【あのね…】かしましSS総合 第3期【大好きだよ】

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202♯24アフター 『愁霖(7)』
 脱衣所にはもう一つの籠があった。そこに服を脱げばよかった。よれよれのリボンを籠
に落とす。ついでにブラウスのボタンを3つ4つ外した。肌に張り付いたポリエステルの
生地が、急に不快でたまらなくなった。スカートのポケットから濡れた財布やハンカチ、
ヘアバンドを取り出して小物棚に置く。携帯が水浸しなのに気付きハッするが、電源を切っ
たままだったので大丈夫かも知れないと思い直す。ドライヤーで乾かした後、電源を入れ
れば生き返るかもしれない。背中のファスナーは、水を吸って膨らんだ布を噛んで引っか
かり少し焦れたが、無理矢理引き下ろした。両肩を抜くと、ジャンパースカートはベシャ
リと床にずり落ちていった。随分と身体が軽くなる。跨いで足を退けると、脱水前の洗濯
物のようなそれも、籠に入れた。水を含んだ制服の重さに少しだけ心が翳る。
 ふと鏡に自分の姿を見た。濡れたなりの長い髪は、だらしなく垂れ下がり、ブラウスは
べっとりと肌に張り付き、下着を透けさせている。その姿が惨めに見えた。目に、じわり
と熱いものが浮かんでくるのが分かる。しばらく忘れ去っていた感覚に驚き、慌ててごし
ごしと手で擦りつける。鏡をみないでいると直に消えていき、とまりは何故だか安堵した。
 苦労してブラウスを脱ぎ捨てると、晴れ晴れとした開放感を味わえた。ブラジャーを外
そうと両手を背中のホックに回したところで、自分が服を脱いでいく姿が擦りガラス越し
に映っているであろうことに気付いた。ゆっくりとブラジャーを外してポトリとそれを籠
に落とし込む。映し出される影を、ガラスの向こうで男は眺めているのだろうかと、とま
りは思った。急激に胸が高まり、顔が紅潮していくのを感じたが、少し前屈みになって、
ショーツに指を掛けた。柔い生地はいつものように滑らかには脱げず、くるくるに生地を
巻き込んで紐のようになってしまう。それに濡れた太腿を潜らせるようにずり下ろしてい
く。膝下を過ごした辺りでゆっくりと右足を、ついで左足を抜き取った。くしゃくしゃに
なって手に残った下着をとまりは少しだけ見やり、籠に捨てた。そして一度だけ、男の居
るだろう方へ向けて、擦りガラス越しに視線を送り、浴室への扉を開けた。
 広い洗い場と大きいが深さのない洋風のバスタブが目に入る。想像通り、壁は遮蔽の用
途を果たしていなかった。ベッドの全景が見える。ただ、男の姿は視界にはなかった。知
らずに高まっていた緊張が、少しだけ抜ける。
――あたし、ほっとしてるんだ。見られていいつもりでいたくせに
 小さく頭を振って、考えを沈め、タイルの上に足を踏む出す。ひんやりしたタイルの温
度が沁みる。背筋に震えが甦り、何より早く温まりたいと、とまりは思った。
 とりあえずはシャワーだけよかったが、後に入るだろう男の事を考え、とまりはバスタ
ブに湯を張ることにした。サーモ式らしい混合水栓をひねると、適温に合わさった湯が
凄い勢いで吐き出されてくる。
「すご…」
 家庭用のものとは、給湯能力が桁違いらしい。これなら身体を洗う内に湯が貯まって
しまいそうだった。こうしたホテルの風呂に、色々と便利な配慮がなされている事に、と
まりは一瞬状況を忘れて感心の声を漏らした。
  *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *  
 たっぷりと降り注がれるシャワーの湯は、冷え切った肌に心地いい。身体に染み通っ
