそうな痛みが、消える日が来るのだろうか。
あの人の表情も、声も、与えられた快楽も、新しい記憶に塗りつぶされる日が。
ぴたり。
頬を触れられる感触に、乾は閉じていた目を開けた。
涙でぼやけた一口が、乾の頬を、両手で包んでいたのだ。
「?何…――っ!?」
尋ねようとした言葉は、衝撃によって塞がれた。ふにゃりとした柔らかさと、がちん、という硬質の音が同時に乾の口に伝わる。
それは、まばたきほどの間の事だった。ジャンプした一口の足が地面に着いて手が離れ、ダッフルコートの中へと滑り込んでいくまで
の一連の動作が、まるでどこかの映画の演出のようにスローモーションで流れていく様を、乾はただ、呆然と眺めていた。
…え?今のって…。
「…お…お、オマエ今…「今日のっ!!」
びくんっ。いきなり大声を出した一口に、乾の体が硬直した。
「――乾、情けなかったけど、格好よかったよ」
一口はそれだけ言い切ると、唇を閉ざし、黙り込んだ。
双方、顔どころか首まで赤くなっている。乾の涙は、とっくに止まっていた。
――…ああ、どうしようもないなあ。
じんじんと痛む唇を一文字に閉ざしながら、一口は一人思う。
あたしは、いつの間にか、目の前のどうしようもない男が、好きになっていたんだ。
ライバルでも、同士でもない、一人の男として。
雨の中で、小さな種がひっそりと芽吹くように。
けれど弱々しい恋心の芽は、雨をその身にしみこませ、少しずつ、確実に大きく育っていた。
「…何だよオマエ…それ反則じゃねーか色々…」
乾は力なく呟くと、へなへなと膝を崩し、その場にうずくまった。
――オレがどれだけ悩んで、迷って、押し込めようとしてたと思ってんだよ。
それなのに、こんなあっさりと。しかもこんな所でキスまでするなんて。
ああもう――オレ絶対、コイツに頭上がんねえ。
「…帰ろっか」
一口は、膝を抱いてしゃがみ込むと、未だ衝撃から抜け出せずにいる乾に向けて言った。
どちらも、はっきり口に出して告白したわけではない。
けれど、二人の表情や仕草は、どんな言葉よりも明瞭に、雄弁に、互いの心情を伝え合っていた。
「…ん」
そんな二人の姿を、突き抜けるほどの青空が、大きく包み込んでいた。
「あちちっ」
両手に受け取った紙コップのコーヒーが、掌に熱を伝えていく。
伊舞は、コーヒーをこぼさないように気をつけながら、宏海と矢射子の待つベンチへと、小走りに駆けて行った。
「お兄――…」
呼びかけて、伊舞は言葉を止めた。小走りだった足も、そろそろと慎重になっていく。
ベンチに座る二人。
矢射子は相変わらず気を失っていて、目を閉じたまま静かに、宏海の肩にもたれ掛かっている。
そんな矢射子の重みをしっかり受け止めた宏海は、矢射子の伏せたまつ毛を優しい目で見つめながら、手をそっと握っていた。
「…」
それは、自分の知っている兄とは異なる、一人の男の姿だった。
小さい頃繋いだ、あたたかくて大きな手は、今は矢射子の手を掴んでいる。
――妬けちゃうなあ、もう。
大きな手は、もう伊舞だけのものではない。けれど、それは悲しむ事ではない。
むしろ、胸を張って誇るべき事だった。
伊舞は紙コップのコーヒーを一口啜ると、くるりと踵を返した。
兄には、後でメールを入れておこう。
先に帰ると。お父さんにも伝えておくと。――あたしは、一人でも大丈夫と。
だってあたしは、お兄ちゃんの妹なんだから。
「――む。魔力切れか。…フィナーレは飾れなかったが、まあ充分だな」
デスティニーランド内レストラン、窓際の席に陣取った悠――いや、『俺』は記録を焼いたDVDを取り出すと、ノートパソコンの電源
を落とした。
「間界製のカメラは、魔法をかけないと使えないのが難点だが、面白いものが撮れたな。翠、感謝するぞ」
俺はすっかりぬるくなったコーヒーを飲み干すと、目の前でぐったりする翠に声を掛けた。
視点をザッピングする度に魔法を行使するのだから、随分難儀はしただろう。
「れ…ぜえぜえ…礼なら、体で支払ってくだされば結構ですわ…悠様」
『翠たま、その発言はオッサンというよりVシネマタマ』
使い魔の精子が呆れ顔でつっこむ。だが、翠の言葉も一理ある。
「ふむ、10時間耐久レースの方も、まだ時間に余裕があるしな。――俺は構わんぞ。その体で支払う礼、今からでも一括で払おうか」
「悠様!!?」『悠たま!?』
「間界製カメラのレンタル料もお前に立て替えて貰っているままだし、大体ここはエロパロ板だ。――ここまで何の濡れ場も無いという
