【あのね…】かしましSS総合 第3期【大好きだよ】
秋霖が、とまりを濡らしていた。
背を丸め、ざらついたアスファルトに手をつき膝を落としたまま、幾時が流れたかも分
からない。
声を上げて泣いても、雨音が包み込んでいく。耳に響かない自身の慟哭が、虚しく哀れ
に感じられ悲嘆を煽った。
降り頻る雨は、髪も制服も吸い切れず、とうとうと身体を滴り落ちている。雨垂れで顔
や首筋に纏いつく髪も掻き上げない。アスファルトの路面はとうに冠水し、そこに跪くと
まりは水溜りの中にいた。靴も、ソックスも、スカートの裾も、下着までも水に浸してい
ても、今のとまりにはどうでもよかった。
目が熱い。雨水が頬を伝い、唇を越えてくる。嗚咽を飲み込む時、それが涙を含んでい
るのが分かる。そうした事が、自分が泣き続けている事をとまりに自覚せていた。
全天の雨雲が、街を落日から隔絶し、黄昏を加速させている。時折目を開いても、とま
りのぼやけた視界には、暗くなりつつある路面を叩く飛沫しか見えない。
ただ、雨に包まれ、泣いている自分がいた。
思考は閉ざされて、高ぶった感情がとまりを暗い水に覆われた世界に繋ぎ止めている。
――いなくなる
――はずむがいなくなる
――なにもできない
――わたしはなにもできない
言葉は、驟雨が弾く鍵盤とともに途切れなることなくリフレインしていく。
掠めていく色をなくしたビジョンと声が、とまりの胸をけずり、抉る。その度に縮こま
った背が震えた。
自分が、はずむを守ってきた。そう、思っていた。小さい頃から近所の男の子達からか
らかわれ、小突かれては泣いていたはずむをかばい、守り、引っ張ってきた。この間まで、
事ある毎にとまりちゃんどうしようと、縋っていたはずむの尻を叩いては諭していたはず
だった。
『ぼくはもうすぐいなくなってしまう』
はずむの声はそばには無く、すでに遠かった。
停滞している自分の心を、とまりは揺さぶり起こしたはずだった。自分に出来ることは、
はずむを守り、はずむを支え、はずむを感じ続ける自分でいることと、胸に想いを灯した。
それすら、遥か彼岸に舞い散ってしまった。
『とまりちゃんのこと、よろしくね』
――はずむは、いなくなることを、きめてしまった
――あたしのたすけは、もういらなかったんだ
――もう、はずむのそばに、あたしはいない
階段を駆け下り、昇降口を抜け、グランドを突っ切った。
思い出がぐるぐると無秩序に蘇っては、流れていく。男の子のくせに繊細で泣き虫で、
無邪気で優しいはずむだった。そんなはずむを傷つけるものが、許せなかった。だから
とまりはいつも胸を奮い立たせて、それらに立ち向かった。はずむの笑顔だけを、ずっ
と見ていたかった。
はずむが女になってしまっても、それだけは揺らぐことはなかった。
それすら、消え去ってしまう。
はずむと過ごした過去も、はずむと歩きたかった未来も、何かが奪い去っていく。
――それでも、そばにいるって、ずっとそばにいるって
とまりの胸裏で綴られる思いは、他の言葉を成す前に散逸していく。校門をくぐった後、
どこへ向かって走っているのかなど範疇になかった。つまずいて、身体が道路に投げ出さ
れた時の痛みと、降り注ぐ雨の寂寥が、とまりに考えることを止めさせた。溢れるままに、
泣いた。
これまでの自分も、これからの自分も見えなかった。
間断ない喪失感が、雨の奏でる調べと歩調を合わす。
何度目か分からない、脇を走り抜ける自動車が跳ね上げた飛沫が、濡れそぼる小さな身
体に覆い被さってくる。
涙と雨で一杯の顔に、泥混じりの水が容赦の無く振り注がれる。許容外のそれを気管に
吸い込んで、とまりはむせ返った。侵入した水が胸を収縮させ、ひどく苦しい。酸素を求