ていく温くもりに、とまりは陶然となった。ごうごうとバスタブに注ぎ込まれる湯とシャワー
の音に閉ざされた空間で、とまりは解放されていた。何故だか何の憂いもなかった。
これまでの事も、これからの事も、何もかもどうでもよかった。目を閉じても、辛い事
は浮かんでこなかった。わざとはずむの事を思い出そうとしても、どうしてだか瞼には
はずむの顔すら像を結ばず散っていく。
 ふいにドンドン叩く音が耳に聞こえ、はっとしてそちらを振り返る。咄嗟に胸を両腕で
庇う。腰が逃げかかる。脱衣所を隔てるガラス戸に人影があった。
「っ、何!?」
 自分の鋭い声にとまりは驚いたが、男も虚を突かれた様子だった。
「あ、あぁ。驚かしてすまない。ルームサービスで服のランドリーを頼んでたんだが、も
う受け取りに来たんだよ。悪いと思ったが、君の服を預かるよって声を掛けようとしたん
だ。……いいね?」
 男はそう言うと、ガラス戸越しに、とまりが脱ぎ捨てた衣服の入っている籠を掲げた。
 とまりは待ってと言葉に出しかけたが、一瞬の躊躇の後、お願いしますと、小さく答え
た。
203♯24アフター 『愁霖(8)』:2006/05/28(日) 23:08:54 ID:2iwB+2Z+
 どうせあのままの服に袖を通せる訳がなかった。一番上に脱ぎ捨ててあるブラジャー
や丸まったままのショーツなのを見られてしまったのが恥ずかしかったが、もう仕方ない。
擦りガラス越しに手を振って了承を示すと、男は何事もなく脱衣所から出て行った。

 のぼせたように、とまりのは頬が熱かった。擦りガラス越しとはいえ、自分の裸身を、
男に見られた。少なくとも身体のラインは知られてしまったろう。備え付けのボディシャ
ンプーの泡を肌に伸ばしながら、とまりは起伏に乏しいように見える自分の身体を疎まし
く思った。
 太いふくらはぎだけはしょうがないと諦めている。が、いつまで経っても変わらない、
薄い胸と小さなお尻と低い背丈は、とまりの自信をいつも損なってくれる。
 ふくよかでいて、すらりとしたやす菜の女の子らしい身体を思い浮かべ、とまりは頭を
振った。両手で乳房をすくい上げてみる。わずかな抵抗の後、あっという間にツルリと手
のひらから逃げ去っていく。尻の肉にも手を這わしてみる。薄い肌ごしに、張りつめたよ
うな肉質を感じる。太腿の方まで尻を両手で撫で下ろすと、ぷりんとした手触りが残った。
洗い場の鏡に背を向け顧みてみる。鏡に自分の尻が見える。締まっていて形は悪くないと
思うが、弟のお尻と大差ないようにも思えた。少なくとも、グラビアを飾る水着姿の女の
子達のお尻とは別のもののように感じる。
――多分、あたしの身体は男にとって魅力はないんだろうな
 そんな風に思う。はずむも、とまりを女の子として見てはいなかった。自分とは正反対
に思えるやす菜に、はずむは惹かれていったように感じる。やす菜は顔も身体つきも柔っ
こく、言葉遣いも立ち振舞いも自分が思うところの、女そのままだった。
――あたしは、無理だったんだ
 そもそもから、自分は失格していたんだと、とまりは思った。唇を噛んだが、別に涙が
出てくる気配はなかった。
 湯に当たりながら、髪止めを外し、結ったお下げを解く。シャワーの温度を下げた湯に
髪を当てる。長い髪が奔流に泳ぐのを、手櫛でゆっくりそれをほどいてやる。密かに自慢
の髪だった。競技に障る前にと思い、何度か切りかけたが、今に至るまで出来ないでいる。
――とまりちゃんの髪、綺麗だね
 中学に入って伸ばしかけていた髪を、誰よりも先にはずむが褒めてくれた。その事が嬉
しくて、それ以来髪を切らないでいた。化粧っ気は同級生らの誰よりも無いのを自覚して
いたが、髪の手入れには小遣いを割いている。