のは、この寒い中待つ者に申し訳ないだろう。全裸で」
「ぜっ、ぜぜ全裸ァァ!?」
『翠たま、セリフの妙な違和感はどうでもいいタマか?』
精子のつっこみも、ハイテンションMAXの翠には届いていないらしい。
さっきまでの疲れはどこへやら、鼻息荒く立ち上がると、さあイきましょう!ホテルでもトイレでも、何なら青空の下でもと、と場所
に全くそぐわない単語を並べ立てた。
大声と、ハデに倒した椅子の音に、店内の客が振り返るが、すぐに視線を戻す。魔法や能力を使っているわけではない。
ただ、『見てはならないもの』と判断されたのみである。賢明だな、と俺は思った。
「いきり立つのはいいが、店の備品は壊すなよ。椅子も戻しておけ」
ディパックのジッパーを閉めつつ、俺は翠をたしなめた。
「んもう、悠様ったら落ち着いちゃって…悠様がいきり立たせるのはアソコだけなんですね。素敵」
『ハートマークがお見せできないのが残念タマ』
言いながら、倒れた椅子を戻そうとしたその時――翠の手が、ぴたり、と止まった。
「どうした?」
翠は、手早く椅子を戻すと、いっけなーいと頭を軽く叩いた。
「悠様、お気持ちは嬉しいのですが…その、丁度始まっちゃいまして…また、今度にしていただけますか?」
もじもじと頬を染めつつ、翠は後ずさる。よく分かっていない精子は疑問符を掲げているが、俺も説明する気は無い。
「あっ、あの、今日は楽しかったです!それじゃ、股!!」
『翠たま!?何があったタマか?あと一文字おかしいタマよーっ!!?』
こんな時にもつっこみを忘れないというのは、流石だな。
俺はダッシュで遠ざかる翠と精子の姿に目を遣り、次いで窓の外を見た。
人ごみの中でも目立つ赤い髪の少女が、出口に向かって走っている。――きっと、少しだけ目を潤ませながら。
翠はその背中を追い掛けるだろう。呼び止めて、唯一の女友達の涙を、そっと受け止めるだろう。
――無論、それは俺の勝手な想像に過ぎない。ただ、そうあればいいと思っただけのこと。
頬杖をつき、景色を眺める。ガラス窓一枚を隔てた空はまだ青く、その中を小さな風船が、ぷかりと暢気に浮かんでいた。
******
音の無い暗闇であたしは、一人だった。家族も、友人も、愛しい人も、居ない世界。
怖くて、悲しいはずなのに、何故かあたしは平気だった。
温かな熱に包まれている、片方の手さえあれば、大丈夫だと思っていた。
――ぼうっと、目の前に、見覚えのある赤色が浮かび、遠ざかる。
待って、あたしはまだ。
行かないで。
宏――
「――海」
自分の声で目が覚めた。初冬の遊園地であたしは、さっき脈絡の無い夢に見た遠ざかる赤色の正体が、空に浮かぶ風船だと気付いた。
そして、片手を包む、熱の正体も。
「――起きたか」
声に、だんだん意識がはっきりしていく。…そうか、あたし、宏海の前で、気を失っちゃったんだ。
「…またやっちゃったね」
自然な姿で宏海に接したいのに、どうしてこうなっちゃうんだろう。頭を起こし、小さくぼやく。
いつもそうだ。ここぞという時に鼻血を噴いたり、気を失ったり…女の子らしくない。
「気にすんな。それもまた、アンタだろ。…オレだって、結構ひでえコトやらかしてる」
きゅ、と手を握る力が、強くなる。――宏海はいつも、優しい。あたしがどんなに酷い事をしていても、こうして、包み込んでくれる。
優しくて、温かくて…涙が出る。
「――…っ」
「…ごめんな、矢射子。オレがもっとちゃんとしていれば、アンタを泣かせずに済んだのに」
謝る宏海に、首を振る。…違う、違う。あたしが――言いたいのに、言葉が声にならない。
あたしが、もっと宏海のことをちゃんと分かっていれば、こんなに好きな人を困らせずに済んだのに。
「こんな、情けないヤツが恋人で、いいのか?」
「…いい、に決まってるじゃないっ。宏海、こ、そ…あたしで、いいの?」
涙声で、分かりづらい言葉だったと思う。けれど、宏海はちゃんとあたしの目を見て、大きく頷いてくれた。
繋いだ手を引き寄せ、ベンチの上で抱き合う形になる。
…どきん。
も、もしかしてこれって――この流れだと…。
顎に、宏海の手が添えられる。…やっぱりキス、だ。予測し、あたしは目を閉じた。
頬に軽く息がかかり、あと少しで唇が重なろうとした時――。
ム゛ーーッ、ム゛ーーッ。
携帯電話のバイブ音という予期せぬ闖入者に、甘いムードはぶち壊された。
…イヤ何かしら邪魔がくると思ってたわよォォォーーーッ!あたしたちそんなの慣れっこですものオホホホ!!
