【306号室 加賀美 可南子(かがみ かなこ)】
「あっ」
少女の口からその小さな声が漏れたとき。
彼女の小さな身体は、階段から足を踏み外し、落下した。
がっし、と青年がその少女を即座に、無傷で受け止めることが出来たのには、もちろん理由がある。
階段を、松葉杖を突いて懸命に上ろうとする少女を階下で見かけた青年、三郎は、その危なっかしさに目を離すことが出来なかった。
他に誰も彼女に手を貸せるような人間が居なかったため、自分が支えてやろうと近寄ったときに、案の定、彼女はバランスを崩し、階段の
下側へと倒れ込んだ。
ちょうど彼女の方に注意を向け、あと少しのところまで少女に近づいていた三郎だったから、素早く反応することが出来、彼女を無事に救う
ことが出来たわけだ。
「大丈夫?」
抱きかかえた少女の顔を覗き込むようにして慌てて尋ねる三郎に、その、抱きかかえられた当の少女は、
「はぁー、びっくりした!」
と、まずは子供らしく驚いてから、
「おじさん、ありがと!!」
そう、元気に感謝した。
できれば『おにいさん』と呼んで欲しかった、と三郎は内心静かに傷付きながら、抱えていた少女を優しく立たせてやった。
さすがにこんな事態に出くわしてしまったあと、ハイさようならと彼女と別れることが出来ないくらいに、三郎は程良くお人好しであった。
「名前は?」
三郎は、彼女の行く先、病室まで付き添ってやろうと決めた。自分の用事は、少々後回しにしても構わないだろう、特に時間の約束があるわけではない。
そうなると、この女の子の名前を聞いておいた方がいいだろう、と三郎は少女に声を掛けた。
そうすると少女は元気に、嬉しそうに、
「はい! 名前は、かがみ こなかです! 4年生です!」
そう答えた。
そんな少女、こなかに、三郎はやや苦笑も含めて笑みで返した。
自分の名前を聞かれるのがそんなに嬉しいのか、とも思ったのだが、小学4年生といえば10才くらいの子供だ、普通に「子供らしい無邪気さ」なの
だろうと微笑ましくもあった。
松葉杖でふらつく身体を、反対側の手を取って肩を支えてやりながら、なんとか階段を上らせたあと、さてこれからどこまで送っていけばいいのだ
ろう、と、彼はこなかに、行く先を尋ねた。
「はい、おねえちゃんの部屋に!」
まさか自宅の、姉の部屋のことではあるまい。三郎がさらに詳しく聞いてみると、どうやらその姉もこの病院に入院しているらしい。病室の番号を聞くと
彼女は、しばらく首をひねったあと、忘れちゃった、と答える。
それではせめて、その姉の名前はなんというのかを聞いてみると、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて、こういった。
「じゃあ、もんだいです!!」
そう言って、唐突に出題。
「わたしのおねえちゃんの名前は、なんというでしょうか!?」
「ええっ、そんなの、分かるわけないじゃんか!」
三郎は思わず、その不条理な出題内容に反問した。自分が聞いた質問を、そのままクイズにして返されてしまったのだから答えようも何もない。
しかしそれでも出題者のこなか本人は、それを不条理とも思わないらしい。子供らしい幼稚さを伴った『なぞなぞ』、ということだろうか。
さて、それならそれで答えのひねりようもあるか、と三郎は少し考えてみたものの、用意に答えも出てこない。
そもそもそういう『なぞなぞ』とは、頭の柔らかい子供が自由な発想で楽しむものだ。
三郎は、こんなところでも自分がもう若くないと言うことを追求されているような気がして、少し暗い気持ちになる。
「ん! じゃあ、ヒント!!」
そんな三郎の沈んだ表情からどこまで心境を察したのか定かではないが、子供なりの空気の読み方で手を差し延べた。
こなかは、病院の廊下にある、あるものを指さした。
「・・・鏡?」
その大きな姿見を指さして、こなかはにっこりと微笑んだ。
鏡、カガミ、かがみ・・・。
この少女の名前が『かがみ こなか』ということは教えて貰ったが、姉の名前はきっと『かがみ 某(なにがし)』のはずだ。
なら、今更名字である『鏡』をヒントにくれても・・・、と三郎は、やはり柔軟でない頭でぐるぐると思案を巡らせていく。
そんな、ヒントを貰ってもまだ答えを導き出せない青年に業を煮やしたのか、彼女はさらに言葉を継ぎ足していく。
「ほら、かがみにうつってるわたし、逆さまだよ?」
そりゃあ当たり前だ、それが鏡というものだ。この少女といっしょにいる三郎自身も右左逆さまに映る。
そこでようやく三郎も、ん?と引っかかった。
こなかと三郎、二人がいっしょに逆さまに映る、とこの少女は言わなかった。
「わかった! 『かがみ こなか』のお姉ちゃんは、『かがみ かなこ』だ!」
「うん! おおあたり!!」
『こなか』を鏡で逆写し、それで『かなこ』かぁ、と三郎しきりに感心する。なぞなぞが解けて、ちょっとした『アハ感覚』を味わっていた三郎は、そこで不意に気付いた。
かがみ かなこ、どこかで聞いた名前だ。
そりゃそうだ、自分がこれからお見舞いに向かおうとした少女の名前が、『加賀美 可南子』なのだから。
「おねーちゃん!!」
「こなか!」
姉妹感動の再会、・・・というわけでもなく、離れていたのは僅か数十分と言うところのようだ。
二人は同室で、足を怪我して入院していた妹の小菜香(こなか)がリハビリがてらトイレに出かけたのだが、ちょっとした冒険心もあって、同じフロアのトイレではなく
わざわざ階下のトイレまで遠出したのだという。
それでもやはり姉の可南子(かなこ)は、妹を心配していたらしい。同じフロアのトイレに行くには少々時間がかかりすぎだからだ。
そしてしばらく、妹の無事に心落ち着けた可南子は、ようやくもう一人の入室者、三郎に気が付いた。
「あ、・・・あなたは・・・」
長い髪の儚げな少女、可南子は、昨日自分が肌を合わせた男、三郎の姿を見て、頬を赤らめた。
それは彼女が、昨日の自分の行為に恥じらいを持っているからだろうと三郎は察する。
彼は、手前勝手なこととは知りつつも、彼女が相応の羞恥心と倫理観を持っているであろう事に、少し安心してしまった。
さんざん年端もいかない少女を抱いておきながら、彼女らに貞淑を求めるなどと、まるで矛盾している。
三郎はそんな自分の都合良い考えを自嘲し、とりあえずは見舞いの花を活けることにした。
聞けば二人はほぼ天涯孤独で、妹を養うために姉は身体を売り、怪我をした入院費用を稼ぐために番組に出たのだという。
間違いなく幸の薄い二人を目の当たりにしながらも、三郎はなぜか心が穏やかであった。
それは、こうして姉と妹が二人で居られることを、その二人が心底幸福と感じているからだ。
その二人の気持ちがこぼれて、側にいる三郎にまで包んでしまう。
ほんの少しの間時間を共にした三郎にすら、惜しげもなくその空気を分け与えてくれるような、そんな二人だった。
一時一夜、身体を重ねただけの出会いも『縁』ならば、こうして再び出会う二人にもう一人、幼い妹が加わったのはいったいどんな『縁』なのか。
三郎は自分が持ってきた花を眺めながら。
この二人との縁を簡単に終わらせるのは寂しいな、などと。
そんな甘っちょろいことを考えて、小さな笑い声を漏らしたのだった。
【加賀美可南子エンディングフラグ】