 髪を手に取り、その毛先を眺める。まだ、はずむが褒めてくれた時ものがそこにあった。
あの時のはずむは、着慣れない学生服に照れていた男の子だった。そのはずむは、もうど
こにもいない。夢のように、あっさりと消え去った。思い出を残された自分だけがいるば
かりだった。
  *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *  
 洗い終わった髪をまとめ上げると、少しだけ湯船に浸かろうと思い、とまりはバスタブ
を跨ぎ、ゆっくりと身を沈めた。身体を伸ばせる風呂は気持ちがよかった。目を瞑ってる
と眠り込みそうな怖さがあったから、100数えて上がった。もったいないような気もし
たが、湯を抜いて張り直しておこうと思い、バスタブの排水栓を抜いた。身体を拭き、大
きなバスタオルを身体に巻いて脱衣所の化粧台の前に立つ。頬に血色が戻り、湯気をまとっ
た顔は先ほどまでとは随分と違って見える。それでも、変わらず昏い目をした自分がいて、
それが顔、表情全体に翳を落としたままにしていた。
――鏡に映った女は、誰なんだろう 
 乖離感に囚われている。
 雨の中を拾われ、流されるままに車に乗った。そして自分の意志でここにいる。
 見知らぬ男と一つの部屋にいる。自分は湯を浴び、裸で鏡の前に立っている。
 男と女が、つながる場所で。
 男が女の、女が男の、からだを求める場所で。
 ここで、自分が何をしようとしているのか、男が何を期待しているのか、とまりには判
かっていた。それを意識すると、心拍数が跳ね上がっていくのが感じられる。
 経験は無かったが、セックスの知識は年相応にある。男達が、女に向ける興味の大半が
セックスに繋がっている事もなんとなく分かっている。だから明日太がはずむに向ける視
線が気になり、以前より明日太と上手く付き合えなくなった。
――そんなにいいのか、女が
 それと知っていても、とまりには理解出来なかった。その、衝動が分からなかった。
204♯24アフター 『愁霖(9)』:2006/05/28(日) 23:11:25 ID:2iwB+2Z+
 中学生になり、とまりがはずむと手を繋がなくなって久しくしてはずむには男の友達が
出来ていた。曽呂明日太だった。どこでウマが合うのか、時折いらっとくる事もある程、
はずむと明日太は一緒にいた。二人は本当に親友だったのだと、とまりも思う。そんな風
に一緒にいられる明日太を、うらやましく思う気持ちがあった。
 はずむが女になり、それが変わった。明日太の挙動に男を感じ、それに汚らわしさを禁
じえなかった。
 男が女に向けるいやらしい衝動が忌しく、とまりははずむがそういったものから永遠に
遠ざかった事に、心の中で安堵さえしていたのかもしれない。
 事実を、事実として知らされたあの日から、そんな明日太への言い知れぬ嫌悪も、急速
に薄れた。はずむの傍らに立ち、戸を開け、物を持ち、して欲しいことを尋ねる。母の身
を気遣う幼い少年のような明日太がいた。はずむがいなくなることを、ただ子供のように
恐れている明日太だった。とまりは、はずむに何もしなかった。家に帰っても枕を抱いて
いるだけだった。
 吹っ切ったように、やす菜ははずむと歩を合わせ始めている。あゆきは、あの涙を後、
おだやかに自分を取り戻した。二人とも、何事も知らなかったような日々に帰ろうとし、
それははずむとの時間の中に何らかの意味を見出そうとしているように、とまりには見え
た。焦燥するばかりで、自分の感情も思いも整理出来ずに暗闇に逃げ込んでいる自分だけ
が、一人残った。はやくはずむの傍に戻りたかったのに、自分がそれを拒否し続けた。幾