め天を仰ぐ。一しきり咳込み、気付くと雨に洗い流され哀涙は消えていた。
薄めを開いた瞳に、昏い空と舞い落ちる灰色の雨粒だけが映っている。
とまりはたっぷり水を含んだ前髪を掻きあげながら、自分の中から悲哀の感情が流去っ
たのを知った。感情の起伏が、削り取れてしまったように感じる。もう、何に涙していた
のかすら、茫洋として形を失っていた。
雨が顔を、首筋を、そして制服の下の肌を這うように蕩々と流れ落ちていく。
心が虚無に堕ちていくのを、とまりはぼんやりと感じていた。
* * * * * * * * * * *
ふいに肩を掴まれ、とまりはびくりと全身を震わせた。
振り仰ぐと、とまりの肩に手を乗せ、雨を纏っている顔が見える。中腰になって見下ろ
している。ダークスーツに襟元を解いたネクタイの男性だった。気懸かりげな目でとまり
の顔を覗き込んでくる。
髭の伸びかけた口元が動き、どうしたの、と声がした。
見知らぬ、男だった。
瞬きを忘れたような目で、とまりは男を見上げたまま時を止めている。
こんなとこに座りこんでいちゃ危ないよ、と声が続いた。
茫としたとまりの瞳を見つめ、肩を軽く揺する。支えを無くしたように頭を泳がしたと
まりの様子に、男は普通ならざる空気を感じた。とりあえず立ちなさい、と腕を取ろうと
手を伸ばす。
その瞬間割れるように響き渡ったクラクションに、男は仰天し振り返った。道路脇に止
まった乗用車のその向こうから、一台のワゴンが二人の背後に迫っていた。
咄嗟に男はとまりを胸に抱いて、さらに道路脇へと身を投げ出した。路面を覆った水が
海衝のように二人に降り注ぐ。とまりは冠水した道路と男の身体にはさまれ、苦鳴を漏ら
した。
少女の声に、男は自分が彼女を雨水で溢れ返ったアスファルトに押し倒しているのに気
付いた。慌てて膝をついて自身の上体を起こす。その時、とまりの背中に回していた片腕
が、すくい上げるように小さな身体を抱き起こした。
お互いが膝立ちのままだったが、初めて二人は正面から向き合う。
とまりの目に映る男は、サラリーマンのようだった。スーツもスラックスも水に漬かっ
て黒く濡れそぼっている。短かい強目の髪もツンツンに跳ね、洗面器の水を被った直後の
ような状態だった。ひどい格好だと、とまりは思った。
ごめんね、痛かったかい、と男はとまりに詫び、怪我の有無を尋ねた。目を合わせ、ふ
るふると首をふるとまりを見て、男の表情に安堵の色が浮かんだ。声を掛けた間無しの、
意識を泳がせていた感じは薄まったように思えた。
男は、再びとまりの手を取って立ち上がらせる。とまりも逆らわず、促されるまま男に
体重を預けた。久方振りに両の脚で立った気がした。髪や制服に溜まりきった雨水が全身
を伝い落ちていく。水から上がったかのような感覚に、とまりは初めて自分の格好を意識
した。半分まくれ上がり、太腿に張り付いたスカートの裾を、そっと直した。二つに分け
て結っていたお下げも、鬱陶しく首筋に纏わりついている。少し手でしごいて水気を切り、
肩の後ろに流した。
立ち上がり、もぞもぞと身繕いするとまりの姿に男は少し安心したようだった。ふぅ、
と息を継ぎ、ひどい格好だ、びしょ濡れじゃないかと呆れたように言った。制服を着たま
まプールで泳いでたみたいだぞ、と続けられて、とまりは自分はもっと大変な姿になって
いる事を知った。目の前の男の有り様もひどかったが、その原因が自分であることに気付
くと、とまりは声が出せなかった。そして自分が車に跳ねられそうだった事に思い当り、
急に足が凍りついてきた。
車に乗りなさい、送って行こう、そう男は言うと、立ち竦んだままのとまりの肩にそっ