体を離し、お互い背を向きながら、あたしはこっそり血の涙を流した。
「そ、そういや、矢射子オマエ、誰と来たんだ?」
ぱこん、とディスプレイを閉じながら、宏海が尋ねる言葉に、はっとなる。
「あ…一口と乾、結局どうしたんだろ…」
よく考えたら、はぐれてそのままだった。自分の携帯電話を出し電源を入れると、公衆電話からの留守番メッセージが1件入っていた。
ピー…『お姉さま、ケータイ繋がらなくてすみません。お先に失礼します。阿久津くんと仲良く…先輩!もしまた泣かされたら、オレ
がぶん殴っておきmばっ!?…乾ウルサイってば!!それじゃお幸せに!』…プツッ。
「…」
ちょっと、お幸せにって何よ一口。ヘンな想像しちゃうじゃない。
「どうした、矢射子。なんか顔赤くなってるけど」
「べ、別に…先帰ったって電話が入ってて…宏海のほうは?」
「ああ、伊舞からメールが来て…こっちも先帰るってさ」
「…」
「…」
どうにもぎこちない。さっきまでの雰囲気が嘘みたいだ。留守電のメッセージで、余計に意識しちゃってるからかしら。
「えーと…矢射子、まだ時間あるか?」
「え。…うん」
あたしの返事に宏海はそっか、と一人呟くとベンチから立ち上がり、じゃあ何か乗りに行くか、と手を差し伸べながら言った。
「立てるか?」
「あ、ありがと…」
あたしはそっと、宏海の手を掴む。瞬間、強い力で引っ張られ、あたしの頭は、宏海の胸元へと寄せられた。
――…好きだ、矢射子。
宏海の鼓動と共に聞こえた言葉は、きっと、空耳なんかじゃない。
赤くなった顔を、振り向こうとさえしないあたしの恋人は、手を繋いだまま日の傾いた遊園地へと足を向けた。
786 :
オマツリの人:2007/11/15(木) 08:37:17 ID:xdO8qhmh
…以上です。エロなし長文、すみませんでしたああっ!!
あと、王道詰め合わせ展開は、個人的趣味です。(言い切った)
長々とお付き合いして下さった方々、本当にありがとうございます。
それと一読み手として、他の神職人様方の作品の続きも大変気になってますので、
次スレがその内立てられることを祈ってます。
では、失礼します。
超乙です!
またもや泣かされた…神だ、神がここにいる。
もて王本編では叶わなかった夢がここにはある。
翠のやさしさが最後、胸に沁みました。
また投下、待ってます!
ああああ
金曜日で疲れ切った心に染み渡るすー
ブラボォーーーーーー!!!
乙乙乙!!!
最高でした!
乙&GJ!!!!!
さらっと身体で一括払いOKな悠が男前すぐるw
久々に来たらこんな神が…!
明日早いのにイヌイチから一気に読み込んじゃったよ。
乙&GJでした、またの投下をお待ちしています!
いつの間にかすばらしきネ申が!!!
っっ頼みますイヌイチ完全なるエロ頼みます
土下座しますんで!!