つかの夜を眠れぬまま過ごし、逃げ疲れた自分を何とか押えつけた朝、再び誓った。
――はずむは、あたしが守るんだ
 結局、とまりには出来なかった。
 自分に宛てた、空元気にもならなかった。
――大会の頃、はずむは、……もう、いないんだ
 その頃、自分も何処にもいないだろうと感じる。いや、そのずっと前に自分は壊れてし
まうだろうと、とまりは思う。思い出の中の少年は自分だけの幻だったかのようにいなく
なった。そして今を紡いでいる想いすら夢散しようとしている。
 驟雨の、自分にも届かない慟哭の中で、分かったことがあった。
 はずむのいなくなる世界に、もういたくなかった。二度も失った後で、何かを自分を言
い聞かせて過ごしていくなんて、耐えられない。そう感じる前に、絶望が広がっていった。
 そんな思いをするくらいなら、自分がいなくなりたいと思った。
 はずむや、あゆきや、明日太や、…やす菜とも、出会うことのない世界に身を置きたい
と願っている自分に気付いた。
 鏡の中の女は、どこも見ていない瞳にとまりを映していた。もう、合わせ鏡の向こうの
誰かと、交代しなければならないのかも知れないと、茫漠と感じた。
 女は空虚な目で、とまりに問い掛ける。
『雨の中で見知らぬ男からの誘われ、車に乗ったのね』
――そう
『降りようと思えば降りられた。なのに、ついて行ったのね』
――そう
『ここがどこだか分かってる?』
――ラブ、ホテル…と思う
『何をするところ?』
――セックス……
『誰と、いるの?』
――知らない、男の人
『その人と、セックス、するんだ?』
――そう、多分する…はず
『そう、…じゃ、ね』
 彼女は起伏の無い言葉で、平坦に会話を閉じた。
205♯24アフター 『愁霖(10)』:2006/05/28(日) 23:18:00 ID:2iwB+2Z+
 男は、浴室のとまりを覗く事は無かったようだった。その気なら、とまりの尻も乳房も
興味のまま鑑賞できるはずだった。とまりも見られてもいいつもりでいた。男が脱衣所に
現れた時は胸がつぶれそうになったが、浴室に入って来られたとしてもとまりは受け入れ
ようと決めていた。
 男の、求めるまま、応じようと思ってついてきた。
 見知らぬ男に抱かれ、女になる。それは今までとまりにとって思いだにしない行為。今
に続き、先へ繋がっていく世界から脱け落ちていく。恋しい人と肌を合わせる事なく、自
分の女だけが、男達の間を彷徨っていく世界。他人事の、遠い世界であった。
 そこの住人でいたなら、自分ははずむとも、あゆきとも、明日太とも、そしてやす菜と
も交流することはないだろう。自分からも彼らからも、互いからいなくなる。
 心も身体も、深淵に沈めてしまえばいい。そうすればはずむを想い、悩むことも、その
立場も、資格も、何もかも無くしてしまえる。
――あたしには、何も出来ない。何もしてあげられない
 鏡の中の自分に、とまりは言う。
――あたしは、はずむの、心残りの一つでしかない
 怖くて言葉に出来なかった思いが溢れる。
――見守る事もできないあたしなら、はずむの中からあたしがいなくなったらいいんだ
 とまりに一瞥し、歩み去るはずむのイメージがこぼれていく。
――あたしがいなくても、みんながはずむを最後まで見守ってくれる
 にこやかな笑みで包まれる、満ち足りることの無い空間がだった。
――あたしはもう、ダメだ…
 一緒にはいられない。きっと自分が何かを壊し、全てを加速させてしまう。
――なら、あたしが…いなくなろう
 はずむがいなくなる前に、自分が先にいなくなればいい。はずむの事で、もう悲しむ事
も悩む事もなくなる。それに…もしかしたらはずむは、とまりへの心を残したまま逝って
くれるかも知れない。