と手をのせた。男はとまりの身体が小さく震えているのに気付くと、無言のままのとまり
に付き合い、立ち尽くした。降りしきる雨は、勢いこそ柔らいだものの止む気配はなかっ
た。雨に付き合ったまま、幾時かが過ぎていく。ずぶ濡れの中にあって、男は手の中にあ
る小さな肩口が落ち着きを取り戻していくのを待った。そして時を知ると、さぁ…と小さ
く声を掛け、促す。男の手が肩を少し推すと、ふらりと、とまりの足が流れた。
彼の車へ、とまりの肩を背後からゆっくりと押すようにして導く。男の背は高く、とま
りの頭は男の胸の半ば程までしか届いていなかった。男の右手が、背後からとまりの右肩
に回されているが、肩を抱かれている訳ではなかった。男の腕は、自分ととまりの間に人
一人分のスペースを作っている。突かず離れずの力加減で促されるまま、とまりは男のも
のらしい白いセダンに足を向けた。
男の手のひらに包まれた肩口はほんのり温かく、それは体温を奪われた身体にじんわり
と広がっていく。セダンの助手席のドアが開かれ車中に乗り込むまで、とまりはぼんやり
と雨を思っていた。
雨が冷たい、とは思わなかった。
雨は、とまりを存分に泣かせて、涙も、感情も、流し去っってくれた。
――寒いのは、雨のせいじゃない
先程までとは気配の変わった震えに、とまりは男の手と自分の肩の間に生まれた温もり
が、逆に悪寒を誘い出してるんだと納得しようとした。肩を抱いて小さく丸まっていれば
直に治まると思った。
男の手が離れ、助手席のドアを閉められた時、とまりはその温もりが霧散していくのを
庇って、右肩に左手を添えた。無意識だったが、小刻みな震えは治まる気配がなかった。
* * * * * * * * * * *
男は運転席に身を投げ出すと、車載ラックから携帯電話を取り上げどこかに電話を入れ
た。話し振りから勤め先への連絡らしかった。車の故障の対応でずぶ濡れになったので出
先から直帰する、などと話し携帯を切った。
男がキーを回しエンジンが始動すると、エアダクトから暖気が吹き出されてくる。男は
パネルを操作し、ACの暖房を最大に上げ、フロントと足元からエアが出るよう設定を変
えた。しばらくするとエンジンが大きくうなり始め、ACが本格運転に移る。
男は車を発進させ、そのまま、ゆったりと走らせていく。
シートの柔らかさと、暖かな空調の心地よさが、震える身体に染み入ってくる。とまり
は深く息を吐き、目を閉じた。
幾つ目かの信号待ちの時、男が口を開いた。
「ウチは、どっちだい」
青信号になり、車が動き出してもとまりは口を開かない。目を閉じたまま、身動きもし
ない。寝ている訳ではなかった。ただただ、暖かい空気と車中の振動に身を委ねたかった。
男はとまりの様子に視線を移したが、特に何も言わなかった。ただ、車を走らせた。
どこに向かって車が走っているのかと、思わないではなかったが、とまりは何も言わな
かった。今は、この何も無い、和らいだ空間に溶けていたかった。
男がFMラジオのスイッチを入れた。スピーカから、とまりの知らない洋楽が流れ出す。
少し低めの、ブルースっぽい音楽だった。男にはなじんだ曲なのか、ハンドルを握った手
の人差し指が、小さくノックするように調子を取っている。
とまりは、強烈な眠気が襲ってくるのを感じた。冷え切った身体に体温が戻り始めたせ
いかも知れない。ぐっしょり濡れた体は、シートとエアコンの暖気に水分を移動させつつ
あっても乾く事はなかった。寝込んでしまえば確実に体調を崩す。大会のことも、かすか
に脳裏を過ぎったかもしれない。とまりは目を開き、車外に視線を流してみた。
どのくらい移動したのか分からなかったのだが、とまりの目には見慣れた街並みが映り
込んでくる。鹿縞本駅あたりだ。学校からもとまりの家からも車で5分もかからない場所
だ。随分車中にいるはずなのにどうしてこんな近場にいるのかが、とまりには分からなかっ
た。
「起きたかい」
きょろきょろと窓の外に視線を走らせているとまりに気付き、再び男は声を掛けてきた。
「…ごめんなさい、寝てたんじゃ、ないんです」
「そっか、濡れねずみのまま眠り込んじゃ身体壊すから、起こそうかと思ってたところだ」
男は前を向いたまま言葉を返す。タバコを咥えていた。
とまりが返事をしないでいると、又会話が止まった。FMも何時の間にか番組が変わり、
何だか知らないクラシックが掛かっている。視線を落としたとまりは、男の車のシートを
水溜りにしているのに気付いた。運転する男に目を移すと、彼もも雨中のままの格好でハ
ンドルを握っていた。
「ウチまで送るよ、ここからどういけばいいのかな」
「…ずっと、街中を回っていたんですか」
男の問い掛けに答えず、とまりは質問で返す。
「君のウチはこの辺なんだろ?僕ももう今日は仕事終わりだから帰るだけだけど、まさか
君を乗せたまま、市内から出る訳にはいかないしね」
少し低いが、騒々しい中でも耳に届く、そんな響きの声だった。
とまりは改めて男を見た。男性の歳はよく分からないが並子先生より上という感じはし
なかった。短い髪は水気を含んだままハリネズミのように背の様に、小分かれして跳ねて
いる。少し垂れ目がちだが鼻筋の通った横顔は、同級生とも父親とも違う男性の雰囲気を
感じる。咥えたタバコに火はついていなかった。ふりふりと、それを唇で動かし、遊んで
いる。
「そろそろドライブもお開きにしよう。君も早く風呂に入って着替えた方がいいよ。実は
僕も、パンツまでビショビショなんだ」
男の言葉はおだやかだった。とまりに何かを、例えば雨の中で泣いていたことを、問い
詰めるでもなかった。ただ黙々と、思いを控えめな言葉に変え、案じているのが分かった。
赤信号で車を止めると、何となく困ったような笑みを浮かべ、男はとまりに振り向いた。
流れていった心の欠片が、まだとまりのどこかに引っかかっていた。
「……戻れないんだ」
ぽつりと、吐き出される言葉。
「あたしがいる場所なんて、もうないみたい」
揮発していくような、自分の声を、とまりは聞いた。
とまりの呟きを拾い、男はFMを切った。吸ってもいないタバコを吸殻入れで揉みつぶす
と、おもむろに口を開いた。
「……うん」
それだけだった。
雨は降り止まず、もう陽は沈んでいた。
* * * * * * * * * * *
「家まで送ろう」
何度目かの言葉を、男はゆっくりと繰り返した。
とまりは今度も答えなかった。
ウインドウ越しに、街の明かりが雨に煙っている。通りを歩く人の群れには、寄り添い歩
く男女の姿が幾つも見えた。ガードレールの向こうを過ぎていく影が、とまりには遠い世界
の残滓に思えた。試しに、ここ数日の記憶を手繰っても、幻のようにゆがんだ像しか結ばな
かった。自分がどこにいて、どこに行こうとしているのか。何をしてきて、何をせねばなら
ないのか、そういったものがぽっかりと抜け落ちている。ただ、自分がいなくても何も変わ
らない世界は嫌だった。自分がいて、誰かがいて、互いが意味を持つ世界に行きたかった。
しかし、今のとまりにとっては自身の思いを形に換える事も億劫だった。
思考も感情も、滲む街の明かりと共に、雨に揺らいで流れ去っていく。
「じゃあ、もうそろそろ、決めてもらうよ」
男が何気なく呟くのを、とまりは聞いていた。もう自覚していた。
「ここで降りるか」
そう、もしくは