――消えてしまった、来栖とまりだったあたしの事を、嘆いて、哀しんで、きっと最後に
顔を思い浮かべてくれる
 闇色に染まった心は、とりとめもなく昏い情動をふつりふつりと沸き立たせていく。
 誰とも知れぬ男に、処女を捧げること。
 それは最後の最後に、はずむの心を独り占めするための儀式。
 はずむの知る来栖とまりから遠ざかっていく、その端緒。
――どこかの男達に、あたしが女にされてしまったのを知れば、はずむは悲しむだろうか。
それとも……悔しがったりも、するんだろうか
 はずむが、とまりを女にすることはもう在りえない。とまりが、どこかしらで抱いてい
た初めてへの期待も、叶うことはなくなってしまった。それなのに、心の奥底に、はずむ
と過ごす初めての時間への想いだけが、澱のように残っている。
――それも、もうここで流してしまおう
 とまりは、鏡に映る顔に別れを告げる。醒め切れないまどろみも、もう終えよう。
  *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   
 踵を返して鏡から離れるともう一度浴室に入り、空になっていたバスタブに新しい湯を
注いだ。よく見ると湯量タイマーらしきパネルがあったのでスイッチを入れておく。
 化粧台の前で、あるものを使って髪を手入れしている間に、ちゃんとタイマーが仕事を
果たしたらしく、湯は張り終わっっていた。随分と長湯して男を待たせている。早く場所
を開けてやらねばならない。纏っていたバスタオルを取り、着替えようとして下着も制服
もないことを思い出した。
――どうしよ……。バスタオル一枚でいなきゃなんないなんて……
 きょろきょろと脱衣所内に助けを求めると、厚手のタオル地のバスローブが目に入った。
素裸の上に、その袖を通してみる。小柄なとまりには少し大き目だったが、余分に前を隠
せるのが逆に有難いかもしれない。ブラジャーもショーツも着けずにいるのは頼りなかっ
たが、バスローブの内紐をしっかり結わえ、前が肌蹴ること無いよう腰紐もきつく結んだ。
 洗いざらしの髪は軽くポニーにまとめ、ポケットから出してあった小物を備え付けのエ
チケット袋に入れ、手に持った。そしてもう一度、身支度を確認してから、とまりは脱衣
所を出た。
206♯24アフター 『愁霖(11)』:2006/05/28(日) 23:20:09 ID:2iwB+2Z+
 男はソファーに腰掛け、ビールを飲みながらテレビに映る何かの洋画を見ていた。上半
身は肌を晒しているが、肩からバスタオルを羽織っている。下は、これもバスタオルを巻
いたなりだった。すねが覗いていて、思わずとまりは視線を反らした。
「あ…あの、お風呂、先にいただきました。…遅くなって、ごめんなさい」
 とまりは俯いたまま男に声を掛けた。こんな格好を他人に見られるのも、他人のあんな
姿を見るのも初めてである。とまりは沸きかえる羞恥に耳まで赤く染まるのを知った。
「ああ、僕もこんな格好で失礼してるよ。頼みこんだんだが、さすがに服が戻るまで2,
3時間は掛かるみたいだ。ゆっくりと待つしかないな。君はどこかに連絡しないでよかっ
たの?」
「携帯、今無いんで…」
「掛けるんならこれ、使いな。俺が風呂に入ってる間に掛けたらいい。発信履歴の消し方
は、大体分かるよね。ぶっ壊さない程度に好きにいじってくれ」
 ローテーブルに置いた携帯電話を示すと、男は立ち上がり少し身を竦めがちなとまりの
脇を通り過ぎて、浴室に向かった。脱衣所に入りかけて立ち止まり、振り返って言う。
「冷蔵庫の飲み物やなんか、好きに飲んでて。喉とか、渇いてるだろ」
 もう、これ以上彼に掛ける迷惑もあったもんじゃないだろう。普段なら恐縮して固辞し
てしまうだろう事も、素直に甘えようと思った。男の言葉は、するりととまりの胸に入り
込んでいた。
「……はい、ありがとう」
 ん、と男は返事すると脱衣所に入りかけて思い出したように言葉を加えた。
「そうそう、君さ…」
「はい?」
 あたしが何だろうか、いぶかしげにとまりは男を顧みる。
「髪、綺麗だね。ポニーテールがかわいいよ」
 男は目尻をさげて、ふにっと相貌を崩した。そして今度こそガラス戸の向こうに消える。
 とまりは一瞬何を言われたのか認識できなかったが、男の笑顔に当てられたように胸が
急に鼓動のペースを変えたのが分かった。そして、じわりと言われた言葉を思い起こして、
顔が熱くなるのを自覚した。
――なに赤くなってんだ?あたし……
 頭を振って、おかしな感情を払いのけ、ミニ冷蔵庫を覗いてる。喉が渇いていた。幾つ
かのウーロン茶やコーラの缶、缶ビールなどが入っている。何を飲もうかと少し思案しつ
つ、とまりは缶ビールを手にした。アルコール自体を飲んだことがない。自分に飲めるの
だろうかと、ふと考えた。
 缶はよく冷えていて、持つ手が凍える。すこしドキドキしながらプルタブを引く。ブシッ
という音に遅れ、細かい泡が缶口から湧き出してくるのを眺める。んっ、と心を決めて目
をつむり、口をつけ一息に呷る。口内に流し込んだものをゴクリと飲み干す。冷たさと、
想像以上に炭酸ガスの刺激が強かった。それらが喉を灼き、滑り落ちていく。すこしだけ、
舌の奥に苦味が残る。胃が熱くなる感じがした。きついが、悪くない刺激だと、とまりは
思った。もう一口、二口と喉に通してみる。
――冷たいのに、喉やお腹の中が焼けるみたい
 ふうっ、と息をつく。味はともかく、父親が美味そうに飲んでるのが理解出来そうだっ
た。一気に、缶の半分以上を飲んでしまったとまりは、じわりと血の温度が変わるのを感
じ、慌ててそれをローテーブルに置いた。男が置いていった携帯が目に入る。
――家に電話しといた方が、いいかな……
 一瞬だけの躊躇の後、テーブルの携帯を手にとり、自宅のナンバーを押した。数コール
後に母親が出る。雨にやられた事、先輩の家に避難していてついでに、明日までにしなきゃ
ならない、大会の日程変更に合わせたスケジュール変更を考えてる事、もし帰るのが遅く
なりそうだったら先輩の部屋に泊まらせてもらう事にしている、などと伝えた。自分でも
驚くほどすらすらと、もっともらしい嘘が流れ出ている。母親は何の疑いも持たない様子
で、帰れないなら又家へ連絡する事と、先方へ失礼のない事を案じて電話を切った。娘が
何をしようとしているか、何の疑問も持っていない母だった。
 ちょこちょこといじって発信履歴を消し、テーブルに男の携帯を戻す。なるべく母の事
を思わないようにして、ベッドの端に腰掛けた。ふらりと、身体が浮かんだような感覚が
ある。アルコールが回り出しているようだった。とまりは浴室の方へ目を向けた
207♯24アフター 『愁霖(12)』:2006/05/28(日) 23:25:20 ID:2iwB+2Z+
 白い湯煙の向こうに男の背中が見えた。身体を洗い終えたらしく立ち上がってバスタブ
向かうところのようだった。男の尻と、そして性器がちらりと視界に入り、とまりは慌て
て目を逸らした。突発的に、心臓が体中の血液をアルコールごと旋回させる。熱くなる顔
両手で押さえ込み、ベッドに突っ伏して波の揺り返しが治まるのを待つ。
 視界の外から、浴室の様子が聞こえ届いてくる。バスタブから出た男が、湯船の栓を抜
く。脱衣所へ出て行く。身支度を終え、直にここに戻ってくるだろう。
 時が近づいてくる。