「僕の行くところへ、ついてくるか」
街から流れ出した光がギラギラとぬめってフロントグラスを射抜いている。となりの人の虹
彩にも同じ輝色が映っているのだろうかと、とまりは思った。
そして、答えた。
「降ない」
間を空けて、とまりは続けた。
「ついていって、いいんなら」
ちぎって捨てるように呟かれた言葉を、男は無言で飲み込んだ。くしゅりと、少女が鼻を鳴
らす音が聞こえた。ちらりと助手席に視線を送るが、両手を膝の上に置いたまま、ウインドウ
の外にじっと顔を向けている。前髪の向こう側にある表情を見ることは出来なかった。
道端に座り込み、雨を仰いでいた姿が、男の脳裏をよぎる。身も世もなく声を上げて泣く様
を、暫くの間、ただ見ていた。声を掛けるにも思い切りが必要になる、そんな光景だった。そ
して今も、何か覚悟めいたものを少女から求められているように。
二人は言葉もないまま、車に運ばれていく。道路は少しずつ交通量を増やしているが、幾つ
かの信号に掴まるだけで、街並みを抜けていく。
この道は、車を鹿縞市郊外へと流していくことをとまりは知っているた。そこには都内へ向
かう高速道路のジャンクションがある。鹿縞市のカーモーテル街も、多聞に漏れずここにある。
とまりは、市街を抜けて急に暗さを増した車外へ顔を向けている。何の思いもなく、急速に
夜へ進む景色を眺めていた。暖かい空気が胸と足元に滞ったおかげで随分と温まったが、身体
の芯はまだ凍りついたように震えている。この後どうするかも、どうなるかも頭にはなかった。
ただ、自分の言葉の先が、直に目の前に現れるだろう。それは多分、とまりが望んだものであ
るはずだった。
――目を閉じていよう。時間は勝手に過ぎるから
ふいにそう念じて、とまりは目を閉じた。何も思わず何も考えなくとも、自分の時間は流れ
て行ってくれる。目を開ければ、時が一周して望んだ時間に戻っているかも知れないと思った。
程なく車は大きく曲がり、一旦停止した。バックで何度かの切り返しをした後、今度こそ本
当に止まった。エンジンが切られ、運転席のドアを開けて男が立ち上がるのを、目を瞑ったま
ま聞いていた。瞼越しに、蛍光灯の白い光を感じる。運転席のドアが音を立てて閉じられ、一
時の静寂ののち助手席のドアが開かれた。
「降りて」
男が言った。
とまりは目を開き、男を仰ぎ見た。男の背後にコンクリート地の壁が見える。建物内の駐車
場らしかった。場内の蛍光灯は妙に白っぽく、暗い光で男を照らしていた。
ここはどこだろう、などとは思わなかった。促されるまま、とまりはおもむろに立ち上がり
車外に出る。そこで初めて、自分の腰掛けていたシートがたっぷり水分を吸い込み黒く濡れ
そぼっていることに、とまりは気付いた。目をやると、男の座っていた運転席も、とまりの所程
ではないにしろ色が変わるほど濡れていた。
改めて、自分と男を取り巻いていた状態を知り、申し訳ないという言葉が浮かんだ。その思
いのままにとまりは男に向かって詫びた。
「濡らしてしまってごめんなさい」
遠く、平坦な声だった。自分の声とも思えなかった。しかし男は気に止める風もなく助手席
のドアを押しやり扉をロックし、とまりの背を軽く押してエントランスの方へ向かせた。雨の
中の時とは違い、男はとまりの肩に腕を回し軽く抱いてエスコートする。何気ない動作は、と
まりにとって不快ではなかった。起伏を失っている心はそのままに、何故か鼓動が高まってい
るのに気付く。自動ドアをくぐりフロントロビーへの廊下を歩きながら、とまりは胸に片手を
当てる。胸の脈動を男に気付かれないよう、無意識に手で押えつけていた。
* * * * * * * * * * *