 鼓動は加速する。不安と怯えが覆う。とまりの中のスクリーンが白く染まる。
 突然、はずむの笑顔が浮かんだ。
 脳裏のそれは、瞬時に色を失いポジに反転していく。そして急速に遠ざかっていき、や
がて、闇に埋没して消えた。
 とまりは、わずかだけ忘れていたのを自嘲する。身体を起こし、俯いて目を閉じる。先
ほど目にした男の身体を思い出す。バスローブ越しの自分の身体を、確認するように抱き
しめた。
  *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *
 がしがしと、短い髪を乱暴に拭う音が聞こえる。俯いたまま視界を狭窄しているとまり
に、男は声を掛ける。
「…お?ビール、飲んだの?随分と頼もしいね」
 とまりは答えない。
「腹減ってない?ここ、ルームサービスで色々頼めるから、何か熱いもんでも、食わない?」
 自分に向けられる言葉が空々しく響く。膝に掛かったバスローブの裾を、ふたつのこぶ
しが握りしめる。
「遅くなる事、家に連絡したかい?」
 ひくりと、とまりの肩が波打つのを男は見た。身体を拭う手を止めて、とまりを見つめ
る。無言でその返答を待つが、帰ってこないのに焦れ、溜息を漏らす。冷蔵庫から新しい
缶ビールを取り出し口を開ける。ごっごっごっ、と飲み込んでいく音が小さく聞こえてい
る。一気に飲み干されたのか、くしゅりっと音を立ててアルミ缶が握りつぶされた。
――大人の男の人は、お酒に強いんだな
 調子のずれた思いが浮かぶ。痙攣するような緊張が途切れる。上目遣い男を探してみる
と、新たな缶ビールを手にソファーに腰掛けようとしていた。男もとまりの視線に気付く
と、互いのそれが錯綜し出す。不用意に目を合わせ、固まってしまった猫を逃がすように
男はとまりの瞳を放した。ふたりの間に空気が流れ込むのを、とまりは感じた。
 男と、ベッドのとまりとは隔別感のある距離を持っていた。誰も見ていない洋画をBG
Mに、時がただ移っていく。とまりには、窓の雨垂れを眺めてビールを飲んでいる男の気
持ちが分からなかった。
――あたしのことを、抱こうとしているんだ
 そう思っていた。だから自分をホテルに連れ込んだ。
 とまりには、自分の女の部分が何なのか分からない。男が、自分のどこを女の部分とし
て望むのか想像出来なかった。ただ、女の身体が男の欲求の対象であることは習い知って
いる。自分が女の身体を持っている以上、男はそれを求めるはずだった。
 とまりの身体があれば、男にとって事足りる。それは、とまりでなくても構わない。
――女も、そうなのかな……
 身も、心も、唯その人でしか、きっと満たされない。唯その人でなければ、誰だって同
じに違いない。女にとってしても、いずれ誰であろうと構わないのかも知れないと、とま
りは感じた。
――あたしはきっと、はずむじゃなきゃやだったんだ
 思えば、自分とはずむとの日々だった。はずむに男性を意識しなかったかもしれない。
でも、小さい頃からずっと、いつも異性のはずむを意識していた。
『とまりちゃんの、およめさんになる!』
 はずむの言葉に焦り戸惑って、それを考え直させようとした自分を知っている。
――あたしは、はずむのおよめさんになりたかったんだって……
 それも叶わない。もう、叶わないことだった。
 彼はいなくなる。直に、彼女と共にいなくなる。ふたりで過ごした時間はまぼろしにな
り、とまりには廃墟となりゆく想い出が残される。失うまいと必死で縋り、ひとり涙目で
手入れを続けても、届かぬ端から朽ちていく。陽は褪せ逝き、風は荒涼と、毀れた欠片を
運び去っていく。久遠に続く晩秋は、心を秋霖に濡らしても、冬雪に埋もれさせてはくれ
ないに違いない。