人影のないフロントだった。部屋内の写真とボタンが並んだパネルがある。カラオケのルー
ム選びに似てるんだと、とまりは思った。男はそれらから一つにボタンを選んだ。コトリとキ
ーが落ちてきたのを取り上げ、何事もないかのようにエレベータホールへ足を運ぶ。実感のな
いまま、とまりは肩を抱かれたまま男とエレベータに乗り、何階か分からない廊下のカーペッ
トを濡らし、一室に辿り着いく。男はポケットからルームキーを取り出し、扉を開けた。
部屋の中は、室内灯でオレンジ色に染まっていた。二人は戸口に立ち止まる。男はとまりの
肩からゆっくり手を離した。ふと、とまりは男の体温を感じた。今更なのだろうか、それでも、
自分の高鳴りが男に届いていたかも知れないと思うと足が動いた。男の傍らから離れ、扉の中
へと身体がゆっくり流れていった。背後で閉じられたドアが、小さく音を立てた。
とまりは、初めて見る場所に目を泳がせていた。
キングサイズのダブルベッドと、擦りガラス貼りのバスルームが目に入ると、どきりと心臓
が跳ね上がる。自分の息が上がっていくのが分かった。小振りなキャビネットとミニ冷蔵庫が
ベッドの脇に並んでいる。他に、部屋には二人掛けのソファにローテーブル、大きなプラズマ
タイプのモニタの脇には通信カラオケのセットやゲーム機などが置かれている。
――男と女の、そのための場所
何となく想像の中にあった陰鬱なイメージは、その部屋にはなかった。間接照明に照らされ
小洒落た装いに、とまりの中に生まれていた焦燥を薄らいでいった。
とまりに遅れて部屋の住人となった男は、黒くなっているスーツの上着を重そうに脱ぎ、肩
に担いだ。擦りガラスの扉を開け脱衣所から脱衣籠を持ち出すと、そこに上着を投げ捨てた。
とまりに背を向けると。忌々しげにネクタイを振り解き、ワイシャツと共に籠に放りこんだ。
それを、とまりは立ち尽くしたまま見ていた。白いTシャツが張り付いた上半身は、筋肉質と
言うほどではなかったが、たるんだ感じはなくむしろ締まって見える。
男が傍らで衣服を脱ぎ捨てていく光景に、とまりは特に感慨を抱かなかった。父親のとも、
男子の陸上部員たちのそれとも違うそれだったが、不思議と違和感がなかった。声を掛けられ
るまで、ぼんやりと男の背中を眺めている。
「先に使うといい」
上半身を裸にした男は、バスタオルで身体の湿りを拭っていながら振り向く。バスルームを
指差して繰り返した。とまりの視線は、男の指に連られるようにそちらへ向いた。
「先に使いな」
部屋とバスルームを隔てる壁はガラスだった。床から足首くらいまでは部屋内と同じ巾木が
貼ってあるが、そこから上は天井までガラスがはめ込まれている。脱衣所を区切ってるガラス
は総擦りガラスなのに、浴室の方は高さ5,60センチ交互に擦りガラス部が横ストライプの
ように入っているだけだった。バスルーム内の様子を外から見られぬための障害にはなりそう
に無い。透明なガラス部の位置を見た限りでは、むしろ腰や胸あたりは部屋の者からは丸見え
になるかも知れない。そう設計されているようだった。
とまりは自動人形のように、指差された先へふらりと足を向けた。重いガラス戸を必要なだ
け開けて身体を中にくぐり込ませる。淡い光が、最後に一人きりになれる空間を、包み込むよ
うに演出していた。ガラスの向こう側で男の動く影が見える。インターホンか何かで、フロン
トを呼び出しルームサービスについて尋ねているのが聞こえてくる。ランドリーサービスを頼
んでいるようだった。男の静かな声を聞きながら、とまりは、自分がもう決めていることを、
もう一度だけ確認した。そして、刹那のあと、制服の黄色いリボンを外した。